政治スペースのモデレーションをしていると時々「厄介な」質問がつく。それが中国と韓国問題である。Quoraの日本語版には弁の立つ中国系がいる。彼らは「理」で押してくるので日本人は太刀打ちできない。だが、韓国系・韓国人はあまり目立たない。このため日本人の立場だけが盛り上がり最終的に在日排斥などの「ヘイト」に結びついてしまう危険性がある。これが示威行動に結びつき「容認された」と最終的にアメリカのような直接行動に結びつきかねないのである。理論的には表現と物理的暴力は別物のはずなのだが実際には地続きになっているという複雑さがある。
“慰安婦賠償判決における韓国の心情司法の問題点” の続きを読むDHCの会長が人種差別的発言をしてしまうのはどうしてか
DHCの会長が在日朝鮮人を屈辱するような言葉を使って炎上していると言うAFPのニュースをみた。問題になっているのは「使われている言葉」のようである。ネットで叩かれていると書かれていたのだが、実はこの問題を知らなかった。それくらい局所的な争いでありマーケティングにはさほど影響はなさそうだ。ただDHCの経営は大丈夫なのかなとは思った。
“DHCの会長が人種差別的発言をしてしまうのはどうしてか” の続きを読む守屋光治
本日はライトユーザーについて考えるのだがなぜかタイトルは人名である。守屋光治という人がいる。Men’s Non-Noの専属モデルをやっているそうだ。先日この人のYouTubeチャンネルを見つけた。正確にはMen’s NON-NOのウェブ担当のようである。Men’s NON-NOのモデル中でも特に洋服に詳しく大学で服飾の勉強をしたという。今ではエディターとしてもページを持っているそうだ。モデル兼エディターという華やかな経歴である。
“守屋光治” の続きを読む不安を言い出せない社会と拡散するデマ
先日スーパーでパンがなくなったという話を書いた。不安な人が多いんだろうなあと思ったのだがQuoraやTwitterでは未曾有の台風なのだから備えて当然だというコメントをいくつか頂いた。もちろん備えるのは悪いことではない。
しかし、別の店にはまだパンがあった。多分テレビで情報を見て心配になり、買いに行ったら実際に品薄になっていた。そこで心配になり余剰の購買につながったのだろう。つまり今回強調したいのは備えることの是非ではなく、その行動が合理的かどうかである。合理的でないとしたらなぜそうなるのかということだ。
まずなぜそうなるのかという点から考える。今回は「身近に危険が迫っている」というメッセージがあった。さらに過去に南房総の住人がひどい目にあっているという情報も流れてきた。ところがソリューションを提供する人がおらず(マスコミは情報を流すだけなので地域コミュニティがなんとかすべきだった)解決策が見つからない状況になっていた。すると人々は過剰反応覚悟で備えるしかなくなる。
単純に言えば「地域コミュニティの不在」が招いた事態といえる。マスコミは情報を伝えてはくれるがコミュニティまでは作ってくれない。そんな中で砂つぶのようになった人々が情報を受け取るとこうなるのだ。
砂の粘度が現れているのがコミュニケーションの不在である。
今回見ていて「だれも何も言わない」ことがとても気になった。高齢者が棚をぐるぐると回っている。歩いてもパンは見つからない。とはいえ騒ぐ人もいない。なぜならば災害はまだ起きていないからである。つまり「未然の状態」なのだ。
高齢者が何も言わないのは彼らが戦後の混乱期という自己責任社会に育ち、今まただれも頼れないという時代を生きているからだろうと思う。加えて未然の状態であり目の前に明白な危機がない。漠然とした不安を抱えると人は合理的でない行動を取る。
彼らは「迷惑をかければコミュニティから排除されて捨てられる」という社会を生きてきた。だからよく「迷惑はかけられない」という。中には電車に乗って席を譲られると逆に怒り出す人がいる。彼らにとって迷惑をかける人というのはすなわち社会の厄介者であり無価値な存在だということになるのだろう。助けが必要な人ほど引きこもってしまうのだが、普段はそれが目に見えない。
と同時にそれは彼らが「役に立たない存在」向けてきた刃でもある。今でも、電車に乳母車と一緒に乗ってくる人たちに向けられる「迷惑だから家にいればいいのに」という暗黙の視線である。これは、現在の少子化につながっている。個人が自己責任の殻に引きこもっているが故に協力して全体最適を目指すということができないのだ。
ところが黙っているのは彼らだけではなかった。お店の人たちも何も言わない。話題を振ってみたが凍りついた笑顔で対応されただけだった。こちらは別の理由が考えられる。彼らはパートで発注権限がない。このために物資がなくても何もできない。多分そういう気持ちがあって目の前の問題を見てみぬふりをしてきたのだろう。この地域は一週間電気が止まっており恒常的に品薄が続いていた。そのときも何もしなかったしできなかったのだろう。現場からの声がなければ発注側は異常に気がつかない。
今回の台風被害ではあらかじめ想定されていた風害と停電に対しての初動は早かった。役所がフォーメーションを組んでおけるからだ。しかし今後予期せぬ洪水に対してどう対処したかが検証されることになるだろう。今の役所には権限がない。このため事前に決めておいた通りにしか動けない。日本社会の雇用環境が硬直化しておりリーダーが権限を握りしめているために柔軟に動けない。
高齢者は声を上げず現場もなにもできない。こうなると、全体が沈黙を守ることだけがパニックを防いでいるという状態になる。不安は封じ込めるしかない。すると当事者たちは自己防衛的な気分を強めてゆく。今回は局地的な品薄という問題だった。多分貯蓄を抱え込んで使わないというのも同じ気分に由来するのではないかと思われる。だが、社会がない以上そうするしかないのだ。我々が見ているのはかつて我々が作ってきた社会の廃墟であってその中身は多分かなり荒れ果てている。
沈黙が問題を解決しないのは明らかである。問題が解決しないのだから不安はいつまでもなくならずさらに全体的にみると合理的でない行動が繰り返される。多分、必要なのは「パンがなくて大変ですねえ」と笑ってみせることだ。だがそれをやろうという人は誰もいなかった。
この裏返しとして台風19号は未曾有の大きさの台風であり地球最大のカテゴリー6クラスであるというデマまで飛んだ。江戸川区が浸水して1週間は帰れないだろうと断言する人たちもいた。解消できない不安は匿名の情報空間に反動的な情報を拡散させる。実際に台風19号は広い範囲で浸水被害を起こしている。だから、Twitterには信頼できる情報だけを流すべきだ。それでも、不安の中で人はありもしない情報を拡散させ、またそれを信じてしまう人が出てくるのである。
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なぜ障害者や韓国に冷たい人が増えたのか
最近、ものすごく疑問に思うことがある。れいわ新選組が障害者を2名国会に送り込んだことに腹を立てている人がとても多い。この理由がわからないのだ。
れいわ新選組は確信犯的に障害者を国会に送り出したのだろう。口ではバリアフリーなどと綺麗事を言ってはいるが、国会議員のような崇高な激務は重度障害者にはこなせないと誰もが考えている。山本らはそれを可視化しようとしたのではないだろうか。特定枠で「とても仕事ができそうにない人」を送り込んだらどうなるのかと考えた人がいたに違いない。ここで周囲が戸惑えば山本太郎の勝ちである。国の障害者対策(さらに弱者対策と称される様々な対策)の欺瞞が証明できる。ここまではとても合理的である。
維新の会がこれに反対するのもわかる。維新もポピュリスト政党なのでれいわ新選組とN国に絡んでいる。お客を奪われるのは面白くない。これも合理的な反応である。
ただ、障害者が国会に入って、周囲がサポートをすることに腹を立てている人がいるのが理解できなかった。対応は参議院の仕事だし、お金を出すのは参議院か厚生労働省である。別に怒っている人に直接的な迷惑がかかるわけではない。にもかかわらずこれに腹を立てている人は意外と多いのである。
そこで最初に「自分は省みてもらえないのに誰か別の人が優遇されているように思えるのが不快なのでは?」と考えた。私は勝手にソーシャルアカウンティングと言っているのだが「人間関係の帳簿」を日本人は持っている。でもそれは、どこか回りくどい説明だなと思った。
それがいきなり「あ、わかった」と思えるようなことがあった。PCモニターが壊れたのだ。多分部屋が暑かったからだと思う。1年前にも同じような経験をしていて「ああまたか」と思ってしまった。そこで別のモニターを接続して……などと考え、この暑さで別のものも壊れてしまうかもしれないと不安になってしまった。
やりたい作業があるのでテレビモニターを外してきて応急的に環境を作った。そこでQuoraやTwitterを見ていると無性に腹が立ってきた。世の中には不平不満を言っている奴が多いと思ったのである。わがままな奴らはみんなそのまま黙って消えてしまえばいいのに!と沸点に達した瞬間に「あ、これだ」と思った。
モニターのバックアップを持っていることからもわかるように、常日頃からパソコンが壊れるかもしれないという不安がある。なぜ不安なのかというと調子が悪いものをだましだまし使っていた時期が長かったからである。結局は累積した不安がストレスになっていて、何かあるとそれが顔を出してしまうのである。
適切な範囲で問題が与えられると人間は快感を感じる。人には解決する喜びがあるのだろう。だが、許容範囲を越えると今度は逆にものすごく腹が立ってしまう。人間には心理的に受け入れられるキャパシティを超過すると「問題そのもの」をなくしてしまいたくなるのかもしれないと思った。
気がついたことがいくつかある。問題が溢れている時に長ったらしい文章(例えばこのブログのような)を読みたい人など誰もいない。つまり、長い文章は炎上する可能性は低いだろう。Twitterでしょっちゅう炎上が起きている理由がわかったような気がした。Twitterは腹をたてるのにちょうどいい長さなのである。
Twitterはいつからか政治ネタでの罵り合いの舞台になっている。閾値を超えた時点でこれを見ると「黙れ!」と言いたくなるだろうなと思った。多分、単に興奮状態で反応しているだけなのだろうなあと思った。
さらにテレビも消してしまった。なぜかテレビには解決しなければならない問題が溢れており、しかもどの問題も不思議と一切解決しない。ただ、そもそもなぜそんな番組をわざわざ好き好んで見ているのかがよくわからないなあと思った。だが、習慣とは恐ろしいもので昼に名倉潤さんの鬱騒動について見てしまった。考えた上の行動ではないんだなあと思った。
問題の解決は多分情報を遮断することとストレスを減らすことなのだろう。だが、それは意識的にやらないと難しそうだ。ストレスに溢れた情報には刺激もあり興奮状態だとまた刺激を求めそうになる。つまり情報刺激には禁煙のような治療が必要なのだ。
情報ストレスの解決には治療が必要なのだろうが、もう一つのストレスはお金で解決できる。ストレスを減らすためと称して中古ショップにゆきFull HDのモニターを買ってきた。今前の画面よりもずいぶん広くなったモニターでこの文章を書いている。テレビをPCモニター代わりにしてもいいやと思ったのだがここは贅沢をさせてもらった。その代金は1500円だ。壊れてもまた買ってくればいいくらいの金額である。
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高齢者の嫌韓はなにが問題なのか
韓国について二つの全く違った記事を見た。一つは中高生に関する記事で、もう一つは老人に関する記事である。
最初の記事は「インスタから紐解く、女子高生に「韓国」が人気な理由」というものだ。韓国人は「自分をよく見せることに積極的」な人が多い。SNSを通じてそれが伝わり日本人の中高校生も韓国が好きなるというのである。一度そういう印象がつくと、あのハングルでさえも丸くて可愛い文字に見えるらしい。
もう一つの記事は毎日新聞のもので「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」というタイトルがついている。「よくわからない」とするものの、定年退職などで社会と切り離されたときに嫌韓発言に出会い「社会正義に目覚めた」という人が多いのだという。
韓国という一つの国に対する感覚が世代によって全く異なっているという点が面白い。ある人たちは楽しい韓国で気分が「アガり」別の人たちはコリアヘイターたちに囲まれて日々苛まれ続ける。
日本敗戦当時のアメリカに対する心象を除いてここまで両極端に反応が出る国というのは他にないのではないかと思う。アメリカですら普通の国民はあっさりと親米に転じてしまう。今では一部の人たちが反米感情を持ったまま孤立しているだけである。
反米感情の場合「戦争に乗ってお金儲けをしてやろう」という人たちはあまり傷つかなかったかもしれない。しかし純粋に日本を応援していた人たちには気持ちの持ってゆきようがなかったのではないだろうか。そこから類推すると現在の嫌韓は「企業人生を全うすればいいことがあるだろう」という期待が裏切られたのに行き場がないということなのかもしれない。そう考えると毎日新聞の「いまひとつ納得感が得られない」というのも当たり前の話だ。
もう一つ重要なのはパーソナルな情報空間という現代特有の事情だ。記事を読み比べるだけでも、世代間で接触するメディアが全く違うのがわかる。若い人たちはYouTubeやInstagaramなどできれいな韓国を知っており、自分を成長させるために新大久保に行くのだろう。将来が開かれていると感じている人は楽しいことを探し、自分のためにお金を使う。一方、中高年が触れるのは嫌韓本とそれに付随したSNSアカウントだ。つまり本を売るためのプロモーションに影響されてしまっているのである。彼らは本を売るために利用され続けるのだ。
若い世代は「自分をよりよく見せるため」のモデルを探している。INF危機を経験した韓国は競争社会になっており「他の人たちよりもよりよく見せる」ことが重要な社会だ。良し悪しは別として、まだ変化の余地がある日本の若い世代もそれに適応しようとしているのかもしれない。日本も「個人ベースの競争社会」に変わりつつあり、これまでのように謙虚にしていては埋もれてしまうというという社会になりつつあるのかもしれない。
では、嫌韓の問題は何なのだろうか。
高齢者は家に閉じこもりネットで選択的に限られた政治的な記事を読んでいる。そうしてそのような記事は問題解決ではなく、部数を伸ばすために読者が敏感に反応するコンテンツを提供しつづけなければならない。彼らは蓄積された資産の一部をそうしたメディアを応援するために使い続けることになるだろうが、後には何も残らない。
日本人には強い同調傾向があるのだが、接触メディアによって周りの見え方が全く異なってきてしまっていることがわかる。若年層が重要視するメディアは「解説なしの」ローマテリアル(原材料)であり、中高年層が見ているのは「解説記事だ」という違いがある。これは「憎しみを利用して物を売る」ためにはより多くの加工が必要という事情があるのだろう。
重要なのは韓国に親しみを感じる人はなんらかの自己表現について学ぶということだ。飽きたら韓国への興味は消滅してしまうかもしれないが、自己表現技術は残る。一方嫌韓は「憎しみマーケティング」なので参加者はいつまでも自己表現ができない。自分の気持ちが客観的に伝えられないからいつまでも嫌韓感情に煽られることになる。
嫌韓なら嫌韓でも構わないと思う。ただ、それを表現してみて初めてその良し悪しがわかるはずだ。多分、唯一にして最大の問題は自分の気持ちを語る術を得られなかった人たちが、そのままいつまでも何かに煽り続けら続けるということだろう。
映画「マトリックス」ではないが、眠らされたままの状態でエネルギーを吸い取られ続けて一生を終わるようなものである。多分問題点は嫌韓の果てにある結果だ。憎しみはお金儲けに利用されるが、後には何も残さないのである。
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「バカ」について再検証してみた
前回「バカ」について書いた。ここでいう「バカ」とはコミュニケーションを阻害する要因のことであり、知能について言及しているわけではない。
前回はかなり決めつけて書いたところがあるのだが、本当にそうなのかなと思ったので後追いで検証してみた。今回はアンケートをつけたので参加型で楽しんでいただけた方も多かったのではないかと思う。参加者の皆さんには改めて感謝申し上げたい。
この記事を読んであなたがより着目したのはどっち?https://t.co/gFJl4QRPL5
— hidezumi (@hidezumi) March 23, 2019
前回「バカ」と書いたので論理構成を読むのが正解だと思った方もいらっしゃるかもしれないのだが、アンケートの結果には実はあまり意味がない。実は論理構成こそ全てで心理行動特性について考えない人も「第三のバカ」である。前回「全員がバカ」とかいたのはそのためだ。
ここで重要なのはこの文章には二つのことが書かれているという点である。つまり党派性に着目する人は「結果としてアベノミクス」が失敗だったということに着目するだろうし、論理構成や問題解決に興味がある人は「その原因が何だったのか」ということを気にするはずなのである。
ここで重要なのは「一方に着目したから一方が見えなくなる」というわけではないというところである。つまり、色に着目したから形が見えなくなるというようなことにはならないのだ。だが、党派性はなんらかの形で論理理解に影響を与えるはずである。
いずれにせよやりたかったのは「ああこの文章にはいくつかの側面があるんだな」ということを知ってから文章を読んでいただくということだった。そもそも「日本人は正解にこだわりすぎる」などと書いているブログで「正解のあるアンケート」など出るはずはないのだから、二者択一はおかしいのでは?と思った人が多かったのではないだろうか。ちなみに文章にはアベノミクスは「失敗」とは書いておらず「ごまかし」と書かれている。
さて、これを踏まえてQuoraの質問の方をみると面白いことがわかる。読んでいる人はちゃんと両面を読んでいる。当たり前のことだが、みんなそれほど「バカ」ではないのだ。そして読んでいない人もいる。4人の回答があったののだが切り口は様々である。
一人目は論理構成に注目して「失敗したとは書いていないですね」と冷静に分析している。この人は福島第一原発の問題にも食いついてきていて「原発事故のあとに乳児の心臓奇形手術が増加したのは検診制度が上がったからだ」と回答していた。つまり反政権を冷ややかに見ていて「パヨクが騒いでいるだけ」と思っているのではないかと思う。別の要素があるからといって全てを棄却してしまうのは科学的とは言えないとは思うのだが、それはそれとして「個人の意見」としては尊重すべきだろう。
別の人はかなり長く書いている。この人は論理構成を見ているのだが、質問者が「党派性に着目した質問をしているのだろう」と決めて書いている。自らは政権擁護の立場なのだろう。この文章そのものが彼の党派の意見とは異なるので、論理構成を眺めた上で「こんなものは認められない」と言っている。これが党派性を意識した回答だ。前回「第一のバカ」を書いた時には論理構成が「見えない」としたのだが、この人は論理構成は見えている。ただ、いくら彼を説得しても無駄である。党派に合わない意見は全て棄却されてしまうからである。つまり党派性は情報の取捨選択に影響を与えているのだ。ただ、よく読むとこの人は実は消費税増税には反対なのである。このため彼の党派性は崩壊しかかっている。かろうじてこれを防いでいるのは「反対党派を否定したい」という気持ちなのかもしれない。
別の質問でも一貫してアベノミクスについて攻撃を続けている人が書いた回答は絶叫になっている。この人は多分文章を読んでいない。いつも同じような図表を取り出して同じようなことを書いているからだ。この人は「みんなこんなに正しいのに聞いてくれない」という気分になっているのだろう。情報の取捨選択以前に視野が狭まっている状態だと言える。
この二つを読むとなぜ野党が支持されないかがわかる。つまり、野党の支持者はアベノミクスが失敗でなければならないので「そもそも人の話を聞かない」のである。さらに、こうしたコメントは定型化されているので、反対側の信念を持っている人はこれを聞いておらず「ああまたか」といって自動化された(政権が準備してくれている)コメントで情報を遮断する。ただ、人は自分の話を受け入れてくれる人を好ましいと思うわけだから、アベノミクス反対を叫び続けている人に好感は持たない。「聞いてもらえていない」という態度がますます人を遠ざけるという悪循環がある。
重要なのは彼らのコメントにはそれぞれ受け入れるべき点があるだろうということだ。だが、ここまでくっきりと前提条件が異なる二つの「お話」になってしまうともはや統合は難しい。
我々は「最初のテキストが党派性と論理構成の二段構えになっている」ということを知っているので、これらのテキストをいくぶんかは冷静に読むことができる。そして、実質賃金そのものについて考える人は意外と少ないのだなということもわかる。経済政策なのだから当然「良かった点」「良くなかった点」「そもそも関係のなかった点」がありそれを冷静に分析しなければ問題は解決しないというのは、考えてみれば当然のことなのだが、休みなく<議論>していると意外と気がつかない。そして、冷静になって初めて残りの一人が「よくわからないけど、すすきのにはアベノミクスはこなかったようです」というつぶやきに近いコメントの意味を考えることになるのだろう。
最初の文章で「みんなバカだ」と書いたのだが、実は「みんな騙されてしまう危険性を孕んでいる」という意味であって「理解しようと思えば理解できるのだ」のである。だが、政治運動会はそんなことを全て忘れてしまうほど楽しくて麻薬的な魅力に溢れているのだ。
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人材に投資しなくなった日本は韓国に負けた
日本のエンターティンメントが韓国に負けているというエッセーを読んだ。人材に投資しなくなったことで負けてしまったのだ。日々嫌韓に勤しんでいる人には耳を塞ぎたくなるニュースかもしれないが、K-POPが日本で人気があるのは偶然ではない。日本のエンターティンメントが堕落してしまっているからである。以下、詳細を見て行こう。
AKB48の影響力が下火になっていて2019年は総選挙をやらないそうだ。きっかけになったのはAKB48グループからK-POPのオーディション番組であるプロデュース48に出場者を送り込んだことらしい。リアリティーショーでさらされることにより韓国と日本の育成システムの差がはっきりと現れてしまったのだ。国内リーグはメジャーに行けなかった人の溜まり場になってしまうのでコンテストをしても意味がないのである。面白いのはこのプロデュース48という番組が地上波ではやっていないという点である。にもかかわらずこのインパクトは相当なものだった。政治ニュースで「NHKが取り上げない」ことがよく問題になるが、実はこれは有権者が高齢化しているからなのだ。
記事によると、AKB凋落の直接の原因はビルボードチャートの導入だそうだ。筆者はビルボードチャートについて「CD販売数だけでなく、音源ダウンロードやストリーミングでの再生数、動画再生回数など7つの項目で楽曲をランキングしている」と書いている。このためCDの売り上げ=人気という偽装ができなくなってしまったのである。アベノミクスが既存統計をハックすることで好況を偽装してきたのと似ているが、こちらはもっと単純に「おまけをつけてCDを売ればいいのだ」というようなことをやっていた。このランキングを元にキャスティングが決まるのでテレビでの露出も増えるというようなからくりである。が、足元ではパッケージ離れとテレビ離れが起きていた。
ところが48グループの真の問題点はもっと深いところにあったことがプロデュース48で露呈してしまった。韓国では若い人たちに投資をして競争をさせる。だが、日本では「そこそこの人たち」を出してきてチャートに合わせて人気を演出しさっさと売り出してしまう。つまり、日本人は人材にお金を使わずシステムに依存してしまうのである。つまり日本人が劣っているわけではなく、日本社会がやる気のある人たちを生かしきれなかったことが今回の人材流出の背景にあるのだ。
これはMBAで海外の経営を学んできた人たちが日本でその知識を生かせなかったのに似ている。日本がまだ「Japan As Number1」とされていた時、企業はハーバード大学やウォートンビジネススクールなどに多くの人材を送り出した。彼らはMBAで多くのことを学んだがそれを生かすチャンスはなかった。派遣元の経営者たちが抜本的な改革を嫌がったからだ。結局MBAホルダーたちは日本で埋もれるかせっかくお金を出してくれた企業を「裏切って」外資系に転職するしかなかった。
同じようなことがこのエッセーには書かれている。高橋朱里という人のインタビューが引用されているのだが、これは多分高度経済成長期の終わりにMBAホルダーの人たちが持っていたのと同じ感覚なのではないかと思う。私は一生懸命やりたいがそれが認められる土壌がないから私は外国に行きますと言っている。そしてそこにはファンも含まれているのだ。ファンを見切ったというのは少し胸が痛くなる話だ。
そのつもりで私はやってます。だけど、全体のシステムを変えることは難しいと思うし、それを強要するのはファンのひとに対しても違うと思うんです。
松谷創一郎「高橋朱里が『PRODUCE 48』で痛感した『日本と韓国の違い』」 『現代ビジネス』2019年1月22日/講談社
これを読むと、日本はこの平成の30年の間「優秀で熱心な人たちを生かせず外に放出してしまう過疎の村」から脱却できなかったことがわかる。私たちは何も変えられなかったのかもしれない。
ここにきて48グループ商法は急速な劣化を見せている。一つはマネージメント能力の劣化である。秋元康に忖度して偉くなった人が多いのだろう。NGT48で山口真帆がファンから暴行を受けた問題では山口本人が釈明記者会見にリアルタイムで反論し会見は3時間に及んだそうである。(スポーツ報知)
また、京都では外国人に向けて8,640円という値段をつけた公演がうまく行かず戦略の大幅な見直しを余儀なくされているそうだ。(京都新聞)こちらは秋元康が総合プロデュースをしているそうだが、日本では実力を偽装できても外国人には全く通じなかったことになる。週刊プレイボーイで中身が見られるが惨憺たる仕上がりだ。ただ日本のシステムに慣れきっていてインターネットを知らない秋元さんに総合プロデュースを任せるのは少し酷な話なのではないかと思う。
筆者が「48グループはランキングの仕組みをハックして自分たちの実力をより以上に見せていた」と書いていたのだが、同じことが政治の世界でも起こっている。現在の政権は統計をよく見せたり、株価を底上げすることで「経済はうまくいっているのだな」という印象操作に成功した。このことが「印象さえ操作できれば本質は変えなくてもいいのだ」という怠慢につながり、実際の経済が国際競争力を失うことにつながっているということに、もう多くの人が気がついている。そして優秀な官僚はその手腕を発揮することができなくなり日本のトップ人材を引きつけられなくなってゆくだろう。有権者に見切りをつけて優秀な人は海外を目指すのだ。
政治の世界が問題なのは、音楽のように「新しい要素を取り入れた統計を作ろう」という動きが全く出てこないところである。それができるのは、今政権の中にいない野党の人たちだけであろう。中には経済通の人やもともと日銀で働いていた人などがいる。つまり、やろうと思えばそれを作ることができる人たちがたくさんいるのである。にもかかわらずそういう人たちに光が当たっていないように思える。野党もまた人材を生かすトップリーダーがいないのだ。
日本のエンターティンメントはK-POPに負けつつあるが、ジャニーズのように現役出身の若手を起用してネット活用を模索し始めた会社もある。日本人はもともと優秀なのだからやり方さえ変えればきっと復活できるだろう。海外のアーティストにもアンテナを張っているファンがいるからこそ「これではまずい」という危機感を持つことができるのである。なので、政治や経済の分野でも同じことができないはずはないのだ。
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日本の先生はなぜダメになったのか
Quoraで面白い質問を見た。日本の先生はなぜ質が悪いのかというのだ。これに「質が悪い」という前提の回答を書いたところ先生から怒りのコメントが来た。「偏見」と決めつけて上から目線で批判されたのだが。腹は立たなかった。むしろ「あ、これは釣れるな」と思ってしまったのである。ネットで悪が生まれる瞬間を自分の中に目撃してとても面白かった。
前回NHK問題を見た。NHKという身分保障がある貴族階級の人たちには政治問題で翻弄される人たちが「雷に当たったかわいそうな人たち」に見える。取材対象としては利用したいが彼らに寄り添うことはない。そして見ている私たちも洪水報道を見るように「うちの地域じゃなくてよかった」という安心感を得られるようになっている。同じことが教育にも起こっているようだ。
このクレームを入れてきた先生は、高校の先生で東京大学教育学部を出ているらしい。まだQuoraでの活動は少ないのであまりネットには慣れていないのだと思う。学校という狭い世界の成功者でネットの常識がわからないという点では十分に釣れる条件が整っている。なので彼女は「先生の質が悪いというのはあなたの偏見であって」「Quoraでみなさんのコメントを読むよりは研究書を読んだ方がいい」と言っている。そして「一部不心得な先生はいるかもしれないがそんなものは例外に過ぎない」と続く。彼女は自分たちの評価に悪影響が及びかねないという点を気にしており、現在いじめに苦しんでいる生徒や学校の勉強に意味を見出せなかった大人には意識が及ばない。いわば「問題が起きたら地価が下がって困る」といって問題を認めない地域住民みたいなものである。
Twitterで政治議論や炎上の仕組みを散々見ている私たちはすぐさまこれが「炎上するやつだ」と気がつくはずだ。政治家にしろ相撲協会にしろ最初は「自分達の方が状況をよく知っており、知らない人たちが騒いでいるだけ」と考えて状況への対応が遅れる。彼らが気にしているのもまた「社会的評価の低下」であり問題そのものではない。このズレでソトの怒りが増幅し大抵は絶対的服従に追い込まれることになっている。
以前の「Quoraスパゲッティ論争」でみたように、人々は正解のない状況に置かれると自分の眼の前にある真実を相手が受け入れないことに怒りを感じるようになる。つまり正解がない状態で話し合って社会を再構成することが日本人にはできない。実はこの時点で相転移が起きている。最初は問題そのもの(スパゲッティーとスプーン)について議論していたはずなのだが、そのうち「自分が知っている明確な事実」を頑なに認めない「上から目線」に腹が立ってくるのである。これが定着したのがTwitterの政治論議である。
いったんこの容赦ない炎上を経験した人たちは、ネットは恐ろしいところだと感じて身をすくめることになる。相手が何で怒っているのかはわからないが、あまりにも炎上が苛烈なので「とにかく謝っておこう」となるのだろう。この「とにかく謝っておけ」フェイズに移行したのがピエール瀧騒動である。同じようなことはアメリカでも起きるのかもしれないが、少なくとも日本の炎上では「村と外の温度差」が重要な役割を果たしていることがわかる。
我々はこうした「ムラ」と「外」の温度差によって起こる炎上の仕組みを繰り返し繰り返し見ているので「なぜ、みんな対応を間違えるのだろうか?」などと思うのだが、中にいるとそれに気がつかないのだろう。だが、実は気がつかない理由はそれだけでもなさそうだ。上から目線の成功者は実は村の内部で起きている問題にも気がついていないのだと思う。
これとは別に非正規雇用の先生が使い捨てられるという問題について聞いたのだが「先生が尊敬されなくなっている」という声を聞いた。都会では父兄の学歴が高くなっているのだという。学歴が高く実際の社会を生きている都会の親には先生の行っていることが「絵空事」に見えるという乖離が起こっているようだ。非正規で不安定な人ほど村には疑問を持っているはずなのでこうした問題に敏感になる。が、体制に守られていると思う上層部の人たちは問題を過小評価する傾向にある。企業でもよく見られる態度だ。現場の声を「あなたたち非正規の人たちは狭い視野でものを見ているから大騒ぎしているだけ」といって無視する正社員がいる会社はそれほど珍しくないのではないだろうか。
危機感を抱いている先生たちとそうでない人たちの間にはかなり絶望的な乖離があるのだろうが、立場が弱い人たちほどそれを社会には訴えられない。問題提起をすれば首を切られてしまうからだ。例えば、非正規で「前線に立っている」都会の先生と、地方で尊敬されながら一方的な教育観を現場に押し付けているような先生の間で認識を共有することはとても難しいだろう。そもそも社会が再構成できない上に、状況すら違って見えている。
教育界というムラは「教育とは聖域であって社会全体が予算を取って尊重すべきである」というきれいごとをいい続けていればいいし、身分保障のある人たちは面倒を避けてこの幻想にすがっていればいい。だが、実際に問題に直面するのは現場の教師であり、私学では36%が身分保障のない非正規先生になっている。そしてその外側には意見は言わないが「今の学校教育は現場のニーズにあってない」と考えて不信感を募らせる多くの人たちがいるのである。
日本人には公共がないという話を延々としてきているのだが、人件費削減から始まった村の分断は想像以上に社会に蔓延する病になっているのではないかと思う。つまり、もともと公共がなく社会を再構成することができない上に、村という日本独自の構造体も崩されようとしているのである。
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バーニングサンゲートに揺れる韓国芸能界
「バーニングサンゲート」という言葉がある。BIGBANGのV.Iが経営に携わっていたクラブ「バーニング・サン」で起きたスキャンダルを発端にした事件である。これが韓国では連日大きな騒ぎになっていて日本にも飛び火しそうである。詳細は朝鮮日報によくまとまっている。
この事件からわかることは二つある。1つ目は我々はかなり細分化された情報社会を生きているということである。この事件を知ったのはTwitterなので、知っている人はこの問題についてかなり詳しくなっているはずだ。だが、一方で安倍首相批判を繰り返しているだけの人もおり、人によって知っている情報がかなり違ってきていることがわかる。地上波だけを見て知りたい情報だけを捕捉している人と、アンテナを外に向けようとしている人の間にはかなりの格差が開くという社会になりつつある。自分の問題を伝えたいと考える人は「そもそも情報が細分化されている」ということを念頭に置いて話を始めたほうがいい。「NHKが取り上げてくれない」と騒いでいるだけでは事態は変わらないだろう。
もう1つわかるのは日本が経済成長しないことを前提にした定常化社会に入りつつあるということである。韓国は外国からの投資を呼び込んで経済上昇できる社会であり、バラエティー番組を見ていても「投資」の話がよく出てくる。生活を安定させるためにはとにかくお金を稼いで何かに投資することが重要なのだ。日本と生活習慣が似ている点もあるので、こうした違いが人々の生活やマインドセットにどのような影響を与えるのかということがよくわかる。そこから振り返ると私たちの「閉塞感に溢れる社会」のありようも見えてくる。日本の状態だけを見ていても日本の問題を解決する糸口は見えてこない。
BIGBANGは2006年にデビューした有名なアイドルグループだ。スンリ(日本ではV.Iという名前で活動している)はその末っ子(マンネ)であり、他のメンバーが現在徴兵されているなかで一人で芸能活動をしていた。日本語が堪能で日本のバラエティにも度々出ており、通訳なしの早口でダウンタウンとの会話が成り立つほどである。さらに起業家としても知られ、ラーメン屋やクラブなどを経営していた。この顔を利用したバラエティ番組も放送されている。貧しい家からのし上がった「成功者」としてスンリとギャツビーを合成したスンツビーという名前でも知られるという報道もあった。
ところが、2019年2月に経営していたクラブバーニングサンで違法薬物の取引が疑惑が報道され、クラブ代表に薬物の陽性反応が出た。スンリは当初これを「知らない」と否認しており、クラブの代表を降り、電撃入隊を発表する。
ところが程なくして捜査はスンリの性接待疑惑に飛び火した。違法な女性のやり取り(つまり売春斡旋である)が行われているという疑惑である。最初は否定していたスンリだが、非公開のSNS上のやり取りなどの証拠が次々と報道されて炎上状態になった。中央日報の伝えるところによるとかねてから海外での違法賭博容疑などもかけられていたそうだ。2019年3月には芸能界引退を発表したが騒ぎは収まらなかった。SNSのやり取りが公開されると芸能人が次々と巻き込まれていったからである。
スンリが芸能界を引退を発表するのと同時に、女性をやり取りしたり性行為の内容を盗撮してSNSに流した芸能人がいたことがわかってきた。アイドルのファンは女性なので、今度はファンが怒り出す。歌手のチョン・ジュンヨンが盗撮したものを流布したという容疑で警察の調査に応じ、引退を発表する。KBSの日曜日のバラエティーショー「一泊二日」がチョン・ジュンヨン(チョンジュニョンとも)の降板を発表したが騒ぎは収まらず、結局番組が「お蔵入り」になった。KBSは謝罪文を出したがmこれで問題は終わらなかった。一泊二日のプロデューサもグループチャットに参加していたのではという疑惑や出演者の賭けゴルフをほのめかす内容もあり出演者たちが芸能活動の自粛を決める事態に発展している。プロデューサが絡んでいれば番組の打ち切りも決まるかもしれない。
またこの種の動画をチョン・ジュンヨンと共有配布したとしてFTISLANDのチェ・ジョンフンも警察の捜査を受けており、芸能界の引退を表明した。今度はこれが警察に飛び火する。飲酒運転で免許停止処分を受けていたが公にしなかったという疑惑が持たれている。この隠蔽に警察が関わっていたのではというのでは?と囁かれ、騒ぎがさらに拡大した。この警察関係者はチャットの中では「警察総長」と呼ばれている。そのような役職はないのだが、A総警という名前までが出てきており、ついには具体的な名前(氏だけだが)も報道された。現在この人には待機命令が出ているそうだ。
CNBLUEのイ・ジョンヒョンにも関与の疑惑の目が向けられており「グループ脱退間近なのでは」などと言われている。こちらもチェ・ジョンフンとの間の通信記録がある。一連の事件に直接関与したという証拠は上がっていないのだが、やはり「女性をモノのようにやり取りした」ことが不適切だと考えられている。
この事件は日本とはあまり関係がないと思われていたのだが、日本の建設会社も性接待を受けていたという報道がある。まだ匿名扱いだが日本のネットでは名前が特定されている。日本のタレントを家族に持つ社長さんなのだそうだ。
この問題はもともと違法薬物の取引問題が発端になっているのだが、本筋とされているのはスンリさんが韓国の会社と組んで海外投資家からお金を得るために性接待をしていたのではという事件である。そして、その背後には警察の上層部も絡んでいたのではという「癒着」の疑いがかかっている。つまり、官民汚職事件の様相を呈しているのだ。関係者の対応が後手にまわり連日有名アイドルや名物番組の名前が取りざたされることで人々の興味を掻き立て続けている。
さらに国政にも関係するスキャンダルも取りざたされている。バーニングサンゲートは枝葉に過ぎないというのだ。だた、この記事を読むと「私が自殺することはないが」などというほのめかしが書かれており、こうなるともう韓流ドラマの世界である。ネタ元がスポーツ新聞なのでどこまでが本当なのかがわからなくなる。「清潔なイメージで売っていたアイドルが盗撮や女性のやり取りをしていた」という意外性があることからもう何が起きても不思議ではないと思われているのだろう。
ここまで加熱しているバーニングサンゲードだが日本では断片的にしか報道されていない。このためTwitterでこれを断片的に知った人のなかには「何を騒いでいるの?」と不思議がる人もいるようだ。