山口真帆さんの問題に戸惑う日本人男性のなんと多いことか

NGT48のメンバーである山口真帆さんの問題で松本人志さんが炎上しそうになっている。指原莉乃さんが怒りを抑えている表情が印象的でしばらくぶりにワイドナショーを見ていたのだが、松本さんが例の問題発言をしたときに「ああこれは大変なことになるな」と思った。




女性が性的被害を受けた時社会が適切に対処できないという問題はかなり前から積み重なっている。伊藤詩織事件も未解決のままであり、今回の問題も不起訴処分になったことからうやむやに終わりそうだ。女性がリスクを抱える一方で、問題の根幹には男性の当事者意識の薄さがあるように思える。試しにQuoraで山口さんが謝ることの是非を聞いてみたのだが「世間に対して謝るのは馬鹿馬鹿しいとは思うが仕方がない」という意見が寄せられたのみだった。ここでリクエストに応じて答えてくれた人たちは普段から実名でコメントしており特に社会的な常識から外れた人たちというわけでもない。にもかかわらずやはりこのくらいの認識でしかないわけである。松本さんはある意味この意識の延長でしかこの問題が考えられていないのだということになる。

ただ、この意識のなさと無防備さは問題になりかねないなと思った。一人は「経済的にトクをするのではないか」と指摘していた。確かに仮説としては成り立つが、すでに伊藤詩織事件の時にも問題になった考え方なので、公共にこの意見を無防備に晒すのは社会にとって有害であり個人にとっても危険である。

また、「世間学」という学問を持ち出して、世間を騒がせたことは穢れになるというような言い方をしている人がいた。この議論を展開して行くと、性被害者は世間に異議申し立てをした時点で穢れたことになってしまうので黙っていろということになるので、コメントでそれを確認した。すると高評価が戻ってきた。つまり「それを是認した」ということである。ただ、実名でこうした意見を言っているところから悪気は全くないはずだ。

世間学の人は「僕自身はそうは思わない」としているので、個人としてはリスクヘッジをしているつもりなのだと思う。ワイドナショーが「芸能人が意見をいい合う」としてリスクヘッジしたつもりになっているのに似ている。

日本人は公共を理解しないので社会と個人を分離することがある。だから「私はそう思わないが」というのがリスクヘッジになるのだろう。Quoraは一見会員制のサービスに見えてしまうので(実際には公開されているわけだが)村の中にいるような安心感も得られる。

松本さんの発言にも同じような傾向が見られる。「娘がいる自分は」というようなことをおっしゃっていたと思うのだが、実際には指原さんを「いじろうとして」お得意の体を使った……などと言ってしまった。番組の性質上笑いに落とさなければならないという本能が働いたものと思われるが、明らかに処理できなくなっていることがわかるのと同時に「指原さんは同じ芸能人だから、これが笑いという約束ごとなのだと理解してくれるだろう」と甘えているのだろう。

ところが指原さんは当事者の一人であり、なおかつ女性の代表として公的に振る舞わなければならないということが理解できている。一方で松本さんが芸人として甘えてきているということも理解している。そのためにこの発言をどう処理していいかわからなくなり「この人やばい」と言っていた。ここでは明らかに指原さんのほうが賢かった。松本さんはワイドナショーがムラと公共の間にあるということが理解できていないが、指原さんはわかっているのだ。

ここに見られるムラビト意識は公共と自分たちの生活圏を意識的に分割する思考様式だ。日本人は対話を通じて親密なかばい合いの共同体を作る。問題があっても誰かがかばってくれるだろうという「あの日本人ならば誰もが感じたことがある」安心感である。

だが、燃え残りの問題が山積している地雷原のような話題の場合、これはとても危険な態度である。彼の発言は実際にはテレビを通じて「お笑いの大家であり誰もが気を使って当然」という松本さんの事情に忖度しない消費者の半分を占める女性を怒らせかねない。そしてその怒りはスポンサーへの不買運動につながりかねない。

フジテレビが今回のビデオを流してしまったのは、山口さんの問題を「芸人がいじっても良い程度の軽い問題」と考えているか、芸人が扱うのだから世間が大目に見てくれるだろうと思っているからだろう。そもそも甘えを前提にしている。一方で、企業としての社会責任は放棄している。個人の意見が蓄積して社会の意見になるとは考えていないし、視聴者が連帯して不買運動を起こしてスポンサーに害を与えかねないとも思っていない。

この手の問題を語るときによく集団としての日本人について語られる。すると「か弱い女性に対して世間は冷たい」というようなことになってしまう。だが、一人ひとりの日本人男性について見てみると必ずしも悪気があって言っているというわけではないということはわかる。問題はむしろ公共と個人の関係の希薄さである。日本人は一人ひとりの何気ない意見が世論を形成するとは思っていないのである。

日本人は今の所、自分たちの発言が集積して社会になるという意識は持てていない。それは、普通の人たちだけでなく、タレントやテレビ局まで共通しているマインドセットなのだろう。だが、テレビにしろSNSにしろこういうマインドセットでは乗り切れなくなっている。実は私たち一人ひとりの何気ない意見が社会の空気を作っており、それが思っているより多くの人に注目されてしまっているからだ。

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テレビ局があなたの視聴データを盗む?

テレビ局が取得している番組視聴のデータを共有するとしてニュースになっている。IPデータ単位で誰が何を見ているのかということがわかるようになるということで「視聴者行動の覗き見」になるのではとTwitterで少し話題になった。(共同通信社




この件について眺めているとなぜ日本がIT技術に乗り遅れたのかということがわかる。理解が曖昧なままでわかったふりをしているうちにどんどん時代に乗り遅れてしまっているのだ。多分共同通信社の人も発表したテレビ局の人も自分たちが何を言っているのか、また何がしたいのかがわかっていないと思う。だからどこがダメなのかも当然わからないのだ。

このニュースの最初の「一部の」というところがあいまいだったので調べてみた。試しにデータ放送のメニューを探してみた。テレビ朝日とフジテレビはすぐに「ログ送信の中止」というメニューが見つかった。わかりにくかったのは日本テレビだ。ログインというわかりにくい項目の所にログ送信の中止メニューが隠れている。どうやらこの3局は視聴データを集めているらしい。

一方、テレビ東京とTBSではログ送信中止のメニューが見つけられなかった。テレビ東京には項目そのものがなく、TBSはログを収集することがあり警察などには提出することもありうるがプライバシーには配慮しますというようなことが書かれていて、一瞬たじろいだ。

共同通信社の記事にはどの放送局がデータを集めているのかを書いていない。だから、ログ送信の中止というメニューがわかりにくいところに隠されている(あるいは存在しない)のかログをとっていないからメニューそのものがないのかがわからないのである。特にTBSは報道ではリベラルさを唄っている放送局なので、もし勝手にログを取っていて中止操作もできないのならボイコットしろなどと書きたくなってしまう。だが、実際に視聴のログをとっているのかがわからない。画面をよく読むと「データ放送のアクセスログ」と書いており、視聴データを取っているとは書かれていない。

よく考えてみると、一部のテレビ局の一部の端末から番組視聴データが取れたとしても、それが何かの役に立つとは思えない。統計を問題解決に生かそうと考えれば、データ収集設計からはじめなければならない。「ここにデータがあるから持ち寄って何か使えないか調べてみましょう」というようなことはできないのである。依頼された方も困るはずだ。

Twitterでよく安倍政権の支持率調査が行われているが、ネトウヨの統計では安倍首相が熱烈的に支持され、パヨクの統計では安倍首相はすぐにでも退陣しなければならない。これは統計に応じた人たちにバイアスがかかっているからで、実際の支持率がどうなっているのかはよくわからない。仮にフジテレビを見ていたIPアドレスが日本テレビに移ったとして、そのIPアドレスが同一人物かはわからない(テレビが2つあったら別のテレビかもしれない)し誕生日などのデータもあったりなかったりするはずである。

一方、Googleは個人単位の情報が欲しいので「セキュリティの高いメールアドレスを無料で配る」という利便性を供与する(当然費用もかかっている)ことで情報を買っている。これは彼らがインターネットはIPアドレス単位の情報しか補足できず、そのままでは行動解析には役に立たないということを知っているからである。テレビ局はこの「IPアドレス単位のデータは役に立たない」ということが理解できない。多分、IPアドレスとアカウントの違いもわからないかもしれない。

日本の「偉い人たち」がIT技術についてよくわかっていないということは驚くには当たらない。しかし、実際には統計についてもちゃんと理解していないことがわかる。にもかかわらずわかったように発表してわかったように書いて、モヤモヤ感だけが残るような記事ができてしまうのである。

こうしたことが起こるのは彼らが自分たちが作ったのではない既得権益によって守られているからだろう。データが取れるらしいしGoogleなんかはそれで大儲けしているわけだから「自分たちもリスクを取らないで儲けられるのでは?」などと思ってしまうのだろう。テレビ局は成功した村なのだが、成功しているが故に徐々に時代から取り残されつつあるのかもしれない。

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Twitterをやらなくなったという話

この一年で「SNSの選択肢が増えたな」と思っている。システムとしてそれほど新しいものが出ているというわけではないのだが、人が居着いた感じがある。YouTuberという言葉は定着し、インスタグラムのインフルエンサーなどという言葉も補足説明なしに使えるようになった。と同時にTwitterで過ごす時間が極端に減った。




Twitterは荒れた印象で問題解決にはそれほど役に立たないのだが、質問サイトやファッションサイトなどは建設的でやっていて楽しい。建設的な空間ではある程度の協力関係も築けるし、何よりも達成感がある。

一方、2018年の始めには「2ch化しているな」と思ったのだがTwitterはかなり荒んできた。Twitterが荒れ始めたのは皮肉にも世論形成に役に立つということが認知されたからだと思う。多分、お金をもらってやっている人や、嫌韓本を売りたくて極端なことをいう人がいるのだろう。ダウンタウンが荒れてお金持ちが郊外に流れるのに似ている。

Twitterの不毛な政治議論に嫌気がさした人が異議申し立てをしてTwitterを離反するというようなことはないように思う。知らず知らずのうちにTwitterを覗かなくなった。他に楽しいことがあり、そのためには準備も必要だからである。地上波のテレビを見ることも減った。やることがないからテレビをつけようという機会が減ったからだ。YouTubeやストリーム系の韓国ドラマを見るのに忙しく、わからない単語を調べるのも面白くなってきている。ワイドショーはなんとなくフォローしていたのだがバラエティは完全に視野から外れた。ダウンタウンが芸人を閉じ込めて炎上したという話もYahoo!ニュースで見たきりで全くフォローできていない。「どうせつまらないんだろう」と見なくなると予告も見なくなるので視野から消えてしまうのである。

しかし、SNSで活動するのは難しいという人もいるかもしれない。やりたいことがないととてもつまらないのだ。例えばインスタグラムが楽しいといってもそれはやりたいことがある人の話であって「何もやりたいが流行について行きたい」という人にはとてもつまらない場所だろう。中にはSNOWなどに手を出してイタイおじさん化している人もいるかもしれない。Twitterは井戸端会議としては面白かった。取り立ててやりたいことがなくてもなんとなくつながっているという感覚が得られる。あるいはTwitterが流行したのは日本人の受身的な姿勢にあっていたからなのかもしれない。なんとなく「Twitterが荒れてきた」という現実に目を背けてきたのだが、やはり他に面白いことができると心の中の専有率は下がってくる。

SNSツールの数が増えるのはいいことだと思う。日本人の中にやりたいことがたくさんありそれなりに表現方法を身につけた人たちが増えているということを意味しているからだ。やはり日本人のITコミュニケーション能力は上がっているのである。

WEARにも写真の技術を積極的に覚えて自分なりの表現方法を身につけている人が大勢いる。これも出始めの頃には「ショップの店員が細々とやるだけなんだろうな」というような印象だったのでずいぶん育ってきた印象がある。プロとアマチュアの中間という意味ではカラオケに近い。

カラオケは単なる遊びではないかと思われるかもしれないが、実は少しずつコンテンツにお金を払おうという機運も生まれている。これもTwitterだけをやっていると気づかないのではないだろうか。もちろん、生計を立てるというところまではいかないのだろうが、取るに足らないコンテンツで稼いだ金でコンビニのコーヒーなどを飲むと不思議な気分になる。何もないところからお金が湧いてきたような気分になるのである。もちろんYouTubeのように大成功者が出ているプラットフォームもある。YouTubeもテレビの人たちから見ると「所詮カラオケ」だったのだろうが大衆の力というのは恐ろしいものだ。

やりたいことがあり表現方法を身につけたい人にはネットはとても楽しい場所になりつつある。それは同時に、やりたいことが見つからない人にとってはとてもつまらない場所になりつつあるということでもある。建設的な人は別のSNSに流れてしまい、お金をもらって極端なことをいうような人しか残らないからだ。お金をもらって人を不快にする人とその人たちに不快にさせられるという人がいる一方で、やりたいことをやっていたらお金が回ってきたという人が共存する世界なのだ。

この変化は永遠に続くと思われた閉塞的な世界が少しずつ変わりつつあることを意味しているのかもしれない。2008年(リーマンショック)から2011年(東日本大震災)までのあの停滞しきっていた時代から少しずつ立ち直り始めているということのように思える。暗闇の10年が過ぎ去り新しい光が見えはじめているのかもしれない。

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日本人が国際的に非難される理由について考える

タイトルは大げさだがそれほど大したことを考察するわけではない。Quoraを見ていて慰安婦問題が国際的に非難される理由がわかったみたいな気がするというだけの話である。




Quoraで面白い質問を見つけた。日本では女性を性的に扱ったアニメコンテンツが多いというような内容だった。外国の人の質問らしい。これについて続々と反論が寄せられている。

よくこのブログでは「日本人は文脈にこだわる」というようなことを書くのだが、アメリカやヨーロッパにも文脈はある。この場合、「欧米に比べて人権的に遅れているので反省してはどうか」という言外の含みがあるのだろう。さらに東洋人の男性というのは全て女性を下に見ていて未だに隷属支配しているという思い込みも含まれていると思う。

ところが日本人(答えた人はほぼ男性だったが)はこの文脈がわからない人が多いらしく様々な回答を返していた。日本人は自分たちの文脈にはとことんこだわるのだが、他人の文脈には極めて無関心のようだ。

  • 確かにそうだがビジネスなので仕方がないという回答は人権を無視してビジネスにしていると捉えられる。金儲けなら何をしてもいいのかと非難されるわけである。
  • そんなことはないという回答は問題意識がなく疎い人だと捉えられる。
  • そうかもしれないが欧米だってそうだという回答は欧米の問題があるからといって日本の問題は正当化されないという反論を呼ぶ。たいていこのような質問をする人は欧米の状況も非難するはずである。

しかし日本人は他者の文脈的背景がわからないので、割と平気にこういう回答を返している。そしてみんながそのような答えになるのであまり違和感を感じないようだ。「日本人は全体として人権意識が低い」という印象を与えるのでかなり危険である。

ここから、組織が組織防衛に走る時にも同じような現象が起こるんだろうなと思った。このブログでは散々村社会が炎上する様子について観察してきた。我々は情報消費者として外にいるから、さまざまな体育系の団体や学校が「この問題は大したことはない」とタカをくくっている間に炎上している様子がわかるのだし「何故中にいる人たちはこんなことにも気がつかないのか」などと不思議になる。だがアニメ擁護議論を見ていると、こうしたことはどこにでも起こり得ることがわかる。

日本人の男性は駅売りのスポーツ紙に女性の裸に近いような写真が載せられていたとしてもなんとも思わない。そしてそれを女性から指摘されても「そんな小さなことに目くじらをたてるな」という。外国人から指摘されても同じようにいうのだが、これが場合によって炎上することになる。例えば伊藤詩織のレイプ事件はかなり重大な人権蹂躙だが、BBCが報道するまで「大した問題ではない」と思っていた人が多かっただろう。インサイダーは問題を過小評価してしまうのだ。

例えばインドではプロポーズを断った女性の顔を科学的薬剤で破壊するというような行為が起こる。これをインド人の男性が「そういうこともあるさ」などと回答すればかなり人権意識の低い国と見られかねない。もちろん、英語ができるインド人は欧米人がどのような眼差しで自国を見ているのかを知っているので「政治的に正しい」回答をするはずである。

この件について過小評価せずにきちんと「政治的に正しい対応」をするためにはどうしたらいいのだろうと考えた。つまり「国内的には大した問題ではない」という認識を持ちつつ距離をおいて「政治的に正しく」回答するためにはどうしたらいいのだろうか。

欧米で日本的なアニメコンテンツが問題視されるということを知るためには、まず欧米の人と直接会話したうえで、自国文化についてある程度客観的な説明ができなければならない。つまり、外との交流と言語化が必要なのである。

さらにそれに加えて「日本文化を否定されることは自分の恥になる」という一体化は避けるべきだ。例えば捕鯨の問題では欧米から非難されると「捕鯨は日本伝統の文化で」などと言い出す人がいるはずだが、その人がクジラ肉がないと生きて行けない人であるとは限らない。こうした一体化は思いもよらない反発を招きかねない。

Quoraは最近質問をテコ入れしており参加者が増えてきた。このためちょっとした国際摩擦を引き起こすかもしれないという面白い問題が生じている。Quoraはある意味教習所のようなところなので、問題はそれほど大きくはならないとは思う。だが、それを欧米的な議論だと思ってはいけない。同じような議論を公共の場でやると間違いなく叩かれる。

例えば従軍慰安婦問題で同じような主張をすれば非難されるはずだし、捕鯨の脱退問題でも同じようなことが起っているはずだ。日本人がこうした問題で国際的にうまく立ち回れなかったのは、多分自分たちの文化を客観的に見ることができていないからだろう。

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3G停波の後も手持ちのiPhoneを使い続けることができるのか

2022年の3G停波について調べている。今の所一番安く乗り換えができるのは中古の電話機を買って格安スマホに乗り換えることのようだ。だが、スマホの中にも使えなくなるものがあるらしい。




全部覚えるのは面倒なのでよく知っているiPhone について調べてみた。簡単だと思ったのだが、どうやらことはそれほど単純ではないらしい。iPhone5s/iphone5cあたりが3G停波で使えなくなるようで、しかもキャリアによって対応が分かれる可能性があるらしい。

iPhone4sとiPhone5はCDMA(3G)端末なので3G停波の後は使えない。しかしiPhone5cやiPhone5sはLTE端末(4G)ということになっているので使えそうに思える。ところが、auはすでにiPhone4s,5s,5cは使えなくなりますよというアナウンス(ライブドア・iPhone Mania)を出している。

この世代のiPhoneは3Gと4Gを切り替えて使うように設計されているそうだ。だが、auは2022年までにこの方式を完全に廃止してしまうということである。NTT DoCoMoに至ってはまだ切り替えタイミングも対象端末についても情報が全くない。

  • auの三種類の端末
    • CDMA 1X WIN端末(ガラケーで使えなくなる)
    • au VoLTE非対応端末(スマホで使えなくなる)
    • auVoLTE対応(スマホで使える)
  • NTT
    • FOMA(W-CDMA)(ガラケーで使えなくなる)
    • XiのDual端末(スマホで多分使えなくなる)
    • XiのLTE端末(スマホで多分使える)

このことは格安スマホで特に問題になる。正式にはMVNOというようだが、NTT DoCoMoとauではコネクションに違いがあるようだ。(IT Media)その上で多分auは自社顧客には案内を出すだろうがMVNOの顧客は救済しないだろうから大混乱が起こる可能性もないとは言えない。今でもMVNOのページでauのSIMについての説明はわかりにくい。どうやら提供されているSIMの種類が違うようでこれが問題になったりするのだそうだ。auからの端末にはSIMフリー化してNTT DoCoMoに乗り換えないと使えないものがあるようである。

ということで、今後の可能性としてはいつかが考えられる。知っている人は知っているどうでもいい情報だと思うのだが規格名がキャリアによって違うためにここまで調べるのは大変だった。OSが古くスマホとしては使い物にならないiPhone5cあたりはかなり安くヤフオクで売られているのでこの際買っておこうかなと思ったのだが、あまりにも不確実なのでしばらくは様子見をしようと思う。

  1. NTT DoCoMoもiPhone5s, iPhone5cを足切りしてしまうので使えなくなる。
  2. NTT DoCoMoがiPhone5s, iPhone5cを足切りしないので今まで通りに使える。
  3. auのiPhone5s, iPhone5cがハードによって電波方式を切り替えておりSIMを取り替えても足切りの制約を受ける。だから使えなくなる。
  4. auのiPhone5s, iPhone5cがSIMによって電波方式を切り替えておりSIMを取り替えればNTT DoCoMoの電波を使って引き続き使い続けることができる。この場合は使える。

可能性としては「4」の使えるが高い気はするのだが、NTT DoCoMoがどのような形でLTEのネットワークを構築するかがわからないために「なんとも言えない」というところである。今の所iPhone6sは引き続き利用できそうだが、これもNTT DoCoMoが発表するまで本当に使えるかどうなるかはわからないということになる。この場合は逆にauの電波でMVNOが使える。

オークションなどはのことがわかっているようで、iPhone5sとiPhone5cが6000円程度で入手できるのにiPhone6は10000円以上の値段で取引されている。auのiPhone5s,iPhone5cは値段すらついていなかったりする。

ずいぶんややこしい話だが、3G停波までにはまだ3年以上の時間がある。この間に五月雨式の情報が出てくることになる。それぞれの情報は全く独立しているために、ニュースだけを読んでも何が書いてあるのかがわからない。だから受け手側で情報を組み立て直して「ああ、これはこういうことなんだな」と解釈する必要がある。たかが電話で振り回されるとはと思うと腹が立ってくる。

地デジの場合には「アナログ」と「デジタル」が分かれていたのでそれでもなんとかなったのだが、救済策としてテレビにつけられる簡易型のチューナーが発売された。今回の携帯電話の場合、auは逃げ切った形だが後に残されたNTT DoCoMoは救済策を準備せざるをえなくなるのではないだろうか。公衆電話が撤去され続けており、インフラとしての携帯電話は誰かが準備しなければならないからである。フランスの場合安いディーゼルエンジン車を買い換えられないという人が黄色いベスト運動を起こしたが、日本でも同じようなことが起こらないという保証はない。

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あなたの携帯電話はもうじき使えなくなります……

あなたの携帯電話はもうじき使えなくなります。そんなDMを突然受け取ったらあなたはどう思うだろうか。実はそういう話がそろそろ出始めていて、知っている人は知っている。そして知らない人には何のことだかさっぱりわからない。




3G停波という言葉がある。要するに今使っている携帯電話が使えなくなるということだ。NTT DoCoMoは2020年代前半と言っているが、auは具体的に2022年という数字を出したようだ。このタイミングで5G向けに設備替えが行われるので3Gは使えなくなることになっている。例えて言えばテレビがアナログからデジタルに変わりブラウン管テレビが全てゴミになるようなことが2022年に起こるのだ。

だが、この3Gが何を意味するのかがさっぱりわからない。そもそも高齢になると「携帯電話というのはずっと使えるものだ」と思い込むようになる。自分が今使っている携帯電話機は6年目だがほとんど使わないので、電池パックを一度も入れ替えていない。携帯電話会社にも1300円ほどしかし払っていない。

何もわからない状態で「もうじき使えなくなる」と言われるととても不安になる。特にNTT DoCoMoは「ほぼ役所」なので、これについて問い合わせてみても「今あるメニューから選んで言い値で支払え」という立場だ。巷で言われている言葉とNTT用語の両方を覚えないと話ができない上に、操作担当、料金担当、ハード担当と別れており何人もと話をしてみて結局誰も答えを知らなかったという笑えないことが起こる。

この経験から、今回の停波ではシンプルなプランと電話とSNS意外はできないが価格が抑えられた端末を提供できたところが勝者になるのではないかと思った。

今回の3G停波では「FOMAが使えなくなりスマホだけになるんでしょ」などと思っていたのだが、実際にはスマホの中でも旧世代製品は使えなくなるようだ。ハードオフで調べてみたところ今売りに出ている端末はiPhoneを除いては、全て3Gのみか通話は3Gを使うものばかりだった。2022年に全てこれがゴミになるのかと思うとちょっともったいない気がする。もっともハードオフにはたくさんのアナログテレビがまだ置いてあって単なる在庫と化している。廃棄すると莫大な費用がかかるのだろう。

ご存知のように現在の端末料金は分かりにくい。10,000円で購入できますというキャッチコピーを信じてシミュレータを操作して行くと30,000円ですと言われたりする。なぜ「3倍も値上がりしたのだろうか」と思うのだが、実は毎月の通信料に値引きをかけたうえでそれを実質的に携帯電話料金の値下げというように説明していることから起こる誤解なのだ。だから端末料金を一括で支払うよりローンの方がトクというわかりにくいことが起きる。

ところがこれが変わりつつある。菅官房長官の「携帯電話料金が下げられます」発言から春に見直しが検討されている。だが具体的なメニューが全く出てこない。そこで「様子をみよう」として店頭から客足が途絶え、それを挽回するための売り文句として「2022年に止まるから今のうちに買い換えてください」というDMがきたのだと思う。

このため店の人は困惑するばかりで、auもNTT DoCoMoも「コールセンターではクレームになっているでしょうね」と、客足が途絶えた店頭で呆れていた。しかし新しいプランが「トク」を煽る頃には逆転して大混雑が起こるだろう。

自民党政権は選挙の時に「自民党のおかげで電話料金が下がった」と言いたい。キャリアは売り上げを落としたくない上に代理店に毎月の売り上げ目標を課しているから毎月何らかの施策を打つ必要がある。携帯電話メーカーは切り替えのチャンスに高い端末を売りつけたい。この混乱状況は計画経済が失敗して生産設備が誰も買わない高価な製品に張り付いたソ連の末期と同じである。違いは賃金上昇が見られないという点だけである。ちなみにソ連は賃金を上昇させたためにひどいインフレが起きたが、日本ではそれがないので金融緩和政策をとって企業を助けてもインフレにはならない。

こうなると、格安の会社が俄然魅力的に思えてくる。例えばイオンモバイルは「この端末を準備してくれれば、500MBまでならいくらで使えますよ」と教えてくれる。調べたところiPhone 4(もしくはiPhone3GSのシムフリー版)なら4Gで使えるようである。これが一番わかりやすいので中古を探してあったらゲットしておこうと思っている。国内製のスマホはいろいろな製品が混在していて分かりにくい。

単純なプランを準備している会社だと、NTT DoCoMoで数人と1時間以上話をしてもわからなかった問題が即座に解決してしまう。これは社会主義に慣れきってしまっているNTT DoCoMoが情報を複座にすることで顧客から選択の意思を奪っているからである。ブランデンブルグ門になっているのは顧客の「よくわからない携帯電話会社は怖い」という心理だけなのだ。

多分、選択肢を少なくして「とりあえずこれだけ払ってくれれば最低限のことはできますよ」と言えた会社が高齢者の心をがっちり掴むのではないかと思う。顧客が欲しがっているのはスーパーコンピューター並みの端末ではなく「とりあえずこれだけあればいい」という安心感なのだ。ビジネスインサイダーの記事は「本当に必要なのは「安さ」だけではなく「わかりやすさ」?」とクエスチョンマーク付きで伝えているが、クエスチョンマークはいらないと思う。多分2022年にはNTT DoCoMoは嫌という程自分たちの文化を反省するはずだ。

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聞きたい歌だけを聞きたがる日本人

最近、コメントなしでリツイートしてもらうことが増えた。このとき、この人は意見に賛成なのだろうか反対なのだろうかと思うことがある。まあリツイートくらい好きにしてもらっていいとは思うのだがちょっと気になるのだ。

このブログではこのところ「日本は村社会」で公共という概念はないという話をしている。さらに、日本人が文脈によって日本人という枠を伸ばしたり縮めたりすることを観察した。損はできるだけ排除し利得はできるだけ取り込もうとするのではないかと考えているわけである。

日本語で書いていて主語を日本人にしているので、主に日本人が読むことを想定しているわけだが、読んだ人は一体これを読んでなぜ怒り出さないのだろうか。

これを素直に読むと「あなたも私もそうなのですよ」ということになる。つまり、私もあなたも村社会の住人であり、ご都合主義で日本という枠組みを利用していますよねと指摘している。こう言われていい気分になる人は少ないだろうから、非難するつもりでリツイートしているのかなとも思うわけだが、もしそうなら何か言ってくるはずだ。それがないということはもしかしたら、この人たちはもしかして自分たちは日本人の枠の外にいると考えているのかもしれないなどと思う。

その意味では何もコメントのないリツイートにはその人の旋律があるのだなとも感じる。つまり、何も言わないことで聞きたい歌を聞いているのだ。

ITコミュニケーションはジャーナリズムとは違っており相互のコミュニケーションを通じて新しい歌が歌える。しかしそのためには背景にそれを可能にする文化がなければならない。しかし、いわゆるジャーナリズムを自身に都合良く解釈する私たちにはそうした文化がまだ育っていないのかもしれない。だから結局、ITを使っても一方通行のコミュニケーションになる。

お天気のよい日曜日の朝にいわゆるジャーナリズム風のゴシップ素材をみていてこのことを強く実感した。みんな驚くほどいい加減なのであるが、既存のジャーナリズムの担い手たちも「視聴者や読者は聞きたい歌しか聞かない」ことを知っており、進んでその歌を歌っているのかもしれないと思う。

政府の忖度という言葉を嫌っていた朝日新聞社もカルロス・ゴーンの問題に関しては検察とあうんの呼吸を見せている。朝日新聞社は「忖度」という日本の文化を嫌っていたわけではなく、単に自分が気に入らない政権が嫌いだというくらいの態度で政権批判をしていたのだなと思う。あるいは検察庁も朝日新聞さえ抱き込んでしまえば誰からも批判されなくなるだろうと考えたのかもしれない。大抵話をまぜっかえしてややこしくするのは朝日新聞だからである。小沢一郎の例を見てもわかるように、最初に強い印象がついてしまえばそこで勝負がついてしまう。カルロス・ゴーンも日産を追い出された時点で当初の目的は達成されたと言って良い。

フジテレビに至っては朝の番組でカルロス・ゴーン容疑者はブラジル大統領になりたがっており不正蓄財はそのために行われたという「ジャーナリスト」の声を紹介していた。一応、検証するポーズを見せていたが、多分それは何か言われた時に「あの人が勝手に言ったことだから」と言いたいからなのだろう。安倍政権にはあれだけ遠慮して何もいわないのに、話が検証されていないことをほとんど気にしていないようだった。

この番組はパトリック・ハーランにワールドスタンダードについて語らせている。白人の言葉をありがたがるであろう中高年サラリーマンの劣等感を刺激し、さらに彼らが好きそうな企業の噂話を拡散するというものが「ジャーナリズム的」に演出されている番組なのだ。

その上で文筆家と称する変わった髪型の人が「もちろん検察は日産と協力したわけでもなく」「日産がクーデターを起こしたわけでもない」と断言していた。体制に寄りかかって生きる視聴者にとってはこういうことはあってはならないことであり、社会は常に正解を提示しているべきである。この事件は日本を搾取しようとした悪の外人を正義の検察が守ってくれ事件であるべきなのだ。

これも政府に言わされているというより(それはあるのかもしれないが)自分たちが聞きたいあるべき姿について文筆家に語らせているのだと思う。万博がやってくる大阪の未来は明るく、ゴーン容疑者は落ちたカリスマ経営者で、日本の政治はすべて適切に運用されており、それを白人が承認してくれるというおじさんたちのパラダイスがそこにある。だから今日もビールのように見える発泡酒が美味しく飲めるのだ。

ただ、リタイアしてしまったもっと歳の上の人たちは政治は堕落してしまっておりけしからんと考えているはずだ。退屈なので見なかったが、裏番組のTBSではリタイアしたおじさんたちが喜びそうなことを関口宏が語っていたのではないかと思う。こうすることによって俺たちが現役の時代はもっと良かったと思える。さらに9時からはNHKでこれから日産はグローバルスタンダードの経営をしてコーポレートガバナンスをしっかりするべきだという討論が行われたのではないだろうか。実際にそれをやる人は誰もいないだろうが、他人事だといろいろ言えてしまうのだ。

こうした態度は嘆かわしいといえば嘆かわしいのだが、これが日曜の朝の正しい過ごし方なのだなあとも思った。自分が聞きたい歌を聞くのが悪いことだと誰が言えるだろう。

ただ、これが楽しいのはこの人たちが自分たちの村に守られているからである。そもそも公共もジャーナリズムも存在しない日本でこの村から出てしまうと誰もあなたのことを助けてはくれない。終身雇用のやさしさから排除され、戻るべき地域コミュニティもない「さまよえる村人」に歌を歌ってくれる人は誰もいない。

みな、他人の問題については聞きたい歌を聞きたいだけであり、それほど深い関心を持っているわけではないのだと思う。同時にそれは誰もあなたの問題について「正しい洞察」を与えてくれる訳ではないということを意味している。だからと言って彼らを責め立てたとしても彼らが別の歌を歌いだすことはないだろう。

日曜の朝の「ジャーナリズム」には真実はないが、おじさんたちが真実やジャーナリズムを求めている訳ではないという真実は見えてくる。と同時に「このジャーナリズム風の何か」が注意書き・但し書きとかコンプライアンスとか炎上への遠慮とか忖度とかに囲まれているということも否応無しに見えてきてしまう。リアルに見えているそれは実は単なる映画セットの背景の絵のようなものだ。昔の特撮番組でいうとすべて空を飛んでいるはずの飛行機についているワイヤーのようなものなのが見えている。ただ、昔の少年たちはそれほどワイヤーを気にしないのである。

心ある人たちはこの違和感をしっかりと凝視すべきではないかと思う。そしてそれはもしかしたら、我々が幻想の村から一歩足を踏み出そうとしている価値ある1日を作るきっかけになるかもしれない。

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ジャニーズはYouTube戦略を成功させるために何に取り組むべきなのか

最近ジャニーズの新しいYouTubeチャンネルを見つけた。SixTONESという名前のグループを滝沢秀明がプロデュースするようだ。SixTONESと書いてストーンズと読むようだが、これは英語圏では通用しないように思う。6人を宝石の原石に見立てて「磨けば光る」としたいのだろう。ジャニーズはオンライン戦略では遅れをとっているが、成功して日本のプレゼンスを高めてほしいと思う。

今回はこの滝沢プロデュースの新しいグループを観察しながら多様性について考える。例えば多様性を大切にする立憲民主党とこれまでの正解を守ろうとする国民民主党のどちらが未来に近いかというようなことがわかるだろう。

ジャニーズが遅まきながらオンライン戦略に取り組み始めた背景にはいろいろなきっかけがあるのだろう。第一にSMAPの分裂騒動をきっかけにしてオンラインで出遅れていることを発見したのではないかと思う。元SMAPの片割れの3人がオンラインに進出しそれなりの成功を収めていることからわかるように、ジャニーズはテレビ・ラジオは支配できてもオンラインでのプレゼンスがない。逆にいえばこの分野では伸びしろがあるということである。草彅剛のチャンネルの登録者は80万人を超えたそうだ。

今のジャニーズのマネジメントチームは高齢化しておりYouTubeの仕組みなどを理解するのは難しいだろう。滝沢秀明はまだ若いのでこの分野について学ぶことができる、また、YouTubeにも日本でのプレゼンスを増したいと考えがありジャニーズと組むのは悪い話ではないと考えているようだ。SixTONESは日本初のプロモーションキャラクタとして選定されたようだ。

SixTONEの曲調はK-POPを意識した作りになっており、ジャポニカスタイルというように日本風を唄っているところからK-POPの成功も意識しているものと思われる。海外進出に取り組んだところまでは評価できるのだが、「日本を輸出する」という点においては完全に読み違いをしている。彼らはK-POPが正解だと思っているのだろうがそれは単に表面上の問題に過ぎないのである。

日本のアーティストは「この壁」が超えられない。政府との結びつきが強すぎる秋元康はすでに右翼扱いされており海外には出られないだろう。これは秋元が政府の考える正解を正確に再現してしまったためであると考えられる。またEXILEも政府系イベントで通り一遍の日本らしさを演出するに止まっており先行きは難しいものと思われる。新潮45や産経新聞社のように、人権と民主主義に理解のない今の体制を擁護する側に回ってしまうとその他のマーケットを全て失ってしまう。「外見的な正解」は人を無能にしてしまうのである。

多分、彼らは「自分たちが何者であるのか」ということを考えたことがないまま日本を輸出しようとしているのではないかと思う。ゆえに改めて日本を演出しようとすると、ハリウッドが勘違いして誇張した日本コスプレのようなものを自ら演じることになってしまう。自民党の憲法草案の序文の薄っぺらさからも日本人が対して自分たちの国をよく理解していないことがわかる。

今回のMVを見るとわかるのだが、着物、富士山のような形の照明、日本風のセットなどがあり「俺たちはジャポニカスタイルでユニークだ」というような歌詞が歌われる。だが、いったい何がユニークなのかということが全く語られない。わびさび、華麗、儚さと唄っているのだが、多分歌詞を書いた人たちも、いったい何が日本風の価値観なのかということは説明できないだろう。彼らは「これが正解でしょ」と一生懸命なのだが、それが何一つ伝わらない。

日本のアニメが海外で成功したのは高度経済成長期からポストバブル期にかけて「なんとなく違和感があるがそれがはっきりとしない」という価値観を海外と共有したからではないかと思う。実写では表現できないから「絵に逃げた」とも言えるし、日本人は大人になってもアニメを見る習慣が抜けないので子供向けではないアニメ市場があったからとも考えられる。大人になってもアニメを見ている人たちは外向きでは立派な社会人を演じながらもどこか「そうでない選択肢もあったのになあ」と感じていたのではないかと思う。日本のアニメの担い手は正解の外にいたので海外に広がることができたと言える。

いわゆる大人向けのOVA作品と子供向けのアニメやヒーローものとは違うのではないかという人もいるだろうが、日本のアニメの作り手たちは単に子供向けのお話を作っておもちゃが売れればいいとは考えていなかった。商業主義的な限界はありつつもそこになんとか彼らが持っている違和感を入れ込もうとした。これは当時正解だった純文学に彼らの居場所がなかったからだ。彼らはのちに正解になることを求めてSF文壇のようなものを作ったがこちらは長続きしなかった。

アメリカ人は防弾少年団を見て「自分たちと同じような音楽を肌感覚で理解し」なおかつ「多様な世界での自己の受容」という基本的な価値観を共有しているということを感じたのだろう。同時に文化的な差異を「発見」してそこにエキゾチズムを見出す。つまり出発点は内心になっており、そのあとで外見に目をつけるという順番になっている。これは日本のアニメが受容されたのと同じ道筋だ。

ところが均質な世界に住んでおり周りに合わせたがる日本人はこうした意味での内心を持つ必要がない。共通点となる内心そのものがないので、今の欧米では共感を得るのは難しい。しかし、たまたま防弾少年団がそうだったのではないかと思う人もいるかもしれないので、別の例をあげたい。

日本のオンラインで成功している人に渡辺直美がいる。渡辺直美のインスタグラムは840万人のフォロワーを擁しているそうだ。彼女の提供している基本的な価値観は「太っているが自分らしく輝いている女性」という従来のファッションアイコンとは違ったキャラクターである。グッチのキャラクターにも「ただ可愛いだけじゃないモデル」として選定され、そのバッシングの過程もニュース(ITメディア)になるという具合だ。ただ、彼女は母親が台湾人のバイリンガルであり、その意味では「普通の日本人」とは違ったアイデンティティを持っている。これがいったん海外で受けて、その評判が日本でのファンを増やすという構造になっている。

実は日本のインスタグラムのフォロワー数の上位3名はいずれもマルチカルチャーなのである。2位はバングラディシュ人の父親を持つローラで、3位は在日韓国人の母とアメリカ人の父を持ち日本語環境で育った水原希子なのだそうだ。つまり、日本でもこうした多様性を持った人たちが受け入れられ始めているということがわかる。海外の評判がダイレクトに日本市場に伝わってくる土壌ができつつあるのだろう。

ここからわかるのはいわゆる内心が生まれるためにはアイデンティティの複雑さが必要ということである。「普通の」日本人はこうしたアイデンティティの揺らぎを感じないまま日本の公教育を受ける。集団と一体化してしまうのでアイデンティティクライシスを感じることはない。ここから除外されたと感じても「自分たちが正解である」と主張する。Twitterで行われているのはこの争いである。彼らは正解などない世界で正解を求めて闘っているのだ。

日本人が正解を求めて戦う一方で多様性の当事者たちは自分たちが多様性を代表しているなどとは言わない。一人ひとり違った成り立ちがありそれを受け入れてほしいと感じているだけである。だから「多様性」などとひとくくりにしてそれを正解と祭り上げているうちは多様性が理解できない。

バイリンガルはわかりやすいアイデンティティの揺れである。しかし、この他にも例えばフレディー・マーキュリーのように「普通とは違ったジェンダー意識」を持っている人たちもアイデンティティの揺れを感じやすい。したがって内心を育むチャンスに恵まれるということになる。

日本のアニメが受け入れられていた時代と比べると世界はより複雑化している。だから、こうした揺れと揺れに伴う価値観の提示がトレンドになりつつあるのだろう。

一方で均質な社会出身の人たちは別の工夫をしている。

以前JYPの国際戦略として、わざと外国人を混ぜるという戦略を観察した。チーム内にアイデンティの揺れを作ることで国際社会への展開の足がかりを作ろうとしているのである。ある7人組のチームにはタイ系アメリカ人と韓国系アメリカ人がおり、これを移民として渡った別のメンバーが橋渡しをするというような構成になっている。このようにアイデンティティの揺れは人工的にも作り出せる。韓国も比較的均質な国であり、海外移民を加えて揺れを出さないと国内組だけで固まってしまう可能性があるということを意味しているのだろう。

ジャニーズの取り組みは最初の一歩であり、道を間違えなければここから発展する可能性はあるのではないかと思う。

旧来のジャニーズはテレビでファンを開拓しそれを強度に組織化することで成功してきた。音楽レーベルに対してチャートの上位に常に入る「売り上げの見込みが立ちやすい」アーティストが効率的に供給できていた。ところがこれが今では裏目に出ている。最新のチャートを見ると上位に1組くらいはジャニーズのアーティストが入るが後が続かない。代わりにYouTubeで大量露出された韓国人アーティストが韓国語のままで複数チャートインするという状態になっている。

旧来のファンが組織化したまま高齢化していってしまうことから見ると、いったん出来上がってしまった組織に後から新規のファンが入るのは難しいのだろう。ここに捕まってしまうとそこから抜け出せなくなるという未来が容易に想像できる。滝沢の場合は国際戦略に合わせると「これは今までのジャニーズではない」と言われるだろう。

実はアンチというのは違和感の結果であり、今後成功できるかどうかの指標になっているのである。単に炎上を目的にアンチを生み出すのではなく、存在そのものに違和感を感じさせるようでなければ未来はないのだ。これは実はエンターティンメントだけではなく、政治にも言えることなのではないかとおもう。

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要望を聞くことの大切さと難しさ

実はアンケート欄が嫌いだった。フォームを設置しても閲覧数ほどにはレスポンスが集まらないので「無視されている」感じがするからである。だが、今回防弾少年団の記事に注目が集まっているので試しに置いてみることにした。検索でたくさんの人が訪問するのだが、いったいどんな気持ちで検索してくるのかがわからなかったからである。

フォームを設置したからといってすべての人の要望がわかるわけではないが、時々フィードバックを求めるのは大切だと思った。しかし、その大切さは当初思っていたのとは少し違っていた。アンケートフォームは読者サービスなのである。

今回のフォームは公共や政治についての態度について聞くものと、防弾少年団の原爆Tシャツ問題について2つ設置した。結果を軽くまとめてみたい。

公共や政治についての態度は当初予想した通り「現状の政治に満足できておらず」なおかつ「政治家は選挙区のことばかり考えているべきではない」というものが多かった。回答数はそれほど多くないので統計的には使えないが、約10名のうち1名は「専門家にまかせるべき」と回答し、自由回答として「課題は有権者が見つけるべきだが、解決策は政治家が作るべき」と書いた人がいた。

防弾少年団の方も約10名の投票があった。謝れという人と日本での活動をするなという人を合わせると80%になった。しかし、アンケートに答えてくれた人のなかで「防弾少年団を非難しようとして情報を集めに来た」との回答は2つしかなかった。擁護する情報が集めたいという人が2つあり、予断なく情報を集めたいとしたものが3つだった。1名は「擁護したいが予断なく情報を集めたい」と複数回答しており、ファンの揺れる気持ちがわかる。アーティストしては応援したいが、日本では原爆に肯定的な意見はほとんどないので、被害者感情が優先されるべきだろうという気持ちが強いのだろう。

防弾少年団のフォームを作った時トピックに関する意見を聞こうと一問だけの設置にしたのだが、少し時間が経過してから思い立って「なぜ検索してきたのか」という設問を設けた。最初の設問はトピックに焦点が当たっているのだが、置いてから、新しく加えた設問は「あなた」に焦点が当たっているという違いがあるなと思った。これが今回の一番大きな発見だった。

普段「日本人は議論ができない」と書いていることからわかるように、どちらかといえばトピック型人間で、あまり誰が言っているのかということは重要だとは思っていない。むしろ、誰が言ったから受け入れて、誰がいったから受け入れないという態度は問題解決には不向きだとすら考えている。ところが、実際に読んでくださっている人はやはり文脈を意識しているはずで、だからこそ自分の文脈が表明できるならそれを記録に残しておきたいという人もいるのだろう。つまり、文章を書くなら自分の考えを述べてもよいのだが、フィードバックフォームは相手のフレームワークを分析したり気持ちに共感したりしないと作れないということになる。

当たり前のことを書いているように思えるかもしれないのだが、こういうことになかなか気づけないのである。なんでも試行錯誤してやってみないとダメなんだなと思った。アンケートフォームを置いて「なんだフィードバックがないじゃないか」と感じると無視されているように思ってしまう。だからあまりコメントやアンケートは重視しなかったのだが、一人でも「こういうものを期待して読みに来た」と言いたい人がいるならば、時間をもらって読んでいただいている以上はそれを知った方が良いのかもしれない。

まとめると、アンケートは「トピックについての態度や意見」について聞くものではなく、実は「訪問してくれた人のことを知りたいと思っているのですよ」という態度の表明にもなるのだなと発見できたということになる。これは本や雑誌にはないITならではの特徴だ。

ただし、レスポンスが得られたという感動に浸ってばかりもいられない。今回は失敗も多かった。

当初、冒頭にアンケートを置いて滞在時間が減った。特にスマホの画面だと「限られた時間で効率的に情報だけ収集したい」と考える人が多いのだろう。こういう人は冒頭に面倒なアンケートが置かれると逃げていってしまうのではないかと思う。ということで、途中で位置を下げた。

まず、設問をチェックボックスにしてしまったので、複数回答が可能になってしまった。もちろん、途中で質問を一つ足すというのも、統計を取るためには正しくない判断だ。

また、選択制の設問だけでなく、テキストの入力にも対応している。イベントの予定を立てるために日付を入力してもらうことも可能である。自分が投票してしまうとテストができないとぶっつけ本番でやったのだが、よく考えてみると単にテストフォームを作ればいいだけだった。事前に練習すればよかったと反省もした。

さらにGoogleフォーム独自の限界もある。

今回はメールアドレスを取得していない(取得すると管理の手間が出てくる)ので、一人が何回も回答できる。設定上回答してくれた人には結果が見えるようにしているのだが、それでもブラウザからバックボタンで戻ってフォームを再送信すると二回カウントされる。またブラウザーを変えたりCookieを消去したりすれば何回も投票が可能だと思う。場合によっては、悪意のある第三者が結果を誘導することもできるようになるだろう。

今回使ったGoogleフォームは簡単にアンケートが設置できて便利なのだが、答えなかった人に結果だけを自動表示してくれるような機能はない。ブログの場合いつアンケートを閉じるのかという問題もあり、答えていない人には何人が投票してくれたのか、またどういう傾向になっているのかがわからない。このため期間を限定して質問した上で、結果は別ページに掲載するなどの運用上の工夫も必要なものと思われる。

ただ、Googleは、Googleフォームを、レジャーの計画を立てたり、イベントのフィードバックのために利用することを想定しているようだ。

先に述べたように、政治的主張の正しさを正当化するために「みんなこう言っていますよ」と言いたい欲求はある。ただし、それをやってしまうといわゆる「アンチ」と呼ばれる人が投票を荒らしに来ることもあるだろう。また、書き手としてはつねに「褒めて欲しい」という欲求はあるが、これも評価フォームを置いて結果が期待通りでないとかなり落ち込むことになるだろう。あくまでも「相手の声を聞く」という姿勢でやらないとアンケートフォームはうまく機能しないのではないかと思う。

だが、それでもきちんと使えばある程度読み手の期待は感じられるのではないかと思う。課題も多かったが設置してよかったと思う。ご協力いただいたい方々には感謝したい。

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ネトウヨおじさんと日本の学校教育の欠陥

今日のお話はネトウヨと日本の学校教育の欠陥についてである。誰にでも(もちろん私にも)当てはまるところがあるので、自分ごととして読んでいただきたい。

ある人がTwitterで池上彰に噛み付いていた。池上彰が「国が借金をし続けたらお金が消えてなくなる」と言っているというのだ。添付してあるビデオを見てみたのだが、そんなことは言っていないのでそうリツイートした。するとツイートした本人からフォローされた上で「直接は言っていないが池上彰は確かに貯金が消えると言っている」と主張する。本人は続けて「こんなことはお金が消えてなくならない限り起こらない」と言うツイートを送ってきた。

この時点でこの人がわからない点がわかった。お金が消えてなくならなくても価値が失われるということが起こり得るのだが、その可能性に気がついていないようだ。国が個人から一千万円の借金があったとして、それが「一夜のうちに」千円分の価値しかなくなれば、実質的に国は借金が軽くなり、国民は財産を失う。これを一般的にハイパーインフレと呼んでいる。ハイパーインフレは課税の別形式(あるいは実質上の政府課税)と言われることがある。

池上彰はかつて日本で起きたハイパーインフレを念頭に置いているのだと思う。が、池上には失念していることがあるようだ。つまり、これを知らない人が脳内の常識で「勝手に」穴埋めしてしまう可能性を忘れているのだろう。何も知らないのがあたりまえの子供には起こらないが、大人は「予断を持つ」ことがあるのだ。

日本は第二次世界大戦の時に軍票を印刷して戦費を調達したので戦後になってハイパーインフレと財産課税が起きた。Wikipediaでは敗戦の混乱からハイパーインフレが起きたと説明しているが、Diamond Onlineにもうすこし分かりやすい説明があった。戦前から返せる見込みがない金融政策が行われており、戦後になって破綻が表面化したと説明している。ただし、これでも金融は安定しなかった。そこでアメリカから専門家が呼ばれて急激な財政緊縮を行われた。この緊縮財政をドッジラインと呼ぶ。この一連の出来事が安倍政権が2012年に政権を取った時に話題になったので、池上はこれを「当然のことであり興味がある人は理解した上で知っているだろう」として議事を進めているのだ。

だが知ってはいても内容を理解していない人もいるということになる。実際に安倍政権の側からは「日銀が面倒を見てくれれば消費税増税さえも必要がない」という主張が出ているし、自由党も「今は財政出動だ」と言っている。これは言い換えれば「政府がなんとかしてファイナンスしろ」と言っているのと同じである。この副作用に言及せずに支持できる人が多いところをみると、仕組みを理解しないで結論に飛びついてしまう大人が多いということがうかがえる。

Wikipediaによると1945年から1949年の間に物価が70倍に上がったそうである。1000円が14円の価値になったということになる。1000円でうまい棒が1.4本しか買えなくなったというとなんとなく感覚がわかるかもしれない。

池上彰に突っかかった人は「自分が理解できない点」を常識で補っていたことになる。だが、自分が何がわかっていないかということがわからないがゆえにどこを常識で補っているのかがわからないのである。ところが、相手を避難する時には「経済政策をわかりもしないでいい加減なことをいうものではない」と言っているので、自分は経済について知っているという自意識を持っていることもわかる。

なぜこのようなことが起こるのだろうかと考えた。しばらくして思いついたのが日本の学校教育の特徴だ。穴埋め式のテストが主なので日本人は知識を溜め込むことを「穴埋め」の概念で捉えがちなのではないだろうか。大人は知識量が豊富なのでいろいろな穴を埋めることができるのだが、中には単なる勘違いや予断なども多く含まれていて、正確な知識とそうでないものの区別がつかないのだろう。だが、穴埋め問題は穴さえ埋まってしまえば一応の答案が作れる。答え合わせの必要もないし、そもそも問題が間違っているかもしれないなどと疑う人はほとんどいない。「先生が間違った問題など出すはずはない」からである。

だが、こうしてできた知識体系が常識外の主張と出会うと摩擦を起こす。大人は心の中で過去に解いた穴埋め問題をたくさん知識として蓄えている。だから彼らが「お金が消えて無くなるはずはない」と考えるのはとても自然なことである。このチャンネル桜を視聴しているという方はこの「常識」を知っているからこそ池上に反論したということになる。

だが、よく考えてみると、普通の大人が金融政策に詳しい必要はない。実際に「戦後のハイパーインフレと預金封鎖の説明をしろ」と言われたら答えられないと思う。だが「仕組みがよくわからない」ということは自覚しているので、他人に説明する前に下調べをしたりする。その時に「なぜ、日本人は短い期間の間に財産を失ったのか」という疑問を持つことが大切である。つまり、知っていることではなく、知らないことに着目するアプローチもあるのだ。

だが、よく考えてみるとこれはかなり贅沢なスキルであると言える。日本人は大学まで穴埋めで過ごすので、小論文(つまり他人に何かを説明すること)を書くチャンスが少ない。人によっては小論文が卒論だけだったという人もいるのではないだろうか。そのあとの社会人経験でも経営陣や経営企画室が考えた筋に従って穴を埋めてゆく仕事が多いので、自分で何かを調べたり身につけたりするスキルを持たないままで大人になってしまう人の方が実は多いのではないかと思った。

だから、ネトウヨの人たちの決め付けたような言い方を聞いても「バカだなあ」とは思えない。そういう教育を受けているのだからそういう大人が量産されて当たり前なのだ。だが、その一方で価値観や世界観が急速に変化しており、この穴埋め式だけでやって行けないことも確かである。

一般的な常識では「借金は真面目に働いて返さなければならない」し「政府が国民からお金を取り上げるような酷いことをするはずはない」ので、池上さんに反発するのも当たり前である。今回の議論を通じて池上彰の番組は見ないほうが良いのではないかと思った。子供にわからないことを伝えることはできても、常識でガチガチに固まった大人に短い時間で「一見ありそうもない」ことを説明してしまっては却って誤解や反発が生じかねないからである。

今回もう一つ感じたのが社会的方言の大切さだった。タイムラインをみると多分同年代からそれより上の方のようである。「チャンネル桜を見ている」と書いているのでもしかしたら定年されているのかもしれないなと思った。そこで、普通の日本語ではなく「おじさん言葉」で返信することにした。「おじさん言葉」はかつてサラリーマンの間で使われていた共通言語だが今では社会方言化している。すると返事がなくなった。

もし仮に普通の日本語で書いていたら「この人は若いのだな」と認識されて罵倒されていたかもしれないと思った。つまり、我々の年代から上の人は女子供をみると居丈高になりかねないのである。「社会常識的に」女子供は補助労働者だという認識があるので「この人はバカにしてもよいのだろう」と思うのではないだろうか。店頭でおじさんが女性店員に上から目線で話しているのをみると実に嫌な気分になるが、これが一般的に浸透してるのもまた確かなことだ。

おじさん語というとわざとぞんざいに話すことだと考える人も多いと思うのだが、実際には相手の面子を立てるためにあらゆる手段を使う。今回も「知識がおありのようなのですでにご存知ですよね」と書いたので、それ以上突っ込まれることはなかった。これも「先生や年長者は文句なしに偉いのだ」という学校教育を引きずっているように思える。実際に走らないことが多くても、やはり知識がある大人としての体面は保ちたい。しかし、妥協したりへりくだったりするのもよくない。逆に侮られてしまうからである。「おじさん語」は実に面倒な社会方言だ。

さて、この穴埋め世界観の脱却ということを考えていて問題に直面した。穴埋め世界観から脱却して疑問を持つためには「人に説明をする」という機会を作ることが重要である。だが、人に説明をするために調べ物をするという機会を日常的に作るのはとても難しい。

多くの人が知っていることではなく、知らないことを自覚できるようになれば政策議論も進みより暮らしやすい世の中が作れるとは思うのだが、自主練はなかなか難しい。結局「学校でディベートや論文を書く時間を増やすべきだ」というありきたりな結論になってしまったが、学校を卒業した人が今から学びなおすのは不可能なので、できれば「エア説明」をしてわからない点に目を向ける訓練をしたほうが良いと思う。

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