集団的自衛権と解釈改憲

7月1日6時、安倍首相は集団的自衛権の行使容認をする閣議決定を受けてについて記者会見を行い、各テレビ局が中継した。

これを受けてある新聞は「積極的平和に貢献する」と安倍首相を後押しした。一方、別の新聞は「将来戦争に巻き込まれる」と主張している。視聴者アンケートによっては「よく分からない」が最多数のものもある。最終的には「なんだかもやもやした」印象が残った。

「よく分からない」のは当然といえる。もともと「改憲」するつもりだったが、改憲に必要な大多数の賛成は得られなかった。そこで解釈改憲することに決めたのだが、これも公明党の反対を考慮して表現をすこし和らげた。

そもそも、説明から注意深く取り除かれている単語もある。

「密接な関係を持つ国」とはアメリカ合衆国(東洋経済オンライン「集団的自衛権、黒幕の米国が考えていること – 日米安保体制はますます米国の思うまま」)のことだ。だが、安倍首相の説明では最後まで特定の国名がでることはなかった。テレビや新聞は安倍政権のことばかりを伝えるが、アメリカについてはあまり触れられない。そもそも表面上、アメリカが日本にプレッシャーをかけたという事実もない。これがもっとも議論を難しくしている要因だろう。

この「よく分からない」はどのような影響を与えるのだろうか。原発についての議論を見てみるとわかる。日本には原発についての根強い反発がありデモも起きているが、政権には届いていないようだ。

では、推進派が勝利したかといえばそうでもない。日本中で原子力発電所は停止している。補償の問題で立地近隣の自治体が反対しており、手続きが滞っているからだ。近隣自治体は政府発信の情報を信用せず、わずかなリスクも許されないと考えているらしい。そもそも政府は信頼されていない。

政権は「よく分からない」という印象を残してしまったが故に、原発を推進することができなくなってしまったと考える事ができる。情報を隠したのは民主党政権だが、実際に影響を受けるのは自民党である。

このように「よく分からない」という印象はリスクに対する懸念をうみ、政策の実現に害をなすだろう。

集団的自衛権も同じようなルートをたどるだろう。軍事行動に参加したり、実際に自衛隊員の死傷者が出た時点で、支持率が急降下することが考えられる。それは安倍内閣かどうかは分からない。支持率急降下のリスクを怖れた政権は行使に対して慎重になるのではないかと思われる。

その時に拠り所になる憲法はない。明文化された憲法は「解釈やその時の事情でなんとでもなる」単なる文学作品に過ぎないからだ。

塩村文夏都議と男社会

鈴木議員が「早く結婚しろ」というヤジを認めたことで、都議会のヤジ問題が収束した。随分ひどいヤジで、こうしたヤジは公共の場で許されるべきではないだろう。

一方で違和感もある。2020年にオリンピックを開く東京の議会が田舎議会のようで恥ずかしいというのが主な論調のようだが、本当にこうした終り方で良かったのだろうか。

外国プレスとのインタビューの席である記者が「こうした問題点をなくす為に自ら働きかけるつもりはないのか」とか「他議会とネットワークを組むつもりはないのか」と質問した。これに対して塩村議員は「党が対応するので自らは動かないし、東京都の問題に集中したいので他の議会と協調するつもりはない」と対応した。みんなの党が「再発防止に努める」という後ろ向きな改革案に賛成したことを踏まえると、かなり後ろ向きの対応を言わざるを得ない。

違和感の原因は塩村議員がセクハラの被害者にしか見えないということだ。実際には議員の一人であって、議会運営を変えうる人の一人なのだ。つまり彼女は「都議会議員」ではなく「女性議員」だという前提がある。「女子アナ」と同じ使い方だ。

都議会は想像以上に男社会らしい。東京都を含めた地方の議会はどこも前時代的だ。あまり全国ネットで取り上げられる事もないので、自浄作用が働かないのだろう。つまりは、長く議員を経験した人たちは「まあ議会とはこんなもんだろう」と思うようになる。つまり「女性議員」である塩村議員も徐々にこうした文化を受け入れることになるだろう。そして、何十年か先には「これくらいは当たり前なのだ」とか「私もこういう辛い経験をしたことがあるのだ」と後輩の女性議員を諭すことになるかもしれない。

つまり、今なんとかして意識を変えないと、いつのまにか女性が女性の敵になってしまうのである。

GHQの模索した「直接民主主義」と都知事選挙

かつて「自分たちで土地や労働力を出し合って暮らしをよくしよう」という政策があった。高度経済成長下でこうした政策は失われた。そして今、なぜか東京都知事選の隠れた争点になっている。

衛星放送のチャンネルでGHQが作成した啓蒙映画を見た。「腰の曲がる話」というタイトルだ。

女性蔑視が残る戦後の農村で、女性だけの寄り合いが持たれる。きっかけは子どもの病気だ。一家の主人は「子どもを医者にかけるとお金がかかるから祈祷師で充分だ」と主張する。しかし、一向に良くならず医者に見せる事にしたのだ。医者は医療環境を充実させるために、村に保健婦を置くのがよいと提案する。そこで村の女性たちは組合を作る。組合では保健婦の他にも「共同炊事場」や「着物の補修場」が提案される。

「面白いな」と思った。みんなで「協力して」必要なものを作る、いわば直接民主制的なやり方が「GHQのお薦め」だったのだ。政府に金がなく、農村の面倒を見る余裕がなかったのかもしれない。

こうしたやり方は次第に失われてしまった。今では直接民主主義(いわば住民自治)的なやり方は、教育委員会制度やPTAなど形骸化した形で残っているだけだ。自治会も理事のなり手がいないということで解散に追い込まれる例があるそうだ。唯一機能しているのは、都知事などの首長選挙である。だから、あまり東京と関係がない「国民の意思集約」が都知事選の争点になったりする。

農村では、人口が増加し都市近郊の農地が「住宅地」として売れるようになった。都市近郊には土地区画整理組合が作られる。そこで農地を売って住宅地に替えて価値を高める。このようにして、助け合いで農村を維持する必要がなくなる。住宅地提供がその土地の「主要産業」になった。

この流れで出てきたのが、田中角栄の「日本列島改造論」(1972年)などが有名だ。都市とその近郊が潤ったのだから、次は自分たちの番だというわけである。具体的には工場の誘致と高速道路網の整備などが掲げられており、原子力発電への転換についても書かれているそうだ。つまり、東京の小型版を地方に移植して、地域を活性化させようとしたのだ。

「日本列島改造論」は、高度経済成長下の都市では賄いきれないものを地方が肩代わりするという発想だ。この前提が崩れて久しいが、政策としては高度経済成長という大前提を崩すのが難しい。

安倍政権ではここから脱却する為に「公益」という考え方を取り入れて「国柄」を変えようとしている。これが憲法改正の論点の一つになっている。問題点は、では国が行うべき事業とはなにかという点なのだが、そこには答がない。

皮肉なことに、現在の東京都知事選挙の争点は、実は「日本列島改造論」に関連している。高度経済成長期のマインドセットを脱却するか、東京オリンピックの誘致を通じて高度経済成長を気分だけでも味わうかというような選択である。本来は地方が自分たちで考えた方がよい問題なのだが、なぜかまだ時間的に余裕がある東京で議論が進んでいるのである。

ミツバチと農業の多様性

 

2006年にアメリカ合衆国でハチが大量に失踪するという出来事があった。『ハチはなぜ大量死したのか』はそれを扱った本だ。結論から言うと、この本を読んでも、ハチが大量に失踪した理由は分からない。分かるのは「あまりにも複雑すぎてよく分からない」ということだけだ。原因は未だによく分からないらしい。

セイヨウミツバチはいろいろな作物の果実を実らせるために利用されている。だから、ミツバチの大量死は、農業そのものの崩壊につながりかねない。そして、農業の崩壊は局地的に起こるわけではない。ミツバチは世界各地を人の手で移動させられている。世界が緊密に連係しているせいで、ある地点で広がったウィルスは直ちに別の場所に広がる。

各地で使われている農薬も多岐に渡る。単体ではテスト可能だが、複合的にはどのような影響を与えているのか、実はよく分からないし、実験室レベルでは確かめる方法もない。

このように様々な理由が積み重なって、結果的にミツバチの群れが崩壊したのではないかというのが、最終的な結論だ。

この実例は「アイルランドのジャガイモ飢饉」に似ている。アイルランドでは、限られた場所に単一の品種のジャガイモを植えたために、ウィルスが劇的に広がったのだった。アイルランド人はジャガイモに極度に依存していた結果、人口は大幅に減少し、その後の回復には長い時間がかかった。

ミツバチの例はもっと複雑だ。原因は1つではないし、影響を受ける範囲も限定的ではない。地球上がアイルランドのようになっても、逃げる場所はどこにもない。

生態系というものは、注意深く積み上げられたパズルのようなものだ。そして多様な生態系ほど、変化やストレスに強い。システム内で回復力が働くからである。世界中が緊密につながると、その変化に系が対応できなくなる可能性がある。そこで起こるのが「系の崩壊」である。

つまり、世界を緊密に連携させることを決めたのであれば、その一方で多様性を守るために何ができるかを考える必要があるようだ。

日本の農業は、多様性にはあまり注意を払っているとは言えないのではないかと思う。スーパーマーケットも消費者も均一な大きさの人参やブロッコリを好むし、兼業農家はあまり手のかからない米ばかりを作りたがる。。時折提案めいたものが出てくるが、それは「工業」や「経営」の立場から出てくる生産性向上の提案ばかりだ。

とはいえ、以上の議論はあくまでも当事者ではない人の意見だ。やはり、単純に「多様性を守れ」と言うのも抽象的な議論に過ぎない。その意味では「美しい国を守れ」という議論とそんなに変わりはないのかもしれない。

すると、本当に問題なのは、当の農業従事者や流通の側から「今後日本の農業をどうしたいのか」といった声が全く聞こえてこないという点なのかもしれない。経験に即した発信ができる人がいないという点が、日本の農業の大きな問題なのかもしれない。

発達障害と職場のコミュニケーション問題

クローズアップ現代が「発達障害」を取り上げてた。クローズアップ現代によると、職場で発達障害の人たちが<問題>になっている。彼らはコミュニケーションが苦手なのだが、実は人口の10%を占めるという。つまり、発達障害のある人たちをどう<対処>するかということは、どの職場にとっても重要な課題だ。

この30分のプレゼンテーションを見て、とても違和感を感じた。とはいえ、なぜ違和感を感じたのかは分からなかった。結論から言うと、発達障害について関心があるから違和感を感じたのではないようだ。

最初に思ったのは、人口の10%もいる人たちを「障害」というのはどうなのだろうということだった。例えば、日本ではAB型の人は10%いるが、その人たちを「血液型に障害がある」とは言わない。次に感じたのは、こういう形質を持った人たちは昔からいたにも関わらず、なぜ今になって問題になるのだろうかという点だった。さらに、発達障害を持った母親というのも人口の10%を占めるはずだ。彼女たちは、育児で子どものちょっとした表情の変化が読み取れないはずだが、それは<問題>だとは言われない。それはどうしてなのだろうか。

このプレゼンテーションは90%の人たちに向けて作られている。途中で「表情と言葉が一致しない」場合に意味が読み取れないのが発達障害の特徴だという例が出てくる。この例示は発達障害の人には分かりにくい。つまり「番組を見ているのは90%だけ」だという前提で作られていることになる。いいかえれば10%の人は最初から視聴者としては排除されていることになる。もし10%の人にも分かりやすい作り方をするならば、これは「不快感を表す表情ではない」ことを強調して説明する必要がある。

ユニバーサルデザインをやっている人ならよく分かる理屈だと思う。二型色覚を説明するのに「色盲の人はこう見えています」と例示するのは、視聴者が正常色覚しかいないという前提に立っていることになるので、デザイナは、この課題を扱う時に表現や見せ方を工夫するだろう。

だから、作り手であるNHKには「コミュニケーションが苦手」な人がいなかったのだろうかという気にもなる。一度、そうした人たちにプレビューすれば問題が明らかになるはずからだ。つまり、番組を作るにあたって90%が作り、視聴者も90%を対象にしているということだ。

どうやら、このあたりに「違和感」の遠因があるようだ。ここから展開できるのは、隠れた問題意識だ。

本当は「コミュニケーションが苦手な人がいるために、効率よい職場環境が作れない」から「これは困った」という<問題>がある。本来なら、そうした人たちにもコミュニケーション技術を習得して貰いたい。それでも無理なら居なくなってほしい。しかし、人権の問題もあってそうはいえない。だから「どう対処すればいいのか」という点に問題を置き換えている。それゆえに一貫して「障害だ」という主張が繰り広げられているわけである。

しかし、この事自体が直ちに問題だという主張がしたいわけではない。

<問題>を進めるに当たって、以前にも増して効率化を進めなければ、これからの職場は立ち行かなくなってしまうであろうという前提がある。コミュニケーションにある特性がある人たちを構っている余裕はない。90%が期待しているとされるのは曖昧に指示を与えてても「適当に解釈して」くれるコミュニケーションだったり、空気を読んで自発的に残業してくれる気配りだったりする。

職場にはいろいろな不調がある。それがどのような背景で生まれたものなのかはわからないが、とにかくそうした不調を「コミュニケーションの問題」として乗り切ろうとしているらしい。そこでますます生産性を上げて、では果たして何を実現しようとしているのかという点には全く触れられないし、そうした分析もない。にも関わらず「これからの職場はますますコミュニケーションが重要になるだろう」という前提が語られてしまうのである。

例えば上司が「どうしていいか全く分からない問題」を「適当にやっといて」と部下に丸投げすることがある。「空気が読める」部下は、なんとなく愚痴の一つでもこぼしつつ適当に処理をするだろう。「ああは言ってるけど、きっと、たいした仕事じゃないんだろうなあ」などと思うわけだ。中にそれが分からない人がいる。この時、上司の側にも部下の側にも問題があるだろう。もし「何のためにやっているのか分からず、適当に指示するほかない」仕事があふれているとしたら、これは経営者の責任である。それを「障害」や「脳の特性」にすることで解決してしまうのはちょっと乱暴だ。

<問題>を見つめるということは、何かを見ないようにするためである可能性がある。浮上している問題を見つめるのは簡単だが、その影に隠れている当たり前の中にある問題を探り出すのは難しい。もっとも、そこまで考えてしまうととても30分で分かりやすくまとめることなどできないだろう。

いずれにせよ、公平であるということは、実はなかなか難しいらしい。

アフガンに小麦を実らせる

テレビで、アフガニスタンで小麦農家を支援する日本人を紹介していた。

内戦が始まる前、アフガニスタンは小麦が豊かに実る土地だった。しかし、内戦で小麦農業は完全に破壊されてしまった。アメリカは復興支援として小麦を送ったのだが、この小麦は乾燥したアフガニスタンの気候には馴染まず、収穫は従来の2割程度にしかならない。日本の研究機関は、50年前のアーカイブからアフガニスタンで小麦を見つけ出して故郷に送りかえした。8か月かけて小麦を育てて、確かに収穫があったことも確認できた。これを出発点にして、品種改良をして行こうという計画である。

アフガニスタン復興にとって小麦農家の支援はとても重要な意味がある。現在は輸入に頼っている小麦を国内で栽培できれば、貧しい人にも行き渡るだろう。次に小麦が栽培できなければ農家は麻薬の材料になるケシなどを育てざるをえなくなる。さらに、援助依存に陥っているアフガニスタン経済を復活させるためにも産業を根付かせることはとても重要だ。経済活動が滞れば不満分子があらわれて治安を悪化させる可能性が高い。

内戦の結果、国内に張り巡らせていた灌漑施設も大きな被害を受けた。こちらの復興も急がれる。日本は農業支援に関して豊富なノウハウがあり、こちらの支援も期待されている。

さて、このニュースを見て気になったことがあった。なぜ、アメリカはアフガニスタンの気候に向かない小麦を送り、その後平気だったのかという点だ。アメリカはアフガニスタンから撤退できずにいて、そのために多額の出費を強いられている。つまり、アフガニスタンに農業を定着させて「トクする」のはアメリカの側なのだ。

ニュースではその点についての言及はない。

援助は援助にしかすぎず、それがどう活かされているのかということはあまり気にならないのかもしれない。その意味で「アメリカ人はおおざっぱだから」支援がうまく行かないといえる。アメリカの小麦農家も自分たちの小麦の「販路」さえできればそれで満足なのだろう。さらに「自分たちの国のものは無条件に世界最高なのだ」と考える人もいるかもしれない。つまりアメリカで実っている小麦がアフガニスタンで栽培できないのは「アフガニスタン人がうまくやっていない」からなのだ。

一方で、日本がこうした支援に熱心になるのは、それが「国策」だからではない。アフガニスタンの高齢の人たちは、幼い頃に農作業の手伝いをしたことを覚えているらしい。これを長年の内乱ですっかり荒れ果ててしまった田園風景に重ね合わせれば、彼らの心情がよくわかる。水田もしばらく耕作しないで置くと荒廃する。つまりアフガニスタンと日本は「灌漑農業」体験を共有しているのである。

そもそも、日本人がアフガニスタンの小麦のアーカイブをしていた点にも、農業に対する執念のようなものを感じる。50年前 – まだ日本がそれほど豊かではなく、海外旅行もそれほど一般的でなかっただろう時代だ -に小麦の由来地調査のためにアフガニスタン以外の国からも多数の小麦を集めている。日本が「米作を国の基」と考えているように、アフガニスタンにとって小麦は重要な産業だ。国旗にも小麦があしらわれているくらいなのだ。

キリスト教文化圏とイスラムはお互いに対抗意識があり、両国に深刻な対立を引き起こす。しかし日本はキリスト教国ではないのでこうした対立もない。さらに「日本の農業のやり方が優れているから」といっておしつけたりもしていない。あくまでも「一緒に作って行きましょう」という姿勢で臨んでいるようだ。これはアフガニスタンと日本がそこそこ離れているから成り立つ関係性なのではないかと考えられる。

「アメリカより日本の援助の方が優れている」ということを意味しないが、その国が持っている「文化」はとても重要な意味を持っているようだ。

日本は、国際社会の要請に対してアフガニスタン支援をしてきたのだが、実際にはアフガニスタンに駐留している国際部隊の支援をしていると言ってよい。そしてその方法は西洋人の文化や考え方に基づいた軍事的な支援だった。西洋諸国は被支援国が独自のやり方で安定するかという点にはあまり興味はなさそうだ。自分たちと同じような民主主義国ができて、同じような資本主義経済圏が根付けば、それでおおむね満足なのだ。そして「うまくやりさえすれば」こうした社会が定着するのだと無条件に考えている。

このように「援助する側」に非西洋圏の国が入っているということには大きな意味がある。それがあまりにも自然なので、改めて考えるまでその重要性に気がつくのが難しいくらいなのだ。

TPPについて考える

2011.11.03: かなり反響があったので、すこしだけ書き直しました。
試しに、Googleで「TPP Obama」と入力してみると良くわかる。20ページ目まで見たが、英語のエントリーは1つもなかった。多分、米国ではあまり話題になっていないのではないだろうか。(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreementで検索するとニュージーランドとオーストラリアのページがいくつか検索できた)ということで、この話「アメリカとの貿易協定」と考えるなら、結論は簡単だ。「やめた方がいい」
議論を聞いていると、識者たちのアタマの中がわかっておもしろい。重要なのはほとんどの人が相手の言い分を全く聞いていないということだ。例えば、前提になる自由貿易のメリットすら理解されていないようだ。
「関税をかけずに貿易したほうがいい」という考え方の基礎にあるのは「得意なものは得意な人が作ろう」という前提だ。これを比較優位と呼ぶ。比較優位が依然有効かについては議論がある。資本流動が簡単に国境を越えるのに、人材はそれほど国際流動せず、財政は国ごとにバランスさせなければならない。だから、こうした比較優位が未だに成り立つかどうかという議論もある。しかし、たいていの議論は、単純な比較優位の原理さえ理解していないようだ。
例えば、米にかかる700%の関税の対価を支払っているのは日本人だ。つまり、日本人は高い米を買わされている。米の市場が解放されれば、確かに日本人にとっては「いい事」なのだ。このように自由貿易理論は経済学を学ぶ上で常識のように扱われている。故に経済を学んだ人は、域内の貿易を自由にすれば産業が活性化するだろうという前提を自明のことと考えて、TPPについて議論する。
しかし、これは枠組みの問題だ。域外に対しては排他協定になり得る。よく言われるのが中国やEUとの関係だ。フレームを「日本」にすると自由貿易になるのだが、もう少し引いてみると「保護主義」に映る。この事を指摘している人は少なからずいる。フレームを変化させると、推進者たちの議論がすべてオセロゲームのようにひっくり返る。なぜならTPPは域外に対して保護主義的だからだ。
しかし、それよりもおもしろいのは、議論を通じて、日本人のアメリカに対する屈折した思いが透けて見える点だ。まず第一に、アメリカはもう時代遅れの国だとみなされているらしい。アメリカは、イラクやアフガニスタンの経営に失敗し、イスラエルを暴走させ(国際社会はアメリカのイスラエルに対する態度を承認しているとはいえないようだ。最近、パレスティナがユネスコに加盟した。一歩間違えば国際的に孤立するのは実はアメリカの方かもしれない)、北アフリカでこっそり支援していた国々では革命が起こった。アメリカ国内では失業率が上昇、足元ではデモまで起こっている。「TPPのおかげで、日本がアメリカ市場に参入できる」と読み取る事も可能なのだが、誰もアメリカ市場には期待していないらしい。
それよりも深刻なのは、アメリカは不平等条約を押し付ける国と見なされていることだろう。アメリカが誘ってくる「deal(取引)」には必ずやアメリカが一方的に優位になる条件が盛り込まれていると信じられているようだ。韓国と結んだ協定が「不平等だ」と話題になっている。韓国国会では野党が大反対して国会が荒れているのだが、日本では大きく報道されなかった。TPPとは関係ないが、Amazonが出版者に送りつけたとされる契約書が話題になっている。東洋圏は「体面」と「関係性」を大切にする文化圏だ。だから、こうしたやり方は、少なくともアジア圏では嫌われる。このように、アメリカは中東圏だけではなくアジアとも文化摩擦を起こしている。
この協定をアメリカ側の立場から見ると次のようになる。最近失敗続きのアメリカの行政府が、起死回生を狙って既存の自由貿易協定に目をつけた。しかし空気を読まない(ある意味それだけ必死といえるのだが)強引な手法と、これまでの強気の姿勢が祟って、日本側から警戒されているということだ。これほど不信感が高まっている相手との協約を、国論を二分してまで議論する必要はないのではないか。
さて、このTPPを推進している新浪さんという人がおもしろいことを言っていた。曰く「普段、お客様と接している立場から、日本人は高くてもおいしい日本の米を買い続けるだろう」とのことだ。たしかに、日本の消費者の中にはこういう人たちもいるだろう。緊急輸入したタイ米が大量に余ったのは記憶に新しい。しかし、例えば牛丼のように味付けを濃くしてご飯を大量に食べるというタイプの商品はどうだろうか。独身のサラリーマンのように、コメの品質や産地にはあまりこだわらないという人はたくさんいる。新浪さんは、一般のサラリーマンのように、290円弁当を食べたり、牛丼屋さんには行かないのかもしれない。
この方、商社経由でサービス産業の社長になった方なのだが、多分市場開放の打撃が最も大きいのは、農業ではなくサービス産業だろう。生産効率があまりよくないのだ。
さて、ここまで書いて来ておもしろいニュースを読んだ。そもそもアメリカが言い出したことではなく、菅直人さんが「僕もTPPに参加したい」と言ったのだという毎日新聞のニュースだ。「対米従属」いう疑念の裏側には、戦後長い間、失敗した政策、性急な改革などを、すべて「アメリカの圧力だ」と説明してきた政府の態度もあるのかもしれない。推進論者が自明の事として、市場開放=善としているのと同じように、アメリカのイニシアティブ=悪と考えた人も多かったのではないだろうか。
菅直人さんがどうして参加したいと思ったのかはまったくわからない。情報の空白は「アメリカに利益供与することで…」という憶測で埋められるようだ。なぜ、アメリカに利益供与しないと日本の首相になれないのか、合理的な説明が求められる。
さて、これを当事国の立場から見てみよう。もはや本当のところが何なのかさっぱりわからないのだが、オーストラリアなど「本当に参加したかった」国は、落ち目のアメリカに議論をかき回された上に、ただでさえ議論が鈍いので有名な日本が参加するかしないかで結論を先延ばしにさせられていることになる。一方、オーストラリアがアメリカと結んで日本市場を狙っているという憶測もある。
秘密協議なので、こうした国々の不満は表面化しないわけだが、これ以上外国に嫌われないうちに、こうしたドタバタはやめた方がいい。「人様に迷惑をかけない」のも東洋的な美徳だ。

リーダーとは何か

集団は権限の一部をリーダーに委譲することで自分たちを外敵から守り、協力関係を築くことができた。しかし政治的リーダーだけをみてもその種類は一つというわけではない。外に打って出るための組織に必要な父性的リーダー、内部調整のための母性的リーダーが存在するのであった。また、破綻しかけの組織にはコドモ型リーダーが出現するかもしれない。例えば自民党末期の麻生太郎さんはコドモ型リーダーだろう。このようにリーダーの性質を見ると、その組織がどんな状態にあるのかをも見る事ができるかもしれない。リーダーには国際的なバリエーションもあるようだ。アメリカのような個人主義・平等な社会のリーダーと、中国のように集団主義・権力格差が大きい国のリーダーでは期待される役割が異なるはずだ。
さて、ここまで考察してきたところで、教科書的なリーダー像について勉強してみよう。ハーバード流リーダーシップ「入門」を使った。リーダーシップに必要なものは2つ。ビジョンとコミットメントだ。リソースを適切に管理して、プロセスを円滑に進める人たちをマネージャーと呼ぶ。ただプロセスがうまくいっているかを見るのが監督者である。このように指導者だからといってリーダーというわけではない。ある目的を設定して、そこに導くのがリーダーというわけだ。一方、コミットメントとは「本気で取り組む」こと。コミットメントを示すためには、言動が常に一致していて、熱意があり、言動と行動が一致している必要がある。
さて、ビジョンが明確で、理にかなっているものであれば自動的に採用されてもよさそうである。しかし、実際には、人はビジョンだけでは動かない。どうにかして、このビジョンが本物で信頼に足るものだということを納得して貰わなければならないのだ。コミットメントが重要なのはそれが人を動かすからだ。
リーダーの性質は生まれついてのものと考えられがちである。これをカリスマ性と呼ぶ。しかし実際にはカリスマ性がなくてもリーダーになる人たちがいる。リーダーはいくつかの資質を使って人々に影響を与える。

  • カリスマ
  • 専門知識
  • 地位や立場(地位が先にあってリーダーシップを発揮することがあると筆者は指摘する。逆に地位があってもリーダーでない人たちがいるということになる。もう一度、マネージャー、監督者、リーダーの違いについて考えてみよう)
  • 成功実績(過去うまくいったから、未来もうまく行くだろう)
  • コミットメント
  • 共通の価値観(人は、共通の価値観を持っている人をリーダーに担ぐ傾向がある)
  • 共感(話を聞いてくれる人はリーダーとして受け入れられやすい。聞き出すために、アクティブリスニングという手法が用いられることがある)

リーダーとは何か

この本は、MBAの学生向けにリーダーについて書いている。本の最初の部分はこのようにリーダーについて定義しているのだが、後半はキャリアマネジメントについて書かれている。MBAを取りたいと思う学生はリーダーの地位を熱望してマネージャーのキャリアをスタートさせるわけだ。この点が日本と異なる点ではないかと思われる。日本人の場合、給料が上がるから管理職になりたいと思う人は多いだろうが、必ずしも責任を伴うリーダーのポジション(そう、リーダーには権限だけではなく、責任も伴うのだ)を熱望する人は多くないのではないかと思われる。
また、リーダーの役割が比較的狭義に解釈される。それは集団を今いるところから他の場所に移すのがリーダーだという考え方である。常に変化していない集団はそのまま衰退に向かうだろうということである。これが現状維持を求める日本の集団との大きな違いだ。集団が変化に対する消波ブロックのような役割を果たすと、リーダーに求められる資質は異なってくるように思える。
アメリカに比べると日本は集団性が高い。個人の資質ではなく集団の総意が重要な社会だ。集団内に権力格差が大きければ「偉い人の言う事を聞く」という文化が生まれる可能性があるのだろうが、日本人は中国人程は権力格差を持っていない。故に結果的に突出したリーダーが出る事を嫌い、コンセンサスを重要視する文化が生じるのではないかと思われる。
強いリーダーを求めない集団では(これは日本だけではなく)、ビジョンを元に強力なリーダーシップを発揮しようとする人がいると引き摺り下ろしが始まる。引き摺り下ろされないようにするには、相手のいうことを聞いた共感型・調整型のリーダーになるか、畏怖心を抱かせる(あの人に逆らうと怖い)になる必要があるように、いっけん思える。

リーダーシップとは取引ではない

しかしリーダーシップについての議論をもう一度見ておこう。リーダーシップはビジョンを通して人々に影響を与えるということだった。これは取引とは異なる。取引は「〜してあげる代わりに」「〜してくださいね」といって支持を取り付ける事だ。一方リーダーシップは「一緒に〜に行くといいことがある」と納得させることなのだ。リーダーシップは取引することなしに、相手を動機付け(モチベーション)、規範を示すということが言えるだろう。
集団が老化現象を起こすと、変革の意欲がなくなってしまう。ここでR/C(レベニューとコスト)に対するモニタリングが利いている組織であれば、やがて失敗の少ない事業しか行えなくなり、やがてはコスト削減しか取り得なくなる。顧客に影響を与えることなしにRを変化させることはできないが、従業員は自分たちの支配下にあるからだ。すると変革に対するリーダーシップを取り得る人材は外に流出する。すると自己変革ができなくなる。これが死のスパイラルを形成する。
自民党では別の事が起こった。自民党にはR/Cモニタリングは働いていない。組織がうまく動いていた頃には、複数の候補者が血みどろの勢力争いを行いリーダーを決めていた。小泉純一郎のように「変革します」というような人たちもいた。しかし組織が老化するに従って「みんなで仲良く決めよう」というようなことになり、自分たちの権益を侵害しなさそうな穏やかな人たちをリーダーとして頂くようになる。すると自己変革ができなくなる。自民党には顧客はいないのだが、有権者がそれに当たる。自己変革して「ビジョン」を示さないと、変化した有権者の欲求には応えられない。そして「みんなでやろうぜ」から「みんなで逃げよう」に移行して、最終的な分裂がはじまった。組織には「形式を維持しよう」という機能と「自分たちを変えて行こう」という機能があるのだろう。これが微妙な均衡が働かなくなったときに組織の死が訪れるのかもしれない。
民主党はまた別の経過を辿っているように思える。「ビジョン」に当たるものはマニフェストだったのだが、2009年のマニフェストを見ると「どのように利益を分配するか」という取引のリストになっていることが分かる。農村にいくら、コドモを持っている母親にいくら、沖縄にいくら、高速道路を使う人たちにいくらといった具合だ。自民党は成長期の政党だったので、アメリカ型ではないにしても「ビジョン」を作る機能を持っていたのだが、民主党は低成長ないしは縮小期の政党でありビジョンを作る機能がビルトインされていなかったのだろう。結果的に取引に長けた党のリーダーと、理想は語るけれどメンバーの権限を制限しない「お飾り型」のリーダーが管理する体制に落ち着いた。
「民主党にはもともとリーダーシップはなかった」と言えるかもしれないし、「国民はリーダーシップなど求めていなかった」と取る事もできる。もう変化はいいよというわけである。国全体が小泉純一郎さんの作ったビジョンにうんざりしている。フォロワーたちは分かりやすいビジョンに飛びついたが、結果的には搾取されるだけだったからだ。同じ事が企業にも言える。1990年代の終わり頃、低成長期に入ったころ「変革しなければ、淘汰されてしまう」というようなビジネス書が氾濫した。結局これでトクをしたのはコンサルタントの人たちと一部のIT産業だけだった。そのあと起こったのはコストカットの嵐だったわけだ。今20年程たって、あのときにミドル・マネージャだった人たちが、企業のトップに立っているのだが、彼らが変革に対して懐疑的なのはむしろ当たり前といってもよい。
さて一体何が悪かったのか。多分「変革」をどう行うべきかという議論が欠けていたからだと思われる。ビジョンは変革するために作られる。故に変革に失敗したビジョンは組織のトラウマを残すのである。次回は変革管理について見て行きたい。

リーダーシップの国際比較


リーダーシップについて、教科書的なことを調べる前に、日本の立ち位置を見ておきたい。例によってホフステードの指標を使う
ハーバード流リーダーシップ「入門」によると、リーダーシップには似たような概念がもう2つある。マネージメントと監督だそうだ。マネージメントは、目的を設定してそこに行き着くための算段を整えることなのだそうだ。これについては後日まとめる。

日本はリーダーシップ後進国?

送信者 Keynotes

まず、このグラフを見ていただきたい。日本は集団指向が強く(IDVが低い)、集団の力関係が平等ではない(PDIが高い)。故に、不平等な上下関係に基づいた関係が温存されやすく、個人が先頭に立つ形でのリーダーシップが形成されにくい。つまり日本はリーダーシップ後進国なのである。だいたい日本人は…。

落ち着いて全体像を見る

まあ、というのが、大方の見方かもしれない。これは日本人が国際比較を行うときに欧米と比較をするからである。立ち位置を見るためには全体を見なければならない。

送信者 Keynotes

クラスターの数は便宜的に5つに分けた。どうやらIDVとPDIには相関関係が認められるようだ。この線に沿って「赤」「緑」「オレンジ」がある。そこから離れたところにオーストリア、イスラエル、デンマークがある。他のヨーロッパに比べると集団生活に慣れた個人主義者といったようなポジションだ。また対局には集団性が強く、権力格差が著しく高いフィリピンのような国がある。
東南、東アジアの他の国々から見ると、日本はより個人主義的で平等性の高い国ということになる。

「グループ」の見方

これだけでは何のことか良くわからないので、指標を個別で見ておく。個人主義的な指向が高い国の人たちをマネージメントするのに必要なことは何だろうか。ここでは3つを挙げておきたい。一つ目に必要なことは個人の役割を明確に設定しておくことである。これをジョブ・ディスクリプションと呼ぶ。もう一つはその仕事をすると個人にどういういいことがあるかということをはっきりさせることだろう。つまりモチベーションの持たせ方が異なるわけだ。集団指向の強い国では、集団にどのようないいことがあるかを明確にすれば、人々は自ずから従ってくれる。しかし個人主義の国ではそうはいかない。最後はこの2つの裏返しだ。つまりマネージャーになっている人たちが個人としてどう思っているかを常に明確にしておくことだ。「私はこう思う」「私はこうしたい」というのが「私たちはこうあるべきだ」よりも大切だということになる。
だいたいこの3つを明確にしておけば、ヨーロッパやアメリカではうまくやって行けるように思えるし、アメリカ人の部下を持ったときにも安心だろう。逆に集団指向の強い国では日本のような「私たちはこうあるべき」というやり方でマネージメントができる。より濃密な人間関係が求められるかもしれない。国によって文化依存があるはずなので、その表現の仕方は異なるだろうし、日本人がアメリカで感じるように、心を開くまで時間がかかるかもしれない。アジア系の人たちと対応する場合にはこの原則を心に止めておくとよいよいに思える。

「Power Distance」の見方

PDIは直感的に見るのが難しい。平たく言うと、俺はあなたよりエライといったような上下関係がより強固な社会ということになる。アメリカでは人は生まれながらに平等だと思うのだが、PDIの高い社会ではそうではないのである。インドのPDIは77だし、中国も80だ。ここに入った日本人は「より偉そう」に行動する事が求められるかもしれない。周囲がそうあるように期待するわけだ。
このインデックスの難しいところは、例えばイタリアと日本を比べるとあまり差異がなく、中国とインドを比べるとあまり差異がないところだろう。にも関わらずイタリアは赤群でインドは緑群である。イタリア人は日本人と同じ程度に上下関係にうるさいということになる。しかしクラスターを作るにあたって個人主義も指標に入れているので別のグループに分類されているわけだ。

リーダー、マネージメント、監督

オレンジ群や黒群の人たちは、「目を離す」と権力的な行動に出るのではないかと思える。例えば集団の財産を自分のもののように扱ってしまったり、目下の人たちに尊大な態度を取ったりするかもしれない。これは権力者だけの特質ではないだろう。社会全般に、自律性・自発性が期待しにくい。かといって「自律的に行動してください」と求めることもできない。もともと社会とはそのようなものだと思っている可能性があるからだ。こうした社会では「監視・監督」が重要な役割を果たす。一方、アメリカで監視・監督というと「独裁者が出ないようにリーダーを監視する」というように使われることが多い。
また、自律性が低い人たちと一緒に働くためには、一つひとつのインストラクションを明確にする必要がある。必要なリソースを使う許可を与えて、プロセスごとに明確に支持をするわけだ。このリソースとプロセスの管理はマネージメントを特徴付ける機能なのだが、同じことをアメリカ人に行なうと「マイクロマネージメント」と拒絶反応が起こるのは目に見えている。アメリカ人をマネージするためには、大まかなゴールと報告点について指示を与え、プロセスは管理しないことだ。難し目のコトバを使うと「ゴールとマイルストーンと設定して…」ということになる。
ここで、今まで話題にして来た「リーダー」の役割が、リーダー、マネージャー、監督者に分かれることが分かって来た。ここでは出てこなかったが、利害がコンフリクトした時の「調停者」という役割を加えると、だいたい指導的立場にある人たちが何をやらなければならないかということが見えてくるように思える。

国際比較の大切さ

これから見て行くリーダーシップ理論はアメリカで作られたものだ。故に、リーダーシップそのものの定義がアメリカ的だ。アメリカ的とは「グループ全体の目標を設定して、それに向かって平等な個人を動機づける」というリーダー像だ。この目的をビジョンと呼ぶ。しかし、これが日本に当てはまるかどうかは分からないし、中国や韓国のようなアジア各国で使えるかどうかは分からない。
アメリカから見た日本の特徴は「コンセンサスを大切にするので、集団の意思決定に時間がかかる」ということなのだそうだ。これをマトリックスから理解すると、日本は個人主義ではないので個人のビジョンやモチベーションに頼った意思決定が出来ず、かといって中国のように権力者が支持した通りにも動かないというように理解ができる。この平原のちょうど真ん中にあり、意思決定を迅速に働かせることができないわけだ。逆にそれがレギュレータとして働いているともいえる。じっくりと考えた末に集団に都合のよい意思決定だけを取捨選択するということである。これがうまく働くかどうかは、外的環境にかかってくる。リーダーシップが求められるのは、外的環境が劇的に変化し続けるからだそうだ。外的環境が劇的に変化するのは、情報とお金の2つが流動性を増してきているからで、これを「グローバル化が進んでいる」と表現したりする。
指導者の役割は一様ではない。変化に対応するためには、中国のように強い権力者が指示をするやり方か、アメリカのようにコミュニケーションを通して他人に影響力を与えるやり方に自らをシフトしなければいけない。

運用注意

最後に蛇足として運用の注意事項を。ここではアメリカとか中国というような言い方をかなり不用意に使っている。僕が知っている例では「アメリカで勉強したタイ人のデザイナー」とか「日本での生活歴が長いアメリカ人のマネージャー」といった人たちがいる。この人たちは、日本では日本人のように振る舞うのがよいということを知っているので、集団的なコンセンサスを大切にしたりする。タイ人なのだが、個人主義的な価値観も理解する。このように人間は複数の価値観を理解して振る舞うことができる。また外資系に慣れた個人主義的な日本人と、日本企業で定年まで勤め上げた日本人は同じ価値観を持っているとは言えない。
また、このことが差別的な感情を生んだりもする。どちらが優れているとか劣っているというように受け止められてしまうわけだ。これを乗り越えて行くのはとても難しい。アメリカに対して過剰な劣等感を持っていたり、アジアに根拠のない優越感を持っている人もいるかもしれない。