本日はライトユーザーについて考えるのだがなぜかタイトルは人名である。守屋光治という人がいる。Men’s Non-Noの専属モデルをやっているそうだ。先日この人のYouTubeチャンネルを見つけた。正確にはMen’s NON-NOのウェブ担当のようである。Men’s NON-NOのモデル中でも特に洋服に詳しく大学で服飾の勉強をしたという。今ではエディターとしてもページを持っているそうだ。モデル兼エディターという華やかな経歴である。
“守屋光治” の続きを読むVia Borgonuovo21, Milano
古着屋で夏物のジャケットのセールをやっていた。900円で売れなかったのだろう。多くのジャケットが半額になっていた。その中にGorgio Armaniを見つけた。偽物だと思われたのかもしれない。ラベルを見たら確かにBorgonuovo21という見慣れない表記が入っている。聞いたことがない。素材はリネンにシルクが混じっているようだ。触って見たらくたびれたネクタイのような手触りがある。シルクのネクタイから光沢がなくなるとこんな手触りになる。素材は本物のようである。
“Via Borgonuovo21, Milano” の続きを読む上級国民がガラパゴス化するメカニズム
先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。
ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。
全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。
この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。
もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。
いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。
このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。
実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。
同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。
しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。
なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。
時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。
こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。
日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。
液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。
Google Recommendation Advertisement
韓国ファッションの文化侵略
最近WEARで韓国ファッションとかKーPOPファッションというトレンドが出てきた。人によって解釈は様々なのだが、黒いスキニーとタイトなシルエットが目立つほか、スポーツブランドをミックスしたようなものもある。よくミュージックビデオで出てくるスタイルである。他には奇抜な色で染められた髪色というのもある。ステージ映えを意識した華やかな色と程よく鍛えた体を協調するスリム目のシルエットが特徴だ。
この傾向はなかなか面白いと思う。もともと韓国は自国文化が日本に侵略されることを恐れ、長年日本のポップカルチャーを封印してきた。日本文化が解放されてもしばらくはモノマネが続いており、今でもアメリカのポップカルチャーの強い影響を受けている。本来ならオリジナルとは呼べそうもないが現在のK-POPを見ていると「それでも他のどこにもない韓国風」としかいいようがない。また韓国ファッションというとアメリカブランドの偽物というような印象があり、現在でも韓国のブランドが日本で流行するようなことはない。こうした一見不利な状況にもかかわらず「韓国ファッションがおしゃれだ」とか「真似をしたい」という人がいる。
そればかりか日本の音楽チャートでもK-POPは常連化しており、ドームの動員数も増えている。現在は第三次ブームと呼ばれるそうだが、新大久保のような文化集積地もできており「文化侵略だ」などと言い出す人まで出てきている。
ところがこの動きに全く追随できていない人たちもいる。未だに韓流ブームを説明するときにヨン様やBTSなどという人がいる。彼らにはYouTubeもドームツアーも全く見えておらず、NHKと政治ニュースの一環としてしか韓流ブームが見えていないのだろう。新大久保に韓流好きが集まるのを快く思わない人たちはこういう時代に遅れているのにメインストリームにいると思っている人たちなのだが、ファンたちは全く別のメディアから情報をえているので、そもそも「けしからん」という声さえ聞こえていないだろう。
東方神起とTWICEで「知った気になっている」のも危険だ。紅白歌合戦を見るような人たちもコアではない。ドームツアーのリストにはEXOやSHINeeなどが出てきているが、さらに新しいグループが続々と続いており、彼らですら旧世代になりつつある。
2004年から2008年頃、日韓では、ブーツカットジーンズやミリタリーやグランジの要素を取り入れた「男らしい格好」が流行していた。このころの日韓のスタイルはほぼ同期していたのではないかと思う。
ところがリーマンショック後に日本と韓国は全く別の道を歩み始めたようだ。K-POPの男性アイドルはどんどん「こぎれいに」なっていった。と同時にスリムフィット化が進む。とはいえ男性アイドルも腹筋を見せびらかすなど男性らしい体つきが良いとされているので、ある程度体を鍛えてスリムパンツなどでタイトフィットに仕上げるのが良いとされているようだ。メンバー分裂前の東方神起・2PM・スーパージュニアなどはデビューしたてのときにはロック調の荒々しい服装だったが徐々にスーツ化が進みこぎれいになっていった。その後発のEXOなどは最初からこぎれいなスリムスーツスタイルが多く、時代がきちんと動いていることがわかる。
この間に日本でも大きな変化があった。シルエットがどんどん大きくなっていった。Men’s Non-Noはハーフモデルを細めの日本人に入れ替えた。細いモデルにたくさんの洋服を着せて体の線を隠すようになっていったのである。最初はボトムだけが太くなり、次に全身が太くなり、最近ではほどほどの太さのものの方が良いということになっているようだ。
30歳代以降の男性ファッション誌はこの一連の動きに追随しなかった。しばらくは市場の要求にしたがってゆったり楽なスタイルがよいとされていたようである。ただゆったりしたスタイルを成り立たせるためにはモデルが鍛えられている必要がある。中年太りの人がゆったりとした服を着ると単にだらしなくなってしまうのだ。人気があったのはアメリカを真似して普通のシルエットにこだわったSAFARIだった。アメリカ人の洋服の選び方はシルエットの面では保守的でありあまり変化がない。日本人が着物を着崩さないのと同じなのかもしれない。GQなどのファッション情報でもシルエットを変えようという提案はなく「ルーズなものはだらしない」という指南が載っている。
日本のファッション雑誌はある程度のスタイルができるとそれが固着する傾向があるように思える。ファンが大きな変化を好まず、そのときのトレンドにあったモデルが選ばれ、そのモデルが似合う服を着せるようになるからである。すると服ではなくモデルにファンが付くのでますますスタイルが変えられなくなるのだろう。
Men’s Non-Noは業界の意見を反映しつつ、同時にアイドル誌になっている。これではファッションは学べないので巷ではユニクロのファッションを使ってきれいにまとめましょうというようなガイドブックが出ている。MBという人がこうした指南書をたくさん書いている。
ファッションについて勉強し始めたときには「どうもファッション雑誌を見てもよくわからないなあ」と思っていたのだがWEARをフォローしたり参加したりするようになってからようやく「実際に流行しているものとMen’s Non-Noなどの業界人が流行させたいものは違うんだな」ということが理解できるようになった。これを補うために各誌ともストリート特集を組むのだがどうしても「自分たちが見せたいものを見せる」ことになってしまう。各新聞が自分たちの主張に合わせて世論調査の質問項目を操作するのと同じようなことが起こる。永田町や霞ヶ関に記者クラブがあるように、東京のファッション誌にも狭いコミュニティのつながりがあるのかもしれない。
村が強固になると過疎化が起こるというのはこれまで見てきた通りである。日本人は不満を表明して離反したりしない。自然とついてこなくなってしまうのである。そして村はそれに気がつかず、知らず知らずのうちに少子高齢化が進む。
新しいトレンドが出てきても、固定ファンがついたMen’s Non-Noは既存客を捨てて新しい流行には移れないだろう。ジャニーズも小柄で中性的な男性がセンターになるので、ある程度の筋肉量を要求するK-POPファッションには追随できないだろう。
現在のファッションは全く違ったところから入っている。それがYouTubeやインスタグラムだ。韓国のテレビ局はケーブルが入って競争が激しくなった。そのため各テレビ局がYouTubeにビデオを流しており言葉はわからなくても韓国の生の状態がわかるようになっている。そこに出てくるK-POPスターのファッションがダイレクトに入ってくるようになった。韓国のトレンドは明らかにタイトフィットなのでそれがWEARなどに乗って拡散するという「紙媒体を全く通らない」拡散方法が出てきている。
政治の世界で「過疎化」を見てきた。ある程度成功を収めたコミュニティが成功に閉じ込められて衰退してゆくという姿である。日本ではこれが政治以外でも見られるのだが、ファッションにはある程度の自由度があり、政治のように閉じ込めが起こらない。
小選挙区制で選択肢がなくなった日本の政治は「政治そのものからの離反」が起こっている。小選挙区の場合二つのうちどちらかを選ぶのだが、日本人は、自分が勝ってほしい政党ではなく勝てる正解に乗る傾向が強いので選択肢がなくなってしまうのである。政治にも固定層である人たちがついていて、彼らに最適化された時代遅れの政治が行われるようになってきている。
しかしほとんどの人たちは選択肢のない政治からは離反している。こうなると政治への貢献はなくなり、嫌なことがあったときだけアレルギー反応を起こして決定を拒絶するということになってしまうはずだ。
Google Recommendation Advertisement
非顧客を顧客にできないプロの人たち
ファッションについて勉強している。最近やっとトレンドというものがわかるようになってきた。といっても「俺、お洒落さんになったもんね」ということではない。トレンドって確かに存在するんだと思えるようになったのだ。
WEARというコミュニティがあり、そこに投稿すると「好き」か「そうでないか」というレスポンスが得られるのだ。どうやら全体的にゆるい方が好ましいようである。イメージは日曜日に近所のショッピングモールに行っても浮かない格好か、美容師スタイルだ。つまり、あまり男性的イメージとはいえない。
こうした「ゆる」が流行になるのは、その前に「スリム」が流行していたからだ。みんなスリムには飽きてきているのだ。つまり、ある種のトレンドが発生すると、気分が生まれ。それに飽きてきたころに新しいスタイルが好感度を上げることになるという構造があるらしい。つまり、一度まとまった集団ができると、それはある程度同じように動くので結果的に「トレンド」が生まれるのである。
そういう意識で見てみると、古着屋であっても「ゆる服」には少し高めの値段設定がしてある。オーバーサイズのTシャツやワイドパンツなどがそれにあたる。一方でブランドものが安く売られていたりする。トレンドが、実際に売れ筋に影響するということはなさそうなので(買いに来る人は流行に無縁そうな中年が多い)値付けに反映されるのだろう。
が、幾つかの問題もある。まず、いわゆるファッションジャーナリストの人たちは必ずしもこうしたトレンドとリンクしていない。どちらかといえば、ファッション業界があるべき姿にないといって嘆いている人が多い。昔に比べて服が売れなくなってきているのでそう思うのは当然なのだが、お客さんはついてこない。古着やネットが占める割合が大きくなっているのだが、ファッションジャーナリストたちの主戦場はデパートやファッションモールだからである。ユニクロさえ守備範囲外かもしれない。
こうした問題が起こるのは、彼らは発信にはなれているのだが受信ができないからだ。そもそもトレンドを可視化するツールはつい最近まではなかったし、実際に参加しないで「売れ筋トップ10」などとみても状況がよくわからないのだ。ファッションにPOSデータはあまり役に立たないのはスタイルが単体では成り立たないからである。
もう一つの問題は「素敵マーケティング」である。どうやらトップブランドの人たちは「自分たちの素敵なブランドを素人に紹介してもらいたくない」という気持ちがとても強いようである。実際には服が売れないわけだから「非顧客を顧客にする」ということが必要なはずなのだが、そうした人たちを意図的に無視してしまうのだ。素敵マーケターというのはインスタグラムで素敵な生活を見せているような人たちである。
こうした苛立ちが現れているドラマが「人は見た目が100%」である。このドラマの中では「女子もどき」と呼ばれる非顧客が、素敵な美容師に憧れて素敵女子を目指すという物語だ。劇中には女子力の高い総務課の女性陣が出てくる。彼女たちはとても努力していて、配慮もあり、ルックスも良く、知識もある。いわば、女子の鏡だ。
が、冷静に考えるとその女子像は「男性に頼っている」存在である。つまり、これが憧れの対象になり得るかという問題がある。
ゆえに、女子もどきの人たちがなぜファッションに憧れるのかという点が全く描けない。見た目でしか判断されない職場に強制的に転職させられて、素敵な女子に囲まれたから勉強を始めたということになっている。ここでは「女子力の高さ」が肯定されているのだが、なぜ肯定されるべきなのかということが全くわからないのだ。
合コンの相手はイケメン美容師だったりするわけだが、30歳前の美容師にそんな余裕があるとは思えない。彼らは、自分たちの商品価値が30歳くらいで終わることがわかっているので、独立資金をためて自分の店を出すことが目標になっていたりするのである。男性に養ってもらうというのが「女子力を目指す唯一の理由」だとしたら、それは現代ではそもそも成り立たない。
つまり、素敵マーケターたちがインスタで憧れライフを顕示しても誰もついてこないという状況が生まれてしまうことになる。が、素敵マーケターはそれに気がつかない。で服が売れないと嘆き続けるわけである。
この背景にはプロの人たちと実際のズレがある。現代においてファッションが重要なのは、アサーティブな自己表現のスキルが必要だからである。自己表現のためにはファッションに対する基礎知識が必要なのは間違いがないが、それ意外にも他の人たちがそれをどう受け取るかという知識が必要になる。ある種コミュニケーションのツールになっている。
実はファッションを楽しむためにはあまり構造的なことはわからなくても良い。単に実践しているうちになんとなく「ああ、こうかな」というのがわかってくるので、あとはそれを洗練させて行けばよいからだ。その意味では外国語の習得に似ている。
だが、例えばこういう構造を勉強することは「伝わらない」ことに悩んでいる人たちにとってはある種のヒントになるかもしれない。例えば現在、政治状況について「安倍政権はこんなにひどいことをしているのにみんなそれに気がついていない」などという人が多いわけだが、多分、非顧客を捕まえるための何かが欠けているのではないかと思う。例えば、政治に関心がない人たちのニーズだったり、彼らが情報をどう受け取っているかという知識である。
もう着るものに迷わないシステムの構築
もともとは 「向こう一週間の最低気温が5度を超えたら植物を外に出す」というようなシステムを作りたかったのだが、ライブドアのAPIでは最低気温・最高気温も今日と明日のものしか分からない。そこで今日の気温をもとに何を着ればいいのかを薦めてくれるというシステムを作ることにした。
まず下準備として写真にコートやジャケットなどというタグ情報を追加しておく。気温が7度以下になったらコートを着るなどというように決めておくのだ。ポイントになるのは10度近辺だとコートもジャケットも着られるが、7度くらいになるとコートしか着られないというように条件が細かく変わる点だ。
次にライブドアのWeather Hackからお天気情報を引っ張ってくる。今回は千葉市(120010)を選んだ。リクエスト結果がJSONで戻ってくる。PHPの受け取りは意外と簡単でfile_get_content($url)で受け取り、エンコーディングを整えた(多分UTF-8なのでそのままでもよいと思うのだが)うえで、 json_decode($json,true)する。すると配列に情報が入るのであとはprint_rで中身を確認しつつ必要なデータを取り出すだけ。意外と簡単だ。
お天気情報配信はRSSが多いようでこれだと少し使いにくい。Yahoo! はこのタイプ。
さて、個人的に使うものを世界中に発信するわけにもいかないので、いつものようにログイン情報がないと「使えない」旨の表示を出す。ただしお天気情報そのものは商用利用しなければ使っていいですよという仕組みのようなのでそのまま表示する。
ログインすると写真が表示される。例えば気温が7度以上で10度未満だと、コートは表示されないがセーターとジャケットが表示されるようにする。if($max < 7){コート}elseif{ジャケットとセーター}のようになる。とても簡単。
気に入らないコーディネートが表示されたら、ボタンを押して別のイメージをランダムに表示する。データベースをもう一度読むことはなく、予め該当する写真のURLをブラウザ側で蓄積しておく。JavaScriptを利用している。
同じことを、ファッション雑誌でやろうとすると朝起きたときに雑誌をひっくり返して、好みのコーディネートを確認するということになり現実性がない。例によってスマホで見てみたのだが、お天気とコーディネートを一覧するのには明らかに不向きだった。ただ、画像そのものをボタンにするなど工夫をして、とりあえずコーディネートを表示するようなシステムを作ることは可能だ。
このようにファッション雑誌もオンライン化すれば工夫によって様々な再利用ができることがわかる。
流行と売れ筋は違う
「安倍首相の支持率が高いのはおかしい」という人がいる。トランプが大統領になれるはずはないという人も多かった。しかし、実際には安倍首相の支持率は高く、トランプは大統領になった。これは「アンケート」や「マーケティングリサーチ」がいかにあてにならないかの事例になっている。これを構造的に解説するのは難しいのだが「何が何だか分からない」というわけではないので、全く異なる事例からいろいろ観察して行きたい。
ファッションには流行がある。色々な人が色々なことを言っている。
WEAR
ここのところWEARというファッションSNSに投稿を続けている。なぜか「だらしない格好」を投稿すると評判が良い。最初はからかわれていると思ったのだが、どうやら「ゆる」ブームが来ているようだ。具体的にはワイドパンツやライズの高いジーンズなどが「来ている」ようだ。これはMen’s NON-NOなどがユルブームを牽引しているからだ。面白いことにMen’s NON-NOはしばらく前からこれを押しているのだが火がつくまでに数年かかった。雑誌が単独で押しているわけではなくドメスティック系のファッションコミュニティの意向があるのだろう。
ところが実際に閲覧されているのはウルトラライトダウンなのだ。つまり、ファッションコミュニティで評判がいい服と、実際に見られている(つまり購買の候補になっている)服は全く異なっているということがわかる。
Men’s NON-NOは売れていない
本屋に行ってきた。今一番売れている男性向け雑誌はSAFARIでMen’s NON-NO次ぐらいに来るのではないだろうか。確かにSAFARIは平積みされているのだが、Men’s NON-NOは1冊置かれているだけという店がある。代わりに置かれているのが、地方の若者(周回遅れで流行が来る)向けの雑誌だ。BITTERなどが置かれている。この一昔前の世代にはMen’s Eggを読んでいたのではないだろうか。
日本の男性服の流行には二軸ある。ファッション知能指数(そんなものがあるのかどうかはわからないが)高めの人たちとそうでない人たちの流行だ。そうでない人たちが「キレイめ」にキャッチアップしたころにはファッション上級者は飽きているのである。そして、ファッション上級者は今「古着」を見ている。過去の流行がアーカイブされていることがあるからだ。だが、これも都市の流行なのではないかと思う。
実際に街に出てみた
実際に街でどの程度「ゆる」服が流行っているのかを見てみた。面白いことに日曜日のお父さんが来そうなロードサイドのモールでは「ユニクロ系」の服を小綺麗に着ている人が多い。子供連れなので変な格好はできないだろうし、子供は走り回るから動きやすい方がいいに決まっている。
街(一応県庁所在地だ)の駅前を流してみたのだが大学生が一番よく着ているのはトレーニングウェアの下(つまりスエットパンツみたいなやつ)のようだった。実際にはちょうどよいサイズのジーンズをきっちり着ているだけでオシャレに見える。「普通の大学生っぽい服」が多い。「ゆる服」なんか誰もいないじゃないかと思ったその時にガウチョパンツみたいなものを着ている男性をみつけた。東京に遊びに行くのかもしれないなあと思った。まあ、100人に一人といったところだ。そういう配合なのだ。
ファッションの御大はなんと言っているか
小島健輔というコンサルタント(アパログに連載を持っているので御大なのだろう)は次のように言っている。
‘ノームコア’が終わってデザインと装飾、ボディフィットが復活するのに加え、キレイ目シフトで製品洗いなど汚め加工が疎まれると予測される。
実際に若者向けのファッションコミュニティとは真逆なことを言っている。ノームコアをゆるい着こなしと言っているのだが、かなり文脈がずれてしまっている。いっけん普通に見えるので「だらしなくファッショナブルではない」と思っているのだろう。これがファッションコンサルタントの予想なのだが「文脈は俺が作る」という意識もあるのかもしれない。立ち位置としては読売新聞の記者みたいなものだ。ノームコアはシンプルさが持ち味なのだが、この人にとっては「単にゆるくて汚い格好」に過ぎなかったのだろう。洋服はかくあるべきという持論があるのだと思われる。
こういう人が売り場を作るので若者は古着に傾倒してしまうのだろうが「現場をよく知っている」という矜持があり、ファッションコミュニティとの差異には気がつかないのではないだろうか。
中堅どころはこういう
南充浩という中堅どころのファッションジャーナリスト(なかなか味のある文章を書く人だ)は中年はビックシルエットを避けるべきと主張する。似合わないからなのだそうだ。しかし実際にファッションコミュニティに受け入れられようとすると、ビックシルエットになる。最初は「あれ、これ変だな」と思うのだが、そういう流行になっている。ここでいう流行とは逸脱が許容される狭い窓なので、つまりおじさんが「変だなあ」と思っていてもそれが変でなくなってしまう。中年だけが似合わないわけではなさそうで、つまり変な格好が流行っているのである。
南さんが若い頃どんな格好をしていたのかはわからないので、本当は変な格好をしていてある日まともになったのか、最初からそういう流行とは無縁だったのかはわからない。
まとめるとこうなる
これを無理矢理にまとめるとこうなる。
- 表:最先端は誰からも理解されないが存在する。多分最初は業界だけの流行だろう。これがブームになることもあるがコミュニティができるまでには数年時間がかかる上に限定的である。
- 裏:これを追随しているコミュニティがある。この人たちが食いつくころには最先端の人たちは離反している。
- 中核:業界を動かしている人とたちはこの動きにはついて行けないし、自分たちの方が宇宙の中心だと信じている。彼らにはトレンドは単に奇異に見える。
- 普通:マジョリティは業界の動きにも、権威の動きにも興味はなく、別の動機で動いている。
これは政治問題にも応用できる。ここから考察を重ねても良いのだが長くなりそうなので止めておく。政治にも「表と裏」があるのだが、一番の違いは裏が表を叩いているということだ。これは「社会のコンセンサス」が影響しているのではないかと思う。ファッションは好き勝手な格好をしていればいいのだが、社会は「正解」を求めることがある。つまり、ワイドパンツとキレイめのどちらかを選べということだ。そこで闘争が起きてしまうのではないだろうか。
Twitterは街に一つしかないユニクロでMen’s Eggの客がMen’s NON-NOの客を罵倒しているみたいなところだということになる。
流行はどこからくるのか – その4つの起源
日本のファッションカラー100 ―流行色とファッショントレンド 1945-2013を読みながらファッショントレンドについて考えている。この本は日本の戦後のファッショントレンドを100集めているのだが、「よく覚えているなあ」というものばかりだ。特に終息がいつだったかは意識していないと収集できないのではないだろうか。
この本はいろいろなトレンドを扱っているのだが、そのソースは4つに分類できるようだ。
- モード界由来
- 憧れの対象由来
- 不良グループ由来
- 余暇由来
これにプロダクトデザインを加えるとほぼ全てのトレンドを網羅できそうだ。それぞれを詳しく見てみよう。
モード界
モードが流行の源泉になったケースはそれほど多くない。戦争が終わって「女性は女性らしく」という流れがあり、Aライン、Hライン、Yラインなどが提唱された。このラインを破壊したのが日本人で、洋服を脱構築して黒で洋服を再構成した。明らかに着物のような「巻きつける」系統の伝統がバックボーンにある。
政治に関心を持つデザイナーは少なくないがストリートの動きや反戦運動に形を与えるということの方が多いようである。意外とデザイナーが主導してデパートが広めるというような動きは少ないらしい。
憧れの対象
憧れは流行の大きな源泉になっている。日本人が最初に憧れたのはGHQで、流行をもたらしたのはパンパンと呼ばれるGHQに群がる女性たちだった。その後、映画が憧れの対象になった。最初は洋画が憧れの対象だった(サブリナパンツなどが流行った)が、太陽族という余裕のある学生も映画から憧れの対象となった。余裕のある学生が憧れの対象になるという流れはその後も続き「余暇を楽しむ学生」はファッション流行の源泉になる。人々は加山雄三に憧れ、バブル直前の原田知世・織田裕二ごろまで余暇を楽しむ学生は憧れの対象だった。
さらにアメリカの学生(有名大学の学生やそこに行くための予備校生)のスタイルが輸入された。最初はアイビーと呼ばれ、のちにプレッピースタイルになった。もちろん、こうした動きは日本だけのものではない。イタリアファッションも映画の中の衣装に起源がある。
日本ではよく見られる「アメカジ」だが、当然アメリカにはない言葉だ。面白いことにバブル期までロスアンゼルスに古着を買い付けに来る日本人は現地の人たちから嫌われていた。質の良いものを買いあさるので値段が高騰してしまうのだ。こういう買い付け人たちが再構築したのが「アメカジ」だったわけで、当然日本人が作ったある意味どこにもいないアメリカ人に憧れていたことになる。
不良グループ
逸脱も流行のソースになる。ロカビリーがブームになり、モッズが流行した。モッズはテレビに乗って派手になってゆく。これがビートルズやGSなどの流行につながる。GSはモッズだけではなく様々な流行を取り入れて派手になってゆく。
そのうち竹の子族という美的感覚に欠落がありそうな人たちが独自の流行を作った。裕福な若者がトラディショナルファッションに身を包んでいたのと同じ時期に竹の子族もいるといるという状態いだ。黒人のだらしない格好も音楽を媒介にして日本に伝わった。渋谷できっちりした格好が流行している一方でダボダボのパンツを履いている人もいるというのが流行の特徴だ。つまり、流行は二本立てになっていたことになる。
これとは少し違っている流れもある。厭世観の中でLSDに逃避する若者が作ったのが「サイケ」であり、そのあと、ベトナム戦争反戦の為に街で軍服を着ようというミリタリーブームがあったそうだ。
スポーツ
最初の流行はスキーだったようだ。そのあとマリンファッションが流行して「日焼けがかっこいい」という時代が長く続いた。それと並行して、レオタードなどのトレーニングウエアもファッションアイテム化される。余暇を楽しむ学生が憧れの対象になるわけではなく、余暇のスタイルが街にも持ち込まれるのである。いわゆる「陸サーファー」が典型だ。
スキーブームはかなり長く継続し、バブル時期の「私をスキーに連れてって [DVD](1987年)」の頃まではスキーが主流だった。「私をスキーに……」のスキー場は、志賀高原と万座温泉だそうだ。
ワークウェアがファッション化したように、スポーツアパレルもストリートに接近した。しかし、これが効きすぎたのか最終的には街でナイキのシューズを狩るという「エアマックス狩り」にまで発展した。エアマックスは1987年に発売された単なる運動靴なのだが、マーケティングの結果プレミアムがつき、暴力団の資金元になるほど価格が高騰したのだ。このようにしてファッションそのものが壊れていったのがポストバブル期だ。
流行そのものが崩壊したポストバブル期
バブルが弾けてもしばらくの間は「いつかは回復するだろう」という見込みがあった。しかし、ファッションは確実に崩壊していった。「健康」の象徴だった日焼けすら過剰になり最後は「ヤマンバ」と称されるようになった。つまり化物になってしまったのである。
裕福さの象徴だったイタリアファッションも水商売の男性の制服になった。最終的には日焼けした男性がベルサーチなどを着るようになり、穴の開いたジーンズを買うようになると、ファッションが「下流の人たちのもの」ということになってしまった。つまり、洋服にお金をかけるのはドロップアウトの証拠だと見なされてしまったわけである。
一方で比較的余裕のある人たちは「無駄な出費をせずユニクロで倹約するのが正しい」ということになった。ジーンズの裾が広がったり、パンツが細くなったりという変化はあるものの、流行そのものが崩壊してしまった感じがある。ファッションを追求すると世の中から脱落してしまうのである。
アパレル産業はいろいろな施策を打って流行を動かそうとしているのだが、ファッションアイテムだけに注目しても誰もなびかない。それを育てるコミュニティが重要なのだ。
流行を作るのはコミュニティ
日本の流行を見てゆくと、銀座、六本木、渋谷、原宿、裏原宿、表参道、横浜、神戸、湘南、苗場などといった場所に集うコミュニティが源泉になっていることがわかる。流行が消えた裏には集まって余暇を過ごす余裕がなくなっているということを意味しているのかもしれない。
Yahoo!知恵袋には「このアイテムを着るのは正解か」とか「これは今着ていても大丈夫か」という質問が多く見られる。本来ならリファレンスになっていたコミュニティが消えてしまったので、誰もが不安になっているというところだろう。もう20年近くも「減点型椅子取りゲーム社会」が続いているわけでファッションは仲間作る記号ではなく、外れている人を排除する記号として作用しているのかもしれない。
この典型がリクルートスーツだ。「服装自由」と言っておきながら、少しでも外れていると排除されてしまう。かといって、みんな同じ格好をしていると「個性がなくつまらない」と言われてしまう。かといって、誰も正解を知らない。
とはいえ、嘆いていても仕方がないわけで、現実はこれに即した動きになっている。
- 40歳代から上はかつての流行を知っているので従来型のファッション雑誌が売れている。
- バブル崩壊期に育った人たちに向けては、シンプルで飽きのこないスタイルが推奨される。かつてのセレクトショップが「ファミリー向け」のラインを出している。
- それより下の世代には教科書型のファッション雑誌が売れるが発行総数は多くない。
ファッション雑誌の解体・カテゴリ・タグなどに関する散漫とした考察
ファッション雑誌を解体している。実際にはスキャンしてコーディネートに分けた上でウェブにアップする。著作権上の問題があり本来は違法なのだと思うが、パスワードでプロテクションをかけて不特定多数の閲覧を防いでいる。データベースに問い合わせを行い、合致した人の端末だけにセッション情報を渡す仕組みである。
なぜファッション雑誌を解体したかったのか。それはファッション雑誌がランダムに並んでいて、ルールがわからないように見えたからである。ファッション雑誌を読んでおしゃれになる人もいるのだから、一種の学習障害と言えるかもしれない。
それでも繰り返し少ない写真を見ているとコーディネートを覚えることができる。つまり、再編集することで情報を捨てているのだ。
記憶の限界と暗黙知化
人が短期的に記憶できるのは7±2と言われている。これはワーキングメモリと呼ばれる。実際にはいくつかのルール群があり、それを重層的に駆使することで複雑なコーディネートを作っているものと思われる。その作り方は明示的ではなく暗黙知化しているのだろう。いわゆる「センス」と言われるものだ。暗黙知は他人に伝わりにくいという欠点がある。長い年月をかけてルールが複雑化すると、周辺にいる人たちは「わからないからいいや」ということになってしまう。端的にいうと「ユニクロでいいや」ということになる。専門家の中には東京のファッションコミュニティは浮世離れしているという人もいる。ルールができたらそれを操作してゆくのが仕事だからだ。
ただし、ルールの操作が悪いというわけではない。もしルールに飽きることがなければ、擦り切れるまで新しい服が売れないということになる。
メタデータの付加 – カテゴリーとタグ
解体した写真はそのままでは使えないので、なんらかの分類が必要になる。付加されたデータは「メタデータ」と呼ばれる。メタデータには二種類がある。
最初のデータは「ユニークキー」+「カテゴリ」データだ。写真ごとに1つのカテゴリーが割り当てられる。カテゴリー化は「抜けなく漏れなく(MECE)」が必要だ。ファッションの場合はシェイプでMECE分類が可能である。トップスとボトムの太さでシェイプが規定できる。このほかに縦のラインが作れるのでこれだけでMECEなカテゴリが完成する。
ファッションには出自があり、クラッシック、ストリート、ミリタリー、スポーツというような分類もできるのだが、これはカテゴリーにはならない。ミックスという分類があるからである。
しかし、実際にやってみると、別の分類もやりたくなる。例えば、新しくバルマンカーンコートを買うと参考になる写真が集めたくなるのだ。つまり、カテゴリー付けのルールは柔軟であったほうが、実運用上は扱いやすい。目的はカテゴリーを作ることではなく、一覧表を作成することだからだ。
さらにカテゴリー作りそのものがトレーニングになっていることがわかる。分類ができるということは通底するルールがわかっているということである。
次のやり方はタグ付けするという方法だ。タグは最初のメタデータとは別に準備できる。「キー」+「タグ」という方法になる。ミリタリーテイストのOシェイプでは二種類のタグが一つのキー(この場合はコーディネート写真のURL)に対してアサインできる。それとは別のアプローチも可能だ。着ている服に使ったアイテムを記録して、そのアイテムに「これはワイドパンツだ」とか「ミリタリーだ」というメタデータを付加してゆくのである。これはカテゴリーの重層化だが、カテゴリ同士の関係はない。「ユニークキー」+「カテゴリー1」+「カテゴリー2」である。
実運用上のカテゴリーの数と実装
実際にはいくつくらいのカテゴリーが制御可能なのだろうか。パソコン画面で試したところ20くらいは扱えそうである。写真の実装では24ある。カテゴリー+サブカテゴリーに分けるとやりやすいのだが、実装上では単階層にしたほうが簡単だった。
これがファッション雑誌の特集の1ページということになる。それぞれ7つ程度(実際に自分で試したものと参考資料)が並べられる。
カテゴリーは単純な数字にして名前を後から変更できるほうが、簡単に実装できた。しかし、このやり方だと後で新しい分類を思いついた時に並べ替えられないということが起こる。これはカテゴリーが単基準で並んでいない(つまりMECEでない)ことから起こる弊害だ。それを解決するためにはソートキーをつければ良いわけだが、キーが2つになるというのはデータベース設計上はあまり美しくない上に予期しないバグの原因になるようだ。
構造化されていないタグの弊害
例えば、ある写真に対して、ミリタリーでYシェイプのものを集めたいとする。しかしタグはこうした構造を持っていない。SQLでデータを構造化するためにはビューでは対応できないようで、Group Contactという仕組みで情報を集めてくる必要がある。これをクライアント上で再編成するか、新しいテーブル(キー+カテゴリーA+カテゴリーB)を再編成する必要がある。例えば二次元の表を作りたい場合タグよりカテゴリーのほうが実装はしやすいが、カテゴリー設計している時には表のことまでは考えていられない。
左の例は毎日のコーディネートにアイテムを付加したもの。だがアイテムがパンツなのかジャケットなのかは記述されていないので、テーブルを再編成する必要があった。
著作権だけ守っていては解体が先行する
ファッション雑誌を切り抜いて再構築するという動きには「著作権条の懸念がある」ということは先に述べた。しかし、Pinterestのような「まとめサイト」が先行しており、キュレータによる情報の再編が行われている。Pinterestでは任意に選ばれたもう何年も昔のファッション写真が出回っているのだが、いくつかはネットワークの中心になっており、情報発信者の意図とは全く異なるデザインが「良いデザイン」としてフィーチャーされてしまう危険性が高い。どの写真が宇宙の中心になるかはランダムに決まるのだが、いったん中心になったデータは中心であり続けるという性質がある。すると、時間をかけて撮影されたプロによる仕事がうもれてしまうことになる。
ファッション雑誌では今でも「グリッドデザインが」などと言っている人たちがデジタルの専門家として君臨していると思うのだが、実際にはすでに解体が進んでいるということは知っておいたほうがよいのではないだろうか。
ユニクロと女性が活躍できない社会
ユニクロが新しいコマーシャルを始めた。人はなぜ服を着るのかを消費者に尋ねている。ああ終わっているなあと思った。消費者に聞いても提案が得られるわけではないからだ。
多分、ユニクロは「人がなぜ洋服を着るのか」という根本的なところが分からなくなっているのだろう。売り場からはデザインが消えていた。チェックやボーダー柄すら少数派になり、ジーンズのダメージがデザインとして残るくらいだ。カラーバリエーションも消えていた。人気のない色がいつも売れ残っていたのだから当たり前といえば当たり前だ。代わりにユニクロが売り出しているのはストレッチとヒートテックである。つまり、ユニクロはついにデザインというものを放棄してしまったのだ。
人が洋服に機能以外のものを求める理由はいくつかある。例えば差別化やクラスの明示という機能があるが、ユニクロのような大衆服のジャンルには当てはまらない。残るのは「居心地のよさ」の価値だ。デザインというのはこの「居心地のよさ」を作るための一つの要素だと考えられる。ユニクロは「居心地のよさ」がよく分からなかったのだろう。
とはいえ、消費者の側も居心地のよさがよく分かっているとはいえない。消費者の側にあるのは「同調」と「流行」だ。他人と同じ格好をするべきでそれは毎年古びてしまうという強迫観念である。
「日本人はデザインを理解できなかった」などと書きたくなるのだが、これは必ずしも正しくなさそうだ。戦後の日本人は手作りのデザインに目覚め、その中からパリで活躍するデザイナーを輩出した。つまり、日本人が美的に優れていないということはいえないように思える。
ユニクロからデザインが消えた背景にあるのは「効率的・機能的」という価値観と「居心地のよさ」という価値観の対立だろう。前者は男性的な価値観と考えられ、後者は女性的な価値観だと考えられる。
バブルが崩壊して日本人は経済縮小を選択するようになった。ここで切り捨ててきたのが「居心地のよさ」なのだろう。快適に暮らすことを捨て、子育てや教育のように次世代を育てるための予算を切り捨ててきた。
ジェンダーギャップが大きくなっているということが話題になっているのだが、女性的な価値観は今の日本ではハンディでしかない。
だから、女性が男性の中で活躍するためには「女性らしさ」を捨てて見せなければならない。そのロールモデルになっているのが高市早苗や稲田朋美といった人たちである。つまり女性は「政治化に向いていない」という疑念があり、それを捨てるためには敢えて乱暴なことを言わなければならないので。ある。稲田朋美に至っては「これを言っておけば安心だろう」という過去の放言を蒸し返され、国会答弁で泣き出す始末だ。信条の問題というよりは、単にオウムのような存在だったのだろう。
実業でも女性は男性的な働きが求められる。電通の高橋まつりさんの件があれほど注目を集めたのは、人生をすべて企業にささげるべきだという風潮が蔓延しているからだろう。自殺したことで電通の幹部たちは「だから女は使えない」と思ったのではないだろうか。
このような社会で女性が男性並みに活躍し始めたら大変なことになる。次世代を育む役割が放棄され社会が縮小するからだ。
さて、この文章では「次世代を育てる」という役割を女性に押し付けているという反論が出てくるのをひそかに期待している。もちろん、男性が女性的価値観を身につけることは大切だ。これの反証になっているのが女性の男性化である。
女性が「私らしくいたい」のは当たり前のことなのだが、これが持ち物や夫の地位をめぐるマウンティングになることが珍しくない。つまり「居心地のよさ」の競争が行われているわけだ。共感を元にみんなが居心地よく暮らすというのが本来の女性的な価値観なのだから、これは男性的に変質しているということになる。
つまり、女性だからといって女性的な価値観を身に着けているとは限らない。日本はそれほど競争的な価値観が支配する社会なのだということが言えるだろう。
面白いことにアパレル業界はこれを男性的に乗り切ろうとしている。つまり、一生懸命大量生産してコストを削減しようとしている。その結果、売れ残りが増えているそうだ。