フライデーの罪と現行憲法

フライデーで薬物疑惑報道が出た直後、成宮寛貴さんが引退した。直後のTwitterではフライデーは許せないというような書き込みがあふれた。その多くは「成宮さんはクスリなんかやっていない」とか「心情的に許せない」などというものだ。フライデーのTwitterアカウントには非難の声が殺到しているという。

しかし、問題はそこではない。フライデーは明確に憲法違反を犯したのではないかと思われる。ここは、理路整然と追い詰めるべきだ。

問題はセクシャリティの暴露である。「成宮さんはゲイだ」といううわさはあったのだが、本人は否定しないまでも表ざたにはしてこなかった。芸能人は女性からあこがれられる必要があり、邪魔だと考えたのかもしれない。

セクシャリティの開示はプライバシーにあたる。プライバシーは憲法第十三条で守られている。すべての国民には幸福を追求する権利がありそれを侵されてはならないとされているのだ。どこまでがプライバシーに当たるかは議論があるのかもしれないが、政治的信条、出自、信仰、セクシャリティなど人格の中核にあるものがプライバシーだ。自分で選んだものもあるし、変えられないものもあるが、そこが変わってしまうと「その人がその人らしくいられなくなる」ものを暴かれてはいけないのである。

もちろん幸福追求権は別の権利とぶつかることがある。それが表現の自由である。表現の自由は政治的な信条などを自由に発言するという民主主義の基礎の一つだ。このため、政治家のプライバシーは制限されることがある。公私混同を「プライバシーだ」と守ってしまうと民主主義そのものが破壊されかねない。だが、これは極めて例外的なケースである。

成宮さんの場合、報道で得られる公益は何もなさそうだ。フライデーは記事を出すことで「薬物汚染にメスを入れる」など主張するかもしれないが、薬物使用の証拠があるのなら警察に持ち込むべきだった。実際に事務所との間ではそのようなやり取りがあったようだ。しかし、警察に持ち込んでもフライデーには一銭も入らないわけで、つまりこれは単なる金儲けである。

成宮さんはプライバシー侵害によって「役者のイメージ」を損なわれ幸福追求の権利を失ったと言える。実際の損害は1億円に上るという報道もある。

成宮さんが薬物を扱っていたかということと、プライバシーの問題は独立している。つまり、クスリをやった人はプライバシーを暴かれて人生をめちゃくちゃにしてよいということにはならない。しかし、マスコミはこの事実から逃げている。普段からフライデーをコンテンツとして引用しており依存関係にある上に、クスリの使用を擁護するのかという炎上を恐れているのだろう。

また「自称インテリ」のリベラルな人たちの間からも成宮さんを擁護しようという動きは出てこなかった。欧米だと同性愛者の擁護は人権派が関心を寄せる問題なのだが、日本人の意識はまだまだ遅れている。日本の人権派は政権に敵対することが自己目的化しており、他人の人権には実はさほど関心がないのかもしれない。

ここまで書いてくると、不倫報道はどうなのかという疑問が出てくるのではないだろうか。もちろん「アウト」ということになる。こちらは不倫とプライバシーが直接リンクされているので、基準があいまいになりがちだ。

しかし、仮にマスコミに社会的に罰を与えるという機能があるとしても(そんな機能はないのだが)、妻がいる夫の側が裁かれるはずである。実際に裁かれるのはどちらか有名な方だ。「見出しとして強い」方がフィーチャーされるということになっている。これは単なる商業主義に過ぎない。他人のプライバシーを盗んで売っているということになる。

ここで「人権というものはそこまで守られるべきものなのか」と考える人も出てくるのではないだろうか。実際、プライバシーを切り売りしている芸能人は多いし、受け手の側もそれを当たり前だと考えている。制度上、裁判を3回受けるまで罰せられることはない(三審制)はずなのだが、疑惑が出た時点で社会的に裁かれることも横行している。

つまり、そもそも人権は日本の社会には根付いていない。それでも他人の人権侵害が最低限に抑えれているのは「押し付けられた」憲法という歯止めがあるからである。憲法改正には理想を現実にひきつけて、今でも横行している人権侵害を当たり前のものにしてしまおうという堕落があると考えられる。

いずれにせよ、成宮さんは今大変な混乱の中にいる。こういう時こそ周りの人やファン、一人ひとりのつてを使ってどういう手段で制裁ができるのかという世論を作らなければならないのではないだろうか。そろそろ他人のプライバシーを侵害してお金儲けをするようなことをジャーナリズムだと呼ぶのはやめた方が良い。それはとても野蛮なことである。

一橋大学の同性愛者自殺裁判

一橋大学のロースクールで同性愛者が自殺をしたというニュースがTwitterで話題になっている。クラスメイトの男性の告白をしたところ断られた上に、告白されたことを暴露されたらしい。結果、パニック障害になったのだが、大学側は適切な援助をせず「ちゃんと授業にでないと卒業できないよ」と逆にプレッシャーを与えたというのだ。

これを受けて多くの人が「大学の対応はけしからん」と言い、被告男性を責めた。大学側は性同一性障害と同性愛の区別すらついていなかったらしく「え、そこからですか?」という驚きはある。また、告白された側の男性が「人間のクズ」であることは間違いがない。

しかし、大学や被告を責め立てたとしても問題は解決しない。

同性愛者がマイノリティとして生きて行かなければならないというのは事実だ。マイノリティにはマジョリティ以上の「胆力」が求められる。ある程度強くなければ生きて行けないのだ。だが、同時にマイノリティはそれほど珍しい存在ではない。

例えば新宿二丁目に行けば同性愛の人が大勢いて、この手の「失恋話」は珍しいことではないだろう。「かわいそうねえ」と同情してもらえることもあるだろうし「そんなの当たり前じゃない」という人もいるにちがいない。同性愛だけがマイノリティではないことを考えると、以外とありふれた存在である。

そのように考えると、この大学の特殊性が浮かび上がってくる。一橋大学のようなエリート校のロースクールに入るためには、社会勉強をしている時間はなかったのかもしれない。その上、学校関係者もエスタブリッシュメントばかりを相手にしてきたのだろう。そういう「どマジョリティ」の人たちは、同性愛と性同一性障害の区別すらつかなかったのだ。

ロスアンジェルスでは男性同士がベッド一つの家に住んでいるというのは自慢したり悲観したりするほど珍しいことではない。その人たちがオネエ言葉で話すということもないし、スカートをはいて社会生活をしているわけではない。芸能界にはオネエ言葉の弁護士などがいて、良い稼ぎをしている。そういう人たちをみて顔色を変えることは政治的には正しくない態度だと考えられている。「あなた同性愛者なのか」と聞くこともない。さらに民族的なマイノリティエスタブリッシュメント(顕著なのはユダヤ人だが、その他にイラン人のコミュニティなどがある)層が住んでいる。このような多様性が都市の繁栄を支えている。

この多様性をふまえた上で日本社会を考えると、マイノリティ問題は実は深刻な問題を含んでいる。さらに、ここがロースクールだったことを考えると、その閉鎖性は致命的だ。法律家は人権問題を扱う訳だが、人権抑圧される人は何らかの意味で少数派だ。しかし、その当事者が少数派に対するまなざしを持っていない。それどころか「マジョリティ」を偽装しなければ生きて行けないほど均質な社会なのだ。そのような社会では少数性は「単なるスティグマであって、社会のお荷物だ」という意識を生み出すのかもしれない。

実は多様性は活力なのだが、そうした視線を持ち得ないのだ。

さらに少数性への対処も遅れている。例えば教会などだと「いじめられてかわいそうねえ」などと頭をなでられることはない。教会は常に問題に接しており(中には子供を失った親などという救いのないケースもある)「強く生きてゆかなければならない」などど諭されることが多い。しかし、エスタブリッシュメントばかりの大学は日の当たる側面しか見てこなかったのだろう。

少数性は誰でもが直面する問題だ。例えば、周囲に例のない健康問題を抱えればそれだけで「マイノリティ」である。

これを指摘するのは少々残酷だが、こうした均質な環境で、自殺した本人も本当の意味でマイノリティについて考えたことがなかったのではないかと考えられる。同性愛者だからといって、自動的に他の同性愛者を受け入れているとは限らない。どのような家庭環境なのかは分からないが、もしかしたら息子が「普通でない」ことを受け入れられなかった可能性はある。

社会人経験を持っていない人がいきなり法律家になるのも問題だ。適切な休学制度などがあれば本人は閉ざされた教室から解放されていただろうし、それなりに人生を考える時間や、社会について学ぶ機会が得られたはずである。新宿二丁目か海外に出れば「同性愛者」がどのように扱われているかを知るチャンスもあったはずだ。

一橋大学でロースクールに入ることができたほどの人が、外に出さえすれば、様々な経験ができたはずで、それは社会の多様性を促進する上で大きな助けになったはずである。

人がパニックを起こすほど孤立しても、その人に代わって孤立してやることはできないし、その人のことを100%理解してやるのは不可能だ。しかし、周りにいる人は「あなただけではない」と言ってやることができるはずである。

障害者はあなたの道具じゃない

久々にかなり腹立たしいツイートを見かけた。さらに腹立たしかったのが、なぜ腹が立つかを説明しなければならないということだ。非常にばかげている。

ツイートの内容は「障害者はカナリア」というものだった。安部首相を非難する文脈なので年配の左派だと思う。最近、弱者を排除する風潮があり、津久井の事件はその文脈で起きたというようなことが言いたいのだろう。

カナリアというのは炭鉱労働者が死なないように先に死ぬセンサーのようなものだ。つまり、一般市民が死ぬのを防ぐために障害者が犠牲になったということを言っているのだ。多分意識していないのだろうが、この人は障害者を道具だと思っていることになる。これは人間のオブジェクト化である。自分の政治的な主張のために他人を利用しており、それが当たり前だと思っているのだ。

自分が息苦しさを感じているのであれば、単に「嫌だ」と言えばいい。左派は政治的な欲求が通らないという意味では弱者のだが、自分たちのことを弱者だと思いたくない。そこで弱い他人を利用しているのだ。障害者を弱い人間だとみなすことで、自分たちはそれよりはマシだといえるようになる。実に厄介で屈折した搾取なのだ。

やっかいなことに「自分を弱者の支援者だ」とみなしている人ほど、他人を利用していることに気づかない。いわゆる右派(ヘイトといわれる人たちだ)はまだ、蔑視しているという意識があるのだが、この手の人たちにはその意識はないのだ。それどころか、このような批判を受けると「私たちは弱者のためを思って言ってやっているのに」と怒り出したりする。実に厄介である。善に気が付かないのだろう。

なぜ、この国には平等という概念が全く根付かないのだろうか。怒りというより悲しみがこみ上げてくる。なぜみんな隣人から奪いたがるのだろう。

そもそも民族とは何なのか

国連は2008年以来、沖縄人は琉球弧の先住民族だと認定するように日本政府に勧告しているらしい。この勧告について自民党は「国連に撤回を求めるべきだ」として問題化しようとしている。

この発言には大いに問題がある。国益に反するので、国連に勧告撤回を求めるのはやめた方がいいだろう。撤回を求めている人たちは本土の代表であって「抑圧者」だと見なされる可能性がある。次に民族の概念は定義が曖昧であり、そもそも議論が成り立たない可能性が高い。沖縄選出の自民党議員に「我々は日本人である」という運動をやらせてもいいが、これは沖縄に住む人たちを分断することになるだろう。民族という概念は政治の産物なので、政治問題化しやすいのだ。

もし撤回を求めるとしたら、代わりに「第三者」に琉球諸島(そもそも琉球諸島そのものにも明確な定義が存在しないそうである)の住民へのアンケートを依頼すべきだ。民族というのは、その人のアイデンティティの問題だからだ。琉球弧の人たちは、ことによっては複数のアイデンティティを持っている可能性があるし、先島諸島の人たちが本島に住む人たちと違う民族意識を持っている可能性すらある。

民族は曖昧で複雑な概念である。

日本人はノルウェーにはノルウェー人が住んでいると思っているだろうが、実際はそれほど単純ではない。ノルウェーは長らくデンマークやスウェーデンと同君連合を組んでいた。なので、ノルウェーの言語はデンマークとスウェーデン語とあまり変わらない。しかし、それでは独立した民族とは言えないので「独自の言語」を取り戻す運動があり、従来の言語と独自言語の2つが公用語として採用されている。アイルランド人の多くはアイルランド語ではなく英語を話す。しかし、独立国に住みアイルランド人としての自己認識を持っており、アイルランド語が保存されている。

また、ペルシャ語を話す人はイランとアフガニスタンにまたがって住んでいる。だが、彼らは別民族とも同一の民族とも言えない。イランのペルシャ人はアフガニスタンのペルシャ系の人たちに対する差別意識がある。ペルシャ人は(トルコ系の言語を話す人と区別して)ペルシャ語の話者をさす場合とイランに住むペルシャ語系の人をさす場合があるそうだ。

ウズベグ人はロシアの統治を経てソ連で定義された。ウズベグ人の中にはトルコ系とペルシャ系の言語を話す人が含まれ、コーカソイド系とモンゴロイド系がいるそうである。ウズベグ人の中に含まれるタジク系の人たちだが、タジク語はペルシャ語の方言なので、この人たちはペルシャ人ともいえる。こうなると、何がなんだかさっぱり分からない。歴史的に「ウズベグ」と呼ばれる人たちがおり、イスラム系の非ロシア人をまとめる際に人工的に作られた概念らしい。だが、一度ウズベグ人という概念ができてしまうと民族意識が後から形成される。

民族という概念は時に悲劇を生む。ルワンダに民族対立があると信じている日本人は多いが、そもそもツチ・フツという概念はヨーロッパ系の人たちがでっち上げたものだと考えられている。バンツー系の支配層と被支配層に違った民族概念を与え「ツチはエチオピアからやってきた」という「事実」を作り出した。後にラジオのプロパガンダを真に受けたフツ系の人たちが、短期間で50万人から100万人のツチ系の人たちを虐殺したのだ。

北朝鮮と韓国に住む人たちは、自分たちを同一民族だと考えているが、朝鮮語と韓国語という別名称の言語(内容はほぼ同一)を話す。台湾に住む人たちは、同じ国に住み、ほぼ同系の言語を話すが、中国人だと考える人と、台湾人だと考える人に分かれている。中には「台湾人であり中国人だ」と考える人もいる。つまりこの2つの概念は二律背反するものではない。台湾にはオーストロネシア系の原住民がいて、話が複雑化する。誰が本来の台湾人なのかという問いに単純な答えはない。

日本人が「琉球人などという概念は存在しない」という主張をしているのと同じような主張をしている人たちもいる。それは中国共産党だ。彼らは「中国に住んでいる人たちはすべて中華民族だ」と主張している。やっていることは、少数言語の破壊と植民地政策だ。チベットの同化政策を見るとそれがよくわかる。

そもそも民族は定義のない概念であり自己認識以外には議論が難しい。加えて日本政府は、琉球人を否認することで少数民族を圧迫しているという印象を与える危険性すらあるわけである。

性的マイノリティとかわいそうな政治家たち

ある地方都市の市議会議員が「同性愛者は異常な動物だ」と言いバッシングを受けた。市議は発言を「酒の勢いだった」と釈明した。今回は練馬区の議員が「やはり同性愛は日本の伝統として受け入れがたい」と議会で質問したことが問題視されている。

これについて、異端視されている「同性愛者がかわいそうだ」という指摘がある。だが、本当にかわいそうなのは、多分指摘をした政治家たちの方だ。

リチャード・フロリダの有名な著作に「クリエイティブ都市論」というものがある。2008年の発表なので、随分と古い本だ。フロリダは社会に豊かさをもたらす「クリエイティブクラス」という人たちを定義した上で、都市が競争力を持つためにはクリエイティブクラスを集めなければならないと言っている。

フロリダが注目したのが、同性愛の人たちの集積度合いである。同性愛の人たちが暮らしやすいということは、その都市がオープンであるということを意味する。クリエイティブな人たちはそうしたオープンな(フロリダは寛容なというような言い方をしている)環境を好むのだ。

東京は世界でも有数の都市なので、クリエティブクラスにとっては居心地のよい都市だといえる。だから、渋谷や世田谷といった地域で同性愛者に優しい環境づくりが行われるのは偶然ではない。有権者がそれを支持し、多様な価値観を許容する人たちが集ってくるからだ。これがスパイラルを形成する。

とはいえ、日本の性的マイノリティがおおっぴらに「私達はゲイなので、先進地域に引っ越しました」などと表明することはないだろう。表に出ている人たちは新宿あたりで商売をしている人たちか、芸能界やファッション業界などで活躍している一部の人たちだけのはずである。故に多様性と先進性の関係は表立っては語られないのではないかと思われる。

一方で、そうした人たちから見放された地域は「古くからの価値観」にことさらこだわるようになる。有権者が古い価値観を持ったヒトたちだから、新しいアイディアが地元から出てくることは期待しない方がいい。彼らは過疎化や競争力の低下などを心配するが、具体的にはどうしていいか分からない。古い人たちが考える「繁栄」とは、せいぜい地方の名産品が売れて、工業団地ができることぐらいだろう。後は自分たちがクールだと思う価値観を外国人観光客に押しつけるのも好きだ。スーツを着たおじさんたちがアニメを売り込んでも全然クールではないが、本人たちは気がつかない。

こうした地域はインドや中国などの中進国と競争せざるを得なくなる。企業を誘致するためには法人税を下げて、自国通貨をバーゲニングし、安い労働力を買い叩くくらいしか選択肢がない。まあ、それも仕方がないことだ。

地方都市の凋落は目に余るものがある。例えば、大阪市長選の状況を見ると哀れさを感じてしまう。彼らの望みはせいぜい「東京並の大都会になり、新幹線を誘致する」くらいのことだ。それすら叶わずに、大企業は市場を求めて東京や海外に流出してしまう。保守的で新しいサービスを受け付けない都市で再先端のサービスや製品を売っても仕方がない。そうした市場では、国で蛍光灯を禁止してLEDを売りつけるくらいがせいぜいだろう。

同じ事は移民にも言える。アメリカの先端都市が優秀な中国人やインド人を使って、ITのデファクトスタンダード作りに邁進していた時期、日本は外国人労働者を「社会保障制度から排除された安価な労働力」くらいにしか扱ってこなかった。そんな国に優秀な労働力が集るはずはない。事実、外国人実習生は次々と「研修先」から逃げ出している。

移民の方にも選ぶ権利がある。シリア難民ですらスマホを使って条件の良さそうな国を選択しているのである。スマホやPCすら使いこなせずNHKしか情報源のない年老いた政治家たちが「あの人たちはかわいそうだ」と思っているとしたら、かわいそうなのは難民ではなく、その政治家の方だと言えるだろう。

政治家が自分の信条を述べる事は別に構わないと思う。しかし、それが後進性のスティグマになってしまうということは考えた方がいい。多分、受け取った人は「渋谷や世田谷区と比べて練馬区って案外遅れているのだなあ」とか「まあ、東京のはずれだから仕方ないか」くらいにしか思わないだろう。

イスラム教徒の思い出

パリでイスラム教徒が自爆テロ事件を起した。ニュースでこれを見た人たちはいろいろな感想を持ったようだ。「だから移民はダメだ」という人や「この際、日本にも非常事態法が必要だ(だから憲法改正して……)」という人もいるだろう。一方「一般のイスラム教徒は平和な人たちのはずだ」と主張するリベラル寄りの人もいるかもしれない。双方とも実感がこもっているとは思えない。移民と接したことがないからだろう。

イラン系のイスラムの人と住んだことがある。最初は普通の学生のように見えたが、次第にイスラム教徒の友達を連れてくるようになった。そのうち雰囲気が怪しくなり「お前の国では複数の神様を信仰しているのだろう」と言い出した。そしてそれを理由に「一緒に住めない」ということになった。多分、イスラム教徒のルームメイトを住まわせたかったのだろう。

さらに仲間とつるんで「お前の乗っている車は良さそうだから置いて行け」とまで主張しはじめた。恐喝だが、さほど罪悪感はなかったのではないかと思う。裏返せば「車を持っている」ことがうらやましかったのだと思う。彼らは車を持てる程には裕福ではなかったのだ。

結局、部屋を出て行かざるを得なくなった。

「差別」というのを実感した初めての経験だった。上の階に住んでいたイスファハン出身者に聞くと「国の中でも南北差別がある」ということだった。肌の色が若干違うのだそうだ。そして、同じ国の出身者が「何かに染まって行く」ことに戸惑っているようでもあった。

彼らは幼い頃に英語を習得しているので、日常生活上差別されることはないはずだ。しかし、マイノリティには「見えない壁」のようなものがある。いくら上手に英語が話せるようになっても「白人と同じ」にはなれない。そこで、同じような人たちとつるみ、下を探すようになるのだ。それが同じ国の人だったり、英語があまりできない外国人だったりするのだ。

決して教育がないわけではない。他の大学の学生や医者のような専門職の人たちともつながりがあった。比較的高学歴のムスリムのネットワークがあったのだと思う。一方で、国の伝統的な宗教からは離れており、穏健なイスラム教に触れる機会はなかったかもしれない。伝統から切り離されているというのは大きな要素だと思う。

日本にも同じような例があった。「オウム真理教」だ。信者たちは比較的高学歴なのに「なぜ生きているのだろう」というような疑問を持った。しかし、日本は伝統的に「無宗教」なので宗教やコミュニティによる救いない。伝統的な仏教(オウム真理教が仏教だと仮定するとだが)から切り離されているからこそ、ラディカルな教義を持った自信ありげな教祖に「イカれて」しまうのだろう。

差別に敏感だからこそ「下に見た相手」を差別するという構造がある。そこで「万能感」のようなものを感じるのだが、それが虚飾だということに気がつくのは時間の問題だ。「世の中は間違っている」と感じてもおかしくはない。自爆テロ犯のように「天国にしか自分の居場所はない」と感じる人は極端な例だと思うが、その裏には「自爆テロ犯を利用してでも、世の中に一泡吹かせてやろう」と考える人がいる。その周辺には「そういった思想を応援しよう」と考える比較的裕福で(おそらくは教育もある)人たちがいるのだ。

だから「移民は不遇で貧しい人々」というラベリングは間違っている。

「オウム真理教」の人たちが「自分たちこそが目覚めている」と感じていたように、こうした過激なイスラム教徒は、自分たちこそが「祝福されるべきだ」と感じているのかもしれない。自分たちが祝福されないのは社会が邪悪だからなのだ。だから、伝統から切り離された人たちが、こうした闘争を「ジハードだ」と考えるようになっても不思議ではない。

かといって、これが移民問題だと考えるのも正しくないだろう。もし、欧米にイスラムの移民がいなければ、ラディカルなキリスト教徒が「世直し」と称して過激な運動を起したかもしれない。現に移民の少ない日本でも「オウム事件」が起きた。社会転覆を狙ったテロ事件だったが、移民とは何の関係もない。ジハードの代わりに「ポア」という言葉が使われた。殺人を正当化して「邪悪な人たちを救済している」と言い放ったのだ。

アメリカでは、9.11事件の後イスラム系移民が危険だということになったのだが、「ホームグローンテロリスト」という言葉ができ、マイノリティが危険視されるようになった。しかし、実際には白人の男性が頻繁に銃乱射事件を起すようになった。白人の大量殺人は「テロ」とすら呼ばれず、ありふれた殺人事件だと見なされている。

格差や差別はいけないことだ。しかし、それは「差別される人がかわいそうだから」ではない。差別は徐々に社会を破壊するのだその事が分かるのは状況が悪化した時だが、その時には個人の力ではどうしようもなくなってしまっている。もう後戻りはできない。

「外交や話し合いで解決すべきだ」という人もいる。しかし「ポア」を正当だと考えていた教祖に対して「外交が有効だ」などという人がいるだろうか。「ポア」とは他人が間違っていると感じたら命を奪っても良いという思想だ。お互いの立場が違うことが前提の「お話し合い」は通用しないのだ。

さて、こうした文章を読んで「個人の感想でイスラム系のイラン人を断定的に扱っている」という批判めいた感想を持つ人もいるかもしれない。しかし、状況はそれほど単純でもない。

前述のようにイラン人と言っても「肌の色の白さ」による区別があるようだ。さらに、トルコ系の少数民族(アゼリ人)が同居している。同じ言語の話し手の間にも差別がある。隣国にまたがって同系の言語を話すクルド人が住んでいるが、少数民族扱いになっている。アフガニスタンにもダリー語というペルシャ語系の方言を話す人たちがおり、ペルシャ人からは差別されているのだという。

一方、イラン系にもユダヤ人が存在する。イラン・イスラム革命の際にアメリカに亡命した人たちが多く、比較的裕福な住宅地に住んでいる人が多い。ユダヤ系はやっかみの対象にもなっているのだ。一方、イラン国内にもユダヤ系が残っているということである。アフマディネジャド前大統領は改宗ユダヤ系の出自だという説があり、同時にイスラエルに敵対的なことで知られていた。

つまり、イラン人やイスラム教徒だからといって、常に弱者で「差別される側」の人とは限らないということになる。