村落共同体の視過剰適応と政党の「新規顧客獲得」作戦

これまで、日本の村落的な共同体が「顧客」や後継者を失い過疎化する仕組みを観察してきた。

日本の共同体が衰退する様子を見ていると「村的な」性質が観察できることが多い。

例えば大相撲は改革を握りつぶすことで閉鎖的な暴力制度が温存されることになり、これから新弟子やファンを失ってゆく未来が確定した。今は貴乃花問題が世間の注目を集めているのだが、実は可愛がりのような問題は全く解決できていない。普通の人は努力の成果が透明かつ公正に評価されるスポーツを選ぶはずなので、例えば野球やサッカーというような近代的なスポーツを選択するだろう。柔道などはスポーツ化が進んでおり不完全とはいえパワハラなどにも自浄作用が働きつつある。相撲はこれを拒絶する道を選んだのである。

相撲が衰退するメカニズムはわかりにくいのだがネトウヨ雑誌はもう少しわかりやすい形でこの衰退メカニズムを見せてくれる。

新潮45はもともと購読者数の減少に悩んでいた。彼らは「買ってくれるかどうかわからない」人よりも熱烈に雑誌を応援してくれる人たちを見つけて自滅した。これを「過剰適応」と呼ぶことにする。過剰適応とは、一部の声の大きい人を全体と錯誤して自滅する現象である。今回は社会の規範と正面衝突してしまっために急遽休刊となったわけだが、そうならなければ過激化しつつ購読者を失っていったはずである。あのようなめちゃくちゃな「論文」が掲載されている雑誌を進んで買おうなどという人はよっぽどの物好きか判断能力がない人だけだろう。しかし、内部の感覚は違っていたのではないだろうか。つまり、小川栄太郎「論文」がバズってしまい在庫が捌けてしまったために「この線で行けばもっと購読者が増えるのではないか」と誤認した可能性が高い。

その前にも「ネトウヨに訴求すれば受ける」という成功体験があったはずである。彼らがどこからその成功体験を得たのかはわからない。現在の宮本太一が編集長になったのは2008年だそうだ。これは民主党政権ができる1年前である。この頃のTVタックルを覚えている人たちは自民党流の公共工事が悪し様に言われていたのを記憶しているはずだ。既存の価値観が叩かれるとそれについて行けない人たちが出てくる。彼らはお金を払ってでも自分たちの感覚を慰撫してくれるようなメディアを求めるのではないだろうか。

いっけん勝利したかのように見えるネトウヨだが、実は商売流行りにくくなっているはずだ。安倍政権の出現でルサンチマンが解消されてしまえば、お金を払ってまでネトウヨ雑誌を買う必要はなくなる。習慣で買っている人が高齢化で徐々にいなくなり購読者が減っていったと考えれば購読が少なくなっていた説明はつく。

同じことがリベラルにも言える。現在は「左派リベラル的な雑誌」の購読者がピークの可能性がある。現在、選挙に負け続けている彼らは否定されているような気分になっているはずで、彼らを慰撫してくれるようなメディアが必要だからである。彼らが反応するのは昔ながらの「金儲けはいけないことだ」「戦争は悲惨だ」という価値観である。これが「成長なんかしなくてもいいから、みんなで仲良く貧乏になろう」という主張として展開されている。リテラなどがその好例だ。心が豊かなら貧しくても良いではないかという主張は高度経済成長を知っている高齢者には受け入れられるかもしれないが、現役世代は「いやいや待ってくれ」と思うのではないだろうか。

だが、彼らはそれに気がつかないだろう。左派リベラルに反応してくれる人は「憲法について議論したら自動的にアメリカの戦争に加担して地球の裏側に子供が徴兵される」というような、いわば「純化」された人たちだけである。彼らの声は大きいので、左派リベラルはこうした声に応えて過剰適応する。すると、それ以外の人は静かに退出していってしまうのだ。

ある一つの主張にコミットした雑誌や政治的な運動はレスポンスの良い人たちの反応を取ることはできても、静かに離反してくれる人や顧客になってくれていない人たちの声はすくい取れないことがわかる。これが過剰適応の罠である。マーケティングでは非顧客と呼ぶ。すでに一定顧客がいる人たちも、そうでない人たちもこのうちの「第三グループ(tier3)」と呼ばれる顧客を獲得する必要がある。

だが、この非顧客を発見するのは難しい。非顧客は積極的に働きかけてこないからである。過剰適応でなくても働きかけてくる潜在顧客から拡大のヒントをもらうのは難しい。例えばこのブログにコメント欄を作った時には「レスポンスを参考にしつつ紙面を構成しよう」というような淡い期待をしていた。しかし、これが甘い目論見であると気がつくまでさほど時間はかからなかった。

これにはいくつかの複合的な理由がある。第一に読者は忙しいのでわざわざ他人の書いたものにコメントしない。これは自分で読んでみてわかる。他人の文章について「ふーん」と思うことはあっても、いちいち感想など書いたりしないことが多いからだ。

さらに、ブログは他人の庭のようなものなので自分の意見をいうのがはばかられるという事情もあるのではないだろうか。一方で準公共空間になっているYahoo!には遠慮を知らない人たちが一方的なコメントを寄せるのが常である。日本人にはあまり「一緒に公共空間を作って行こう」という気持ちがないことがわかる。所有権とヘゲモニーを意識しているのではないかと感じる。日本人の意識には「他人の村」か「自分の村として戦力できるか」の二者択一しかない。これを批判することはたやすいが批判したとしても状況は変わらない。

さらに、この関門を突破してたとしても主観という壁が残る。ブログにもたまに反応を寄せてくださる人がいらっしゃるのだが、たいていはセルフレコグニションか承認を求めているようである。良し悪しは別にして日本人は対象ではなく関係性に強く反応してしまうので、これは避けられないのではないかと思う。対象物について議論するのではなく、ついつい人間同士の関係構築に興味が移ってしまうのだろう。

しかし、かといって情報が何も取れないというわけでもない。「個人としての日本人」はあてにはできないが、集団としての日本人はかなり統制された行動をとる。つまり、統計はかなり世論を反映するのである。

例えば、あるニュースが盛り上がると過去記事の閲覧が増える傾向にある。期待されている答えがないと0秒で離脱されてしまうのだがそうでない場合もある。これを見ているとある程度「どんなニュースにどれくらい価値があるのか」がわかる。誰かが指揮者として指示をしているわけでもないのに自然とそうなるのだ。例えば貴乃花親方の問題は今関心を集めているが、小池百合子と豊洲の問題には「引き」がない。

豊洲の問題が再び注目を集めるのは移転して戻れなくなった上で何か事故が起きた時であろう。解決できそうもない問題が出てくると日本人は誰かの首を取りたがる。誰かの首を取ることで問題解決に代替えするのである。現在小池都知事が最終責任者であるという「仕込み」が行われており、問題が起きた時にこのフッテージが繰り返し流されることになるだろう。汚水と思われる水が上がってきているYouTubeのショッキングな映像もあるが、これもほとんど閲覧されていない。ただ、これも無駄とは言えないだろう。小池都知事が問題を抱えた時、このフッテージの所有者に取材依頼が殺到するはずである。そして、その兆候は閲覧数などに現れるはずである。

もし、新規の支持者を獲得したいなら、ある程度記事の傾向をバラした上で様々な再度コンテンツを作ってみると良いと思う。さらに「今引きがない」からといって将来的にも情報価値がないということにはならない。

ただ、こうしたコンテンツをバラバラに持っていても分析はできない。だから、一箇所に集めておく必要がある。例えば左派政党が支持を集めるためにはいろいろな問題に注目して記事を書き、これを一箇所に集めておけば良い。普段から貯金しておけばそれだけ「当たる確率」は増えるはずである。

現在の政党の問題は個人商店のようになっているという点であろう。議員一人ひとりが支持者を獲得してそれを政党に持寄る仕組みになっている。特に民主党系の政党は社会党と自民党ハト派の寄り合い所帯担っているはずなのでこの傾向が強いはずだ。そうしたやり方をしているうちは、左派リベラル政党は支持を集められないばかりか、伝統的な支持者に引っ張られて過疎化してゆくはずである。

もちろん企業にもこうした過剰適応の問題は起こり得る。固定的な関係を作って「安心」を確保したがる日本人には起こりやすい成人病のような病状なのではないかと思える。成人病を防ぐためには日頃からの運動が必要なように、過剰適応を防ぐためには普段から課題を計測できる「聴く仕組み」を確保すべきなのである。

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わかっているのに変えられない日本社会

今日のお話は「迷っている」というものである。情報発信としてはかなり伸びているのだが、それは同時に問題解決から遠ざかるということを意味している。これをどう折り合わせて行こうかと思っているわけである。

朝、投稿を終えてからメールをみたら深刻そうな問い合わせが入っていた。外国人だが職場いじめられているという。まず本当のことかはわからないし、メールだけでは詳細なことはわからない。書き言葉の日本語は堪能である。

一応、本人にはメールを書き、QUORAにも相談を載せたのだが、どちらからもレスポンスはなかった。つまり、当人は「わかった」とも「がっかりした」とも言わないし、周囲の人からも有益な情報は得られなかったわけである。以前ならがっかりしたり憤ったりしていたと思うのだが「ああ、やっぱりな」と思った。(本当のことを書いてあると仮定して)相談してきた当人はレスポンスどころではないだろうし、日本人は個人での協力を嫌がるので具体的な問題を提示すると逃げてしまうのである。

日本社会はこのように閉塞した状態にあるので相談してきた本人が「ああ、相談してよかった」というようなアドバイスは書けないだろうなと思った。普通なら、できるだけいじめに対処してそれでもダメなら転職を考えろくらいの話になると思うのだが、外国籍の場合スポンサーシップの問題がある。つまり、日本人ほど転職は楽ではないかもしれないのだ。日本は経済的にも未来のない状態なので、外国籍があるなら、在日韓国人・朝鮮人のように実質的に日本社会に居場所を求めざるをえない場合を除いては没落しつつある国にこだわる必要はないとさえ思うが、それも書くのはためらわれる。

プライバシーがあるのでメールの詳細は書けないし書かないのだが、これについて書こうと思っているのはそろそろ年頭からやってきたことをまとめようと思っていた矢先だったからだ。村落の問題から始まって組織されない「群衆」の問題にまでたどり着いた。構造はなんとなくわかってきたが、閉塞感の背景はわかっても理由はあっても解決策はないだろうことも明白になってきている。日本人は個人に自信がなく、社会を信頼していないので、根本的に社会の問題解決に向かわない。しかもその状態に直面したくないのである。

閉塞感が自分たちに起因していることは認めたくないので、社会問題に構造を与えることで「他人や社会が悪いのだ」という主張には需要がある。だが、問題を作り出しているのも日本人なので原理的に問題が解決できない。日本人はという大きな主語はこの点便利にできている。実体はあるが、そこから自分だけを取り除くことができる。

例をあげると安倍政権が信任される理由はわかってきた。有権者が何もしないことを好んでいるからである。背景には「もう何をやっても日本は衰退して行くばかりだし、自分たちはなんとか逃げ切ってきたのだからこのままでいけるだろう」という意識があるのだろう。そして、安倍政権を首相に選んでいる日本人は馬鹿だと主張してもその中に自分が含まれることはない。

しかし、介護やいじめなど問題の当事者になった場合には事情が全く変わってしまう。根本的な治癒方法が見つからないので病変として切断されるかなかったことにされてしまう。これはいじめ、差別、介護の問題で私たちが日常的に見ている光景である。いじめはなかったことにされ、あったという事実認定に数年かかるのが当たり前である。しかも「当人が自殺した」という取り返しのつかない状態にならない限りいじめが認められることはまずない。女性のレイプ問題も同様で海外のプレスに英語で自分から情報発信するくらいのことをやらなければ社会にもみ消されてしまう。

今回の問題もいじめなのだが、組織としては「なかったこと」にするんだろうなと思う。一応公的な窓口があるわけだが、これがどこまで外国人の見方になってくれるかはわからない。あるいは「日本の恥」と認識されてしまうこともあるわけで、その場合には社会が総出で「問題をなかったこと」にするのだろう。

本来ならば、これについて「どうするべきだろうか」と相談したいところなのだが、これまでのコメント欄の反応などを見ていて、提案はないだろうなと思う。外から問題を語りたい人はたくさんいるのだが、中から問題を解決したいという人はこの社会にはいないと考えてよい。

日本人はすることよりもなることを好む。だから、個人の意見で「こうすればよい」という提案が来ることはないだろう。それは責任に直結するし、責任は社会から切断される危険を伴うからである。だが、流れを掴んで訴えかけるようにすれば「なった」ことになり閲覧は増える。一転して「切断する」側に回れるからである。

メールにはそのことが端的に書かれていた。「日本人の構造はわかるのだが、自分が抱えている問題についての解決につながりそうもない」というのだ。いじめは閉鎖的な空間で起きているわけだが、その閉鎖性が個人を苦しめ、中期的には組織も閉塞するということは目に見えている。まともな文明社会から来た人は「で、あればなんとかすべきではないか」と思うわけだが我々の社会ではこれが通用しない。

このため理不尽に突き当たると大変悔しい思いをすることになる。我々にできることは、これが個人の問題ではないということを認識することと、ありふれているということを自覚することくらいかもしれない。「自分だけが苦しんでいる」と考えてしまうとどこまでも追い込まれる。そして問題を発信すればするほど切断される側に回るリスクが増える。だから、回復したら立ち上がって、また普通の側に立って歩き出すしかないのである。

もちろん、自分の問題について情報発信し続けることには意味がある。普段からそうした情報に接している人は、いざ自分がその状態に直面した時に「自分一人が孤立しているわけではない」と考えることができるからだろう。例えばTwitterには、体が不自由で動けなかったり、普段から介護についてつぶやいている人がいる。日本の介護事情は細かく理不尽な規則のためにとても大変な思いをされている人が多いようだし、逆に自分の好きなことを見つけて精一杯に楽しんでいる人もいる。いろいろな選択肢があり一人ではないことは少なくともわかる。こういう人たちは「誰にも理解されないし、社会の役に立っていない」と思うかもしれないが、実はパイオニアになって同じ問題に直面するであろう人を先達している。杉田水脈流にいえば「生産性」があるのだ。

だが、やはりなんらかの問題に直面している人たちにとっては「問題ばかりみつめても何の役にも立たなかったな」というがっかり感の方が強いかもしれないなと思う。いくらあなたは一人ではないと言ってみたとしても、役に立つと説得してみても、問題は一人ひとりに違って見えるものだし、その時に協力を求めても同じ境遇の人はそれほど多くはない。さらに、自分が「生産性がある」と考えない限り他人からどう言われても嬉しくもなんともないにちがいない。

そうしたがっかりされるリスクを受け入れるべきなのかということについてはやはり躊躇がある。どうしても「問題を解決して有能だと見られたい」という意識が働いてしまうからである。

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エアコン否定派にされてしまった熊谷千葉市長

千葉市の熊谷市長が学校にエアコンをつけないと表明して物議を醸している。つけないのではなくお金がないからつけられないと言っているだけなのだが、Twitterはいまやエアコン至上主義が正解なので何人であってもこれに逆らうことは許されない。テレビも同じ状態にあるようでコメンテータが財政の問題について触れる時に「エアコンが必要なのはまちがいないですが」と触れるのが常識化している。

中でも面白かったのが、ケチな市長を選ぶと結局市民が損をするという呪いの言葉だった。同じようなことをヨーロッパのポピュリストたちが使う。緊縮財政に耐えられなくなった人たちがよく使ういいかたなのである。

こうした発言が出るのは実は偶然ではない。千葉市は放漫経営を放置して損出を各種団体に飛ばしていた過去がある。その上、政令指定都市になる時に「さいたま市くらいには勝たなければならない」として大型の公共施設も作った。結局、財政再建団体転落一歩手前で踏みとどまったが、これ以上市債が発行できないという状況にある。

その意味で過去に政治に関心を持たなかったから、現在の市民が損をするという指摘は当たっている。

その上県もあてにならない。県知事は「あの」森田健作である。今回は「市町村を応援する」と表明したが、実際には「国に頼んであげる」といっているだけで県がお金を出すつもりはないらしい。ただこうしたいい加減な発言がなんとなく許されてしまう県民風度がある。おおらかと言えばおおらかだが、いい加減な土地柄なのだ。

熊谷市長はこれまでの2期は財政再建ばかりをさせられてきたので、面白みのある政治課題には着手できなかった。やっと整理もできたのでようやく再開発などのまちづくりに着手できるという段階にある。

しかし、今回の件で熊谷市長を応援する気にはなれない。そもそも最初の段階で「共産党」を持ち出してきた時点で彼らを刺激することはわかっていたはずだ。長期政権のおごりが出ているのだろう。

熊谷市長はこれまで改革派の旗手とされており「若いからSNSの使い方も上手」という印象があった。ラクダみたいな顔をしているが、身長が180cmあり市民団体のおばさんたちにも評価が高い。このように味方に囲まれているためアンチに慣れていない。このために自分に都合が良いツイートをリツイートしたりという炎上に油を注ぐようなことをやってしまっている。

その上、今回の議論はすでに結論が「エアコンが正義」と決まっていた。そこに「予算の問題で」などと言っても言い訳にしかならない。

この「正義」については個人的も怖いなと思う体験をした。比較的リーズナブルな反応をする人も「いやいろいろと事情があるのですよ」というとかなり強く反論された。そのあとも幾つかTweetしていたので気持ちが収まらなかったのではないかと思う。「絶対に賛成されるはずなのに賛成されなかった」ことに対して怒りを覚えるようだ。

前回は、個人として意見を表明するのが怖いと考えている人が反論そのものに心理的葛藤を覚える事例だった。日本人が個人として意見をいう時には切腹する覚悟が必要である。ただ、こうした人たちが群衆にまぎれたり、匿名で発言する場所を得たり、もしくはすでに集団として結論が決まっている意見にコミットすると、逆に自意識を膨張させてしまう。裏返せば「正義の側に立ったらなにをしてもよい」とされているからこそ、普段は個人の意見が言えないのかもしれない。

だが、考えてみれば「エアコン至上主義」というイズムがその人の人格に大きな影響を与えるはずはない。実際に市長選挙の時にもエアコンの話はあったがほとんど話題にならなかった。つまり、人々はエアコンをつけなければならないと考えているわけではなく、自分の意見は正義なので通らなければならないと考えていることになる。これは「フォルスコミットメント」なのだ。

熊谷市長は共産党を挑発することで一部の人々に「フォルスコミットメント」を与えた。ただ、そのコミットメントが偽のものだったとしても、それが取りさげられるとは限らない。ビールの代わりに発泡酒を飲んだ人が「これがうまい」と言ってしまったがために、発泡酒を飲み続けるようなものである。つまり、人々を刺激して意見を言わせてしまうと、それが後付けでその人の主張になってしまうのである。

前回はアサーティブさについて考えたのだが、アサーティブな技術ではフォルスコミットメントの問題は解消できないと思う。人々は善意から行動しており義憤に駆られている。そのため、主張が正義の実現に欠かせないと思い込んでしまうのである。

そしてその善意を実現するためには民主主義のプロセスを無視して場外で騒いでも良いし、物理的でなければ言葉の暴力くらいは許されると考えるようになる。皮肉なことにこれがオートクラシーへの階段になっている。

熊谷市長はもともと民主党市議団などから推される形で市長になったようだ。これまで真面目に財政再建に取り組んできた。しかし、こうした地道な努力は評価されない。また予算について市民で話し合ってくれなど言ったとしても、その人は市民ではないかもしれないし、面倒な意見集約などをしてくれるはずはない。単に「あれが欲しい」とか「こうでなければならない」という意見をぶつけるだけなのだ。

市長としてこれがやりたいと言った時点で叩かれる。市長というのはその意味ではサンドバッグのような存在でありそれほど面白みがない。このような面白みのないポジションに進んで立ちたがるのは、政治家の二世とか、企業と結託して彼らの代理人になる人か、自己評価が肥大した人格に問題のある人だけになってゆくだろう。そしてそれを後押ししているのが、何かあった時だけ大騒ぎする「外野」の人たちなのである。

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Twitterからヘイトアカウントを駆逐するにはどうすべきか

Twitter社からアンケートの依頼が来た。ランダムにコミュニティの運営についてアンケートをとっているらしい。「攻撃を受けたことがあったか」というのが質問の内容だった。他の人たちがどうなのかはわからないのだが、政治的な課題を扱っている割にはあまり暴力的な攻撃を受けたことはない。かつて例外的に東浩紀という人から絡まれた記憶がある。ずいぶん前(つまりTwitterが荒れる前)なので炎上対策のセオリーに従って放置した。しばらくは彼の取り巻きのような人たちが閲覧していたようだが、やがて治った。ネットでは有名な人らしいのだがこの類の人たちの書いているものは信頼しないようにしている。炎上を起こして話題を作るというのが彼らのやり方なのだとは思うし、フリーランス的な傾向の強い人たちはそうしないと食べて行けないという事情も分かるが、信頼性は損なわれると思った方が良い。

さて、アンケートは面倒だなと思ったのだが、やってよかった。Twitter社が何を気にしているかということがおぼろげながらわかったからだ。

彼らが気にしている点は二つだった。第一に暴力的な個人攻撃が起こることを気にしているようだった。場が荒れると広告プラットフォームとしての魅力がなくなるからだろう。が、これはあくまでも個人と個人の話である。つまり、朝鮮系の当事者が「朝鮮人は黙っていろ」と言われたらこれは暴力なのだが、当事者ではない人がそこに参加することは想定されていない。例えば「日本は単一民族国家だからアイヌ人などいない」というのはヘイトスピーチなのだが、これに声をあげるべきなのは当事者である。

すでに書いたように、ネトウヨ攻撃に対して個人攻撃はやめるべきだと思う。カウンターのほうが暴力的だと取られてしまう可能性が高く、抑止に実効性がないからである。ヘイトスピーカーは個人の政治的態度を主張するという形で情報発信をするので、それにメンションをつけて「黙れ」と言ってしまうと逆に政治的意見の抑圧に取られてしまう可能性が高い。他者の人権を否定するのは表現の自由ではないが、あくまでも反論する権利があるのは当事者だけなのだ。仮に参加するとしたら、攻撃された方を応援するなどの支援に止めるべきだろう。

次にTwitter社が気にしているのはフェイクニュースの発信のようである。アメリカではFacebookがフェイクニュースの発信源になっており対応が遅れたことが社会問題化した。広告収入に影響があり株価にも影響したようだ。

アメリカ人は日本人が考えるほどには国際化されていない。関心事は国内のことだけで国際情勢には理解もなく無関心である。そして日本人ほど社会正義には実は関心がない。彼らの関心事はお金である。だから国内で安倍政権がどうであろうと彼らにとっては「知ったことではない」と考えて良い。日本で外資系企業に勤める人たちはこれを知っており、自分の与えられた職務は全うするが、決してこちらからそれ以上のことを働きかけたりはしない。Twitterではフェイクニュースのほうが頻繁に扱われるという統計も出ており対策は講じなければならないのだが、そこに日本人的な倫理観を持ち込んで、日本支社のトップをつついても意味はないのである。

もしヘイトアカウントを閉鎖したいなら、アメリカ人の意思決定者がどのようなことを気にしているかということを考えた上で権限のある人に伝えなければならない。このアンケートから見ると、当事者が人権侵害を受けたならそれは報告すべきだが、そうでない人は事実誤認の指摘に止めるべきであろう。

ヘイトアカウントを執拗に攻撃している人を見ると弁護士とか学者などが多い。どちらも社会問題を取り扱っている。彼らは常に他人の問題に介入しているので、つい「正義があれば自分の意見が通る」と感じてしまうのだろう。こうした人たちが第三者の支持を得られないことはすでに観察済みだが、マーケティング的な視点もなく自分たちの意見をピッチできない。その意味ではネトウヨの人たち同様に村落に住んでおり自分たちの事しか見えていないのだろう。

今回のBBCの番組Japan’s Secret ShameでもYouTubeに権利処理なしにアップロードされたものが削除されているのをみて「安倍政権が隠蔽を図っている」と叫んでいる人がいた。多分権利処理のような実務に疎いかなんでも安倍政権に結びつければよいと安易に考えているんだと思う。実際にはプレゼンテーションが多くの人に認知されるようにするためにはどうしたらいいかなどということには興味がないのだろう。プロフィールを見たら大学を退職した研究者だった。

結果的に日本の人権リベラルの人たちの意見は通りにくく、ヘイトスピーチやポピュリズムを野放しにすることにつながっている。

Twitterも他のプラットフォームと同様やがては荒れる運命にあるのかもしれない。mixiのように過疎化したままそれなりの平和を保っているプラットフォームもあるようだが、すでに2ちゃんねるやはてななどがそうなっている。

だが、それでも良識のある在野の人たちはこうした世間知らずの人たちに先導されないように気をつけるべきだろう。学者や弁護士は正義さえ主張していれば本や名前を売ることができるのかもしれないのだが、一般人の生活は息苦しくなるばかりだ。一方的な正義を叫んでいても安倍政権が全く影響を受けなかったこの5年間について我々は深刻に受け止めるべきなのではないだろうか。多分Twitterでヘイトアカウントを指摘した人たちが一時凍結されることと、アンチ安倍人たちがなかなか受け入れてもらえないことにはなんらかの共通点があると思う。

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日本人と社会 – ブロック塀について思うこと

ブロック塀が倒れて女児がなくなってからしばらく経った。深刻な事故であり心を痛めた人も多かったのではないか。こういうことが二度とあってはならないと調査に取り組む自治体もある。ところが自治体が大きくなるとこうした責任感は薄れてしまう。誰かがやってくれると思うのかもしれないし、余計なことをして仕事を押し付けられる人になってはいけないという危機感もあるのかもしれない。人口が300万人を超える横浜市のある父兄からはブロック塀のチェックをPTAに丸投げされたというツイートがあった。高槻市の場合は危険が認知されていたのに専門家でない人がチェックをして死者が出たのでこれは問題が大きそうだ。

このツイートの真偽はわからないがありそうな話であり、日本人が協力できない理由がわかってくる。日本人は協力が苦手だ。

横浜市がPTAに協力を求めることに問題はない。人手が足りないのなら誰かに頼むべきだし、父兄はこのさいに通学路を再点検しておくといいかもしれない。地域の学校は避難場所にもなっているのだから自分たちが逃げる時にも役に立つ情報だからである。地域の問題なのでお互いに協力し合えば良いのである。だが、PTAはそうは思わない。「PTAに命令を下している」と考えるであろう。ではなぜそう考えるのか。

もし、PTAと教育委員会や横浜市が協力関係にあるならば、PTAが自発的に行った調査に関して「ここを直しましたよ」という事後報告があるはずだ。PTAとしても地域の問題に関わったのだから、自分のインプットがどう役に立ったかが知りたいはずである。人は誰でも自分は役に立ったと思いたい。だが市役所はPTAに事後報告するのを嫌うのではないか。それは報告することによって「なぜここを変えないんだ」というクレームに発展することを恐れているからではないだろうか。

横浜市はPTAを下請けのように考えているだが、形を変えるとPTAは住民・有権者としてお客さんの立場になる。千葉市役所も市民のことを「お客さん」と呼ぶように指導されているようである。納税者なのだから大切に扱うという意思表明なのかもしれないが、実際にはカスタマーとしてクレームを入れてくる迷惑な存在であるというような含みが生まれる。

日本人はミューチュアルな(相互的な)関係を持つことができず、命令する人とされる人という関係性を常に意識しりようになる。だからお互いに関わるのをやめようと思ってしまうのだ。

本来ならば、PTAのみならず地域住民と市町村は協力すべきである。だが、そうはならない。もともと日本人は自分とは違った人たちを潜在的な対立者として捉えて協力してこなかった。いったん協力する関係が生じると上限関係が生まれる。このため日本人は関係性が生まれるところではどこでもマウンティングをして、どちらが優位なのか白黒させたがる。

Twitterもまたこのマウンティングの舞台になっている。ネトウヨ系の議員がめちゃくちゃなことを言って安倍政権の擁護をしたがるのも「私はルールを決める側の人間なので、たとえめちゃくちゃであっても絶対にあなたたちには従わない」というメッセージになっている。麻生財務大臣はこれが芸になっていて記者たち相手に一人マウンティングをやっている。麻生財務大臣が滑稽なのはこれが誰にも相手にされないからである。

最近Quoraで地域で問題を解決するために様々な専門家を集めて作業するのは極めて難しいという観測を漏らす人もいる。地域振興のための議論の場では誰も異業種間のコミュニケーションを取ろうとはしないという話を聞いた。型通りに意見を集めて総花的なレポートを上げて終わりになることがあるそうである。

この人には「問題解決が複雑化する現代では、自治体であってもビジネスマンのようにいろいろな意見の人を聞いてプロジェクトマネジメントをする指揮者のような役割が必要だ」というようなことを書いて送ったのだが、あまり満足してもらえなかったのではないかと思う。そんな概念的なことを言われても自分一人で組織文化を変えることはできないので「もっと具体的で即効性のある提案」が欲しいと考えるのではないだろうか。すべての地域が即効性を求めた結果、地域振興はプレゼンテーションの技術を競うコンペになっている。中央官庁に受けが良いパワーポイントが「優勝」するのだ。

本来ならば、専門家がチェックリストを作った上でPTAや地域に協力を仰ぎ、PTAや地域住民がチェック結果を市町村に伝えればよい。市町村は上がってきたリストをどうチェックしたのかということを公開して協力してくれた人たちに公開すればみんなが満足できるだろう。もし仮に予算が足りないなら市議会議員を交えてミーティングすればよい。だが、和を以て尊しをモットーとするはずの日本人にはそれができないのである。

そこで市役所は言い訳に走ることになる。

千葉市もマニュアルのようなものを市役所のウェブサイトに掲載しているが、規定を丸ごと書いて「これで勝手に確認しろ」と言わんばかりの態度である。ブロック塀が倒れる写真が掲載されていることからこの問題がすでに周知されていたことがわかるのだが、死者がでているにもかかわらずこれを変えようとする人はいない。千葉市は全国の政令指定都市の中で地震の危険性が一番高いと言われている。それでもこの程度の認識である。

埼玉県は学校を緊急点検したところ1/4の学校で建築基準法違反の疑いが出たと発表したそうだ。彼らが考えるのは危険を減らすことではなく自分の身の安全を守ることのようでこのように弁解している。

県教委は、定期検査で不適合の可能性を把握していたにもかかわらず対策を取っていない学校があったことについて「著しく危ない部分を優先して修繕していた」と説明した。

このように公共心が全くない日本人だが、こと憲法になるとやたらに公共について語りたがる。マウンティングに利用するためである。日本国憲法によると国会議員や政府は主権者に奉仕するのが仕事である。だが、政権にいるうちに「それでは面白くない」とか「誰かを従わせてみたい」と思い始めるのだろう。

例えば、佐藤正久外務副大臣は一部では「人権人権とバカじゃないか、もっと大きなものを護るために命を捨てろ!」と言ったとされている。現在このビデオはチャンネル桜の申し立てにより削除されており、本当にこのような発言があったかどうかは確かめられない。礒崎陽輔議員は日本国憲法は国が国民に規範を示す訓示的憲法にしなければならないとTwitterで発言したことがある。このように折々にこうした発言を観測気球のようにあげて徐々に陣地を広げてゆくのが彼らのやり方なのだろう。

常に「誰が偉いのか教えてやろう」という気持ちが強いために民主主義の規範を踏み外す人が後を絶たない。だから、有権者の監視が欠かせないのである。多分こうした不心得な人たちはいなくならないのではにだろうか。

そのためには監視する側が常に規範意識を持ちかつ毅然と行動し発言する必要がある。確かに乱暴な声は届きやすいが隠れた反発者を生むだろう。個人的な記憶を呼び覚ましてみても高校の社会科の先生の中に現実を見ないで夢のようなことばかりを訴える現代社会の先生がいた。もしかしたら日教組的な影響を受けていたのかもしれない。最初は物珍しさもあり話を聞いたりするのだが、そのうちに「ああ、また何か言っているよ」としか思わなくなった。このようなことを避けるためにも、どう見られているのかを意識し、課題を勉強した上で発言したほうが良さそうである。ましてやマウンティングに参加してしまうと「この人もえらく見られたいだけなのか」と思われて終わりになるだろう。

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そのツイートが次世代のテロリストを生み出す

先日来リベラルとポピュリズムについて見ている。民主主義に疲れた人が増えるとポピュリズムの危険性が上がる。いっけんすると保守的な人たちのほうがポピュリズムに近そうなのだが、実際にはそうとは限らない。社会主義を支持するあまり教育のない庶民層や社会正義を実現したいと願う人たちの方がポピュリズムに感化されやすいこともある。今回はこうしたアンチネトウヨムーブメントが全く予測もできない次世代のテロリストを生みかねない状況について考察する。

この現象について考える時、日本の状況だけを見ていると却って全体像が見えなくなる。Twitterで日本語と英語のアカウントをフォローするとほとんど相似形のような現象が見られることがある。お互いにシンクロしているのではとすら思えるほど似ているのだ。トランプ大統領は銃規制や不法移民政策で詭弁と嘘を繰り返しており、これについて感情的な憤りを発信する人たちがいる。同じように日本では女性の人権問題や労働法関係で詭弁が繰り返されており、同じように「多少手荒な手法と取ってでも」などと言い出す人が出てきた。ネトウヨを口汚く罵ってTwitterのアカウントを一時凍結される人も出ている。

日米はまだ「ましな」状態にある。実際に独裁制に移行しつつある国も出てきているからだ。ブラジルでは「民衆に近い」とされた人が汚職で軒並みいなくなると代わりに「ブラジルのトランプ」という人が出てきた。トルコではヨーロッパの一部になるという望みがなくなると反動的なイスラム回帰の動きがある。メキシコでも左派政権が登場し「公共事業を見直す」などと言っている。全体として民主主義疲れが出てきており、日本とアメリカもその延長線上で「民主主義が荒れている」のである。

日本が直ちに独裁に走るとは思えないのだが、最近気になる動きがある。実名質問サイトQuoraを見ていると「野党が生産的な質問をしないのはなぜか」とか「民族の誇りは何か」といったような質問が見られるようになった。これらは実名でどれも知的探求としては真摯だが、政治的常識の欠落を感じさせる。だがこれについて理路整然と民主主義の基本を語れるような人はそれほど多くない。試しになぜ天賦人権が大切なのかを自分を説得するつもりで書いてみると良いと思う。意外と他人に説明できない。

こうした人たちの代表がRAD WIMPSの野田洋次郎だろう。(RADWIMPSの愛国ソング 日本語論より動機考察を 中島岳志)日米の間で「どちらにも居場所がない」と感じた人が日本について考察してもモデルになるものがなく、ネトウヨ的言論に感化されて幻想の日本を作り出してしまう過程を論評している。

「HINOMARU」には「ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを」という歌詞がある。「あなた」は、いまここにはない「幻影の日本」だ。そして、繰り返し使われる「御霊」という言葉。彼は、スピリチュアルな次元で永遠の日本と繋(つな)がろうとする。

よく無敵の人(社会的なつながりがないので失うものがないひと)がテロリストの温床になるのではなどと指摘されるのだが、実際には仕事も名声もある人であってもかなり危険な状態に陥る可能性があることがわかる。

現代の日本保守には歴史的な裏づけがない。もともと日本しか誇るべきものが見つけられない人たちが様々な理論を寄せ集めているに過ぎないと言える。中には共産主義や反安保ムーブメントからの転向者なども含まれている。遡れるとしてもせいぜい小林よしのりさん程度ではないだろうか。だがこの保守の支持者たちは、社会生活への影響を恐れている。だから社会にはそれほど害悪がない。だが、この議論を見ている人たちは「統一的な保守の理論を知らないのは自分たちがまだ知らされていないからなのではないか」と感じているのかもしれないと思う。理論がない分だけ野田さんのように「本当は何かあるはずなのだ」と思うかもしれないのである。

前回はリベラルの人が臆病なネトウヨに対峙しているうちに闘争心をエスカレートしてゆく様子を見たのだが、まだ埋もれている人たちも潜在的な危険因子に成長してゆく可能性があると思う。むしろこちらの方が危険性は高いかもしれない。

これを防ぐためには私たちの社会は何をすべきなのだろうか。

同じようなことが1990年代にも起きた。それがオウム真理教などの新興宗教ブームである。当時の新興宗教ブームでは、全く根拠がなく伝統もなさそうなエセ宗教に十分に理知的な大学生が惹きつけられていった。宗教というのはある種はしかのようなものなので一度接触しておけば免疫ができる。信じたければ信じてもよいしなくても別に困らない。が、社会との接触を絶ってまで個人に傾倒するのはとても危険である。オウム真理教の場合は東大を出たような人たちが最終的には集団殺人にコミットするまでエスカレートし、テロリストと認定されて止まった。

彼らにちょっとした宗教体験があればここまで極端な道に走ることはなかっただろう。宗教体験と言っても神秘体験をする必要はなく例えば神社のお祭りでお神輿を担ぐなどで十分なのである。神社の運営にはそれなりの社会性があるので、個人への絶対的な帰依を求めるようなものが宗教ではなく詐欺の一種であるということは容易に理解できたはずである。

日本の場合、学級委員会の運営もやったことがないような人が、いきなり国家というとても大きな枠組みに魅せられてしまう。これは宗教体験がなかった人がいきなりカリスマ的な詐欺師に魅入られるのとほとんど違いはない。国家論について興味がある人に「地域の政治を見てみたら」などというとたいていつまらなさそうな顔をする。やはり学級の組織運営や地域政治が国政の延長になっているということを学校で教えた方が良いとは思うのだが、現状の教育制度ではなかなか難しいのかもしれない。

だが、現在の「ネトウヨ化」はこうした次世代の過激思想の元になっている。

このことから、アンチネトウヨ運動が社会的規範意識を持った上でことに当たらなければならないということがわかる。手荒なことをしてもよいなどと言ってみたり、口汚い言葉でネトウヨを嘲るような行為はそれ自体が次世代のテロリストを育てていると言って良いだろう。アンチネトウヨの運動はいろいろな人に見られている。そのツイートボタンを押す前に「自分が良い教師になっているか」をもう一度考えるべきだろう。

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低能先生と他生の縁

前回「低能先生とHagexさん」の件を書いた。流入数はそれほどでもなかったがTwitterからの関心が高いようで長い時間読まれていることがわかる。

Twitterでフォローしている何人かの方がこの件について書かれたブログを紹介してくださっていたので一読した。多くの人の関心は「誰が悪いのか」にあるようだった。当事者たちについて分析している人もいたし「運営していたはてなの責任」を問うものが多かった。殺人事件という理不尽なことが関心圏内で起こると日本人は意味づけのためもマップを作りたがるということがよくわかる。排除する異物を決めたがるのだろう。当初はhagexさんが被害者として聖人扱いされていたのだが、それについて疑問をさしはさむ人もいた。

はてなの責任は「抑止」という観点から語られることが多い。つまり自分たちは無謬であり穢れが持ち込まれたのだからそれを排除して穢れを除かなければならないと半自動的に考えてしまうのであろう。

かつての日本型村落ではこうした犯人探しは有効に機能していたのだろう。だが、昨今の政治についての記事をお読みになっている人の中には「もうこれではダメなのだ」ということに気がついている人も多いのではないだろうか。状況が複雑になっており文脈が管理できないからである。政治議論はお子様定食のようなビジョンのない寄せ集めの政策にどのようなラベルを貼るのかという作業に終始しておりこれが一年経っても終わらない。その間にも「本当の問題」が積み上がっている。

このはてな殺人事件にも問題の二重性があるということに気がついている人も多いようだ。最初のフレームは、コミュニティの厄介者だった低能先生という迷惑な存在が最終的には絶対にやってはいけない殺人を犯したという見方である。だからhagexさんを聖人にして「惜しい人をなくした」とするのである。

だが、これに認知的不協和があるから少なくない人が長い文章を読みたがったのだろう。彼らの洞察は正しい、これをいじめ問題の構図で語ると、いじめを先導していたhagexさんが観客たちが自分の味方であるということを見越した上で低能先生をバカにしていたという議論になる。いじめている側は「自分たちはパソコンの向こう側におり安心」と思っていたのにいきなり低能先生が現れて反撃に出たという事件なのだ。自分は安全だと思っていじめていたのに実は危険だったということがわかり焦っているのだろう。

個人主義が採用されるTwitterではこのような問題は起こりにくくなっている。システム自体がアカウントを排除するのではなくお互いの交流を遮断するかあるいは表示しないことによって問題の解決を図るからである。電気回路に起きたノイズなので遮断してしまうのだ。

このため昨今のTwitterではリベラルのアカウントが遮断されることが増えている。ネトウヨの議論はそれが社会的な許容範囲ではなくても政治主張なのだが、それを攻撃するとノイズを発生させかねないので、そちらを遮断してしまうのである。内容については考慮せずノイズだけを遮断するので「相手にしているリベラルだけが遮断された」というように見えてしまうということになる。

この背景にある思想は「自分と異なった意見を持つ人がいることは排除できないが、それは無視することができる」というものである。日本人の考え方とは異なっている。

はてなはこの「否定せず関わらせず」というポリシーを守るべきだったのだとは思うのだが、集団をコントロールしたがる日本人にこのような考え方ができるとは思えない。ゆえに今後もこのような問題は起こり続けるのではないだろうか。

集団を強く意識する日本人はこの環境にどうやって対応してきたのだろうか。それが「縁」である。閉鎖的なコミュニティで暮らしている限り関わりは避けられない。であればそれを包摂してしまおうという考え方だ。もともと日本語にあった言葉のようだが、仏教的な概念を導入して独特の進化を遂げた。たまたま隣にいる人と接しなければならないというのは理不尽なので「自分は覚えていない前世でつながりがあったのだ」という説明が受け入れられたのかもしれない。

これをうまく言い表している言葉が、前回紹介した「袖振り合うも多生(他生)の縁」である。袖が触れただけでも何かの関係があるのでそれを大切にしなさいよという意味のようだ。

室町時代に書かれたとされる蛤の草紙という話に次のような一節があるそうである。

「情なき人かな。物の成行きをよく聞き給へ。袖のふり合せも他生の縁と聞くぞかし。たとへは鳥類などだにも、縁有る枝に羽をやすめるぞかし。ましてや、これまでそなたを頼み参らせて、此舟に近づきし甲斐もなく、帰れと仰せ候ことのあさましさよ」

これは「ここで会ったのも何かの縁なので連れて帰って妻にしてください」というような意味だ。前後は、インドに住む40歳くらいの貧しい独身男が美人と出会う。そして、妻の貢献で男は豊かになるが妻は去ってしまうというお話である。

もともと仏教では縁や因縁は波紋のようなものだ。苦を避けるためにはさざ波が立たないようにすべきだということになりこれを解脱と呼ぶ。だが日本人は仏教的な概念は受け入れつつ深層では縁は苦のもとという考えは取り入れなかったようである。

キリスト教世界では個人が起点になっており物事の良し悪しを決めるのは自分自身だ。相手はコントロールできないが自分の意見として取り入れる必要はない。だから誰もが好きなことが言えるように電気信号がサージしたら半自動的に止めてしまうというシステムを作ったのだ。だが、日本ではせっかく関係性ができたのだからそれを大切にすれば良いことがあるかもしれないとみなすことになる。ここでコミュニティのメンバーが「縁を大切にする」ならばコミュニティは平和裡に保たれるし、相手をコントロールしようとするとそれは全て苦のもとになる。

つまり、今回の出来事から我々が学べるのは、この件に関して対処する場合アプローチが二つあるということである。一つは個人主義的に好きなことを言い合いながら違った意見があってもスルールするというものである。もしスルーするのが難しければミュートしてしまえばよい。だが、もしこれがあまりにもドライすぎると思うなら「目の前にある関係からも何か得ることがあるかもしれない」と思うこともできる。

いずれにせよ犯人探しをしても苦のもとがなくなることはないのではないかと思う。

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低能先生が求めた絆とは何だったのか、またそれは成就したのか

ネットでdisられた人がdisった人を殺すという事件が起きたようだ。ネット史上歴史に残るなどと書いているメディアもある。

当初「低脳先生」と書いたのだが「低能」だったようだ。文中にある該当箇所は書き直した。

またネット上には 「低能先生」と呼ばれた犯人のものとされる書き込みが残っている。

これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな) 俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ 「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな? 「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?

殺されたhagexという人はネットの有名人だったようで人柄を惜しむ声がTwitter常に流れていた。その一方で殺人を犯した方の人に対して同情する声はなさそうであった。が、散発的に流れてくるこのニュースを聞いて考えたのは、いつものように被害者ではなく加害者についてであった。

第一に「どう防ぐか」を考えたのだが、ブロックせずに無視できる仕組みを作るべきだと思った。実名すら名乗ることができないくらいの自我を持っている人がかろうじて世間とつながっている存在を消されるということがどういう意味を持つのかはてなはよく考えた方が良い。

扱いにくい話題なのでテレビなどでこのニュースが取り上げられることはないだろうからこの人がどういう境遇でなぜ殺人を実行するに至ったのかということはわからないままだろう。ネットに出ている情報を総合すると数年に渡って他人を「低能」と非難した挙句にアカウントを閉鎖されたことを恨んだのだと言われているそうである。この殺人に意味があるというポジションを取ると「殺人を正当化するのか」という非難は避けられそうもない。

誰からも相手にされないというのは辛いものだと思う。が、その一方で幸せなことでもある。多くの人は世間とのなんらかのつながりがあるので自分の意見というものを表明することはできない。もしできると思うのなら実名で自分の政治的な意見を表明してみれば良い。たまたま一言つぶやく分にはいいかもしれないが、それを継続していれば一週間もしないうちに周りから距離を置かれるはずである。

日本人は他人が自分と著しく異なる政治的な意見を持つことを許容しない。許容するのは「世間体」のフィルターを経たものだけである。例えば主婦は主婦なりの枠というものが決まっているし、会社員ならば組織の立場を慮った上で発言しなければならない。だから日本人は実名で政治的な意見を表明することができない。ほぼ100%絶望的だし、会社によっては自粛あるいは禁止しているところも多いはずだ。

このため政治的な意見は匿名で発信せざるをえない。匿名だと過激な意見も許容されるがこれも世間に収斂してゆく。多くの人たちはいわゆる「ネトウヨ」か「リベラル(反安倍)」という雛形に集まっていってしまうのである。つまり、匿名で自由になったといっても日本人は集団化圧力からは逃れられないということになる。無意識のレベルでそのようにしつけられているからである。

誰からも賛同を得られないということは、つまりそれはまず実生活の集団の規範には縛られておらず、ネット上のありものの規範にも縛られていないということを意味する。政治姿勢というと大げさに聞こえるかもしれないが、それは社会についての態度であり、つまりそれは自分が自分としてどう生きてゆくかということでもある。つまり、誰からも相手にされないということだけが、もはや成長しなくなった日本では唯一新しく成長の可能性がある社会的な姿勢を形成するチャンスだということになる。とてもいびつな社会なのだ。

こうした社会から孤立した人が自分を認めてくれない社会に対して怒りを持つというのはむしろ自然な事だろう。だから、思う存分やれば良いと思う。だが、そんなことは多分しばらくやっていると飽きてくる。その時点である種のコミュニティに回帰してゆく人もいるのだろうが、それでも時間が余ったとしたら、やっと「その人が本当に持っていた何か」を発芽させるチャンスが巡ってくる。それはその人だけに与えられたその人だけの機会だ。

多分、この人の不幸は、せっかく世間というしがらみから逃れることができたにもかかわらず、結局「否定される」という関係性に耽溺していったところなのではないかと思う。言い換えれば集団化欲求はそれほどまでに強いのだ。無視されて非難されるという経験は辛いものだがそれでも「何も関係がない」よりはましだと感じる人がいるのだと思った。だからこそ、IDを変えて同じ文体で執拗に特定の人を攻撃し、最終的に「低能先生」というレコグニションを得たということになる。

さらに、彼は観客を得る事によって行動をエンカレッジされてゆく。

すでに見たように、この事件が起こる背景にはITの機能についての認識の違いがある。殺された人は度々「メンション」されるたびに「うざい」と考えてはてなに連絡をしていたようである。はてなはそれを無視せずにこまめにアカウントをクローズしていた。はてなではこのメンションをIDコール機能と呼んでいたそうだ。Twitterでもメンションに怒る人がいるが、個人主義の文化で開発されたTwitterのメンションは単なる「引き合い」を意味する。絡んできていると思う人もいるだろうがそうでない場合もある。だから相手をするかは個人の判断に任されている。かなりドライな仕組みである。だから見たくないものはミュートしてしまえば良い。

ところが独特の集団主義の強い日本ではこれを「絡んできている」とみなすのだろう。友達のように文脈が共通している人の場合は「じゃれている」ことになるのだが、敵対性が明確な場合は「うざい絡み」ということになる。こうしたウエットなつながりをシステムの特性としているのがはてななのではないだろうか。機能としてはTwitterとほとんど違いはないが、結果的には全く異なった解釈で使われているのだ。

敵味方を峻別し味方の中で甘えた関係を作りたい日本人は敵意表明を明確にしたがる。だからTwitterでも非明示的なミュートではなくより敵対的で明示的なブロックが選ばれる。「お前を拒絶している」ということを見せつけたいのだ。だが本当は「情報収集をしたいからノイズをキャンセルしたいだけ」かもしれない。別に敵意はないが役に立たないから遮断するということが集団内での関係に過剰な意味をもたせたがる日本人にはできない。

このウエットな(あるいは優しい)システムは最終的に個人同士の「絆」を深めやすくする。それが平和なオフ会で終わることもあるが、一方で今回のような「血の絆」で終わる事もあるのだということだ。最終的にターゲットはハンドルネームではない実名で実際に血を流し、犯人は「低能先生」ではなく実名で認識されるようになった。

よく因縁という言葉があるが全く関係のなかった被害者・加害者と観客の間にある因縁が結ばれてしまったということになる。個人としての自我や自己を持たないように繰り返し訓練される日本人にとってはその集団がいかに病的なものであっても抗えない魅力があるのだなと思った。因縁が結ばれやすい社会だ。いずれにせよこれまで低能先生を遠巻きにはやし立てていた人は血の絆を持って彼と一生結びつく事になった。その主導者は血の繋がりを持つことになり人生を終えた。

今回被害者になった人は辛抱強く相手を刺激する事で彼が実体として社会に現れる手助けをし、最後は「犠牲者」という役割を引き受けた。ネットではプレゼンスがあり尊敬もされていたようだが、血の犠牲者というのがこの人の一生の仕事になった。また実際に起き上がって人を刺した人は行動する事で彼の望みだった帰属感を得る事ができた。

これが、良い事なのか悪い事なのか俄かには判断がつかない。殺人なので悪いことに分類したくなる。

これについてネットでいじめられたという事を殺人によって明示的に宣言したと言っているブログを見つけた。確かにその通りなら恐ろしいことなのだが、所詮ネットの中の内輪揉めでありそれほどの社会的インパクトはなさそうだ。

ネットに文章を出しているといろいろな縁がある。精神的な問題を抱える人が寄りかかってくる事もあるし、Facebookに怒りをぶつけるようなコメントを出してくる人もいる。なんらかの縁が生じたのだからできるだけの真剣さでそれを送り出してやるべきだと思うし、悪い縁に育ちそうなら我慢して断ち切ってあげるのも優しさだと思う。

時には利用できそうな縁だと思う事もあるのだがそれは膨らまさないようにしている。私たちは目の前で起こる事の意味をすべて知っているわけではないからである。キリスト教流にいえばことの良し悪しは神様だけが知っていて人間には知りえないのだし、仏教的に考えればすべての因縁は苦の元であり断ち切られなければならない。

日本には袖振り合うも他生の縁という言葉がある。こうした縁を大切にしてきたのが日本人であり、それを今一度思い出すべきではないかと思った。

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服を捨てる・政治的主張を捨てる

今回はファッションを参考にTwitterの政治表現について考える。Twitterに疲れているという人は読んでいただきたいのだが「Twitterは馬鹿ばかりだから困る」という結論を求めている人に気にいる内容ではないかもしれない。最初はTwitterについて書き始めたのだが、それだけではまとめるのが難しかった。政治表現にはそれなりの「特別感」があるうえに、問題が多すぎてどこから手をつけて良いかわからない。現在のTwitter議論はそれくらい閉塞して見える。

バブルの頃には洋服にはあまり興味がなかった。ファッションに関心を持つようになったのは太ったからだった。太っても着られる服を探そうと思ったのだ。意外なことに、「自分が変わった方が早い」と思うようになった。つまり、服を探すよりも痩せたほうが早いということだ。体重が減ると似合う服が増えて試行錯誤する必要はなくなった。

つまり、他人や周囲の状況を変えるより自分が変わった方が早いということになる。確かに、自分以外はすべて馬鹿なのかもしれないし、体制に騙されているかもしれないのだが、それを考えてみても実はしかがたないことなのだ。

だが、これは相手に迎合しているというのとは違っている。つまり好きな服を着ているのだが、それがどう似合うのかということを覚えて行けばよいのだ。

洋服については別の感想も持った。体型が変わっても古い服を捨てられなかった。服を捨てられないのでサイズの大きなものばかりになってしまう。これらを思い切って捨てたのだが、間違いが少なくなった。ファッションに間違いなどあるはずはないという人もいると思うのだが、実際には「決まりにくい」組み合わせが存在する。

同じことは政治議論にも言える。深く知れば意見も変わってくる。これは不思議なことでもいけないことでもない。

大きく意見が変わった問題に憲法改正がある。もともとは第九条に関しては護憲派だったのだが、いろいろ見て行くうちに「ああ、これは無理だな」と思うようになった。さらに、自分で考えたことを護憲派の人にぶつけても芳しい意見は戻ってこない。現在の憲法は占領下の特殊な条件の元で作られており現在の国際情勢と合致しない。今変えたくないのは単に政治状況が信頼できないからにすぎない。

しかし、そもそも自分がどのようなポジションをとっているかどうかはどうやったらわかるのだろうか。

洋服の場合は定期的に投稿することである程度客観視ができる。後で見直すことができるからである。最初の頃は明らかに似合わない格好をしているが一年経つとかなり体型が変わっているので去年は成立しなかったものが成立するようになる。また、最初は見た目をよくしたいとかこれは自分ではないなどと考えたりするのだが、半年くらいすると「よく知っている他人」を見ているような感覚にもなる。これが「ある程度の」客観視である。

公式な場で政治的発言をしなかった日本人が「思い切って」政治的発言に踏み込むと、同時にポジションにコミットしてしまい動けなくなる。これは、客観視が進まないからなのかもしれない。つまりそれを発信している自分について実はよく見ていないのではないだろうか。

さらに、何が自分にあっているのかどうかはやってみないとわからない。洋服は試着しているべきだし、意見は発信してみる必要がある。だから、政治議論にも「試着」があるべきなのではないかとすら思う。

なぜ日本人は洋服の試着はするのに政治議論の試着はしないのだろうか。意識的にポジションをバラしてみて自分に似合うものを決めればよいのではないかと思うが、どうしても政治だと「こうしなければならない」という思い込みがあるのではないか。

そうこう考えてみると、洋服の場合にも同じような時代があったのを思い出した。バブルの頃にはスーツはこう着こなさなければならないというようなプロトコール論が流行っていたことがある。落合正勝の本を読んだことがあるという人もいるのではないか。この時期に「いろいろ試着してみるべき」という発想はなかった。また西海岸のライフスタイルを紹介するPOPEYEのような雑誌も存在したが、実際の西海岸とは違ったある種フィクションのようなものだった。これも「ライフスタイルはこうあるべきだ」という思い込みを生んでいた。

逆にスーツは堅苦しいからいやだとなると、それをだらしなく着崩した竹の子族のような格好になってしまう。当事者たちは「日本風にアレンジした」と思っていたはずだが、周りから見ると単に奇妙でだらしないだけだ。スーツを着ているのが今の「サヨク」と呼ばれる人たちで、逆に竹の子族に当たるのが「ネトウヨ」なのかもしれない。

だが今ではそのように極端なファッションの人はあまりいない。それぞれが自分の身の丈にあった洋服を着ている。逆に「洋服はこう着こなさなければならない」と語る人は少なくなった。洋服について語ることが特別なことではなくなり、生活の中に定着してきたからなのだろう。

考え始めた時には「このTwitterの殺伐とした状況はもうどうにもならないのかもしれない」とか「ここから脱却するためにはかなり努力が必要なのではないか」などと悲観的に思っていたのだが、改めて書いてみて、10年もすれば政治議論も落ち着いてくるのかもしれないなと思った。

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野田洋次郎はなぜ炎上したのか、炎上すべきだったのか

野田洋次郎というアーティストが炎上している。愛国的な曲がサヨクの人たちのベルを鳴らしてしまったからである。御霊、日出づる国、身が滅ぶとて、千代に八千代にといった「サヨクにとってのNGワード」が散りばめられているので、自分から飛び込んでいったとしか思えない。

専門家の解説も出ている。「愛国歌」としての完成度は低いとのことである。確かに中身を見ると「コピペ感」が拭えない。外国人が日本の映画を作ろうとしてサラリーマンに暴力団の服を着させたような感じである。なぜこれをやろうとしたのかが疑問だったのだが、面白いところからその謎が解けた。野田さんの釈明は最初が英語になっているのである。

ということでバックグラウンドを調べてみた。英語圏で高等教育を受けたのと思ったのだが、10歳の時に帰国しているようである。英語をみているとそれほど上手な(つまりはアカデミックな)英語ではなく、なぜ英語で謝罪文を書いたのもよくわからない。

野田さん個人の資質の問題は脇に置いておくと、日本人がチームのために献身的に働くということを称揚する雛形を持っていないという問題が背景にあることがわかる。よく、日本人は集団主義的と言われる。しかし、日本人は自分の役に立たない集団には何の興味も持たない。もし日本が愛国者で溢れているなら自治会には志願者が溢れているはずだが、そもそも自称愛国者の人たちはサッカーパブで騒いだり、Twitterでサヨクをいじめることはあっても、近所に自治会があるかどうかすら考えたことがないのではないだろうか。

日本には集団生活を強要する文化はあるが自分から進んで協力する文化はない。すると、遡れるものが限られてくる。

集団への参加意識を高める時、日本には遡ることができるものが三つある。一つが軍隊であり、もう一つは体育会である。一つは家族を盾に自己犠牲を迫り、もう一つは団結という名前で暴力を容認する。そして最後のものは暴走族とかヤンキーと呼ばれるような反社会集団である。皮肉なことにこの中ではもっとも組織の健全度が高い。この反社会性を模倣しているのがEXILEと各地に溢れるYOSAKOI踊りだ。EXILEやYOSAKOIの衣装はボンタンのような独特のスタイルになる。

もともとスタイルのよくない人たちがスタイルを隠しつつ大きく見せるような様式だと思うのだが、これをダンスで鍛えていてスタイルの良いはずのEXILEの人たちが模倣するというのが面白いところではある。AKB48も同じようなスタイルをとるが、個人では勝てないと思う人たちが集団で迫力を出そうというこのスタイルを個人的には「イワシ戦略」と呼んでいる。

次の問題は大人の存在である。当然野田さんにはスタッフがいるはずで、政治的なとはいわないまでも社会がどのような仕組みで動いているかというアドバイスができたはずである。事務所は個人事務所であり、レコード会社はユニバーサルミュージック傘下のようだ。誰かが「書かせた」のか、あるいは書いたものをチェックしなかったのかはわからないが、対応に問題があったと言わざるをえない。ファッションデザイナーが特攻服を「かっこいい」と持ち出してきたら慌てて止めるのが大人の役割である。だが、この国の大人はもう責任は取らないので今回の一件をアーティストに押し付けて沈黙を守っている。

大人の問題は突き詰めれば「政治的無知」というより「SNS無知」と言って良いのではないかと思う。もっと言うと社会に関心がないのである。社会に関心がない人たちが愛国を扱うとこうなってしまうということだ。

日本のミュージックレーベルは意識改革ができていない。限られた数の「レコード会社」が限られたテレビ局とラジオ局相手にプロモーションをして、レコード屋に押し込むというのがビジネスモデルなので、不特定多数の人たちと直接触れ合うということに慣れていないのかもしれない。だから不特定多数から構成する社会もわからないし、今定期的に音楽を買わない人たちの気持ちもわからないのだろう。残業やライブハウス回りに追われて社会生活そのものがないという人も多いのかもしれない。

こうした遅れは実はエンターティンメントビジネスの現場では大きな障壁となっている。韓国のバンドはYouTubeで曲を露出してテレビ番組を二次利用したローカライズコンテンツをファンが作るというようなエコシステムができている。このためYouTubeだけを見ればバンドとその人となりがわかるよう。韓国のバラエティ番組に日本語や英語の字幕がついたようなものがあるのだ。

一方で楽曲そのものはローカライズしないという動きも出てきている。一世代前の東方神起時代には日本語の曲を歌わせたりしていたようだが、最近ではYouTubeで直接曲が届くような仕組みができつつあるようだ。この戦略はアメリカでは成功しており防弾少年団はビルボードのソーシャルメディアの部門で二年連続で賞を獲得したそうである。

ワークライフバランスを崩した日本のミュージックレーベルは内向きになっており新規ファンが獲得できない。事務所よりもミュージックレーベルが大きいので、CDが売れなければ意味がないと考えてソーシャルメディアに大量露出するようなやり方も取れない。テレビ番組の影響も薄れつつありヒット曲が生まれにくくなっており、恒常的な不景気なので派手な民間主導のイベントがない。すると、音楽ファンが減少し限られた人たちしか音楽に興味を持たなくなる。そうなるとオリンピックやサッカーなどのスポーツイベントで国威発揚を図るか政府が主催するイベントに頼らざるをえなくなる。

政府が好むのは国民が「己を捨てて自分たちのために犠牲になる」ことなので、いわゆる右傾化が進むことになる。するとそもそも消費者の方も見ていないし、国際市場も見ていないということになり、国際市場ではますます通用しなくなるという悪循環に陥ってしまう。一般紙やテレビでも話題になっていないし、今回騒ぎを作ったサヨクの人たちは間違っても日本のポップミュージックなどは聞かないと思うので、無駄に炎上していることになる。

この話題は日本の音楽界の閉塞性の問題と捉えたほうが理解が進むように思える。そもそも元が軍歌のコピペなので政治的にはそれほどの意味はない。例えて言えば「なんとなくかっこいいから」という理由で旧日本帝国軍の軍服を着てみましたというような感じである。それを許してしまったのは、周りの大人が社会の反応を想像できなくなっているからであり、そういう人たちが社会の気分を汲み取ってヒット曲を作れるはずもない。彼らは単に会議室の資料に埋もれているに過ぎない。

しかし、左翼側の攻撃は執拗でまた中身もなかった。一番面白かったのは、The people living in Japanを国民と言い換えているのは玉音放送と同じ悪質さを感じさせるというものだった。もともとが脊髄反射的な反応から始まっているだが、一旦拳を振り上げた以上は何か言わずにはいられないのだろう。

またバタイユを引き合いに出して共同体について考察している人もいた。日本人がもしファシズムに走っているとしたら、今頃近所の自治会や見回り警護団は大賑わいのはずだ。一度こうした集団がどんな人たちで構成されているのかを見に行けば良いと思う。お年寄りたちは「若い人は自分の暮らしに忙しい」と嘆くばかりで、ファシズムが蔓延しそうな気配はない。ある対象を見ていると心配したくなる気持ちはわかるのだが、足元の状況と照らし合わせないと判断を間違えてしまうかもしれない。

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