「普通」という牢獄

このところ村落共同体とその問題について考えている。だが、いろいろな事象を見ているだけでは統一的な視点が得られない。

気候変動について調べていたところ、牧畜文化が農耕文化に流入することで「統一的な視点」が持ち込まれたというような話が見つかった。論文の引用部なのでこの「統一的な視点」が何なのかはわからない。

気候変動 と文明の盛衰というPDFファイルに次のような一節がある。

紀元前1000年 頃の地 中海地域や東 アジア地域, ヨーロッパ北部における寒冷 ・乾燥化気候(T3) は,気候難民 としての大規模な民族移動を引き起こし(鈴 木,1978,1990;安 田,1993),定住農耕共同体であった都市生活者 に遊牧民が入り交 じることによって,農耕民の呪術的・儀礼的思惟が遊牧民 の合理的・統一的思索 に変革し,思想が合理化されて,紀 元 前8世 紀から紀元前4世 紀 にかけて高度な宗教や哲学を誕生 させた ことから,心の内部,すなわち精神の改革 を「精神革命」と呼 んでい る(伊東,1990,1996)。

日本人が未だに「呪術的・儀礼的思惟」を持っているとは思わないが、人の移動が起こることで精神的な変容が引き起こされるという視点は面白い。日本に置き換えると、戦後民主主義の受容によって人権意識が持ち込まれたことが文化接触にあたるだろう。

人権意識の基礎になっているのはキリスト教なのだが、これももともと牧畜文化から生まれている。こうした文明の変容は段階的に何回か進んだということがいえるのかもしれない。この精神革命は伊東俊太郎という人の本の引用のようだが次のようなウェブサイトが見つかった。

伊東俊太郎氏は、このときに人類の精神史が始まったとします。その内容を『比較文明 1』(比較文明学会誌 1985年 p12)のなかで次のように整理されています。

  • (人類が)それ以前の神話的世界を克服して合理的思索に徹し
  • 日常的個別的なものを超えた普遍的なものを志向し(ギリシャのイデア、インドのダルマ、中国の道(タオ)など)
  • そうした究極的原理からこの世界全体を統一的に把握し
  • そこにおいて人間の生き方を見定めようとする

これまで人権意識や合理的なルール作りを拒絶する日本的な村落意識を日本固有のものとみなしていたのだが、文明の中で起こりうる変容の過程の一つだと考えるとわかりやすい。ただ、伊東さんが指摘するように、合理的な考え方が抵抗なく受け入れられたのかということはよくわからない。

そうなると、背景の統一的な視点を受け入れない人たちがどのような考え方を持つのかということが気になる。日本人は普段の生活の中で政治について語ることはないのでよくわからない。

そんな中でQuoraで面白い質問を見つけた。「私はJKです」と自称する人が次のような質問をしている。犯罪者を特定する遺伝子があるのだとすれば該当者をあらかじめ罰してしまえば良いのではないかというのである。ある回答者が「かつてあったこのような考え方はすでに否定されている」という論を書いておりそれに付け足すことはあまりなさそうだ。だが、彼女(と自称している人)はなぜこのように思うようになったのだろうか。

この質問には「健全な社会」という揺るぎのない前提があり、犯罪という穢れを取り除かない限り安心して暮らせないという思い込みにつながっている。そしてそれが「犯罪に対する答えは刑罰と排斥である」という観念に結びついている。つまり普通でない穢れはウィルスのように罰せられた上に取り除かれなければ全体が病気になると考えているようだ。

彼女が持っている世界観では、異物を取り除いてしまえば再び穢れはなくなり普通の状態が戻ってくることになっている。これを非合理的だとか人権意識を理解していないと非難することはできるのだが、こうした呪術的な考え方を持っている人は実は少なくないかもしれない。

この呪術的な考え方には問題がある。人間はそもそもいい面も悪い面も持っているのだから問題が起こるたびに取り除いてしまうとそもそもの健全な我々という存在が削れてなくなってしまう。さらに、健全だった人がなんらかの形でそうではない状態に置かれた時に救済がなくなってしまう。普通でなくなったということを披瀝してしまうと「切り取られてしまう可能性がある」からである。

例えば「レイプされた女性は普通でなくなったのだから社会から切り離されても構わない」と考えるのも「普通でない患部は切り離してしまえ」ということだし「レイプされた女性がそれを言い出せない」というのは自分はもう普通でないのだから何を言われても構わないということになる。何の落ち度もないが「普通でない状態になったのだから、自分にも落ち度があったのではないか」と考えてしまうのだ。これをいじめに置き換えても同じようなことが言える。いじめられた人は普通ではないのだから切り取ってしまえという人もいるだろうし、いじめられたのは自分に落ち度があるからだと考える当事者もいる。

この健全な状態を日本では「普通」と呼んでいる。日本人は普通にしていれば問題は起こらないと考えるのだ。

この普通でない人を切り離してしまえという問題意識の向こうには普通でなくなった人は罰しても良いという了解があるようだ。特別支援学級で育った子の知られざる本音という記事には特別支援学級で育った子供が普通学級の子供からいじめられたという話が出てくる。

「たとえば、小2の男の子3人組から『特別支援学級のくせに、廊下歩いてんじゃねえや、気持ち悪い』と言われたり。図書室に行ったら、年上の小5の女の子に『気持ち悪っ』とか言われたこともありましたね。やっぱり、けっこうグサッとは来ました。もちろん、普通学級の誰もがいつも、いやな態度をとるわけじゃないんですけれど。でも、普通クラスの子の嫌な面は、たくさん見てきました」

このような意識が生まれるのは普通学級での学習を効率的に進めるために特殊な子供を切り離すという了解が先生と生徒の間にあるからだろう。

さらに学校は規範意識を失いつつあるようだ。体罰がなくなった学校で却っていじめが増えているが体罰を禁止された先生たちはもう何もしてくれないと訴える記事を見つけた。最後の文章はどきりとさせられる。この抑止力というのは先生の暴力(体罰)のことだが、これを核兵器に置き換えると現在の日本が置かれている自衛隊と核兵器の議論にそっくりである。

抑止力をなくした結果、ただの無法地帯になった。それは今学校で起きていることですが、日本全体、いや世界中に広がるのも時間の問題ではないでしょうか。先代たちの多大な努力によって私たちの健やかな生活は壊されました。

どうしてこうなってしまったのかはわからない。民主主義を知っている人から見ると、脅かされることによってしか法を守れないのであればそれは奴隷と同じような精神状態に思える。日本の学生たちは「社会を統一的に捉える規範がない」という社会を生きているといえる。そうなると「普通に止まって普通の人たちを排斥する」ことで求心力を保つか、暴力を使って全体を抑止するべきだというのが実感を伴った政治的意見担ってしまうのだということになる。

この考え方に基づくと、多数決によって作られる民主主義社会は誰から脅かされなければ無法地帯になるということになってしまうので、アメリカの軍隊を駐留させて日本を押さえつけなければ何をしでかすかわからないということになる。

これまでの村落の議論では、日本は村落から民主主義的な人権社会への移行に失敗したので、また村落に戻るという選択肢もあるというような議論を展開していた。これがいかに現実を知らない議論だったのかということがわかる。実際には戻れる村落はもうないのかもしれない。

中高年に属する人がこのように考えることができるのは、忖度的な共同体を具体的にイメージできるからである。先生はある程度尊敬されており、終身雇用についても具体的なイメージを持っている。¥

しかし日本人は背後にある統一理論を理解しないままで制度だけを取り入れてきてしまったために村落社会にも戻れず、かといってこれ以上民主主義と人権を基とする社会改革も受け入れられないというところにきているのかもしれない。

高校生や大学生はその最前線にいる。そこで「普通じゃない人は排斥しても構わない」とか「最後の望みは先生の暴力なのだ」などと思うことになる。こうした考え方は自民党の議員から披瀝される忌まわしい人権否定の意見とそっくりだ。もちろん選択的に記事を追っているのでこのような悪い記事ばかりが目についているのだが、こうした一連の「実感」を集めるうちに、事態は我々が考える以上に悪化しているのかもしれないと思った。

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山口達也メンバー報道の向こうにある犯人特定文化について考える

Twitterでは未だに山口達也メンバーの件について「部屋に上がった女性が悪い」とか「若い女性が部屋に上がり込むのがいけないという論がいけない」いう不毛な議論が流れてくる。何が起きたかではなく誰が悪いかばかりが議論される。今回はなぜこのようなことが起こるのかについて考える。

その前にアメリカのあるTweetをご紹介したい。

この文章を書き始めたときにTwitterでたまたま見つけたのので、山口メンバーの件とは全く関係がない。英語ではこの「alleging」という言葉がよく使われる。これは確たる証拠はないのだがそのような疑いが持たれているというようなことを意味する。容疑あるいは疑われているということを意味するのだが容疑そのものを説明する言葉だ。人を表す容疑者はsuspectというのだが、これは犯人捜査をしている時に「容疑者が浮かび上がった」という意味で用いられることが多いように思える。allegingは行為に焦点が当たっていて、suspectは人に焦点が当たる。

この問題がで始めた時に「山口達也メンバー」という言葉が多用されて問題になり、テレビ局が言い訳に追われた。ジャニーズ以外にメンバーという言葉は使わないのだが、忖度をしていることを認めたくないテレビ局はあくまでも「公平な措置だ」と言い張ったのである。

これは書類送検された人が一律に容疑者と呼ばれることから来ているのだが、本来は強制わいせつの容疑がかけられた山口達也さんといえばすむだけの話である。ここでさん付けをすると「罪人を庇うのか」というクレームが入るのかもしれないし、人権意識が希薄だった昔の名残なのかもしれない。容疑がかかった時点で「準罪人」という意味で容疑者というレッテルを貼って一旦社会から隔離しようとする。しかし「容疑者」という言葉が使えないのでジャニーズに関しては別のレッテルを考えたのだ。今後このことが認知されるようになれば「メンバー」という言葉に新しい意味が加わることになるのだろう。

このように、日本には村落的な気風が残っている。村には平和を愛する一般人しか住んでいないから、警察沙汰になるような人はすべて村から排除しなければならない。そのため、異常者には社会的な刺青として「容疑者」という名前をつける。ところが日本社会はこれだけでは終わらない。

Quoraでたまたま「犯人の家を特定できる形で報道するのはどうしてか」という疑問があったので、今回の文章の要約したものを載せてみた。すると、住居が特定されたのでそのあと奥さんと子供がいじめられて奥さんが自殺したというようなコメントが戻ってきた。このことから罪を犯した人がムラから排除されるだけでなく一族郎等も排除されてしまう可能性があることがわかる。ワイドショーは明らかに異分子排除を目的にしているのだろう。

しかし、ここには排除されるべきもう一つの当事者がいる。それが被害者である。事件が起こるというのは「よっぽどのことがあったのだろうから」それに巻き込まれる方にも落ち度があったのだろうといって追い落としてしまうことがある。このようにして警察沙汰になった人たちをまるごと排除してしまえば難しいことを考えなくてもすむ。

日本型のムラはこのようにして問題を解決する。しかしこの解決策には問題が多い。何かしらの衝突が起こることは日常茶飯事のはずだが、いったん警察沙汰や騒ぎになると「当事者は全てコミュニティから切除する」ことになるので、言い出せない。例えば企業の不正告発やセクシャルハラスメントなど「言い出せない」ことは多く、これが社会を重苦しいものにしている。

さらに異常だと排除されてしまうというやり方では、常に村落の中で普通でいなければならないということになってしまう。オタク差別のところでみたのだが「普通でなければならない」というプレッシャーは近年さらに大きくなっているようである。中高年をすぎると「普通を装っていればいいんでしょう」などと図太くなれるのだが、現在社会には何が普通かという規範がないので、周辺にいる人ほど怯えを感じるようになるのだろう。

中でも一番顕著な問題は問題解決が難しくなるという点にあるようだ。世の中の複雑さは増してゆくのだが、問題は解決しないまま積み残しになる。そこで踏み越えては大変だという怯えがさらに増幅することになってしまうのであろう。

どうやら山口さんはアルコール依存症に陥っているようだ。仕事には行けていたことから「一歩手前だ」という分析も出ている。身体症状はなさそうだが精神的には依存が始まっているというのである。「意志が弱い」などと行っている人がいる一方で、実はアルコール依存になってしまうと意志の力でお酒を止めることはできないという経験談もある。このような状態に陥ると一生お酒を飲んではいけない。いずれにせよ、周囲の助言と本人の自覚が必要なのだ。しかし今回のメンバーたちの態度を見ていると、TOKIOは仕事上のつながりになっており、個人的な人間関係は希薄かしていたこともうかがえる。

だが、アルコール依存のことを持ち出すと「アルコール依存を持ち出せば罪が許されるのか」という人が出てくる。判断基準がやったことではなく人に結びついているからだろう。つまり「この人をムラから追い出すかどうか」が焦点なので、この人が追い出されるに値する悪い人なのかそうではないのかということだけが議論されるのだろう。

さらに女性の問題歯もっと複雑である。女性が社会進出するにあたっては様々なこれまでなかった問題が出てくることが予想される。例えば男性記者なら取材対象者に性的嫌がらせをされることはないが、女性が進出するとその可能性を事前に掴んで対応する必要が出てくる。ところが日本人はこれを全て本人の問題に落とし込んでしまうので、女性記者が気をつけないのがいけないという議論に帰着させようとする。同じように今回も女性のタレント候補がどうやったら自分の身を守れるかという議論をしないまま「行ったのが悪い」とか「いや悪くない」という議論で済まそうとしてしまうのだろう。

これらの議論は個別に行われる必要があるのだが、これが一緒になっている。それは事件のない平和な状態に戻すためには山口さんと被害女性がいなかったことにしてしまえば良いと考えてしまう人が多いからかもしれない。女性を弁護する人も同じようにムラ裁判に加わってしまい「山口さんが悪いのであって、ムラから排除されるのは山口さんだけで十分だ」と考えてしまう。だが、それではいけないのではないか。

この件で我々が学ぶことはいくつもある。例えばアルコールに問題を抱えている人を一人にしてはいけないし、すべてを自己責任で済ませることは難しい。女性は友達と連れ立ってでも男性の部屋に何の準備もなしに上がりこんではいけない。もし会うとしたら外の店などを選ぶべきである。

誰が悪いのかに注目しても問題は解決しないのだが、こうした刷り込みは小学校あたりから始まるように思える。学級会から学校で問題が起きた時「誰が悪いのか」という非難合戦が始まる。そこで「どうしたら問題が解決するのか」とか「再び問題が起きないのか」という議論にはならず、たいてい「みんなで仲良くしましょう」と言って終わりになる。いい人ばかりなら争いは起こらないでしょうという解決策をとりがちなのだ。

こうした問題は実は学級会だけでなく国会でも行われている。戦後70年も経ったのにまだ第二次世界大戦では日本は悪いものだったとかいやそうではなかったという議論が続いている。その結果「北朝鮮が悪いから懲らしめなければ」という結論となり東アジアの平和維持の枠組みから外されてしまった。

日本人の中には「犯人特定文化」が根強く残っている。みんなに居心地の良い環境を作り出すためにはこの文化の欠点をよく考えてみた方が良い。

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オタクはなぜ差別されるのか – 現代オタク差別論争

今回のテーマはオタク差別である。時々タイムラインにオタク差別というTweetが流れてきたのだが何を言っているのかがよくわからなかった。だが問題を眺めているうちにこれがフレームワークの問題を含んでおり、多分当事者同士では解決しないだろうなということがわかった。さらにこれを非当事者から見てもよくわからない。年齢的な壁があるからである。最初は特殊な差別の話なのかなと思ったのだが、実は現在の人権論争にも通じる一般性があるように思えてきた。これらを順番に考えてゆく。

オタク論争というのは「オタク差別なんかない」という人にたいして「いやオタク差別はある」というカウンターがあるという話なのだが、そのオタクが何なのか全く理解ができなかった。Twitterで問いかけてみたが当然答えはない。

そこでTwitterをオタク差別で検索してこの文章を見つけた。すべてを理解したわけではないと思うのだがなんとなく概要はつかめたと思う。オタク差別と呼ばれているものは様々な差別の集積であるということを考察している。

個人的な体験から話をしたい。大学では文芸系のサークルに2つ所属していた。一つは純文学系でもう一つはSFである。筒井康隆が好きで文学部に通っていたのでこれは普通の選択だった。文芸系の人たちは周りがどういう趣味を持っているのかを気にしない。不思議に思ったのは、SF系のサークルの人たちが被差別感情を持っているという点であった。彼らは漫画が好きで漫研と掛け持ちしている人もいた。首都圏出身者が多く「コミケ」というところで同人誌を売ったりしていた。

大学に通っていた時に宮崎勤事件が起きたのでオタクという言葉や概念はあった。だからコミケに通う人=オタクという概念はあったはずである。だが、地方にはこうした非差別感情はあまりなかった。今にして思えばコミュニティがなく非差別集団としての意識が希薄だったからではないかと思える。

逆にSFが好きな経営学部出身の先輩もい。この名古屋出身のの先輩からやたらと友達を紹介され、丸井とか笹塚のバーなどに誘われた。ファッション雑誌にスナップを撮られるようなおしゃれな人だったので、多分脱オタクを志向していたのだろうが、当時はその意味もよくわからなかった。非差別集団的なオタクがおり、いや趣味として認められるべきだが外見が見すぼらしいと差別されてしまうのだと思っていた人がいたということである。

つまり、オタク文化に触れており、容姿と趣味はオタク的だったのだが、純正オタクというほどオタク文化に埋没しているわけでもなく、かといっておしゃれでもなかったということになる。

数日前にQuoraで「大学デビューしたから普通に見えないといけないと考えると底知れないプレッシャーを感じる」という質問を見た。今回のオタク論争に関する文章を読んだ時に似ているなと思った。つまり普通から滑り落ちたらまずいという感覚である。この感覚はバブル期にはなかった。

Quoraの説明を論理的に考えると「普通」というものを統計的に割り出して定義するところから始めなければならない。だが、実際には普通というカテゴリは存在しない。大学は多様性を許容するはずなのだから「自分なりの普通を見つければ良い」というようなことを書いたのだが、今にして思えばそれは綺麗事でしかなかったのかもしれない。

現在には普通という存在しないものから「逸脱してはならない」というプレッシャーがあるのだろう。そして普通というものが存在しないからこそ人は「何をしでかしたら普通だと思われないのだろう」と怯えながら過ごすことになる。

なぜこんなことが起こるかというと、中流に止まるのが難しいからなのだろう。ファッションで普通でないとみなされると「オタク」という烙印を押されるし、趣味が違っていても「オタク」になる。下流になったらそこで差別されてしまう。排除する理由は趣味でも外見でもよいわけだから、趣味から見たオタクと見すぼらしい格好をしていて体型が不恰好なオタクという区別にはあまり意味がないということになる。

我々がこれを理解できないのは高度経済成長期に育っているからなのかもしれない。高度経済成長期は頑張れば上流に上がれるがそうでなくてもそこそこの暮らし(中流)があるという世界だった。だが今は縮小社会なので黙っていると下流に転落してしまうのだ。そして転落した人たちのことをオタクといって差別しているということになる。

逆にいうと転落を恐れる人はオタクという下層を作ることによって「自分たちは普通なのだ」という満足を得られる。これは統計をとって「普通」を定義するよりも簡単にまとまりを作ることができる。前回の韓国の全羅道差別では「普通をまとめるための被差別集団」を観察した。これと同じことが日本でも起きているということになる。自分たちが普通だということを感じるためにはオタクが必要なのである。

すると、オタク差別はなくならない。そして何をしたらオタクになるのかという定義も存在しえない。多数の人たちから「お前は違うよね」と宣告された人が結果的にオタクになるからだ。

さらにオタクを差別する普通の人たちは「見下して当然」の人を差別しているだけなのだから、そこに差別意識を感じない。これは女性差別に似ている。女性差別は存在するが、女は男よりも劣っていて当然だと思っている人が「当たり前の処遇」をしているに過ぎない。だから女性が「差別はあるだろう」と言っても「当たり前のことをしているだけなので差別などありえない」と答えてしまうのである。

結果的に差別されている人がオタクなのだから「オタク」という属性は存在せず、従って何がオタク差別かどうかということは決められない。だから定義について議論しても何も生まれないのだ。だが、それが決められないのは実は普通が決められないからだ。

オタクという言葉の定義はこのように「普通でない」ことを意味し、何が普通なのかがわからない。にもかかわらず何がオタクなのかという了解がなんとなくあるようだ。この問題について藤田直哉という人がまとめたものを見るとそのことがよくわかる。それはかつてあったコミケのような社会的集団が続いているからなのだろう。

オタク差別は確かに存在するが、それは「非普通差別」である。そして非普通差別される人たちをオタクと呼んでいるので、オタク差別というのは別の言葉でいうと「差別者差別」であり、議論の対象にはなりえない。差別者という属性は存在しないが、差別そのものは存在するので、お互いに話がかみ合わないのだ。

だがその背景にあるのは普通の不確かさである。常に脱落する恐怖にさらされているのだが、何をすると脱落するのかがわからないので被差別者を作って安定を図っているのではないかと思われる。これは韓国の士林派が神学論争を繰り返しお互いを差別しながら結束を図ろうとしていたのに似ているし、朴正煕大統領が地域差別を利用して韓国の他地域をまとめようとしていたのに似ている。

ここからがこの一連の話の一番残酷なところである。そもそも人権運動というのは多様性を認めるところから出発する。オタクであればオタク的趣味やルックスをそのまま認めろということである。女性差別であれば女性的な行動様式が認められなければならない。しかし日本人は差別を内在化しているので、オタクを普通の人と同列に扱えとか、女性にも男性並みの普通を認めろということになりがちだ。

だが普通というものが溶解しているので「普通に扱う」ということに実態がない。だからいつまでも普通に扱われることはないということになる。これは差別者の側の問題でもあるのだが、差別される側も「ゴールを持たない」ということになる。さらに多様性を前提にした人権問題のフレームワークを使って問題を処理しようとしている傾向も見られるのだが、これは破綻が見えている。西洋の人権意識は多様性を前提にしているのであって普通への復帰運動ではないからである。

オタク差別は確かにあるのだが、それをブレークダウンしようとするといくつもの問題にぶちあたる。だから議論をすればするほど解決から遠のいてしまうということになる。

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福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

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福田事務次官辞任騒ぎにみる女性差別の恐ろしさ

先日財務省の福田事務次官について書いた。だが、ネットを見ているとそれでも名乗りでなければならないというような論調がある。例えばこの記事は「名のり出なければ福田事務次官の不戦勝になる」と言っている。真実を明らかにするためには名のり出なければならないと言っているのだが、実際にはそうはならなかった。

この記事の前提には「真実は明らかにならなければならない」という前提がある。これが間違っていると思いその筋で一本書こうと思っていた。現在の民主主義にとって「真実」などどうでもいいことだからだ。安倍政権は明らかにクロなのだが、それを認めないことで「まあ、仕方がないか」というような印象操作をしてきた。この背景には有権者の諦めがある。政権交代をしても政治は良くならなかった。だったらもう諦めてしまえという思いが強いのではないかと思う。だが、それは諸刃の刃だった。有権者が体感からこれは「クロだな」と思ってしまうと合理的な説明はきかなくなる。福田さんの件はこの最初の事例になった。政権が動かない分個人に矛先が向かうのである。「やめさせてどうなるの」と思うのだが、そんなことはもうどうでも良いと思われてしまうのだ。

女性は普段からなんとなく「自分たちは不遇な立場に置かれている」という気持ちを持っている。だが、それはなんらかの理由で証明されない。これを「ガラスの天井」などと言っている。今回はそれがたまたま「明らかに嘘つきの政権」と結びついたことで「ああ、やっぱり男社会は女を差別して嘘をついているのだ」という確証に変わってしまった。福田事務次官が何をやったかというよりも、男性社会がそれを総出でかばっているということが問題視されるのである。

もう一つ安倍政権にとって不利な状況がある。官邸側は福田事務次官の辞任に動いたのだが、安倍首相の部下であるはずの麻生財務大臣が応じなかったという。任命は内閣人事局マターのはずなのだが、これまで人事に関する問題は各省庁に答弁を丸投げしていた。これを逆手にとられて「やめさせられない」と言われてしまうと官邸は何もできなくなってしまうということがわかった。もう安倍首相にかつての求心力はない。

ただ、この問題は実はここまででは終わらなさそうだ。テレビ朝日に飛び火したのだ。テレビ朝日の女性記者が会社に訴えたものの受け入れられず、やむなく週刊誌に流したという。さらに何もしなかったことに申しひらきができないと思ったのかあとになって会社側は「財務省に抗議する」と言っている。だが、それは福田事務次官がやめてしまったあとだった。テレビ朝日の動きが辞任につながったという批判を恐れたのだろう。

このことから女性の置かれているダブルバインドが可視化された。表向きは平等ということになっているが、実際のメッセージは男性並みになることを求められる。それは女性であることを捨てて男性性を帯びるということである。男性並みに家庭を顧みずに働くことを求められ、女性を蔑視して「言葉遊びを楽しむ」特権を許容するように振る舞わなければならない。さらに母性は弱さだと認識されると子供を作ることを諦めなければならない。しかし、場合によっては女性として男性の玩具になることも求められ、それを会社に訴えても「我慢しろ」と言われる。会社にとって「女性のような弱いもの」が政治記者というスーパーサラリーマンであることは許容されないからだ。明らかに根拠のないエリート意識を持っていて女性蔑視を特権だと認識する社会が間違っているのだが、それを是認しろと迫られるのである。この状態でアイデンティティクライシスに陥らない人がいるとしたら、その人は多分すでに少しおかしくなっているはずだ。

どうやら女性記者は複数回福田次官からセクハラを受けていたようだ。しかしテレビ朝日はそれを公表せず、事態が動いたことから慌てて深夜に記者会見を行った。上司に相談したというが上司が組織的に対応したのかは明らかにしていない。多分受け皿そのものがないのではない上に、男女平等が何を意味するのかを教育する仕組みもなかったのではないだろうか。

福田さんは週刊誌と女性を訴えれば良いと思う。彼の行状が司法の場で明らかになり、テレビ朝日が組織的な対応をしなかったことは社会的に明らかにされるべきだろう。そしてそれは社会的に非難されるべきだ。しかし、実際にやるべきことは少なくとも表向きではあったとしても「男女平等」というものが「女性の男性化」でも「男と一緒になって女性蔑視のある状況で働くこと」でもないということを教える学習の機会を従業員に与えることである。

民法労連は「女性が現場から切り離されることがあってはならない」と恐れているようだが、このような嫌がらせを前提にしか情報が取れないなら、その報道自体をやめるべきではないかと思う。取れたとしてもせいぜいインサイダー情報程度で大勢には影響のない永田町と霞ヶ関の内部事情にすぎないからである。いずれにしてもこの声明も「女性が社会で働くこと」についてあまり整理がなされていないことを意味しているように思える。

いずれにせよテレビ朝日はこの状況を被害者ではなく加害者として総括すべきだろう。

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学校はみなさんがいじめられても飛び降りるまで何もしないですからね

いじめの話がなくならない。今度は神戸でおきた自殺未遂事件だそうだ。机が悪口を書いた紙切れで覆い尽くされていたのだが、当事者は写真を撮影しただけで何もいわずに授業を受け続け、そのあと公園の石垣から飛び降りたのだという。

この話が拡散したのは、机の写真があまりにも非日常的でインパクトがあったからだろう。これを「生徒同士のじゃれあい」と感じていたそうだから、感覚がかなり麻痺していたことがわかる。

この事件には2つの問題がある。一つは学校側が「学校に何か物申すなら命を捧げよ」というかなり明確なメッセージを出しているという点で、もうひとつはそれを敏感に感じ取った学生が「学校は何もしてくれないのだから身を守るためにはいじめに加担しなければならない」と感じているという点だ。

学校は何もしないことで「もし深刻ないじめだと感じるならそれなりの行動を起こせ」と言っている。「それなり」というのは命を賭けて抗議をしろということである。学校のような神聖な秩序にチャレンジするのだから、それなりの対価を支払うべきだと言っているのだ。いったん自殺や自殺未遂が起こると今度はプロトコルに従って「調査委員会」が作られるが、それまでの間紛争を処理する仕組みはない。先生は秩序に反して仕組みを作ろうとは思わないので、自動的に放置されるというわけだ。

このプロトコルは日本人を考える上で重要な概念だ。例えば家庭内のいじめの対応には社会的な二つのプロトコルがある。一つは児童虐待でこれは児童相談書で「処理」される。もう一つはドメスティックバイオレンスでこちらにも専門の仕組みが用意されている。つまり、それ以外の暴力(例えば親子間とか兄弟とか)には適切な仕組みがないので、例えば高齢の親を子供が殴ったなどというケースには行政は介入しない。制度がないのに動くと調整が面倒だからだ。

同じように学校には生徒間の紛争を事前に処理する仕組みがない。法律に従って重大インシデントに対応する仕組みはある。これに合わせるには飛び降りるしかないのである。カフカの「城」を思い出させるような話だが、実際には学校も「お役所」の一つになっていると考えられる。

もう一つの問題は相撲や企業不正について観察した時に見た「世間を騒がせる」罪である。本来平和であるはずの教室にいじめが起こっているということを告発することは、担任教師のマネジメント能力に対する疑問なので慎まなければならないし、同僚の教科教師が疑問を挟むこともできない。さらに生徒がこうした秩序を「飛び越えて」教育委員会や第三者委員会に強訴することは決して許されないという学校内封建秩序である。

この話を聞いて思い出したのは佐原惣五郎の話である。「伝説だ」という話も多いようだが基本的な路線は次のようなものである。

佐倉藩の農民は重税に苦しんでいたのだが聞き入れられず家綱に直訴した。願いは聞き入れられたのだが、佐原惣五郎は処刑されてしまう。本人だけではなく妻も男子の子供も処刑されたという。つまり、一家根絶やしになってしまったのである。

この背景にあるのは、個人が体制に文句をいうことは決して許されないのだが、もしやるとしたら一家が根絶やしになっても構わない覚悟でやりなさいということである。直訴を許してしまうと、気に入らない時には直接幕府に訴えればよいということになってしまい、幕藩体制が揺らいでしまうからだ。

学校を一種の封建社会だとみなすと、生徒の人権というのはそれほど大切なものではなく、学校の秩序維持が重要だということになる。もし訴えたいことがあるならば、命をとしてやりなさいということで、飛び降りる生徒というのはその仕組みに従っただけということになる。こうした社会秩序が前提にあるのに「命は大切だから」などと訴えても全く説得力はない。

このブログで自殺や死にたい人について考える時に、常に「訴える手段として自分の命を使うな」と言っている。時には「訴える側にも意地になっている側面があるのではないか」といって反感を買ったりすることがある。つまり、自分がいじめられているということを社会に認知させるためには死ねば良いという「正解」が出てくると、そのことで頭がいっぱいになり、自分が何を犠牲にしているのかということがわからなくなっているのではないかと思うのだ。

このような問題を防ぐためには、第三者の恒常的な介入は欠かせないのではないだろうか。また、生徒が気軽にノーコストで「直訴」できるような仕組みを作り、それが当然の権利であるということを丁寧に教えこまなければ、似たような問題はなくならないだろう。結局のところ「死ぬほど悩んでいるのか」ということは当人にしかわからないからだ。

その意味で、この学校と教育委員会のやり方は許容されるべきではないと思う。

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なぜテレビでキチガイと言ってはいけないのか

田原総一郎が朝生で「キチガイ」という言葉を使ったとかで、アクセスが伸びた。田原さんはテレビのルールを熟知しており、このエントリーを書いたときの小林さんとは状況が違っている。





小林旭がテレビでキチガイという言葉を使い、フジテレビのアナウンサーが謝罪した。この件についてネットでは「キチガイにキチガイといって何が悪い」という声があるそうだ。小林さんの言葉は「無抵抗の人間だけを狙ってああいうことする人間っていうのは、バカかキチガイしかいないよ」というものであり、なんとなくなるほどなと思うところもある。

テレビでキチガイと言ってはいけない直接の理由はそれが放送禁止用語だからである。民放は広告収入に依存している。広告を載せる以上は前提となるコードがあり、それに触れたのがいけないということになってりう。「テレビ局が勝手に決めた」という反論があるようなのだが、出演者たちは広告収入からギャラをもらっているのだからルールは守られなければならない。

だが、なぜそもそもキチガイは放送禁止用語なのだろうか。それは、日本の精神病患者が長い差別の歴史を戦ってきているからだ。もともと精神疾患は不治の病のように考えられており、いったん発症すると病院に閉じ込めて死ぬまで出てこれないように処置するのが当たり前だった。薬物治療ができるようになってもこの状態は変わらず、今でも社会的入院患者(受け入れ先があれば退院できるが、実際には入院している人たち)が18万人もいるとされている、これはOECD諸国では一番多い数なのだそうである。(#wikipedia「社会的気入院」)

つまり、よくわからないからとにかく閉じ込めておけという風潮があり、人権侵害の恐れが強い。このような差別を助長するので、精神病者や疾患保有者を示す「キチガイ」という言葉を一概に禁止していると考えられる。

例えば風邪のような病気を全て「病気」とひとくくりにして一度風邪に罹患したら一生社会に出てこれないという状況を考えてみると、これがどれほど異常なことだったのかということがよくわかる。だが、精神的な不調は外から見ても原因が観察できず、よくわからない。そこで「キチガイ」とひとくくりにされかねないのである。

このように正気とキチガイの境目はわかりにくくなっており、単に封じ込めておけば良いというものではなくなっている。

日本の例でいうと薬を処方されながら社会生活を送っているうつ病の患者が多くいる。つまり、薬があれば社会生活が送れる人たちがいるのである。うつ病だけに限っても100万人程度の患者がいるそうだ。こうした人たちをすべてキチガイの箱に入れてしまうと多くの人がキチガイになってしまう。

しかしながらうつ病の人たちはまだ診断名がついているという意味でわかりやすい存在である。BLOGOSによると最近問題になったラスベガスの銃撃犯はギャンブル依存に陥っており向精神薬の処方も受けていたようである。さらに薬そのものへの依存傾向があり精神科で薬をもらっていた可能性がある。さらに、正気の日常生活を送っており、フィリピン人の女性と交際もしていた。怪しまれずにホテルに宿泊することもできた。医者を含む人たちが彼を見ていたのだから、外見上はとても精神に異常があるようには見えなかった。このように、正気とそうでない人たちの間の線はかつてないほど曖昧になっている。銃撃した人を後からみると「なんらか精神に問題があった」ということは間違いがなさそうだが、だからといってそれを事前に察知することはできないのである。

アメリカではさらに状況が一歩進んでいる。パフォーマンスを上げるためにスマートドラッグという種類の薬を飲む人たちがいるのだ。。副作用はないということになっているようだが、現在は覚せい剤として指定されている薬も昔はパフォーマンス向上のために使われていたという歴史がある。さらに抗鬱剤のなかにもスマートドラッグ分類されているものがある。つまり、正常と異常の境界線はどんどん曖昧になっている。

小林さんが「あんなことをする人はキチガイに決まっている」という時、キチガイというのは外見からみて明らかに精神に異常をきたしている人だという前提があると思う。しかし、それはこのケースに関しては当てはまらない。実はこれがアメリカでこの事件が人々にショックを与えている一つの理由だろう、さらに、明らかに精神に問題がありそうな人がみんな人を殺すかどうかわからない。これは「精神に不調があればとりあえず閉じ込めておこう」という偏見のある日本では精神疾患を持った人たちへの差別につながりかねないという問題もある。

田原総一郎さんもかつてのように気楽な気持ちで「キチガイ」と言ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。小林さんは歌手でありそれほど社会問題についての知見は求められないが、田原さんには言論人としての経歴と責任がある。だから「アナウンサーが謝罪して終わり」にするのではなく、自らの口で説明すべきではないかと思われる。アナウンサーが「臭いものに蓋」と言わんばかりに謝罪して終わりにしてしまっては、言論人としての責任は果たせない。

いずれにせよ、民放はサザエさんのような「普通の社会」を前提としたスポンサーシップに支えられているのだが、実際にはその社会はもはやないと言って良い。これを民放の枠内で解消するのか、ネットメディアのように違った場所で解消するのかという議論派あっても良いのかもしれない。

誰が正常かというのは昔は自明のように思われた。ゆえに精神病を発症した人への差別があった。だから、いわゆる「正常な人たち」は、精神に問題がある人たちは閉じ込めておけば良いと無邪気に信じていたことになる。だから今でもテレビではこうした人たちを指す「キチガイ」は封印されてなかったことになっている。

小林旭がキチガイ発言をした番組は「ニュースを斬った」ように見せるエンターティンメントでしかない。政治ニュースですら消耗品として扱われており、そこに問題を解決しようという意欲はない。だから小林さんに期待されているのは、ぎりぎりの線を狙いつつ、本当に議論を呼び起こすような課題に触れないようにするというアクロバティックな技術なのである。一方で、田原総一郎氏の番組も言論プロレス的な要素がありこれをジャーナリズムとして位置付けて良いのかはわからない。

こうした問題が未だに議論を呼ぶのは、受け手も送り手も難しくて面倒なことはできるだけ考えたくないからだ。このため日本人はこうした厄介な問題を閉じ込めてしまいできるだけ見ないようにしてきた。隠蔽することで「自分がそういう状態になったらどうしよう」という不安を隠蔽してきたのだ。だが、こうした不調を隠蔽すると、実際に自分が同じような境遇に陥ったら社会から見放されるのだろうなという見込みが生まれる。

「テレビではこうした言葉を一切使わない」のも隠蔽の一種だ。一切見ないのだから知識も増えず対処もできない。実は、これが多くの人々を不安にさせているのではないだろうか。その意味では発言した人はそれなりの説明責任があると思う。単に謝罪して終わりにすべきではない。

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なんでもできるようにしてきた世代と何にもできなくなっていった世代

先日、バニラ・エアに「歩けない人は搭乗できない」と言われた障害者が自力でタラップを上ったというニュースについて書いた。Twitterを見る限りでは、大抵の人は「障害者を排除するのはかわいそうだ」という意見を持ったようだ。このブログはこれは障害者だけの問題ではないのではないかと書いたが、そういう意見は少数に止まるようで、概ね企業のオペレーションの問題ではなく人権問題として捉えたのだろう。

だが、Twitterを眺めていると「航空会社はダメだと言っているのだから我慢すべきだ」という意見をいくつか見つけた。当事者である体が不自由な方の意見もあったのだが、やはり若い人ほどそういう感想を持つらしい。つまり、人権問題をみると「人権屋がわがままを言っている」と思う人が多いようなのだ。こうした若い人たちの中には自民党や現政権を応援する人が多いという印象もある。一方で、年配の人の中にはいわゆるリベラルを支援する人が多い。人権は追求されるべきテーマであって、あまりそのことに疑問を持つことはないのではないだろうか。

この違いはどこから来るのだろうか。乙武さんのつぶやきだ。切り拓くというキーワードが出てくる。この辺りがポイントになっているのではないかと思った。

これを読んで、もしかしたら木島さんは「わざとやった」かもしれないなあと思ったが、若い人はここに「活動屋」の匂いを嗅ぎ取るのかもしれない。活動屋は現状を壊す破壊者であり容認されるべきではないという味方だ。

考えてみると、我々は年々いろいろなことができるようになってきた世代に育った。白黒のテレビがテレビがになり、便利なコンビニができ、海外のブランドものが買えるようになっていった。海外旅行にも行けるようになった。そのうちにコンピュータが発達し、ネットを使って色々なことができるようなってゆく。

ただし、単にエスカレータに乗っていたという感じではなく、切り拓いてきた人たちも多い。顕著な例としては女性総合職だ。もともと女性というのは男性の補助的な仕事しかさせてもらえなかった。法律ができて状況は整ったのだが、会社側の準備は整わなかったので「戦ってきた」と考えている人も多いのではないだろうか。障害者にしても家に閉じこもっていたのだが、昔に比べれば色々なところに出かけて行けてゆけるようになった。これも勝ち取ったものであると考えられる。

実際に木島さんが意地で上ったおかげで「では昇降機をつけましょう」ということになった。つまりやればよかっただけのようだ。場合によっては無理に切り開かないといつまでも変わって行かないことがあるのだが、成長する年代に育った人たちはそのことを知っているのである。

しかし、「若者は奴隷としてしつけられてきた」と切り捨てていいのだろうか。確かに、若い人たちは「会社ができないって言っているんだから、無理をいうのはわがままだ」と思っているようだ。さらに誰かがわがままを言ったとしてもリソースは限られているので、別の誰かが損をするというゼロサムの世界に生きている可能性は多いにある。彼らはバブルが崩壊した後に生まれており、以前ならできていたことがだんだんできなくなってきた時代に育っているからだ。

企業もギリギリで回しているので、一人を特別扱いしていると、余裕がなくなり全体がうまく回らなくなるというような経験をしている。つまり、もともとが我慢を強いられる時代を育ってきており、自分が頑張れば後の人たちが楽になるという体験をしていないのかもしれない。

異議申し立てというのは、それによって世の中がよくなるという経験があってはじめて正当化されるのなのだろう。Twitterには障害を利用したプロ市民だなどとい書き込みがあり、年配の世代からみると悪魔のように思えるのだが、そもそも「みんなが工夫した結果社会が少しづつよくなってゆく」という経験がなければ、そう思っても無理はない。さらに、特別扱いして欲しければJALかANAに乗れなどという人もいるが、これも「安いんだから我慢して当然」という企業や社会に対する低い期待の表れなのだろう。

このことを考えると、心からかわいそうだなあと思った。と、同時にいくらすべての人が平等に扱われるべきだなどと説いても、そもそも我慢を前提に生きている人たちには響かないだろうなあと思った。こういう人たちを説得するためには、多様性が結果的に社会の成長性をあげるというようなことを証明しなければならないことになる。それは意外とやっかいな仕事なのかもしれない。

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バニラ・エアの何が問題なのか

バニラ・エアで障害を持った人が搭乗を拒否されそうになり自力でタラップを登ったというニュースが出た。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪をし、アシストストレッチャーで搭乗できるように対応した。

この件、いったい何が問題だったのだろうか。本当に「不快にさせた」ことが問題の本質だったのか。


この件について、最初からアシストストレッチャーを装備していればよかったのか、それともアドホック的な対応に過ぎないのかがよくわからないことに気がつきました。なにかご存知の方やご指摘がありましたらご教示ください。

コメント欄に「空港側の問題では」という書き込みがあったのだが、どうやら航空会社固有の問題らしい。

今後のために、奄美空港の責任者に確認しました。
「歩けない人単独は完全NG」。「車いすを担ぐのはNG」。
「同行者のお手伝いのもと、階段昇降をできるならOK」とのこと。 このルールが認められていいんでしょうか?


確かに障害者が人並みに飛行機に乗れずに「かわいそうだ」という話があるのだが、当事者になった木島英登(ひでとう)さんがかわいそうかどうかは本人に聞いてみなければわからない。問題は多分別のところにあるのかもしれない

木島さんが搭乗を拒否されたのは、規則に合わなかったからであると説明されている。「危ないからダメ」ということなのだそうだ。確かに障害者が自力で搭乗できるように設備を改装するのはちょっと面倒だしお金もかかるように思える。しかしながら、実際にはアシストストレッチャーを使えば搭乗は可能だったのだから、あまり例外的な処理について考慮していなかった可能性の方が高い。当事者や専門家に聞かずに勝手に「面倒だから」という理由で判断していたのだろう。

当初このニュースを聞いたときには規則だからダメだといった融通の利かない現場社員が悪いなどと思っていたのだが、実際に規則の裏にある理由は理解されていたようである。ただし、そのルールがきちんと考えられていたのかと言われると「実はちゃんとした解決策があった」ということになり、組織的な問題であることがわかる。

奄美空港に行くキャリアはバニラ・エアだけではなく、格安だから仕方がないという見方はできるわけ、が、この航空会社は通常の安全対策はきちんと取っているのだろうかとか、現場や関係者の話を聞いた上で様々な対応をしているのだろうかという疑問がわく。

いちいち小うるさいかもしれないが、面倒なことをなかったことにして効率化を図るということはいろいろなところで行われており、時には大きな事故を招いたりする。それを「一人のお客さんを不快にさせてごめんなさい」というのは、残念ながら矮小化にすぎない。

いったん大きな事故が起こると「想定外だった」とか「気がつかなかった」ということになるのだが、実際には「めんどうだから考えないようにしておこう」としているだけということが多いのではないか。つまり、気がつかなかったのではなく目を背けていたにすぎないのだ。

確かに、足の悪い障害者の場合は少しでもお金をかけてちゃんとした準備が整ったキャリアを使うべきですよという論は展開できるだろうし、完全に安全が確保できないから事前に知らせておくべきだという論も間違っているとは思わない。だが、ちょっと考えてやればできたことをやらなかったというのは、実はちょっと深刻なことなのかもしれないと立ち止まって考えたほうが良い。

この件は、自力でタラップを昇る「かわいそうな」障害者のイラストがついていたせいで、わりと炎上気味になっているのだが、実際には「まさかの時の安全対策をきちんと取っていない可能性がある」ということの意味を考えるべきではないだろうか。

もっとも、まさかの時のことは考えずに安い飛行機代を優先したいという方もいらっしゃるだろうし、自分が旅行するにしてもそういう選択はするかもしれないので、そこは自己責任としか言いようがない。その辺りは一人ひとりの判断で選択すべきだろう。

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福島菌は「美しい日本」の伝統

福島からの避難者が「福島菌」と呼ばれていたというニュースをテレビで見た。これをいじめと捉えて登校しなくなった子もいるという。関連するニュースを検索して読んだところ、ちょっとした違和感を感じた。全ての関係者が「いじめはいけないこと」と言っているのだが、当事者の発言は一切ない。あたかも「いけないこと」と騒ぎ立てることで問題を隠蔽しようとしているかのように見える。つまり、日本人は何かを考えないために騒いでいるのだ。

生徒たちが福島から転校してきた子を「菌」扱いする理由は明白だ。親がそう言っているのだろう。福島県への偏見の根強さがわかる。同時に、いじめがいけないと考えているわけではなく、それを表面化させることがいけないと考えていることになる。

そもそも「菌」とは何だろうか。菌にはいくつかの属性がある。

  • 菌は目に見えない。
  • 菌に触れたり近づいたりすると伝染する。
  • つまり、保菌者に近づかなければ安全である。

菌は「穢れ」を科学的に言い換えたものであると考えられる。つまり、かなり古くからある伝統とだ。最近では、つるの剛士さんのようになんでも長ければ美しいと考える保守の人たちがいるので、彼らのいい方に習えば「美しい日本」の伝統ということになるだろう。

さて、なぜ穢れという概念が生まれたのか。それは病気などの災厄があった時、それがなぜ起きているかがわからないからだ。わからないがよくないものを「穢れ」と括って現実世界から切り離してしまう。すると残りの人たちは安心だということになるわけである。

そもそも非科学的なものを科学用語に置き換えているだけなので「放射能は移らない」などと反論してみても(実際にそのように書かれたエッセイをいくつか見つけた)何の意味もない。

放射能(そもそもこの言葉も科学的に間違っているのだが)を穢れ扱いしないためには正確な情報が必要だったのだが、最近考察しているように日本人は言語を客観的には扱えないので、これはほとんど不可能に近い。そこで一般のレベルでは「何だかわからないが厄介なもの」と括って不安を処理し、それを具体的に体現する避難者たちにぶつけていたのだろう。つまり、避難生徒はスケープゴートで、原因になったのは様々な思惑から情報を「料理」した(東京電力を擁護した人たちと逆に必要以上に煽った)人たちである。

この報道でわからないのは、なぜ先生がこれに加担したかという点だ。生徒と背後にいる親の知的レベルは奈良時代の疫病に対する理解とあまり変わりはない。疫病が起こると大仏を作って穢れを沈めたのと同じということだ。それもできなくなると汚れた都を捨てて新しい都に移って行くのが日本人の伝統だった。

だが、先生は科学的知識を持っているはずで、生徒や親を啓蒙する立場にある。考えられることはいくつもある。

「名付ける」ことによって、生徒を支配するという万能感を満たしていたという可能性がある。次の可能性はクラスを維持できておらず、生徒におもねるために生徒の間にある風俗を真似たという可能性だ。さらに先生のパフォーマンスは学級の成績で決まるから人間関係を些末な問題だと考えていたこともあり得る。最後に先生は科学的な態度を持っておらず、単に教科書をコピーするだけのマシーンになっていたという可能性もある。このような先生は聖書を与えられれば、人間が猿から生まれたなどということはありえないと教えるだろう。

「いじめはいけない」のは当たり前のことだし、子供が勉強する機会を奪われたことは人権上の問題であることはいうまでもない。ただ、それだけではこの問題は防ぐことはできない。問題はさらに悪化し「地下化」するだろう。

だらか、先生がなぜ子供を「菌呼ばわりしたのか」ということと生徒の間に蔓延していた福島からの移住者は穢れであるという間違った認識を修正しようとしなかったのか、改めて検証するべきだ。

この問題の奥に見えてくるのは「かわいそうな福島からの転校生」ではない。たかだか電源の問題で不安を感じている社会の方である。そうした不安が解消できなかったので、子供達にぶつけざるをえなかったということになる。