なぜ携帯ゲーム会社は儲かり、自民党は若年層の支持を集め続けるのか

最近ジャンクのデジカメにはまっている。今手元にカメラが9つある。一眼レフカメラ2台、使えるデジカメ3台、使えるが多分使わないもの2台、使ええないデジカメが2台だ。カメラは1つあればよいのだが、それでもまだ探していて「あれ、これは病気なのかな」と思った。

最初に思ったのは買い物は楽しいということだ。楽しいのは買ってからではなく買うまでの過程である。あれとあれを組み合わせたらこんなこともできるのかななどと想像するのが楽しいのだ。これがジャンクカメラあさりにはまった理由になっているのだが、同じことはいろいろな買い物に当てはまると思う。組み合わせによって変化する洋服などはその一例だろう。

ジャンクカメラを趣味としてコレクションしているといえばよいという気持ちもあるのだが、どうにも後ろ暗さを感じる。明らかな浪費だからだ。フィギュアやカードなどのコレクションにはまったことはなかったのだが、この人たちの気持ちがちょっとわかる気がした。結婚してもやめられず家族に反対される人がいる。理性的に処理すればいいのになどと思っていたのだが、多分周りから指摘されている本人にも後ろ暗さがあり、捨てなさいなどといわれると反発してしまうのかもしれない。

もともと「デジカメが買えない」という状況があった。持っていたカメラの写真が徐々に白くなって行き「これはやばい」ということになっても新しいものを買う踏ん切りがつかない。ようやく一眼レフカメラを買ったのだが外に持ち出して壊してしまった。こうした一連の危機感が熱を生み出したというのが今回のカメラ熱のそもそもの始まりである。つまり、カメラがなくなるのに買えないという気持ちを数年間持っていたのだ。

ある日、ハードオフでジャンクセクションを見つけた。ここで探すと意外と使い物になるカメラが安く見つかる。例えば、500円でカメラを探してメディアをヤフオクで500円で落とすと1,000円で買えてしまう。「意外と安く買えるんだ」と気がついた。

ここで焦燥感がソリューションと結びついた。

しかしこれだけでは病気にならなかったと思う。ヤフオクにしろハードオフにしろ動作するカメラがそのまま売られているというのは稀で検索して充電池の形を調べたりしなければならない。実は無関係に見えるものが一組になっている。これが病気に火をつけたようだ。中毒性のキモは探索行動にあるのだ。

探索行動には「能動的」であり「時間がかかる」という特徴がある。つまり、積極的に調べ物をすることで消費行動に参加しているという意識が生まれる。これによってコミットメントが強まるのだろう。カメラのように組み合わせによる認識ではなくても、例えばフィギュアなどの場合、キャラクターの背景を調べるなかで「ああ楽しいな」という感覚が味わえるのかもしれない。

こうした探索はカメラ本来のものとは異なる。例えばカメラの歴史を調べるために古いカメラを網羅的に集めるというようなことではないし、目的に合わせてカメラを選ぶという合理的な行動でもない。人間はこのように合理的でない行動で「遊ぶ」という習性がある。この習性が何かの役に立っているのか、あるいはそうでないのかはわからない。

もう一つ思い当たることがある。最近ダイエットをしている。つねに飢餓状態にあるのだが、それに気がつかない。

ということでこの状態が「特異なんだな」と気がついたのは、前提が崩れたからである。

第一にダイエットがプラトー(これ以上体重が落ちない時期)に入ったので食事の制限をやめた。お腹がすかなくなって二つの変化があった。朝起きる時間が遅くなった。そして、カメラに対する病的な探索意欲が減退した。お腹が空くことでいつも覚醒状態にあり何かを探しているというモードに入るのだが、これが減退するのである。

さらに散策行動も無意味かもしれないと思う出来事があった。別のハードオフに出かけた時にジャンクのカゴに充電器とカメラがセットになっているものを見つけたのだ。別のハードオフに遠征に出かけるほど検索熱が上がっていたのだが、実際には別に検索しなくても大丈夫なんだと思った瞬間に熱がかなり冷めた。

最初にある危機感と飢餓があり、その危機感から潜在的に検索モードになっている。そこに正解が提示される。だが、その正解は積極的に問題を解かないとわからない仕組みになっている。すると人は一種の興奮を覚えて探索行動が中毒性を帯びるのだろうと思った。あるいは「お腹が空いている」とか「社会認知が欲しい」という行動が何か別のものに転移しているだけなのかもしれない。

探索行動を喚起するマーケティングは実は増えているのではないかと思う。こうしたマーケティングは「ティザー」広告として知られている。焦らし広告と訳されるようだが、映画の断片をチラ見せして本編を見たくなるように仕向けるというような使い方がされる。エンターティンメント業界では古くから行われている手法で、シリーズもののゲームなどでも時々見かける。ゲームは探索行動そのものが消費の対象になっているので、フランチャイズの古いものを解き終わると新しいものが欲しくなるのだろう。

携帯ゲームはこの特性をうまく利用している。お金もなく時間もない人に「スマホのなかだけでは自由にできますよ」という正解を提示して「これくらいだったら使えるかな」という料金を課金するのだ。これを理性的にストップさせるのは多分難しいのではないだろうか。

逆に「消費者のためにすべてを解決してあげますよ」といって情報量を増やすのはマーケティング上必ずしも好ましくないかもしれない。日用品のリピート買いでは役に立ちそうな手法ではあるが、危機感に根拠があるマーケティングの場合逆効果になってしまうだろう。

この飢餓感を最もうまく利用しているのは自民党かもしれない。

非正規に転落しそうな末端労働者が自民党を応援するのはなぜかということが問題になるのだが、これは「社会認知のなさ」が逆に危機感を煽っていると考えるとうまく説明できる。政権常に飢餓状態を作っておけば政権が盤石になる「正解」で、ある意味生かさず殺さずで農民を管理していた江戸幕府と同じような状態なのだろう。合理的な政策選択が歪められるという意味では社会のバグなのだが、意外と自民党が支持される理由はこんなところにあるのではないだろうか。

自分のデジカメ熱を考えると、こうした飢餓感を理性的に制御することはほぼ不可能だ。あれおかしいぞと思ってもおさまらず、客観的に「ああ、これはブログに書けるな」と考えてもおさまらず、さらに書いてみても明日ハードオフに行けばまたジャンクのカゴを漁ってしまうかもしれないと思う。その意味では若者の自民党支持も容易におさまらないのかもしれない。

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素敵マーケティングと豊洲新市場という悪夢の組み合わせ

久しぶりに昔の友人にあったような出来事があった。

豊洲移転反対派の識者がいつものように豊洲新市場移転について異議申し立てをしていた。今回は、小池さんがブロガーたちを雇って広報戦術を繰り広げようとしているというのだ。彼らはこれを「刺身ブロガー」と呼んでいる。お刺身を振舞われて提灯記事を書くのかというのだ。

しかし、実際に刺身ブロガーが書いたものは彼らには理解ができなかったようだ。それはまるで金星人と火星人の会話のようになっている。

このディスコミニケーションはなぜ起こるのかということを考えていて、かつてあった生産性の低い「ウェブのおしごと」を思い出した。あの生産性の低い「ウェブのおしごと」がインスタグラムの時代に入るとこういうことになるのかと思ったのだ。

そこにあるのは、女性たちが考える「私らしい素敵さ」のなかにぽっかりと浮かび上がった異質で無味乾燥なイベント告知である。「私らしさ」を追求してゆくと「私が消えてゆく」という、日本の村落特有の矛盾もある。この議論を進めてゆくと日本の生成が低くなり、モノが売れなくなったもう一つの理由がわかるように思えた。今回は国会で繰り広げられている労働時間の問題も絡めて考えてみたいと思っている。

アメリカでインターネット業界が立ち上がった時、建築のメタファーで広まった。一級建築士のような人が全体を設計し、インテリアデザイナーのような人たちと協力しながら作って行くのがウェブだという世界観がある。構造設計をやる人はいまでも「アーキテクト」と呼ばれているはずである。また、ウェブの情報のまとまりのことを「ウェブサイト」という。

だが、日本人はなぜかこれが理解できなかった。日本でウェブデザインに入った人たちはもともと広告業でチラシを作っていた人たちだった。そもそも日本の広告には全体のプロジェクト設計という概念はないようだ。広告はマスを使った広告かダイレクトマーケティングである。後者を代表するのがチラシである。

村落構造を考えるときに、日本人は環境の構造そのものに興味を抱かないと考察してきた。このため、マーケティングでもウェブでも全体構造に関心を持つ人はいない。今ある代わり映えのしない所与のものを小手先の目新しさで売るのが日本人にとってのマーケティングであり、そのためにチラシを作るのがウェブのおしごとなのである。

こうした環境で最終的に残るのは「インプレッション」という概念だ。チラシの要点はとにかく郵便物や電話を送りつけて反応を稼ぐことだ。古くから顧客接点(チラシ制作とコールセンター)は契約社員やフリーランスが支えている。炎上でもしない限り彼らの声が開発担当者にフィードバックされることはない。例えて言えば底引き網のようなもので、とにかく魚群を見つけてそこに網を入れるのがマーケターのおしごとである。

だが、ここで問題が起こる。マーケターは流行に敏感でセンスに定評のある人たちだ。だから「誰が作っても代わり映えのしない」ものでは満足ができなくなる。そこで彼女らは「私らしさ」を追求しようとし始める。しかし、全体設計には関われない(そもそもそんなものはないかもしれない)ので、それはどうしても細部へのこだわりになる。いわゆる「わたしらしいセンス」を実製作者に押し付けるのである。

要件定義がなく「発注者の私らしいこだわり」を満足させるために間際のないやり直しが繰り返される。欧米系はエージェンシーがクリエイティブブリーフを作りそれにサインをさせてから次に進むというやり方をとっているので欧米系のデザイン事務所はデザイナーも仕事の量をコントロールして休ませることができる。一方で、日本の代理店はこうしたブリーフを作らずに感覚的におしごとを始め、残業を強いて「私が納得行くまで」やり直しをさせる。だから日本の下請けデザイナーは休めない。

さらに「わたしらしい」こだわりは角があるので市場で受け入れられることはない。そこで私らしさは社会的に受けがよい無個性なものに変わってゆく。

すると代わり映えのしないどこかで見たようなものが量産されることになる。フックもないので効果も上がらない。効果測定しないから「どれくらいの時間をかけたらどれくらい価値があるものが生まれるか」というノウハウがたまらない。だから下請けの賃金は安く抑えられることになる。また、作らされる方もいつまでたってもノウハウはたまらない。意味がわからないまま「クリエーター」たちのわがままに付き合わされるからだ。ただし、締め切りがくるとリリースされるのでデザイナーはなんとかごまかしながら嵐が過ぎるのを待つしかない。実際に締め切りがくると次の嵐が車で風はおさまる。

しかし、こうした仕事をする彼女たち(顧客に近い感性を持っているというのが前提なのでたいていは女性なのだ)が優秀でないというわけでもない。ある程度の品質でポイントを抑えた文章やイラストが量産できるようになる。だんだん個性が削られて行き「意味がないということに気がつくことができず」に「どこにでもあるようなひっかかりのない」ものが作れるようになるのがプロなのである。

この点は男性の方が実は厄介だ。仕事にこだわりと面子を持ち込みたがる上に、時間をかけて働く俺に陶酔したりする。こういう広告代理店のクリエイティブディレクターに絡まれると大変である。もしかしたら徹夜で修正を頼まれ、それをのらりくらりかわしていると事務所に現れて「意思疎通が足りないから一緒に徹夜しよう」などと言われる。

日本の広告のプロはどこにでもあるありふれた作者不詳のものを最低限の労力で量産できる能力が求められる。今回の豊洲市場移転のインスタグラムにある文章はまるでPRの人が書いたようなソツのない文章だったのはそういう流れがあるからだろう。外注するのもお金がかかるから「刺身でも食べさせて安くPRさせて10%の管理料だけ取ろう」ということになったのかもしれない。結婚してノウハウはあるが企業を離れた素敵女子がインスタ世界にはたくさん生息しているのではないだろうか。

しかし、この環境はますますものを売りにくくしている。第一の問題はすでに述べたように顧客接点から情報が入ってこないということである。しかし、それだけではなさそうだ。

そつのなくひっかかりのない文章を書くようになって「東京のすてきなおしごと」を引退した彼女たちは、やがて結婚して「誰もが羨むそつのない暮らし」を手に入れる。それをフォローする人は「いつかは私もこんな素敵な暮らしを手に入れたい」と考えるようになる。素敵暮らしはこうして日本中に広まる。それはイオンモールのような無個性な「素敵さ」かもしれないが、その中身は多分我々が想像しているよりもずっと複雑なディテールの細分化が起こっているに違いない。嘘だと思うなら流行のパンケーキについて官女たちと論争してみればよい。単なる小麦粉と卵の組み合わせのはずのパンケーキについての会話にすら、きっとついて行けないはずだ。

彼女たちの背景にあるのは、全体構造に対する徹底的な無関心と過剰な細部へのこだわりである。こうした人たちが政治や環境に関心を持つとも思えないので、豊洲がガス工場の跡地に作られようとそれほど気にしないはずである。彼女たちが気にするのはそれが「素敵」かどうかなのだが、ではいったい何が素敵なのかに答えられる人はいないだろう。それは「彼女たちが理解可能」でなおかつ「みんなが素敵だと言っていること」である。誰かが決めているようで誰も決められない。ある意味日本の村落の究極的な形である。にもかかわらず何が「素敵」なのかみんなが知っているというような世界である。

もはやこうなると、東京のおじさんたちには理解ができない。だから彼女たちが買うものは作れない。景気が悪くなり「正解以外のものを追いかける余裕」もなくなった彼女たちは「無個性な私らしさ」を追求できるものにはお金は使うだろうが、それ以外のものはいくら「品質が良い」とか「便利だ」などと訴えても買ってくれないだろう。

だから、そもそも彼女たたちが魚市場に関心をもつとも思えない。動いていて頭のある「おさかな」は気持ちが悪いと思うのではないだろうか。彼女たちが考える「おさかな」はお皿に盛られたお刺身か、パックに入ったサケ・マグロ・イカ・貝などだろう。イカなど日本人には関係ないと思うかもしれないが、冷凍シーフードの一部としてインスタ映えのする洋風料理に使われている。

そうなると築地市場は汚らしいだけで、立派な外観の清潔そうな豊洲市場が、たとえそれがガス工場の跡地に作られていようが素敵に見えるのかもしれないと思った。現にイオンモールが素敵なショッピングモールに見えているのだから、それに似た外観の豊洲が立派に見えてもそれほど不思議ではないのではないだろうか。だが、彼女たちはおさかなにはさほど興味を持たないだろう。それはインスタ画面のほんの一部分を構成しているだけの脇役にすぎないからである。

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ベッキーさんのリンチ(私刑)ショーなどについて考える

年末にダウンタウンの浜田さん関連の2津の番組が炎上しているのを知った。これがまだ尾を引いているようで様々な観測が流れてくるのだが、例によって反応が二極化している。一方は人権を念頭に置いて浜田さんは野蛮だと言っており、もう一方は日本人は日本人の規範を持ってさえいれば何も恥じ入ることはないのだと開き直っているようである。

さらにこの2つの問題はほぼ同等のものと捉えられているのだが、実際にはベッキー問題の方が根が深い。現実世界でいじめがどう隠蔽されているのか、観客がどう加担しているのかということがよくわかる。また、その奥を下がって行くといじめが我々の世界で麻薬のように働いているということもわかる。そして、そのことに多くの人が気がつき始めている。

そもそも、これらの問題において、どちらの側が正しくてどちらが間違っているのだろうか。

正しい笑いについて正面から捉えようとすれば「笑い」の本質について考えなければならなくなる。ベルクソンの笑いについての分析が有名である。ベルクソンは笑いは社会的な何かであり、結果として緊張の緩和が生み出されると考えた。つまり、笑いが起こるためには見ている人たちが共通の了解事項を持たなければならないということになる。たかがお笑いなのだが、実は社会批評に使えるのである。

エディー・マーフィーはこの「了解事項」の枠組みのわかりやすい例だ。エディー・マーフィーのビバリーヒルズ・コップについて知っている人たちはある程度の年齢層の人たちであろう。原典がわからないとこの笑いを共有することができない。従って浜田さんはかつて獲得した人たちをターゲットにして笑えるコンテンツを作っていることになり、それは同時に新しい人たちを獲得できていないという意味を持っている。

この枠組のずれが作り出したのが今回の騒動である。

アメリカの文化に詳しい人はこの笑いから「ミストレルショー」を想起してしまう。テレビなので当然こうした人たちの目にも触れるし、二次的に消費される過程でTwitterにも広がり、さらにそこから海外にも発信される。教養のある人ならそれが黒人の屈辱に結びついているということをよく知っているだろうし、さらに教養があればアメリカでは東洋人も嘲笑の対象になっているということがわかる。

アメリカには第二次世界大戦当時のプロパガンダに端を発するつり目で意地悪な日本人の類型があり、性格は疑心暗鬼で狡猾なものと決まっている。日系人はキャンプに封じ込められて差別された歴史がある。浜田さんの外見はこの類型に当てはまる。甲高い声で童顔のみっともない東洋人なので、差別される人が他人種を差別して悦に入っているという、とても醜悪で正視しがたいものに見えてしまうのである。

我々が浜田さんに容易に同意できないのは、視聴者がもはや同一の視点を持っておらず、従って笑を共有できないからだ。ある人は昔を想起して懐かしんでいるだけなのだが、別の人たちには許しがたい暴挙に見える。さらに<議論>に参加する人たちのなかには、ジャポニズムもいけないことなのかとピントのずれた議論をしている。彼らはこうしたコンテクストを共有していないのでこの笑いの埒外なのだが<議論>に参加して人権擁護派の鼻を明かしてやりたいと考えている。こうして<議論>はなんら解決策を持たないまま発散してしまう。

今回話題になった二つの問題のうち、和製ミストレルショーはまだ軽い方の問題だ。もう一つのベッキーの問題はさらに深刻な問題を孕んでいる。笑いは共感を通して集団が結束するために有効に働くのだが、その共感のメッセージが問題になってくる。ベッキーさんは芸能界という村にしがみつきたいと考えており、そのためには笑い者になって人々の結束に奉仕せよと言われているのである。さらに悲劇的なことは、いじめのターゲットになったベッキーさんは「あれは美味しかった」ということで、加害者側を正当化するメッセージを送っている。

もちろんこれを「コミュニティに受け入れてもらっているのだから愛である」と捉えることは可能かもしれない。しかしながら実際には玩具として村から弄ばれているだけであり、慰み者か生贄になっているにすぎない。そして、同じようなちょっとした間違いを犯した人たちに「生きて行きたければ、慰み者になれ」という搾取を正当化するメッセージを送ってしまうのである。

無論ベッキーさんが意図してこのようなメッセージを送っているとは思えないのだが、実際には芸能事務所の制裁的な感情があることは間違いがない。つまり「正しい側」として売り物にならなくなったジャンク製品をどうにか二次利用してやろうということだ。

しかし、なぜ社会は慰み者を必要とするのだろうか。

笑いによってもたらされるのは緊張の緩和だ。つまり、笑って見ている人たちが「社会的に真面目な人生」を生きており、「真面目でない人たちに暴力をふるってもよい」と考えていることになる。つまり鬱憤を晴らすためにベッキーさんを生贄として屠っているということが予想される。彼らは、潜在的に「正しくないもの」として叩かれる危険を感じているか、「正しいもの」なのに十分な報酬をえていないと感じているのではないかということがわかる。

しかし、いじめている側は明らかに「いじめはいけないこと」と感じている。観客は正しいものとしてそこに存在するのだからそれはいじめではなく愛あるいじりでなければならない。侵略戦争をする側が「キリスト教で善導してやるのだ」とか「アジア民族を解放してやるのだ」と言いたがるのと同じことである。

そこで「許してもらうための禊であり、本人もありがたがっている」という体裁付けをしており、これを本人にも言わせている。これはいじめをいじりとして隠蔽するのと全く同様のよくある手口であり、ベッキーだけではなく、学校や職場で普段から行われているいじめの正当化にもつながりかねないという危険性がある。

この背景には「真面目に生きている人たち」が、誰か不真面目な犠牲者を引き合いに出さないで自分たちを正当化できないという事情があるのではないだろうか。つまり、我々の社会はどういうわけか誰かを犠牲なしには成り立たないほど緊張しているということになる。そこで、道を踏み外した人たちが常に必要とされるのだ。こうした社会の一番の危険は、つまり「この人は道を踏み外している」という指摘があれば、誰でも私刑の対象になり得るということである。いったん指を指されたら最後、もはや社会の奴隷として生きてゆくしかないということになる。間違いを償う道はなく「蹴られても文句は言えない人」として生きて行くか、別の人をいじる側にならなければならないのである。

私たちが人間関係の軋轢に接した時には二つの反応があり得る。一つは社会を改善することを通して問題を解決するという方法で、もう一つは誰かをいじめる側に回ることでうさを晴らすという方法である。実はこの二つの反応はちょっとした変化によってどちらにも触れ得るのではないかと思う。いじめの容認は、その場では簡単な方の解決策なのかもしれないのだが、蓄積すると問題解決をより難しくするのだと思う。

どちらの問題も「人権上の問題」という共通点があるのだが、実は構造的にはかなりの違いがある。和製ミストレルショーの場合には「アメリカの事情など知らない」という議論は十分に成り立つ。そもそもダウンタウンの芸はいじめの一種であり、日本では長い間これが当たり前のように流通してきた。例えばこれを韓国やタイなどの暴力に敏感な国に輸出することはできない。その意味ではもともと内向きな笑いの一種といえる。才能が枯渇して過去にすがるしかなくなったコメディアンが過去の栄光にすがっているだけと考えることができる。

だからこそベッキーさん問題が出てくる。弱いものを叩いて社会の笑い者にする方が、より多くの人にリーチできる。ワイドショーが好きな主婦から学生までこうした「笑い」を理解できる人は多い。

テレビ局は公共の電波を使っており、こうした私刑まがいの番組を「お笑い」として流すべきなのかという議論は当然あってよい。和製ミストレルショーよりもベッキーさん問題の方が人権上の懸念は大きいので、女性の人権について考える人たちはBPOなどに提訴することを考えた方がよいだろう。もしこれが許されれば「不倫女は足蹴にしても良い」という社会的な合意ができてしまう可能性が高いからである。

しかし、実際の問題は、私たちが共通して安心して笑えるようなモチーフを持ちにくくなっているということなのかもしれない。社会全体がとても大きな不安を抱えていて、誰かを生贄として屠ることなしには、緊張が緩和できなくなっているということになる。こうした笑いは痛みを忘れ去れてくれる効果はあるが、かといって根本的な解決策にならない。その意味では不倫いじめの笑いは麻薬に近いといえるだろう。

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はあちゅうさんがしでかしたこと

はあちゅうという女性が、彼女の性的搾取の経験を実名で告発した。これをきっかけに日本でも#metooムーブメントが起きているのだとマスコミは伝えている。これだけを見ると、はあちゅうさんはいいことをしたように思える。日本で同じような被害にあっている人はたくさんおり、彼女たちに勇気を与えたからだ。しかしながら、このあとがよくなかった。はあちゅうさんは攻撃を受けており、後に続くはずだった女性たちは告発をためらうかもしれない。

この問題の背景には日本の人権教育の貧しさと社会の不安があると思う。このためはあちゅうさんのやったことは差別をなくす方向ではなく差別の激化につながりかねない。つまり、はあちゅうさんは性差別のない社会を作るどころか、日本をますます息苦しく不安定な社会にするかもしれない。

いわゆるリベラルな人たちの中には、はちゅうさんの童貞いじりと性的な搾取の告発を「分けて考えるべきだ」という人たちがいる。しかし、これは到底容認できない。

はあちゅうさんが<勇気ある告発>をしたあと、実は彼女自身も童貞を馬鹿にする発言をしていたということがわかった。これに関して、彼女とその支援者たちは「被害を受けた女性は立派な被害者として振舞わなければならないのか」とういう開き直りに近い弁明をしている。童貞いじりは、男性は性行為を経験しないと一人前になれないという価値観に乗っているという批判があり、童貞いじりの有害性に関してはこれ以上付け加えることはない。しかし、この文章は「問題を切り離して考えるべきだし、はあちゅうさんの謝罪は評価できる」と言っており、この部分はあまり評価できない。

こうした問題を考える上で大切なのは、問題を少しずらして考えてみることだろう。例えば人種差別を経験した黒人が黒人社会のようなものを作り組織的に白人を差別していたとしたらどう見えるかを想像してみると良い。きっとそれは人種間の対立を激化する方向に向いてゆくことになる。白人と黒人は、差別する側とされる側を示している。

差別されていた黒人が差別する側に回るというのは実はそれほど珍しいことではない。ご存知の方も多いかもしれないが、アパルトヘイト後の南アフリカにはそのような動きがあった。実は黒人の間にもさまざまな部族間対立があり、白人が支配権を失ったあとに黒人の間で権力争いが起こりかねなかった。このような複雑な事情があったために、ネルソン・マンデラは全勢力が融和するように常に心を砕いた。

ここで、ネルソン・マンデラは「立派な人」とされているが、実は当たり前のことを実現しようとしているだけだった。しかし、それは当たり前ではあっても27年もの間投獄されていた彼にとっては極めて難しいことだったであろう。マンデラは人生の失った時間を取り戻すために白人に復讐したいと考えても当然だった。だが、そうはしなかった。だからこそ彼はアパルトヘイト後の指導者になりえたのである。

はあちゅうさんたちは「ネルソン・マンデラみたいになれなくてもよい」と思うかもしれない。しかし、アラブ人との間に差別があった南スーダン人の事例を見ているとそれが必ずしも正しくないことがわかる。共通の的であるアラブ人がいなくなると、今度は南スーダン人同士で殺し合いを始めた。つまり、差別構造を残してしまうと、今度は別の争いが起こる。だから差別構造そのものから抜け出す努力をしなければならないのである。

はあちゅうさんがいた広告業界は「もてる女性ともてない女性」とか「クリエイティブな女性とつまらない仕事しかできない女性」などを分けている。生存をかけた生き残りに性的な経験やルックスなどを絡めているのである。だからはあちゅうさんが女性のルッキズムを男性に転用して話題作りをしたのは広告屋さんとしては極めて自然なことなのだ。

同じようなことはいたるところで行われている。例えば小池百合子東京都知事を見ていると、表向きは差別されているかわいそうな女性という演技をするが、その一方で男性たちを「排除いたします」と言っていた。全く違和感がなかったところを見るとそれが政治のあるべき姿だと思い込んでいるのだと思う。もし女性として「排除されることの苦しみ」を本当に知っていたならあんなことは言わなかったはずである。

はあちゅうさんは童貞をいじって話題づくりをしていた。そしてそれが社会的に非難されると「童貞は素敵な響きを持った言葉なので悪気なく使っていたのだが、結果的に傷つけたなら申し訳ない」と申し開きをした。これは男性が「私は好意を示すためにやったが、結果的にセクハラになっている」と捉えられているとしたら申し訳ないというのと同じであり、男性社会の醜悪な伝統を見事なまでに引き継いでいる。つまり、彼女も闘争の中に組み込まれているのだ。

彼女たちに共通するのはマウンティング意識である。つまり、差別でもなんでも利用してのし上がってやろうという気持ちで、差別されているという出自さえも利用しようと考えてしまうのである。これはいっけん正しく聞こえるかもしれないが、差別の構造を変えただけであり、差別の容認である。差別が悪だとすればサーロー流にいうと「絶対悪」であり実は彼女たちは「加害者」なのだ。

女性を容姿で差別しないというのと男性を性的経験で差別しないというのは同じことである。そしてそれは立派な行いではなく、当たり前のことなのだ。だが、その当たり前さを実現するのはとても難しい。

実際に日本では「性的搾取を多めに見る」ということが司法の場でもおおっぴらに行われている。TBSという権威を振りかざして女性に乱暴しようとした自称ジャーナリストが無罪放免になったり、慶応大学の広告サークルも結局不起訴だった。このように、法的に「この程度ならいいのではないか」とお咎めなしになってしまうケースが後を絶たない。これをなくすためには組織的で政治的な運動が必要だ。こうした運動を単なるトレンドとして話題づくりに利用しようとしたならそれはとても罪深いことである。

その背景にある差別の構造から抜け出さなければ同じことが繰り返されるだけだという認識を持つ必要がある。そのためには人種差別やその他の属性差別についてきちんと学校で教える必要があるのではないかと思う。

ハフィントンポストの記事で正直な高校生がいじめについて書いている。高校生の頃からルッキズムを含む序列付けは始まっていて、しかも笑いを絡めてごく自然に行われるそうである。

たった30人程度のクラスで、気付かぬほどの速さで「1軍」「2軍」「3軍」と身分が決まっていき、序列の中で卒業まで生きなければならない。序列は容姿、キャラ、得意の運動、頭の良さ、家庭のお金持ち具合など様々な要素で決まる。

クラスでこのようなカースト化が進行するのは、それが極めて不安定な閉鎖空間だからだ。そしてその不安定さや閉鎖性は大人になっても続く。こうした中で人々はカースト付けをごく自然なこととして認識してしまうのだろう。

たまたまアメリカで#metooムーブメントが起こり、海外から聞こえてくる性差別排除運動とごく自然に(多分加害者として)行っているカースト付けを別の枠で捉えたくなる気持ちはわかるのだが、実はこれは同じものだ。

はあちゅうさんの一番大きな間違いは、自分が置かれているカースト文化を温存したまま、ブームに乗って認知をあげようとしたところなのだろう。カースト文化を温存しているからこそ「道程いじりはちょっとしたユーモア」で「自分が岸さんにされたことは重大な暴力だ」などと言えたのであろう。これは小池百合子東京都知事が自分は笑って排除をほのめかしつつ、ガラスの天井があって男性たちに邪魔されているとパリで訴えたのととても似ている。

彼女たちは賢く世渡りしているつもりなのだろうが、それが却ってあとに続く人たちの機会を狭めていることに気がついた方が良い。

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NHKの受信料を払いたくない人が大勢いるらしい

NHKの受信料を支払いたくない人がたくさんいるらしい。最高裁判所が「NHK受信料の支払い契約は違憲ではない」という判断を示したことでTwitter上では反発の声がでている。一部の人が反対しているんだろうとも思えるが、実はかなり重要な変化の表れなのではないかと思う。それは「公共放送」への不信感だ。

普通に考えると、裁判所が「受信料支払いは違憲だ」という判断を出す可能性はほとんどなかった。そのような判決が出た瞬間に不払いが増えて大騒ぎになるからだ。にもかかわらず裁判所はけしからんという人が多い。

月2000円という金額をどう見るかは人それぞれだが、できれば払いたくないと思う人がいる一方で、それほど無理な金額とも言えない。にもかかわらず、NHKが反発されるのはこれが「押し付け」になっているからだろう。さらには「お金を払って支えているのに、自分たちの意見が全く反映されていない」と思う人も多いのではないだろうか。つまり、公共に参加しているというような満足感が得られないことが反発の背景にあるように思える。

ポストバブルの20年を見ると「できるだけ公共のようなものには参加したり貢献したりせずに、自分たちの部屋でくつろぎたい」という気分が年々強まっているのを感じる。20年前の通勤電車では不機嫌な顔をして携帯電話に没入するというような景色はなかったのだが、今では「公共空間には決して関わるまい」という強い意志さえ感じる。用事のある人たちはそれでも構わないのかもしれないが、なかったとしても必死でゲームなどをして自分の時間と空間を守ろうとしている。それほどまでに公共とか「みんなで一緒に」というのは嫌われている。

にもかかわらず日本人は「みんなで一緒に」の呪縛から解放されない。

日本ではみんなが見ているものや使っているものを使いたいという気分が強い。新聞の購読者数が減ったりしているようだが、それでも全国紙を購読している割合はアメリカと比べるととても高く、3/4の世帯が新聞を読んでいる。ナショナルブランドも人気が強く「自分だけのお気に入りを見つけたい」という人も増えない。つまり、公共には関与したくないという気分は強いものの、かといってそれを離れる勇気はないのである。

NHK問題への反発の裏には実はこうしたジレンマがあるのだと思う。例えばテレビがなかったとしても時流に取り残されることはない。光ケーブルさえあればTVerでドラマとバラエティーを見て、Yahoo!ニュースの動画配信サービスをみればたいていのことはわかる。まとめてニュースをみたいという人がいるかもしれないが、時間を埋めるためにくだらないコンテンツを集積しておりストレートニュースを流す時間はそれほど多くない。にもかかわらず日本人はテレビを捨てられない。

一方で、こうした公共への不信感は忘却へとつながってもいる。例えば「糸井重里的なものの終わり」を見たときに、怒っていたのは大衆文化とつながっていたい人たちだった。彼らは自分たちの意志が反映されず、いつまでも原宿でタートルネックを着ていい格好をしている文化人の人たちのいうことを聞かなければならないという反発芯がある。つまり「お前らだけがいい格好するために、俺たちを利用するな」ということである。しかし、実際にはこういうブンカジンはもはや流行を生み出してはいない。むしろ流行はインスタグラムの動向によってしたから決まっており、押し付けられた運動は無視されるだけである。

NHKを滅ぼすのは最高裁判所ではないし、最高裁判所が違憲判決を出してれば逆に言論への司法への介入ということになってしまう。むしろNHKは人々の無関心と忘却によって滅ぼされることになるだろう。それは政治家が公共空間を私物化してNHKがそれに乗っているからだ。国民はバカではないので、例えばオリンピックの馬鹿騒ぎが国民のための運動ではなく、一部の人たちが生き残るために利用されているのだということに気がついている。公共を私物化することは怒りを生み出すが、実際に公共を滅ぼすのは怒りではなく無関心と忘却である。

今の高齢者はテレビが必需品なのだが、若い人たちはそうではなくなりつつある。中高年にとって固定電話がない状態を想像するのはむずかしいが、今の若い人たちの中には「固定電話など意味がわからない」という人もいる。地上波のドラマとバラエティーの一部はTVerで見ることできるし、ニュースはYahoo!で民放のニュースを見ることができる。だから「パソコンやスマホ」さえあればテレビはいらないという時代がもう来ている。

むしろ問題なのは公共の押し付けに怒っている人たちがその公共から逃れられないという点なのかもしれない。必要なのは今ある公共に過度に期待せずに適当にお付き合いすることと、自分たちの公共を新しく作り出すことだろう。我々は自分たちに優しい公共を作り出すための方法をあまり知らない。ソーシャルメディアに飛び込んで誰かとつながるためのスキルを学ぶか、一人で生きてゆく方法を今より積極的に学ぶべきなのかもしれない。

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「糸井重里」と感動マーケティングの終焉

このブログは政治ネタが多い。有権者はあまり政治に興味がないようだが、特定の人たちがおり熱心に政治課題について研究しているからだ。しかし、その中身は建設的な提案というよりは政権への批判である。この数年は安倍首相と自民党について書けばそれなりにページビューが集まり、それを止めると流入が止まるという状態が続いていた。




安倍政権はアメリカとの関係を強化することに腐心しており国会を無視して法案を通してきた。特定機密の件から集団的自衛権までがそれにあたる。オバマ政権下の出来事だったことを考えると、オバマ政権は大統領のクリーンなイメージとは裏腹に日本政府にかなりえげつない圧力をかけていたのではないかと思われる。これが一段落し正直なトランプ政権になったこともあり、安倍首相が矢面に立たなくても済むようになっているのだろう。

こうした客層の人たちは主にTwitter経由で流入してくるのだが徐々に別のターゲットを見つけつつあるようだ。その一つが糸井重里さんの炎上である。神戸のクリスマスツリーが発端になっているのだが、この炎上の中身をみていると少し様相が違っている。どうやら怒りというよりは静かに燃えているようである。

もともとこの問題は、西畠清順という人が発端になっている。園芸界ではプラントハンターとして知られた人なのだが一般の認知度は高くなかったはずである。にもかかわらず派手に燃えたのは背景に糸井重里さんのエンドースメントがあったからのようである。

150年も山奥で生きて生きた木を切り刻んで金儲けの道具にするのがけしからんというのが表面的な非難の理由だ。当初は、山間地域の人たちは林業で生計を立てることができないから山間地の人たちの声を説明すれば合理的に騒ぎは収まるだろうと思っていたのだが、そのレベルを超えてしまっているようである。

西畠さんが山間地の事情と植林事業について説明している媒体も見つけた。しかし、これはマガジンハウスのものであり、多分逆効果なのだろうなと思った。マガジンハウスはなんとなくふんわりとした感性を全面に押し出して価値観を演出していた会社だ。これがSNS時代に合わなくなっていることがわかる。

全く同じに見える現在のインフルエンサーマーケティングとかつてのおしゃれ系感性マーケティングだが、実際には全く異なっている。インフルエンサーは街の声の集積なのだが、おしゃれ系感性マーケティングは、最初に売りたいものがあり「みんながいいと言っていますよ」とか「銀座に通ってい人たちの間では人気ですよ」などと主張して消費者を納得させる手法だったからである。

SNSが発達し、実は「銀座に通っている人たちの声」というのが血の通わない作り物だということがバレてしまったせいでおしゃれ系感性マーケティングは終了してしまった。しかし、マガジンハウスの人たちはそれに気がつかずに、お互いを褒めあっている。これが上からで痛々しいと感じられるのだろう。

しかし、糸井さんに反対する識者たちの声をツイッターで聞いてみると、どうもそれだけではなさそうである。加えて、この声も実は一様ではない。

第一に糸井さんに反対している人たちは「あの界隈」の人たちである。世間では左派リベラルと呼ばれているのだが、実際には社会主義とは全く関係がない人たちなのだ。彼らは原発に反対し、憲法第9条は守られるべきだと考えている。また金儲けに懐疑的で、東京オリンピックにも反対している。これらは「連想」でつないでゆくことはできるのだろうが、彼らが反対しているものに対して改めて共通項を探そうとしても「よくわからない」としか言いようがない。これはネット右翼とも共通している。つまり、彼らにはなんらかの共通の文脈があり、それに引っかかったものは全て好きだったり嫌いだったりするのだ。

既得権益層が自分たちの利権を確保するために広告代理店(これはなぜか博報堂ではなく電通のことだ)を使って民意をコントロールしている。だから民衆は騙されており本当にあるべき姿に気がつかない。だから私たちの正義が実現しない。このままでは戦争になる。このコンテクストに当てはまるものはすべて左派リベラルの人たちに憎悪される。

やっかいなのは、彼らのいう「陰謀」がなんとなく当たっているという点である。電通がコンサルタントを通じてオリンピックの票を買ったのは間違いがないらしい。フランスでは捜査が始まっているが、日本の捜査当局は政府が嫌うようなことはやらないだろう。これがわかっていても誰も動かないので、似たようなものは全て攻撃されるということになってしまっている。つまり、実はクリスマスツリーに反対しているわけではなく、感動マーケティングそのものにアレルギー反応を持っているのだから、合理的に説明を試みても納得感が得られないのだ。

では糸井さんもこの線で反発を受けているのだろうかと思って見てみた。しかし、このような批判はあまり多くなかった。代わりに多かったのが「なぜか糸井さんは昔から嫌いだった」という声だ。理由がよくわからないようである。

そこで試しにTwitterでフォロー・被フォロー関係にある人に「なぜ嫌われるのか」を聞いてみた。「上から正しそうなことをいう」というような意見と「いつも正しいことを言っているが、ときどきとんでもないものをぶっこんでくる」という意見があった。

この「正しさへの反発」はインスタマーケティングなどの台頭で説明ができる。現在の商品をおすすめしている人は普通の生活を露出している。ゆえに完全に正しいということはない。むしろ、ちょっと抜けたところを配信して「気が抜けた瞬間」を演出している人もいるだろう。常に正しいのはポーズであり演技であるということがバレているのである。

だが、それだけでも説明ができない。「騙された経験があるが誰も騙されたことを言わないだけだ」という意見を教えてもらったのだが、糸井さんに騙されて何かを買った経験はない。だが「別にいいとは思わないのに嫌に自信たっぷりにおすすめしてくるな」と思ったことはある。

つまり、別にいいとは思わないし、いいと思う理屈もよくわからないけれど、みんながいいと言っているから、まあきっといいんだろうなという理解をしている人が多かったのではないかと思った。つまり、よくわからないのに「ああこれっていいんだよね」と取り繕っていた人は多いのではないだろうか。

糸井さんは好景気が終わって「なんとなく」ものが売れなくなると、インターネットに移って「ネット文化ってこういうものですよ」と言って生き残っていた人である。感想の中には「いろいろと逃げ切ってきた、糸井さんがついに逃げきれなくなった」というようなことを言っている人がいて「なるほどな」と思った。つまり、「銀座ではみんながいいよと言っているよ」と言っていた人が「ネット文化ではこうなんだよ」と主張して生き残ってきたということだ。

いずれにせよ今回の件で「実はみんななんとなく納得していなかった」ということがバレてしまったのかもしれない。それが違和感の正体ではないかと思う。その意味で今回の炎上は他とはちょっと違っている。

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「糸井重里」という炎上案件について考える

神戸に世界一高いクリスマスツリーが立つというニュースを見た。NHKの朝の番組でわざわざ中継が出してまで紹介していたので「景気の良い話だな」とは思ったのだが、これがまさか炎上するとは思わなかった。

この案件が炎上した理由はいくつかあるようだが、糸井重里さんが絡んでいるようだ。この件についての一連の考察はタグでまとめてある。一言で言うと糸井さん個人が悪いというわけではなく、その背景にある事情が変わっているのではないかと考えている。Exciteは次のように面白おかしく伝えている。

さらにこれに反応している人たちがいるのだが、戦争はいけないから憲法第9条改悪に反対というような主張にも共鳴しそうな人が多い。毬谷友子さんは「ひっそりさせておいてあげたい」と言っているのだが、毬谷さんのいうように木はひっそり生きていた方が幸せだったのだろうか。

これまで、日本人は経済モデルを田畑で考えているのではないかと考えてきた。環境によって収量が影響を受けて全体を増やすことができないという世界である。この環境では誰かが儲けるということは必ず誰かが損をするということになる。土地の生産量が限られているので日当たりのよいところを横取りするか水を自分の田んぼに流すなどをしないと収量が増えないからだ。

このためにそもそも「儲ける」ことに関して懐疑的な人が多い。そこで、西畠さんが儲けるということは何かを搾取しているという図式が即座に描かれたのではないかと思う。つまり150年生きてきた木の命を奪ったのは西畠さんが不当に儲けることにつながるという図式が作られたのである。しかし、これだけではこの件は大した広がりが得られなかったのではないだろうか。

それに輪をかけたのがそれを応援している糸井重里さんだ。糸井さんといえばバブルの頃に「思いつきを言葉にするだけで大儲けした人」という印象がある。そもそもバブルは「根拠のない浮かれた景気にもかかわらずみんながいい思いをした」ということになっていて、バブルを生きた人はズルいという印象がある上にそこにのって大儲けした糸井さんは「インチキ詐欺師」だと思われているのかもしれない。

糸井さん(実際には事務所だが)の「何かを考えるきっかけにしよう」というツイートはふわっとした言葉で何かをごまかしていると考えられているようだ。このツイートには様々な懐疑的なコメントが付いていて、阪神淡路大震災の当事者で感情的に傷ついている人もいるようだ。

つまり、儲けることは騙すことと同じであるという低成長時代ならではの空気があるということになる。さらに東日本大震災の復興対策費用が流用されていたり、オリンピックが実際には政治矛盾を隠蔽するのに使われていることもあり「もうごまかされたくない」というイライラが募っている。

企業が収益を上げるために賃金は低く抑えられており、非正規雇用ばかりが伸びるという現状では「企業活動とは搾取のことだ」と捉えられても不思議ではない。バブル的で景気の良い話はたいていが詐欺であり、それが本家本元の<詐欺師>によって支えられているという図式である。企業活動も浮かれた消費もそれほど恨まれているのである。消費が伸びないのも当たり前だ。

糸井重里的なものは、男性的でインダストリアルな価値観に従わなくても、しなやかで優しく生きて行けますよというメッセージだった。日本は豊かだったのでこうした異なる価値観が共存できたのである。しかし不景気が広がるとそれは逆に「男性的で優しさのない経済」をごまかすために、しなやかさや優しさが利用されているのではないかという疑念に変わる。あまりにも不景気すぎてもはや糸井重里的なものが存在する余地がないということになる。

ところがこれが本当に詐欺なのかを考えた人はほとんどいないし、議論においてそのようなことを考えた形跡もなさそうだ。それは日本人が自分たちの暮らしがどのようにして成り立ってきたかをすっかり忘れてしまったからだ。ここから先は「糸井重里的なもの」の終わりというよりは、保守の崩壊という視点で続けたい。

ここでは家畜の例をあげて説明したい。私たちは毎日豚や鶏肉などを食べているが、家畜を搾取とは呼ばない。これは多くの人が家畜という概念を知っているからである。中には養豚や牧畜なども動物への搾取だとみなして肉を一切食べない人もいるがそれは例外的である。

では木はどうだろうか。今回神戸に「無理やり連れてこられた」のは150年間生きていたあすなろというヒノキの仲間だそうだが、周りは山火事で焼けてしまったそうである。これがもともと植林されたのち放置されたものなのか天然木だったのかは全く確かめられていない。つまり、同じ木であっても家畜化された木なのか野生のものなのか誰も木にする人はいないということだ。

こうしたことが起こるのは、東南アジアなどの安い木材に押されて日本人が自分たちの山林を構わなくなったからである。日本人はこれまで自然の恵みを利用して生活を成り立たせてきたということすら忘れてしまったので、もはや「管理された林」という概念が理解できないのである。

今回のあすなろはもしかしたら天然木なのかもしれないのだが、それでも山火事で焼け残ったところに一本だけ木が残っていると再植林や開発はできない。植林された森であれば再整備したいだろうが売れる見込みがない植林をしても仕方がないし、次に使えるようになるまでには数十年という時間が必要になる。木材の価値を高めて得ることができれば、単に木材として売るよりも産地は喜ぶ。だから、これは必ずしも「木を殺した」ことにはならないはずだ。

今回の利益配分がどうなっているのかはわからないのだが、地元を騙した上で安くで買ってきて大儲けするようなスキームになっているとしたら考えを改めた方がよいし、そうでないなら産地の人たちの意見も紹介した方が良い。これが企業の説明責任というものである。もはやふわっとした優しさは何の役にも立たない。我々はそれに依存しすぎたと言える。

つまり、この件が炎上した裏には、もともとの成り立ちを説明しないまま感動ストーリーだけを押し売りしようとしたというマーケティングの失敗があるようだ。糸井さんの事務所がどの程度これに関わっているのかはわからないのだが、少なくとも西畠さんの会社はマーケティングに失敗したことになるし、誰かがそれなりのアドバイスをしてもよかったのではないだろうか。

このように改めて考えてみると、バブル以降の時代の変化に驚かされる。バブル時代には誰も消費に疑いを持たなかったので、なんとなく顧客を良い気分にさせていればそれなりにものを売ることができた。しかしながら現在の空気はその頃と全く変わってしまっているようであり、マーケティングに必要なスキルも変わってしまった。

企業が儲けるときには「地域への貢献」や「背景の丁寧な説明」などが求められる。ある意味面倒な世の中になっている。だが、新時代に適応したマーケターならそこに面白みを感じるのではないだろうかと思ったりもする。

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モノが売れなくなった理由を街から想像してみる

いつも新聞やTwitterをみながらいろいろ考えているのだが、どうしてもバーチャルになりがちである。たまには実体験を書いてみたい。こういうのはあまり読まれない傾向にあるのだが、いろいろな角度から考えてみたい人には面白い内容なのではないかと思う。

個人的に経験したことは、製品の成長についてである。高度経済成長期に育ったので、電化製品というのは直線的によくなってゆくというような印象がある。例えばテレビだったら白黒がカラーになり薄くなって音がよくなり、モノラルだった音もステレオからサラウンドに変わってゆくという世界である。それに従って変わってゆくのは「経験」だ。社会全体が同じ経験をしているからこそ「次は何が出るんだろう」というワクワク感がある。これが経済成長である。

だが、現代にこうした成長を実感するのは難しい。単に給料が下がっているからという理由ではなさそうである。そしてこれがいいことなのか悪いことなのかはわからない。今回勉強したのは音響設備についてである。

どういうわけだかわからないが部屋のオーディオ設備を改善したくなった。使っていなかった5.1chサラウンドシステムを引っ張り出したのだが、スピーカーに不具合があり上手く行かない。いろいろ調べてみるとスピーカーの結線が悪いようである。SONYは特殊なプラグを使っているのだがこれに欠陥があるようだ。代替え製品はあるものの少し高価なので、結局プラグをこじ開けて金属部分を手で曲げたりしてなんとか音が出るようになった。

一旦使えるようになると使ってみたくなる。最初はテレビをつないでいた。CMのピアノやドラムの音がクリアに聞こえる。CMはお金がかかっているので実は音がいいんだななどと思った。あとは音楽番組が楽しくなった。しかし、そういえば音楽番組をあまりみなくなってしまった。ニュースバラエティではいい音が出てもあまり面白くない。

するといろいろな音源で試してみたくなった。最初に思いついたのはDVDとパソコンだった。DVDは手持ちの光ケーブルで使えた。他愛もないアクションムービーだったが、サラウンドはなかなかだった。しかし、Macを光ケーブルで接続するためには丸型のプラグが必要だ。ピンプラグが光デジタルに対応しているのだ。昔はどこの量販店でも取り扱っていたらしいのだが、最近は手に入れにくくなっていた。結局、ハードオフで見つけた。

次にパソコンを試してみたくなった。2004年頃のAirmac Expressという製品があり「光デジタルに接続できますよ」と書いてある。だが、やってみても5.1chで音を送ることができない。パソコンに直挿しすると5.1ch対応になるのでAirmac Expressの「何かがおかしい」ということになった。

アップルのディスカッションボードで聞いてわかったのは「仕様書やマニュアルには接続できると書いてあるが、どうやらできないらしい」ということだった。チップが5.1chに対応していないらしい。そこでAppleに連絡してみたが「自動で判別されるのでできるはずです」の一点張りだ。そこで、本当にそうならデジタルで設定できる方法を教えて欲しいと粘った。

最終的には「対応するとは書いてあるが、出力するとは書いていない」との結論が返ってきた。ずっと、お客にはできるはずなのでお客さんの音響設備が故障しているのでしょうと回答してきたそうである。

少し詐欺に近いなどと思ったのだが、なぜAppleは光デジタルの本領が発揮できない製品を「接続できる」と書いたのだろうか。日本で地上デジタル放送が始まったのが2003年なので、2004年といえばちょうど機器の出始めである。最新鋭の機器が5.1chに対応していたので「接続だけはできる」というつもりで書いたのだろう。が、実際には接続はできるが5.1chで出力はできないという状態だったようだ。2007年頃のAPpleTVのディスカッションボードをみても「今は対応していない」と書いてある。

では、今の製品はどうなのだろうかという疑問が出てきた。

そこで現在のAirmac Expressの仕様をみると、そもそも5.1chについて書いていない。サポートの人も「できるとは思うが実際には試したことがない」という。Appleは光ディスクを排除してしまったので、現在MacでDVDをみるという酔狂なことをする人は誰もいない。そこで「多分できるがよくわからない」という状態になってしまったのだろう。DVDやブルーレイがないとあとは音楽だけになるので2chで足りてしまうからだ。

そこで家電量販店に行ってみた。するとかなり悲惨なことになっていた。家電はもう売れないらしく、ケーズデンキは黒モノ家電の売り場を縮小してしまったのだという。そもそもオーディオ機器など買って行く人はいないそうで、お客がいないから店員もリストラされてしまったらしいのだ。この店にはオーディオの専門家はいませんと言われた。

担当者も「ホームシアターシステムなんか買っていく人はいないので、テレビをお勧めしています」と言っていた。YAMAHAやSONYなどのサウンドバーが売られていたが、この後は入ってこないかもしれないとのことである。確かに数万円のホームシアター機器を売るよりは数十万円するテレビを売った方が効率がよいし、お客がAmazonに流れているので、効率の良い商売をしないと潰れてしまうという危機感があるのかもしれない。露骨にスピーカーが横についているテレビを勧めてきた。

製品に対する知識もないのに露骨に高いものを勧めてくる。部屋用なので20インチくらいでいいのだがというと「そんなものは置いていない」という。テレビの他に何が売りたいのかと聞くと「エアコンを重点的にやれと言われています」ということである。

だったらAmazonで自分で調べた方が早いですよねというと、その通りですねと否定しなかった。もはや諦めの境地なのだろう。こうしてパソコンができる人はオンラインに流れて行き、あとはパソコンができない層の高齢者だけが残るということになる。

ホームシアターシステムだが、2.1chが主流になっていて、そこから擬似的に5.1chを再生するようなものが作られているらしい。考えてみるとリアルに5.1chであっても擬似であってもそれほど広がりに差がないので、これはそもそも5.1chがオーバースペックだったのかもしれないとはおおう。あとはパッケージソフトではなくオンライン配信が主流になってきており5.1chで外部機器をつなぐということも少なくなってきているのだろう。さらに、忙しい人が増えているので、そもそも家で映画を楽しみたいなどと考える人がいなくなっている可能性もある。

つまり、現代では電化製品やサービスはリニアでよくなってゆくということはなく、小型化省力化の方向に縮小して行っているのだ。そしてそれに合わせるかのようにお店もなくなっており、サービスレベルも低下してゆくという悪循環が生まれている。

一度どこかでいい音を経験すると「これはいいな」と考えることができるはずだ。地デジが出てくる頃までには「これからはテレビの音も格段によくなるのでホームシアターシステムを買いましょう」という宣伝文句にもある程度の説得力はあった。

だが、Amazon で知っているものしか検索しないとホームシアターシステムを買おうなどとは思わなかっただろう。知っている中でしか商品選択しないからである。だが、現実的にはお店のショールーム機能が失われている。だからメーカーのサポートも5.1chがわからなくなっているし、お店からもそうした商品が消えてゆく。商品が展示されなくなるだけでなく、同時に店員も消えてしまう。すると市場から知識が消えて行くという具合にどんどんと悪いスパイラルが働くのである。

よくものが売れなくなるのは企業が給与をケチるからなのだと言われるし、このブログでも度々そのようなことを書いている。だが、実際に足元で起きていることはそれよりも少し複雑らしい。オンラインショッピングが盛んになるのはいいことだが、ユーザーは新しい経験ができなくなっている。新しい経験に触れなくなると古い知識の中から品物を選ぶことになるので、結果的に品物がうれなくなってしまうのである。多分、今充実したオーディオ装置を買おうと思うと一番よいのはハードオフのような中古ショップにゆくことだ。

これが悪いことなのかなと考えてみたのだが、そこはよくわからなかった。じっくりソファーに座って臨場感のある音を聞いたりする人はいなくなった。しかし、忙しくなるのに合わせて便利に情報を取れるようになっていて、合間合間にスマホで映画を見たりすることも可能だ。

同じことは洋服でも起きている。昔のように着飾って街に出てゆくということはなくなり、代わりにインスタグラムなどを通じて経験をシェアするという方向に変わっている。そこで高級ブランドは必要なくなり、ファストファッションで小綺麗にする人が増える。多分ファッション好きな人は古着屋に行った方が選択肢は多いだろうが、これが必ずしも嘆かわしいことかどうかはよくわからない。

いずれにせよ日本人のモノに対する考え方はこの10年で大きく変わっているようだ。

資本主義という宗教を失うと社会はどうなるのか

そもそもこの文章は「安ければよい – 日本の政治がよくならないもう一つの理由」というタイトルにしようと思っていた。アメリカでは大統領が間違ったことをいうと消費運動が過激化するので、大統領といえども好き勝手な行動ができない、ひきかえ日本は……というようなラインである。だが、どうもそうした見方は正しくないようだ。

日米で社会が分断していることは間違いがなさそうだが、それを政治が助長している。だが、政治は社会を統合するための装置だったはずである。いったい何が起こっているのだろうか。

アメリカで経済助言機関が解散した。日経新聞は次のように伝える。

米経済界の乱―。16日の米主要企業トップによるトランプ米大統領の助言機関からの離反の嵐は、白人至上主義者を巡る言動を改めないトランプに対する明確な「ノー」の意思表示だ。米企業にとってこれ以上、トランプ政権の助言機関にとどまることは、社内外からの批判を呼ぶ経営リスクだった。米経済界とトランプ氏に生まれた溝は簡単に埋まりそうにない。

経営者としては大統領に助言できた方が有利のように思えるが、それでもトランプ大統領に近いとみなされることは経営リスクになりつつある。ここだけを切り取ると、寿司を一緒に食べただけで浮かれているジャーナリストたちや、特区制度を利用して利益誘導を図る経営者たちに聞かせてやりたいと思う。

トランプ大統領とのつながりが経営リスクとみなされるのは、それが不買運動につながりかねないかららしい。有色人種だけではなく白人至上主義者だと思われたくない白人が不買運動を起こす可能性が高いのだ。

だが、調べてみると、アメリカの不買運動はかなり過激なレベルに達しているようだ。そしてこうした運動に火をつけてしまったのは皮肉なことにトランプ支持者の側らしいのだ。例をいくつかあげよう。

ここまでの状況を調べると政治的な動きが消費運動に直結するのは少し行き過ぎのように思えるし、日本の消費者は節度があるなと思ったりもする。だが、それも間違っているらしい。

最近、Twitterで牛乳石鹸のウェブCMが炎上したという話が流れてくるようになった。上司に怒られた後輩を慰めるために飲みに連れて行くが、ちょうど子供の誕生日だったために奥さんに嫌味を言われるという話である。自分の父親世代より男性の地位が落ちていることを嘆く内容になっている。これが気に障ったという人が多いようだ。

実際にコマーシャルを見てみたが、確かに意味不明ではあるが、炎上するような内容には思えなかった。

この裏には、父権意識に対する過剰な敵意があるのだろう。自分の時間を仕事の延長である酒席に割り当てなければならないというのも炎上の原因の一つなのかもしれない。特に若い人が見ることが多いWeb CMだったことも騒ぎが大きくなった原因かもしれない。

日米の態度には大きな隔たりがあるように思えるのだが、共通点もある。かつて特権を持っていると考えられていた人たちが「被差別者」として屠(ほふ)られるということである。アメリカでは白人であるだけで「人種差別主義者である」と考えられる危険があるため、ことさら多様性の擁護者を気どらなければならないし、日本では男性であるだけで女性差別の潜在的容疑者とみなされるために、ことさら男女同権に気を配らなければならない。

日本人は表立ってこうした父権に抗議することはない。会社でそれをやると職を失うリスクがある。そこで匿名集団で抗議するのだろう。一方でアメリカは自分の意見を言わない人間は人間扱いされないために意見表明が集団の中で過激化してゆく。日本は集団行動が過激化しやすく、アメリカは個人間の行動が過激化する。

日本ではこうした父権の肩身の狭さが日本会議などの過激な復古思想になり現政権を支えている。家族の意義をことさらに強調し男性が威張ることができていた昔を再創造するのが彼らのゴールなのだろう。これが「戦争に向かっている」という被害感情を生み、政治が分断されている。アメリカでは白人至上主義者がトランプ大統領を支えている。

そもそも社会はこうした分断の可能性をはらんでいるのだろう。だが、そうした不満を別の(できればより生産的な)方向に向かわせるのが政治の役割であったはずだ。そうした役割が失われて、むしろ分断を加速する方向に進んでいるのが、日米の共通点なのではないだろうか。

これは、市場主義型の民主主義社会がかつての約束を守れなくなっていることを意味しているのかもしれない。それは、みんなで頑張れば暮らしが良くなり楽しい思いができるという約束だ。

確かに我々が実感するように資本主義が我々の生活を改善するというのは幻想である可能性が高い。が、みんながそれを信じている限りにおいては幻想にはならない。だから、政治はあたかも資本主義という神様がいるかのように儀式を積み重ねる必要がある。つまり、資本主義はそもそも宗教に過ぎないかもしれないのだ。

つまり、アメリカや日本では宗教としての資本主義が死にかかっているのかもしれないということになる。

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これからも民主主義社会に住みたい人のセールステクニック

前回「安倍政権を続けさせないためには、デモに参加するのではなく、自民党に働きかけよう」と書いた。一応背景にある考えについておさらいしておきたい。ここに出てくるのはマーケティングのテクニックというよりはセールステクニックだ。古いものだと第二次世界大戦前くらいのものすら含まれている。

人はバランスを取る

まずNHKの朝イチで見た話から始めたい。誰かが怒っているときにそれに輪をかけて怒ってみせる。すると、怒っていた人はバランスをとるために「いやそれほどでもないんじゃないか」と考えるようになるという。例えばクレームの電話を入れてきた人に「では訴えるか」などというと「いや、それほどでもない」と態度を変えるという具合だ。人は無意識のうちに対立が激化しないようにバランスをとってしまうのだ。「共感して同調する」ことが基調にあり、その上で敢えて強めの提案をするのである。

つまり、民進党の蓮舫代表のように首に青筋を立てて怒ってみせると「ああいう醜い顔にはなりたくない」と考えてかえって冷静になってしまう。山尾しおり議員も同じである。民進党のやり方は、実は支持者(あるいは安倍政権には反発するが選挙にはいかないような人たち)を満足させる効果はあるかもしれないが、真面目に心配している人には効果がなく、却って「なだめて」しまっている可能性があるということになる。

ではどうすればいいかということになるわけだが、上手だったのが小池百合子東京都知事だった。「私には支持基盤がないから緑色のものをもって集まれ」と言っていた。石原慎太郎氏が「厚化粧のババア」などと言った時も、石原慎太郎氏を罵しらず「私には痣がありコンプレックスなのだが」とアピールした。つまり、困っていると応援したくなるという特性がある。ヒーロー映画でただヒーローが悪をぶちのめすだけでは観客は感情移入できないし、かといって勝てないが口だけは達者なヒーロー映画など誰も見ないということになる。

声の変化も重要

声の大きさも重要なようだ。普段から声を荒らげていると「この人はこういう人なんだ」と思われてしまう。一方で、普段は冷静で温厚な人が、ここぞというときに声のトーンが早くなったりすると「ああ、怒っているのだ」と思える。そのまま終わってもだめで、最終的には落ち着いた声のトーンに戻さなければならない。つまり、人は変化に反応していることになる。

かといっていつも冷静というのもよくない。「あの人は中立を気取っているだけだ」などと思われかねない。時々感情を込めてみるのも重要である。

つまり、毎週デモをやっていても「ああ、またやっているな」ということになるわけだが、普段は温厚で建設的な人たちが、抗議をするのが、実は非常に効果的なのだと言える。デモをやってもかまわないのだが、普段は違う顔があることを見せなければならないということではないだろうか。

つまり、Twitterで政府批判ばかりしている学者は、普段の学会での活動を報告したり、実際に問題を解決している様子を見せるべきだということになる。それも無理なら3時のおやつを投稿しても構わないのではないかとすら思える。「プロ市民」ではなく、普通の人が危機感を持っているというのは、たとえそれが<演出>であっても重要だ。

誰が顧客なのか

自民党だけでなく、どの企業にも未顧客と既顧客と非顧客がいる。本来、マーケティングでは「未だ顧客になっていない非顧客」の獲得を目指さなければならないのだが、実際に新しい顧客を獲得できるなどということを信じている人は少ないのではないかと思う。

非顧客は顧客にならない人をさすのだが、保守的な人たちは政府に抗議する人たちは「どうせ話を聞いてくれない」といって最初から排除されているものと思われる。つまり、自民党や公明党を中から変えてくれる人が一番重要なのだということになる。

反安倍運動は「未顧客の顧客化」を目指してきた。つまり「政治に目覚めていない人」の関心を引こうとしてきたわけだ。もちろん、他人に興味を持たせるのが大切な訳だが、これはかなり難易度が高い。企業もあの手この手で未顧客の興味を引こうとするわけだが、それにはかなりのお金がかかっている。現在の消費者はこれに慣れてしまっていて、面白いCMで引きつけてもらわないと興味すら持たないし、情報を理解しようとすらしないという状況が生まれている。政治活動はこうしたレッドオーシャンで戦っていることになる。

緊急時には既顧客だけに絞らないと取り返しがつかないことになる。デモをやっても、政治に興味がない人にはノイズにしか聞こえないのだから、インサイダーになって(あるいはその振りをして)働きかけるのが一番よいのではないかということになる。未顧客を獲得できない人にとっては既存顧客の離反が一番怖いのである。

善意に働きかける

抗議ばかりしている人の声が届きにくいということは最初に説明した。と同時に反対されればされると人はそれに抵抗したくなるものだ。これは日本人がそうだというわけではなく、もっと普遍的なものだろう。戦前に書かれた「人を動かす 文庫版」という本には、どんなにがんばってもものが売れなかった人が、善意に訴えかけると人を動かすことができたという話がいくつか出てくる。人には「良い人に思われたい」という欲求があるからだそうだ。故に「自民党は終わった」とか「公明党は地獄に堕ちた」などと言っても彼らを動かすことはできないが、政治に熱意があるからこそ勇気を持って状況を変えるべきだと訴えた方が良いのだ。

デモには陶酔感があるのだが……

安倍政権はかなり危険な状態にあり、このままでは民主主義がめちゃくちゃになってしまう可能性が高い訳だが、デモをやってもあまり効果はないだろう。にも関わらず「安倍政権を許さない」というような看板を掲げてデモをやりたがるのは、かりそめの陶酔感のためだ。ここは何を成し遂げようとしているのかということをもう一度考えた上で戦略を練り直すべきではないかと思う。このような状態が続けば、デモもできなくなってしまうかもしれないのだから。

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