2号さん更迭

ツイッターNHK PRで「中の人」として活躍していた2号さんが担当を外れることになった。本人から説明はなかったものの、あるツイートが問題になったものと思われる。

当初、NHKは衆議院での安保法制の委員会採決(7月15日)と本会議採決(7月16日)を報じる予定はなかった。これが「強行採決」という印象を国民に与えないためにNHKが配慮しているのだとして批判を浴びる。ツイッター上では「コールセンターに電話しよう」という運動が起き、NHK PRのアカウントにも抗議が殺到した。

そこでNHK PRは「国会中継がないことについて抗議が来ている旨を担当に伝える」というツイートを出した。

結局、NHKは採決の場面だけは報じた。世論がNHKを動かしたのか、最初から予定があったのかは分からない。一方で、NHK PRの「伝えます」ツイートは削除され、ツイートした2号さんはツイッターの担当を外れることになったのだ。

背景にNHKの配慮があるのは間違いないだろうが、政府の「国民にはなるべく知らせないでおきたい」という思惑も感じる。

このNHKの姿勢は「中の人」たちを萎縮させるだろう。自分たちの持ち場で職業的道義心を発揮すると持ち場を外されてしまう可能性があるということになるからだ。職員たちはただ機械のように行動すればよいという暗黙の圧力である。

職業的道義心は大切だ。組織も社会も間違った危険な方向に進むことがある。リーダーが意図して間違った方向に進める場合もあるだろうし、誰も指導する人がいないのに危険な水域に進むこともあるだろう。このとき歯止めになるのは、現場メンバーの良心だけだ。

一方で、政府はNHKの萎縮が自分たちの首を締めていることも自覚すべきだろう。

賛成派の言い分に従うと集団的自衛権の放棄は、憲法上の制約ではなく、時の政権の「政策的判断」だ。そのことは、歴史を検証すれば分かるはずである。

確かに、ベトナム戦争時に沖縄の米軍基地を使用させたことも「後方支援」だと解釈できる。日米安保を維持しながら集団的自衛権の行使を容認しようと言わないのはねじれた対応であり、政府がどうしてねじれた対応をすることになったのかを検証する価値は充分にあるだろう。

しかしNHKは「政府を刺激したくない」と萎縮しており、こうした取り組みを一切してこなかった。その為に、賛成派は安倍政権や外務省の主張も一切知らされていない。だから賛成派のコメントは「自国防衛を強化するためには議論は要らない」の一点張りで、説得力のある議論が展開できなくなってしまった。

議論が噛み合ないせいで、国民の間には集団的自衛権や安保法制はなんとなくうさんくさいものだという印象だけが残った。このため、正義の使者であるはずの自衛隊は、当分の間こっそりと行動することを余儀なくされるだろう。

集団的自衛権と解釈改憲

7月1日6時、安倍首相は集団的自衛権の行使容認をする閣議決定を受けてについて記者会見を行い、各テレビ局が中継した。

これを受けてある新聞は「積極的平和に貢献する」と安倍首相を後押しした。一方、別の新聞は「将来戦争に巻き込まれる」と主張している。視聴者アンケートによっては「よく分からない」が最多数のものもある。最終的には「なんだかもやもやした」印象が残った。

「よく分からない」のは当然といえる。もともと「改憲」するつもりだったが、改憲に必要な大多数の賛成は得られなかった。そこで解釈改憲することに決めたのだが、これも公明党の反対を考慮して表現をすこし和らげた。

そもそも、説明から注意深く取り除かれている単語もある。

「密接な関係を持つ国」とはアメリカ合衆国(東洋経済オンライン「集団的自衛権、黒幕の米国が考えていること – 日米安保体制はますます米国の思うまま」)のことだ。だが、安倍首相の説明では最後まで特定の国名がでることはなかった。テレビや新聞は安倍政権のことばかりを伝えるが、アメリカについてはあまり触れられない。そもそも表面上、アメリカが日本にプレッシャーをかけたという事実もない。これがもっとも議論を難しくしている要因だろう。

この「よく分からない」はどのような影響を与えるのだろうか。原発についての議論を見てみるとわかる。日本には原発についての根強い反発がありデモも起きているが、政権には届いていないようだ。

では、推進派が勝利したかといえばそうでもない。日本中で原子力発電所は停止している。補償の問題で立地近隣の自治体が反対しており、手続きが滞っているからだ。近隣自治体は政府発信の情報を信用せず、わずかなリスクも許されないと考えているらしい。そもそも政府は信頼されていない。

政権は「よく分からない」という印象を残してしまったが故に、原発を推進することができなくなってしまったと考える事ができる。情報を隠したのは民主党政権だが、実際に影響を受けるのは自民党である。

このように「よく分からない」という印象はリスクに対する懸念をうみ、政策の実現に害をなすだろう。

集団的自衛権も同じようなルートをたどるだろう。軍事行動に参加したり、実際に自衛隊員の死傷者が出た時点で、支持率が急降下することが考えられる。それは安倍内閣かどうかは分からない。支持率急降下のリスクを怖れた政権は行使に対して慎重になるのではないかと思われる。

その時に拠り所になる憲法はない。明文化された憲法は「解釈やその時の事情でなんとでもなる」単なる文学作品に過ぎないからだ。

塩村文夏都議と男社会

鈴木議員が「早く結婚しろ」というヤジを認めたことで、都議会のヤジ問題が収束した。随分ひどいヤジで、こうしたヤジは公共の場で許されるべきではないだろう。

一方で違和感もある。2020年にオリンピックを開く東京の議会が田舎議会のようで恥ずかしいというのが主な論調のようだが、本当にこうした終り方で良かったのだろうか。

外国プレスとのインタビューの席である記者が「こうした問題点をなくす為に自ら働きかけるつもりはないのか」とか「他議会とネットワークを組むつもりはないのか」と質問した。これに対して塩村議員は「党が対応するので自らは動かないし、東京都の問題に集中したいので他の議会と協調するつもりはない」と対応した。みんなの党が「再発防止に努める」という後ろ向きな改革案に賛成したことを踏まえると、かなり後ろ向きの対応を言わざるを得ない。

違和感の原因は塩村議員がセクハラの被害者にしか見えないということだ。実際には議員の一人であって、議会運営を変えうる人の一人なのだ。つまり彼女は「都議会議員」ではなく「女性議員」だという前提がある。「女子アナ」と同じ使い方だ。

都議会は想像以上に男社会らしい。東京都を含めた地方の議会はどこも前時代的だ。あまり全国ネットで取り上げられる事もないので、自浄作用が働かないのだろう。つまりは、長く議員を経験した人たちは「まあ議会とはこんなもんだろう」と思うようになる。つまり「女性議員」である塩村議員も徐々にこうした文化を受け入れることになるだろう。そして、何十年か先には「これくらいは当たり前なのだ」とか「私もこういう辛い経験をしたことがあるのだ」と後輩の女性議員を諭すことになるかもしれない。

つまり、今なんとかして意識を変えないと、いつのまにか女性が女性の敵になってしまうのである。

発達障害と職場のコミュニケーション問題

クローズアップ現代が「発達障害」を取り上げてた。クローズアップ現代によると、職場で発達障害の人たちが<問題>になっている。彼らはコミュニケーションが苦手なのだが、実は人口の10%を占めるという。つまり、発達障害のある人たちをどう<対処>するかということは、どの職場にとっても重要な課題だ。

この30分のプレゼンテーションを見て、とても違和感を感じた。とはいえ、なぜ違和感を感じたのかは分からなかった。結論から言うと、発達障害について関心があるから違和感を感じたのではないようだ。

最初に思ったのは、人口の10%もいる人たちを「障害」というのはどうなのだろうということだった。例えば、日本ではAB型の人は10%いるが、その人たちを「血液型に障害がある」とは言わない。次に感じたのは、こういう形質を持った人たちは昔からいたにも関わらず、なぜ今になって問題になるのだろうかという点だった。さらに、発達障害を持った母親というのも人口の10%を占めるはずだ。彼女たちは、育児で子どものちょっとした表情の変化が読み取れないはずだが、それは<問題>だとは言われない。それはどうしてなのだろうか。

このプレゼンテーションは90%の人たちに向けて作られている。途中で「表情と言葉が一致しない」場合に意味が読み取れないのが発達障害の特徴だという例が出てくる。この例示は発達障害の人には分かりにくい。つまり「番組を見ているのは90%だけ」だという前提で作られていることになる。いいかえれば10%の人は最初から視聴者としては排除されていることになる。もし10%の人にも分かりやすい作り方をするならば、これは「不快感を表す表情ではない」ことを強調して説明する必要がある。

ユニバーサルデザインをやっている人ならよく分かる理屈だと思う。二型色覚を説明するのに「色盲の人はこう見えています」と例示するのは、視聴者が正常色覚しかいないという前提に立っていることになるので、デザイナは、この課題を扱う時に表現や見せ方を工夫するだろう。

だから、作り手であるNHKには「コミュニケーションが苦手」な人がいなかったのだろうかという気にもなる。一度、そうした人たちにプレビューすれば問題が明らかになるはずからだ。つまり、番組を作るにあたって90%が作り、視聴者も90%を対象にしているということだ。

どうやら、このあたりに「違和感」の遠因があるようだ。ここから展開できるのは、隠れた問題意識だ。

本当は「コミュニケーションが苦手な人がいるために、効率よい職場環境が作れない」から「これは困った」という<問題>がある。本来なら、そうした人たちにもコミュニケーション技術を習得して貰いたい。それでも無理なら居なくなってほしい。しかし、人権の問題もあってそうはいえない。だから「どう対処すればいいのか」という点に問題を置き換えている。それゆえに一貫して「障害だ」という主張が繰り広げられているわけである。

しかし、この事自体が直ちに問題だという主張がしたいわけではない。

<問題>を進めるに当たって、以前にも増して効率化を進めなければ、これからの職場は立ち行かなくなってしまうであろうという前提がある。コミュニケーションにある特性がある人たちを構っている余裕はない。90%が期待しているとされるのは曖昧に指示を与えてても「適当に解釈して」くれるコミュニケーションだったり、空気を読んで自発的に残業してくれる気配りだったりする。

職場にはいろいろな不調がある。それがどのような背景で生まれたものなのかはわからないが、とにかくそうした不調を「コミュニケーションの問題」として乗り切ろうとしているらしい。そこでますます生産性を上げて、では果たして何を実現しようとしているのかという点には全く触れられないし、そうした分析もない。にも関わらず「これからの職場はますますコミュニケーションが重要になるだろう」という前提が語られてしまうのである。

例えば上司が「どうしていいか全く分からない問題」を「適当にやっといて」と部下に丸投げすることがある。「空気が読める」部下は、なんとなく愚痴の一つでもこぼしつつ適当に処理をするだろう。「ああは言ってるけど、きっと、たいした仕事じゃないんだろうなあ」などと思うわけだ。中にそれが分からない人がいる。この時、上司の側にも部下の側にも問題があるだろう。もし「何のためにやっているのか分からず、適当に指示するほかない」仕事があふれているとしたら、これは経営者の責任である。それを「障害」や「脳の特性」にすることで解決してしまうのはちょっと乱暴だ。

<問題>を見つめるということは、何かを見ないようにするためである可能性がある。浮上している問題を見つめるのは簡単だが、その影に隠れている当たり前の中にある問題を探り出すのは難しい。もっとも、そこまで考えてしまうととても30分で分かりやすくまとめることなどできないだろう。

いずれにせよ、公平であるということは、実はなかなか難しいらしい。

アフガンに小麦を実らせる

テレビで、アフガニスタンで小麦農家を支援する日本人を紹介していた。

内戦が始まる前、アフガニスタンは小麦が豊かに実る土地だった。しかし、内戦で小麦農業は完全に破壊されてしまった。アメリカは復興支援として小麦を送ったのだが、この小麦は乾燥したアフガニスタンの気候には馴染まず、収穫は従来の2割程度にしかならない。日本の研究機関は、50年前のアーカイブからアフガニスタンで小麦を見つけ出して故郷に送りかえした。8か月かけて小麦を育てて、確かに収穫があったことも確認できた。これを出発点にして、品種改良をして行こうという計画である。

アフガニスタン復興にとって小麦農家の支援はとても重要な意味がある。現在は輸入に頼っている小麦を国内で栽培できれば、貧しい人にも行き渡るだろう。次に小麦が栽培できなければ農家は麻薬の材料になるケシなどを育てざるをえなくなる。さらに、援助依存に陥っているアフガニスタン経済を復活させるためにも産業を根付かせることはとても重要だ。経済活動が滞れば不満分子があらわれて治安を悪化させる可能性が高い。

内戦の結果、国内に張り巡らせていた灌漑施設も大きな被害を受けた。こちらの復興も急がれる。日本は農業支援に関して豊富なノウハウがあり、こちらの支援も期待されている。

さて、このニュースを見て気になったことがあった。なぜ、アメリカはアフガニスタンの気候に向かない小麦を送り、その後平気だったのかという点だ。アメリカはアフガニスタンから撤退できずにいて、そのために多額の出費を強いられている。つまり、アフガニスタンに農業を定着させて「トクする」のはアメリカの側なのだ。

ニュースではその点についての言及はない。

援助は援助にしかすぎず、それがどう活かされているのかということはあまり気にならないのかもしれない。その意味で「アメリカ人はおおざっぱだから」支援がうまく行かないといえる。アメリカの小麦農家も自分たちの小麦の「販路」さえできればそれで満足なのだろう。さらに「自分たちの国のものは無条件に世界最高なのだ」と考える人もいるかもしれない。つまりアメリカで実っている小麦がアフガニスタンで栽培できないのは「アフガニスタン人がうまくやっていない」からなのだ。

一方で、日本がこうした支援に熱心になるのは、それが「国策」だからではない。アフガニスタンの高齢の人たちは、幼い頃に農作業の手伝いをしたことを覚えているらしい。これを長年の内乱ですっかり荒れ果ててしまった田園風景に重ね合わせれば、彼らの心情がよくわかる。水田もしばらく耕作しないで置くと荒廃する。つまりアフガニスタンと日本は「灌漑農業」体験を共有しているのである。

そもそも、日本人がアフガニスタンの小麦のアーカイブをしていた点にも、農業に対する執念のようなものを感じる。50年前 – まだ日本がそれほど豊かではなく、海外旅行もそれほど一般的でなかっただろう時代だ -に小麦の由来地調査のためにアフガニスタン以外の国からも多数の小麦を集めている。日本が「米作を国の基」と考えているように、アフガニスタンにとって小麦は重要な産業だ。国旗にも小麦があしらわれているくらいなのだ。

キリスト教文化圏とイスラムはお互いに対抗意識があり、両国に深刻な対立を引き起こす。しかし日本はキリスト教国ではないのでこうした対立もない。さらに「日本の農業のやり方が優れているから」といっておしつけたりもしていない。あくまでも「一緒に作って行きましょう」という姿勢で臨んでいるようだ。これはアフガニスタンと日本がそこそこ離れているから成り立つ関係性なのではないかと考えられる。

「アメリカより日本の援助の方が優れている」ということを意味しないが、その国が持っている「文化」はとても重要な意味を持っているようだ。

日本は、国際社会の要請に対してアフガニスタン支援をしてきたのだが、実際にはアフガニスタンに駐留している国際部隊の支援をしていると言ってよい。そしてその方法は西洋人の文化や考え方に基づいた軍事的な支援だった。西洋諸国は被支援国が独自のやり方で安定するかという点にはあまり興味はなさそうだ。自分たちと同じような民主主義国ができて、同じような資本主義経済圏が根付けば、それでおおむね満足なのだ。そして「うまくやりさえすれば」こうした社会が定着するのだと無条件に考えている。

このように「援助する側」に非西洋圏の国が入っているということには大きな意味がある。それがあまりにも自然なので、改めて考えるまでその重要性に気がつくのが難しいくらいなのだ。

TPPについて考える

2011.11.03: かなり反響があったので、すこしだけ書き直しました。
試しに、Googleで「TPP Obama」と入力してみると良くわかる。20ページ目まで見たが、英語のエントリーは1つもなかった。多分、米国ではあまり話題になっていないのではないだろうか。(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreementで検索するとニュージーランドとオーストラリアのページがいくつか検索できた)ということで、この話「アメリカとの貿易協定」と考えるなら、結論は簡単だ。「やめた方がいい」
議論を聞いていると、識者たちのアタマの中がわかっておもしろい。重要なのはほとんどの人が相手の言い分を全く聞いていないということだ。例えば、前提になる自由貿易のメリットすら理解されていないようだ。
「関税をかけずに貿易したほうがいい」という考え方の基礎にあるのは「得意なものは得意な人が作ろう」という前提だ。これを比較優位と呼ぶ。比較優位が依然有効かについては議論がある。資本流動が簡単に国境を越えるのに、人材はそれほど国際流動せず、財政は国ごとにバランスさせなければならない。だから、こうした比較優位が未だに成り立つかどうかという議論もある。しかし、たいていの議論は、単純な比較優位の原理さえ理解していないようだ。
例えば、米にかかる700%の関税の対価を支払っているのは日本人だ。つまり、日本人は高い米を買わされている。米の市場が解放されれば、確かに日本人にとっては「いい事」なのだ。このように自由貿易理論は経済学を学ぶ上で常識のように扱われている。故に経済を学んだ人は、域内の貿易を自由にすれば産業が活性化するだろうという前提を自明のことと考えて、TPPについて議論する。
しかし、これは枠組みの問題だ。域外に対しては排他協定になり得る。よく言われるのが中国やEUとの関係だ。フレームを「日本」にすると自由貿易になるのだが、もう少し引いてみると「保護主義」に映る。この事を指摘している人は少なからずいる。フレームを変化させると、推進者たちの議論がすべてオセロゲームのようにひっくり返る。なぜならTPPは域外に対して保護主義的だからだ。
しかし、それよりもおもしろいのは、議論を通じて、日本人のアメリカに対する屈折した思いが透けて見える点だ。まず第一に、アメリカはもう時代遅れの国だとみなされているらしい。アメリカは、イラクやアフガニスタンの経営に失敗し、イスラエルを暴走させ(国際社会はアメリカのイスラエルに対する態度を承認しているとはいえないようだ。最近、パレスティナがユネスコに加盟した。一歩間違えば国際的に孤立するのは実はアメリカの方かもしれない)、北アフリカでこっそり支援していた国々では革命が起こった。アメリカ国内では失業率が上昇、足元ではデモまで起こっている。「TPPのおかげで、日本がアメリカ市場に参入できる」と読み取る事も可能なのだが、誰もアメリカ市場には期待していないらしい。
それよりも深刻なのは、アメリカは不平等条約を押し付ける国と見なされていることだろう。アメリカが誘ってくる「deal(取引)」には必ずやアメリカが一方的に優位になる条件が盛り込まれていると信じられているようだ。韓国と結んだ協定が「不平等だ」と話題になっている。韓国国会では野党が大反対して国会が荒れているのだが、日本では大きく報道されなかった。TPPとは関係ないが、Amazonが出版者に送りつけたとされる契約書が話題になっている。東洋圏は「体面」と「関係性」を大切にする文化圏だ。だから、こうしたやり方は、少なくともアジア圏では嫌われる。このように、アメリカは中東圏だけではなくアジアとも文化摩擦を起こしている。
この協定をアメリカ側の立場から見ると次のようになる。最近失敗続きのアメリカの行政府が、起死回生を狙って既存の自由貿易協定に目をつけた。しかし空気を読まない(ある意味それだけ必死といえるのだが)強引な手法と、これまでの強気の姿勢が祟って、日本側から警戒されているということだ。これほど不信感が高まっている相手との協約を、国論を二分してまで議論する必要はないのではないか。
さて、このTPPを推進している新浪さんという人がおもしろいことを言っていた。曰く「普段、お客様と接している立場から、日本人は高くてもおいしい日本の米を買い続けるだろう」とのことだ。たしかに、日本の消費者の中にはこういう人たちもいるだろう。緊急輸入したタイ米が大量に余ったのは記憶に新しい。しかし、例えば牛丼のように味付けを濃くしてご飯を大量に食べるというタイプの商品はどうだろうか。独身のサラリーマンのように、コメの品質や産地にはあまりこだわらないという人はたくさんいる。新浪さんは、一般のサラリーマンのように、290円弁当を食べたり、牛丼屋さんには行かないのかもしれない。
この方、商社経由でサービス産業の社長になった方なのだが、多分市場開放の打撃が最も大きいのは、農業ではなくサービス産業だろう。生産効率があまりよくないのだ。
さて、ここまで書いて来ておもしろいニュースを読んだ。そもそもアメリカが言い出したことではなく、菅直人さんが「僕もTPPに参加したい」と言ったのだという毎日新聞のニュースだ。「対米従属」いう疑念の裏側には、戦後長い間、失敗した政策、性急な改革などを、すべて「アメリカの圧力だ」と説明してきた政府の態度もあるのかもしれない。推進論者が自明の事として、市場開放=善としているのと同じように、アメリカのイニシアティブ=悪と考えた人も多かったのではないだろうか。
菅直人さんがどうして参加したいと思ったのかはまったくわからない。情報の空白は「アメリカに利益供与することで…」という憶測で埋められるようだ。なぜ、アメリカに利益供与しないと日本の首相になれないのか、合理的な説明が求められる。
さて、これを当事国の立場から見てみよう。もはや本当のところが何なのかさっぱりわからないのだが、オーストラリアなど「本当に参加したかった」国は、落ち目のアメリカに議論をかき回された上に、ただでさえ議論が鈍いので有名な日本が参加するかしないかで結論を先延ばしにさせられていることになる。一方、オーストラリアがアメリカと結んで日本市場を狙っているという憶測もある。
秘密協議なので、こうした国々の不満は表面化しないわけだが、これ以上外国に嫌われないうちに、こうしたドタバタはやめた方がいい。「人様に迷惑をかけない」のも東洋的な美徳だ。

二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。