4000人のユダヤ人とNHK解説委員の自殺

ネット上にはさまざまな噂話が流れている。その中の有名なものにダヤの謀略というものがある。世の中がうまくゆかないのはユダヤ人のせいなのだが、それも近々崩壊するだろうというような説だ。この某略説を取るサイトの多くで出回っている4,000人のユダヤ人とNHK解説委員の自殺という有名な話がある。「4000人のユダヤ人」でGoogle検索すると多くのサイトがヒットする。

9.11の際ワールドトレードセンターに勤務する4000人のユダヤ人はすべて病欠していた。これを伝えたNHKの解説委員が5日後に自殺した。多分、ユダヤ人資本に殺されたに違いない。NHKはこれに加担したか、わざと見過ごした。

この話のうち解説委員の自殺は事実らしい。この解説委員が4,000人のユダヤ人の話を伝えたかどうかは確認できない。一部のサイトには『10月10日深夜23時の総合テレビ「特集/あすを読む」』と特定しているものもあるが、情報ソースが単一である可能性もある。

実際にユダヤの謀略があるかどうかは分からない。ただ、この「4000人のユダヤ人」の話はデマらしい。4,000 Jews, 1 Lieによると、イスラエル国籍のニューヨーク在住者(貿易センタービルで働いていたユダヤ人ではない)の数が4,000人だった。情報が錯綜していた当時、「あのような事件を起こすのはユダヤ人に違いないということから、まず中東で伝えられたものがアメリカの新聞に伝わり、ネットからメールで拡散したようだ。

よく、情報の間違いを防ぐ為には引用元を表示すべきといわれるのだが、ユダヤ陰謀説を唱えるサイトの多くが引用元を表示しているが、あまり役には立っていないようである。全く同じ文章が多くのサイトでコピペされている。

インターネットでは多くのページが書かれたまま残り続ける。それを検索するといつまでも間違った情報があたかも真実であるかのように人々の眼に触れることになる。

最後にあやふやな情報を一つ。この解説委員がなぜ亡くなったのかはよく分からないのだが、アメリカで流行っていた噂に流されて全国放送で噂を流布してしまったのでは、などと考えてしまった。この話の真偽はもはや確かめようがない。

ネットジャーナリズムと新宿焼身自殺未遂

6月29日の午後2時頃新宿南口で集団的自衛権行使容認に反対の演説をしていた男性がガソリンのようなものをかぶり焼身自殺を図った。行使容認への抗議と見られるが詳細は不明だ。このニュースからネットおよびテレビのジャーナリズムの距離感が分かる。

テレビはストレートニュースで伝えたが、その後東京・埼玉・千葉などでゲリラ雷雨のニュースに置き換わった。逆に反応したのはハフィントンポストやTwitter・YouTubeといったネット系だ。検索するといくつもの画像やビデオが閲覧できる。YouTubeにはわざわざCGで作りこんだものもある。

この人の政治的背景が分からないとテレビではうまく伝えられないようだ。右翼や左翼の可能性もあるし、「単なる自殺」なのかもしれない。テレビのような公共性の高いメディアでは男の背景が分からないとうまく伝えられないようだ。

興味深いのは取り上げ方によって全く違って見えるという点だ。「繁華街で焼身自殺するのは迷惑だ」という伝え方と「集団的自衛権行使容認は焼死自殺者が出る程のひどいものだ」という伝え方では、行為の意味が全く違って見える。テレビでは短く伝えられただけなので「全く知らない」という人もいるだろう。

ネットメディアは発信者の責任で好きなように情報を流すことができる。また記録として残る「アーカイブ性」もある。このような利点がある一方、欠点もある。SNS人口は約5,000万人程度と言われており、それ以外の人たちには伝わりにくい。また、最初から発信者の主義主張と結びついており、その人のたち位置によってまったく違った情報として伝わる可能性がある。異なった意見が集らないので問題解決に結びつきにくい。

最も危険性が高いのはこれが噂やデマを引き込みやすいという点だろう。改めて日経新聞の記事を読むと、男の身元や動機などが分からない。曖昧な情報は拡散されやすい(豊川信金事件を参照のこと)ので、元々の意図とは異なったデマになりやすいのである。

一部ではあるが海外のニュースには三島由紀夫や切腹文化を引き合いに出したものもある(New York Post)。

朝日新聞の考える戦争とは何か

「特定秘密保護法」の成立が現実味を帯びるに従って、朝日新聞がヒートアップしている。「今は、新しい戦前だ」という扇情的なフレーズも飛び出した。

民主主義への懐疑は至るところで表面化しつつある。今日現在も、タイとウクライナで「民主的に選ばれた政権」がデモで攻撃されている。国際情勢が流動化するに従って様々なリスクが表面化してきた。東アジアでは中国がアメリカ中心の均衡を打破しようと試みている。

国民は情報を集める事はできるが、それをうまく解釈することができるとは限らない。また、好きな情報だけを取ってくることができるようになると「お気に入り」の情報ソースを持つことになる。

現代はリスクにあふれている。具体的な問題と単なる可能性がごっちゃになった世界だ。

ジャーナリズムの責任は大きい。「漠然としたリスク」をより広い視野で、具体的な問題に落とし込んで行く責任があるだろう。

安倍政権は民主主義を重要視しておらず「支配者気取り」で政治権力を意のままにしたいと考えているようだ。その割には当事者能力が低く、いざとなったらアメリカの意向ばかりを気にする。各方面に様々な約束をしているため収拾がつかなくなっている。コメの問題ではアメリカとJAのどちらの肩を持つのだろう。また、第二次世界大戦当時に先祖たちが受けた扱いを不当だと感じていて、その名誉回復を模索しているだけかもしれない。つまり「世が世なら自分たちは支配者階級だったはずなのに」というわけだ。

戦前の「限定的な民主主義国家」に逆戻りしそうな雰囲気はある。しかし、いくらなんでもこれを「戦争」に結びつけるのは拙速だろう。

第二次世界大戦は政治家と軍人だけが成し遂げた戦争ではなかった。国の情報コントロールがあったことは確かだろうが、新聞社や国民も「成果」を挙げる軍人と戦争を支持した。また、当時の日本は緊密な国際通商の恩恵を受けておらず、世界的に孤立しても「失うもの」が少なかった。さらに、当時は帝国主義の時代であり、現在とは状況が違っている。

ところが、朝日新聞に出てくる識者たちは、懐古的な政治家たちの動きを心配しつつ、あたかも第二次世界大戦に再突入するかのような懸念を抱いているように感じられる。このような「正体が分からない」ものを怖がるのは幽霊を怖がるのに似ている。「だから根拠がない」というのではない。正体が分からないから不安が増幅する。こうした正体の分からない不安は、当座は人々の興味を引きつけるだろうが、やがては「見ないようにしよう」という感情を生む。つまり、疲れてしまうのだ。

朝日新聞は「明日にも戦争が起こる」と言っている人に対して「その戦争はどのようなものなのか」と具体的に説明するように求める必要がある。単に主張を繰り返して怒り出す人は相手にしなくてもよいと思うが、「左側の人たち」は真面目な人も多いので、彼らは考え始めるだろう。具体的なことが分かれば、検証ができるし、あるいは怖くなくなるかもしれない。

「リスク社会」というように、現在は様々な「可能性としての脅威」が情報として直接国民一人ひとりに飛び込んでくる。このため、心配ごとを抱え込もうと思えば、いくらでもネタを見つけることができる。その一方、リスクに怯えていると、実際に現実化しても疲れて対策が取れなくなってしまう。

「リスクに疲れた」国民は、次の選挙でより簡単な解決策にしがみついてしまうかもしれない。これこそが第一次世界大戦後にドイツ国民が犯した間違いだ。つまり漠然とした不安こそが「次の戦争のきっかけ」になる可能性があるのだ。

ジャーナリズムと場

ジャーナリズムの衰退が語られている。もう新聞の需要がなくなったという人もいれば、ジャーナリズムは民主主義の要であり新聞は重要だという人もいる。そもそも、新聞はどのように始まり、どういった読者に受け入れられたのだろうか。

ヨーロッパにおける新聞の祖先には二つの説がある。政治パンフレットと商業出版物だ。政治パンフレットの歴史は国民の知る権利を巡る闘争の歴史だ。ヨーロッパでは国が出版を管理する時代が長く続き、政治パンフレットの発行を理由に死刑になる人もいた。一方、商業出版の歴史では広告宣伝とニュースの間の線引きが問題になる。

イギリスのアン女王時代に出版された最初の日刊新聞デイリー・クーラント(リンクはwikipedia)の出版部数は1,000部以下だった。特定の政治信条を主張するパンフレットと違い「ニュース編集者の主観を入れない」という方針で知られていた。

この時代1712年に新聞税が課税されたのだが、人々はそれでも新聞を読みたがった。その読者はどのような人たちだったのだろうか。

イギリスではトルコから入ってきた流行の飲み物であるコーヒーを楽しみながら新聞や雑誌を読むコーヒーハウスが人気だった。ここで議論が交わされ、世論が形成された。商人たちは情報を交換し合い、ビジネスも生まれた。新聞はコーヒー・ハウスで読まれていたから、1,000部以下の部数でも世論に対する影響を持つ事ができたのだ。

仲間と一緒に新しいビジネスに取り組むとき、海外から入ってきた新しい事物に関する情報には需要があった。デイリー・クーラントが「ニュースに編集者の主観を入れない」と宣言したのは、読者ができるだけ中立な情報を望んでいたからだろう。

残念なことに、現在の新聞が特定の場にいる読者を想定して記事を記事を書くのは不可能だ。だから、現実や読者はこうあるはずだという像を作り上げるしかない。しかし、新聞が態度を変えない一方で、読者を取り巻く環境は大きく変化し続けている。ネットが台頭し広告収入が減った影響で、大規模なリストラを行う新聞やネット版への完全移行を決めた雑誌もある。

ジャーナリストの多くは、ジャーナリズムの伝統を所与のものとして捉えており「ジャーナリズムがどうやって成立したのか」という歴史に思いを馳せる人は少ない。日本ではジャーナリズムの崩壊は民主主義の危機だというような本が出版されているのだが、そもそも伝統がどう作られたのかを研究している人もほとんどいないようだ。

場の成り立ちがそれに相応しいメディアを生むのであって、メディアが場を作るわけではない。基本的なところだが、ジャーナリズムの危機を考える上では重要な視点ではないかと思う。

リスク社会とは皆様のNHKが正解を提示できなくなった社会のことだ

木曜日のあさイチは面白かった。室井佑月さんが政府の御用学者とみなされている中川恵一氏の見解にかみついたのだ。詳細はコチラから。そもそも20msvという値に対する学識者の対応がばらばらなのに加えて、食べ物から入る被爆量は考慮されていない。各官庁が縦割りで基準値を出しているからだ。だから室井さんは「福島県では郷土愛から子供たちに地元の農産品を食べさせているようだが、せめて食事だけは地域外のものを」と発言したのだろう。

ここでNHKはジレンマに悩まされる。「みなさまのNHK」としては、福島の野菜や魚の安全を疑問視されては困る。風評被害につながるからだ。

ここで色々な人の思いの思いが錯綜する。ここで飛び出したのが柳沢秀夫解説委員である。他の出演者の話を遮って話を進める。いっけん、中川さんを批判しているような調子で「火消し」に走った。これがどきどきした理由である。そして、テレビって面白いなあと思った。声の調子や表情からかなり明確に場の葛藤が伝わる。

原子力発電所の問題は科学技術に属することなので正解がわかりそうだが、実際はそうではない。なぜならば、今後20年になにが起こるかは誰にも分からないからである。今、原子炉の中でなにが起こっているかすら分からない。セシウムの挙動についてもよく分かっていないようだ。

番組の途中から中川さんも、口に出しては言わないものの「俺もどうなるか分からないもんね」的な態度を見せ始める。そして、お得意の「野菜を食べない人」と「受動喫煙」を持ち出して、話をそらそうとした。しかし、2か月以上こういうお話に付き合わされて来たNHK側の人たちは、もはやこの手法には反応しない。

室井さんが主張するように厳しく基準を当てはめると、避難区域はさらに広がるだろう。もしかしたら福島県全域に人が住めなくなるかもしれない。そして福島県の農産物や水産物は深刻な風評被害に晒されるだろう。財界と株主は負担しないことを決めたようなので、そのコストを支払うのは国民と東京電力圏内の人たちだ。

誰も正解がわからないのだから、この問題に関してNHKは「みなさまの」(つまり万人が満足して、良かったよかったと喜び合える)ポジションを取りえない。「情報をお伝えする事によって視聴者に安心していただく」こともできない。もしNHKが「みなさまの」ポジションを取るならば、NHKは最初からこの問題を扱ってはいけなかったことになる。

新しいことに踏み込む前に、西洋文化では、確率を計算する。中央に「起こりそうなこと」の山ができ、左右両端に「起こりそうもないこと」が位置する。起こりそうもないことを過度に心配しても仕方がないので、リスクを考慮しつつ両端を排除する。これを信頼水準と呼ぶ。「過去の統計上95%の信頼水準で健康に被害は出ない」というような言い方をするけだ。これが「確率は0でない」の正体だ。

大竹まことのラジオで、ウルリヒ・ベックが朝日新聞に書いたというエッセー(インタビューかもしれない)が紹介されていた。どうやら起こる可能性は低いが、いったん起こるととんでもない事態を引き起こす事象にあたると言っているようだ。意思決定の際に捨てさるのが「テールリスク」だ。テールリスクとは数学的には正規分布に従うと仮定して、0.03%エラーが起きる可能性をさすのだそうだ

大竹さんは、テールリスクについて肌感覚では分からないようだった。日本人の「安全確実」は100%安心だからだ。が求められる。NHKが目指しているのは「正しい情報を伝えれば、確実に安心安全に行き着くだろう」という地点だったのだと思う。ところがこの件に関しては、正しい情報はなく、確実な安心安全も担保できない。日本人は貴重で豊かな国土を失うという経験をしてはじめてこの「リスクの世界」に踏み込んだといえる。

家庭によって受け入れられるリスクは違うので、一律に提供する給食システムは崩壊するだろう。

そのあとの雰囲気はさらに気まずかった。有働アナウンサーが「さらメシが何の意味か、レギュラーの室井さんだったら分かりますよね」と質問すると室井さんが「サランラップ」と叫んだのだ。NHKでは商標は使ってはいけないとされる。人ごとながら背筋が凍った。

社会の不確実性が増すと、誰でも不安になる。やがてこれは行動につながるだろう。

俳優の山本太郎さんがドラマのキャストを外されたということでTwitterが盛り上がっている。20msvを撤回させようという運動に発展するかも知れない。彼が政治家ではないところが求心力を生んでいるように思える。

日本はいきなりリスクのある世界に放り出されたのだが、日本人はリスクについて理解できない。したがって根本的な解決はできず、怒りは他のところに転移するだろう。

日本ではソーシャルメディアを通したジャスミン革命のようなことは起きないと思っていた。しかし政府や財界のあり方に疑問を持っている人は多い。自分の利害のためには声を上げない彼らが「大義」を見つけたとき、事態は思わぬ方向に向かうのではないか。

こうした運動体を甘く見ない方がいいだろう。