女性記者が福田事務次官を告発したことの本当の意味、とは何か

福田事務次官が辞任したが、まだこの問題は収まっていないらしく「テレビ朝日けしからん」というような話になりつつある。ネトウヨの人たちが朝日を嫌っているのはわかっているのでまあいいとして、リベラルの人たちも好意的な見方はしていないようだ。

昨日のエントリーではテレビ朝日けしからんというような書き方をしたのに態度を変えるのかといわれそうなのだが、みんなが朝日系列叩きを始めると、価値判断なしにこの女性記者の是非を考えたくなった。へそ曲がりと言われればそれだけなのだが、価値判断なしに何かを考えるのは実は難しい。

しばらく考えていたのだがよくわからない。そもそも、なぜわからないのだろうかと考えた。普通の企業であれば記者の稼働時間というのはコストなので情報を得るコストと価値を天秤にかければよい。だがそれができない。理由はいくつかある。

第一の理由はどこのテレビ局も同じような情報を流しており情報に価値がないからだ。極論すると政府広報と民放一局で良いのではないかと思える。あとは週刊誌が二誌あれば良い。競争が働くのでそれなりのスクープ合戦が起こるだろう。

また人件費の問題に落とし込むのも難しそうだ。日本の記者というのはオフィシャルの情報をとってくるだけではダメで私生活に食い込んで「本音の話を聞く」のが良いとされているらしい。このブログでは普段から非公式な意思決定ルートが民主主義にとって害悪であるという論を採用しているので、まあこの線でアプローチしてみても良いのかなと思った。だが、実際には「みんながやっている」ことを一社だけ降りるのは難しそうだ。

福田財務事務次官というのは、女性記者が私生活を切り売りして情報をとる価値がある相手なのかと考えた。仲良くなって取れる情報というのは「いずれは公になる情報を他社より少し早く知ることができる」か「財務省が流したい情報をオフレコと称して流す」という二つが考えられる。もしこれが株価に関係するような内容であればいち早く情報を取ってくるのは重要だろうが、そんな情報を軽々しく流すとは思えないので、結局は情報機関の自己満足か財務省のために使われるということになる。だからこの一連の取材活動は無駄だと言える。

だが、そもそも記者が私生活を切り売りしていることが報道社のコストであるなどという論調はどこにもない。これはなぜかと考えてみた。第一に記者たちが仕事時間と私生活を切り離していないという事情があるだろう。つまり「私生活に切り込んでなんぼ」と記者を<洗脳>することで報道社はブラックな職場環境を作っていることになる。ブラックでも記者というのは特権的でやりがいがある仕事とされているので「女性だから使えない」とは思われたくないのだろう。

ではなぜ報道社の記者というのは特別なのだろうか。それは報道社が特別だからだ。ではなぜ報道社は特権的な地位が得られるのか。それは記者クラブがあるからである。女性記者はフリーになるかネットメディアの記者になるという選択肢があったはずだが、いずれも記者クラブから排除されるので取材活動そのものができなくなる可能性が高い。皮肉なことに今回のテレビ朝日の深夜会見でもネットメディアは排除されていたらしい。

記者クラブが特権的な地位を得ることで、労働者である記者は隷属的な地位に置かれるのだが、それ以上の問題がある。国民は新しい視点からの情報を得ることはできないのだ。すると、財務省は「特権的な地位」の許認可権限を握っていることになる。これが報道社から便宜供与を受ける理由になる。

それなりにメディア倫理が働いていると指摘する人もいるのだろうが、普段から行状に問題がある人のセクハラすら告発できない会社が、財務省に都合が悪い情報を流せるはずはない。当然、女性記者の上司のように何かの理由をつけて自粛するはずだ。そしてそれは国民の知る権利を阻害しているということになる。

結局「記者クラブが悪い」ということになった。期せずしてわかったのはこれが単に女性や労働者の人権問題であるだけでなく、国民の知る権利に関わっているということだ。福田事務次官の「名乗り出ることもできないだろう」という強気の裏には「国民の知る権利などというのは高級官僚の胸先三寸で決まるのだ」という確証があったのではないかと思う。「報道各社も独占的に情報を得ることでおいしい思いをしてきたでしょ」ということだ。

そう考えるとこの女性記者が発したメッセージの意味は実は我々が考えているよりもっと重いものなのかもしれない。女性記者が守られるためには「テレビ朝日の配慮を」というような声があるのだが、多分テレビ朝日はあてにならない。当座は女性ジャーナリストが連携して彼女を守る必要があるのだろうが、実はフリーの記者を含めた人たちが連携して彼女を守らなければならないのではないかと思える。これは独占的に情報を占有している報道者と官僚機構の共犯意識から生まれたハラスメントだからだ。

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福田事務次官辞任騒ぎにみる女性差別の恐ろしさ

先日財務省の福田事務次官について書いた。だが、ネットを見ているとそれでも名乗りでなければならないというような論調がある。例えばこの記事は「名のり出なければ福田事務次官の不戦勝になる」と言っている。真実を明らかにするためには名のり出なければならないと言っているのだが、実際にはそうはならなかった。

この記事の前提には「真実は明らかにならなければならない」という前提がある。これが間違っていると思いその筋で一本書こうと思っていた。現在の民主主義にとって「真実」などどうでもいいことだからだ。安倍政権は明らかにクロなのだが、それを認めないことで「まあ、仕方がないか」というような印象操作をしてきた。この背景には有権者の諦めがある。政権交代をしても政治は良くならなかった。だったらもう諦めてしまえという思いが強いのではないかと思う。だが、それは諸刃の刃だった。有権者が体感からこれは「クロだな」と思ってしまうと合理的な説明はきかなくなる。福田さんの件はこの最初の事例になった。政権が動かない分個人に矛先が向かうのである。「やめさせてどうなるの」と思うのだが、そんなことはもうどうでも良いと思われてしまうのだ。

女性は普段からなんとなく「自分たちは不遇な立場に置かれている」という気持ちを持っている。だが、それはなんらかの理由で証明されない。これを「ガラスの天井」などと言っている。今回はそれがたまたま「明らかに嘘つきの政権」と結びついたことで「ああ、やっぱり男社会は女を差別して嘘をついているのだ」という確証に変わってしまった。福田事務次官が何をやったかというよりも、男性社会がそれを総出でかばっているということが問題視されるのである。

もう一つ安倍政権にとって不利な状況がある。官邸側は福田事務次官の辞任に動いたのだが、安倍首相の部下であるはずの麻生財務大臣が応じなかったという。任命は内閣人事局マターのはずなのだが、これまで人事に関する問題は各省庁に答弁を丸投げしていた。これを逆手にとられて「やめさせられない」と言われてしまうと官邸は何もできなくなってしまうということがわかった。もう安倍首相にかつての求心力はない。

ただ、この問題は実はここまででは終わらなさそうだ。テレビ朝日に飛び火したのだ。テレビ朝日の女性記者が会社に訴えたものの受け入れられず、やむなく週刊誌に流したという。さらに何もしなかったことに申しひらきができないと思ったのかあとになって会社側は「財務省に抗議する」と言っている。だが、それは福田事務次官がやめてしまったあとだった。テレビ朝日の動きが辞任につながったという批判を恐れたのだろう。

このことから女性の置かれているダブルバインドが可視化された。表向きは平等ということになっているが、実際のメッセージは男性並みになることを求められる。それは女性であることを捨てて男性性を帯びるということである。男性並みに家庭を顧みずに働くことを求められ、女性を蔑視して「言葉遊びを楽しむ」特権を許容するように振る舞わなければならない。さらに母性は弱さだと認識されると子供を作ることを諦めなければならない。しかし、場合によっては女性として男性の玩具になることも求められ、それを会社に訴えても「我慢しろ」と言われる。会社にとって「女性のような弱いもの」が政治記者というスーパーサラリーマンであることは許容されないからだ。明らかに根拠のないエリート意識を持っていて女性蔑視を特権だと認識する社会が間違っているのだが、それを是認しろと迫られるのである。この状態でアイデンティティクライシスに陥らない人がいるとしたら、その人は多分すでに少しおかしくなっているはずだ。

どうやら女性記者は複数回福田次官からセクハラを受けていたようだ。しかしテレビ朝日はそれを公表せず、事態が動いたことから慌てて深夜に記者会見を行った。上司に相談したというが上司が組織的に対応したのかは明らかにしていない。多分受け皿そのものがないのではない上に、男女平等が何を意味するのかを教育する仕組みもなかったのではないだろうか。

福田さんは週刊誌と女性を訴えれば良いと思う。彼の行状が司法の場で明らかになり、テレビ朝日が組織的な対応をしなかったことは社会的に明らかにされるべきだろう。そしてそれは社会的に非難されるべきだ。しかし、実際にやるべきことは少なくとも表向きではあったとしても「男女平等」というものが「女性の男性化」でも「男と一緒になって女性蔑視のある状況で働くこと」でもないということを教える学習の機会を従業員に与えることである。

民法労連は「女性が現場から切り離されることがあってはならない」と恐れているようだが、このような嫌がらせを前提にしか情報が取れないなら、その報道自体をやめるべきではないかと思う。取れたとしてもせいぜいインサイダー情報程度で大勢には影響のない永田町と霞ヶ関の内部事情にすぎないからである。いずれにしてもこの声明も「女性が社会で働くこと」についてあまり整理がなされていないことを意味しているように思える。

いずれにせよテレビ朝日はこの状況を被害者ではなく加害者として総括すべきだろう。

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福田財務事務次官更迭騒ぎ – ポリティル・コレクトネスの世界にようこそ

財務省の福田事務次官がセクハラ騒ぎで炎上している。Webに公開されたものはどうやら本人のものであることはまちがいがないらしく、3つのテープをつぎはぎしたものが出回っているようだ。週刊誌が捏造したという話もあるのだが、むしろいろいろなところで同じようなことをやっているということなのだろう。

この事件はもちろん安倍政権の末期症状の一つとしても捉えられるのだが、日本がポリティカリーコレクトな社会に入ったことを物語る最初のケースになるのではないかと考えられる。

これまで職業に入った女性は男性社会に合わせて行動するのが「正しい」と考えられてきた。名誉ある男性社会の一員として「受け入れてあげる」代わりに母親であることを諦めたり性的な嫌がらせに耐えるという嫌な経験を引き受けるということだ。だが、これからは知的な職業であればあるほど「人権に配慮した人が正しい」と考えられるようになるだろう。逆に男性は「これくらいいいじゃないか」と思ったとしてもそれを絶対に口にだすことはできない。男性は常に政治的に正しくなければならない。

もしかしたら被害者は一人ではないかもしれない。会話の様子から会話は最近のものらしいのだが、もし一人にしかやっていないなら直近の行動を調べれば該当記者が分かるはずである。「該当者は名乗り出るように」といっているところをみると「誰に言ったのか」がわからないということで、これはすなわち方々で同じことをやっているのだろうということになる。

これは政界だけの問題ではない。報道各社も彼の人格が分かっていて女性を担当者として当てていた可能性が高い。複数だとしたら複数の会社が同じことをやっているということだ。そして「情報を取る」ことを優先にして女性記者の人権をないがしろにしていた可能性が高い。「役立たずの女なんだからせいぜい女を武器にして会社に貢献してよ」というわけだ。

これについて、福田事務次官は辞任するべきだという声があり、出所の分からないテープで辞めさせられたら悪い前例になる可能性があるという声もある。確かに個人の能力と人格は別なのだがこれは辞めざるを得ないのではと思える。仮にこれが政権を貶めるための週刊誌のワナだったと仮定して「ではどうしたらよかったのか」と考えてみたのだが「どうしようもないだろうな」と思った。それは男性社会がセクハラ親父に甘いという社会通念があるからだ。その証拠に麻生大臣は「ほらやっぱり」と思われている。

さらに「詩織さん」の件がある。彼女はレイプされたという疑惑があるのだがテレビ局の立場を利用したとされるジャーナリストは立件されず、それどころか「女を武器に仕事を取ろうとしたのだろう」などとセカンドレイプされた。確かなことはいえないが政権が擁護したのではないかという疑惑がささやかれている。もしあのときに厳正に対応していれば今回ももう少し違う展開が考えられたかもしれない。

さらに、だれもが財務省は明らかに嘘をついていると思っている。今回の件も本当に何があったのかは良く分からないが、肌感覚に合致してしまった。福田さんが何をやったのかではなく、その後の男性社会の対応のほうが反発を買っている。男はトクだと「誰もが知っている」のだ。

こうした肌感覚はどこから来るのだろう。

先日駅で女性が男性にしつこく声をかけられているのを見た。お金儲けしたくないですかと言われていたが、さらにナンパも兼ねているようでしつこくLINEのアドレスを聞かれていた。彼女には何の落ち度もない。たんに女性であるというだけである。

さらにTwitterで聞いた話では女性だとエスカレータの真ん中に立っているだけで男性がぶつかってくることがあるのだという。こういう経験をしたことがある男性はいないと思うのだが、女性であるというだけでぞんざいな扱いを受けたりすることがあるらしい。

男性は気がつかないが、女性は常にこのような脅威にさらされている。そして何かあったとしても訴えることができる場所はそれほど多くなく、それどころか「自己責任論」で片付けられてしまう。こうした一つひとつのできごとが積み重なって「ほらやっぱり」という感覚になるのではないだろうか。

常識に根ざした感覚は単なる思い込みかもしれない。だが、週刊新潮側は取り立ててこれを照明する必要はない。ああやっぱりなという普段の感覚に接木されて全体が「常識」で判断される。そしてそれが森友・加計問題のようなもやもやした事件の印象と合体して「分かりやすい」印象が生じてしまうのだ。

こうなるとだれにも状況はコントロールできない。ここで「やはり冷静に人格と仕事とを分けてみては」とか「今、事務次官に辞められると政権に打撃が」などといえば、かばっているとみなされてお前はセクハラ男の味方をするのかと責められる事になるだろう。

こうしたことはアメリカでは珍しくない。日本人男性であるというだけで沖縄や女性を蔑視していると取られることはよくあることだ。日本人男性であるというステータスは変えられないのでこれも一種の差別なのだが、日本人男性はことさら女性の人権には敏感であるという態度を取ることを求められる。これがポリティカルコレクトネスの世界である。

一方で日本人は差別の対象でもあるので、白人に向かって「あなたの不愉快な態度はアジア人差別ですか」などと言ってもいけない。これは逆に白人男性であるというだけで彼らが有色人種差別者であるというレッテルを貼ることができてしまうとても重い言葉なのだ。白人男性にとってこれは社会的な死を意味する。

このためアメリカでは肌の色が見えていても「見えないフリ」をして、政治的に正しい発言をしなければならない。カリフォルニアのような先進地域だと移民に対しても差別的なことは表立っては言えない。

これまで漠然とした不満だったものが、やっぱり男性社会はいざとなったら女性を不利に扱うのだという具体的な見込みとなり、漠然とした政府の不信感につながる。もちろんそこに合理性はないのだが、いったんできてしまった連想はなくならない。

事務次官の件を放置すれば騒ぎは拡大するだろう。これを解明するためには与野党の女性議員による調査委員会などを作ってセクハラ官僚をすべてパージするくらいのことをやらなければならなくなるはずだ。大げさと思う人もいるかもしれないが「黒人差別」を疑われたスターバックスはアメリカで店舗を休業して研修会を開いている。

財務省側は裁判をするなどといっているようだが、裁判の恐ろしさを舐めている。裁判になると「被害者の会ができるんじゃないか」とされている財務事務次官の普段の言動が暴かれる上に、報道各社が「女性を武器にしてコメントくらいとってこれないのか」などとほのめかしている事実が明るみに出るかもしれない。そもそも報道各社が毅然とした態度を取っていれば女性記者(あるいは記者たち)が週刊誌を頼る必要はなかったはずである。福田さんの強気の裏には「奴らは情報が欲しいのだから訴えてこないし表ざたにもしないだろう」という安心感があったのだろう。こうなるともう政治だけの問題ではなくなる。

財務省は「裁判するぞ」と脅せば記者たちの雇用主が黙っていないと思っているようだが、実は雇用主の側も下手に財務省に加勢すると社会的に制裁される可能性があるという点が見落とされている。

その意味ではこの福田事務次官の問題は単に個人のセクハラ発言という問題ではなくなりつつある。日本が本格的にポリティカルコレクトの世界に突入した契機としてとらえられるべきである。

残念ながら原因はこれまでこの種の問題を放置してきた男性社会の側にある。差別意識がなくせないのであれば、日本人男性は本格的に建前を脱ぎ捨てられない社会を生きることになるだろう。

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防衛省日報隠蔽問題の経緯

布施祐仁さんの書いたレポートを読んだ。布施さんは当事者なのでいろいろ細かく書いているのだが、はたから見ているといつ誰が何をしたのかがよくわからない。そこでできるだけ判断を入れずに時系列でまとめてみることにした。とはいえ一つの記事でまとまっているものがない。そこでいろいろつぎはぎしてきた。するとなぜこんなことが起きたのだろうなどと思えてきた。遡ると、小泉政権以前に原因があることがわかってきた。

1980年代の日本は経済定期に成功していたので「その成功分の貢献をしないのはおかしい」という国際的なプレッシャーがあった。しかし国内の論争は第二次世界大戦の頃の対立を引きずっており「現状を維持して何も決めない」のが国是だった。岸内閣時代の苦い記憶のせいかもしれない。

もしかしたら間違っていることがあるかもしれないので、随時ご指摘いただきたい。とはいえ、本来これはジャーナリストの仕事ではないかと思う。


1990 イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が起きた。日本は国際世論から人的支援を求められたが憲法の制約上応じることができなかった。代わりに130億ドルの経済支援を行ったがクウェートをはじめとする国際社会から感謝はされなかった。この経験はクウェートのトラウマと呼ばれており、外務省を中心に国際貢献の必要性が叫ばれることになった。その後、日本は内閣と外務省が「人的貢献」に向けた実績作りを行うことになる。これは具体的には自衛隊のPKO派遣を意味したが防衛庁は部外者だった。(nippon.com

当時、アーミテージ国務副長官から「ショーザフラッグ(旗色を鮮明にせよ)」という圧力があったとされる。そのため政府首脳部は「テロとの戦い」を名目にして自衛隊を海外派兵する実績作りを模索するようになる。イラク復興支援で小泉首相が自体隊の海外派遣に前のめりだったのはこうした国際社会(特にアメリカ)からの圧力があったためと考えられる。

2003 小泉首相は大量破壊兵器が見つかったというアメリカの声明にいち早く支持を表明した。のちに大量破壊兵器はなかったことが判明している。さらに、復興支援への自衛隊の派遣を推進した。これが現在までつながるPKO派遣の端緒となっている。当時の小泉首相答弁をNewsWeekはこう伝えている。結局2018年になってイラクの復興支援で自衛隊が戦闘状態に巻き込まれていたことがわかるのだが10年以上この事実は隠蔽されたままだった。

2003年に国会で「イラクで戦闘がない土地などあるのか」と追及された小泉首相(当時)は「自衛隊の派遣されるところが非戦闘地域」と豪語。しかし、当時のイラクでは外国軍隊へのテロ攻撃が相次ぎ、自衛隊が派遣された2003年、2007年に限っても、米軍だけで、それぞれ486人、904人の死者が出ています。この背景のもと、自衛隊の活動は短期間のうちに終了しました。

2011/8 民主党政権時に国連の要請を受けて菅直人総理大臣が派遣を決定。野田佳彦総理の時に派遣が始まる。最初は2名の調査派遣だったと朝日新聞が伝えている。

朝日新聞によると、わざわざ首相官邸に出向いたパンギムン国連事務総長からの要請を受けた菅直人首相が支援を表明し、野田政権になってから「調査団を送る」という約束をした。朝日新聞はその後の軍事的支援について心配しているのだが、野田首相がどのような心づもりで調査団の覇権を約束をしたのかは見えてこないし、その後本人からの回顧もない。自民党がある程度の戦略的意図を持っていたのに比べると、民主党の対応は場当たり的な印象が強い。

そもそも最初はアメリカを中心とする国際社会への「お付き合い」として構想されたPKO派遣だが、民主党政権下では米国主導ではなく国連主導の平和維持活動への協力として意識されていた可能性がある。あるいは「国連だったらよいか」と思われていたのかもしれない。しかしながら米国追従傾向の強い安倍政権下で南スーダン覇権がどのように位置付けられていたのかはわからない。

日本は小泉政権下で間違った情報をもとにアメリカのイラク侵攻を支持していたことを総括しておらず、南スーダンへの派遣がどのような意図でなされたのかという総括もない。「戦争反対」という声が大きいので、とにかく前例を利用して既成事実を拡大しようとする傾向が強い。そもそも根強い戦争反対論も第二次世界大戦や日米安保の自発的な総括がないところから始まっていることから、過去の記録を振り返らないことが話をこじれさせていることがよくわかる。

2012/12 民主党が選挙で大敗北を喫し、第二次安倍内閣が成立した。

2013/12 南スーダンの戦闘が激化する。その後も戦闘地域は広がり続け、ついには「比較的安全な首都のジュバ」にも危険が及ぶようになる。Yahooニュースが伝えるところによると、この時に撤退することもできたのだが、安倍政権は集団的自衛権の行使容認のための方策を模索しており、実績作りするために南スーダンのPKOを利用しようとしていたのか、それとも単に南スーダンの状況を過小評価していただけなのかはよくわからない。今の所「防衛省が報告をしなかっただけ」で知らなかったことになっているのだが、報道あったので「全く状況を把握していなかった」とは考えにくい。

一方、南スーダンでは2013年12月に内戦が発生。その直後に菅官房長官は「自衛隊の駐屯地周辺は概ね平穏」と発言。その後も、現地の日本人ボランティアが「自衛隊の駐屯地は首都ジュバのなかで最も危険な場所にある」と報告するなか、稲田防衛相(当時)が駐屯地周辺の状況を「戦闘」ではなく「衝突」と表現するなど、政府は危険を過小評価し続けました。結局、2017年3月に政府は「当初の目的を達した」と自衛隊の完全撤収を発表しましたが、その後も南スーダンでは内戦が続いています。

2014/7/2  集団的自衛権の閣議決定が行われる。毎日新聞 はこう伝えている。この後、国論を二分する安保法制論争が始まる。いったん解釈によって集団的自衛権の行使を容認したのだが、2017年になって首相が憲法改正によって自衛隊を憲法の中に書き込むべきだと提案した。これを契機にして自民党の中で憲法改正議論が行われるようになった。

政府は1日、臨時閣議を開き、憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めた。集団的自衛権は自国が攻撃を受けていなくても、他国同士の戦争に参加し、一方の国を防衛する権利。政府は1981年の政府答弁書の「憲法上許されない」との見解を堅持してきたが、安全保障環境の変化を理由に容認に踏み切った。自国防衛以外の目的で武力行使が可能となり、戦後日本の安保政策は大きく転換する。

2015/8 この年の夏には各地で戦争法反対のデモが起こるが安保法案は成立した。安倍首相は「日本人を守るために法整備したのだ」と説明し続け、自衛隊に危険が及ぶことはないとも言っていた。自衛隊の安全確保義務が法律に書き込まれているとHaffinton Postの記事は解説している。シビリアンコントロールの中には「自衛隊の安全確保義務」も書かれている。つまり軍隊ではないと解釈されている自衛隊が「戦闘状態に巻き込まれた」と報告しているのに何もしなかったというのは、法律違反であり、そのまま憲法違反の可能性があるということになる。

また、安倍首相も(2015年)5月14日の記者会見で、自衛隊員の安全確保は「当然」として、「例えば後方支援を行う場合には、部隊の安全が確保できない場所で活動を行うことはなく、万が一危険が生じた場合には業務を中止し、あるいは退避すべきことなど、明確な仕組みを設けています」と発言。

2016/7 南スーダンで大規模な武力衝突が起こる。しかし、日報に武力衝突という言葉が使われていたために憲法第9条との矛盾を突かれると困ると考えた稲田大臣は戦闘を武力衝突と言い換えてきた。稲田防衛相の日報隠蔽疑惑、「瑣末な話」が大事件化の事情…日報問題の隠れた本質

 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣されていた陸上自衛隊の部隊が、昨年7月に政府軍と反政府軍の間で戦車、ヘリコプター、迫撃砲も使い、300人以上の死者が出る大規模な戦闘が起こった際、「戦闘が生起した」という正確な情報を中央即応集団司令部(相模原市座間駐屯地)への「日報」(日々の状況や行動の詳細報告)で伝えていた。

2016/9 現地からの情報を掴んでいたジャーナリストが南スーダンの日報の情報開示請求を行う。この時点では日報はネットワーク上に残っていたようだ。これ以降の記録は主に安倍首相は本当に「陸自の日報隠し」を知らなかったのかによるが、他の資料も補足に使っている。

この頃すでに成立していた法律による「駆けつけ警護」の訓練が始まろうとしていた。毎日新聞の調査によると反対している国民は48%と無視できないほどだったが、安倍政権はなんらかの意図を元にした実績作りのために法案成立後の実績作りに前のめりになっていた。この記事によると駆けつけ警護が行われるのは11月からの予定だった。当時の説明では南スーダンでは武力衝突は起こっているものの戦闘状態とまでは言い切れない上にジュバは比較的安全なので自衛隊に新任務が付与されても大丈夫だと説明されていた。だが、実際にはジュバにも危険が及んでいたのである。

日報を見るとそのことはわかっていたが、その日報を稲田大臣と安倍首相が知っていたかがまだわからない。知らなかったとなると自衛隊が自主的に状況を報告していなかったことになり「文民統制」上の問題になる。文民統制違反は憲法違反となる。(AERA.dot

このため戦後は新憲法で軍人は閣僚になれないとし、自衛隊法で最高指揮官を首相と定めるなど文民統制を掲げた。自衛隊を管理する防衛庁を設け、官僚(背広組)が自衛官(制服組)に優越する「文官統制」の仕組みも作った。それは軍令にも及び、防衛庁設置法では防衛庁長官の命令を背広組幹部が「補佐する」とされた。自衛隊が有事や災害で動く際の指揮内容を背広組が仕切る形だった。

一方で知っていたとなるとやはり政治家と背広組が法律にある自衛隊の安全義務違反違反だったことになる。これは戦闘状態に巻き込まれると自衛隊が軍隊だったということになってしまうということを意味しており憲法違反になる可能性が高い。

2011/10/11 安倍首相は政府軍と反政府の間で衝突は起きたが戦闘ではないと答弁。(Huffinton Post)この時に内戦とは国や国のような組織(国準)の間で起こる活動であると解釈し、南スーダンの活動はこれには当たらないと説明していた。この時点で防衛省から首相や防衛大臣に報告が上がっていたのかはわからない。

稲田氏は「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」とした上で、南スーダンの事例は「こういった意味における戦闘行為ではない。衝突であると認識している」と回答。これに対し、大野氏は「戦闘ではなかったのか」と再三にわたって質問。途中、審議が中断する場面もあった。

稲田氏に代わって答弁に立った安倍首相は、「武器をつかって殺傷、あるいは物を破壊する行為はあった」とした上で、「戦闘をどう定義づけるかということについては、国会などにおいても定義がない。大野さんの定義では”戦闘”となるかもしれないが、我々は一般的な意味として衝突、いわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」と発言。あくまで、戦闘行為ではなかったという認識を示した。

2016/11/19 JB Pressによると駆けつけ警護を任務とする第十一次隊が派遣される。

2016/12 ジャーナリストに日報は廃棄してしまいなくなってしまったという報告が戻ってくる。布施さんによると実際に日報が廃棄されたのはそのあとだそうだ。のちに小野寺大臣にあがった報告ではローカルのハードディスクなどに残っていたことがわかる。

この不開示に誰がどのように関わったのかは不明。つまり、安倍首相や稲田防衛大臣が国会が紛糾するのを恐れて防衛省に不開示を指示したのか、あるいは防衛省が勝手にやったことなのかはわからない。

現在の「文民統制」とは報告書をあげていたかそうでなかったかという議論なのだが、実際には危険状態を誰が認識しておりどういう判断で派遣を継続したのかという問題の方が重要である。さらに、危険があるということを認識しながら任務を拡大したことに対する是非も議論されるべきであろう。

2017/1/17 岡部陸上幕僚長は南スーダンの日報があることを知っており、統合幕僚の辰巳統括官にその旨を報告していた。

2017/1/24 安倍首相が日報(全般)は報告のための文書であり公的文書の管理記録に従って廃棄されたと答弁した。安倍首相が日報が実際に存在しているということを知っていたかどうかは不明。

2017/1/27 辰巳統括官は黒江事務次官に南スーダンの日報問題について相談。すでになかったことになっているので見つかったものだけをあったというようにとの指示を行ったとされる。

2017/2/7  南スーダンの日報はすでに陸幕が廃棄したと言った手前統合幕僚監部で見つかった形にしようと判断し、背広組が稲田大臣にそう伝えた。

2017/2/13 幹部との間の会合で稲田防衛大臣「なんて答えよう」と発言したという記録が残っている。稲田大臣は「戦闘と言ってしまうと第9条との間で問題が起こるから戦闘とは言えない」と答弁して辞任を要求された。安倍首相は応じなかった。

2017/2/15 南スーダンでの記録も残っていないので、イラク復興支援の日報について問われて「こちらも廃棄した」と言わざるをえなくなった。稲田防衛大臣も含めた会合が行われ、黒江事務次官が「なかったといったものをあったとは言えない」と発言したとされる。

2017/2/16 今度はイラクの日報が本当にないのか野党が防衛省に問い合わせ。辰巳統括官は捜索の必要があると認識。(イラク日報についての経緯は毎日新聞の記事による)

2017/2/20  イラクの日報の問題で稲田大臣が「残っていない」と答弁。

2017/2/22「本当にないのか」と稲田防衛大臣が辰巳統合幕僚監部統括官に尋ねた。担当者はメールで3部署に確認したが「捜索したがなかった」と回答をしてきた部署の報告だけをあげて「探していない」部署については確認しなかった。

2017/3/27 教訓課でイラクの日報が発見されたが報告はしなかった。

2017/5 南スーダンからの撤収が決まる。Huffinton Post)の記事によると、政府は「危険だから」ではなく「任務が完了したから」撤収したと説明した。

安倍晋三首相は撤収する理由として、「自衛隊が担当している(首都)ジュバにおける施設整備は一定の区切りをつけることができる」と述べた。ジュバでは2016年7月に大規模な銃撃戦が発生するなど、南スーダンの悪化している治安情勢を考慮に入れた可能性もある。

2017/7/27 特別防衛監察の報告書が出る。防衛大臣が具体的な指示を出した可能性はあるが、照明はできないとした。この時点で黒江事務次官が主導して隠蔽を指示したとされた。責任をとって、防衛省のトップが辞任。稲田防衛大臣は事実上の更迭と伝えられている。

2017/7/28 当時の稲田朋美防衛大臣、黒江哲郎防衛事務次官、岡部俊哉陸上幕僚長の3人が揃って辞任した。(ニコニコニュース

2017/11 日報の実態把握調査が小野寺防衛大臣の指示のもとに始まった。(nippon.com

2018/3/7 三原文書課長はこの時点でイラクの日報があったことを知っていたが、他にいろいろと忙しいことがあったので小野寺大臣には報告しなかった。(JIJI.com

研究本部は1月12日、陸幕衛生部が同31日に、それぞれ陸幕総務課に日報の存在を連絡。陸幕は2月27日に統幕へ報告した。小野寺氏への報告が3月31日にずれ込んだことについて、防衛省関係者は「防衛相への説明や国会質問に耐えられるようにするため時間がかかってしまった」と釈明している。

2018/3/28 18年度予算案が可決され、国会で追求される可能性がなくなった。(毎日新聞)しかしながら、予算案成立の過程では森友学園をめぐる決済文書の改竄問題が取りざたされ、首相夫人の関与を巡り証人喚問が行われた。このため、その他の文書改竄や隠蔽が露見すれば政権の存続すら怪しいのではないかという雰囲気になっていた。その後、加計学園問題で首相官邸の関与があったらしいという証拠が見つかっている。

2018/3/31 防衛省によるとこの日になってはじめて小野寺防衛大臣に「日報があった」という報告がなされたとされている。

2018/4/9 安倍首相が日報が見つからなかったことに関して陳謝した。

2018/4/14 2004年に小泉政権下で実施されたイラクの日報にも戦闘の文字があったことが確認された。(朝日新聞)また、シリアが化学兵器を使ったとしてアメリカが大規模な攻撃を行った。国連による調査は行き詰っており調査団の活動期限もすでに切れていた。今回の攻撃では数百人規模のロシア人が亡くなっているという報道もあり、ロシア政府は国連に抗議したが抗議声明は否決された。安倍首相はいち早くアメリカに支持を表明した。(Blogos)トランプ大統領のシリア政策は支離滅裂であるという観測も出ている。(NewsWeek)ロシアとの親密な関係を強調するが、シリア攻撃でロシア人も殺しているからである。

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安倍首相の嘘はどういう経路で国を衰退させているのか

本日は安倍首相が嘘つきであるという前提で文章を書く。なぜ嘘つきなのかという証明はしない。嘘を嘘と認めることが重要だと考えるからである。誹謗中傷だと取られても構わないが、人格攻撃が嫌いな人は別の言葉で置き換えても良い。

安倍首相は嘘によって政権を維持しようとしている。昨日の決算委員会を見て、嘘を認めるときにも嘘をつくことに驚きを感じた。今回は太田理財局長の答弁をきっかけにTwitterで「太田さんが嘘を認めたぞ」というようなつぶやきが流れ、ほどなくして新聞の記事になった。あまりにも嘘が多すぎるのでそれを認めるのに長い時間がかかり、本当のことを言ったというだけでニュースになるのだ。

この件NHKが「抜いて」、西田参議院議員が指摘し、太田さんが認めたという流れなになっている。ニュースでは西田さんが太田さんを罵倒したところが多く使われたのだが、空々しいにもほどがあると思った。たぶん隠し切れなくなったか佐川理財局長にすべてをかぶせるという落とし所が見つかったのだろう。野党が指摘して見つかると「彼らの得点になってしまう」という気持ちもあったのではないかと思う。しかし、マスコミの人たちもこれがお芝居だということを知っているはずで、知っていて「財務省が嘘を認めた」と言っているのである。異常としか言いようがない。

嘘がいけない理由を倫理的に説明することもできるのだが、ここではPlan/Do/Checkというサイクルで説明したい。計画を実行してチェックすることで学びを得るという一連の流れだ。意思決定がすべて正しいということはありえない。もともと思い切ったことをしているのだから、時々見直せばよい。ことわざ「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とあるのだから間違えること自体は悪いことではない。

しかし安倍政権はこのチェックのサイクルを無視している。チェックすることによって万能感が損なわれるのが嫌なのだろう。

例えば、観察したように北朝鮮を巡る会談から除外されているのに、自分たちのおかげで交渉が進展したのは嘘というより現実否認である。しかし首相が現実否認するとそのあとの議論が一切許されない気分が作られる。それどころか、事実を隠蔽することまで日常的に行われるようになった。自衛隊の日報改竄は霞ヶ関で作った嘘がばれないように後世の教訓になりそうな日報をなかったといって捨てていたという問題だ。首相が過ちを認めて改めないので、その下にいる人たちは間違いを隠蔽して認めないようになってしmったのだ。

安倍政権は学ばないので自分たちの自分たちの政策がどんな影響を与えるのかを予測できない。これが嘘の最初の副作用だ。

現在の保守政治家は学ばないことを怖がらない。すべての教訓はすでに経験によって獲得していて自分はすべて知っていると考えているからなのだろう。西田議員と彼に続く自民党議員たちの質問を見ていて彼らhが学ぶ必要がない理由がわかった。西田議員はある意味選挙で何が一番重要なのかを正しく認識している。有権者は経済が成長しない理由を取り除くことなど望んではいない。彼らが欲しがっているのは当座の仕事である。

今回の質疑で西田さんは「どんどん鉄道を作ればよい」と主張し、プライマリーバランスの改善などどうでもいいと言い出した。経済成長すればプライマリーバランスはおのずと改善するのであって今は経済成長を再び起こすことが重要なのだという。多分念頭にあるのは世銀からお金を借りて新幹線を作ったように借金で鉄道建設を促進することなのだろう。新幹線ができてから経済成長が始まったという明確な経験が元になっているのだろう。これは戦争で破壊された生産設備が現代的な形で復活したので借金が役に立ったという点をまるで無視しているのだが、彼らにとってはそんなことは些細でどうでもいいことなのだ。

とにかく景気が良くなるまでお金を使えという話なので特に学ぶ必要はないし推移を注意深く見る必要もない。経済成長しないなら使い方が足りないといって騒げばいいのである。

これに対して政府側は議論せず「国際的信用も大切だし、地方にもお金を回したいし」というあいまいな答弁をしていた。足元では情報の改竄が恒常的に行われているのですでに自分たちが何をしているのかが分からなくなっており何も決められなくなっているのかもしれない。

だがさらに深刻なのは野党側だ。政府与党が小出しに嘘を回収するので、嘘を追及することが存在意義になってしまっている。政権運営の経験が乏しいかほとんどないので対案を出したりチェックしたりということができないのだが、嘘をついているのだろうと糾弾することはできる。小西ひろゆき議員は数まで数えて執拗に「安保法制が違憲だということになったら総理をやめますか」と質問をしていた。安倍首相がそれを認めるはずはないのだが、森友問題で旨味と達成感を学んでしまったのだろう。

本来ならこうした野党議員は淘汰されてなくなるはずなのだが、安部政権がこまめに嘘をついてくれるおかげで仕事ができてしまっている。こまめな嘘と隠蔽は野党に対する安倍政権の雇用対策でもある。

さらにマスコミは明らかに嘘だと分かっていることでも、政府が公式見解を出すまではなかったこととして報道する。そして政府が嘘を撤回するたびに恭しく「認めた」と伝えるのだ。マスコミが政府のお芝居にお付き合いするのは自分たちが責任を追求されたくないからだろう。「誰かが言っている」と書いている限り、自分たちの責任が追及されることはない。

日本は強い中央政府が協力に産業を推進することで成り立ってきた国だ。だから官僚機構の政策立案能力の低下は国の成長を著しく阻害する。すべての官僚がチェックではなく嘘のためにリソースを浪費しているので、経験から学びながら政策立案能力を磨くことができなくなっている。そして議員にはそもそも政策立案の意欲はない。

最初に安倍首相が嘘つきであるという前提で議論を始めたのは嘘つきであるということを証明することに時間を割かれると経験から学ぶことができなくなってしまうからである。このままでは日本は何も学べないどころか、今どこにいて何をしているのかすらも分からなくなってしまうだろう。すでにそうなっているかもしれない。

嘘という価値判断を含んだ言葉が嫌いであれば「現実から学ばない」と言い換えてもらっても良い。学ぶつもりがないというのは恐ろしいことなのだが、「全てを知っている」と思っあがっているとその恐ろしさもわからなくなってしまうのである。

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自衛隊の日報隠しがなぜいけないのか理解できなかった……

今日の話はちょっと気が進まない。普段わけ知り顔で得意そうに政治について書いているのに、今回は自分があまり賢くないということを示しているだけのエントリーになってしまうからだ。

実は自衛隊が日報を隠したことがなぜいけないことなのかがよくわからなかった。よくわからなかったので興味がわかず、あまり取り扱ってこなかった。

この疑問を解決するためには解決しなければならない二つの要素がある。一つは日本の防衛戦略に関する基礎的な理解である。これについては別に書くかもしれないのだが、要約すると次のようになる。

日本は国民の理解を得ながら防衛戦略を推進するしかない。変化の多い環境では「一人のリーダーが独占的に意思決定する」か「みんなが納得して意思決定してゆく」という二つの選択肢しかない。北朝鮮は前者を取ったわけだが、いったん国際社会に組み込まれてしまうと今度は経済的競争という「平和な戦争」が始まり、やがて労働党独裁では対処できなくなるだろう。中国のように限定的な解放という戦略は狭い北朝鮮では取れない。

ということで、この文章には日本は国民に理解してもらいながら権限を委託してもらうしか生き残る道がないという前提がある。これは民主主義が美しいから民主主義社会になるべきだというお話ではないし、武器を取るとやがて全面戦争になり地球が滅びるというようなお話でもない。一方で、自民党の強いリーダーシップと長い民族の歴史があればおのずと世界から尊敬されるというようなお話でもない。

そもそも、日報って何だろうと思った。何だかわからないので身近なものに例えようと思って題材を探した。最初に思いついたのはプログラミングだった。外付けハードディスクに日報の断片があったということなので素人プログラミングと状況が似ているなと思ったのだ。チームでプログラムをやる場合、当然ながら勝手にローカルにコピーして保存してはいけない。チーム内で共有しているプログラムが持っている変更を常に引き継いで行かないと思わぬバク担ってしまうからである。

しかし、この例は無理がある。森友学園の文書改竄問題のような契約書や決済文書の場合ローカルコピーが様々なところにあるのは問題だが、日報はそのようなものではないからである。このプログラミングのメタファーは日本人が協力できないということを考えるには重要なのだが、今回の例には当てはまりそうにない。

次に考えたのは日報が「トランザクションデータだ」というたとえである。つまり、最終成果物を作るために必要な材料というわけだ。この線で考えてゆくとすぐにそのヤバさがわかった。

「トランザクション」という考え方はコンピュータシステムを嗜まない人にはあまり馴染みがない概念かもしれないので「明細」と言っても良い。つまり日報は最終レポートを作るための原材料だ。

例えばフレンチレストランで食事を楽しんだあとに、ワインでふらふらになった頭で請求書をもらっても、明細は確認しない。これは私たちがお店を信頼しているからである。お店を信頼しているからこそ安心してへべれけになれるのだ。だが、あとになって支払いを思い起こし「過剰請求」されたのではないかと考えたとする。慌てて店に電話したところ「いや、もう明細は残っていないんですよね、そういう決まりなんで」と言われたらどう思うだろうか。多分「ぼったくりだ」と直感するに違いない。

日報は途中成果物なので最終レポートがしっかりしたものであれば特に見る必要はない。しかし仮に疑念があった場合には日報を取り出して「ちゃんと現地の情勢は反映されていますから」と説明しなければならないし「なんならご覧になりますか」と言わなければならない。

レストランの例で説明するとわかりやすいのだが、日報などと言われて「これは法令や省令で保存しなくてもいいということになってるんですよね」などと説明されると、法律じゃ仕方がないなと思ってしまう。稲田前大臣は「請求書は絶対に正しいし、その明細は捨てた」と言っているようなものなのであり、これは無理筋の説明だ。

ここまでドヤ顔で書いてきたが、多分みんなこれがわかっていて騒いでいるんだろうなと思った。新聞を読んでいる政治通の人たちもこれがわかっているんだろう。自分だけが理解していなかったわけで、ちょっと恥ずかしい気分になった。

途中成果物と最終成果物は不可分なので、最終成果物が取ってあるから途中成果物は捨ててもいいという理屈は成り立たない。明細を見せられないということは少なくとも不誠実の証だし、決まりにより捨ててもいいなどというのは、最初から騙す気満々だったということになる。レストランの例でいうと日本政府はぼったくりレストランなのだ。

しかも「何が何でも騙すぞ」と思っていたわけでもなかったらしい。財務省の例を見て「あとで問題になったら誰かのクビを差し出さないと収まらなくなるぞ」とビビったのだろう。ぼったくりレストランとしての覚悟もなかったようだ。

例えば新聞社は記事が最終成果物なので途中成果物は捨てても構わないとは主張できない。確かに取材源の秘匿という問題があり、普段は表にださないのかもしれないのだが、何か疑念があった時には取材メモを出さなければならないだろう。加えて別のところから「実は結論と違った事実を掴んでいた」というような話が出てきたら読者はどう思うだろう。多分、その新聞社は潰れてしまうか世間から叩かれるのではないだろうか。

さらに、調書も途中成果物である。普段はこれをおおっぴらにすることはないのかもしれないが、もしどこかから犯人を有罪にするためにはあってはならない調書が出てきたらどうだろうか。間違った情報だけで有罪判決を出してしまったとしたらその裁判はやり直しになるだろうし、警察は大いに責められるはずである。調書が判決の基礎になっているからである。

調書に関しては刑事事件として刑が確定したものに関しては情報が開示されるという法律があるそうだ。不起訴になった場合には開示されないともいう。

これらのことを考えていて、日報が隠蔽されていたということのヤバさがわかったのだが、一旦理解できると「なぜみんなもっと騒がないのだろう」と思えてくる。よくわからないが一部の人たちが騒いでいるだけなので「あの人たちは政権が欲しくて言っているんだろうな、お気の毒さま」と思っているのかもしれない。

さて、最初のややこしい話に戻る。日本は防衛戦略として「国民の理解を得ながら防衛政策を進めてゆくより他にない」というちょっと硬い話である。この部分はいったん文章を全部書いたあとに付け足した。なぜかというと結論が書けなかったからである。

日本人にとって民主主義は儀式(リチュアル)にすぎないのだから防衛文書が隠されていても儀式さえ滞りなく終わればそれで良いようにも思える。フランスのジャーナリストには「民主主義のお芝居をしている」と書かれているそうである。この人は紳士なのだろうがこれは皮肉ではない。多分事実だ。

政府も官僚も国会も司法もメディアも国民も、日本の民主主義を構成するすべての人たちが表面上はそれぞれの役割を果たしているように見えて、実際には「民主主義というお芝居」を演じているだけなのではないか?という皮肉すら言いたくなってきます。(ルモンド特派員 フィリップ・メスメール)

お芝居でも国は動いているわけだからそれでもいいじゃないかという見解は成り立つ。だがこれが成り立つのは固定的な環境があって、そこに順応するストーリーを時間を書けてでっち上げられる場合だけだ。現実の国際情勢は刻一刻と変化し、アメリカ大統領までもが「日本はアメリカの防衛戦略にフリーライドしている」といって拍手喝采されるようになってしまった。隣の国は核兵器を持とうとしている。この状況に対応する唯一絶対の正解があるという人がいたらその人は十中八九大嘘つきだろう。

こうした情勢の変化を受けて意思決定しなければならないことは増えてゆくはずのだが、その度に「センソー(何の戦争かはわからないけどとにかく「センソー」)ハンタイ」というデモを起こされて国会が止まっては困るのだ。だから、軍が関与する国際情勢上の変化はありのままに伝えられる必要があり、その意思決定はお芝居や儀式では困るということになる。そしてそれは防衛だけでなく経済にも影響が波及する。経済競争は多分「平和な戦争」である。

この点について考え出すとかなり長い文章になりそうなので、今日はここまでにしたい。今日の結論は日本政府は、意気地のないぼったくりレストランだということである。

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二重人格社会 – 小室哲哉は誰に「殺された」のか

ここのところ村落社会について考えている。村落社会、インテリの部族社会と考えてきて、最近考えているのは二重人格社会である。しかし、それだけでは興味を引きそうにないので最近のニュースを絡めて考えたい。考えるのは「アーティストとしての小室哲哉は誰に殺されたのか」という問題である。

今回の<事件>のあらましをまとめると次のようになる。一般には介護へのサポートがなかったことが問題視されているようである。

小室哲哉は往年のスター作曲家・アーティストだ。過去に著作権の問題で事件を起こしその後で奥さんが病気で倒れるという経験をした。職業的には周囲の支えもあり音楽家として再出発したのだが、私生活問題である介護で抑鬱状態に追い込まれたところを週刊誌の不倫報道に見舞われ、ついに心理的に折れてしまった。小室さんは病気の妻を抱えており今後の生活の不安もあるが、今は何も考えられないほど追い込まれている。

周囲から援助されない天才職人の悲劇

この問題についての一番の違和感は、ワイドショーがこれを小室さんの私生活の問題だと捉えていたことだった。アーティストが健全な創作活動をするときに私生活が健全なのは当たり前なのだから、プライベートも仕事の一部である。さらに付け加えれば、普通のサラリーマンであっても健全な私生活があってはじめて充実した仕事ができるのだから「ワークライフバランス」は重要なテーマであるべきだろう。

だが、日本ではサラリーマンは会社が使い倒すのが当たり前で、私生活は「勝手に管理しれくれればいい」と考えるのが一般的である。小室さんの私生活が創作活動と切り離される裏には、こうした日本のブラックな職業観があるように思える。

一時間の会見のを聞く限りでは、ビジネスとしてお金になる音楽家の小室さんに期待する人は多いが、小室さん一家の私生活をケアする友人は誰一人としておらず心理的にパニックに近い状態に陥っているようだということだ。つまり、小室さんは「金のなる木」としては期待されていたが、彼の私生活を省みる人はそれほど多くなかったことになる。

過去に小室さんは、著作隣接県を売渡すことで資金を得ようとしたのだがそれがなぜだったのかということは語られない。もともと電子音楽はいくらでもお金がかかるジャンルなので職人としての小室さんは、良い機材を買ったりスタジオを建てたりしたかった可能性もあるのではないか。継続的な創作活動を行って欲しければ、誰かがこれを止めてやるか管理してやるべきだったのだが、逆に「権利を売り払えばお金になりますよ」と吹き込んだ人がいるのだろう。権利のほうがお金になるということを知っている「裏方」の人がいたのだ。

さらにこうした「裏方」の中には、小室さんを働かせればお金になるし、権利は後から取り上げてしまえばいいと考えていた人たちもいるかもしれない。小室さんは「金のなる木」として期待はされていたが、継続的に音楽活動をするために援助してやるプロデューサ的な人には恵まれなかったということになる。逆に彼が生み出す価値をどうやって搾取しようかという人が群がっていた可能性もある。アーティストは金のたまごをうむガチョウのようなもので、卵が産めなくなれば絞めてしまっても構わないということである。

本来ならこの辺りの事情を合わせて伝えるのがジャーナリストの役割だろうが、そもそも日本にはそのような問題意識すらない。

表に出る人の不幸が商品になる社会

一方、不倫記事が売れる背景についても考えてみたい。つまり「ジャーナリスト様」は何をやっていたのかということだ。

文春はなぜ芸能人の不倫疑惑にこれほど強い関心を持つのだろうか。それは「表向きは立派に見える人でも裏では好き勝手にやっているのだ」と考えたい読者が多いからだろう。華やかな人たちが欲望をむき出しにする姿を見て「ああ、あの人も好き勝手やっているのだから、私も好きにやっていいんだ」と思いたい人が多いのではないかと思う。不倫は個人が持つ欲望の象徴と考えられているのかもしれない。

社会が創造的であるためにいかにあるべきなのかということを考える人は誰もいないが、沈黙する人たちの欲望を満たして金をもらいたいという人はたくさんいる。

有名人がバッシングの対象になる裏には「個人が組織や社会の一部として抑圧されている」という事情があるのではないだろうか。日本人は学生の間は個人の資格で情報発信してもよいし好きな格好をしても良い。しかし、就職をきっかけに個人での情報発信は禁止され服装の自由さも失う。これを「安定の代償」として受け入れるのが良識のある日本人の姿である。その裏には「表に出る人は極めて稀な才能に恵まれた例外である」という了解がある。自分は特別ではないから諦めよう、ただし特別な人たちが少しでも変な動きをしたらただでは置かないと考えている人が多いのだと思う。

これが政治家や芸能人へのバッシングが時に社会的生命を奪うほど過剰なものになる理由ではないだろうか。だからこそ不倫や政治家の不正を扱う週刊誌は売れるのだ。

二重人格社会

Twitter上では週刊文春に対するバッシングの声で溢れており週刊誌を買っている人など誰もいないのではないかと思えてくる。中には不買運動をほのめかす人さえいる。だが、実際に考えを進めると「同じ人の中に違った態度があるのではないか」と思えてくる。日本が極端に分断された社会であるという仮説も立つのだが、同じ人が名前が出るか出ないかによって違った態度を取っていると考えた方がわかりやすいからだ。

異なるセグメントの人がいるわけではなく「名前が出ていて、社会を代表している人」「名前が出ていないが意見を表に出している人」「名前も出ていないし意見も言わない人」というような異なる見え方があり、二重人格的に言動を変えている人たちが多いのではないかと思えるのだ。

これが「二重人格社会」である。

日本を窒息させる二重人格社会

さて、アーティストが優れた音楽を生み出すためには周囲のサポートが欠かせない。私生活の問題に直面する人もいるだろうしビジネス上の知識のなさから資金繰りに困る人もいるだろう。もちろん、作った音楽をプロモートしたり権利を管理する人なども含まれる。

小室さんの件では「介護が大変でサポートする人がいない」と指摘する人は多いのだが、創作活動全般に対してのサポートに言及する人はいない。

さらにその周りには「自分の名前で偉そうにやっているのだから失敗したら大いに笑ってやろう」とか「権利だけを取り上げてやろう」いう人たちがいる可能性もある。こういう人たちが表に出ることはない。

小室さんは会見で「華やかな芸能人になりたいのではなく、単に音楽家になりたかっただけ」と言っている。この意味で「自発的な音楽活動はしない」というのは防御策としては実は正しいのかもしれない。裏方の職人であれば嫉妬を集めることはないからである。だから、小室さんに「戻ってきてまたみんなに感動を与えて欲しい」などとは言えない。彼に存分に創作活動をしてもらうような体制が取れないからだ。

ただし、これは社会にとっては大きな損出だ。なぜならば、表に出て著作活動をする人はその代償として精神的に殺されても構わない社会であると宣言しているに等しいからだ。こんな中で創作活動に没頭する人がいるとは思えないので、日本は創造性の枯渇したつまらない国になるだろう。本当に創作活動がやりたい個人はそうした価値観を尊重してくれる国に逃れてゆくだろう。

日本人の二重人格的な言動は日本を枯れたつまらない国にするのではないかと思えてならない。

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ベッキーさんのリンチ(私刑)ショーなどについて考える

年末にダウンタウンの浜田さん関連の2津の番組が炎上しているのを知った。これがまだ尾を引いているようで様々な観測が流れてくるのだが、例によって反応が二極化している。一方は人権を念頭に置いて浜田さんは野蛮だと言っており、もう一方は日本人は日本人の規範を持ってさえいれば何も恥じ入ることはないのだと開き直っているようである。

さらにこの2つの問題はほぼ同等のものと捉えられているのだが、実際にはベッキー問題の方が根が深い。現実世界でいじめがどう隠蔽されているのか、観客がどう加担しているのかということがよくわかる。また、その奥を下がって行くといじめが我々の世界で麻薬のように働いているということもわかる。そして、そのことに多くの人が気がつき始めている。

そもそも、これらの問題において、どちらの側が正しくてどちらが間違っているのだろうか。

正しい笑いについて正面から捉えようとすれば「笑い」の本質について考えなければならなくなる。ベルクソンの笑いについての分析が有名である。ベルクソンは笑いは社会的な何かであり、結果として緊張の緩和が生み出されると考えた。つまり、笑いが起こるためには見ている人たちが共通の了解事項を持たなければならないということになる。たかがお笑いなのだが、実は社会批評に使えるのである。

エディー・マーフィーはこの「了解事項」の枠組みのわかりやすい例だ。エディー・マーフィーのビバリーヒルズ・コップについて知っている人たちはある程度の年齢層の人たちであろう。原典がわからないとこの笑いを共有することができない。従って浜田さんはかつて獲得した人たちをターゲットにして笑えるコンテンツを作っていることになり、それは同時に新しい人たちを獲得できていないという意味を持っている。

この枠組のずれが作り出したのが今回の騒動である。

アメリカの文化に詳しい人はこの笑いから「ミストレルショー」を想起してしまう。テレビなので当然こうした人たちの目にも触れるし、二次的に消費される過程でTwitterにも広がり、さらにそこから海外にも発信される。教養のある人ならそれが黒人の屈辱に結びついているということをよく知っているだろうし、さらに教養があればアメリカでは東洋人も嘲笑の対象になっているということがわかる。

アメリカには第二次世界大戦当時のプロパガンダに端を発するつり目で意地悪な日本人の類型があり、性格は疑心暗鬼で狡猾なものと決まっている。日系人はキャンプに封じ込められて差別された歴史がある。浜田さんの外見はこの類型に当てはまる。甲高い声で童顔のみっともない東洋人なので、差別される人が他人種を差別して悦に入っているという、とても醜悪で正視しがたいものに見えてしまうのである。

我々が浜田さんに容易に同意できないのは、視聴者がもはや同一の視点を持っておらず、従って笑を共有できないからだ。ある人は昔を想起して懐かしんでいるだけなのだが、別の人たちには許しがたい暴挙に見える。さらに<議論>に参加する人たちのなかには、ジャポニズムもいけないことなのかとピントのずれた議論をしている。彼らはこうしたコンテクストを共有していないのでこの笑いの埒外なのだが<議論>に参加して人権擁護派の鼻を明かしてやりたいと考えている。こうして<議論>はなんら解決策を持たないまま発散してしまう。

今回話題になった二つの問題のうち、和製ミストレルショーはまだ軽い方の問題だ。もう一つのベッキーの問題はさらに深刻な問題を孕んでいる。笑いは共感を通して集団が結束するために有効に働くのだが、その共感のメッセージが問題になってくる。ベッキーさんは芸能界という村にしがみつきたいと考えており、そのためには笑い者になって人々の結束に奉仕せよと言われているのである。さらに悲劇的なことは、いじめのターゲットになったベッキーさんは「あれは美味しかった」ということで、加害者側を正当化するメッセージを送っている。

もちろんこれを「コミュニティに受け入れてもらっているのだから愛である」と捉えることは可能かもしれない。しかしながら実際には玩具として村から弄ばれているだけであり、慰み者か生贄になっているにすぎない。そして、同じようなちょっとした間違いを犯した人たちに「生きて行きたければ、慰み者になれ」という搾取を正当化するメッセージを送ってしまうのである。

無論ベッキーさんが意図してこのようなメッセージを送っているとは思えないのだが、実際には芸能事務所の制裁的な感情があることは間違いがない。つまり「正しい側」として売り物にならなくなったジャンク製品をどうにか二次利用してやろうということだ。

しかし、なぜ社会は慰み者を必要とするのだろうか。

笑いによってもたらされるのは緊張の緩和だ。つまり、笑って見ている人たちが「社会的に真面目な人生」を生きており、「真面目でない人たちに暴力をふるってもよい」と考えていることになる。つまり鬱憤を晴らすためにベッキーさんを生贄として屠っているということが予想される。彼らは、潜在的に「正しくないもの」として叩かれる危険を感じているか、「正しいもの」なのに十分な報酬をえていないと感じているのではないかということがわかる。

しかし、いじめている側は明らかに「いじめはいけないこと」と感じている。観客は正しいものとしてそこに存在するのだからそれはいじめではなく愛あるいじりでなければならない。侵略戦争をする側が「キリスト教で善導してやるのだ」とか「アジア民族を解放してやるのだ」と言いたがるのと同じことである。

そこで「許してもらうための禊であり、本人もありがたがっている」という体裁付けをしており、これを本人にも言わせている。これはいじめをいじりとして隠蔽するのと全く同様のよくある手口であり、ベッキーだけではなく、学校や職場で普段から行われているいじめの正当化にもつながりかねないという危険性がある。

この背景には「真面目に生きている人たち」が、誰か不真面目な犠牲者を引き合いに出さないで自分たちを正当化できないという事情があるのではないだろうか。つまり、我々の社会はどういうわけか誰かを犠牲なしには成り立たないほど緊張しているということになる。そこで、道を踏み外した人たちが常に必要とされるのだ。こうした社会の一番の危険は、つまり「この人は道を踏み外している」という指摘があれば、誰でも私刑の対象になり得るということである。いったん指を指されたら最後、もはや社会の奴隷として生きてゆくしかないということになる。間違いを償う道はなく「蹴られても文句は言えない人」として生きて行くか、別の人をいじる側にならなければならないのである。

私たちが人間関係の軋轢に接した時には二つの反応があり得る。一つは社会を改善することを通して問題を解決するという方法で、もう一つは誰かをいじめる側に回ることでうさを晴らすという方法である。実はこの二つの反応はちょっとした変化によってどちらにも触れ得るのではないかと思う。いじめの容認は、その場では簡単な方の解決策なのかもしれないのだが、蓄積すると問題解決をより難しくするのだと思う。

どちらの問題も「人権上の問題」という共通点があるのだが、実は構造的にはかなりの違いがある。和製ミストレルショーの場合には「アメリカの事情など知らない」という議論は十分に成り立つ。そもそもダウンタウンの芸はいじめの一種であり、日本では長い間これが当たり前のように流通してきた。例えばこれを韓国やタイなどの暴力に敏感な国に輸出することはできない。その意味ではもともと内向きな笑いの一種といえる。才能が枯渇して過去にすがるしかなくなったコメディアンが過去の栄光にすがっているだけと考えることができる。

だからこそベッキーさん問題が出てくる。弱いものを叩いて社会の笑い者にする方が、より多くの人にリーチできる。ワイドショーが好きな主婦から学生までこうした「笑い」を理解できる人は多い。

テレビ局は公共の電波を使っており、こうした私刑まがいの番組を「お笑い」として流すべきなのかという議論は当然あってよい。和製ミストレルショーよりもベッキーさん問題の方が人権上の懸念は大きいので、女性の人権について考える人たちはBPOなどに提訴することを考えた方がよいだろう。もしこれが許されれば「不倫女は足蹴にしても良い」という社会的な合意ができてしまう可能性が高いからである。

しかし、実際の問題は、私たちが共通して安心して笑えるようなモチーフを持ちにくくなっているということなのかもしれない。社会全体がとても大きな不安を抱えていて、誰かを生贄として屠ることなしには、緊張が緩和できなくなっているということになる。こうした笑いは痛みを忘れ去れてくれる効果はあるが、かといって根本的な解決策にならない。その意味では不倫いじめの笑いは麻薬に近いといえるだろう。

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日馬富士暴行問題と貴乃花親方問題の本質とは何か

当初「日馬富士暴行問題」だったものがすっかり貴乃花親方問題になっている。これを観察していると様々な問題が複合していることがわかる。だが、見ている方は一つの視点を持っていることが多いようで、自分の視点にはまらないと「なぜマスコミは本質を言わないのだ」などと感じることが多いようだ。

ここでは前回見た「構造の捉え直し」を通して問題解決の方法を探ってみたい。

様々な問題が錯綜する相撲だが、実は原点はそれほど難しいものではないようだ。その原点とは相撲の定義だ。相撲には3つの定義がある。最初の定義は、相撲がスポーツであるか興行であるかというものだ。スポーツの定義にはいろいろあると思うのだが、ここでは選手がその能力を最大限に追求するためにあるのがスポーツで、見世物にしてお金をもらうのを興行だと定義したい。相撲にはこのほかに伝統の神事であるという側面がある。これを器用に使い分けているように見える相撲協会だが、実はこの違いを扱えなくなっている。

なぜ定義が問題になるのだろうか。もしスポーツだとしたら八百長はしてはいけない。本当に誰が強いがが分からなくなり能力が追求できなくなるからだ。しかし興行であれば選手を長持ちさせる必要があり八百長は必ずしも悪いこととは言い切れない。相撲が真剣勝負に見えればそれでよいからである。

興行としての相撲において興行主は真剣な競技のように見せれば良いので、選手育成にはそれほど力を入れなくなるだろう。一方で、スポーツとしての相撲を追求しその真剣さが神事につながると感じるのであれば選手育成はとても重要な課題になる。「どこに金を使うのか」が違ってくるのだ。

また、相撲をスポーツだと捉えれば柔道のように国際的に開かれたルールですべての人種が戦うような競技が理想形になるだろうが、神事だと捉えると日本人だけが戦うようなものが理想になるかもしれない。さらにこれが現在の原理主義的な民族主義に利用されれば(貴乃花親方の思想にはこうした原理主義的民族思想が入っていると噂されている)相撲はさらに閉鎖的でいびつなものになるだろう。なぜならば、日本人は優れていてアジア諸国の指導者としてふさわしいという理想とモンゴル人に勝てないという現実が折り合わないからである。相撲ではこの衝突は「品格」を使って説明されることが多い。モンゴル人が強いのは日本人のような品格がないからだというのである。

興行としての相撲には、本場所の席代・NHKからの収入・そして地方場所の上がりといった利権を持っている。本場所の席は九州を除いて茶屋制度をとっておりこれが一門とつながっている。この利権を調整しているのが理事の人たちだ。彼らは利権を持っているので興行の神聖性を守り暴力や八百長といった問題をなかったことにしたい。これは極めて当然のことである。だが、相撲をスポーツか民族力発揚の場と考える貴乃花親方にはこれが理解できないし、同調者も少なからずいるようだ。

しかしながら、これだけでは問題は起きなかっただろう。問題になったのはここにもう一つの要素が入ったからである。それは正規力士・非正規力士問題である。正規力士は品格のある相撲をとることで親方になる資格が与えられるので、資格が得られればあとは優雅に相撲をとっていれば良い人たちだ。しかしながら、モンゴル人は国籍を捨てない限りこの資格が与えられないので関取である時代にできるだけ多くの収入を稼ぐ必要がある。このために白鵬は「品格のない相撲」で選手寿命を伸ばそうとし、モンゴル人たちは星の調整を行っているという疑いもある。つまり同じ興行でも、自分たちの投資の回収の仕方が全く違っていることで、興味や関心に違いが生まれ、管理が難しくなる。

これに付け加えて、相撲は伝統文化を守るという「公益」の顔を得てしまった。公益法人にはガバナンスが必要だ。儲けた金には税金を支払わなくてもよいのだが、そのためにガバナンスが効いているふりをしなければならなくなってしまった。これは思った以上に複雑な問題を含んでいる。そもそも興行と公益がイコールでないのに加え、こうした法人は実は内部に蓄積した利権を政治に還流するために利用されることがある。池坊評議委員長は漢字検定協会の理事長を追われた過去がある。漢字検定協会は内部留保金をため込んでおりこの使い道を巡ってトラブルを起こした経緯があるという。公益監査や管理に携わるという名目でため込んだお金を私物化したり、自分たちの企業に還流したいという人たちが大勢いるのである。

そもそも、それぞれの考える目的が違っているのだから、ガバナンスが効くわけもない。だから問題をなかったことにして隠蔽しなければならない。その上に「儲けすぎた金を税金として社会に還元することなく私物化したい」という欲求まで加わっており、一筋縄ではいかない構造が生まれている。それぞれの利害が一致しないので、いつまでも争いが絶えないという構造になっている。

ある人から観察するとこれは刑事事件問題なのだが、別の人たちはこれを八百長談合問題だと見ている。相撲協会のガバナンスの問題だと感じている人もいるし、単に「先輩がいるところで携帯電話をいじるのが失礼」とか「先輩である八角親方の電話を無視する非礼な貴乃花親親方の礼節の問題」に矮小化したいと考える人もいる。さらに日本人はモンゴル人より強いはずだと素朴に感じる人や、協会が蓄積した金を自分たちの企業に振り向たいという人までいる。貴乃花親方は当初からこれを「八百長談合だ」と疑っており相撲協会に反省の意思がないなら自分が知っていることを洗いざらい話すなどと言い始めているそうだ。フライデーや新潮などのメディアが伝えはじめている。

ジャーナリズムがこうした視点を取り出して多角的に伝えることはない。日本人にとっては他の村の利権構造に触れることはタブーであるという事情がある。マスコミもまた村なのでよその村の事情には触れたくないのだろう。さらに、彼らは点にしか興味がなく、それを面として再構成することにはさほど熱心ではないようだ。

相撲が興行であり茶屋利権が理事選挙に影響していることは誰の目にも明らかだが、利権問題に触れてしまうと取材時に情報がもらえなくなることを恐れているのであろうし、すでに八百長問題は解決したことになっている。過去に収集がつかなくなった歴史があるのであえて言い出せば相撲に混乱を与えることになるという懸念もあるのかもしれない。こうした問題を避けつつ曲芸のような報道を続けることで、ジャーナリズムは問題の解決ではなく複雑化に寄与している。

もともと視点が異なっているのだから解決策など見つけようがない。もし解決したいのであれば、そもそも相撲は伝統神事であるべきなのか、スポーツなのか、それとも興行として割り切るのかということを再合意しなければならない。

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今や存在そのものが麻薬になりつつあるNHK

テレビを設置すると自動的にNHKと契約したと見なされて受信料を支払う必要がある。一部には「裁判をするまでは払わなくて良い」という人がいるのだが、裁判をすると負けてしまうのだから、実質契約の義務を負っていると言っても良いだろう。この裁判の結果を見て「NHKを見たくない人もいるのに不公正だ」と感じた人も多いのではないかと思う。

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