みんな仲良くと人権意識は相容れないのか

最近、コンビニや100円ショップのレジで違和感を感じている。が、記事にするほどでもなさそうなので今まで書かなかった。これを記事にしようと思ったのはある弁護士のツイートを見たからだ。この人の極端な意見ということではなく、これに賛同する人も多いらしい。が、アメリカのように本質的な理解が難しい多民族が混在して生活しているところで得た実感とそれを受け取る日本人の認識が一致しているのかはよくわからないところだ。

100円ショップでは、レジで虚空を睨んでいるお客さんをよく見かける。ちょっとした挨拶をすることが「面倒だ」と感じる人がとても多いらしい。そこで「こんにちは」などと言ってみるととても戸惑われたりする。特に若い人ほどこの傾向が強いようだ。都市や近郊では「相手はいないことにする」のがマナーなのだ。

だったらすべてセルフレジにしてしまえばいいと思うのだが、セルフレジはお酒を購入するための年齢確認や特売品の割引に対応していないらしい。が、セルフレジがもっと便利になれば「対面で買い物するのは面倒」と考える人が増えるのではないだろうか。

他人がインビジブルであることが前提になっている社会で、なんらかの接触が生じると、慌てて「なかったこと」にする人たちも多い。接触によってなんらかの感情が生じるので、それを解消するために自分が今まで話していた相手に話しかけるのだ。誰も話し相手がいない場合はスマホなどが話し相手になるのだろう。これを感じないのは犬の散歩をしている時だけだが、この場合、犬が緩衝装置になっており、同時に「同じものに興味がある」という安心感が警戒心を少しだけ軽減させるのだろう。

都市や近郊に住んでいる日本人にとって公共とは極めて不愉快な場であって、できるだけ自分たちの親密さが保てる村落に引きこもりたいと考えている。こうした考えかたは学校や職場などにも広がっている。つまり「みんなで仲良く」というのは誰の欲求も満たされない牢獄のような状態だということになる。

こうした公共を勝手に「不機嫌な公共」と命名している。

が、不機嫌な公共は民主主義の成立過程を考えると極めて違和感のある概念だ。民主主義はキリスト教圏で発展したので「私がしてほしいように相手を扱う」べきという認識がもとになっている。自分の意見を主張する代わりに相手の意見も聞くというような認識を持てないと、その先にある民主主義がよくわからなくなってしまう。つまり「公共は自分を殺す」のか「自分を活かすために相手の意見も聞いてあげる」と考えるのかで、社会に関する見方は180度変わってしまいかねない。

だが、冒頭に引用したツイートとその反応をみると日本人にとって公共とは抑圧の別の言い方にすぎず、誰もそれを疑っていないことがわかる。政治はさらにひどくて、公共とは人権を抑圧するための大義名分だと考えている政治家が多いようだ。

背景には、余裕を失った社会があるのではないかと考えられる。わかりきった仕事をこなすだけの時間しか与えられず、例外的な処理をこなす時間も、裁量も、知識もない。これが私生活にも広がっている。すると問題は放置するか誰かに押し付けるしかない。問題を起こさないためには、自分を殺して決まったやり方に従うしかない。こうしてどんどん個人の裁量が削られていってしまうのだ。

もちろんこの代償も大きい。不当な扱いをされたと感じた人が一度騒ぎ始めると歯止めがきかなくなる。透明な社会が前提になっているので「今後のお付き合い」を気にする必要などないわけで、であれば体面を気にしたり協調したりすることなく、法律や道徳などを盾にして自分の欲求だけを相手にぶつければいいのだ。こうした人たちはクレーマーと呼ばれるが、これがますます不機嫌な公共を拡大させる。だが、不機嫌で余裕のない社会で自分を通すにはけんか腰になるしかない。

この不機嫌な公共を念頭にしてTwitterの政治議論をみると、保守とは「不機嫌な相手を無理やり動員するために人権を取りあげてしばりつける」という考え方であり、革新とは「社会は不機嫌なので、汚いものから遠ざかる」権利の主張だということだということがわかる。

リベラルの視点から眺めると、彼らに政治的な提案がないのは当たり前だ。そもそも社会や公共は自分たちとは何の関わりもないことなので、そこに提案をしても意味はない。例えば民進党は不機嫌な人たちの注意を引くことはできても動員はできないので、政府への批判が票につながらないのだろう。野党が軽くなると、保守が増長し、ますます不愉快な決まりを作る。するとさらに不機嫌な人たちは怒り出し、社会から引きこもってしまうのだ。

こうした認識はかなり広がっているのではないかと考えられるが、これが続く限り現在のような政治状況は無くならないんだろうなと思う。

働き方改革を論じたければバラバシを読もう

昨日は「プログラマーとして成功したければ海外に出るべきだ」と書いた。賛成してもらえたかどうかは全くわからないが読んで頂いた人は多かったようだ、なんとなく「ああそうだな」と思った人もいるだろうし、反発した人もいるかもしれない。日本はもうだめだと思っている人は「やっぱり日本はダメなんだ」と考えてなんとなく安心感を感じたかもしれない。

観測としてはただしそうだが、少しだけ理論的に考えてみたい。理論が話からければ批判もできないし、対応策も見つけられないからだ。

収穫加速という理論がある。発明はさまざまな基礎技術に基づいて成立するのだが、基礎技術が充実すればするほど、あるアイディアが現実化する時期は早まるという理屈だ。こうしたことが起こるのは、知識がネットワーク状に連携しているからだ。

このように、ネットワークの価値は点の数と点の結びつき(線)の数によって決まる。やみくもに広がっているネットワークには、実は中心と周縁があり、中心にいたほうがなにかと有利になる。

例えば、ITの場合は日本語で得られる知識は英語で得られる知識よりは少ないはずだ。ここで重要なのは、その有利さはプログラムの価値だけに止まらないということだ。効率的なプログラミングができる人がいると企業の生産性が向上する。企業は有利に競争できるのだから、英語で情報が取れる会社のほうが勝ち残る確率が高まる。良い顧客が残ると、プログラミングの会社はさらに良い顧客に恵まれることになる。するとプログラマの給与が高くなり、さらによいエンジニアが集まる。よいエンジニアが集まるとその周りには学校が作られ、よい先生が集まり、収入アップを目指す生徒が押し寄せるという具合である。

こうした「中心と周縁」の形は日本人が考えるものとは違っているかもしれない。日本人は中心と周縁をピラミッド状に捉えることが多いのではないだろうか。例えば自動車産業は顧客網を持っている大手メーカーがトップに立ち、その裾野に多くの部品産業が集積するという形をとっている。また、広告代理店はテレビ局の枠を買っているので、他社よりも安い値段で広告を売ることができるし、テレビ局も顧客を握っている広告代理店を頼らざるを得ない。

ピラミッド型の場合、知識は頂上に蓄積されてあまり流通しない。例えばマクドナルドやコカコーラの収益の秘密は本社が握っていて、周縁の人たちの賃金はあまり高くない。

しかし、プログラマの場合そうはいかない。知識はネットワークのそのものに溜まっている。具体的にはプログラマ個人とそのつながりである。その「すべり」をよくするためには、粒をそろえておく必要がある。つまり最低賃金でプログラマを使い倒すようなことはできない仕組みになっている。

日本では「最低賃金を1500円にしろ」という運動はあるが、技能労働ができるような職場やフリーランスの環境を用意しろというような運動は行われない。それは労働者自身が自分たちが最低賃金で働くだけの技能しかなく、それ以外の職業機会もないということを認めていることになる。だれもが中心になれるわけではないので、当然ながら数としては、周縁の人たちが目立つことになる。

一方で政府の側も政策的に最低賃金の仕事を量産している。アベノミクスを労働の側面からみると正規雇用を非正規に置き換えて行くという動きなのだが。これはバブル期以降の企業のマインドがそうなっているからだ。収益が見込めないので人件費を削るしかないと考えているのである。これが足元の労働市場を荒らしている。イオングループはアベノミクスは幻想だったと言い切り、自社ブランド製品を値下げするそうである。収益の悪化は従業員の賃金に影響を与えるはずだ。

官僚や政治家の情報源は、旧来型の製造業と運輸や小売などのサービス業なので、知識ネットワークが競争力の源泉になるような職業を念頭においていないのだろう。

今まで見たことがない現象を理解するためには、表面の制度(例えば高度技能移民を増やすとか、最低賃金をあげるというような類だ)を見るだけではだめで、その裏に何があるのかを理解する必要がある。

とても難しそうに見える「ネットワーク」の振る舞いだが、2008年ごろに「複雑系」として話題になった。中心にいるのは、ダンカン・ワッツやバラバシなどである。ちょうど、労働の国際間移動が経済を活性化すると言われていた頃である。

なんとなく話だけきいても良く分からない複雑系やネットワークの議論だが、基本的な考え方が分かりやすく解説されている。

「各国では移民の制限が始まっているではないか」という声が聞かれそうだが、高度技能移民を使って産業競争力をあげた国々と、そうでない日本では状況が全く異なる。いわば周回遅れを走っているわけで、同じ土俵で議論することはできないのではないだろうか。

このネットワーク理論は例えば「なぜベータはVHSに負けたのか」という考察にも使える。クリステンセンなどが「バリューネットワーク(リンク先はITメディア)」という理論を使って説明している。これも応用編だけ読むと「なんとなくそういうものかなあ」というだけで終わってしまうので、理論的なところを読んでおくといろいろな考察に使えるのではないだろうか。

つながりたい人々と都市の孤独

先日来、日本人が持っている規範意識について考えている。個人の中に内在する規範意識を持たずに、村落的な監視によって抑えられているというものである。現在の政治状況は村落的な監視が利かなくなった結果、個人の感情や思考が暴走したものであると考えている。これをいろいろと飴玉のように転がしていて、読んでいる人たちがどう思っているかということが気になった。とはいえレスポンスはないはず(その理由は後々考えるが)なので、今回も自分で考えることにする。

わずかな手がかりとして、メンションなしのリツイートというものがあるのだが、どうも反応をとして多いのは「個人の意見が尊重されない」という不満のようだ。集団思考で空気を読むのが日本人だと定義してしまうと「私の意見は取り上げられないのに周りに合わせることばかり強要される」と不満を持つ人が増えてくるのだろう。

しかしながら「空気」はそこにいるすべての人たちが作り出すものであり、神様や権威が押し付けたものではない。つまり「私の意見が取り入れられない」と言っている人も空気作りに参加していることになる。つまり、あなたの意見は取り入れられているのになぜ不満を持つのですかという疑問が生まれる。

例えば、権威とされている人たちも実は日本人としてのメンタリティを持ち続ける限りにおいて空気には逆らえない。安倍首相がおざなりながらも福島に出かけて興味がないにもかかわらず「福島の桜はきれいだなあ」などという下手なパフォーマンスをして、気にかけてもいない被災者の心情を傷つけたから復興大臣に代わってお詫びをするなどというのは、実は権力者もまたそれなりに空気を気にしているからなのだ。

もし自分の意見が取り入れられないのだとするなら、意見表明してみればいい。誰にも聞いてもらえないだろうが、それも「誰の意見も聞いてこなかった」ということの裏返しにすぎない。そもそも、自分の意見を構築できる人が少ないようだ。アメリカや西ヨーロッパではありえないのだが、それでも大人としてやって行けるのが日本なのだ。意見がないのだから表明もできない。

そう考えてみると、実は(西洋的な教育を受けた人は全く別だと思うが)個人として尊重されたいわけではないということがわかってくる。日本人は村落的なつながりに憧れている。それは自分の心情や考えと、集団の心情や考えが全く合致しているという状態である。自分の考えていることは周りも考えていることなのだから、個人が言葉を選んで意見表明してもらわなくてもいいという関係だ。つまり個人が意見を持たなくてもやって行けるのが理想なのだろう。

古くからこのようなニーズはあった。例えば、戦後それを実現したのが創価学会だ。もともと農村から都市に流入してきた人たちの集まりだったという説が濃厚だそうだが、村落にあったコミュニティをそのまま都市に持ち込んだということになっている。しかし、実際にはその教えは急進的すぎて、もともとの寺からは排除されてしまう。個人の価値が接続の源泉にならないのだから、当然どこかから価値を持ってこなければならない。自然村落は地域的なつながりによって閉鎖された空間なのだから、こうした人工集落は解放されているのだろうということが予想される。つまり、日本人は解放された空間が苦手で、つまり個人が意見を持たないためにはかなり大きくて超自然的な権威を置かないと不安を感じてしまうのではないだろうかという仮説が生まれる。

いったん権威に帰依してしまえば、個人の意見表明は必要なくなる。あとは権威をコピペしてくるだけでよい。実際に新興宗教系の人と話をしてみると良いと思うのだが、驚くほど自分たちの教義を理解していない。にもかかわらず熱心にコピペするので語彙だけは豊富になる。うまくいっている新興宗教は「魂のポイント制」を採用しているので、核心が見えないことは気にならないようだ。つまり修行が足りないからもっと教祖様の話を聞かなければならないなどというのである。こうした新興宗教的なコピペ精神は「ネトウヨ」と「パヨク」に共通する。

日本人が理想とするのは、周囲の人たちと何の違和感もなく調和し、何も言わなくても自分の思い通りに物事が進み、何か大きな権威によって自分の意義が肯定されているという状況なのかもしれない。

だが人工集落は必ず敵を作り出してしまう。どんな権威もすべての人の欲求を完全に満足させることなどできないからである。人工的な囲いを作るとかならずそこから排除される人たちが出てきてしまう。安倍政治に不満を持つ人が多いのは、彼らにとって居心地のよい村落作りががお友達の優遇にしかならないからだろう。排除された人たちが見えなければよいのだろうが、SNSが発達するとそういうわけにもいかない。

だが、いろいろ観察すると敵の存在は社会集団が崩壊する原因にはならないようだ。崩壊は内部から進行する。人工的に作り出した物語には必ず綻びがある。それは、外からくる権威を継接ぎにしているに過ぎないからである。日本人が膠着語を話すように、経緯をにかわでくっつけたようなものになりがちだ。そこには主語はなく、従って全体としては意味をなさないのである。

例えば教育勅語は、日本伝来の精神ということになっている。だがそれは西洋的な一神教をもともと多神教的だった天皇の権威を接ぎ木したものではないだろうか。多分キリスト教を参考にして、教義を作り、道徳を作ろうとしたのだろう。しかし、道徳というものをあまり真剣に考えてこなかったために「みんな仲良く」という当たり前のことしかかけず、最後は「何かあったら天皇のために命を投げ出すんだぞ」とおざなりに終わっている。

教育勅語が見捨てられたのは「みんな仲良く一致団結して」という精神を、押し付けた人たちが理解していなかったからである。つまり教育勅語もコピペなのだ。結局、軍部の作戦の失敗を国民に押し付けて破綻した。「みんな仲良く」の中に餓死した陸軍兵士も見捨てられた沖縄も入っていなかったわけである。国民は「守ってくれない権威よりも、美味しいものを食べさせてくれる敵のほうがいいじゃん」と考えたから教育勅語は捨てられてしまったのだ。にもかかわらずその経緯を全く反省していないというのが日本人の道徳心のなさを露呈する結果になっているように思える。

こうして、新しい権威ができては消えというサイクルを繰り返すことになる。で、あれば「個人が意見を精錬してお互いに聴きあうことにしたらいいんじゃないか」などと思うのだが、それだけはどうしても嫌だという人が多いようだ。まあ、人生は魂の修行なのだと考えれば、それもアリなのかもしれないと思ったりもする。

有名人がTwitterで絡まれるのはなぜか

Twitterで有名人が絡まれるのをよく見かける。そこで「絡まれるにはメカニズムがあり、そのメカニズムを解明すれば、絡まれることはなくなるだろう」と考えた。だが、いろいろ考えてみて「やはり有名な人が絡まれないようにするのは難しいんだろうなあ」と思った。今回は最終的に教育勅語の話に着地する。

有名人が絡まれる背景にはどうやら「単純化」と「情報の追加」があるらしい。140文字は少ないので言いたいことがすべて伝わらない。そこで、曖昧な部分を脳内で補強するらしい。すべてを網羅的に観察したわけではないので、単なる思い込みを含んでいるかもしれないが、党派性が起きているように思える。つまり、あらゆる人たちは白組と紅組に分かれており、ある意見を提示しただけで、受け手の脳内で「この人はどちらの味方か」という分類が行われるのではないかと考えられる。

例えばトランプ大統領のシリア攻撃を「適切な判断だった」というと、自動的にトランプ大統領の他の政策にも賛同しているように見えてしまうという例がある。その人が様々な情報を流して立体的な判断をしようとしていたとしても御構いなしだ。表現の自由のために戦っているように見えた筒井康隆がリベラルを侮辱する(あるいは体制側に賛同するように見える)メッセージを発信すると、それが今までの立場を「全否定」したように見えてしまうということもあるだろう。

いっけん、単純化されているように見えるのだが、よく考えてみるとすべての事象について「右か左か」というソーティングがされているのだから、かなりの情報量がないと成り立たないことがわかる。すべての事象を「右と左」に分けていて、それを常に確認し合っているからだ。つまり、単純化だけではなく情報の付加が起きているということになり、なおかつ頭の中には様々な人間関係が整理されていることがわかる。

日本人の「関係性」に対する執着の例を卑近なところで挙げたい。アメリカのドラマのウェブサイトには日本ではおなじみの相関図がない。彼らはドラマをプロットで説明する。しかし日本人はプロットにはそれほど興味がなく、誰と誰がどんな関係にあり、それがどう変化するかということに強い関心を持っている。そこでドラマのウェブサイトには欠かさず相関図が出てくるのだ。日本人は、誰がどの党派に属するかによって、その人の意見が読めると考えるのである。こうしたことは政治報道でも起きており、政策よりも派閥の動向により強い関心が向けられることになる。

つまり、日本人は、集団に属する人間には個人の考えというものはなく、どの党派に属するかということさえ分かればその集団の考えが自動的にその個人の考えになるとみなしていることがわかる。

以前に「交流分析」を見たときに、人間を、理性、感情、スーパーエゴに分けるという整理方法を学んだのだが、ここには「党派」という全く違ったパラメータがあるのではないかと仮説できる。まあ、思いつきレベルだがいちおう絵にしてみた。

党派性が強い人は、あるその党派を認めてしまうと、自動的にそこに従わなければならないという前提が生まれるという仮説ができる。だから、自分の中の何か(それが感情なのか、理性なのか、スーパーエゴなのかはわからないのだが)とコンフリクトを起こすので、それを認めるわけにはいかないということになる。

この疑問を考えたときに「なぜ僕は絡まれることが少ないのだろうか」と考えたのが、それは文章がうまいわけではなく、権威ではないので「否定しなくてもべつに構わない」からではないかと思った。つまり、どこにも属していない個人の考えというのは、ないのと同じなのだ。

が、商業雑誌で活字になったり(それが例えばWillやSPAであっても)権威となるので、それを認めるわけにはいかないということになるだろう。つまり、有名になることで権威性を帯びてしまうので、攻撃の対象になるということになる。これは防ぎようがないから「無視するのがよい」ということになる。

まあ、ここまでは他愛もない分析なのだが、いくつかの派生的な観察が出てくる。

第一に「安倍政権を倒せ」という党派性の高いメッセージは発信しないほうがよさそうだ。「この人は立場的にそう言っているのだな」と思われて、あとの客観的な事実はすべてスルーされてしまうだけだろう。客観的に事実を並べて、相手に投げたほうがよさそうだ。

逆に、安倍政権側も党派性の強い考え方を国民に押し付けようとしている。日本人はそもそも内的な規範ではなく村落的規範(ここでは党派と言っているが、他人様の目といってもよいだろう)によって制限されているので「共謀罪が成立したから言いたいことが言えなくなった」ということはありえない。そもそも最初から「個人が言いたいことなど言えない」社会なのだ。

だが、それは相互監視によって文章にならない規範によって支えられている。それを言葉にしようとするといくつかの問題が起こるのだろう。それは「個人のアイディアは聞いてもらえないので、誰からも文句が出ない権威」が言葉を発するべきだということと、実際に自分の中を掘ってみてもそれほどたいした規範意識は出てこないということである。

そこでできた貧相な規範体系が例えば教育勅語ということになる。西洋には立派な規範体系があり、そのカウンターとしてでてきたのが教育勅語だが、結局は「親を大切にしよう」とか「みんなで仲良くやろう」などといった、村のおじさんたちが酔っ払って子供に諭すようなことしか出てこなかった。しかし、権威づけは必要なので「いざとなったらお国のために命を捧げるんだぞ」という言葉をつけて終わっている。

本来は個人の意識(それは感情などの無意識を含んでいる)を抑える役割を持っていた規範意識を自分で操作できるぞと思ってしまったとたんに、歯止めが利かなくなる。つまり、人間で言うところのスーパーエゴの暴走が起きてしまうのだ。これが国家レベルで行われると、植民地の無制限の蹂躙ということだし、個人レベルでは「本当は理解していない保守主義」という党派規範を身にまとい、個人のエゴを暴走させて、他人を貶めたりする態度につながってゆくということになる。

「そんなことはない」という人もいるかもしれないが、教育勅語を信奉する人たちは内的な規範を持っていない。首相は平気で嘘をつくし、気に入らない子供は虐待される。さらに、危なくなったら「俺は知らなかった」といって仲間を裏切る。これらは内的に規範が作られていない(つまり親が弱い)ことを示している。だからこそ、集団の規範体系によって相手をコントロールしようとするのだろう。

つまりネトウヨというのは、戦前回帰ではなく、西洋流の規範意識を理解できないままでいた人たちが個人のエゴを暴走させている状態に過ぎないということが言える。その筆頭でエゴを暴走させているのが日本の首相なのだろう。

 

政治がもたらす閉塞感を打開するためにはどうしたらいいか

先日、茂木健一郎が「日本の笑いは低俗でつまらない」と発言したことについて取り上げた。茂木健一郎がつまらないのは、西洋的な価値観をよしとしていて、日本文化の中にある良さを全く見出そうとしない点や、低俗さと高級さという価値体系の奴隷になっている点だ。つまり、戦前回帰をよしとするネトウヨの人たちとたいして違いがないのである。

いずれにせよ、この記事は、政治課題(もしくは政治課題に擬態した他人の悪口)と違いあまり関心を集めなかったようだ。とはいえ「笑いとは何か」ということを当てずっぽうで書いたので、本でも読んでみようかと思った。図書館で蔵書を検索したところ、ベルクソンの「笑い」という小編が見つかった。哲学書を読むのは気が重いなあと思ったのだが、気が変わらないうちに読んでみることにした。

読んでみて思ったのだが、現代社会に閉塞感を感じている人はぜひ一度この本をパラパラとめくってみるべきではないかと思った。精読するとたぶんかなり時間がかかるので「ざっと読み」がおすすめだ。

現在の閉塞感は、多くの人が安倍政治にうんざりしているにもかかわらず解決策が見つからないということに起因している。人口が減少し、経済が崩壊してゆくのにその解決策が何十年も見つけられないという「沈みゆく予感」が背景にあるのではないかと考えられる。つまり、解決策が見つからないということが問題になっている。そこで「なんとかしろ」と怒っているのだ。しかし怒りの感情は他人を遠ざける。危険信号を発出しているからだろう。反核とか平和運動といった誰でも賛成しそうな運動に支持が集まらないのは、それが楽しそうに見えないからである。

安倍政権は、権威が問題を隠蔽し、情報を隠し、法体系をゆがめているという点に問題があるのだが、誰もそれをやめさせようとはしない。閉塞感を感じる人は政権が持っているデタラメさを否定したいが世論調査をみると「自分だけが安倍を嫌っていて、みんなは依然安倍政権を支持しているように」見えるので苦しむのだろう。

こうした状況を変えるために笑いは役に立つ。笑いは「誰にでもわかり、愉快だから」である。つまり、怒りによる打倒よりも笑いによる批判の方が広がりを持つ可能性が高い。しかし、それは多くの人が思っているような「直接的な政権への批判」ではないのではないかと思う。

ベルクソンは笑いが成立するためには3つの要素が必要だとしている。詳しい定義は原典を読んでみていただきたいのだが、自分なりに解釈すると1) 人間的な感情に基づいており、2) 対象から心理的に分離しており、3) その感覚が集団に共有されていることが重要だということのようだ。これについて詳細な分析がなされるのだが、政治的な重苦しさというものにのみ焦点を当てると「対象に近すぎる」と笑いが起こらなくなるということが言える。ベルクソンは「共感があると笑えない」と言っているのだが、共感だけではなく反発もある種の愛着である。アタッチメントという言葉を想起したが日本語の適当な訳を思いつかなかった。

つまり、今安倍政治に反対している人たちは「安倍政治にアタッチしすぎているからそれが深刻に思える」ということになる。同時にそこから離れて新しい選択肢を探すことにも恐れを感じているということが言える。逆に代替策を探さなくても権威そのものが無効化されてしまえば、目的は半分くらいは達成できるし、興味がない人にも広がる。笑いはデタッチメントすることによって対象物を無効化できるのである。

そのためには安倍政治を客観視してみる必要があるということがわかる。少し離れたところからみると、安倍政権の口裏合わせは喜劇でしかない。しかし、これを個人が感じているだけでは笑いは発生しない。これは「裸の王様」の例を思い出すと理解しやすいだろう。王様が服を着ていないのは自明だが「みんながそれを認知している」という理解が共有されない限り、それは笑いにならないのだ。ベルクソンの定義を離れると、笑いはみんなが漠然と持っている感情に言葉を与えることで共有を促すための高度な技術なのである。結果的に緊張が緩和されることになる。

博多大吉が伏し目がちに「政治的な笑いには需要がない」と告白している。これはお笑いを生業にする人たちにとっては危険な態度だ。状況が閉塞するほどに、発言できる範囲は狭まり、最終的には弱いものを叩いて笑いを取るか、自分を貶めて笑わせるしかなくなってしまうだろう。日本は戦時中に「決戦非常措置要綱」を作ってエンターティンメントを禁止した時代がある。古川緑波などのお笑いタレントは大変苦労したのだが、こうした苦労は戦後には引き継がれなかったようだ。しかし、それは彼らの職場の問題であって、特に我々が考えるべき問題ではないかもしれない。

日本の笑いは実践が主で、理論的な教育がほとんど存在しないか、存在したとしても西洋喜劇の流れを組んだ古典的なものだからではないかと考えられる。このため体系的に自分たちの笑いを客観視する機会恵まれないのであろう。

戦争が起きると「笑っている場合ではない」ということになり、他人を強制的に戦争へと駆り立てる動きが出る。そこでどのように立ち振る舞うかが生き死にに直結するので、境遇を客観視するような余裕はなくなり、世の中から笑いが消える。現在も「政治を笑のめしてはいけない」という空気が広がっている。敵の存在こそ明確ではないが、社会が闘争状態に近づきつつあるのかもしれない。

 

テレビの政治番組の一番の嘘

先日、島田寿司夫さん(確か)が司会をなさっている「日曜討論」を見た。介護を扱った回だったのだがとても面白かった。女性で介護の現場代表みたいな方が2名出てこられたのだが、ポジションが対照的だった。お一人は声を震わせつつ政府の方針が間違っていることを訴えようとされているのだが、もう一人の(どうやら介護ではなくそのコーディネートをしているらしい)方はサバサバとしていた。

しかししばらく聞いているうちにこの「サバサバ」が実は絶望に裏打ちされているものだということがわかってくる。厚生労働省は現場を知らず、財務省はお金をどれだけ減らすかということしか考えていないと考えており、何か「改正」があったとしても、それは金減らしの改悪だとしか思っていないようなのだ。何回か「やっぱり現場のことをわかってくれていなかったんだなあということがわかる」とおっしゃっていたように思う。

この人がサバサバしているのが介護の現場ではなくコーディネートをしているからだ。介護というのは誰が担当になるかでサービスの質が大きく変わるそうなのだが、それを第三者的な視点で見ている。だから決して介護の人たちが大変なんです、なんとかしてくださいというような被害者的な視点には立っていない。しかし、サービスを組み立てる立場にいるので、制度がどのような意図で変更されているかということも冷静に分析できてしまうのだろう。「現場は淡々と日々の業務をこなすだけです」とおっしゃっていた。

このような態度に出られると「政府の福祉政策は100年安心なのだ」という物語をプロパガンダしたい人たちはとても困ってしまう。何を言っても「はいはい」みたいな感じでしか聞いてもらえないからだ。しかし現場に近い意見なのでとても説得力がある。決めつけるように話すので「いやそれは違いますよ」という発言が出るのだが、それは虚しく響く。もう責めていないからだ。

この女性の破壊力は、テレビの政治番組をある意味無効化してしまう。普通政府側は「うまくいっている」といい、カウンター側は「いやうまくいっていないけど、私たちがやったら状況は変わる」という。この呼応があると「ああ、なんとかなるのかもしれないな」と思うと同時に、私たち全てが政治に興味を持つべきなのだという印象を持つ。つまり、関心を持てば状況は変わるという見込みが生まれるのだ。

しかしながら、実際には「政治はいろいろやってくるけど、現場などわかってくれないし、私たちの声は届かない」と感じている人が意外と多いのではないかと思う。もともと最初から何も期待していないと考える人を合わせるとかなりの数に昇るのではないかと思った。つまり、政治番組がどちらかの陣営に分かれているというのは、国民の実感にはあっていないわけで「壮大な嘘」ということになる。

アベノミクスがうまくいっているというのは嘘だが、国民は頭が悪いから安倍政権の危険性がわからないはずというのも嘘である可能性も高いのだ。だから国民は政治に関わるまいとする。

さて、ここから「内閣支持率」の調査に考えるに至った。メディアの内閣支持率というのはRDDなどの安価な調査方法で調査されているのだが、これに「応じてもらえない人」の割合はどれくらいいるのだろうかと思ったのだ。例えば10年前に100件集めるのに200コールの発出で済んでいたのが1000件になったとする。このうち66%が支持で、37%が不支持だったとしよう。しかし実際の支持率は大幅に下がっていることが予想される。つまり電話をガチャ切りした人たちは「自分たちの声はどうせ届きそうにないから、何も言わない」という人かもしれないのである。

この電話に出なかった人、あるいはガチャ切りした人たちがどういう人なのかはもはやわからないのだが、一定数集めるためにどれだけコールしたのかという数字も合わせて公表しないとフェアな調査とは言えないのではないだろう。

だから、本来の政治討論番組には「難しくてよくわからない」とか「仕組みはわかっているけどもう何も期待しない」という人こそを呼ぶべきなのではないかと思う。とてもつまらない番組ができるとは思うのだが、それが多分リアルなのではないだろうか。

 

なぜ安倍政権で忖度が横行するのかを探るヒント

こども保険のニュースが断続的に出ている。そこで記事を読んでいて時事通信の記事に面白い記述を見つけた。

下村氏らが動きだしたのは、日本維新の会が改憲項目の一つに教育無償化を掲げ、首相が前向きな姿勢を示したのがきっかけ。

記事は、小泉進次郎議員が仲間と取りまとめたアイディアの賛同者を集めるために、下村さんたちにピッチに行ったという内容なのだが、面白いのは「忖度の現場」がさらっと書かれているということだ。気がつかない人も多いのではないかと思えるほどさりげなく描写されている。時事通信のようなオールドメディアの人たちにとっては当たり前のことなのだろう。

だが、この現場を捉えることで、忖度と言われている現象が何であって、何が問題なのかということが分析できると思う。

記事によると下村さんたちは教育国債を押しているようだ。これは負担増が選挙に悪影響を与えることを下村さんらが知っているからだろう。自民党は国民を説得して態度を変えさせるのが苦手で代わりに水面下で物事を自分たちの有利なように運びたがる文脈限定型の意思決定を行っている。だから、負担増につながる保険は政治的な壁が高い。一方で安倍首相は明確な指示を与えないままで「教育の無償化いいんじゃないか」と仄めかしたという状態になっている。

ここから下村議員たちは「提案」を行うのだが、すでに二つの要望が織り込まれている。それは「国民は負担を嫌がる」ということと「安倍首相には気に入られるような提案にしたい」というものである。さらに「民進党の提案を潰したい」という思惑もあるだろう。ポイントになるのは安倍首相は方針を明確に示していないということだ。つまり、本当に教育を無償化したいのか、それとも維新の会のご機嫌をとっただけなのかわからないのである。だから下村議員たちはそれを「想像で補っている」のである。

うまくいっている限りにおいてはこの関係はすべてのメンバーを満足させる。下にいる人たちは自分たちが組織を動かしているという有能感に浸れるし、上にいる人たちは自分に気にいる提案ばかりが持ち出されるから上機嫌で決済することができる。相互依存(甘え)がうまく成り立っている状態だ。

一部で忖度は「指示がない命令だ」というような言説が出回っているのだが、日本の場合には相互のあやし合いという側面があり、必ずしも「命令」だという意識はないのではないかと考えらえれる。

もし安倍首相が自分のプロジェクトを強引に進めたいタイプであればこうした「自分が組織を動かしていると思いたい」人々の機嫌を損ねることになりかねない。安倍首相は自分たちの周りをイエスマンだけで固めているので大きな混乱が生じている。例えば稲田防衛大臣のような無能な政治家が安倍首相の周辺が描いためちゃくちゃな振り付けにしたがって安保法というダンスを踊るとするととんでもないことになる。だが、その周りにはもう少し曖昧な人たちがいて、それなりの調整機能が働いている。だが、その関係は極めて曖昧であり「読み間違い」や「誤動作」を起こしかねない。

誤動作の一つは、愛国を唄う支持者たちが虐待まがいの教育者で、詐欺まがいの行為を役人に強要していたという例に端的に現れている。安倍首相は慌てて関係を切ったのだが、大炎上してしまった。また妻もコントロールできないので遊ばせていたところ、実はとんでもないプロジェクトに首を突っ込んでいた。公私の境が曖昧で自分の理想のためには手段を選ばず、善悪の判断もつかない。公務員を選挙に稼働したと騒ぎになっている。

「一事が万事」というが、実は下村議員もマネジメント能力には問題がありそうだ。小池都知事と東京都連の問題を解決できておらず、公明党との関係にひびを入れている。小池都知事は自民党をやめたと言っているが「誰も離党届を受け取っていない」という状態になっている。混乱は極めて深刻で「出て行けるもんなら出て行ったらいい」と記者の前で口走る国会議員さえ出ているそうだ。無能なマネージャーが組織を掌握できないと問題が出てくるわけで、却ってボスのご機嫌をとる必要が出てくる。これがさらに組織がガタガタにさせるのだ。

つまり、仄めかしに近い漠然とした指示を出す弱いリーダーと猟官を狙い身勝手なダンスを踊りたがる官僚的な組織があるところには、今日本で言われている「忖度」が横行することになる。しかしそれは「忖度」に問題があるわけではなく、組織のグリップが取れなくなっているところを「非公式なコミュニケーション」で補っているところに問題がある。だから「指示した・指示していない」とか「言った・言わない」が問題になり、なおかつ誰も責任を取らないということが起こるのだ。

これに加えて、痛みを伴うような改革ができない点にも問題がある。小泉議員らの提案は国民の負担増を求めるので、当然政府与党も引き締めを図り有権者・納税者を納得させる必要がある。しかし国民は冷めた目で政治を見ており「負担が増えないなら少々めちゃくちゃでも放置しておこう」と考えているのではないかと考えられる。そもそも厳しい意思決定はできない。また、組織は「自分たちの好き勝手にさせてくれるから」という理由で曖昧な指示しかしないトップを担いでいるのだから、組織はなりゆきのままで漂流することが予想される。

つまり、安倍首相が危険なのは彼が戦争ができる国づくりを目指しているからではなく、政府が無管理状態になった挙句、問題が次から次へと出てきて何も決められなくなってしまう可能性が高いということなのだ。すでに「言った言わない」が面白おかしくワイドショーネタになるような状態が続いている。日本は重要な局面で意思決定ができずさらに漂流するかもしれない。

 

松井一郎さん率いる日本維新の会のタチがわるいのはなぜか

今回考えるテーマは「良い愛国と悪い愛国」なのだが、それだと誰も読んでくれそうにないので、日本維新の会に関係したテーマを付けた。さらにアベノミクスはなぜ詐欺なのかを考えた。これを考える直接のきっかけになったのは、森友学園問題で自称愛国者の人たちが我先に逃げ出したのはどうしてだろうというものだった。なぜ利己的な人ほど愛国思想を語りたがるのだろうか。

印象的には「あの人たちのいう愛国は本物じゃないんだろうな」と思うのだが、面倒なことに文章にするには本物の愛国主義を定義しなければならない。だが、愛国主義はさまざま悪用されてきたのでなかなかニュートラルに考えられそうにない。そこで、愛国主義は集団主義の一種であり、集団が家族や企業などではなく、国に拡張されたものだと定義することにする。すると「良い集団主義」について考えればいいことになり少々気が楽になる。

「よい集団主義」を定義するうえで重要なのは持続可能性だろう。つまり、各個人のがんばりが、集団を通じての方がより効果的に蓄積されるとき、その集団主義は「機能している」と考えることができるはずだ。

すると、個人主義は個人間の契約に基づいた価値の交換が行われている形態だと定義できる。個人が価値の交換に納得でき、なおかつそれが全体を活性化させられればそれは機能している個人主義だ。個人主義はイメージ的にはブラウン運動みたいなものなので、運動を阻害する規制は排除されなければならないということになる。

すると集団主義は「個々の契約でみると一方的な価値のやりとりがあるかもしれないが、それが集団を通じて何らかの形で再分配される」から機能するのだということがわかるだろう。それは時間的な蓄積かもしれないし、あるいは空間的な蓄積かもしれない。もし一方的に簒奪されるのなら、それは奴隷制であって集団主義とは言えない。

例えば、終身雇用はよい集団主義だった。若い頃の労働は持ち出しになるが、それが数十年後に戻ってくるからである。再配分が機能している限りにおいてその集団主義は正当化される得ると考えると終身雇用は機能していた。またかつての農村もよい集団主義だったのだろう。若い頃働けば最後まで養ってもらえるからである。

ということは、集団主義が成り立つためにはいくつかの要素があることがわかる。まず集団主義には「生業」が重要で、時間的な蓄積が伴う場合には、その生業が長期間変わらないという条件がつく。再配分が成り立つためには創造された価値を蓄積しておく必要がある、ゆえにそもそも生産設備を持っていなければならない。つまり、集団主義は価値の創出がある場合においてのみ正当化されるということになる。武士のような寄宿層がいたとしてもそれは生産集団としての藩の一機能に過ぎず、単体では存在できない

アベノミクスが失敗したのは、政府と有権者の間に「生産者」がいないために価値の創造が起こらないからだということが言える。価値の創造を行っているのは企業なので、小規模生産者と自民党の間には関係が成り立ちうるのだが、企業が抜けてしまうとプロレタリアートと政党の間には再配分が起こらないのだ。公明党は企業とは関係がないではないかと思われがちだが、島田裕巳の研究によれば農村コミュニティが都市に同化した形態であり中小企業経営者らとのつながりが強く、やはり生産との関係があることがわかる。

ここから得られる景色はちょっと変わっている。つまり「良い愛国」と「悪い愛国」には主張そのものの違いがないということである。違っているのは背景であり、主張だけを見てもそれが良いものか悪いものかは判断できない。しかし、再配分の裏打ちがあることだけは重要である。

この点、アベノミクスは私物化と言われるが、それは必ずしも正しくないことわかる。彼らは生産を持たないかあるいは持続可能性を欠いているので、何らかの形で有権者一般から収奪して、自分たちのシステムに利益を誘導する必要がある。集団の中では利益を分配するのだから、支持者たちの中では私物化ではない。が、その他大勢の有権者にとっては単なる「支持者への利益誘導」であり私物化のように見える。つまり、安倍首相はよいリーダーということになり支持者たちの期待に応えているだけだということになる。唯一の問題は彼が日本全体の首相であるべきで、日本国憲法と法律の許容する範囲で行動することを期待されているということだ。だが、法律を遵守していては集団が維持できないほど、日本は持続可能性が低くなっているのだろう。

このように、集団が持っている再配分機能が失われると、政治家は集団的な人たちのコントリビューションが期待できなくなるということが予想される。それは集団的な考えを持った人たちのコミットメントが将来のリターンによって動機付けられるからだ。だから、政治家は何らかの形で利益が配分されない有権者を繋ぎとめておく必要が生じる。しかもリターンはできないのだから時間軸はより壮大である方がよい。すると「来世で報われる」というさらに長期の時間軸でもよいわけだが、さすがにそれは信じ難いので「国」という壮大な物語で時間稼ぎをするのだろう。社会の再配分機能があるときには「ことさら愛国を叫ばなくても集団主義が機能する」ということになり、ことさら愛国を叫ぶ人はすべからく詐欺師である可能性が高いという結論が得られる。ここでいう詐欺師は約束を守るつもりがあっても、それが実行できない人を含む。

さて、それでも物語を約束出来る人たちはまだ恵まれている。それすら約束できない場合にはどうすらばよいのだろうか。ここで、維新の会が出てくる。彼らは自分たちの支持基盤も生産手段も持たず、自民党から利権を収奪する形で大阪で成立した。しかし、そのままでは衝突が予想されるので協力者の形を取りながら自民党に擦り寄る戦略にシフトした。しかし彼らは自分たちでは価値が創造できないので「彼らの敵である民進党を攻撃する」という形をとるしかなかった。しかし、民進党は野党としての存在感を失ってしまったので、敵としての価値がなくなった。だから維新の会は今行き詰っているはずだ。

日本維新の会のタチが悪いのは、彼らが浮動層を支持基盤にしており、自分たちで価値が作り出せないからということになる。価値が創造ができないから、それを蓄積することもできない。ゆえに常にどこかから簒奪してくる必要があり、なおかつ利用価値がなくなれば捨て去るしかないのだ。ゆえに党首(松井一郎さん)の人格はあまり関係がないということになる。しかし、もし彼が自民党にいたら一生雑巾掛けで終わっていたかもしれない。浮かび上がるには奪い盗るしかないのだ。

さて、集団主義が機能するためには再配分が重要だと考えた。もしこれが正しければ、集団主義が成立するためには「生産が固定的であり」かつ「長時間持続する」必要があるということがわかる。しかし社会が変化してくると、集団主義に依存することはできなくなるはずだ。ここから集団主義は個人主義に移行する可能性が高いということが言える。一方、アメリカでは真逆の動きが出ている。個人主義が行き過ぎると、勝者と敗者の二極化が起こる。すると敗者の側は我慢ができなくなり、集団主義を頼み勝ちすぎた個人を淘汰するような動きが起こるはずだ。このように集団主義と個人主義はどちらかが究極ということはなく、つねに振り子のように揺れているのかもしれない。

 

豊洲移転問題を解決する3つの処方箋

昨日の減価償却についてのつぶやきを見たあとで、錯綜した議論の原因を探そうとおもいいろいろと調べてみた。簡単におさらいすると、豊洲市場移転問題の議論で「減価償却はサンクコストだから考えなくて良い」という話があり、それに対して築地存続派の人たちが「どんなのデタラメだ」と言っていたというのを見かけたという話だ。

これを例えるとこういう話になる。

バカ息子が突然訪ねてきて「築地の家は汚いし補修も大変だ。で豊洲に家を買っちゃったんだけど、ローンが払えなさそうなので代わりに払って欲しい。」と申し出る。豊洲のタワーマンションの景色が気に入ったらしい。

で、バカ息子は続けてこう説明する。でも、もう豊洲の家を買っちゃったし、これってサンクコストでしょ。サンクコストはネグっていいんだよ。築地は維持費がかかるけど、豊洲はそういうの(しばらくの間は)無視できるから、豊洲のキレイなマンションに住んだ方が生活が楽になるんだよね。

僕だったらバカ息子をぶん殴って<議論>は終わりだ。が、経済用語が出てくると「あれ、これってバカ息子の方が正しいんでは」という疑念がでてきてしまうのだ。

この議論はそもそも、豊洲移転について試算をやり直したところ「移転は難しい」という報告書が出たというのが端緒になっているようだ。移転ができる(つまり豊洲移転プロジェクトが正当化される)条件はいくつかあるのだが、利用料金を二倍にする(収益を増やす)か、初期投資費用を税金で賄う(負債を減らす)か、他の儲かっている市場と会計を合一にする(枠を変える)必要があるらしい。その中に「減価償却」という用語が使われており、それが一人歩きしたようだ。減価償却はイニシャルコストと追加でかかる補修費を指しているらしい。

この議論が混乱した最初のきっかけは小池さんだったようだ。カタカナ語が多いことで知られているのだが、付け焼き刃的な知識も多いのかもしれない。小池百合子都知事は「無駄な投資」の意味でサンクコストを使ったのではないかと思う。どうやら「私が介入した結果豊洲は安全になった」というシナリオがあり、豊洲の投資が無駄にならないようにという意味で「サンクコスト」という言葉を使ったのかもしれない。それを聞いた経済学の専門家(多分わかっていて)が議論をまぜっかえし、お調子者の政治家が追随した。そこで「それはおかしい」と直感的に考えた人が騒ぎ出したようだ。

減価償却がサンクコストかどうかが問題になるのは、キャッシュアウトしているにもかかわらず、会計上の支出はあとで起こるからだ。つまり、お金の出入りと会計上の処理が時間的にずれるために錯誤が生じるのだ。プロジェクト計算をする時に「あれ、キャッシュベースで考えるんだっけ、会計ベースなんだっけ」と迷うことがあるので「減価償却はサンクコストですよ」と暗記するわけである。過去の投資の失敗をなかったことにするために使う魔法の言葉ではない。

もともと豊洲の収支計画は議会に提出されており、工事も終わっているわけだから、何らかの形で支出は終わっているはずだ。つまり、議会が承認した結果キャッシュは外に出ている。だから今更「費用の負担をどうしましょうか」という議論が出てくること自体「あれ、何かおかしいな」という気がする。

その上、実務はもっとややこしいことになっているようだ。つまりキャッシュアウトと会計処理に時期的な違いがあるだけでなく、ローンの話が絡んでいるのではないだろうか。豊洲が失敗したと仮定して「無駄金」を払い続けることになっても、過去の承認がなかったことになるはずはない。つまり議論としては簡単で「あてにしていた収支計画がデタラメだったから、それを税金で補填しなければならない」というだけの話なのだ。移転しなければお金は全く入ってこないし、移転してしても期待ほどのお金は得られないということになる。

いずれにせよ「どうお金を工面するのか」という問題は「A/Bプロジェクトのバリュエーション」と分けて考えなければならない。それを一緒くたにするとわけがわからなくなるのは当然じゃないかと思うのだが、この一連の議論を追ってみると、それを気にしている人はいないように思える。

ではなぜそんなことが起こったのか。気にしてテレビを見ているとコンテンツビジネスに詳しい国際弁護士を名乗るコメンテーターが「イニシャルコスト」の意味で「減価償却」を使っているのを見つけた。わかって使っているのかもしれないが、これは議論をややこしくするだろうなあと思った。

ここで豊洲がいいのか築地がいいのかという議論をするつもりは一切ないし、そのような情報も会計知識もない。一つだけ言えるのは、議論の参加者に会計の基本的な知識がないために、いろいろな人がそれぞれの勝手な思い込みで議論を理解して問題を複雑化しているということである。その上雪だるま式に様々な問題が一緒くたになるのでいったい何を議論しているのかということがわからなくなっているようだ。

この状況を改善するためにはどうしたらいいのだろうか。3つほど処方箋を考えた。

一つは外野を黙らせることだ。誰が何を決めているかが明確になればこの問題は解決する。この原因を作っているのは小池都知事である。小池さんは「いつまでに何を決めたいのか」がさっぱりわからない。従って、誰が責任を持って何をどこまで決めるかが明確にならない。

次にやることは、何を議論しているのかというスコープを明確にすることである。政治問題なので実行は難しそうだが、いつまでも揉めているよりは楽になりそうである。この場合は「リスク要因の確定」「投資のバリュエーション」「政治的な責任問題」などに分けられる。多分予算の話ができるのはそれ以降ではないだろうか。不確定要素が多い上に単純な意思決定もできていないのに、総合的な意思決定などできるはずがない。

最後にやることは共通言語の獲得である。が、これはすぐには難しい。今回の議論では会計用語の基礎と倫理問題(持続性や安心安全に関わる)の基礎を知っていないと議論に参加できない。アメリカでこういう不毛な議論が起こりにくいのは、マネージメントを行う人が、修士レベルで経営の基礎知識を学んでいるからだ。一つひとつは実務レベルの知識ではないので「こんなの勉強してどうするんだろう」などと思うわけだが、よく考えてみると、基本的な知識の粒を揃えておかないと議論すらできなくなってしまうのだなあと思う。その意味では日本人はバベルの塔に住んでいる。同じ言語を話しているつもりで全く相手のいうことがわかっていないのである。

森友事件と政権の死 – 日本型組織は誰が動かしているか

昨日は森友学園問題でワイドショーは1日大にぎわいだった。「安倍を倒せ」と息巻く人も多かった。これだけ盛り上がった背景には安倍政権を取り巻くもやもやとした雰囲気があるのだろう。ドラマが盛り上がるためにはその前段にもやもやがなければならない。

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