なぜオタクはTwitterでドヤ顔をするのか

2016/10/14: 記事全体を削除しろという要請がありましたが、引用していたTweetのみを削除して全体を遂行しなおしました。


今日の問題はこのツイートから考えたい。

オタクはどうして毎日ツイッターしてるだけの自分の意見が正しいと思えるのだろうか。

このツイートには面白い問題がいくつも隠れていると思う。

日本人は「普通の人」は意見をいうべきではないと考えている。例えば、生徒は教師のいうことを黙って聞くべきだ。

次に意見表明に「正しい」という言葉が使われている。英語でRightという言葉を多用すると、皮肉まじりの反応が返ってくることがある。多様性が前提にあるので「何が正しいか」は受け手が最終的に判断するという意識が強いからではないかと思われる。だが、日本ではそもそも何かを言うということは特権であり言われたことは拝聴しなければならないという強い意識が働く。つまり発言権があるということは正解を決める権利があるということと同じ意味なのだ。

するとこのツイートが持っている意識が分析できる。ピア(同僚)か目下(このツイートでは毎日ツイッターしているだけのヒマなおたくという言葉が使われている)が意見表明するなどということはあってはならないという意識があるのではないだろうか。

なぜ、それはあってはならないことなのだろうか。例えば、表明された意見が空気のように場を支配するからという仮説は立てられる。だから誰かが何かをいうのを牽制しなければならないという意識が働くのかもしれない。

居酒屋談義には「物を言わない」階層の人たちが集まる。上司の愚痴を言っても「プレゼンして社長に掛け合おう」というような結論にはならない。毎日集まって「他のメンバーがなにも言わない」ように監視し合っているという見方もできる。意見表明せずに相手を探りながら空気を醸成しようとするところに要点があるのかもしれない。リーダーシップは重荷なので、半匿名で発言するのだ。

なぜ日本人が「リーダーシップ」を嫌うのか。「決める政治家」には必ずアンチが現れる。安倍晋三、橋下徹、舛添要一郎などが思い浮かぶ。一方強いリーダーに見えても利権を調整しているだけの石原元都知事はそれほど嫌われなかった。そしてアンチの考える「責任」は「視界からいなくなる」ことを指している。日本人は巧みに個人による意思決定を避けているのだ。

一方で、最初のツイートの「普段の仕事に埋没すべきで、意見表明はするな」というのは、明らかな同調圧力だ。意見表明と意思決定は特権のある人たちだけの特別な行為であり、市井の人間は黙っ手だけ動かすべきという意識がありそうだ。だが、それはピアだけでなくリーダーにも及ぶ。そもそも特権的なリーダーは許容されないのかもしれない。

相手に意見を伝えて尊重されたいというのは間違った感情ではないが、自分がまとまった考えを主張できないからといって相手の口を封じるのは間違っている。先日ツイッターで野口悠紀雄が口述筆記を紹介していた。歩いているときにスマホに話かけると文章になって残るという技術があるそうだ。自分の考えをまとめて伝えることができるようになれば、とにかく相手の口を封じてやろうという風潮はなくなるのかもしれない。

ここで「日本人」という言葉が多用されているので反発心を持った人もいるかもしれないが、「先生が一人でしゃべる」という方式はアメリカでは見られない。もちろん教壇は尊重されるのだが、ディスカッション形式の授業も多い。他の国はどうかはわからないが、蓮舫氏を見ていると中華圏でも自分の主張をはっきり伝えるという教育が浸透しているのではないかと思える。学校は一貫して青山学院なのだそうだが、台湾のエリート層には意見形成の教育があるのかもしれない。

先生が一括して教えるというやり方には「正解を効率よく教えることができる」という捨てがたいメリットがある。かつての寺子屋には職業別の手習い本がありその職業に必要な知識と漢字だけを教わるというシステムがあったそうである。このために江戸時代の識字率は高かったそうだ。

日本は世界に類を見ない高齢化社会になったのだから「正解はない」ということ自覚して、社会全体で正解を探る方法を学ぶのはとても重要なのではないだろうか。

目的の不在がデスマ案件を作る

タイムラインに「築地新市場は設計ミスだ」というツイートが流れてきた。不具合はいくつかあるらしいのだが、仲卸のスペースが足りず、通路が狭すぎて荷物を積んだ荷車が行き来できない恐れがあるらしい。

真偽は分からない。しかし、ありそうな話ではある。もともとスペースが決まっているところに無理矢理必要な数を埋め込んだのだろう。一方で、ありふれた話でもある。IT業界ではよく見られることだ。無理矢理マネジメントで仕様を決めて、あとで現場が「これは使えないですよ」という。それでもインプリするのだが、やはり使えないということになり、大混乱するのだ。

それをなんとか納めようとして泥沼化することを「デスマーチ」と呼ぶ。

しかし、製造業のプロジェクトではデスマーチは起らないものとされていた。曲げられない鉄は曲がらないわけで、マネージメントは現場を無視することはできなかったのだ。同じことは建築にもいえる。日本は目に見えて触れるものは扱うことができる。

どうしてこのような気風が生まれたのかは分からないが、農業が関係していたのかもしれないと思う。稲を育てるためには水と温度が必要だ。殿様が「稲が二倍に増えろ」などと叫んでも、農家を24時間働かせても稲は増えない。つまり、日本人は「所与の」ものは尊重する知恵を持っているということになる。

しかし、目に見えないと「なんとかなるんじゃないか」と考えてしまうらしい。IT産業はこれで没落したのかもしれない。プログラムだったらなんとかなるんじゃないかと思ってしまうのだろう。

だが、オリンピックの競技場の問題や築地市場の問題を見ていると、それも過去の話になってしまったのかもしれないと思う。甘い見積もりも、仕様のつめの甘さも、現場を交えずにマネジメントだけで「こうだったらいいなあ」という希望的観測でものごとを決めてしまっていることに起因している。

だが、それとはすこし毛色の違う引用ツイートを見つけた。

上位目的というのは聞き慣れない言葉だ。検索したところ、ワープロで文章を書くというのが目的だとすると、プレゼンの為に文章を書くというようなことのが上位目的になるのだそうだ。近視眼的な目的ばかりに気を取られて、中長期的な視野が持てないというような意味だろうと推察した。それが流行っているというのだ。

プログラムは完成した段階で不具合があると作り直しということになる。しかし、コンクリートは固まってしまうわけで、壊してやり直しということはできない。だから、先に進めてしまうということになる、

デスマーチは集団思考が作り出す。使う人・作る人・意思決定する人が分離されて起る問題だ。しかし、中長期目的の不在は、すなわちリーダーシップの不足である。意思決定に迷ったときに「原点に戻ろうではないか」というヴィジョンが提示できる人がいないのだ。

こうした問題は政治の世界でもよく見られる。最近では憲法がデスマ案件になっている。もともとは何かの不具合の修正だったのだろう。やがてそれに「気持ち」が乗るようになった。全文に日本を讃える文章が掲載された。さらに「自分たちを落とした有権者はけしからん」ということになり、人権はふさわしくないとか、日教組が学校で余計なことを吹き込むからだというようなことになった。最終的にできあがったものは「これは憲法をとはいえない」というような代物だ。最近では「これは案なので、そのまま議論に乗ることはない」などと言い出している。

ここでは課題と心情を分離できないことが問題になっている。最近では憲法を変えること自体が自己目的化しているようだ。さきほどの呟きを引用すると「上位目的」が失われているのだ。憲法草案を決めた人たちの中には「なぜ憲法を変えねばならないのだ」と疑問に思った人はいなかったらしい。自民党の党是だからというのが唯一示された理由である。

つらつらと考えていると、これは悪い兆候だなあと思う。欧米はコントロール不能なものをどうコントロールするかという視点で経済や社会を成長させてきた。ところが、日本はコントロールができないものに依存して生きて来たように思える。稲は人間の思惑通りには成長しないし、鉄は曲がらない。だからうまくやってこれた。だが、いったんコントロールを手にすると集団思考が働き、すべてをぶちこわしてしまうのだ。

「ああ、嘆かわしい」とか「日本終了」とか思うわけだが、最大限ポジティブになってみると次のような教訓が得られる。これさえ克服すれば課題の解決は可能だということになる。

  • 集団思考を避けるために、強力なリーダーシップを置く。
  • リーダーシップを円滑に働かせるために、フォロワーシップを発揮する。
  • 使う人、作る人、意思決定する人が話し合って物事を決める。
  • 課題と心情を分類し、目的を明確にする。
  • 目的はチームで共有する。

鳥越俊太郎氏出馬 – 本当の意味

都知事選挙の候補者選びは迷走した。自民党は分裂し、民進党などの野党4党は鳥越俊太郎氏を推薦することで落ち着いきそうだ。自民党のごたごたは、ポスト安倍政権がどのような形で崩壊するのかを示していると思うのだが、野党の共闘にはどのような意味があるのだろうか。

たまたまみたテレビでは四者(増田・小池・宇都宮・鳥越)が自分の政治的主張を展開していた。少なくとも自民党系の二者は「自分が知事になれば、このようなよい未来が保証されている」というビジョンを提示した。ところが、鳥越さんだけは「若者に楽観的な未来は提供できない」と語った。これは政治家としてはふさわしくない発言である。

政治家同士が競合するのは、政治家たちが同じ属性を持っているからだ。彼らは夢を売り、その対価として権限と地位を得るのである。彼らの目的は待遇であり、これは「外的なインセンティブ」に分類できる。

ところがそこに別の属性が紛れ込んでしまうと、議論自体が成り立たなくなる。鳥越さんは「何も提供できない」と言っているのだが、それは統計的には事実である可能性がきわめて高い。鳥越さんの発言の裏にある統計的事実は人口動態のトレンドだ。このような主張が紛れ込むと全ての「政治的議論」が無効化してしまう。その破壊力はきわめて大きい。全ての議論が「嘘くさく」聞こえてしまうのである。

鳥越さんが支持されているのは、世間が「ジャーナリスト」というものに「正義の味方幻想」を持っているからだろう。都政や安倍政権には悪が跋扈しており、それを裁いてほしいと思っているわけである。この役割を果たそうと鳥越さんが考えたとしたら、それは外向的な動機に基づいていると言えるだろう。

ところが鳥越さんにはその気はなさそうだ。政治的な主張と動機はありそうだが、それは外的なインセンティブによって動かされているわけではなく、内的に「おかしいことはおかしいのではないか」とか「真実が明らかにされなければならないのではないか」と考えているように思える。つまり、この人だけが内向的な動機付けを持っているようなのだ。

このことは標語にも表れていた。宇都宮・小池氏が「都民に希望を与える」としており、増田氏は「職員をまとめる」としていた。どちらも相手に何かを提供するというスタンスである。増田氏が「都民を見ていない」という点は重要だ。ところが鳥越氏だけは「自分がやりたいことをやる」と言っている。対象が違っているというレベルでしかない。そもそもベクトルが逆なのだ。

もっとも、有権者は鳥越さんが内向的な動機付けを持っているからといって支持を諦めることはないだろう。有権者は「見たいものを見たい」という強い動機を持っているからである。マスコミの扱いはさらにひどく、与野党対立という形に無理矢理押し込めていた。

どうやら、ご本人はこの違いに気がついていないようだ。そこで「インサイダー」「アウトサイダー」という説明を試みている。外向的な動機付けを持った人たちが「インサイダー(当事者)」であり、それを見つめている人がアウトサイダーというわけだ。

外向的な動機付けを持った人たちは取引がしやすいが、内向的な動機付けは外からコントロールできない。つまり、この擁立で一番苦労しそうなのは、民進党の人たちだろう。特に民進党はそれなりの利権構造を持っているだろうから、取引を持ちかけるはずで、それが覆された時にどのような混乱が起るかどうかがよく分からない。そもそも外向的な動機付けに動かされる人たちは内向的な人が何を考えているか理解できないのではないかと思う。

もっとも、現在の鳥越さんが内的な動機付けを持っているからといって、外的な動機付けの人にならないとは限らない。4年というのは人を変えるには十分な時間なので、4年後には「立派な政治家」になっているかもしれない。しかし、内的な動機付け(いわゆるジャーナリスト魂)を扱いかねた人たちが、なんらかのトラップをしかけて、知事を追いつめるということも考えられなくはない。

さて「鳥越さんが出てきた」意味は何なのだろうか。それは都民がそろそろ「政治的なビジョンというのは、地位を得るための取引なのだな」ということに気がついている現れなのだろう。そこで、そうした野望を持たない人が新鮮に見えるのではないだろうか。

ネガティブな感情をネットにぶつけるとどうなるのか

Google Search Consoleで500エラーが増えた。対策は簡単だったのだが、これは情報が整理できたから言えることで、実際に問題が起きているときには「何がなんだか分からない」状態だった。

  • Google Search Consoleで500エラーが増えたら、サイトマップ・RSS・内部リンクを確認する。
  • 問題が発見できたら、問題を修正する。

今回は結局、内部リンク(グルーバルナビ)が原因だった。

マルチサイトで3つ運営しており、テンプレートもプラグインも共通の「はず」なのに、1つのサイトだけで問題が見られた。500エラーは大量にあるので「サイトマップ」が間違っているのだろうと「思い込んで」しまった。だが、いくら探してもデッドリンクは見つからない。

そこでGoogleのフォーラムとWordpressのフォーラムに問い合わせた。結果、Googleで不愉快な思いをしたのは過去のエントリーの通り。だが、Wordpressのフォーラムで問題は解決した。

もともと、www.xxx.com/2016/06/記事名/のようになっていたのだが、グローバルナビゲーションのトップに帰るリンクが単にindex.phpになっていたため、Googleがこれをwww.xxx.com/2016/06/記事名/index.phpと誤認したらしい。ここにアクセスするとWordpressが500エラーを起こすのだ。まあ、サイトを立ち上げるときにチェックしていれば防げた問題だ。

途中「500エラーを引き起こす原因があるとインデックスに不利だ」と考え、リンク形式をwww.xxx.com/?p=9999形式に変えた。だが、後でよく考えてみると、クロールエラーが出ているわけだから、ロボットはアクセスせず、従ってインデックスされているはずはない。だが、迷っているときには意外と基本的なところが分からなってしまうのだ。

ということで慌ててサイトマップを再送信したのだが、一件も登録されなかった。その後徐々に登録は進んだ。数日で1/3程度が登録された。しかし、古いインデックスは削除されない(Wordpressでは古い形式でアクセスするとトップページに戻る仕組みになっている)ので「内容は異なるがとりあえずアクセスできる」という状態になる)ために、ユーザーから見ると意図しない情報が表示される結果になる。

/?P=形式だと他のサイトにURLを貼りやすいので便利なのだが、結局もとの日本語URLに戻した方がよさそうだという結論になった。つまり、Wordpressではいったん情報が広まってしまうと、パーマリンクの設定を変えることは難しいようだ。

さて、問題に直面すると意外と視野狭窄に陥る。仮説に捉われてしまう訳だ。そこで外からの視線は大切だ。目が多ければ多いほど問題が解決しやすくなると言えるだろう。

実際にはネガティブな感情に捉われた人がいて憂さ晴らしのターゲットにされたりすることもあるのだが、それでも助力を求めるのは大切なことだと思った。今回当たったネガティブな人は「自分のせいでトラブルにあっているのに、人に助けを求めるとは……」という態度だった。普段から周囲に助けてもらえていないのかもしれない。そこで他人に「自己責任」を迫り、その環境が再生産されているのではないだろうか。

冷静に考えると助力を求めるべきとは思うが、問題が分からずにイライラしているところにネガティブな攻撃をぶつけられると、かなりストレスになるので、くれぐれも悩んだ人に出会ったら優しくしてあげたいものである。結局のところ、よいコミュニティを作れば、自分の問題解決も楽になる訳だし、ネガティブな感情ばかりぶつけていては、いざというときに助けを得られなくなるのだ。

政治を低級なバラエティ番組のような状況にしたのは誰か

自民党に質問というTwitterのハッシュタグを見ていた。内容はいわゆる「左派」と呼ばれる人たちがこれまで呟いていることとほとんど違いはなく、新しいアイディアや視点は発見できなかった。彼らは答えも分かっているようで、あえて質問する意味はなさそうなことばかりだ。例えば「憲法改正を争点にしないのはなぜか」と聞いているのだが、彼らが期待している答えは「国民に都合の悪いことを争点にしたくないからだ」というものだろう。だが、もちろん自民党がそんなことを答えるはずはない。

自民党・公明党政権は民意の合意がないままで諸政策を進めているので、積み残された民意(それは全国民の総意ではないのだろうが)は解消点のないまま渦巻いている。この鬱積した世論が噴出した形だ。

これを見ていて不思議だったのは、なぜ自民党が予め仕込みの質問をしなかったのかということだ。たいてい、最初の質問によって雰囲気が決まるわけだから、最初にアベノミクスを礼賛する質問をしていれば、いわゆる「アンチ」は寄り付かなかったはずである。それが山本一太議員の失態によるものか、Twitter社のキャンペーン・コンサルタントの不始末なのかは分からない。

いわゆるネトウヨの人たちは「くだらない」とは呟くものの、リスクを取ってその空気をはねのけようとまではしなかった。一番割りを食ったのは、本当に質問のあった人たちだろう。両親の介護サービスが削られているがなんとかしてほしいという質問が見られたが、このような切実な声はごく少数だ。政治が近いところにありそうで意外と誰も政治の恩恵や害を実感していないことが分かる。実際に政治の影響を受けている人たちは、それどころではないのだろうなとも思った。

いわゆる「ネット工作員」などという人たちは存在しないか無力な気もする。もしネット工作員がいるのなら、安倍政権礼賛のコメントで埋まっていたはずだ。ネット工作員の人たちが与えられているスクリプトが今回はうまく機能しなかったという可能性もある。または、空気を作って他人を叩くのは楽しいが、いったん「アンチ」の雰囲気ができてしまったことで工作員たちが萎縮してしまったのかもしれない。

ネット工作の役割は炎上を抑えることにある。左側のコメントに様々な手法で立ち向かい「火消し」してしまうのだ。いわゆる破壊工作である。普段は非常に有効な戦略だ。この破壊活動がないと舛添人民裁判のようなことが簡単に起ってしまうだろう。だが、彼らは安倍政権の政策について理解しているわけではないので、即興的な対応ができないのだろう。ましてや「質問の形を取って政権を礼賛する」などという高等なことはできないようだ。空気に反してまで立ち向かおうという姿勢もなさそうなので、いったん空気が変われば、簡単に駆逐されてしまうかもしれない。

このやり取りを見ていて、日本人は政治に興味がないのだろうなと思った。関心の対象になっているのは政治ではなく「部族の一員になって他部族を叩くこと」である。つまり、政治は一種の(それもかなり下等な類いの)エンターティンメントと化しているのだ。もっとも、エンターティンメントですらないのかもしれない。実情はいじめに近い。

この状況は自民党が作り出した物なので(多分、ネット工作などということを考えだしたのは自民党だ)同情するに値しない。しかしソーシャルメディアは「課題を発見し」「非顧客を発見する」のに向いたメディアだと考えると、宝の山から得られるはずの潜在的利益を毀損していることになる。生活に行き詰まっている人や、将来に不安を持っている人は多いだろうし、日本を成長させるアイディアを持っている人もいるはずなのだが、そういう人たちは不毛な「政治」議論から距離を置くことになるのだろう。

リステリンユーザーは食べることに大胆です

リステリンが不自然なコマーシャルを流している。それは「リステリンユーザーは食べることに大胆です」というものだ。日本語は主語を提示しないので、リステリンユーザーは大胆に食べるとこなしても不自然に聞こえる。多分「大胆に食べよう」くらいになるのでないだろうか。このキャンペーンは本国のものを輸入したらしい。翻訳したことで不自然さが生まれたのだろう。

「大胆に」と訳されているのは英語ではBoldだが、これは日本語でいう「ワイルドだろう?」に近いのではないかと思う。つまり「無茶な」というような意味である。アメリカでは若者はワイルドであることを求められているということになる。

そこで検索したところ、「大胆の研究」というビデオを見つけた。早口なのだが難しい言葉は使っていない。

https://www.youtube.com/watch?v=ZJsdda1t9fQ&feature=youtu.be

このビデオから分かるのはアメリカ人の問題解決指向だ。問題を解決するには科学的研究が必要だと宣言し、仮説(hypothesis)を立てている。そしてある程度のコンフィデンスレベルを満たした物を解決策とするわけだ。このビデオは多分パロディなのだが、それほど教育の中に定着している(あるいは蔓延している)考え方なのだと言えるだろう。

ただし、このビデオの「科学的研究」はかなりいい加減である。Studies show that studies show things (研究は研究した結果を示す)と言っているのだが、これは何も言っていないのに等しいし、95%のコンフィデンスレベルに対してMath (算数・数学)says that’s high!と言う。

アメリカ人は「科学的に割り切って、仮説をどんどん立てて、問題を解決してゆこう」と考える。だが、科学的なソリューションを好むから論理的というわけでもなさそうだ。

多分、日本のコマーシャルは「リステリンユーザーは大胆」という「疑似事実」や「仮説」の宣言そのものが不自然に感じられるのではないかと思う。日本人にとって「事実」には仮説は含まれないのだ。それよりも多分、大胆だと思われる芸能人を見せて、それと「同一化」させる方が日本人には好ましく感じられるのではないかと思う。両国の文化はかなり異なっており、直接持ち込むとちぐはぐな感じが残るのだ。

女はややこしいなあと思った話……

今回は、やや炎上含みのタイトルを付けてみた。最近「暴君と化す大衆」というテーマで考え事をする機会が多くなった。舛添人民裁判やトランプ候補のポピュリズムなど、素材には事欠かない。まだ考え途中なのだが、いくつか分かったことがある。

  • 人には誰にも「これは絶対に正しい」という領域(これを正義と言ったりする)がある。
  • そして人は正義を基準にして序列を作り上に立ちたがる。

「人がいかに正義を身につけるようになったか」という点がポイントだ。例えば若者が選挙に行かなくなったのは、自分たちが政治の主因こうであるという感覚を見いだせなくなったからだと思うのだが、ではなぜ中高年は疑いもせず自分たちの市民感覚が政治に反映されるべきだと考えるのかというような疑問が出てくる。

いずれにせよ、この2つが結びつくと、暴力としての大衆が表れるというわけだ。こうした図式は至る所に見られるのだが、特に注目しているのが「ご近所付き合い」である。簡単に正義と正義が対立しやすい上に逃げ場がない。また家という財産が絡むので後に引けなくなってしまうのだ。

さて、今回こんな体験をした。正義が形成される経路が分かり面白かった。

運営するサイトの1つで不可解な現象が起きている。Googleが不正なURLでアクセスしてくるのだ。不正なので500エラーが返っているようだ。気持ち悪いのでなんとかしたい。検索してみたもののこんな現象は起きていないようなのでGoogleのフォーラムに投稿してみた。

この手のフォーラムには「エキスパート」と呼ばれる人がいる。一般の投稿者のうちでフォーラムに貢献する人を「エキスパート」と呼んでいるのだ。その「エキスパート」の女性は、このような経験をしたことがないらしいのだが、日課として書き込みをしているらしく「〜ではないか」というようなアドバイスをくれた。

しかし、あまり的を得ているとは思えなかったので「そうではありませんでした」と書いた。すると次に来たのは「あなたは私の言っていることを理解していないようだが、あなたが言っているようなことは100%起こりえない」という返事が来た。怒っているようである。

内心「知らないなら黙っていればいいのに……」と思った。そこで「だから女はなあ」と思ったのだ。女性の上役や部下などにありがちな態度だなあと感じた。

その後トラブルはWordpressのフォーラムで解決した。グランドナビゲーションに間違いがあり、そこからクロールしていたらしい。RSSやサイトマップではなかった。「Wordpressで解決しました」と書き込んだところ、Googleの掲示板では次のような書き込みがあった。相当怒っているらしい。これはそのまま残っている。

低級なバグなのに人を否定する偉そうな態度が取れた物だなと感動する。低級な知識しかないようだから他人に対する物言いを改めよ。

それでも収まらなかったらしく、リンクをたどりWordpressのフォーラムにやってきて「この人は理解力がない低級な書き込みをしている」と書き込んでいた。Wordpress側の世話人は「ここはWordpressの問題を書き込む場所だ」といって発言を削除した。

政治的な発言を書き込むブログではかなり注意して発言しているのだが、技術的な内容なので油断していたという反省点はある。しかし、実際に燃え上がるのはこういう些細なやり取りなのだなあと思った。そう考えると、政治的な「炎上案件」も、人工的に作られている物は除いて、実際には「俺のいうことを否定された」「善意でやっているのに言うことを聞かなかった」などの些細なことが発端になっている可能性が高いのではないだろうか。

日本人には悪い癖がある。何か問題があると過去の経験に基づいた「解決策」を提示する。そこで未知の問題にぶつかると、それを例外としてなかったことにしたがるのだ。なぜそのように思うのかは分からないが、多分「自分の管轄するドメインの平和が乱された」という気分になるのではないだろうか。

例えば組み体操の例で考えてみよう。組体操では事故が起きる。最初先生は「お前の鍛錬が足りないからだ」と「親切心で」アドバイスしてくる。だが、組体操には根本的な問題があり生徒の鍛錬だけでは事故は防げない。最悪、死亡事故や障害が残るケースもあるのだが、すると今度はそれを「運が悪かった」と例外扱いしたがるのだ。曰く「この生徒には才能がなかった」とか「やりたくないなら見学すればいい」というような具合である。

本当はその人が組体操界を背負って経っている訳ではないはずなのだが、ついその気になってしまうのだろう。組体操についてよく知っているという自負があり、問題が解決できないと、人格が否定されたと考えてしまうのではないかと思う。

実際に組体操の本家である日本体育大学は「現在学校で行われている組体操は危険だ」と言っている。つまり、背負って立っていると考えているものは間違いである可能性が高い。だが、それでも「人よりも高く」するのがやめられない。専門家として振る舞ってきたペルソナを捨てられないのだ。

このような倒錯した正義感は至る所で見られる。Yahoo!知恵袋などでは日常的に見られる光景である。「知識がある」方が偉いのであり「偉くない人が言うことを聞くべきだ」という図式が生まれる。「知識」を使って人を脅す書き込みも少なくない。世の中は不快な出来事に満ちているのに、なぜか不快を再生産し続けるのだ。

問題解決ができないと「お前が悪い」「そんな問題は存在せずに自己責任だ」ということになる。「自己責任」という言葉の裏には「私には解決できない」という気持ちが見え隠れしているると思った方がいい。「保育所が見つからない。お母さんの自己責任だ」というのは「私には解決策が思い浮かばないから、なかったことにしろ」というのとだいたい同じ意味である。問題を解決したい人は、まず「その問題が存在すること」を証明させられることになり、そこで疲弊してしまう。

問題を解決したい場合、まず「問題」と「人格」を分けて考える必要がある。最近アドラー心理学が流行しているようだが、課題の分離をすることで問題解決がしやすくなるし、感情的な議論は少なくなるだろう。

さて、ここまで書いてきていよいよ「だから、女は」の部分だ。女を差別するのかと言われそうだが、実際に差別している。ではこの差別はどこから生まれるのだろうか。男性は総合職化するにつれて「課題と人格を分離」することを学ぶ。専門知識だけでは課題が解決できなくなるし、全く専門が異なる人たちの相手もしなければならないからである。総合職にならない人は「使われる側」なので、そもそも相手を仕切れる人なのだという望みは持たない。

だが、女性は違う。女性は専門職のエキスパートとして過ごすことが多い。そのうちに専門知識の多寡がその人の評価につながることになる。さらに悪いことに男性管理職は「細かいことが分からない」ので、細かいことを職人である女性に任せることになる。さらに「先生や親の言うことを聞くのが良い子」という教育もあるので、専門知識の「お城」ができてしまうのだ。場合によっては「私らしい感性」が持ち味になることもあり、さらに人格と課題の癒着が進む。

こういう女性は自分の経験が通用する限りにおいては「実に面倒見がよい」可能性が高い。しかし、いったん限界に達すると「問題それをなかったこと」にしたがる。「私のいうことを聞けなければ知りませんよ」となるのだ。

これは「気質」によるものではないと思う。例えば経営学を勉強しに来ている女性は課題と人格の分離ができていたように思える。多分、分離しないと課題がこなせないからだろう。ある種の差別があり、それが「だから、女は」という評価を再生産してしまうのだと思う。

こうした、私のいうこと聞きなさい的な「正義」は至る所に蔓延しており、問題の解決を難しくしている。

いずれにせよ、余計な感情的な軋轢を防ぐのは意外と簡単かもしれない。単に目の前にある共通の「課題に注目」すればよいのである。

 

安倍首相が嘘をついても誰も気にしないのはなぜなのだろうか

松田公太さんという参議院議員が怒っている。文章を読んでもよく事情が分からないのだが、原発政策に反対していた同僚議員が、そのサブセットである核燃料サイクルスキームを維持する法律に賛成していて「支離滅裂だ」というのだ。

この主張は普通の日本人にはなぜか奇異に見えるはずだ。では何が奇異なのかと考えてみてもよく分からない。いろいろ考えを巡らせると、日本人の「はい」の使い方と英語の「Yes」の使い方の違いという点に行き着いた。

「あなたは学生ではありませんか」と聞かれると、日本人は「はい、私は学生ではありません」と答える。当たり前だ。あなたの言うことが「正しいか」ということが問題なのであって、私が学生かという事実はその次になる。ところが英語では「私が学生かどうか」という点に焦点があるので「いいえ、私は学生ではありません」となる。単に事実が問題になっているからであり、それ以上の意味はない。

しかしこれを日本人が聞くと「私が否定された」と感じる。「お前は間違っている」と言われたように思うのだ。実際にこれで立腹する人が出てくる。

英語話者は「事実」を中心にコミュニケーションを組み立てているのに対して、日本語話者は「あなたが正しいかどうか」という関係性を中心にコミュニケーションを組み立てていることになる。松田氏が怒っているのはそこだ。多分、対象物を見ているのっだろう。ところが同僚議員は「どのように対応すれば、ノーと言わずにすむか」ということを基準に意思決定している。これがお互いに「デタラメ」に見えるのだろう。

安倍首相は有権者や支持者たちに「ノー」を言わない。有権者や企業が税金が払いたくないと言えば「そうですよね」と言い、財務官僚が財政規律が大変だと言うと「そうですよね」と言う。そこで全体の論理が破綻し、立腹する人が出てくる。だがそれは「敵」なので言うことを聞く必要はない。頂点がそうなのだからフォロワーである議員たちの言っていることもめまぐるしく変わる。その場に応じて都合のよい「事実」をパッチワーク的に当てはめてゆく。

英語でいうアカウンタビリティ(日本語では説明責任と呼ばれる)という言葉が日本で成り立たないのは、そもそも説明する事実が存在しないからである。あるのは関係性だけなのだ。

厄介なのはそれに反対している人も状況に応じて「ノー」を言っているだけということだ。消費税増税に賛成だった民進党が「増税延期せよ」と言い出すのは、それは敵対者が「増税を実行する」と言っていたからであり、それ以上の意味はない。つまり両者は全く違うようで、実は車の両輪なのだ。関係が変われば「何がイエスか」も違ってきてしまうのである。

両陣営はお互いに「整合性がない」と罵り合っているが、それはお互いの文脈から外れているからだ。

では、日本にいる人たちは全て「関係性重視」のコミュニケーションを目指すべきなのだろうか。それはそうとは言い切れない。二つの明らかなデメリットがある。

一つ目のデメリットは状況をフォローしていないと、何が賛成すべきで何に反対すべきかが分からなくなってしまう。松田さんの文章では、なぜ野党側が今回の法案に「反対しなかったのか」がよく分からない。透明性がなくなり多様な意見が受け入れられなくなる。それはつまり解決策が限られるということになる。

明らかに間違った進路を進んでいる場合にお互いを忖度して進路を変えなければどうなるだろうか。最終的には崖にぶつかるか、海に落ちてしまうだろう。このような態度は「グループシンキング」の状況を生み出しやすい。いわゆる「集団無責任体制」という奴である。日本の歴史で一番顕著なグループシンキングは大量の餓死者と都市空爆を許した第二次世界大戦である。

ここから我々は何かを学ぶことができるだろうか。それはもし問題解決したければ「コンテクストベース」の議論をやめて「事実ベースの議論」に集中すべきだということになる。つまり、人格と事象を切り離して考えるべきなのだ。コンテクストベースの現場で状況を変えるのは不可能に近いし、残念ながら日本人は訓練や強い危機感なしに事実ベースの議論ができない。

次善の策は何もしないで、帰結を受け入れることだ。日本人の最大の防御策は意見の対立があり、状況が膠着することだ。意思決定や変更ができないのだから、動かないことが最大の防衛策なのだ。状況が破綻するのは「強いリーダーシップ」とやらを発揮して無理に動いてしまった時だろう。

経済学者も政治家も問題を解決するつもりはないらしい

先日来「言葉の使い方」が妙に気になっている。いつもの通り安倍首相のおかげだ。安倍首相は常々「リーマンショック級」という言葉を使っていた。リーマンショックとは金融機関の信用機能が毀損され、経済が疑心暗鬼に落ちいた上で、大規模なリセッションが起きたという事例だ。にも関わらず安倍首相はこれを「景気悪化」と単純化した上で、G7の首脳にプレゼンしてしまった。これに加担したのは外務省なのではないかと言われ始めているらしい。経済の専門家ではなさそうだ。炎上しはじめると一転して「自分はそんなことは言っていない(官僚が勝手にやった)」と申し開きをした。

これは問題だ。問題を解決したり意思決定しようと思えば現状を分析する必要がある。しかし、安倍首相の頭の中には選挙のことしかなく、外務省は滞りなくG7を進行したかった。どちらも経済の問題を解決するつもりがなかったわけである。

だが、政治家たちは「リーマンショック級か」ということをしきりに議論している。物事の定義などどうでもよいらしい。すなわち、政治家たちにはそもそも問題を解決しようというつもりはないということになる。彼らは状況を利用することで頭がいっぱいなのだろう。

気になり始めると他の事例も気になる。別の議員は「日本の問題は供給サイドの問題に集約できる」と言っている。ただ、その中身を見ると「労働慣行」や「企業の構造的な問題」を意味しているらしい。もともとケインズの「需要サイド」という問題の建て方があり、それに対抗する形で供給サイドという言葉がうまれたということである。それぞれの考え方から処方箋のようなものが作られ、それを需要サイドの経済学とか供給サイドの経済学と呼んでいたのだろう。

どうやら政治家たちはそれぞれの処方箋を丸暗記しており、理屈をつけるためにこれは「供給サイドの問題だ」などと言っているらしい。Wikipediaを丸ごとコピペしたのだが、ソリューションは次の通り。減税して小さな政府を目指すということらしい。市場経済の調整メカニズム(つまり供給メカニズム)を政府が阻害していると考えるようだ。つまり供給サイドの制約要件は政府と社会主義的な政策なのだ。

  • 民間投資を活性化させるような企業減税
  • 貯蓄を増加させ民間投資を活性化させるような家計減税
  • 民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和
  • 財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化

しかし、消費者=生産者でもあるので、需要サイドとか供給サイドという言い方はなじまない。にも関わらずこういう言い方が通用するというのは、すなわち誰も問題を解決するつもりがなく、従って現状を分析する意欲がないということである。社会主義的な政策に反対しているのである。面白いのはその政治家が所属する政党は民共共闘を唄い、一般的には左派政党だと認識されているということだ。

別の経済評論家はもっと悲惨だ。アベノミクスは成功しつつあると主張している。労働人口が伸びているというグラフを出してどや顔である。実際には非正規雇用が増えており、給与総額は減っている。それを指摘されると今度は「経済が分からないやつは、そのうち正規雇用転換が始まるという経済の基本が分かっていないのだ」と言う。もちろん、過去にそのような事例もあったのだろうが、理論には前提条件があるはずだ。だが、それは無視する。

日本の場合は終身雇用を支えきれなくなっており、これが非正規雇用への転換を促進しているものと(少なくとも直感的には)予想される。社会保障の費用分担が正規と非正規で違っている点がこれを後押ししているのではないかと考えられる。この構造転換は社会保障システムの破綻を予想させるのだが、政権をたたえてその日の生活を支える必要がある人には、10年後のことなどどうでもよいのだろう。

感じるのはドメスティックな教育とグローバルな教育の違いだ。少なくともアメリカ式の教育に触れている人は、予断なく状況を分析して、プロセスを明確にした上で、結論を出して、人に説明すべきと考えているように思える。ところが、ドメスティックな教育しか経験していない人たちは、こうした手続きをすべて「効率が悪く無駄だ」と考えるようだ。それは東大を出ていても、成蹊大学レベルでも同じらしい。

いずれにせよ、誰も「用語の定義をちゃんとしよう」とか「前提条件を明確にしよう」などと言い出す人はいない。自分の思い込みで情報発信し、好き勝手に論評している。首相のようなエライ人、新聞社、経済学者、一般庶民に至るまで、それでもなんとなく議論めいたものが進行してゆくのである。

Twitterでバカとの接触を避けるには

最近、Twitterを見ると人の悪口を書き連ねている人たちがいる。名前の売れているジャーナリストや作家さんだ。困ったことだなあと思う。

有名になると一般人が絡んでくるらしい。政治家などにコメントをすると訳の分からないことを言ってくる人がいる。「構ってほしいのだろうなあ」と思う。言いがかりには2つのパターンがある。1つは文脈が破綻しているケース。多分、机の前で思い込みが形成されてしまっているのだろう。もう1つは有名な思い込み(例えば、アベは戦争をやりたがっているとか民主党は韓国人に占領されているというようなもの)に侵されている場合だ。

いずれの場合も、まず「ご指摘ありがとう」と言うと良い。相手は対立を求めているのだからそれを火消しするとよいわけだ。物事には両面があるので「そう思う根拠はなにか」と尋ねてみるのもよいだろう。根拠がなければ黙ってしまうし、根拠があればURLかなんかが貼られてくる。これをほめるとたいていの場合は泣き止む。情報は意外と新しい情報ソースだったりするし、最悪の場合でも新しい思い込みが分かったりする。

重要な概念は「コントリビューション」だ。日本語では「貢献」と訳される。つまり、議論の場合、新しい視野の形成や意見交換が目的なわけだから、参加者は誰であろう貢献が求められるのだ。よく英語では「You need to contribute」と言われるわけだが、日本人にはない感覚かもしれない。議論は公共圏であり、参加者が積極的に意義深いものにしなければならないのである。

ただ、反発心から対抗してくる人はまだマシかもしれない。コメント欄に熱心にコメントを寄せる人がいるのだが、何がいいたいのかさっぱり分からないことがほとんどだ。どうやら「承認を求めている」ようである。こちらが何かを主張すればそれに賛同しようと待ち構えているのだろう。だが、こちらも特定の主張を持っているわけではないので(詳しく言うと個人的には主張はあるが、課題とは別である)こういうのが一番困るわけだ。

ただし、こういう人たちを見ていると、日本人は課題と人格が不可分だということは分かる。主張があると「こういう人格の人だ」と見なしてしまうのだろう。傍証としては、主張のある呟きをするとTwitterのプロフィール欄の閲覧が増えるというものがある。同意していて仲間を求めているか、反対に人格攻撃の機会を探している物と思われる。

逆に「課題と人格を分離してしまえば、否定されても腹が立たない」ことになる。英語では「Don’t personalize」というのだが、Personalizeには適当な訳語がない。辞書的には「議論や批評を特定の個人向けのことと考える」と訳すのだそうだ。

実際には批評はPersonalなものと捉えられがちである。昔、投瓶通信という記事を書いたのだが東浩紀という有名な評論家(著作は読んだことがないが、その界隈では大家なのだろう)が「こんなことをいう奴がいるから困る」というツイートを投げてきたことがある。すると、多くの閲覧者が集まった。ずいぶん前の話だ。道を歩いていたら絡まれて殴られた。さあけんかが始まるぞということで見物人が集まったわけだ。

そこで思ったのは次の2点だ。第一に「人格攻撃は(すくなくとも欧米のコンテクストでは)学問のない人がやることである」ということ。日本では賢くて有名な人でもこういうことをやってしまうほど言論空間が未成熟なのかという驚きである。次に文脈がなく(つまり、なんで怒っているのかがさっぱり分からない)単に反発的な言動を期待しているということである。

多分、日本の言論空間というものは昔からこのような殴り合いを人前で見せる、いわばプロレスのような側面があったのだろう。

例えばこんなこともしてはいけない。池田信夫という人が(この人もその界隈では影響力があるのだろう)神道は宗教ではないと言っている。これも宗教とはキリスト教などの<立派な>宗教であるべきという思い込みに侵された主張だ。現代ではシャーマニズムのようなものも宗教に分類されている。キリスト教至上主義を反省した結果である。池田さんは常々社外学は科学ではないし、大学に人文学系の学科は要らないと主張しているので、知識が思い込みレベルで止まってしまっているのだろう。だが、こういう主張に「それは違いますよ」などという引用ツイートをしてはいけない。すぐさまブロックされてしまうからだ。つまりそれは「池田さんという大家の賢さに挑戦した」ということになってしまうのだ。

なぜ、このような事態が蔓延するのだろうか。それは日本の言論界が社会の意思決定にアクセスできなかったからだろう。議論が問題解決の手段にはならず、単なる娯楽として生き残るしかなかったのだ。この顕著な例が「朝まで生テレビ」である。延々と熱い議論が繰り広げられるが、それが政策の意思決定に反映されることはない。となると、その主眼は討論者同士の殴り合いになってしまう。それを見て育った人は「議論とはその程度のものであろう」という認識が再生産される。この殴り合いをTVタックルなどでうまくやったのが民主党だったが、後にそこから逃れることができなくなり、逆に叩いてよい存在に没落した。

Twitterも単なるエンターティンメント(つまり分かっていて殴り合いのふりをする)であるうちは良かったのだが、現在では訴訟合戦に発展しているようだ。主張に対して人格攻撃することが当たり前になっており、それが名誉毀損だということになってしまうのである。

一般人が真似をするから、こういう不毛な議論は今すぐやめた方が良い。とはいえ他人はコントロールできないわけだから、課題と人格を分離してみる訓練を積んだ方がよいだろう。ついでにあなたが話をする相手は文脈を共有していない可能性があることを考慮に入れるとよいかもしれない。ルールはこの二つしかないわけで、意外と簡単に実行できるのではないだろうか。