小川氏対西日本新聞の不毛な議論

先日、小川和久氏がツイッターで「西日本新聞は俺が言ってもいないことを書いている」という趣旨の発言をしたのを見つけた。西日本新聞社の記事はこちら。不毛な議論だなと思った。その不毛さの裏にあるのは「〜べき」という思い込みから脱却できない老人たちの悲哀だ。

小川氏は壊れたテープレコーダーのように「日米同盟は役に立っていて、日本は他の同盟国よりも格上である」という主張を繰り返している。これは朝鮮が自分たちは「小中華である」と考えていたのに似ている。実際には単なる属国なのだが、そう思いたくないので、自尊心を満たすために自らについた嘘である。嘘の裏には大きな国の一部にもなれないし、かといって独立もできないという中途半端な状況がある。

西日本新聞が小川氏と支持者の自尊心を満たすためには、小川氏の主張をそのまま載せるしかない。しかしそれは嘘であり、実際には米軍は日本政府や国民の心情を忖度するはずはないから、嘘という以上の情報価値を持たない。その上西日本新聞は明らかにオスプレイの事故には批判的である。

日本政府は米軍からは間接統治者としての役割しか期待されていない。米軍はローカルな人たちの心情がよくわからないので「なだめ役」として日本政府を使っているのである。それを踏まえて小川氏が言ったとされる主張を見てみよう。

軍事アナリストの小川和久静岡県立大特任教授は、国民から反発の声が上がっても「それは日本政府の声ではない。米軍は作戦行動に関して、そもそも日本の政治家や官僚の言葉は聞かない」と言い切る。

西日本新聞の記者は明らかに三流だったようだ。現実に即したとすればそもそも日本政府は米軍に声を上げることなど期待されていない。日本人の税金を米軍に吸い上げて上納し、それについて反発が起こらないように「なんとかする」ために雇われているだけだからだ。だから、小川氏がこんなことを言うはずはないのである。これは記者の思い込みだろう。記者が「日本政府は国民のエージェントとして米国に対峙すべきだ」と思い込んでいるのである。

詳しく記事を見て行くと短い記事の中に「〜か」という疑問形が二回見える。つまりこれが情報(ニュース)なのか、論評なのかということがよくわからない。もし意見ならそもそも敵対する識者の意見など聞く必要はなく、聞かなければ自分の意見に合わせて識者の発言を歪曲する必要はない。

日本人が意見を嫌うのは、世論というものを信じているからだろう。自分たちは公平で正しく、相手は偏っていて間違っていると考えたがるのだ。そこで意見記事でも「公平さ」を偽装して、双方の意見を聞いてしまうのだろう。

しかし、西日本新聞はそもそも「新聞」としての役割は期待されていないのではないだろうか。地域情報の伝え手としては信頼されているはずだが、全国ニュースは通信社に頼るのが一般的だ。しかし、地域で「ジャーナリストごっこ」をしているうちに、それでは満足できなくなってしまったのかもしれない。いずれにせよ「西日本新聞はジャーナリズムであるべきだ」という思い込みから脱却できないのだろう。かといって世論に影響を与えるという怖い体験をしてこなかったので、ジャーナリストとしての教育も受けられなかったのかもしれない。

議論自体は極めて不毛で、このことからわかることは1つしかない。日米同盟を巡る意見は抜き差しならないほどに二分されていてもはや話し合いができるほどには統合できないということである。それを推進したのは安倍政権だが、トランプ政権がどこまで状態を悪化させるのかということはまだわからない。

そもそも「日本国が軍事的に独立していて米軍の意思決定に影響を与えうる」というのは嘘なので、何かいえばいうほど亀裂は深まってゆく。本当にジャーナリストという人がいるなら、この亀裂をありのままに見つめるところから始めなければならないのではないだろうか。

千葉市役所の嘘

千葉市役所が市長への手紙で現場が嘘を重ねたという経緯を書いたのだが、結局業者の首を切って新しい業者を入れることで状況が改善した。現在のトイレはきれいに掃除されており、トイレットペーパーが切れることもなくなった。なんでも言ってみるものだとも思う一方で、結局業者さん次第なのだなという複雑な気持ちにもなる。


最近、オリンピックや築地の問題を通じて「なんで役人はあんなに簡単にバレる嘘をつくのか」と考えることが多くなった。マスコミはオリンピックや築地市場で「視聴率が取れる」ことがわかってしまったために厳しく監視しているのだが、実は同じような話はいくらでも転がっている。単に注目されないだけなのだ。

今回の問題は、おそらく炎上しないであろう「近所の公園のトイレ問題」である。現場は千葉市若葉区と稲毛区の間にある六方調整池に附設されている公園なのだが、水路の一部なので下水道維持課が運営管理している。千葉市は台地を流れる川を都市排水を流す通路に使っているようで、その一端が公園化されているのだろう。

そこのトイレにはいつも紙がない。そこで担当部局に電話をしたのだがいっこうに補充される気配がない。メールで通報する「市長への手紙」というシステムがあり、そこにも連絡してみたが音沙汰がなかった。

そこで「どうして対応してくれないのか」ともう一度電話をしてみた。すると驚くべき回答があった。「管理業者に問い合わせた結果、きちっと処理されていることがわかった」というのである。担当者は写真付きのレポートももらっており「何もしていないということはありえない」と職員は胸を張るのである。

だが、それは虚しい嘘に過ぎない。実際には数ヶ月に渡ってゴミが放置してある。僻地にある公園なのでめったに人が来ない。だから、お金を出して掃除をしたくない気持ちはわかる。

さらに、蹴飛ばした(蹴飛ばしたのは僕)ティッシュの箱もそのまま置かれている。紙がないからティッシュを持ち込んだ人がいるのだろう。この箱も数ヶ月置いてある。つまり、本当に誰もケアしていないのである。もしかしたら誰も使ってさえいないのかもしれない。

さらにホルダーには木の枝(多分桜なんだろう)がかかっていた。これも数ヶ月間そのままになっている。誰かがなんとかしようとした努力のあとは見られる。担当者は「トイレの紙も変えてますよ」と言っていたので、担当者が嘘をついているか、業者が嘘のレポートを出していることになる。が、誰が嘘をついているのかはわからない。

業者が一方的に嘘をついている可能性もあるのだが、市役所の職員が見て見ぬ振りをしている可能性も否定できない。業者は仕事をしなくても済むし、市役所もいちいち現場をチェックしに行かなくても済む。それはみんなにとって「優しい嘘」なのだ。

築地・豊洲の移転問題など騒がれる事件の裏には嘘がある。これを外から見ていると単に嘘にしか見えないのだが、実際には仲間内の「優しい嘘」である可能性が高い。見て見ぬ振りをすることで誰もが傷つかずにすむ。

そもそも誰もこないような町はずれに公園が整備されたのはなぜなのだろう。それは前市長の時代に原因がある。鶴岡市長は最終的に道路工事の収賄で逮捕されてしまうのだが、工事業者と市の関係者が握り合って「おいしい思いをする」ことが常態化していた。もともと東京からの住宅難民を受け入れるために農地や漁村が高く売れたというあたりからこの「優しい関係」は続いていたようだ。高度経済成長期が終わり土地バブルが終焉すると、仕事を求めた業者たちは「公園や道路の開発」などの仕事を欲しがるようになった。そこで川の周りの「環境を整備する」という名目でお金を使ったではないだろうか。

この「優しい関係」は千葉市が政令指定都市になってからも続き「さいたま市には負けられない」という名目で大きな建物の建築ラッシュにつながる。いくつもの別口のお財布が作られて赤字が隠蔽されるという事態になった。これについては現市長の有名なブログ記事がある。

千葉市民が「これはいけない」と気がつくのには市長の逮捕というイベントが必要だった。それでも自民党市議団は「借金にはいい借金と悪い借金がある」と言い続け、ついに自浄作用が発揮されることはなかったのである。

だが、嘘によって守られるのは市長と業者だけである。市職員はお守りだけを押し付けられるのだから面白くない。しかし、市職員はメンテナンス業者に仕事をあげる立場にある。市長と業者は施設を作れば儲かるのだし、市職員は業者との間に別の優しい関係を作る。

トイレの紙というのは別にどうでもよいことなのだが、裏にはオープンになっている危険箇所が放置されるという問題がある。市民は市政に関心がなく、公共工事に期待するような人たちばかりが群がってくる。当然出来た建物や施設のメンテナンスなどは「どうでもいいこと」だということになり業者に丸投げされる。

さて、この記事は「市長への手紙」に貼り付けてもう一度千葉市役所に問い合わせようと思うのだが、なんとなく嫌な予感はする。彼らが仕事をサボりたければ、トイレを封鎖してしまえばいいからだ。結局、市民が圧力をかけて「炎上」に持ち込まないと、どんどんと楽な方に流れていってしまうのである。


ここまでを2016年12月に書いた。結局、市役所は「きちんと対処してゆきます」と書いてきたのだが、状況は改善されなかった。そこで担当部局に電話をしたところ「そんなところまで手が回らない」と言ってきた。市長への手紙は市長が目を通すのでそこでは「ちゃんとやる」と書いて実際には何もしなかったのだ。

だが、状況が変わった。業者が契約満了に伴って首を切られたようだ。業者が変わってからトイレはきちんと掃除されるようになった。結局市役所は謝罪もせず態度も変えなかった。結局業者を変えて何事もなかったように済ませたのである。多分、市長は「市職員はちゃんとやってくれている」と思っているのではないだろうか。

政治的な相互依存状態を確認するには

最初に政治的相互依存という概念に気がついたのは軍事アナリストの小川和久さんという人のツイートを見た時だった。ということで、偉大な洞察を与えてくださった小川さんには感謝したい。

さて、日本の防衛政策は行き詰っている。アメリカが国力を維持できず、アジア地域からの暫時撤退を希望しているからだ。安倍首相はアメリカをつなぎとめるために、憲法を無視した安保法案を成立させた。今でも南スーダンに行くのは現地の邦人保護ということになっているそうだが、実際には多国籍軍事活動への参加だ。

ここまで無理をしたのに潮流は変えられず、トランプ大統領時代にはこのトレンドはもっと顕著なものになりそうだ。安倍さんはアメリカにフリーライドして中国に対抗しようとしたわけだが、アメリカ人はその意欲を共有してはくれなかった。

安保法案が一部の国民のアレルギー的な反対にあっている時に小川さんがやったのは2つのことだった。「日本が独自で防衛するととんでもない出費になりますよ」といって国民を恫喝することと「実は日本はアメリカの大阪本社である」という仮想万能感を鼓舞することだ。

これはアメリカ人の実感とは異なっているだろう。第一に日本はキリスト教文化圏に属していないためにヨーロッパのようにアメリカのパートナーにはなりえない。次に沖縄はアメリカの利権であって、日本が協力して提供しているわけではない。最後に兵器の改良や長距離化が進んでいるので、無理をしてまで日本に基地をおく必要は無くなっている。

だからこの「大阪本社論」には小川さんを支持している人たちの気分を少しマシにするくらいの効果しかない。例えていえば朝鮮王朝は「朝鮮は小中華なのだ」と言っているのと同じことである。属国の中でも特別な属国なのだと言っているのだが、清が体調すると最終的には日本に占領されてしまった。

さらに「独自試算」は日米同盟をつなぎとめたい防衛省コミュニティから出てきているようだ。具合の悪いことに日本の軍事費はGDPの1%という低率であり諸外国からは「もっと出してもよいのでは」と言われかねない。現実的に「フリーライド」状態にあるものと考えられる。かといって、防衛省の言い値で軍事費を調達するととんでもない額になりそうだ。これは防衛省に調達能力がなく、防衛産業が寡占だからだろう。ある意味オリンピックに似ている。

考えてみればわかることだが、外国が3%程度の軍事費を使っているのに日本だけが10%などになるとは思えない。よっぽどの買い物下手ということになってしまう。かといって2%になっても、今の2倍のコストとイニシャルコストがかかる。日本は海が広域な上に軍事上の同盟関係を作ってこなかったのでヨーロッパのような集団防衛(もちろんこれは憲法改正が必要なのだが……)ができないのである。

つまり、日本の防衛政策はとても難しい判断を迫られている。

しかし、小川さんたちは新しいスキームを提供しようという努力をしない。その能力がないのだろう。着想はできるかもしれないが、政治的なリーダーシップは発揮し得ない。日米同盟に頼りきりになり、何も準備をしてこなかったからだ。

安倍首相も基本的人権の否定という政治的には無意味なキャンペーンには政治的リソースを使っているが、日米同盟後をどうするかということについては無関心だ。同盟関係の見直しは政権基盤を揺るがしかねないわけで、リスクを避けているのだろう。

代わりに彼らがやっていることは何だろうか。それは、軍事費などには興味がなく、単に「戦争のような汚いことには手を染めたくない」と言っている人たちが繰り出す無知な批判を「科学的な批判ではない」といって逆批判することだけである。不都合な現実には目を背けることができるし、馬鹿な左翼をいじっている時だけは優越感に浸ることができるからである。

つまり、彼らは相互依存状態にあるということになる。新しい提案をし得ない左翼が批判する人たちを必要としているのは明白だが、実は批判される人たちも左翼を必要としているのだ。

だが、自分が依存状態にいるかどうかということは自分ではよくわからないのではないだろうか。これを確かめるためにはなにかを作ってみるとよいのではないかと思う。何かと忙しくなるので、ぴったりと張り付いて批判者を見つけるのに時間を使うのがバカバカしくなる。

つまりは、相互依存は実は不安の裏返しだったということがわかるのである。「建設的な議論をしろ」とは思わないのだが、結局一人ひとりの意識が変わることによってしか状況は動かせない。

と、同時に何かを作るためにはリソースが必要だ。相互依存的な批判合戦と炎上が蔓延するのは、実は創造的な活動に使う時間やお金といった資源が不足しているということなのだろう。

れんほーさんとテレビ

うちの家族(ネットしない)がNHKに出てくる蓮舫代表を見て「この人いつもきついわね」と言った。いつも姿勢がよくやせているので首筋が目立つ。この言葉を聞いて蓮舫さんは損をしているんだろうなあと思った。

このところ政治は演劇学の分野に移りつつあると思う。トランプ新大統領はこれをプロレスの興行から学んだようで、ヒールとして人気を集めた。だが、蓮舫さんは役割やルックスがベビーフェイスなのにヒールの役割になっている。これがうまく噛み合っていないのだろう。

蓮舫さんがきつい女に見えるのは、本人の発信方法が悪いというより、テレビのせいだ。安倍首相が「〜しました」というニュースがあり、それを「公平に伝える」ために野党の発言が使われる。それは必ず批判なわけで、いつもきつい顔できついことをいう女という印象がつく。役割としては「ヒール」なのだが、なんかヒールっぽくない。だが、それが民進党のイメージになってしまうわけだ。悲しいのは誰も中身を聞いていないという点だが、これはもう仕方がない。

意外と中の人は気がつかないんじゃないだろうか。なぜなら本物の蓮舫さんは双子の母親であり優しい側面も持っている。定期的にジョギングしていてスタイルを保っている。直接見たことはないがきっと綺麗な人なのだろう。さらに、Twitterでも犬の写真が出てきたりするので、まあいろんな側面があるんだろうなということはわかる。でも、テレビを見ている人って、もっと漠然とキャラ付けしているのだ。

これ、どうやって解消すべきなのだろうかと思った。NHKは公平性を期するために自動的に野党党首の発言を入れているわけで、偏向報道とまでは言いきれない。特にNHKは政治には興味はないので、どこか扱いがおざなりである。だから「こういう扱い方はするな」とは言えない。

一つにはニュースバリューのある活動を政府とはリンクさせずに行うという手がある。多分「もうやっている」のだろうが、伝わってはこない。でも、それをやり続けるしかなさそうだ。結局自分の舞台でしか主役にはなれないからだ。

逆にニコニコ笑いながら会見をすると「実際には容認している」とか「自民党の補完勢力なのだ」などと言われかねないわけで、なかなか難しいところである。あとは呆れた調子で淡々と諭すような論調にするという方法もあるだろう。つまり同じ目線に立たずに上からゆくわけである。このところの安倍政権の政策はどれも行き詰っているので、結構効果があるのではないかと思う。今の民進党は自民党に巻き込まれているのだろう。

そういう意味ではきつく見えない小池百合子都知事はうまいと思う。早くから都議会自民党をヒールに仕立て上げて自分はベビーフェイス側の立ち位置を作った。でも、女性が見ているのはどうやら中身ではなく、服の色やアクセサリーらしい。「ちょっと前に出すぎている」のではないかみたいな印象を持っているようだ。男性は小池さんの発言を聞いており、でっかい首飾りなんかみていないのだが、女性は発言は聞いていなくても、スーツの色なんかをチェックしているのだ。そして、それが投票行動に影響してしまうのである。

右翼は日本語でNHKだけ見てなさい

今は馬鹿な右翼の時代だ。彼らは発言することさえできない。そもそも何も考えていないからだ。だが、間違いなく時代はこの頭の悪い人に有利になっている。煽動家が彼らのニーズを満たしてくれる。

アメリカには神にこの地を任された白人がアメリカを支配すべきだと考える人で満ち溢れいている。彼らの多くは進化論を信じていない。聖書にはそんな風には書いていないからだ。これの日本バージョンの人たちは日本書紀を聖書に選んだようで、天皇の位は日本書紀に由来するなどと言い出している。これが右翼系雑誌ではなく国会で語られているというのが今の日本なのである。

こうした人たちが好んで見るのがNHKだ。NHK史観によれば、選挙前から太いパイプを維持していた安倍政権はいち早くトランプ新大統領との会談に成功したと言っている。安倍首相は未来志向で磐石な日米同盟の重要性を確認し、ドナルド・晋三という関係性を築くのだそうだ。

田崎史郎さんという自称ジャーナリストも「NHK史観」を振りかざしていた。いわゆるアベトモのお一人なのだが、最近旗色が悪い。「俺はトランプのダチ」というひとたちがいきなり沸き上り、テレビの主役を奪われてしまったからだ。トランプのダチたちは、カジュアルなミーティングだからハローだけで良いんだよなどと言っている。

だが、英語版のロイターは全く違った情報を配信している。選挙キャンペーンでの過激な発言で日米同盟に疑問を持った安倍首相が慌ててトランプ氏のもとを訪れたというのだ。

トランプ氏はまだ大統領ではないただの民間人なので、会談の位置付けも曖昧だ。だから会談で何を話し合うのかというような詳細(さらに場所さえも)最後の最後まで決まらなかった。考えてみれば当たり前で、たんなる民間人の金持ちのおっさんの元に一国の首相が会いに行くという異常事態だからだ。しかし、外国(しかも主要国)の要人がいきなり準備もなしに来たので警備は大変だっただろうう。ニューヨークといえばいわばテロのメッカだ。

その異常事態を日本人は最重要事項として固唾を飲んで注視している。だが、同時にアメリカ人は「日本はよっぽど慌ててるんだろうなあ」と見ているのだろう。多分、中国人も「安倍慌ててるってよ」と思っているだろう。

どっちを信じてもよいのだが「永遠の安定」という物語の中に安住するのも悪くないかもしれない。もうこうなったら日本書紀も書き換えて日米同盟を神勅の一つに加えればいいんじゃないだろうか。

 

保守という欺瞞

櫻井よしこという「有識者」がとんでもないことを言っている。訳すると次のようになる。

天皇は個人としていろいろやっているみたいだが、そんなのは趣味みたいなもんだ。ただ、黙って存在していればいいわけで、体が悪くなったからといって途中で逃げ出すことなどあってはならない。そういうこともあるから、明治政府は天皇が退位できないようにしたのだ。

櫻井さんは家族に対して倒錯した考えを持っているのだろうと思い調べてみた。お父さんが早く家を出て母親に育てられたそうだ。父権というものに過度な幻想を持っているか、敵意を反転させているのではないかと思う。

だが、この意見自体は、いわゆる「保守」といわれる人たちの総意のようなので櫻井さんを攻撃したいとは思わない。前回のエントリーで「人権派」と呼ばれる人たちが実は人権を信じていないということを考察したので、日本人は右派も左派もイデオロギーというものを信じないという特性があるのだなあという乾いた感想を持った。内的な怒りをぶつける先になっているのかもしれない。

右派の特徴は、個人の徹底的な排除である。天皇すらその例外ではなく、家のために殉じるべきだという考えなのだろう。面白いのはその中で「自分だけは例外である」と考えている点なのだが、もしかしたら自分に価値を見出せないからこそ他人の価値を剥奪したがるのかもしれない。

このように都合よく考えられなければ、自分も「殉じる」側に回る可能性を考えるはずである。逆に天皇のことをなんとも思わないからこそ「利用できる」と考えることになる。そう考えると右派というのはイデオロギーではなく病気あるいは認知のゆがみなのだということが分かる。

もし日本をひとつの家と考えるなら、その家長である天皇がいなくなったらどうしようということを「わがことのように考える」はずだ。しかし、いわゆる皇室擁護派の人たちにはその意識が希薄だ。実は天皇家は題目のようなものであって、なくなったら次の題目を持ってくればよいと考えているのかもしれない。日本は天皇を中心とした家であるなどといいながら、実際には心理的に乖離しているのである。

どうして右派保守はこういう人ばかりを吸い寄せるのだろうと考えたのだが、やはり天皇制に問題があるのではないかと思った。天皇は政治的権能を有しないことになっているので政治的発言を避けてきた。しかし、何も言わないからこそ「それなら代わりに何か言ってやろう」という人をひきつけることになる。なぜ、天皇の権威に行き着くかというと、それ以外では言うことを聞いてもらえなかったからなのだろう。別の成功体験(例えば経済的に成功した)などがあればそれが拠り所になっていたのではないだろうか。

これを防ぐためには次の天皇は積極的に情報発信すべきかもしれない。政治的な権能がないからといって何も発言をしてはいけないという決まりはない。まずはTwitterあたりからはじめてみるのがよいのではないだろうか。イギリスの女王も政治的には中立でなければならないので投票などはできないようだが、確かTwitterアカウントは持っていたはずだ。

櫻井さんを見ていると、保守というのは、成功体験がなく認知機能に問題がある人なのだということになってしまう。だからこそサイレントマジョリティが安倍政権を支持するのかもしれないのだが……

パククネ・トランプ・安倍晋三

パククネ大統領に抗議する人々の群れを見ながら、これアメリカや日本と何が共通して何が違っていたのだろうかと考えた。割と共通するところがあると思える一方で、アウトプットはかなり異なっている。

トランプの図式が一番わかりやすい。人々はある理想を追いかけたがそれは叶わなかった。そこで変革したいが、人々は解答を持っていない。そこで全てを総とっかえしてやろうという機運が生まれて大衆が殺到した。

ということで、これをパククネに当てはめてみる。日本で伝わっているのはパク大統領が有権者から攻撃されているという点だけなのだが、実際にはそれを扇動している人がいるのではないかと考えられる。自然発生的に集まったものではないのだろう。そして、そこには「裏切られた理想」があったはずである。それが何だったのかはあまり伝わってこない。

日本の場合はもっとわかりにくい。「裏切られた理想」は民進党が担っている。つまり先導者(煽動者)が安倍晋三である。つまり、民進党が何かをやればやるほど安倍首相に支持があつまるという仕組みになっている。ところが韓国のようなリアルな世界での反発は起こらない。代わりに人々が集まっているのがTwitterだ。炎上が繰り返されている。実は日本はトランプ後の世界であると言える。煽動者が機能している限り、怒りは何か別のアウトプットを求めるのだろう。

アメリカではすでに非白人にたいして「国に帰れ」などという動きが出ているそうだ。日本の場合には社会秩序や一般常識といったものが攻撃材料になっているのだが、アメリカの場合には「白いアメリカ性」が問題になるのだろう。

変革は「リベラル」で括る事ができる。つまりまだ見た事がない理想の世界の追求だ。そしてその理想の世界を形にしたのが「イズム」だ。その反動には名前がない。保守というのとも違っている。保守はある意味世界(イズム)でそれを表明して恥ずかしいという事はない。今起こっている運動はイズムではないので人々はそれを表明したがらないのである。

トランプ大統領は自分の政策を表にしたが矛盾だらけで全てを実現できるとは思えない。それを気にしないのは、それぞれの発言はその時々の思いつきの集積だからだろう。だからこそ、受け手は好きな発言だけを受け入れる事ができる。トランプは「マイピープル」全てが喜ぶ政策を実現したいと真摯に考えている。ただ、そんなマイピープルはどこにも存在しない。

例えばヒトラーはドイツ人は東方に進展する権利があると主張して多くのドイツ人の支持を受けた。しかし、その主張にヒトラーイズムという名前が与えられる事はなかった。この「形にならない感じ」が大衆を動かす。もしヒトラーがこれをイデオロギー化していればそれほどの支持を集めなかったかもしれない。それは変革の一部になってしまうからである。人々が「失った」と考えているものが人々を熱狂させるのだが、実際にそれを持っていたかはわからない。

そのように考えると韓国が一番悲惨だなと思った。彼らが怒っているのは民主主義と法治主義が機能していない事だ。だが、実際に韓国に民主主義が機能した時代は一度もない。さらに悲惨な事に彼らは自分たちの力で民主主義を手に入れた歴史もない。でも、だからこそ純粋に怒る事ができるのだろう。

そう考えると、なぜ名前のないイズムがTwitterで蔓延するのかがわかる。一人ひとりがつながっていないので、それをまとまった形にする必要がないし、無理にまとめればどこかにほころびができて崩れてしまうだろう。この繋がっているようで実は分断されているものが煽動を容易にしているように思える。

 

「馬鹿」が変えたアメリカ政治

トランプ大統領が誕生したことでTwitterの役割が見直されているらしい。

トランプの手法は暴言で注目を集めるというものだ。これをテレビや新聞が否定的に伝える。しかしTwitterには半匿名の人がたくさんいて、多くは発言せずに閲覧だけをしている。そしてトランプの暴言はこの半匿名の人の気持ちを代表しているのだ。

この結果、トランプがかけたキャンペーン費用はヒラリークリントンを大きく下回るといわれている。逆にクリントンは多額のキャンペーン費用をポケットにしまったのではという疑念を持つ人が出る始末だ。

キャンペーン費用の安さはトランプ大統領の今後の政策に影響する可能性があるという。これまでの大統領はすべて「紐付き」政権だった。ところがトランプ大統領は安くて効率的なキャンペーンができたのでこうした「紐」がない。そのため大衆が喜びそうな政策を自由に展開することができることができると考えられている。

Twitterのようなソーシャルメディアにはいくつかの特徴がある。

  • 興味が短期的にしか持続しない。
  • 因果関係が単純化される。
  • 「隠された」情報に人が集まる。

Twitterのトピックは深く考えられることはなく、何か隠された情報があると瞬間的に人が群がる。「隠れた」といってもそれを作るのは簡単だ。たいていは二次情報なのでテレビなどのマスメディアを使って不完全な情報を流すと大衆が勝手に穴を埋めてくれるわけだ。これが特定の人に向いたのが炎上である。

Twitter向けの才能があるとすれば、それは決して自分が攻撃対象にならないことと、絶えずどのように注目を集めることができるかを考え続けることだ。あるいはベッドの中で何か考え付いたら、後先考えずに発信できるほどにしておかねばならない。これを365日繰り返せば、Twitterでスターになることができるかもしれない。

Twitterは「馬鹿発見器」と呼ばれることがある。見落としがちなのはこの「馬鹿」が集まってしまえば正義になるのが民主主義だということである。

ではどんな馬鹿が政治を動かしたのだろうか。今回の投票率は実は50%ちょっとしかなかったそうだ。前回よりも400万票ほど低いそうだが、それでも大きくは変わっていない。しかし電話調査で調査しても浮かび上がらなかった。支持を表明することが恥ずかしいと思っているのである。だが結局のところ「行動する馬鹿」が政治を変えてしまったのだ。

自分で考えることができる人は「経済界と癒着する政治家」と「ワイドショーで有名になった素人」という二者択一に嫌気がさして投票に行かなかったのだろう。この人たちは政治から排除されてしまうことになる。

今回トランプに先導された人たちに利益が還元されれば「馬鹿こそ正義」ということになるのだが、実際には搾取されて終わりになるのではないかと思う。トランプの政策は減税で政府を小さくすることなのだが、これで排除されるのは実は貧困層だ。

しかし、代わりに外国などが攻撃されている限り、この人たちは搾取されていることにすら気がつかないかもしれない。これが「トランプ大統領になると戦争になる」といわれるわけである。争いを仕掛けて自分だけは安全なところにいられると考える人だけが、大統領になれる国になってしまったのだ。

生前退位という言葉はどうして生まれたのか考えてみた

皇后陛下が「生前退位」と言う言葉に違和感を持たれたという新聞記事を読んだ。陛下自身は譲位という言葉を使っていたのだそうだ。だとすると生前退位という言葉は周りの人が作ったことになる。NHKは「生前退位のお気持ちが滲む」などというあいまいな言い方をしていたが、いかにも役所的な言い回しので、どのように発表するのかということを綿密に政府内で話し合ったのだろう。

生前という言葉は死後に対応している。使われる場面は生前相続、生前贈与、生前葬と限られる。法律的には財産を生前に譲るということが想起されたのだろう。だからつい役人的な発想で生前退位とやってしまったのかもしれない。土地などの財産と天皇の地位が一緒になっていることになり、かなり畏れ多い感じではある。

もう一つ、天皇陛下ご本人と回りにいる<愛国者>のみなさんの間にあるずれを考えてみた。ずれの正体は天皇の地位に関する意識の違いにあるように思えた。天皇ご本人は日本の歴史に例のない「象徴天皇」として即位された。その地位を作りために行為を通じて実践を積み重ねてこられた。つまり行為こそが天皇を作るのであって動けなくなってしまうとその意味づけが損なわれるということである。

一方、回りにいる<愛国者>の人たちの意識は違っている。天皇はそこにいればいいだけなのであって、行為でなく存在なのだ。だからこそ摂政を置いて代行させればよいということになる。極端な話、10年ベッドで寝たきりになっても、息さえしていればいいのである。

話がかみ合わないのはこの違いが意識されていないことから来るのだろう。と、同時に最初から「天皇は利用する存在」であり、その地位にいる人たちは自分たちを邪魔しないように何か毒にも薬にもならない行為(ボランティア的な作業と役に立ちそうもない学問)だけをしておいてもらえればいいやなどと思っているのだろう。<愛国者>ほど信頼できない人たちはいないと思う。そもそも、被災地にいる人たちに寄り添うなどという行為は<愛国者>にとってはどうでもいいことなのである。それは国民が<愛国者>をたたえるための対象物に過ぎないからである。

一般国民にいたっては天皇の地位は「時計」でしかないようだ。天皇が退位を望んでいるというニュースを聞いた平成生まれの人たちの感想は「ええ、平成が終わっちゃうの」という感想しか持たなかった。

本来なら天皇陛下が築いてこられた、国民の安寧の象徴としての国という意思を広げることでご負担を軽減しようという議論が出てきてもよさそうなのだが、そのような声は一切出てこない。代わりに出てくるのは政治的日程との兼ね合いとかテクニカルな憲法の議論などの話ばかりである。嘆かわしいとしかいいようがない。

朝日新聞の「東京ガスは悪くない」論

豊洲移転問題についていろいろ書いているのだが、正直何が起こっているのかよく分からない。当初は「東京ガスが有毒な土地を都に売りつけて、政治家の一部にキックバックがあった」というようなシナリオを勝手に描いていたのだが、それは違っていたみたいだ。週刊誌2誌と女性週刊誌1誌を読んでみたが「東京ガスは土地の譲渡を渋っていた」と書いている。なぜ渋っていたのかはよく分からない。

週刊文春が仄めかすのは、石原都政下では外郭団体の含み損が表面化しつつありそれを整理する必要があったというストーリーだ。5000億円の損が累積していたが築地の土地を売れば都には莫大な資金が入るというのだ。しかし、他の媒体はそのような話はでてこない。文春の妄想なのか、独自取材の賜物なのかはよく分からない。さらに、東京都は真剣に一等地を売って儲けようという意思は無さそうだ。

誰も書いていないが、wikipediaを読むと石原氏は単式簿記をやめて複式簿記を採用したと書いてある。土地などの資産が認識されるので良さそうな方法だが、複数機関で借金しあったりしているとひた隠しにしていた問題が浮上することになる。同時期に銀行の貸し倒れが問題になっていて(こちらは普通の銀行が課さない中小企業に気前よく融資していた)その損金をどう処理するかが問題になっていた。

もし、築地を高値で売りたいならいろいろな計画が浮上していてもおかしくはないのだが、跡地はオリンピック巨大な駐車場になることになっている。後には「カジノを誘致したい」などという話ものあるようだが、公園(たいした儲けにはならない)を作ってくれという地元の要望もあるようである。もし都営カジノができれば、オリンピックで作った宿泊施設も含めて巨大なリゾート地が銀座の近くにできるわけだが、具体的な計画はなく、幼稚園児のお絵描きのような稚拙さが滲み出ている。政治家の考える「ビジネス」というのはそういうものかもしれない。

もともと、都が累積損を抱えたのはお台場湾岸エリアの開発に失敗したからだ。失敗したのは都市博で人を呼べば他人の金で開発ができ、お台場の土地が高く売れるぞという目算があったからだろう。今回は都市博がオリンピックに変わっただけなのである。ずさんさというか、商売っ気のなさがある。

その中で異彩を放っていたのは朝日新聞の経緯のまとめだ。これがどうにも怪しい代物だった。最初に書いてあるのは「東京ガスは土地を東京都には売りたくなかった」ことと「誰もあの土地が有毒だとは思わなかった」ということだ。東京ガスが土地を売りたくなかったが浜渦副知事がゴリ押ししたというのは半ばマスコミのコンセンサスになっているようだ。浜渦さんは時々殴り合いの喧嘩をする曰く付きの人物だったとwikipediaには描かれている。

いずれにせよ「読者にわかりやすく書かれた」豊洲市場移転問題のまとめ記事では誰も有毒物質のことは知らなかったが、あとで調査をした結果土地の汚染が判明したというストーリーが描かれている。これを素直に読むと「誰も悪くなかったが運が悪かったね」ということになる。日本人の「優しさ」によるものだが、これが集団思考的な問題を作り出しているということには気がついていないようだ。都政担当は記者クラブの中でインサイダー化しているのだろう。

朝日新聞の記事を読んで一瞬「ああ、そうか」などと思ったわけだが、その交渉過程は黒塗りだったという記事がTwitter経由で飛び込んできた。新しい情報が得られるというのはTwitterの良いところだなあと思う。この記事によるとどうやら「あの土地には何か有毒物質があるらしい」ということは知られていたようだ。土地を売る上では不安材料になるだろう。もともとエンジニアたちはあの工場が何を生産していて、副産物として何が産出されていたかは知っていたはずである。東京ガスが全く知らなかったということはありえない。

朝日新聞の記者も東京ガスと都の交渉記録が黒塗りだったことは知っているはずだ。これは「のり弁」資料と呼ばれ問題になっているからである。であるならば、朝日新聞の記者が書いた記事の目的は明らかだ。都当局は炎上中なのでもう抑えられないが、東京ガスに避難の矛先が向くのを抑える「防波堤」の役割があるということになる。東京ガスはマスコミにとっては巨大スポンサーなので非難が向くのは避けたいのかもしれない。

いずれにせよ油断ならない話である。どの媒体も信じることができず、各雑誌・新聞を読み比べた上でネットの読み物まで読んで総合的に判断するしかないということになってしまう。いずれにせよ黒塗り資料が表沙汰になってしまえば、誰が嘘をついていたかが明らかになってしまう。すると大型防波堤でせき止めていた洪水が一挙に街を押し流すようなことになってしまうのではないかと思う。

多分、現在豊洲問題が炎上しているのは、マスコミが「優しさ」故に問題を直視してこなかったからである。にもかかわらず一旦炎上するとそれを商売にしようとする業を持っている。よく倫理の教科書で問題になる「近視眼的な視点が長期的な問題を生み出す」という実例になっているように思える。