女はややこしいなあと思った話……

今回は、やや炎上含みのタイトルを付けてみた。最近「暴君と化す大衆」というテーマで考え事をする機会が多くなった。舛添人民裁判やトランプ候補のポピュリズムなど、素材には事欠かない。まだ考え途中なのだが、いくつか分かったことがある。

  • 人には誰にも「これは絶対に正しい」という領域(これを正義と言ったりする)がある。
  • そして人は正義を基準にして序列を作り上に立ちたがる。

「人がいかに正義を身につけるようになったか」という点がポイントだ。例えば若者が選挙に行かなくなったのは、自分たちが政治の主因こうであるという感覚を見いだせなくなったからだと思うのだが、ではなぜ中高年は疑いもせず自分たちの市民感覚が政治に反映されるべきだと考えるのかというような疑問が出てくる。

いずれにせよ、この2つが結びつくと、暴力としての大衆が表れるというわけだ。こうした図式は至る所に見られるのだが、特に注目しているのが「ご近所付き合い」である。簡単に正義と正義が対立しやすい上に逃げ場がない。また家という財産が絡むので後に引けなくなってしまうのだ。

さて、今回こんな体験をした。正義が形成される経路が分かり面白かった。

運営するサイトの1つで不可解な現象が起きている。Googleが不正なURLでアクセスしてくるのだ。不正なので500エラーが返っているようだ。気持ち悪いのでなんとかしたい。検索してみたもののこんな現象は起きていないようなのでGoogleのフォーラムに投稿してみた。

この手のフォーラムには「エキスパート」と呼ばれる人がいる。一般の投稿者のうちでフォーラムに貢献する人を「エキスパート」と呼んでいるのだ。その「エキスパート」の女性は、このような経験をしたことがないらしいのだが、日課として書き込みをしているらしく「〜ではないか」というようなアドバイスをくれた。

しかし、あまり的を得ているとは思えなかったので「そうではありませんでした」と書いた。すると次に来たのは「あなたは私の言っていることを理解していないようだが、あなたが言っているようなことは100%起こりえない」という返事が来た。怒っているようである。

内心「知らないなら黙っていればいいのに……」と思った。そこで「だから女はなあ」と思ったのだ。女性の上役や部下などにありがちな態度だなあと感じた。

その後トラブルはWordpressのフォーラムで解決した。グランドナビゲーションに間違いがあり、そこからクロールしていたらしい。RSSやサイトマップではなかった。「Wordpressで解決しました」と書き込んだところ、Googleの掲示板では次のような書き込みがあった。相当怒っているらしい。これはそのまま残っている。

低級なバグなのに人を否定する偉そうな態度が取れた物だなと感動する。低級な知識しかないようだから他人に対する物言いを改めよ。

それでも収まらなかったらしく、リンクをたどりWordpressのフォーラムにやってきて「この人は理解力がない低級な書き込みをしている」と書き込んでいた。Wordpress側の世話人は「ここはWordpressの問題を書き込む場所だ」といって発言を削除した。

政治的な発言を書き込むブログではかなり注意して発言しているのだが、技術的な内容なので油断していたという反省点はある。しかし、実際に燃え上がるのはこういう些細なやり取りなのだなあと思った。そう考えると、政治的な「炎上案件」も、人工的に作られている物は除いて、実際には「俺のいうことを否定された」「善意でやっているのに言うことを聞かなかった」などの些細なことが発端になっている可能性が高いのではないだろうか。

日本人には悪い癖がある。何か問題があると過去の経験に基づいた「解決策」を提示する。そこで未知の問題にぶつかると、それを例外としてなかったことにしたがるのだ。なぜそのように思うのかは分からないが、多分「自分の管轄するドメインの平和が乱された」という気分になるのではないだろうか。

例えば組み体操の例で考えてみよう。組体操では事故が起きる。最初先生は「お前の鍛錬が足りないからだ」と「親切心で」アドバイスしてくる。だが、組体操には根本的な問題があり生徒の鍛錬だけでは事故は防げない。最悪、死亡事故や障害が残るケースもあるのだが、すると今度はそれを「運が悪かった」と例外扱いしたがるのだ。曰く「この生徒には才能がなかった」とか「やりたくないなら見学すればいい」というような具合である。

本当はその人が組体操界を背負って経っている訳ではないはずなのだが、ついその気になってしまうのだろう。組体操についてよく知っているという自負があり、問題が解決できないと、人格が否定されたと考えてしまうのではないかと思う。

実際に組体操の本家である日本体育大学は「現在学校で行われている組体操は危険だ」と言っている。つまり、背負って立っていると考えているものは間違いである可能性が高い。だが、それでも「人よりも高く」するのがやめられない。専門家として振る舞ってきたペルソナを捨てられないのだ。

このような倒錯した正義感は至る所で見られる。Yahoo!知恵袋などでは日常的に見られる光景である。「知識がある」方が偉いのであり「偉くない人が言うことを聞くべきだ」という図式が生まれる。「知識」を使って人を脅す書き込みも少なくない。世の中は不快な出来事に満ちているのに、なぜか不快を再生産し続けるのだ。

問題解決ができないと「お前が悪い」「そんな問題は存在せずに自己責任だ」ということになる。「自己責任」という言葉の裏には「私には解決できない」という気持ちが見え隠れしているると思った方がいい。「保育所が見つからない。お母さんの自己責任だ」というのは「私には解決策が思い浮かばないから、なかったことにしろ」というのとだいたい同じ意味である。問題を解決したい人は、まず「その問題が存在すること」を証明させられることになり、そこで疲弊してしまう。

問題を解決したい場合、まず「問題」と「人格」を分けて考える必要がある。最近アドラー心理学が流行しているようだが、課題の分離をすることで問題解決がしやすくなるし、感情的な議論は少なくなるだろう。

さて、ここまで書いてきていよいよ「だから、女は」の部分だ。女を差別するのかと言われそうだが、実際に差別している。ではこの差別はどこから生まれるのだろうか。男性は総合職化するにつれて「課題と人格を分離」することを学ぶ。専門知識だけでは課題が解決できなくなるし、全く専門が異なる人たちの相手もしなければならないからである。総合職にならない人は「使われる側」なので、そもそも相手を仕切れる人なのだという望みは持たない。

だが、女性は違う。女性は専門職のエキスパートとして過ごすことが多い。そのうちに専門知識の多寡がその人の評価につながることになる。さらに悪いことに男性管理職は「細かいことが分からない」ので、細かいことを職人である女性に任せることになる。さらに「先生や親の言うことを聞くのが良い子」という教育もあるので、専門知識の「お城」ができてしまうのだ。場合によっては「私らしい感性」が持ち味になることもあり、さらに人格と課題の癒着が進む。

こういう女性は自分の経験が通用する限りにおいては「実に面倒見がよい」可能性が高い。しかし、いったん限界に達すると「問題それをなかったこと」にしたがる。「私のいうことを聞けなければ知りませんよ」となるのだ。

これは「気質」によるものではないと思う。例えば経営学を勉強しに来ている女性は課題と人格の分離ができていたように思える。多分、分離しないと課題がこなせないからだろう。ある種の差別があり、それが「だから、女は」という評価を再生産してしまうのだと思う。

こうした、私のいうこと聞きなさい的な「正義」は至る所に蔓延しており、問題の解決を難しくしている。

いずれにせよ、余計な感情的な軋轢を防ぐのは意外と簡単かもしれない。単に目の前にある共通の「課題に注目」すればよいのである。

 

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