サザエさんと憲法

日本会議がサザエさんを理想の家族だと持ち上げたことで、ネットでは批判が噴出した。そこで、もともと母系の家族を父系派の日本会議が押すのはおかしいという話を書いたのだが、世間のリアクションは「世田谷の一軒屋」は勝ち組だというものだった。中流階級の没落を感じさせる話だ。

そこで考えたのはサブちゃんをめぐる話だ。

サブちゃんを殺したのは誰か

サザエさんの中にはいろいろと説明が難しいものがでてくる。御用聞きはその最たるものだろう。磯野家では三河屋さんにお酒を持ってこさせている。三河屋は割引でビールを売っておらず、そもそも安い第三のビールも扱っていないようだ。

そもそも御用聞きが成立したのはなぜなのだろうか。それはサブちゃん(ちなみに10代なのだそうだ)を安いお金で雇う代わりに、ご飯を食べさせたり、家に住まわせたりしているのだろう。サブちゃんも自分のペースで(時々サボりながら)仕事ができているようだ。

サブちゃんは店を継げないかもしれないが、新しい店をだすことができるだろう。地域でのれんわけしてもらいお客さんを分けてもらえたかもしれない。酒屋に必要なスキルくらいは身につけることができただろうし、地方に帰ってお嫁さんをもらって新しい酒屋を作ることもできるかもしれない。

これがすべてできなくなったのはコンビニが生まれたからだ。サブちゃんは時給で使われ、マニュアルですべてが規定された「非正規労働力」になり、将来の独立もかなわなくなった。自分で稼ぐ手段がもてないので、将来の保障が得られない。かといってコンビニもいつまでも雇ってはくれない。

しかし、問題はこれだけではない。サザエさんとフネさんが家にいるので、サブちゃんは自分のペースで家を回ることができた。現在の佐川急便はそういうわけには行かない。届け先が在宅かは分からないし、人によってタイムスケジュールが違っているので、常に街にはりついておかねばならない。だから現代のサブちゃんたちは24時間対応を迫られる。現在のサブちゃんには将来もなければ、余暇もない。サブちゃんは日本のサービス産業がおかれた「ブラックさ」の象徴になってしまうのだ。

波平の父母問題

波平の介護という点も問題になったようだ。現在のスタンダードでは高齢者のように考えられている波平だが実際には定年前なので60歳前だと考えられる。今の常識でいうと、地元に高齢の父親と母親を抱えているような世代である。波平は福岡出身で、海平という双子の兄弟がいる。しかし、父母はストーリーに登場しない。漫画だからだろう。

同じことはフネにも言える。フネの実家は静岡でみかん農家を営んでいる。フネは女学校を出ているので、家はそこそこ裕福だったはずだ。みかん農家はそれなりにうまく行っているようだ。

マスオの母親は存命で大阪で暮らしているが、マスオには兄がおり、兄が面倒を見ていることになっている。もっともマスオはまだ20代なので母親の老後を心配する必要はないかもしれない。父親はマスオが小さいときに亡くなっているそうだ。

このように磯野家、が東京で幸せに暮らせるのは、実は地方の経済が磐石だからなのだ。

タラちゃんの教育問題

タラちゃんはぐうたらな叔父であるカツオを見て育っている。カツオがぐうたらしていられるのは公立小学校でそこそこ勉強しても大学くらいには行くことができ、会社には入れば正社員になれたからである。ところが現在では、カツオのような子供は正社員にはなれないかもしれない。

それを危惧したマスオは、タラちゃんを塾に入れたいと考えるはずである。マスオは早稲田大学を出ている。公的教育だけでは足りず、余計な出費が生まれるはずだ。当然、サザエはパートに出る必要が出てくるのではないかと考えられる。

サザエの自己実現

だが、サザエさんが働きに出る理由はそれだけではないだろう。サザエさんはフネさんと一緒に家でのほほんと過ごしており、たまの日曜日に都心のデパートに出かけてゆく。それはサザエさん一家が、消費や職業生活を通じて「私らしさ」を追及すべきだという考えを持っていないからだと考えられる。

もしサザエさんが消費生活を通じて「私らしさ」を追及したいと考えれば、サザエさんは一家でデパートにはでかけて行かないだろう。同じようにワカメもそろそろ家族での行動を嫌がるはずだ。サザエの時代とワカメの時代では消費動向が異なっており、姉妹といえども共通の基盤を持たないからだ。当然、フネとは話が通じるはずもない。

仮にサザエが男女機会均等法時代の女性だったとすれば、職業を通じて私らしさというものを追及したがったはずである。単なるお茶汲みでは自己実現できないので、職業婦人を志向していたかもしれない。当然、家で家事などもせずに、タラちゃんは保育園に預けていたはずだ。もしくは学歴があれば「私らしく」生きられたかも知れないと考えて、ワカメをけしかけていた可能性もある。

そもそも「個人が幸福を追求すべきだ」という考え方はどこから生まれたのだろうか。それは憲法第十三条に書いてある幸福追求権だろう。条文を挙げる。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法条文には「国は国民を尊重すべき」とは書いてあるが「国民は幸せにならないと負けである」とは書いていない。戦後すぐの日本人は素直にこの条文を喜んでいたが、高度経済成長が終わることに「幸せってなんだっけ」という疑問を抱くようになる。

日本人は基本的に「個人が幸福を追求する」という考え方を持たなかったのではなかったのではないだろうか。そこでそれを「経済的な豊かさ」に置き換えて理解した。それでも幸福というものがよく分からずに、他人との比較が出てきた。そこから生まれたのが「脱落」とか「自己責任」である。

話がややこしくなっているのは、もともとなかった権利が生まれてしまったせいで、それを追求できないと負けだとか、逆にそれを抑制するべきだという話が出てきたところだ。それが「公益」とか「家」などの集団規定だ。

故に問題があるとしたら、それは「幸福が何なのか考えてこなかった」ことであり、憲法の問題ではないのだ。それが日本人を苦しめているのだろう。

日本会議がサザエさんを理想の家族だと考えるのはなぜなのだろう。それはテレビアニメ版のサザエさんに社会問題が出てこないからだろう。地方経済はうまく行っており、親は兄弟が面倒を見ている。仕事にもそこそこ余裕があり、終身雇用制度が充実している。カツオには将来の不安もなく、家族間で価値観や情報の相違もない。さらに誰も年を取らず、自己実現などという面倒なことを考える登場人物もいない。

これを「リアルだ」と考える人がいるとすれば、その人は家庭というものにさほど関心を払っていないのだろう。家族は政治の基本だと考えると、その人たちが考える政治というものもずいぶん空疎なものなのではないかと推論することができる。

 

これからも若者が過労死する理由

  1. アメリカとの圧倒的な国力の差を感じ、アメリカの品質改善運動を模倣しようという動きができた。
  2. 品質改善に成功し製造業が発展した。しかし、国外との競合のなかった分野では合理化がおきなかった。また、出せば売れたので、小売り現場の合理化も起こらなかった。
  3. 80年代にアメリカ人が日本の製造業を研究しはじめたので「日本すごい」と勘違いする人が増えた。
  4. 資産バブルが起こり土地を売り買いすると自動的に儲かるようになったので、本業が疎かになった。
  5. 流行に乗ってMBAブームが起きた。海外留学が増えたが、帰ってきてもオペレーションが変えられず、結局MBAは役に立たないということになった。
  6. マネジメント手法を知らないまま管理職になる人が増えた。そもそも日本の会社はプレイヤーからの生え抜きだったので、専門の管理職教育を行うべきだという伝統がなかった。
  7. 資産バブルが崩壊して本業が圧迫されたが、終身雇用なのですぐには人を減らすことができなかった。そこで新しく入ってくる人を非正規に置き換えた。
  8. 新人研修ができなくなり、業務に必要な知識が社内で共有できなくなった。
  9. それでもマネジメント教育をしなかったので、人件費削減だけがマネジメント知識として残った。
  10. 小泉・竹中路線が引かれて、安い労働力がを調達しやすくなったので、ますます、人件費削減がマネジメントだということになった。
  11. 非正規雇用には知識ベースの業務を任せられないので、正規層の最下層にいる人たち「名ばかり店長」の負担が強まった。彼らはマネジメントの知識も裁量もないまま管理職とされた。成果ではなく、不成果の責任を押し付けるという慣行が生まれた。
  12. イノベーションが重要ということになり、新規事業開発に乗り出すようになったが、イノベーションをマネージするという教育も発想もないので、根性で新しいビジネスを見つけろということになった。ここに「正解を効率よく学んできた人」が投入されるようになったが、答えを見つけるという教育は受けていないのでひたすら長時間労働をするようになった。
  13. 長時間労働で疲弊すると、生産性が上がらなくなった。定型業務を効率化するとに特化されたIT投資は、探索型の業務には適用されなかった。また流通などの業界にはそもそもコンピュータすら導入されなかった。市場で何が売れているのかますますわからなくなり、数ヶ月おきにとりあえず新しい商品を作って売るいうことが起こった。市場には情報が溢れ、消費者は新製品情報に見向きもしなくなった。
  14. 遅まきながら市場調査が行われ、今度は定番品ばかりが作られるようになった。
  15. IT投資を行わなかったので製造業の現場では未だにNECの旧型パソコンが使われていることがある。また場当たり的にコーディングした内容を解析してどのような業務が行われているかというルールを抽出するというサービスが提供されるようになった。もはやどのように仕事をしていたのかすら思い出せなくなっている。
  16. IT分野では製造業の成功に倣って、既知の問題を徹底的に潰すために長時間労働するようになった。例えば、年に数回も起こらない問題を潰すためにエンジニアが投入された。だがこれはβ版を出してから問題を修正する方式に駆逐された。新しいサービスが投入できないからだ。
  17. 不効率な長時間労働が蔓延しているので、それに応えるサービス産業も24時間化している。1日になんども同じ家を訪問しても留守なので、なんども訪問しなければならないのだ。
  18. 安い労働力の調達だけがマネジメントなので、今は海外から安い労働力を調達するかという議論が行われている。また、ホワイトカラーを安く使えるように残業代をなくす法案が準備されるようになった。今後海外から入ってきた安い労働力と最初から奨学金という借金を抱えた人たちが競合するような社会になることが予想されている。日本の現場は10年前にはどうやって仕事をやっていたのかすら思い出せなくなるだろう。

残念だが廃止せざるをえない日本レコード大賞

文春が、Exile系の事務所が一億円を支払ってレコード大賞を買っていたというニュースを伝えている。これを聞いた一部のファンが「三代目は実力でレコード大賞をとった」と抗議する騒ぎになった。このニュースを聞いてTBSは放送をやめるべきだなと思った。次に賞を取るアーティストはいくらで買ったのだろうと噂されることは間違いがないからだ。

レコード大賞が実力でないということはほとんど周知の事実になっている。配信数やCDの売り上げと全くリンクしていないからだ。売り上げにリンクした賞としてはゴールドディスク大賞というものがあるがあまり有名ではないかもしれない。他に音楽性を讃えるということが考えられるがスポーツ新聞社に音楽性が評価できるかは微妙なところだ。

レコード大賞が評価するのは「何が売れたか」ということだ。日本ではすなわちテレビに出たかということが売れたということなので、その指標として意味があるのだろう。

そもそもなぜ領収書の費目がプロモーション費用だったのだろう。LDHから委託されたプロダクションはいろいろな手を使って関係者に働きかけていたということになる。関係者に飲み食いさせても何ら違法性はない。プライベートな賞だからだ。これを営業活動と見なせばLDHの支払いも違法とはいえないし、請け負ったプロダクションも違法とは言えない。

そこでプロモーションの方法が問題になる。どうやらこのプロダクションは反社会勢力との関係が囁かれているようだ。スキャンダルを起こしたタレントを脅かしてプロダクション優位の版権契約を結ばせて復帰させたりしているということもあるということである。

マスコミがプロダクションのドンの名前を決して口に出さないのは、この人に暗い噂が多くあり関わると面倒だからである。ハリーポッターで言うところのボルデモートのようになっている。名前を口に出せない「あの人」扱いされているのだ。

問題なのはLDHではない。そもそも主観的に決まる賞なので、プロモーション費用が介在する余地があるからだ。いわゆるビジネスに箔をつけるための営業費用なわけで、どんな営業をしようとも発注したところは売れればいいことになる。マスコミ各社が加担している以上、このプロモーションが何だったかということは表沙汰にならないだろう。

だが、この一連の「プロモーション」が反社会勢力の資金源になっている可能性は残る。例えていえば、金融機関が反社会勢力を雇って高齢者を騙していた場合に、金融機関はどのような責任を負うかという話になるだろう。

このような可能性が排除できない以上、テレビ局としては利権の温床になっている賞を放置するのは得策ではないだろう。

さらに異常さは文学と比べてみるとよくわかる。芥川賞も純文学作家に箔をつけるというプロモーションのための賞だが、その選考結果はある程度公開されている。主観的なので出版社の買収合戦に発展する可能性もあるのだが、そんなことをしてしまえば文学そのものの価値が急落することは目に見えている。文学を愛しているからこそ苛烈な買収合戦には発展しないのだ。

裏返すと、芸能界は歌というものが持っている芸術性を尊重しようという気持ちはサラサラないことがわかる。ファンの気持ちはお金と露出でなんとでもなると考えていないようだ。

この件がまずいのは誰も騒がないことだろう。視聴率も13%と低く、番組自体が過去の歌謡界を回顧するような内容になっている。賞自体が忘れ去られており、今回の件で今後の受賞者は好奇の対象にしかならないだろう。

生前退位という言葉はどうして生まれたのか考えてみた

皇后陛下が「生前退位」と言う言葉に違和感を持たれたという新聞記事を読んだ。陛下自身は譲位という言葉を使っていたのだそうだ。だとすると生前退位という言葉は周りの人が作ったことになる。NHKは「生前退位のお気持ちが滲む」などというあいまいな言い方をしていたが、いかにも役所的な言い回しので、どのように発表するのかということを綿密に政府内で話し合ったのだろう。

生前という言葉は死後に対応している。使われる場面は生前相続、生前贈与、生前葬と限られる。法律的には財産を生前に譲るということが想起されたのだろう。だからつい役人的な発想で生前退位とやってしまったのかもしれない。土地などの財産と天皇の地位が一緒になっていることになり、かなり畏れ多い感じではある。

もう一つ、天皇陛下ご本人と回りにいる<愛国者>のみなさんの間にあるずれを考えてみた。ずれの正体は天皇の地位に関する意識の違いにあるように思えた。天皇ご本人は日本の歴史に例のない「象徴天皇」として即位された。その地位を作りために行為を通じて実践を積み重ねてこられた。つまり行為こそが天皇を作るのであって動けなくなってしまうとその意味づけが損なわれるということである。

一方、回りにいる<愛国者>の人たちの意識は違っている。天皇はそこにいればいいだけなのであって、行為でなく存在なのだ。だからこそ摂政を置いて代行させればよいということになる。極端な話、10年ベッドで寝たきりになっても、息さえしていればいいのである。

話がかみ合わないのはこの違いが意識されていないことから来るのだろう。と、同時に最初から「天皇は利用する存在」であり、その地位にいる人たちは自分たちを邪魔しないように何か毒にも薬にもならない行為(ボランティア的な作業と役に立ちそうもない学問)だけをしておいてもらえればいいやなどと思っているのだろう。<愛国者>ほど信頼できない人たちはいないと思う。そもそも、被災地にいる人たちに寄り添うなどという行為は<愛国者>にとってはどうでもいいことなのである。それは国民が<愛国者>をたたえるための対象物に過ぎないからである。

一般国民にいたっては天皇の地位は「時計」でしかないようだ。天皇が退位を望んでいるというニュースを聞いた平成生まれの人たちの感想は「ええ、平成が終わっちゃうの」という感想しか持たなかった。

本来なら天皇陛下が築いてこられた、国民の安寧の象徴としての国という意思を広げることでご負担を軽減しようという議論が出てきてもよさそうなのだが、そのような声は一切出てこない。代わりに出てくるのは政治的日程との兼ね合いとかテクニカルな憲法の議論などの話ばかりである。嘆かわしいとしかいいようがない。

土人問題はなぜ批判されるべきなのか

沖縄に大阪から派遣されている警察官が反対運動を展開する人たちに「土人」と発言し訓戒処分を受けたそうだ。土人呼ばわりされた人が芥川賞作家だったので問題になったのだが、もし一般人が言われても問題にはならなかったかもしれない。

これについて「警察官は悪くない」という声がある。しかし、やはり大きな問題があると思う。いったい何が問題なのだろうか。

土人というのは現地の人を対象物化する言葉だ。外国人であっても同胞であっても人は特定の個人として扱われる。ところが特定の個人として扱われない人たちがいる。「そこの女」とか「障害者」などである。このように「一般名詞化」されることを、対象物化と呼びたい。

なぜ対象物化が起こるだろうか。普段のあなたは人を殴らない。人を殴ると罪悪感を覚えるだろう。ではそれが人ではなく何か一般名詞だったとしたらどうだろうか。それほど罪悪感を覚えないだろう。例えば「イヌ」を叩いても罪悪感は覚えないが、自分が買っているポチは叩きたくない。イヌは一般名詞だが、ポチは固有名詞だ。

あの人はチョーセンジンだからというのは差別なのだが、それはやられて見ないとわからないかもしれない。ある人は病気で「ショーガイシャ」になるかもしれないし、日本人も外国に出れば「ジャップ」と呼ばれることもある。中には自分を一般名詞化してしまう場合もある。人は他者を差別するだけではなく、自分の中にある差別にも苦しむのである。

だからこれは人権問題であり、鶴保大臣や松井知事は明確に間違っている。鶴保さんは沖縄の振興策を担っているのだからすぐさま辞任すべきだろう。多分鶴保さんは沖縄を対象物化しており、そのことに気が付いてすらいない。

この警官は「シナ」とか「土人」に屈辱の意味があるとは思わなかったと言っているのだが、本人の意識はあまり問題ではなさそうだ。

もともとシナとか土人という言葉は日本の植民地政策から出てきた言葉である。日本人は最初に白人に接触し劣等感を覚えた。その劣等感を裏返しにして「自分たちはあいつらよりマシなのだ」という意識を覚えるようになる。自分たちは白人にはなれないが、そのように振舞うことはできると思ったのである。

「上を見るな。下見て暮らせ。」という言葉がある。

この言葉が再び注目を浴びるようになったのはいつなのだろうか。それは民主党が政権をとったころからだ。そこで楽園を追われた自民党の人たちは右翼系雑誌で勇ましい発言を繰り返すようになった。そのころ作られたのが自民党の憲法草案だ。

自民党が政権から転落したのは統治の失敗によるものなのだが、それが認められなかったので「日本は中国から狙われており、民主党はその手先である」という物語に依存するようになった。一方で「間違った判断をした国民には人権など認めるべきではない」という意識も生まれた。今でも自民党の一部には国民の人権を認めず、党が憲法で国民を善導すべきだという歪んだ意識が残っている。

強烈な支配感情の裏にあるのは圧倒的な無力感だ。庶民感情は未来に発展のチャンスもないという状態には耐えられない。そこで「被支配者ではなく支配者なのだ」という幻想に頼ることになる。

これを積極的に利用しているのが現在の安部政権だ。安部政権は共産党勢力や民進党などを「被差別層の反乱」という幻想を植え付けることによって、人々の不満を逸らしている。閉鎖されて経済成長もなかった江戸幕府が被差別層を差別することで農民を支配していたのに似ている。だから鶴保大臣は土人発言を非難できなかったのである。

このように考えをめぐらせると「大阪の警官」が「土人」発言をしたことには意味がある。実は警官は支配者(例えば松井知事のような)からみると単なるコマに過ぎない。この人は大阪の地元では近所に尊敬される「おまわりさん」だったかもしれないし、もしかしたら「鈴木さん」や「田中さん」と認識されていたかもしれない。だが、沖縄では単なる対象物であり、権力の道具に過ぎない。

つまり、実は対象物化されているのは土人発言をした方なのである。何の意義も感じられず地元民を蹂躙する。そこで罪悪感が生まれるのでその人たちを対象物化して凌ぐわけである。

民族紛争は対象物化によっておきている。例えばユーゴスラビアのイスラム教徒とキリスト教徒は共存していた。しかし、いったん、一般名詞化するともはやお互いには一緒の場所に住めなくなった。ルワンダはさらに悲惨だ。もともとなかった民族がでっち上げられ、ラジオで扇動された人たちが100万人単位で殺し合いを行った。民族をでっち上げたのは支配層の白人である。

いったん沖縄が対象物化されると、日本は沖縄に基地をおく正当性を失う。植民地は現在の世界では許容されていないし、日本でない場所に基地をおいて日本の安全保障を担保するわけにはいかない。この意味で対立構造を作ることは「得策ではない」だろう。

警官を主語にすると、土人発言がいけないのは、警官自身が対象物化されているからだということになる。実際には多くの日本人が対象物化されてしまっている。だからこそネトウヨと呼ばれる意識の人たちが増えるわけである。自分たちが単なる一般名詞だとは思いたくないので、別の一般名詞を捏造するのだ。

しかし、これは問題のほんのいったんに過ぎない。実は放置している側の方に大きな問題がある。政治家は統治の道具として国民を対象物化している。積極的に利用していることを知っているからこそ「人権問題だ」といわないのだ。

しかし、もし彼らが統治者として国民を搾取しようという気概や覚悟があれば表向きはこのような発言を許さなかったはずである。差別は決してないことにしなければならない。つまり、鶴保大臣や松井知事に代表される統治者の人たちにはそこまでの覚悟も意識もないということになる。

そもそも人権問題であり、沖縄と日本を分断する発言であるということが問題なのだが、その裏には対象物化という問題がありそうだ。さらにその奥には統治の失敗がある。かといってそれをカバーして統治を磐石にしようという気概も覚悟もない。単に差別意識にフリーライドしているだけだ。

どのレベルでこの発言とその処理がいけないものだったのかという判断をするのかは読み手のみなさんにお任せしたい。

立ち方に関する覚え書き

全身写真を撮影すると姿勢が崩れているらしい。だがやっかいなことにどう崩れているのかがわからない。背伸びをして写真を撮影すると少しはマシになるが安定はしない。基礎ができていないのに無理矢理背を伸ばしている感じだ。ということで、基本の立ち方について調べてみた。

基本の立ち方

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実は背中が尻よりも後ろに来るのが正しい姿勢らしい。背中(A)を湾曲させるのだが、だらっとした姿勢を続けているとすぐに湾曲を作るのは難しい。感覚としては反り返っているような感じになってしまう。そもそも背中の筋肉が弱いということだから、背筋のトレーニングをやっておくと正しい姿勢を作るのに役立つ。

この湾曲がきれいに作れると首(B)が斜めになる。このとき重心はかかとあたりに乗ることになる。一度つま先立ちしてみて足をおろすと正しい重心になるとされている。

さらに肩を開いて背中の上部に力を入れる。肩を後ろに引くのが正しい姿勢である。

次いに腹筋に力を入れる。へそが一番前に出るのだからそのままではおなかを突き出すことになる。ちょっとへこませるような感じだ。

次は脚だ。まず肩幅で立つのだが、そもそも何が肩幅なのかがわからない。骨盤の部分(C)から大腿骨が伸びている。これが膝に向かってまっすぐに伸びたのが「正しい」立ち方である。外腿に力を入れる感覚で立つときれいなパンツのシルエットを作ることができるのだが、人によっては外腿で支える「がに股」の人がいるということだ。

前から見た場合にはこれでまっすぐな脚が作れるんのだが、実は足がまっすぐになっているかはわからない。つま先が上がらなければ膝が伸びていない。膝を後ろに引くような感覚にして横からみるとそれが「まっすぐ」だったりするようだ。

横から見ると踵→膝→腰→胸→首とまっすぐになっていないことが分かる。実は少しずつS字に傾きながら重力を支えているようである。

モデルのポージングを実践する

pause2基本的にここまでができると次に進める。次にポージングを実習する。

この姿勢、傾きが多いようだが、実はまっすぐに立っている。ポイントになるのは上半身だ。傾いているように見えても肩を引いているだけということがあり、体幹はまっすぐになっている。ただ、これだと退屈なので脚の重心をやや動かしたりする。基本的に膝は引き気味になっていて、足をあげている側の膝を前に出すようにするとよい。

実は大きく肩を引いて手を動かしながら歩くのと同じ構図になっている。実際のポージングを観察すると基本の立ち方を保ったままで、重心を微妙に変えている。基本の立ち方が崩れているとどこかに無理がきてバランスが崩れる。

 

歩く

いきなりきっちりした姿勢をとることはできないし、ポージングの練習ばかりはしていられないので歩き方を練習するとよさそうだ。まず背中の湾曲を作る。次におなかを引っ込める。さらに大腿骨上部の骨頭から膝にかけて大きく脚を使うように意識するとよいらしい。このような歩き方は脚を長く見せる効果があるとされる。

 

ユニクロのチノパンと色落ち

昨年の11月に「さすがにズボンぐらいは新品じゃなきゃまずいだろ」と思ってユニクロでチノパンを買った。2,900円だった。それが半年くらい経ってこんな感じになった。半年間毎日履いていたせいもあるのかもしれないが、洗濯を繰り返すたびに色が落ちていった。




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ジーンズの色が落ちるのはなんとなく「味」と認識されるのだと思うのだがチノパンは色があせると単に汚いだけだ。おしゃれさんと呼ばれたいわけではないが、最低限こぎれいな格好をした方がよいことはわかる。ということで、「新品を買えば安心」というわけではないということが分かった。

こういう経験をすると、なんとなく「中古ショップでも良いのかな」という気持ちになる。丈詰めしていないユニクロやH&Mのパンツが500円以下で取引されていることがあるのだ。なぜか履きつぶした感じもない。


この記事を書いたのが2016年なのだがその後新古品のようなものは少なくともユニクロではあまり見られなくなった。はっきりしたことはわからないが、成績のために売り上げを競わせることはなくなったのではないかと思う。もっとも、ウールマークがついたようなものは未だに出回っている。


もしかして新品を流している人がいるのではないかなあとすら思える。誰がわざわざそんなことをするかはわからないが、もしかしたらお店のスタッフや店長さんが売り上げを増すために流しているのかもしれないなあなどと疑った。

プレミアムコットンのTシャツとウールマークの付いたユニクロのセーターをそれぞれ280円で購入できた。天然素材の価格が値上がりしているので、ユニクロからはウールマークがついた商品は消えかけている。天然素材にこだわると中古ショップに行った方がよいというような状態なのである。

下手に安いボトムを買うと色褪せが怖いということを学んだんので、DIESELのパンツを2本買った。あまり流行に左右されないストレートなジーンズなら色落ちしても構わないし、味にもなるからだ。かつては中古品でも高価なものとみなされていたDIESELだが1500円+税という価格で手に入ったりする。

かつてはユニクロを着ていると恥ずかしいという認識があり、その後ユニクロでも構わないということになった。しかし、時代はさらに進んでいて中古ショップの方が良いものが手に入るという時代になりつつあるようである。これがアパレル産業について良いこととは思えない。

アパレル産業の現場の人が現状をどう捉えているのかということを知りたいと思った。

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安倍首相は北方領土を返してもらおうなどとは思っていない

最近、北方領土返還運動に2つの動きがあった。1つは北方領土が返還されてもロシア人の権益は守りますよという条件提示で、もう1つはロシアとの経済協力だ。いろいろ考えたのだが、北方領土返還を中心において考えるとなんかモヤモヤする。このモヤモヤの原因は何だろうか。

安倍首相を取り巻いている右側の人たちが、日本に居留する外国人の権利を容認するはずはない。在日韓国人・朝鮮人に「国へ帰れ」などという人たちなのだ。ゆえに実現可能だと思うならば、支持者たちから大きな反対運動が起きていただろう。

一方でロシアへの経済協力を見ても「日本側の大企業が得をしそうな話」ばかりだ。欧米各国はロシアと対峙しており経済的なサンクションができている。特にウクライナとの関係が悪化しクリミア半島がロシアに組み入れられから緊張は高まっている。逆にいえば、ここに抜け駆けのチャンスが生まれているのだが、サンクションに抜け穴があると効果が薄れるので、何か理由がないと経済協力がやりにくい。

ロシアがソ連だった時代、一番密接な関係を持っていたのは共産党なのだろうが、ソ連が解体してからは権益上の空白地になっている。安倍政権はロシア権益を取り込みたいのだろう。現在、ロシア権益に一番近いのは鈴木宗男氏だから、彼を復権させたいのも当然といえば当然のことなのかもしれない。

何の理由もなくロシアに利益供与すれば野党が追及する理由を与えかねない。しかし「北方領土を取り戻そう」という大義名分さえあれば、いくらでも投資することができると安倍政権は考えたのではないだろうか。政府の関与が強まれば、政治家たちがうけるキックバックも大きくなるし利権の分配を通じて国内の権力基盤も確固たるものになる。

反対の立場に立てばわかるのだが、韓国が「経済援助してやるから対馬をよこせ」などと言っても国内世論が応じるとは思えない。ロシアは北方領土を第二次世界大戦で勝ち取った正当な領土だと信じているのだから、経済協力くらいで領土について妥協することはないだろう。小クリルと呼ばれる人もあまりいない二島くらいは返してくれるかもしれない。さらに、向こうから見れば自民党がロシア権益を欲しがっていることは明白だろう。相手(つまり自民党)にいい思いをさせた上にお土産まで渡す義理はない。交渉上の主導権はロシア側にある。欲しがっているのは日本だからだ。

自民党はロシア権益が欲しいだけで、北方領土はそのためのエクスキューズに過ぎないと考えると全てが落ちるわけである。分からないとモヤモヤとするニュースだが、一度わかってしまうと、なんてことはない問題だということになる。

Addicted – ある中毒性の告白

始まりはほんの小さな不安だった。10年以上使っているパソコンをつくづくと見ていて、ああこれのどこが最初に壊れるのだろうかと思ったのだ。バックアップは取ってあったのでデータが消えることはないのだが、電源が壊れるか、ハードディスクが飛ぶか、それとも画面がダメになるかと不安になってしまった。

最初に漁ったのは近所の中古ショップだった。見つけたのはWindows XPの画面の小さいパソコンだった。YouTubeなどは問題なく見られるような速さになったのだが、これもChromeで「アップデートできません」と出るようになった。XPを実用で使うのは危険だという記事もよく目にする。

そこでヤフオクを物色し始めた。3000円ほどでMac MiniのG4を手に入れて持っているパソコンの環境を移した。しかしモニターを買わなかったので結局古いパソコンを主に使い続けることになった。さらに、ヤフオクでOS10.7という中途半端にしかアップデートできないノートパソコンを4000円ほどで手に入れた。これもChromeで「アップーデートできません」と出るようになったが、もとのパソコンに比べれば使える。

結局最終的に行き着いたのは今のところ最新のOSが入れられるデスクトップパソコンだった。モニター一体型だがモニターが壊れている。そのため2000円と格安で手に入れることができた。これに外付けのモニター(500円で買ってきた)を組み合わせて使うことにした。

ここで本来の目的は充足したのだが、あることに気がついた。いろいろやっているうちに「探して、手に入れる」ことに中毒していた。今でも何かを期待してヤフオクを覗いている。もう目的を達成したのに「探すこと」の中毒性から抜けられなくなってしまったのだ。

よく、議論を複雑にしないために本来の目的にフォーカスすべきだなどと書くわけだが、本来の目的に集中するのは意外と難しい。探索の中毒性は本来やるべきことがどうでもよくなるくらい強烈だ。「こうしたらこうなるのではないか」と考えるとやってみたくなる。パソコンのOSの入れ替えに夢中になりノートパソコンを一台ダメにした。本来OSを入れ替えるくらいでパソコンが吹き飛ぶことはないわけで、それほど入り込んでいたということになる。

最終目的のにフォーカスして最初から最新OSが使える機器を手に入れていれば、途中の無駄な出費はなかったはずだ。最終OSに行かなかったのは「どうせそんなものは手に入れられない」と思ったからなのだが、実際にはそんなことはなかった。実際の価格付けは性能とは関係なく値段によって決まっているようだ。100台ほどの落札価格を調べたのだが3000円近辺に山がある。需要と供給の理論では性能と価格の間に相関性があるはずなのだが、アフォーダブルプライスという概念もあるようだ。

中毒性がどこにあるのかはわからない。ちょっとした不安とちょっとしたリソースがドライブになっていることは確かだが、不安がなくても探索の中毒にはまっていたかもしれない。

無駄遣いしないためには、少々値段が張っても最終目的にかなうものを買った方がよい。妥協しても不安が解消されないので探索のループから抜けられないからだ。

こうした中毒性は探索だけではない。ネット上で「俺は正しい、あいつは間違っている」というトラブルを起こしている人を知っているのだが、対決などもそれ自体が中毒性を持ちやすい。人が目的を達成するためにモチベーションを維持する仕組みがいくつかあるのだが、それが暴走しているのだろうと思われる。これをやめるためにはどうしたらよいかと思うのだが、中長期的に考えてたり、長い文章を読んだりする状態にはないはずなので「収束するまで見守る」しか手がない。リソースを断つという方法もあるが、対決の場合「燃料」は逐次投下されるので、これもなかなか難しそうだ。

オークションは不確実に見えるのだが、中期的にデータを取ってみるとだいたいの相場がわかる。いっけん不確実に見えるが実は統計的に処理できる程度の<不確実性>にすぎない。ただし、データの整形には時間と手間がかかるのも確かだ。

一方、需要と供給を超えて「買わせたい」人は、少々難易度をあげた方がよいことになる。オークションや中古ショップに中毒性があるのは「わざわざ探さなければならず」「いつ手に入るかわからない」という不確実性があるからだろう。「いつでも買える」という状況ができてしまうと消費者は合理的になりプレミアムを支払ってでも何かを買いたいという意欲を失ってしまうのだ。

 

働き方改革が失敗するわけ

今日の日曜討論は安倍政権の働き方改革の宣伝をしていた。政府は「ちゃんとやっていますよ」というアピールだったのだろう。「これは失敗するな」と思ったのだが、聞き流しているときには理論的に説明できそうになかった。数時間経ってなんとなく説明できそうな気がしたので、試してみる。

現在の働き方改革の基礎にあるのは「政府による長時間労働の制限」に対する期待らしい。直感的には政府による制限はタリフに似ているように思える。タリフは国内産業を保護するが、その費用を払うのは消費者だということになっている。例えば日本人は高い米を食べているのだが、それは関税が高いせいである。同じように働き方改革という名前の保護政策は労働者に負担を強いることになるだろう。だが、枠組みは分かってもそれを理論的には説明できそうにない。

それではなぜ「政府によって長時間労働を制限」しなければならないのだろうか。どうやらA社が24時間労働をやめると、B社がそのオポチュニティを奪ってしまうという構造ができてしまっているからのようだ。これはコンビニだけではなく、様々な産業で起っているらしい。休んでいてもメールで指示が飛んでくるということもあるそうだ。ここからこぼれ落ちた人たちは非正規というステータスに落ち込んで行く。非正規は強い労働意欲を持てないので、全体的な活気がなくなり成長力が阻害されるということである。

例えて言えば、常に顧客を盗まれる危険性があるので、常時監視していなければならないのだ。顧客も短絡的になっていて「今手に入れられなければ別のところに行く」という癖がついてしまっている。だが、この監視のせいで子供も作れないし人間らしい生活が送れないという実にばかばかしいことになっているらしい。これを当事者間でやめることができないので、政府に監視してほしいと言っていることになる。お互いに縛り合っているうちにどうしようもなくなってしまったのだ。

政府は「監視しましょうか」と約束しようとしているのだが、パネラーの1人が「罰則が必要」と言っていた。

さて、ここからが問題だ。考えるべき要素は2つある。1つは監視がうまく行くかということだ。監視には費用がかかるのだが、労働基準監督署が強制力を持つような法整備はテクニカルには可能だが、労働警察を作って企業を24時間監視するには莫大な費用がかかる。誰がその費用を負担するのかといえば、実は労働者(=納税者)だ。

このような監視網が作られると脱法することのインセンティブが生まれる。法律の目をかいくぐったり労働警察の目をすり抜けたりすることにインセンティブが生まれることになる。罰則覚悟でもシェアを伸ばしさえすれば市場が独占できるわけだ。経済的利益があるところには必ず人は集まる。物が高いところから低いところに落ちて行くのを政府は制御できないのだ。

このように考えてくると、非常に単純な一つの疑問が浮かんでくる。「なぜ、監視し合わなければならないのか」という点だ。日本の産業の多くがサチュレーションを起こしていて、新規事業がないからではないだろうか。例えば、運輸業・保険業・携帯電話産業・電機・飲料・流通(デパート、スーパー)など成長が止まってパイの奪い合いになっている産業ばかりだ。こうした産業が顧客を奪われないようにするためには、24時間365日客を監視していなければならないのである。

つまり、この問題も日本に成長産業がなくなったことが原因になっているということになる。古い経営からリソースを解放しないかぎり、日本の労働条件は良くならないだろう。パネラーたちの要望が加藤大臣に聞き入れられても、脱法的な収奪行為が増えるだけなのだろう。