NHKの受信料を支払いたくない人がたくさんいるらしい。最高裁判所が「NHK受信料の支払い契約は違憲ではない」という判断を示したことでTwitter上では反発の声がでている。一部の人が反対しているんだろうとも思えるが、実はかなり重要な変化の表れなのではないかと思う。それは「公共放送」への不信感だ。
普通に考えると、裁判所が「受信料支払いは違憲だ」という判断を出す可能性はほとんどなかった。そのような判決が出た瞬間に不払いが増えて大騒ぎになるからだ。にもかかわらず裁判所はけしからんという人が多い。
月2000円という金額をどう見るかは人それぞれだが、できれば払いたくないと思う人がいる一方で、それほど無理な金額とも言えない。にもかかわらず、NHKが反発されるのはこれが「押し付け」になっているからだろう。さらには「お金を払って支えているのに、自分たちの意見が全く反映されていない」と思う人も多いのではないだろうか。つまり、公共に参加しているというような満足感が得られないことが反発の背景にあるように思える。
ポストバブルの20年を見ると「できるだけ公共のようなものには参加したり貢献したりせずに、自分たちの部屋でくつろぎたい」という気分が年々強まっているのを感じる。20年前の通勤電車では不機嫌な顔をして携帯電話に没入するというような景色はなかったのだが、今では「公共空間には決して関わるまい」という強い意志さえ感じる。用事のある人たちはそれでも構わないのかもしれないが、なかったとしても必死でゲームなどをして自分の時間と空間を守ろうとしている。それほどまでに公共とか「みんなで一緒に」というのは嫌われている。
にもかかわらず日本人は「みんなで一緒に」の呪縛から解放されない。
日本ではみんなが見ているものや使っているものを使いたいという気分が強い。新聞の購読者数が減ったりしているようだが、それでも全国紙を購読している割合はアメリカと比べるととても高く、3/4の世帯が新聞を読んでいる。ナショナルブランドも人気が強く「自分だけのお気に入りを見つけたい」という人も増えない。つまり、公共には関与したくないという気分は強いものの、かといってそれを離れる勇気はないのである。
NHK問題への反発の裏には実はこうしたジレンマがあるのだと思う。例えばテレビがなかったとしても時流に取り残されることはない。光ケーブルさえあればTVerでドラマとバラエティーを見て、Yahoo!ニュースの動画配信サービスをみればたいていのことはわかる。まとめてニュースをみたいという人がいるかもしれないが、時間を埋めるためにくだらないコンテンツを集積しておりストレートニュースを流す時間はそれほど多くない。にもかかわらず日本人はテレビを捨てられない。
一方で、こうした公共への不信感は忘却へとつながってもいる。例えば「糸井重里的なものの終わり」を見たときに、怒っていたのは大衆文化とつながっていたい人たちだった。彼らは自分たちの意志が反映されず、いつまでも原宿でタートルネックを着ていい格好をしている文化人の人たちのいうことを聞かなければならないという反発芯がある。つまり「お前らだけがいい格好するために、俺たちを利用するな」ということである。しかし、実際にはこういうブンカジンはもはや流行を生み出してはいない。むしろ流行はインスタグラムの動向によってしたから決まっており、押し付けられた運動は無視されるだけである。
NHKを滅ぼすのは最高裁判所ではないし、最高裁判所が違憲判決を出してれば逆に言論への司法への介入ということになってしまう。むしろNHKは人々の無関心と忘却によって滅ぼされることになるだろう。それは政治家が公共空間を私物化してNHKがそれに乗っているからだ。国民はバカではないので、例えばオリンピックの馬鹿騒ぎが国民のための運動ではなく、一部の人たちが生き残るために利用されているのだということに気がついている。公共を私物化することは怒りを生み出すが、実際に公共を滅ぼすのは怒りではなく無関心と忘却である。
今の高齢者はテレビが必需品なのだが、若い人たちはそうではなくなりつつある。中高年にとって固定電話がない状態を想像するのはむずかしいが、今の若い人たちの中には「固定電話など意味がわからない」という人もいる。地上波のドラマとバラエティーの一部はTVerで見ることできるし、ニュースはYahoo!で民放のニュースを見ることができる。だから「パソコンやスマホ」さえあればテレビはいらないという時代がもう来ている。
むしろ問題なのは公共の押し付けに怒っている人たちがその公共から逃れられないという点なのかもしれない。必要なのは今ある公共に過度に期待せずに適当にお付き合いすることと、自分たちの公共を新しく作り出すことだろう。我々は自分たちに優しい公共を作り出すための方法をあまり知らない。ソーシャルメディアに飛び込んで誰かとつながるためのスキルを学ぶか、一人で生きてゆく方法を今より積極的に学ぶべきなのかもしれない。