ヘンリー王子はアメリカで新しい仕事を見つけたようだ

BBCの1995年の報道が問題になっている。ウイリアム王子は調査委員会の報告書を受けてBBCの報道姿勢を批判した。ウイリアム王子は王位継承予定者なので、日本で例えていうと皇太子や秋篠宮がNHKを批判するようなものである。王族にも発言の自由があるんだなと感心した。ただそれが言えるようになるまでに25年もかかっている。

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アメリカは児童虐待にどう立ち向かってきたのか

野田市の栗原心愛さんの事件が早くも風化気味である。ブログなどのページビューを見ているとそのことがよくわかる。




与野党共に選挙のことで頭がいっぱいになっているのだろう。特に野党は「なんらかの失政を捉えて与党攻撃につなげたい」ので次から次へと様々な「問題」が出てきては積み残しになってしまっている。ページビューの推移を見る限り、有権者はこうした状況に疲れていると思う。いつまでたってもどこにも出口が見えないからである。

そんななかQuoraで「アメリカでは殺人として扱われるケース」がなぜ虐待にしかならないのかと憤る人たちがいるのを見つけた。どうやらアメリカは児童虐待についての法整備が進んでおり、例えば車に児童を放置したり送り迎えがしないだけで虐待とされるケースもあるのだという。野田市のケースも「殺人事件として立件される可能性が高いのでは?」というのだ。また、里親制度も充実しており日本の立ち遅れぶりがよくわかる。

ただ、こうした声は昔からあるようだ。少し検索してみたら「アメリカが羨ましい」という現場の声はかなり見つかった。アメリカは社会が子供を育てるという意識が徹底しているという。

大いにあります。極端に言うと、アメリカでは「子どもは社会のもの」と考えられているため、社会が虐待に積極的に対応する。しかし、日本では「子どもは親のもの」といった考えが根強く、他人の家庭には口出ししない風潮がある。

http://www.jinken.ne.jp/flat_special/2001/10/post_6.html

問題の根底に日本人の「子供」に対する考え方があるのがわかる。つまり必ずしも政府が悪いわけではないことになるだろう。

では、アメリカが最初からそうだったのかといえば必ずしもそうではないらしい。どうやって法整備を進めてきたのかということがわかれば日本でもヒントになるかもしれないと思って調べてみた。アメリカの法整備の大体の流れは国立国会図書館のPDFで読むことができる。実は日本政府にもこの辺りの事情を研究している人たちはいるのである。ただ、なかなか政治(つまり選挙)のアジェンダに乗りにくいのだ。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして― (山口亮子)という別の論文には次のように書かれている。

アメリカの児童虐待・ネグレクトの歴史はさほど古くはない。1962年に小児科医のケンプ医師らによる「被虐待児症候群(Battered Child Syndrome)」の発表により、児童虐待・ネグレクトの現実を世に知らしめたことで、その認識が高まったといわれている。そして、1974年に、児童虐待・ネグレクトに関する初めての連邦法である「児童虐待防止と対応法(Child Abuse Prevention and Treatment Act= CAPTA)」が成立し、児童虐待の定義、通告義務および児童虐待の調査・手続きに関する規定が置かれた。1988年の改正で、合衆国保健福祉省が全国のデータを回収し、プログラムを分析す る任務が指示された。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして―

もともとアメリカにも「親が子供をいじめることなど考えられない」という考え方があったのだろう。この背景にはアメリカの核家族化があるのではないかと思う。リースマンが「孤独な群衆」を書いたのは1950年だ。アメリカでは戦後すぐに社会の粒状化が始まり、密室化した家庭の虐待を働く親が出てきたのかもしれない。人間の歴史において「村が共同で子育てをしない」という現象が出てきたのはつい50年か60年ほど前の出来事なのである。日本も遅まきながらこれに追随していると言える。

時代背景も特殊である。ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任する頃と重なる。選挙で選ばれたわけではない副大統領のフォードが大統領だった時代にようやく児童福祉についての対策も練られ始めた。しかし、フォードはウォーターゲート事件をもみ消そうと関係者を恩赦してしまい、うんざりした国民は民主党のカーターを大統領に就任させる。

カーターは共和党の政策を否定するためもあり大胆な福祉政策を実行したのだろう。例えば「アメリカは支援国に人権順守を誓わせる」という人権外交が行われるようになったのはカーター大統領の時代だそうだ。また教育省もカーター大統領が創設したのだという。

つまり、児童福祉は諸改革の一環だったことになる。背景には政治や経済の行き詰まりと社会変化の同時進行があるということである。だが、この後の歴史を調べると改革はやがて行き詰まるということがわかる。そもそも改革の必要性が叫ばれるのは政治や経済がうまくいっていないからであり、改革政党はその結果がでないうちに国民から失望される運命にあるからである。

日本で言えば自民党の行き過ぎた腐敗政治に怒った国民が民主党を選んだというところまでは改革志向が結実したと言える。だが、結果的にはリーマンショック(これは民主党が引き起こしたわけではない)に対応できず、地震や原発事故の責任まで背負わされ、安倍首相からは「悪夢の時代」と罵られている。冷静に考えてみれば自民党はこの悪夢の時代を民主党に肩代わりさせて「逃げた」とも言えるのだが、自民党も国民もそうは考えない。

カーター大統領は国内経済を停滞させたことで知られる。人権外交もあまり成功せず、イランやソ連との間に深刻な対立がもたらされた。カーター大統領は「需要拡大に依存した」とあるが、これは「消費者に焦点を当てて企業に焦点を当てなかった」ということを意味する。共和党は企業よりの保守政党なので供給サイドに焦点があたり、民主党はリベラルなので需要サイドに着目するのだろう。改革がうまく行かないことに失望した国民は共和党のレーガンを大統領に選んだ。レーガン大統領の経済政策(レーガノミクス)は、政府の公共事業の拡大などで供給サイドを満足させたのだが、同時に双子の赤字と呼ばれる赤字を生み出したとされる。任期中は「強いアメリカ」と「レーガン大統領の人柄」で人気を保った。

日本の政治は現在改革失望期であり現実に安倍政権は憲政史上第一位の長期政権になろうとしている。2019年2月21日に吉田茂の政権を抜くそうである。日本の有権者は今現実の問題に直面したくない。そんな中で様々な問題が提起されてもそれは「今の年金制度が維持されているのだからこれ以上触りたくない」という有権者がいる限り、大方は無視されるのだろう。国民は景気がよくなることも正直な政治が行われることも、子供が安心して暮らせることも望んではいない。ただ、今の暮らしが崩れなければもうそれでよいと感じているのではないだろうか。

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なぜ、プリンセス駅伝の選手は途中棄権しなければならなかったのか

福岡の宗像市で開催されるプリンセス駅伝のある選手の「頑張り」が議論を呼んでいる。岩谷産業の飯田怜選手が途中で四つん這いになりたすきをつないだのだ。後になってわかったのだが骨折していたのだという。これについて、チームのために貢献する姿は美しいと感動する人がいる一方で、これはやりすぎなのではないかとする声もある。この議論を見ていて、日本人は本質が理解できず周囲に流される傾向があると思った。実はこれは飯田選手だけの問題ではない。女子陸上界が抱える(そして実は関係者なら誰でも知っている)事情がある。

「本質」という言葉を曖昧に使うことに躊躇はある。この言葉を気軽に使う人が多いのは確かである。だが、今回は構成上とりあえずそのまま議論を進める。

スポーツの本質はそれほど難しくない。スポーツは健全な状態の人がその能力を精一杯生かして限界に挑戦する活動であり、またそれを応援する気持ちもスポーツの本質に含まれる。つまり、健全さと挑戦がスポーツの本質だ。

人間には健全な状態のもとで成長欲求を持つ。例えば、怪我をして下半身麻痺が残った人でも医学的に無理のない範囲ではあるが残された能力を磨くためにスポーツに没頭することができる。人が生きてゆく上で「意欲を持つ」ことが重要だからなのだろう。今の自分の限界に挑戦してみようという意欲がある限り、その人は健全と言えるだろう。

ところが、飯田選手にはこの健全さがなかった。怪我のせいで走れる状態になかったということもあるのだが、どうやらそればかりではなさそうである。結果的に骨折していたのだが、練習の時に痛めていたが選手から外れるのを恐れていたのか試合で折れたのか報道の時点でははっきりとしていない。では、これは飯田選手だけの問題かということになるのだが、どうやらそうではなさそうだ。実は、多くの選手が練習中などに骨折を経験するのだ。今回のケースはたまたま試合中に折れて走れなくなったのが目立っただけなのである。

女子の陸上選手の中には「体重が軽ければ軽い程よい」という信仰がある。以前、ある女子マラソンの元トップ選手が万引きで捕まったことがある。厳しい食事制限から摂食障害に陥る。食べては吐くという行為が止められなかった。最終的には目の前に食べ物がある状態になると理性を失うようになり、思わず「手にとって店を出てしまったのだろう」とも言われている。

日本では男性が女性を支配する文化がある。朝日新聞はこのように伝える。

鯉川准教授は、「目先の結果を優先し、『太ったら走れない』『女はすぐ太る』などとプレッシャーをかけて選手を管理する指導者があまりに多い」と指摘します。日本の女子長距離界では、「体重を減らせば速く走れる」という短絡的な指導がはびこっているといいます。

そこには健全な選手とコーチという関係はない。あるのは「短絡的な」脅しによる管理である。そこでは深刻な事態が起きている。約半数が疲労骨折を経験しているのだ。先に「多くの」と書いたのだが、実は約半数が疲労骨折を経験している。明らかに健康を損ねて走っているのである。

鯉川准教授が2015年、全日本大学女子駅伝に出場した選手314人に行った調査によると、体重制限をしたことがある選手は71%。指導者から「ご飯を食べるな」などと指導されたことのある選手も25%いました。月経が止まった経験のある選手は73%。栄養不足や無月経が原因で起きる疲労骨折も45%が経験していました。

実は今回の報道で「ああ、こんなのはよくあることだ」という反応が多かったのは半数が疲労骨折を経験しており、これくらいやらなければトップになれないと考えているからなのだろう。中には精神がボロボロになってしまい、摂食障害の末に万引きで捕まってしまうという例もでてきてしまうということになる。江川紹子は万引きした元トップマラソン選手について調べている。このルポを読めば女子陸上界が異常な状態にあり、これが改善されていないということがわかる。

その映像が、逮捕の決め手になったのだが、原さん本人は、格別カメラの存在を意識せず、店員の目も気にしていなかったようだ。

「摂食障害による万引きの典型ですね」――そう指摘するのは、日本摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師(政策大学院大学教授)だ。

元女性トップマラソン選手にいえるのは「個人としての自分」が完全に成熟しきっていないということである。この中で早く走るのがいいことなのだという他人の作った価値観が刷り込まれ、そのためには健康を害しても良いのだと考えてしまう。摂食障害を起こしてもそれを他人には言えず一人で抱え込んだ挙句に追い込まれてゆく。彼女を取り巻く社会の側に「健全な状態であってこそのスポーツなのだ」という価値体系がなかったことがわかる。が、これは女子マラソン界の問題というより、日本社会全体が共有する状態なのではないかと思える。例えば働く人のやりがいや意識よりも組織の成果のみが強調され、それが事故や隠蔽につながってゆくという組織はいくらでもある。

ここまでの情報を見せられば、誰も「あれは飯田選手の気持ちの問題だからそのまま走らせてやれ」などとは言えなくなるはずだ。だからテレビ局は表面上議論したことにしてことを済ませたかったわけである。なぜならばテレビ局にとって「個人がチームのために身を賭して頑張る」という「さわやかな」コンテンツは広告を売るのは、間にある広告枠を得ることだからだ。視聴者もまた広告を見ることでこの虐待に加担している。

つまり、実はこれは個人の問題ではない。飯田さん本人の状況や資質も問題ではないし、コーチが試合を止めたかったらしいということも実はそれほど重要ではないのだ。こうした不健全な状態を「スポーツ」として消費していること自体が問題なのだということである。だから、本人たちが納得しているからよいではないかという議論は成り立ちはするだろうが、それを受け入れるのは難しい。なぜならば表面上は健全さを強調し、裏にある不都合からは目を背けるということになってしまうからである。

仮にこれをスポーツと呼ぶとしたら、コロシアムにライオンと戦士を入れて戦わせるのも立派なスポーツと呼ぶべきだろうし、相撲部屋のイライラを解消するために弟弟子が試合にでられなくなるほど「かわいがったり」ときにはなぐり殺すのも教育・指導の一つということになるだろう。

しかし、女子陸上がこの問題に真摯に取り組むとは思えない。冷静な議論は期待できず炎上しかねないのだから、当然テレビ局は炎上防止に躍起になる。私たちは、今一度冷静になってスポーツの本質、つまりなぜ我々はスポーツに感動するのかということとそれが誰かの犠牲の上に成り立っても構わないのかを考えるべきである。

最後に「本質」について考えたい。日本人が本質を考えないのは、本質によって良いことと悪いことの境目が明確になってしまうからだろう。すると問題が起きた時に誰かが責任を取らなければならなくなる。これはある意味柔軟な弁護の余地を残した寛大な社会である。

ただし、この寛大さは最近おかしなことになっているように思えてならない。管理する側やルールを決める側にとっては都合が良いが、実際に価値を生み出す(例えば選手のような)人たちの犠牲が前提になることが増えた。やはりこれは社会の好ましいあり方とは言えないと思うのだが、皆さんはどのような感想をお持ちだろうか。

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権利には義務が伴うという馬鹿はどうやって撃退するのがいいのか

Twitterを見ていたら面白い議論があった。権利には義務が伴うというのは嘘っぱちなのでそんな人のいうことは聞かなくても良いというのである。権利には義務が伴うという人はもともと公益を私物化したい社会の寄生虫なのでこのような対応でも良いと思うのだが、ここはひとつ大人になってその背景について学んで行きたい。

結論だけを知りたい人に短く答えると次のようになる。「権利には義務が伴う」という言い方はできるが、社会や国家が契約によって成り立っているという前提をおく必要がある。もともと契約による国家という新しい概念を説明するための言葉だからだ。だが、日本の議論はこの前提がわざとぼやかされており、いつの間にか他人の権利を侵害して義務だけを負わせることができるという謎理論が生まれた。

さらにそれも面倒で覚えられないという人は、権利には義務が伴うが、気に入らなければ政府は打倒してもいいという前提があるといえば良い。つまり「お前、覚悟はあるの?」ということになる。

過激な考えだと思われるかもしれないが、訪問販売詐欺にあったらクーリングオフ制度を使ってキャンセルするのが常識なのだから、選挙も売買契約が成立したら「あとは何をしてもよい」ということにならないのは当たり前である。


そもそも誰がこれを言い始めたのがよくよくわからなかった。道徳の授業を受けたことがないのだ。そこで直感にしたがって「民約論」あたりを調べてみようと思った。つまり、近代国家の「契社会約」という概念を説明するために作られたのではないかと思ったのである。中江兆民の民約論について研究したPDFには次のようなが説明がある。少し長いが引用する。

ルソーの社会契約説は、人間社会の構成原理を解き明かしたものだから、きわめて複雑 な構成と豊富な内容をもっている。しかし本稿との関連においてその骨幹を提示するなら、 それは以下の三点であると思う。

①人類の歴史は、共同の力を発揮できる新しい結合形式(社会契約)をみつけだすことによって自然状態から社会状態へと移行したこと。 ②社会の平等な構成員はみずからの自由を確保したままで市民として「一般意志」 (volonté générale)を策定し(主権者として「法」を制定し)、かつそれに服従せね ばならないこと。 ③社会の平等な構成員として政治的(市民的)自由を保障された人間は、真に自らを 主人たらしめる「道徳的自由」(liberté morale)を体現せねばならないこと。

①は人間社会の形成史にたいする重要な新視角であり、人民主権論の論理的前提である。 全能の神による天地創造説が常識だったのだから、これは冒頭で述べられ、随所でくりか えし説かれる。②は本書の根幹をなす社会の成員相互の契約関係であって、全構成員が主 権者として法を制定するとともに個人としてそれにしたがう義務をもつという「二重の関 係」がいろいろな角度から丁寧に説明されている。③は実際には考察の対象としないこと を第一編第八章末でことわっているのだが、社会契約に対応的な市民精神をあえて提示し ているのである。

中江兆民は社会という概念がなかった時代に「民」という概念を使って社会と法治主義国家の理念を説明しようとした人である。天皇が臣民に国家を与えるという従来の考え方を否定して、国家というものは国と国民の間の契約であるという概念を広めようとしたことになる。同じことはフランス革命期のフランスでも起きている。今回は触れないのだが、大前提として基本的人権がある。これも誤解されている概念だが「人間は生まれながらに等しく平等である」ということだと思ってもらえればよい。逆にいうと「最初から特別扱いされる人は誰もいない」という原則だ。

日本では、フランスから輸入されたこの考えが自由民権運動や一部の大学の基礎になっている。法政大学と明治大学はフランス法を学んだ人たちによって作られた。一方で国家神道的な系統から出てきたのが今問題を起こしている日本大学だ。彼らは民主主義のカウンターから出てきたので雛形のバグがそのまま騒ぎになって表出しているのである。

フランス式の法概念では、主権者は主体的な契約に基づいて国家の運営に参加することになっている。主体的な契約があるということは、政治家も有権者も契約について熟知しておりまたそのプロセスも透明化されているということになる。だから民主主義には説明責任がある。

国家と国民の間には契約があるのだから、社会の害悪になる不当な権力には従わなくても構わないし、それを打倒する権利もあると議論が発展させられる。ヨーロッパでは抵抗権として知られる考え方である。不透明な政治には従わなくても良いのである。

さらに少し踏み込んで調べてみようと思い、普段は読まない哲学書を読んでみようと思った。だが、何を読んで良いのかわからないので「覚えておきたい人と思想100人」という本を取り寄せた。だが、哲学の素養もないのに辞典を取り寄せても何がなんだかさっぱりわからない。一般教養を積んでこなかったツケだろう。

そこでGoogle先生に「who said the rights comes along with duties?」と聞いてみたところ幾つかのページが見つかった。AIってすごいなと思った。そこで見つけたのが「義務論(Deontological ethics)」というジャンルである。そこで義務論について調べたところBBCのページが見つかった。

哲学は苦手なのであまり深入りもしたくないので概要だけをかいつまんで見る。人間の行動には動機(インプット)と結果(アウトプット)がある、このうちインプット側に着目したのがDuty Basedの哲学だである。日本語のWikipediaの義務論のページには功利主義との対比が書かれている。「覚えておきたい人と思想100人」のカントの項目にも功利主義と対立するというようなことが書いてある。逆にイギリスでは功利主義というアウトプットに注目する哲学が生まれる。みんなが結果的に幸せになれるのがよいというのである。

さてどちらが「正しい哲学なのだろうか」などと思えてくる。そこでBBCのページをよく見ると「義務論の良い点と悪い点」が書いてある。内心に着目すると結果についての責任は追わなくて済むので、悪い結果が出ても気にしなくなる。また絶対的なルールを設定するので硬直的になりがちだという記述もあった。どちらが「正解」ということはなく、目的に応じて使い分けるべきだという理解があるようだ。

ここまで見てきて「この議論は前にも見たことがあるぞ」と思った。一昔前にNHKきっかけで流行したマイケル・サンデルの白熱教室だ。改めて、サンデルのWikipediaの項目を読むと「共通善を強調する」と書いてある。つまり、サンデルは功利主義者ではなく義務論の人なのだが、授業ではどちらも教えている。

ここまで見てみると、哲学の「義務」の意味が見えてくる。義務は誰かから背負わされるものではなく自ら進んで選び取り遂行するものを指すのだ。このような装置を置いたほうが社会が円滑に運営できる(結果に着目)し、より多くの人が善を追求できる(内心に着目)からである。そして「なぜ人間は善を追求すべきか」についての説明はない。つまり、人はそういうものなのだという前提が置かれている。

私を含めた多くの日本人は義務と権利を「税金と公共サービス」という概念で捉えているのではないかと思う。つまり、なんらかの義務を支払うことで公益サービスを受ける権利を買っていると考えるのである。これは国と国との関係ばかりではなく村落共同体でも「お互い様理論」として受け継がれている。お歳暮をもらったら送り返さなければならないという程度のことだが、常識としては深く浸透しており、立派な哲学と言えるだろう。

こう考えてみると働いていない人(杉田水脈流にいうと「生産性の低い人」)は対価を支払っていないのだから、公共サービスを受ける権利がないのだという理解が成り立ちうることがわかる。だが、実際の民主主義ではこのような考え方はしない。本来平等であるべきものが歪められているから社会で補填しようというのが人権保護の基本的な考え方である。

社会契約説に従えば権力者は統治権限を委託されているだけなので、契約を示し、過程を提示し、信任を失えば抵抗される可能性がある。選挙だけが民主主義ではなく、やり方によっては社会の写し鏡にならない可能性があるので、途中で抵抗される可能性は残されている。それが東洋の伝統に合わないというのなら「徳」という天との契約がありそれが履行されていないという言い方をしても差し支えないだろう。東洋では徳を失えば革命が起こる。

ルソーの社会契約説での義務は契約締結に伴って生じる。また、義務論の義務はより良い社会の構成員になりたい人が内心に従って自発的に義務を果たすことでより良い社会を実現すべきだと考える。つまり、これらの考え方を理解するためには、内心や社会という概念を受け入れる必要がある。だが、日本人には内心(良心)という考え方もなければ、社会や公共という概念もない。だから議論ができないのだろう。

これを稲田朋美を例にあげて説明してみよう。稲田さんは、国民一人ひとりに価値はなく日本という全体に価値があるのだから、いざとなったら戦争にいって犠牲になって全体を守れと主張している自民党の国会議員だ。

稲田さんら、自称保守の人たちは、国民は国の従属物であり歴史の総体という前提がない個人は無意味だと考えている。生産性は経済性に着目しているが、保守の人たちは精神性を取り入れている。歴史に従属する公共善という概念はあるので、ここまでは西洋と近い。

だが、その義務を負うのは「日本人」である。日本人というのは彼女とそのお友達を除いたすべての日本人という意味であり、彼女たちだけは「歴史によって形作られた保守的な価値観」を知っているのだから特別な存在であり、責任からは除外されるか「もっと重要な責任を担うのだ」として「低位の責任」は免除される。

最終的に「国民は生まれながらにして私たち(統治者)に負債を負っているのだから義務を果たして死になさい」という謎理論が生まれてしまうのである。

ここで二つのことが起きている。西洋では全体は不可知なので「全員で追求して行こう」ということになるのだが、なぜか稲田さんは答えを知っているという前提がある。だからこそ歴史の総体としての善を国民に知らせることができるのである。だが、それが何かということは開示されないし、その途中経過も明かされない。

なぜ彼女たちだけは特別な知識を持っていて特権を享受できるのかということは決して明かされない。さらに途中のプロセスも黒塗りされていてわからない。自称保守の人たちが政権をとると政府資料はことごとく黒塗りされ、外交文書はそもそも明かされず、その他の話し合いはなかったことになる。それは彼らだけが知り得る秘密であって、国民が知る必要がないものだからである。

こうした状況下では議論は成り立たない。そもそも日本人の側は言葉を持たないわけだし、政治家の側は言葉を明かさないからだ。

かつてカトリック教会が「神の意志はラテン語で書かれており庶民には理解できない」といったのと似ている。カトリック教会はこのロジックを使い「免罪符を買えば罪は洗い清められる」と主張し、神の意志を私物化したのだが、ヨーロッパの人たちは「神の意志は個人の中にも存在し、従ってローカルの言葉でも理解し得る」と考え方を改めるまではカトリックの権威に対抗できなかった。その意味では日本の政治状況は中世と同じなのである。

だから、これに対抗するには耳を塞いで「そんなのはデタラメである」と泣き叫ぶしかない。

そのように考えると、サンデルが倫理や哲学について語ることができ、BBCが「倫理」についてのページが持てることの意味がわかってくる。サンデルは自分の立場にも「ベネフィットとデメリットがある」ことをわかっている。それは哲学は単なるツールにすぎないからであろう。聖書がドイツ語になり活字に乗って普及したのと同じように、サンデルは哲学という言葉を広めようとしているのである。自分にも主張はあるが、主張があっても理解されなければ何の意味もない。

その前提になっているのが社会である。サンデルは自分も相手と対等に社会の一員であるということを自覚しているからこそ、言葉を広めて「一緒に考えましょう」と言っている。民主主義とは問題を「みんなで一緒に考えること」である。

少々長くなったのでこの辺りでまとめる。私たちが「真理は一人ひとりの心の中にある」と考えない限り「権利には義務が伴うから、あなたたちはボランティアで無料奉仕したり、徴兵に応じて権力者を守るために戦わなければならない」というデタラメな主張に対抗することはできない。言葉がないのだから唸り声をあげながら逃げるしかないのである。

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杉田水脈論法の罠

杉田水脈という議員が「同性愛者は生産性がない」と発言したとしてTwitterコミュニティから反発されている。自民党のおごりがでた発言であり許しがたい。だがその反論もあまりにもめちゃくちゃでとても議論と呼べるような筋合いのものではない。却って人々の持っている偏見を浮き彫りにしている。もともとの論があまりにもくだらない上にそれが人々の劣情と無知をさらけ出すので見ているうちにだんだん腹立たしい気持ちになった。

この際避けるべきなのは正面から向かい合うことであることはいうまでもない。調べてみるとお子さんがいらっしゃるそうだ。つまり自分は議員にもなれた勝ち組で「生産性もある」ということを自慢したいのだろう。ただ、この手の人は自己評価が低いので他人をまきこむことでしか自己評価があげられない。そこでマイノリティを刺激して「私よりも下がいる」ことを確認して自己満足を得る。そして、そうした自己評価の低い人が大勢いて彼女のようなネトウヨ政治家を支持するのである。新潮社がそこに商品的価値を見出したということは日本人の自己像は大いに傷ついているということなのだろう。

だが、反論する人も「国会議員」として選ばれた身分の人に生産性が低い人物だと差別されたくないという気持ちが働いてしまう。つまり、かってに上(国会議員)と下(生産性の低い人)を作って「生産性が低い人でも見放されるべきではない」という理屈を考え始めてしまうのである。要は見放されたくないと言っているのだ。

こうした気持ちが働くのは普段から人を生産性で裁いているからではないだろうか。他人の稼ぎが低い人を見下す人もいるだろうし、あるいは体が動かなくなった自分を責める人もいるだろう。

民主主義のもとになったキリスト教では人は人を裁くべきではないと考える。たとえそれが自分であってもである。私たちが神ではないのですべての価値を知りえず、裁くことはできないからである。現に生きているということはなんらかの許しがあるということなので、それをどう使うかを自ら考えるべきなのである。

「他者を裁いてはいけない」という論をキリスト教の信仰として受け入れることもできるのだが、肝は他人を裁いているスケールで自分を見下したり罰したりすることになるという点にあるのではないかと思う。つまり、人を裁く人は自分の未来も限定してしまうのだ。

例えば半身不随になった人が「自分は今までのように生産性がない」と考えてしまうと、自分の未来を自分が限定してしまうことになるだろう。その変化は苦しいだろうが、諦めなければ新しい可能性が見えてくるかもしれない。「そんなことはない」と考える人もいるだろうが、なんらかの苦難を経験した人の中には実感として理解できる人も大勢いるのではないかと思う。

いったん落ち着いてこれを受け入れると、別の視点が見えてくる。それは生産性という用語である。生産性とはもともと資本投入とアウトプットの比率のことで、生産の効率を計測する指標のことである。同性愛と仕事の効率には因果関係はない。つまり、これは議論としては最初からデタラメなのだ。

この「生産性」とは経済効率のことを意味しているのだと思う。なので「ない」という言い方はせず「生産性が低い」とするのが本来の使い方だ。こうした誤用が起こるのは「稼ぎが多く社会的に役立つ」という概念とリプロダクティブ(生殖)を故意に混ぜているからだろう。つまり女性は稼ぎがなくても子供を産む機械として役に立つだろうということだ。つまり、人間が持っている多様な価値を矮小化した議論に過ぎない。もっと簡単な言葉でいえば「意味のある人生」と「意味のない人生」である。稼ぎが多かったり子供がいるのは「意味がある人生」であり、そうでない人生があると言っており、誰が意味を持っているかは私たちが決めると宣言しているのである。単なる倒錯した暴論だが、これが議論を巻き起すのはつまり「自分の人生に意味があるか」を疑問視している人が多いからなのではないだろうか。だが、そんなことを自分で決めてはいけないと思う。

いずれにせよ、この構図がわかると問題を処理しやすい。第一に国会議員が有権者の人生を決めるというのがおこがましい。自民党政権は自分たちを殿様か何かのように思っているのだろうが、実際には税金の使い道を決めて監視するためのエージェントに過ぎない。こうした勘違い発言は時々出てくる。前回びっくりしたのは礒崎陽輔という人の「憲法は国民に規範を示す役割を担うべきだ」という発言だ。そもそも今は封建時代ではないし、仮に封建時代であったとしても徳のない嘘つきの政権にあれこれ指示はされたくない。

「意味のある人生とない人生があり人々がそれを裁く」というのが最初の差別意識だった。次の差別意識はマイノリティはかわいそうな存在だしそうあるべきだという意識である。

この発言は乙武さんのものだが、普段から障害者も普通の人間だと言っておきながら、性的少数者だとこのような「かわいそうな人」発言が出てしまう。では同性愛者とはかわいそうな存在なのだろうか。例をあげて考えたい。

日本人の同性愛に対する偏見を「変だな」と思うのは、アメリカの同性愛コミュニティを見ているからだと思う。例えばハリウッドには同性愛者のコミュニティがある。この人たちは「芸術的なセンスが優れている」とされており独自のニッチを形成している。こうした人たちをサポートするバックオフィス系にも弁護士や会計士などの同性愛者がいる。

彼らは特に「私は同性愛者です」などとは言わないのだが、言葉遣いからそのことがわかる。他人に断りを入れることがないのは別に恥ずかしいことでもないし、他人の許可がいることでもないからだ。

彼らは可処分所得が高いのでマーケティングのターゲットになっている。実際にファッションインダストリーが出しているYouTubeなどを見ると同性愛者向けのショートフィルムなどが見られる。つまり、一種のエリートなのである。

この「選ばれし」コミュニティに異性愛者が入るのは難しい。センスが違っていると考えられてしまうからだ。つまり、マイノリティ、マジョリティというのは局所的な問題であり、人口全体でマイノリティであったとしても必ずしもマイノリティでなければならないということはない。

もちろん全米がこうだというわけではないだろう。全米各地から居心地の良さをもとめて特定の年に集まってくるのだ。つまり、アメリカの中にもまだまだ同性愛という特殊性が受け入れられない地域がある。だが、彼らの一種の「傲慢な振る舞い」を見ていると、同性愛者がかわいそうだとはとても思えなくなる。日本だと美容業界などにこうした「選ばれし」コミュニティがあるのではないかと思う。

確かにこの人たちは生きにくさも抱えている。トムフォードの映画「シングルマン」は傷ついたゲイの大学教授の話だ。長年付き合っていた恋人を失い傷心状態にある。しかも恋人の家族からは気持ち悪がられており葬儀に呼んでもらえなかった。しかし、経済的には成功しているし、演歌的にウエットな「かわいそうさ」はない。

よく考えてみると、性的指向が選べないのは同性愛者だけではない。例えば普通の男性の中にも痴漢を働いたり盗撮を試みる者がいる。彼らはそれが露見すれば仕事を失うことはわかっている。でもやってしまうのだ。つまり、そもそも人間は自分の性的指向を完全にはコントロールできない「かわいそうな」存在なのである。

杉田議員は自分の価値を高めるために弱い人を見つけて叩こうとしているだけである。これは逆に彼女たちが「強い人」を目の前にしたら靴をなめてでも媚びへつらうだろうことを意味している。だからあの手の人たちに復讐するためには成功すればよいわけである。最後の問題は日本の経済が縮小を予想しており「成功するコミュニティを作ろう」という意欲がわきにくい点なのではないかと思う。そこで「生産性がなくても見放してはならない」という論が出てきてしまうのかもしれない。

泣きそうな顔をして「いじめるな」訴えるのは逆効果である。なぜならば相手が泣いて困るのを見て喜ぶのがいじめの目的だからである。で、あれば環境を変えるなりして得意分野を見つけた方が良い。最初は見返したいという気持ちがわくかもしれないが、得意分野が見つかりそれなりのコミュニティができたところでいじめていた人のことを見返したいという気持ちもなくなるのではないかと思う。

もちろん、自民党がこうした議員を抱える裏には長期政権のおごりと自分たちは支配者であるという倒錯した世界観があるのだろう。こうした発言を商売に利用している出版社の反社会性も糾弾されるべきかもしれない。

杉田議員の発言がたしなめられることはなく、むしろ「頑張ってくれ」と言われるという自民党の風土は深刻なのだが、こうした政党がいまだに政権与党である裏には「下」を探して生きるしかない大勢の人たちの存在があるのだろう。

こうした事実を受け止めつつ、当事者たちはそれぞれその人なりの成功を目指すべきだと思う。

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日本人は責任をどのように理解したのか

レスポンシビリティ(対応性)という言葉に責任という訳語を与えたのは誰かということを調べた。前回紹介した橋本大二郎の短い文章の他に「西周が訳した」ということを証明できる資料はなかった。

そもそも荘子(そうし)が天子について書いた文献の中に天子の責任という言葉が出てくるようで、責任という言葉は新しく作られたものではなさそうである。明治時代に宮内省が編纂した辞書にも「責めと務め」というような定義が見られる。明治時代には民法の中でも負債を弁済する任のような意味合いで責任という用語が使われていたようだ。連帯責任も同じように負債に関する概念だったようである。

この他に責任内閣制という言葉がある。内閣が君主ではなく議会に対して責任をとるという制度だと考えられている。この責任はレスポンシビリティの訳語なので古くからこの二つの概念が同居していた可能性は高い。

日本語には古くから責任という言葉が存在し民法では「債務を弁済する義務」のように用いられれていたようだ。このため各種の国語辞典を見ると、どれも同じように「責を負う任務」というような定義が最初に出てくる。中にはこれをレスポンシビリティの訳語としている辞書もある。

英語では「対応性とか即応性」という言葉が当てはまると書いたのだが、ケンブリッジ辞典は「duty/義務」や「blame/非難」に結びつけている。国や社会によって何を責任とみなすのかについては若干の違いがあるようだ。

いずれにせよ、明治憲法は恩賜の欽定憲法なので政府が国民に対して説明をしなければならないというような意識は希薄だったのだろう。さらに庶民の生活の中では、概念的な「社会契約による権限委託」というのは理解されにくいが、具体的な「何か問題を起こした時に金銭的な補償をする」という行為の一部として責任が理解されていたと考えて良いのかもしれない。

ただ、日本人がまったく政治的な概念に理解や関心がなかったということはないようだ。西洋に比べて日本は遅れているということを実感した日本人は慌てて西洋の社会制度を学び始める。この中で概念的な人権や契約という概念をフランス語や英語で理解した人たちがいた。日本人は何をかんがえてきたのかというNHKが出している書籍によると、日本にはフランス流の民主主義を模索する自由主義者とイギリス流の立憲君主制を模索する立憲改進という二つの民主化勢力があったそうで、草の根的な民権運動も存在した。自由主義者だった中江兆民が社会契約の考え方を日本に紹介したとき日本には「社会」という考え方はなく、民の約束という意味の民約という言葉が使われたそうだ。

「原語でコンセプトを理解できてすごい」という見方もできるし「余計な概念がなかったのですんなり受け入れることができた」という見方もできる。今回観察している「責任」をめぐる諸概念は契約と権限移譲という基本コンセプトを理解した上で英語で読んだ方がわかりやすい。これを日本語に訳した上で漢字の意味に引っ張られると話が複雑になる。漢字の縮約能力が仇になっていると言えるだろう。

いずれにせよ「経済的補償」の一環として責任という概念を理解した日本人はGHQが憲法を書いた時に不用意に同じ訳語を使ってしまったと考えられる。内閣がグループで国会に対応するという意味を「連帯して責を負う」という法的補償の概念で理解してしまったことにより誤解が生まれる素地が作られた。これは内閣は天皇ではなく国会(つまり国民)に対応するのですよということと首相が勝手に決めてはいけませんよということを言っているのだが、これを訳者がどのように理解したのかは今になってはよくわからない。

「政府は国民から社会的合意に基づいて作られた概念的な契約によって権限を委託されている」という理解はさらに遅れた。昭和の時代に「政府」の問題は行政責任の問題だった。つまり公害を放置した時に国が補償してくれるのかという具体的な補償の問題として政府の責任を捉える人が多かった。

このため平成が終わりを迎えつつある現在でも、アカウンタビリティ(説明責任)という言葉は辞書に載っていない。現代用語の基礎知識に「行政責任」と「アカウンタビリティ」という項目が立っており、未だに「現代用語」扱いになっている。

これらの言葉がいつ使われ始めたのかということはよくわからなかった。Google Trendは2004年以前の傾向が調べられないのだ。いろいろ調べると「企業統治用語」として日本語に定着したのではないかという可能性が見えてきた。

アカウンタビリティは「企業の株主に対する説明責任」というコンセプトで使われ始めた。同じように最近使われるようになった言葉に「コーポレートガバナンス」や「コンプライアンス」がある。もともと持ち合いが多く株主に対する責任が曖昧だった日本企業の中に西洋流の「契約と説明責任」とか「社会責任」という概念が広がっていった頃である。日本でこれが顕著になったのは2000年代初頭の村上ファンドやライブドア(堀江貴文)あたりではないかと思われる。お金が絡んだ方が日本人の理解は早いのだが、これが道義的責任とか社会的責任となると途端に暴走が始まることがわかる。

例えば連帯責任という言葉はもともと「連帯保証」という債務に関する用語だった可能性が高いのだが、これが軍隊やスポーツチームなどで使われるようになったという経緯がある。この連帯責任という言葉は軍隊では見せしめにチーム全体を殴るための口実に使われていたようで、用例がいくつも出てくる。

ここに出てくる文章を読んでいると気分が悪くなるが、要するにマネージメントの失敗を八つ当たりの暴力によって目下に押しつけるのが「連帯責任」だ。しかしこれを制裁と呼びたくないので「体裁のある」用語を使ったのではないだろうか。これが戦後になって体育会系のマネージメントに応用されたのではないかと考えられる。お金のやり取りがない時に通貨として使われるのが村八分のような社会的な非難と制裁という名前の暴力なのである。

この二つに共通するのは現場が「金銭的なマネジメント」に関わっていないという点である。兵隊が補充されてくる場合「兵士を雇うことに関する費用対効果」は考えなくてもよい。すると現場マネージャが暴走して私的制裁を練り込んだマネジメントを行うようになる。日本のスポーツの近代化が遅れたのも「無償の努力は美しい」というアマチュアスポーツが過度に賞賛されたからだ。すると現場のコーチが思い込みで選手をしごくというのが当たり前になってしまう。こうした現場で責任が曖昧になると「連帯責任」という「無責任」が横行することになる。

自己責任という言葉はその最たるものである。もともと債務関連の言葉だった。これが集団で責任をおう連帯責任という考え方になった。行政責任という言葉も生まれる。これは借金ではなく保証金という形での支出を伴う。行政責任はないという意味合いで、だったら誰に責任があるのかということになる。本来なら会社などの集団に補償責任を負わせたいのだが、フリーランスの場合には問責する主体がないので「自己責任」という言葉を無理やり作って押し込んでしまったのだろう。しかしこの「無責任用法」が生まれてしまうと一人歩きし、力が弱いものに対して「お前が悪いんだろう」と単純化されて使われるようになった。政治家など力のある人に「自己責任だ」という言い方はしない。

日本人はこのようにグループ間のお金のやり取りを通じて社会契約的な概念を理解していることがわかる。これが溶解してしまうともっと概念的な「社会」を作ってルールを普遍化するか、個人と個人の間の無秩序な指の差し合いに陥ってしまう。日本人は後者を選んでおりそれが現在の混乱の一員になっている。

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自己責任という言葉はいつ生まれたか

自己責任という単語がある。例えば生活保護を受けている人が困窮しているのは自己責任であるというように使われる。説明責任という言葉はいつまでたっても定着しないが、自己責任という言葉は「正しく」行き渡っている。理由を考えたのだが、これは責任という言葉が日本語では独自に解釈されているからではないかと思った。責任はやまと言葉の「〜のせい」の訳語なのだ。




まず、レスポンシビリティの訳語として責任という言葉が当てられたというところまでは確認ができた。原典は確認できないが明治時代に西周が訳したという話がある。橋本大二郎のブログに「対応力」とでも訳すべきだったという話が出てくる。どうやらこの<誤訳>はその筋では有名らしい。

そこから連帯して責任を負うという用語が生まれる。日本国憲法に連帯して責任を負うという言葉があることから戦前から使われていたことが伺える。

内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

The cabinet, in the exercise of executive power, shall be collectively responsible to the diet.

この時にすでに日本語には責任を持つではなく「負う」と書かれているので負債めいたニュアンスがあることがわかる。英語は集団で対応しますよという言い方になっている。これは内閣総理大臣が一人で対応するのではなく内閣全体が対応するのですよということを言っており、権限についててほのめかしている。内閣には固有の権限(exercutive power)があるが、総理大臣一人に好きなようにさせませんよというニュアンスがあるのだが、なぜか日本語では削られている。そして「負う」という動詞が充てられている。原文は形容詞であえて日本語に訳せば「責任がある」となる。だから「固有の権限を行使するにあたって、内閣は国会に集団で対応する」が正しい訳語になるのではないだろうか。

余談ではあるがresponsibleにはforという使い方とtoという使い方があるそうだ。forは物事に対して使われ、toは人に対して使われる。そしてこのように「〜に対して(説明などの対応をする)責任がある」という言い方になる。

この「〜に対して責を負う」という言葉は集団主義的な使われ方をすることが多かった。体育会系で「チームの連帯責任」などということがある。責任の所在が曖昧になっており、なにかあったら罰を与えるからお互いによく見張っておけよというような意味合いがある。この集団が溶解することで、自己に責務を負わせるという考え方が出てきた。これが「自己責任」だ。ではいつ頃から自己責任という言葉が多用されるようになったのだろうか。

英語では自己責任という言葉はかなり限定的に使われる。本来人間は神様から治癒能力を与えられており投薬なしでも病気が治ると考える人たちがいる。彼らは病気に対して反応できるという意味でセルフレスポンシビリティという言葉を使っており、2004年に限定して調べた時にもそのような意味で使っている文章が見られた。この「セルフ・レスポンシビリティ」を引き寄せの法則などに関連付けて「自分の幸せには自分が責任を持つべきだ」などと使っている文章は見かけた。本来の英語の意味が誤解されているのか、原典通りに理解しているのかはよくわからない。

この言葉が「お前のせいだ」という意味を持つようになったのは比較的最近のことだ。Google Trendで自己責任を調べると2004年に山があるのが確認できる。この時に書かれた共産党のウェブサイトが見つかった。イラクの人質事件は自己責任であるという政府の主張を糾弾したものだ。いくつか調べたがどれも「イラク」との関連の中で使われていた。

イラクで数名の邦人が拘束された。日本政府には彼らの人命を守る義務があるのだが実際には何もできない。そこで「勧告を無視して危険を承知で出かけて行ったのだから結果的に救出できなかったとしても政府のせいではない」という論が展開された。これが2004年なのだ。こうした使い方が昔からあったのかはわからないが、自己責任が今のように使われるようになったきっかけのひとつは小泉政権が「政府の責任を被害者に転嫁した」ことにありそうである。

「政府に責任がある」というのは「対応しなければなりませんよ」とか「そういう機能があるんですよ」という意味なのだが、日本人はこれを「イラクで人質が誘拐されたのは政府のせいだ」と取る。そこで政府は「いや、のこのこと出かけていった人たちのせいだ」と言い訳した。それに追随したマスコミが騒ぎ出し「帰ってきた人質たちを非難してやろう」という空気が生まれ、実際に彼らは避難にさらされることになった。ハフィントンポストのこの記事を読むと当時の激しさが少しだけわかる。

2015年には後藤(健二)さんというジャーナリストが「責任は自分にある」と宣言してイラクに行って実際に人質になり殺された。これが名詞化されて「自己責任という言葉が一般化する」という考察がある。QUORAで聞いたところ「自己責任」に当たる英語は、at one’s own riskではないかと指摘してくれた人がいた。リスクを取るという意味だがそのリスクの中に他人から責められるというニュアンスはない。しかし、日本には責任を負うという概念があり、その中には何かあった時には「ムラ」が叩いても文句を言わないというニュアンスが含まれている。

現在、私たちはセクハラ問題や強制わいせつ問題などで「被害を受けたとされる女性にも責任の一端があるのではないか」という議論をしている。いわば自己責任論である。イラクに出かけて行った人たちに同じような視線が向けられていたことがわかる。とにかく誰かを叩きたいという日本人の心象がこの「自己責任論」には色濃く映し出されている。常に問題を「誰かのせいにしたい」という気持ちがあるのだろう。

責任は「説明や対応ができるように準備しておく」という概念であり「責を負わせる」という罰則概念ではない。だが日本語の責任という言葉には「責」が入っているので「誰を非難すべきか」という議論に陥ってしまう。叩く資格は「普通で善良な暮らし」をしているという簡単なもので、叩くにあたって実名を公表する必要はない。これが、結果的にではあるが過剰さの要因になっている。

その一方で「職務を明確にして対応する」のはとても苦手である。それは役割分担が不明確で誰が何を決めているのかよくわからないからだ。レスポンシビリティは明確な役割分担と権限移譲によって生まれるので、それがない社会ではそもそも責任の取りようがないのである。だから説明責任という言葉はいつまで経っても日本には定着しない。

連帯責任の源流は連座制や五人組などの制度だと説明する人たちがいる。中国起源概念が日本に取り入れられたという面白い議論をOKWebで見つけた、またスポーツの連帯責任について考えているコラムの中に河合隼雄の母性集団・父性集団という概念が出てくる。今回の考察では日本人は契約概念が理解できないという見方をしているのだが、河合は責任の所在が曖昧な集団を母性集団として区別しているようだ。

責任の所在が曖昧な社会では連帯責任という言葉がよく使われる。野球部員がタバコを吸っているのを見つかると甲子園に行けなくなるとか、正座させられて殴られるというようなものが一般的な使い方である。今回のTOKIOの騒動でも連帯責任という言葉が使われた。テレビでは疑問を持ちつつも流されてしまったコメンテータが多いようだが、個人が責任と向き合えなくなると批判する人はいなかった。周囲の人たちは個人が償うためのサポートはできるが、向き合うのはあくまでも山口達也さんなのだが、母性的(あるいは体育会的)な傾向の強いジャニーズ事務所ではどこまでも責任の所在や一体何にたいする謝罪だったのかということは曖昧にされ続けた。

このように役割が曖昧なまま結果的に集団を叩いて管理をしていたという事情があり、集団が溶けてしまった現在はそこから浮いてしまった人たちに必要な権限は与えず「個人の資格で叩く」行為が蔓延している。その発端になったイラクで叩かれたのは会社に属している人たちではなくボランティアという個人だった。仮に企業が派遣していたとしたらその企業が叩かれていたはずなのだが、叩く企業がないので個人を叩いて「自己責任だ」と言っていたことになる。

だが集団だと責任を取るのかと言われると疑問もある。自衛隊は「戦闘状態にある」という日報を送り続けてきたのだが、それはすべて隠蔽された。そして最終的にはできの悪い通販番組のように「それは個人の感想です」という注釈をつけられて「自衛隊員は戦闘状態だったと言っているがあくまでも個人の感想にすぎず、あれは戦闘状態ではない」などと言い出している。日本では個人は非難の対象にはなるが権限は与えてもらえず発言も無視されてしまうのである。

いずれにせよ「連帯して責を問う」という伝統的な考え方があったからこそ、個人で責任を負うという考え方がで出てくるわけだ。だが、個人には対応力はないので個人責任という言葉は不当なものになりがちである。それに加えて「結果的にリスクを負う」くらいのことはあっても、集団の憂さ晴らしのために叩いて良いという根拠はどこにもない。

だが、私たちは不思議なことにこの自己責任という言葉をすんなり理解して、あたかも昔からあった言葉のように使うのである。

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バベルの塔に住む日本人は民主主義を理解できない

荒れる学校について考えているうちに、そもそも日本語には民主主義に関する用語の理解が欠けているということがわかってきた。これについて考察しているブログは多いのだが、議論そのものがあまり注目されてこなかった。例えば責任とResponsibilityという用語で検索するといくつかの文章を読むことができる。

今回は「先生が体罰という抑止力を失ったために学生がやりたい放題になった」という投稿をきっかけに、荒れる学校について考えている。この問題を解決するためには、まずコミュニティをどう保全するのかを話泡なけければならない。しかし、話し合うための言葉すらないうえに問題を隠蔽したがる人たちもいる状態では話し合いすらできない。

先生や保護者が協力して適切な監視体制を作ったり生徒に自主性を持たせれば暴力を使わなくても問題は解決するのだが、日本人は民主主義社会が持っているはずの協力に関する用語を持たないためにお互いに意思疎通ができない。これはバベルの塔に閉じ込められた人たちが協力して塔を建設できないのに似ている。

前回のエントリーでは学生か先生に権限を与えるべきだと書いた。ところが日本語でこの議論を進めようとするとややこしいことが起こる。権限と責任という二つの言葉だけを見ても、これを好きなように定義する人たちが現れるからだ。「日本人がバカだから民主主義が理解できない」という言い方をしても良いのだが、英語の表現を漢字語に置き換えた時に生じた問題が修正できていない。

例えば先生の権威を認めるべきだと主張すると、権威という言葉から絶対王政の権威のようなことを想像する人が出てくる。これは言葉に「威」という漢字が含まれているからだろう。畏れて従うというような意味がある。しかしこれを英語で書くと先生の権限を認めて委譲すべきだという意味になる。権限も権威も「オーソリティ」の訳語である。この言葉はラテン語からフランス語を経由して英語に入った。元々のラテン語の意味は「増える・増やす」ということのようだ。これが「書く」という意味になり、書かれたものを引用して「誰もがそうだな」と思える概念を「オーソリティ」と呼ぶようになる。ここから派生して、権限を裏書きして認めることも「オーソリティ」と呼ぶようになった。

つまり、民主主義的な用語では「社会的な合意のもとに先生に学校を管理する権限を認めること」を先生に権威を与えるべきだということになる。だが漢字に「威張る」を思わせる言葉が入っているので「先生は偉いから逆らわないでおこう」という意味に取る人が出てくる。逆に先生は税金で雇われているだけであり、自分たちの使用人だから威張られるのはたまらないと考える人も出てくるだろう。

「権限」を「威張ること」と考える日本人は多い。例えば日本レスリング協会は「自分たちは選手を選抜して指図する正当な権利がある」と考えており問題になっている。パワハラが認定されたあとでも間違いを認めない上に、スポーツ庁には平身低頭だが選手に対しては「威張って」しまう。これは権威を間違えてとらえている一例といえる。このように何かを遂行するために権限を与えてしまうと人格そのものが偉くなったと考える人が多い。「権威」とか「権限」の裏にある契約や権限移譲という概念がすっぽり抜け落ちてしまうからだろう。

そんなの嘘だと思う人がいるかもしれないので、英語の定義を書いておく。慣習的に認められた権威はあるが、最初に書いてあるのはendorse(裏付け)である。語源の「書く」という概念がそのまま受け継がれているように思える。

: to endorse, empower, justify, or permit by or as if by some recognized or proper authority (such as custom, evidence, personal right, or regulating power) a custom authorized by time

続いて責任という言葉についても考えてみよう。責には「咎める」という意味合いを持っているので、どうしても「何かあったときに責められる役割」というように思ってしまう。だから責任を取るというのは叱られることか辞めることを意味することが多い。これも英語の意味をみてみると、元々の意味は法的な説明を求められたときに反応ができるように準備をしておくという意味になる。だから反応する・対応するという言葉の派生語が使われているのである。

例えば日本語ではよく自己責任という言葉が使われる。これは何か悪いことがあったらそれはお前のせいだから俺たちは知らないというような意味合いで使われる。これは自己を責め立てるという言葉の響きのせいだろう。しかし英語で検索すると「生命は治療のために必要な力を全て持っている」という意味しか出てこない。ある界隈で使われている特殊な用語でしかない。そもそも他人に説明するという意味の言葉なのでそれが自己に向くことがないということなのではないかと思う。連帯責任という言葉もレスポンシビリティの訳語にはならない。これにはグループで連帯的な法的責任を負うという意味でライアビリティが当てられることはあるようである。英語と日本語ではこれほど違いがある。

語源を調べてみるとわかるのだが、これらはすべてラテン語を経てフランス語から英語に入った概念だ。それを日本人が取り入れる時に「法律で定めてはっきりさせておくこと」「記録を残して説明できるようにしておくこと」「役割を明確にして説明できるようにしておくこと」をすべて一括して「何かあったら咎め立てをすることだ」と理解してしまい「〜責任」という用語を当ててしまったことがわかる。つまり法的な契約の概念がなかった当時の日本には「咎め立てる」という概念しかなかったのだろう。現在はここから「では咎められなければ何をやっても良いのだな」という自己流の民主主義の理解が広がっている。

生徒が責任を持つべきだと英語でいうと、生徒が自分たちの意思でクラスの運営を決めてその結果にも責任を持つという意味になる。このためにどんな権限が必要なのかということが議論されることになるだろう。だが、これが日本語になると、何かあった時に生徒をグループで叱責するという意味に捉える人が出てきてしまうのである。

ついでなので他の「責任」についても見てみよう。

説明責任という言葉がある。accountabilityという。もともとは「数える」だが、これは借金などの記録をしておくことを意味していた。つまり貸し借りを数えた帳簿を作っておいていざという時に説明・証明できるようにしておくことを意味している。これがビジネス全般に広がり、何かあったときに説明できるようにビジネスの詳細を記録することをaccountabilityというようになった。これも「説明系」の言葉であり、説明に失敗したら叱られるという意味ではない。また、相手の疑念に答えずに言葉遊びでごまかすことも説明責任とは言わない。問題は相手の疑念であり、その背景には相手が権力を移譲しているという前提がある。現在の安倍政権が説明責任を果たさないのは民主主義が一時的・条件付きの権限移譲であるということを理解していないからだと考えられる。

こうした契約意識の希薄さは国会議員を交えた政治議論にも多く見られる。

国民は天賦人権ばかりを強調するが国を守る義務を負うから自衛隊に入って叩きなおすべきだという意見がある。権利と義務が非対称でありその間のつながりが一切説明されていない。これは権利と義務を個人的な「貸し借り」概念に置き換えて、これだけ貸してやっているのだから借りは兵役で返すべきだというように解釈した上で、都合よく「俺に従うようになるようにお前の根性を叩き直している」という主張に利用しているからだろう。

この権利義務関係は「税金を払って恩を売っているのだから、当然あるべきサービスを受け取れる権利を持っている」という貸し借りの概念に置き換えられている。途中のプロセスが抜け落ちてしまうので、過剰な権利意識と呼ばれるのだろう。

契約概念に置き換えて「権利・義務」を厳密に使うと、「日本国民は私有財産を持つ権利があるから同時に他人の財産を尊重する義務がある」のように裏表概念として用いるべきだということになる。父兄は子弟に教育を受けさせる権利があるのでそれが行使できるように適切な努力を払うか誰かに権限を移譲して環境を整えてもらうべきだということになる。また父兄は自分たちが持っているのと同じ権利を他の子弟の父兄にも認めるべきだからお互いに協力して他人の権利を遵守する義務を負うということになる。過剰な権利意識にはつながらないし当たり前のことであり「日本人には天賦人権などおかしい」という話にはなりようがない。つまり「天賦人権などおかしい」と言っている人はそもそも権利・義務という概念をよく理解していないのだろうということになるだろう。

学校の問題は「自分たちの権利を行使するためには他人の権利を守る義務もあるということなのですよ」というだけの単純な話なのだが、権利だけを主張するわがままな人が増えたからみんなに兵役の義務を課して自衛隊にぶち込んでしまえなどということをいう人がいては却って問題は複雑化する。本来は法律について理解すべき国会議員が却って議論を混ぜかえしているという残念な状態にあるのだ。

こうした問題が起こるのは、封建的な政治意識しか持たなかった日本人が契約概念を理解しないままで英語を適当に訳してしまったことに原因の一端があるようである。

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安倍政権を倒してもバラまかれた種は消えないだろうという話

暴力のない「平和」な学校:真の恐怖とは? を改めて読み直した。短い文章なので全部読んでもらったほうがよさそうなのだが、論旨は次の通り。

先生が怒っても最終的に体罰がないことがわかっているので真剣に捉えない子供がいる。 怒られるのも嫌なので隠すがバレても反省しない。これがエスカレートして行き、全てではないが性的な嫌がらせや犯罪といえるものに行き着くこともある。 彼らにひどいことをされた人は先生と社会に不信感を持つようになる。 良かれと思って抑止力をなくした結果、学校はもっと耐えがたい場所になった。

それに対する感想も読んだ。書いたのは先生だそうだ。懲戒がないのは懲戒の実行が面倒だからなのだそうだ。現在の学校システムは普通の子供が損をする仕組みになっていると指摘する。

今回はタイトルを「安倍政権が蒔いた種……」にした。しかし、実際にはこのような風潮があるから安倍政権が生まれたのか、安倍政権がこうだから学校現場が荒れたのかということはわからない。安倍政権が学校システムを悪くしたのは学校への支出を減らし(あるいは不足を黙認している)からなのだが、先生と生徒が書いたものをみると問題点をあえて言い出す人はいないようだ。明らかな嘘をついていても認めないのだから潜在的な問題点を認めるはずはない。従ってこの問題はさらに悪化するものと思われる。このため安倍政権が蒔いた種は今後政治の規範として残り続けるのではないかと思う。さらに無責任教育が蔓延する中で道徳教育にまで手を出してしまったのだから混乱はますます広がることになるだろう。すでに先生の思い込みを正解とみなしそれ以外の意見を排除する道徳教育が行われているという指摘もみられるようになった。

原因や対策をあれこれ考えた。原因はなんとなくわかったが、対策を日本語で書くのは難しそうである。

対策は先生に権限を与えて学校を立て直すか、生徒に自主性をもたせて自律的に問題を解決することなのだろうが、日本語にはこの類の「民主主義用語」が著しく欠けている。今回「権限」「説明」「責任」「義務」「法的責任」といった言葉が出てくるのだが、裏付けがあまりにも貧弱であり一つ一つ個別にみてゆくとかなり時間がかかりそうである。

日本が国際社会において「民主主義社会の一角」とみなされつづけるためには自主的なコミュニティの運用ができて当たり前の社会にならなければならない。

抑止力がないとコミュニティが健全に保たれないという概念を国際社会に当てはめると抑止力としての軍事力や核の脅しがなければ世界の平和は保てないということになる。日本は平和憲法を持っていると言っておきながら、実際には「押し付けられた平和を嫌々守っている国」ということになってしまえば国際社会からは「反省なき国家」だとみなされることになるだろう。70年も平和憲法を抱えていたのに反省していないのだから、日本は常に監視しておかければ何をしでかすかわからない国ということになってしまうだろう。中国や韓国が責任あるアジアの大国になれば日本は用済みである。

さて前置きが長くなった。まず取り掛かりとして「なぜ学校が生徒を懲戒しなくなったのか」を考える。今回引用した先生の感想文を読むと懲戒を実行するといろいろと面倒だからだそうだ。ではなぜ面倒なのか。

高度経済成長期の学校は「先生には従うべきだ」という意識で運営されていた。これは高度経済成長期の子供達の親が今よりも権威主義的な時代を生きてきた戦中世代だからである。なんとなく先生には従うべきだという規範意識が残っていたのだろう。当時の学校には理不尽で厳しい校則があった。例えば地元の福岡県には中学生になったら丸坊主にするという校則を持った中学校があった。

ところがこうした理不尽さは徐々になくなってゆく。それは民主主義意識が進展していったからだ。この民主主義というのは保守派に言わせれば「権利ばかり主張し義務を果たさない」悪い制度である。しかし実際には見返りばかりを主張するが責任を果たさないと言い換えた方が良い。そしてこの責任という言葉が日本では極めて曖昧に使われている。

しかし、学校を健全に保つためにはなんらかの権威は必要である。天賦の権威はなくなったのだから、誰かが契約をし直して権威付けをやり直す必要がある。だが、日本はこれをしてこなかった。

一つ目の選択肢は学校というコミュニティを運営する責任は学生にあるのだから学生に任せて規範的な運営を行うべきだというものである。これが民主主義型の解決策である。学生をエンパワーメントして権威を与えるということになる。

もう一つの選択肢は生徒にはまだ判断力がないのだから先生に権限を移譲するというやり方がある。つまり先生の権威を認める「契約」を交わせば良いということになるだろう。

ここで、責任とか権限という言葉が出てきた。権限は英語でいうとオーソリティで権威とも訳される。権威というと日本語では「王様の権威」というように天賦である印象が強い。ところが英語のオーソリティはオーサーが語源になっている。なぜ作者が権威になるのか、そして合意を得ることを「オーソライズする」というのか、日本語で生活していると答えられないのではないかと思う。実はこの概念は全てつながっている。そして、英語のオーソリティには天賦のという意味はない。だから王様の権威という言い方は実は間違っている。

先生の感想に戻ると「権限も委託されていないし、それどころかどんな権限があるのかすら明確ではない」人たちが集まってもソリューションを提示することができない。だから次第に面倒になり野放しになってしまう。さらに予算が少なくなった上に消費者化した保護者から過剰な要求を突きつけられると、先生は「面倒に関わっていては自分に課せられた課題が果たせず、悪い学校に飛ばされてしまう」という意識を持つようになる。つまり、先生には権限が与えられていないどころか過剰な要求ばかりが課せられており、これが見て見ぬ振りを生んでいると言える。

もう一つの問題は生徒に話し合わせて解決策を導き出すというやり方なのだが、これは時間と手間がかかる。この解決策の一番の問題点は自治を行う学生に自由度がないということがあるのではないだろうか。例えば「私はこのように荒れ果てた学級に参加するのが嫌なので授業の時だけ来ます」と決めたとしても、それが認められる可能性はない。実行するためには予算も必要になるだろう。つまり、生徒は管理責任だけを押し付けられて権限が与えられないということになる。これも実は生徒が責任を果たすために十分な権限がないということを意味している。英語だとエンパワーされていないので責任を果たさないということになる。これも実は権限移譲の問題なのである。

問題はこればかりではない。問題行動が起こす生徒がいると保護者たちはこれを「学校の破綻」と捉えるようだ。これまで数回で見てきたように日本人は「普通は問題のない円満な状態だ」と考える。先生が書いた方の文章には、先生に必要なサポートが与えられていないという一節がある。このサポートが何を示すのかは不明であり、ここに問題の一貫があるといえるだろう。さらに次のような一節があり、その深刻さは想像以上だ。

教員も保護者も「見たいものしか見ない」し「聞きたいものしか聞かない」ものなのでした。「学級経営はうまくいっていませんが、最大限努力します」と言おうものなら、保護者は「わが子のクラスがそんな状態になっているなんて」と卒倒しそうになり、逆上して烈火のごとく怒りをあらわにします。

つまり、普通の学校はうまくいっているはずなのに、自分の子供が通っている学級だけが問題を抱えているということで「損をしている」ように思えてしまうのかもしれない。そもそも、解決策がない上に問題そのものが認知されない。するとますます問題が温存される。すると普通の学生は「誰かが上から力で押さえつけない限り人々は自制的に行動しないはずである」と考えるようになるのだろう。

こうした人たちは次世代の有権者や消費者になるのだが、関わりを最小化して自分たちが得られる見返りばかりを主張するようになるはずである。また、監視や罰則がない政治家や官僚が嘘をついても「世の中はこんなものだろう」と思うようになるはずだ。

実際にTwitter上ではこうした議論が多く見られる。ということは、学校の見て見ぬ振りはもっと前から横行していたことになる。話し合うための共通の素地がないというのがいかに恐ろしいことなのかがわかるが、これについては次回以降考えたい。

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サヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけ

このところ様々な問題をネタに「村落と普通」について考察している。これを見ていて気がついたのは日本人は一般的な理論にはあまり関心を持たないということだ。日本人が気にするのは例えば「貴乃花問題で悪いのは貴乃花なのかそれとも日馬富士なのか」という問題だったり、TOKIOの山口達也が断罪されるべきなのかそれともジャニーズ事務所が責められるべきなのかという問題だ。

この文章はサヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけというタイトルなのだが、これはサヨクが人権を理解できないという意味ではない。人権が重要だと考える人たちさえも人権が理解できないだろうという意味である。人権はそれぞれの人たちが自分たちの価値観を持ったままで活躍ができる社会を作るための道具だ。しかし日本人は人権をそのようには考えない。だからある人たちは「そもそも人権などなくしてしまえ」というのである。

確かに、社会の特殊性や一般性について考えても自分たちの生活の役には立ちそうにない。その一方でジャニーズ事務所が悪いということがわかったところでそれも全く生活に影響はしない。にもかかわらずワイドショーは犯人探しに夢中になる。このブログもこのような話題のほうが閲覧者数が多い。わざわざ検索して訪問する人までいる。

その最も顕著な例が政治問題だ。政治問題は結局のところ安倍政権がいけないのかそれとも野党がいけないのかという問題に行き着く。一方で、日本は今後どう進むべきなのかとか、どうやればお互いが意思疎通できるのかという問題に興味を持つ人はほとんどいない。

人々が犯人探しに熱中するのはどうしてだろうか。それは自分たちの住んでいる社会を「きれいな状態」に保っておきたいからだろう。汚れはどこからともなくやってくるので、いつも掃き清めなければ「全体が汚れて」病気になってしまう。誰が悪いのかということを議論した上で、時には関係者を含めて全て追放してしまうことで清潔さを保とうとしているのだろう。さらにこれが娯楽にもなっている。誰もが叩きやすい人を叩くことで気分がスッとするのである。

この文章を書くにあたって思い浮かんだビジュアルは、全員がいつも道徳・倫理テストを他の誰かに課しているという映像だあ。人々は採点に夢中になっていると言ってもよいし、採点に疲れ果てていると言っても良い。採点している間は他のことが考えられないので、問題解決などもうどうでもよくなってしまうのだろう。

こうしたやり方にはいくつも弊害がある。

今回のTOKIOの謝罪会見ごっこではこれが顕著に表れており現在進行形で事態が進んでいる。そもそも問題の発端は山口達也さんの強制わいせつだったのだが、当事者たちが出てくることはもはやない。なぜならば当事者が出た時点で「社会を騒がせた」ことが問題になり叩かれるからである。山口さんには商品価値がある上にアルコール依存の問題もあるため守られるのだが、被害者女性には商品価値はなく守ってくれる人もいないだろう。実際に犯人特定を急ぐマスコミがいるようだ。ジャニーズ事務所はスポーツ紙を通して特定はするなと言っているが、するなと言われると「ああ、何か隠しているんだな」と思うのが人情というものだ。やがて過去の行状も含めて「汚れ」が面白おかしく暴き出されるのかもしれない。日本人はこれくらい暴いて裁くのが好きなのだ。

このことを考えて行くといろいろなことがわかる。日本人が道徳を守るのは誰かに裁かれたくないからである。つまり裁かれないという特権が与えられれば「道徳を守らなくてもよい」と考えるようになるだろう。前回「体罰がなくなったら学校が無法地帯になった」と指摘する高校生の文章をご紹介した。しかし、彼女だけが特殊なのではない。官邸がこの5年間何をやってきたのかを見ればそれが世間一般に広く浸透していることがわかる。官邸は「憲法違反に当事者がおらず誰も訴えないのであれば、憲法違反をしても良い」と理解するようになった。しばりつける縄がなければ逃げ出してもよいというのは家畜と同じである。学校が無法地帯になるのはより良い空間にして協力ができる体制を作ったほうがメリットがあると誰も思わないからだろう。伝統的に楽しい学園祭があったり、自主的に勉強して進学したい人が多い学校ではこうした問題は起こりにくいのではないか。

このように「自分は管理する側なのだ」と考えてしまうと、道徳を守る気持ちが薄れてしまうようである。それどころか自分たちは道徳を押し付ける側なのだから裁かれるのは我慢ならないと考える人もいるようである。自民党は裁かれて下野した時に「自分たちは法律を作る偉い人なのになぜ裁かれるのだろう」と考えて天賦人権という現行憲法の最も大切な理念を否定しようとした。最近レスリングでも同じようなことが起きている。伊調馨選手のパワハラが政府に認定されたので、日本レスリング協会がスポーツ庁に謝罪に訪れた。当然世間は「具体的な対応を伝えるのだな」と期待する。ところが日本レスリング協会はここで「これは誤解だった」と言ってしまった。心のどこかに裁かれることに対する拒絶心があったのではないだろうか。

「(伊調選手)本人は、パワハラを受けたという思いがあったかもしれませんが、伊調選手から私が聞いていなかったといいますか。私は伊調選手と会っていないので、会いたいなと思っております。2人で話せば誤解が解けるところもあるかなと思っております」(日本レスリング協会 福田富昭 会長)

このように戦後の日本人は道徳を誰かに価値を押し付けて管理を楽にするか、他人を娯楽的に罰するための道具だと考えるようになった。その一方で暮らしやすい社会を作るために自主的に道徳を守るべきだと考える人は少ない。

保守という人たちは、既存の道徳律に照らし合わせれば自分たちは他人に道徳を押し付ける特権を持っていると勘違いしている人の集まりなのだろう。これは実際の保守思想とは違っていると思うのだが、彼らにはどうでも良いのかもしれない。対峙するサヨクの側も採点に夢中になっており、一般的な人権意識というものを抜き出してそれを世間に定着させるべきだとは思っていないのではないかと思う。彼らが考える道徳規範は「他人を管理する」という視点か、罰して社会から取り除いてしまうという視点にしか立っていない。すると「罰則から逃れることができれば道徳は無視しても良いのだ」と思ってしまう。だから日本人は普遍的な人権が理解できないのだ。

最後の問題は彼らの採点表が普通という名前で語られていても、実は自分たちの特殊な常識の塊にすぎないということである。日本は薄暗い図書館のようなところで全員が下を向いて次から次へと流れくる回答用紙を採点しているような状態だ。すべての人が自分たちが持っている答えが普通だと考えているわけだが、それを話しあう余裕はない。だから、それが本当に普遍的な正解かどうかはわからない。時々自分たちもテストに呼ばれることがあるのだが、この時に初めて「自分が持っている答案が正解なのだろうか」と考えて立ちすくんでしまうのだろう。

これはとてつもない徒労のように思われるが、それでも顔をあげることはないので採点からは逃れられないのである。

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