なぜカンニング竹山は炎上したのか

カンニング竹山さんのこの発言が炎上した。炎上の原因は、森友学園問題で「8億円の値引きは仕方がない」とコメントしたことにあるようだが、原因となった番組を見ていないのでここはなんとも言えない。いずれにしても「政治について語っても生活は何も変わらない」という実感があるのだろう。

このツイートを考えるといろいろなことがわかる。

第一の疑問は、なぜコメディアン風情が政治に口を出したのかということだ。そして、次の疑問は、なぜコメディアンが政治問題をうまく扱えないのかという問題である。

第一の疑問を解くのは実はいさささか難しい。そもそも日本の演劇人は政治とは無縁ではなかったからだ。日本の喜劇にはいくつかの潮流があるのだが、源流の一つは政治をわかりやすく伝えようとした川上音二郎に行き着く。大河ドラマ「春の波濤」のモデルにもなった。これが新劇となり現在にも受け継がれているのだが、大衆化して派生したのが浅草演劇だ。浅草演劇は、萩本欽一やビートたけしといったコメディアンを輩出した。

コメディアンと政治の関係が問題になるのは、実は現在の「お笑い」がこうした伝統から切り離されつつあるからだと考えられる。お笑いが大衆演劇ではなく、プロダクションが運営する「学校」で教えられるようになっているのが切断の理由ではないだろうか。

芸能プロダクションが運営する学校の目的はテレビが必要とする非正規雇用タレントの促成栽培だと考えられる。が、当時のお笑いは、とんねるずに代表されるような仲間内のふざけあいだった。そこでいじめられる「キャラ」が必要とされた。例えば、太っている人やあまり美人でない人を「いじる」と称していじめたり、熱いものを食べさせて苦しむ姿を眺めるのがテレビのお笑いだったのだ。

単にいじめられているだけでは面白くないので「いじる」側のキャラも必要だった。つまり、バブル期以降必要とされたのは、公開いじめを演じるキャラたちだったと考えられる。

ところが、フジテレビの凋落が示すように、こうした公開いじめは徐々に飽きられてゆく。それが単なる仲間内の馴れ合いであるということが徐々に露呈してきたからだろう。テレビで馴れ合いのいじりあいをしているのは「私たちとは関係がない」人たちとみなされるようになったのだ。

つまり、竹山さんのツイートはこの意味でとても示唆に富んでいる。テレビで仲間内の馴れ合いであるいじめを演じる人たちにとって「政治は関係がないや」と考えている。つまり庶民とは違った世界を生きているのである。が、そのように切断された人たちが演じるお笑いが視聴者の共感を得るはずはない。その意味では同じナンセンスなことをやっていても、自分たちとそれほど変わらないYouTuberの方が圧倒的に面白いし、圧倒的にリアルだ。

そこで芸人たちは新しい職場が必要になった。それが政治などを扱う情報系番組である。この背景にも実は同じような構造がある。ストレートな報道番組が見られなくなっているのだろう。報道番組はもともと政治記者たちが主導して作っていた番組だが、彼らが関心を持つのは派閥などの人間関係なので、有権者には全く関係がない。

かといって、虚構のキャラクターを演じる俳優を政治問題を扱う番組に起用するのは危険性が高いし、文化人ではリアクションが取れない。そこで、お笑いタレント程度であれば起用しても構わないと考えたのではないだろうか。が、ここでの問題は「政治問題でも当たり障りなく演じられるだろう」というテレビ局のある種傲慢な思い込みだ。実際には視聴者の気持ちが番組を作るはずなのだが、テレビ局は「自分たちが流れをコントロールできる」と思ってしまうのだろう。

もともとネット文化はラジオと親和性が高い。ラジオはサブカルチャーと見なされているので、少々偏った意見でもそれほど嫌われることはなかった。最初にタレントが政治を扱いだしたのは、多分テレビではなくAMラジオなのではないだろうか。が、これがテレビになると「誰も傷つけてはいけない」ということになってしまう。お笑いには常に誰かを傷つけるリスクがある(が、それを笑いという緊張緩和で統合する昨日もある)わけで、ここに芸人を立たせるのは実は気の毒なことなのである。

改めて考えてみると、普段私たちが政治について語ることは珍しくなくなっていることがわかる。つまり、なぜラジオでしか成立しなかったようなコンテンツがテレビでも受け入れられるようになったのかという疑問が生まれる。 原因は幾つか考えられる。民主党に政権交代するときにテレビ政治ショーを通じて「一般庶民でも政治に口出しできる」という印象を与えた。さらに、安倍政権のデタラメさにうんざりした人たちがTwitterで語り出したという要因もあるのだろう。Twitterには「言語化できないが、何かおかしい」という人が満ち溢れており、常に新しいコンテンツを求めている。

しかしここで問題が起こる。テレビでいじめが横行するのは、視聴者が「自分たちが巻き込まれることはない」と考えて安心してみていられるからだ。これは学校で誰かがいじめられているのを見て他の人たちが「自分はターゲットではない」とホッとするのに似ている。つまり、いじめを見ているうちは、みんなが満足することができたのである。だが、政治的課題にはつねに「対立」と「分裂」がつきもので、スキルなしにはみんなを満足させることはできない。また、当たり障りのないことを言えば、却って両陣営から「相手に組みしている」などと言われることになる。

もし、浅草演劇の流れを汲んだお笑いが生きておれば、権力から直接距離をとりつつ、目の前にいる人たちのリアクションを見ながら、違和感を言語化するというようなお笑いが成立したのかもしれない。笑いには「感情を解放して全体を統合する」という見逃せない機能があるからだ。しかし、テレビ芸人の人たちにはこうしたスキルがなく政治番組への出演も「バイト感覚」なので、対立に直面すると単に引きこもるしかなくなるのだろう。

当たり前のことがとても画期的に見えてしまう千葉市長選挙

千葉市長選挙が盛り上がっていない。現職に対抗する候補がいないのだ。一応、選挙期間中なので公平性のために書いておくと、共産党が擁立した候補と現職の一騎打ちということになっている。この様子を見て、もし自民党がまともだったら革新系の政党はなくなってしまうんだなあと思った。中央で共産党などの革新系がある程度の勢いを持っているのは、実は自民党のおかげなのだ。

千葉市の共産党側は、争点を「学校にクーラーを入れる」ことと「カジノをやめさせる」の2つに絞ったようだ。が、正直「なんでそれなの?」という思いはある。

一方で現職側は市民と一定のつながりをもっていて、いくつかのプロジェクトを走らせたい模様だ。主なプロジェクトには、市中心部の再開発、市役所の建て替え、海岸沿いのまちづくりなどがある。政治家としてまちづくりみたいな大きなことをやってみたくなったのかなあという懸念はある。二期目までの主な仕事は財政の立て直しだったからである。

千葉市長は選挙のたびに約束を立ち上げ、任期中に検証し、一応選挙期間中にチェックして、新しい約束を作るというようなサイクルになっている。この約束をマニフェストと呼んでいる。中央民主党が失敗した手法なのだが、政令市レベルだと一人で組み立てることができるので、これがうまく機能するのだろう。

このことから、共産党というのは今や自民党のおかげで成立している政党なのだということがよくわかる。つまりそれほど現在の政権政党の政府運営はひどい状態になっていると言える。だが政府叩きには2つの欠点がある。

一つ目の欠点は、あまり勉強しなくても政府を叩くのは簡単だということだ。財政の仕組みを勉強しなくても「福祉予算がないのは政府が無駄遣いをしているからだ」といえば、なんとなく立派なことを言ったような気になってしまう。共産党の候補の方は「市長と話をして大規模プロジェクトはよくないという思いを新たにした」と言っているのだが、思い込みが確信に変わってしまうのだろう。

だが、支持者にとってもっと深刻なのは「叩くこと」がもたらす一体感と陶酔感ではないだろうか。共産党をはじめとした野党4党は自民党の悪政を追求するのに夢中になっている。この運動には麻薬のような効果があるように思える。

共産党はモデルにする社会像を持たない。これは東側陣営が崩壊してしまったからだ。ドイツのような社会民主主義も根付かなかったので、核心陣営には政策立案能力がないのだ。それが露呈しないのは、実は自民党を否定さえしていればまともに見えてしまうからである。もし自民党が憲法を遵守しつつ都合の悪いところを変えてゆこうなどと考えれば、共産党はたちどころに崩壊してしまうかもしれない。

実際に自民党政権が安定したのは、憲法や国防といった問題を棚上げにして経済に集中したからだと考えられる。憲法や国防という大きな問題は陶酔感を伴った反対運動にとって「飴」になっているので、これを扱わないことで、若者たちは却って政治に興味を持たなくなっていったのだ。いったん陶酔したからこそ冷めるのも早かったということになる。

その他の革新系の団体も実はあまり選挙には乗り気でなくなっているようだ。原発をなくせなどいう運動は誰も興味を持たないので運動の中心にいられるのだが、市長が積極的にマニフェスト作りを呼びかけると「その他大勢」になってしまうのだ。

千葉市がこういう状態でまとまったのは、財政がかなりひどい状態に陥った上に自民党型の金権政治が「逮捕」という最悪の形で終焉したからである。その後バブルの処理を経て今の状態になった。

現在、国政ではかなりひどいことがまかり通っているのだが、このまま安倍政権が何年か続いた方がよいのかもしれないと思うことがある。やはり「あれはひどかったね」というのが浸透しないと状況は変わって行かないのではないだろうか。

現職の支持者の中には「マニフェストまで作って素晴らしい」などというつぶやきをする人がいるわけだが、実は当たり前のことをやっているだけのようにも思える。これが素晴らしく見えるのはある意味では自民党のおかげであると言える。つまり、自民党が内部から改革してしまうと、多分民進党を含めた革新系は総崩れし「安倍政権はいらない」と言っていた人たちも政治から「手を引く」ことが考えられる。

つまり、中央には自民党があるから革新政党がなくならず、革新政党が政策立案能力を持たないので、自民党が支持を集めるという奇妙な相互依存関係があるのだ。

国政に比べるとまともに見える千葉市政だが、当然問題もある。共産党がプロジェクト管理をまともに学んでいるとは思えないので、例えば市役所の建て替えが見積もり通りに行われているのかをチェックする人たちが誰もいないのだ。

なお自民党側は今回現職を応援しないが独自候補も立てないという方針で臨むようである。基本的に中央の勢いを地方に取り込むという形式の政党なので、中央がガタガタになると地方支部が衰退してしまうのかもしれない。もともと逮捕されてしまった前職を担いでいたという「前科」もあり、独自候補が立てられなかった可能性もある。

砂漠化する政治議論

面白いツイートを見かけた。選挙を控えている熊谷千葉市長がツイッターで絡まれている。もともとは零戦が復活するという話なのだが、これに「零戦=日本軍=悪」という人が絡んだ。それに対して、共産党にも反省すべき歴史があるが共産党が全面否定されるわけではないですよねと返したところ、熊谷市長は共産党とソ連の関係を知らないと非難されたのだ。

唐突に共産党が出てきたところには違和感があるのだが、今度の市長選挙の対抗勢力は共産党しかなく、選挙がらみだと考えたのかもしれない。が、全体としては他愛もない話でしかない。

面白いことに、このところ熊谷千葉市長はツイッター上で「炎上」しているらしい。どうやら「政治家=右翼」という図式があるらしく、ジェンダー系の話を「右翼の人権侵害」みたいに捉えているらしいのだ。この話が面白いのは、千葉市で熊谷市長が置かれている状況と部外者の印象がかなり異なっているという点である。

もともと千葉市は自民党を中心に金権政治が行われていたところであり、民主党から出た市長は若くてリベラルだという漠然とした印象がある。が、こうした文脈は千葉市以外には伝わらないのだろう。そこでいろいろな人が自動的に個別のツイートに噛み付くという状態になっているようだ。政治家の発言にアレルギーを持つ人が多いのだろう。いずれにせよ、千葉市には対立候補を擁立する政党は共産党以外にはなく、こうした炎上は政治には何の影響も与えないのだ。

こうした部外者が政治問題に口出しをするケースはもはや日常化してしまっている。日本人が政治に関心がないというのは嘘だろう。この構図は豊洲問題にも見られる。豊洲問題は日本人がなぜプロジェクトをまともに扱えないかというケーススタディーとしては面白いのだが、所詮は東京都民の問題である。にもかかわらず全国各地の人たちがツイッターで「参戦」してきて、落とし所がない「議論」を繰り広げている。つまり、なんだかよくわからないが部外者が「気軽に政治的な話題に参入してきて落とし所がないままで相手の人格を否定しようとする」ということが常態化しているのだ。

もちろんこれは日本だけの問題ではない。例えばアメリカでは政治的騒乱は必ず暴動に発展する。窓ガラスを割ったり、商店を略奪したり、車を転倒させたりするようなことが行われるわけだが、これは政治的議論にある程度の知識や技術が必要とされるので、それができない人たちが騒ぐのだ。日本では政治的議論がこうした「暴動」の場になりつつあると言えるだろう。

こうした状況は幾つかの理由により建設的な議論にはつながらない。例えば自民党には熱心な「サポーター」が大勢いて日夜宣伝工作を繰り広げている。が一方で会費を払って党員になる人はそれほど多くはないらしい。一般党費は4000円でしかない。これはお金をもらってTwitterに悪口を書き散らしている人は多いが、お金を払って政治家をささえようなどという人はいないということを示唆している。お金をもらって暴れる人や、お金はもらえないがなんらかのベネフィットを求めて体制擁護の意見を書き散らしている人は見かけるが、議論に参加しようという人はいない。

建設的な政治意見をいう人はいないのだが、ちょっとした政治的な意見表明すらできなくなっているらしい。政治的意見を公的にいうことは「危険だ」という空気が生まれつつあるようだ。

共産党の機関紙「赤旗」によると。政治コメディーを扱うザ・ニュースペーパーは森友問題をテレビでやれないということである。高市早苗総務大臣が「停波をほのめかす発言」をしてからテレビ局が萎縮しているのだろうというような分析になっている。前回、ザ・シンプソンズを引き合いに出してテレビで政権批判をしても別に生死に関わることはないと書いたわけだが、正直なところそれは間違っていたのかもしれないとすら思った。ザ・シンプソンズはトランプ大統領をかなり批判的に書いているが、トランプ大統領に近いFOXのコンテンツだ。

そもそも、どうしてこのようなことが横行することになったのだろうか。こうした空気が広がったのは、安倍政権が国民の声を聞かなくなった頃からだ。「決められる政治」を標榜して、どんどん物事を決めてゆくのだが、説明がめちゃくちゃで、議論をするつもりはないらしい。最近では「そもそも」という言葉の使い方を巡って騒動が起きている。憲法の解釈もめちゃくちゃなら、言葉すらデタラメということで、議論が全く成り立たない。さらにマスコミを恫喝したのでまともな議論が表舞台から消えてしまった。

日本人は政治的な意見表明のロールモデルを持たなくなったので「脊髄反射的に相手の人格攻撃をする」ことが政治的な意見表明だと思い込むようになったのだろう。恐ろしいことにこれが拡大再生産されて、政党の議論すらおかしくなりつつある。

公の場で相手を否定せずに意見をすり合わせてこなかったツケは実はかなり大きいのではないだろうか。誰も決まったことに責任や愛着を持たないのに、社会を支えて行こうという気持ちになれるはずはないからだ。「政治的な意見表明が行えなくなったら安倍が戦争を起こす」ということはないだろう。が、国民が政策決定に関わらなくなれば民主主義は内側から壊死してしまうのだ。

決めたことはみんなで守らなければならないが、決める時に責任を持って議論に参加しなければならない

クールビズの温度はなんとなく決まったので科学的根拠がないという話が出ているそうだ。自民党の人たちは民主主義というものを根本から理解していないのだなと思った。正直、もううんざりだといいたいのだが、「え、なんで怒っているの」ということになりかねないので、説明してみたい。

大人の世界ではみんなで決められたことには従わなければならない。そのためには自分の考えが違っていれば「違う」と言わなければならないし、わからないことがあれば「わからない」という必要がある。

誰でも(ずけずけものをいうアメリカ人などでも)嫌われるのは嫌だから、議論の全体が一定の方向に流れている時「私はわかりません」とか「それは違うと思います」というのは勇気のいるものだ。だが、それでも意見をいうのが大人というものなのである。

実際には「許容範囲の温度」を17度〜28度と法律で決まっているので、その上限にあたる温度を設定した(つまり高い目標を立てた)ということである。前段になる法律は随分と前に作られたものなので、それに妥当性があるかというのは議論のあるところだろう。エアコンの設定温度ではなく室温(実際の温度)が28度になるように調整するということもあまり知られていない。

今回「28度は高すぎるのでは」と言った人たちには男が多かったのではないだろうか。男性は夏でも無駄に暑いスーツを着てネクタイを締めたがるので、室温を高く感じるのだろう。女性との間で「エアコン論争」が起こるのも珍しくない。当時の責任者が女性の大臣だったということもあって、その時には文句を言わないのにあとからグダグダと「いやああれには科学的根拠はないんですよ」という。こういうことをいう人は議論に責任を持って参加していないことになるし、多分責任を持つ気もないのだろう。

嫌われたくないという理由で何も言わなかったのなら、そのあともずっと黙っていろよと思うのだが、こういう人に限ってあとになって「聞いていなかった」とか「納得していなかった」などと言い出す。

こういう人たちはそもそも「みんなで納得して決める」ということができないので、審議時間=議論の質ということになってしまう。最近の大切な議論は全てこんな調子で常に「真剣に考えた結果納得ができていない」という人たちを置き去りにすることになってしまう。

民主主義の危機だと思うわけだが、自民党のこうした態度は民主主義以前に大人としてどうなのかと思う。副大臣どころか政治家を辞めてしまうべきなのではないだろうか。この副大臣は比例復活ということだ。

自民党議員の姑息さは多分日本人のこうした無責任さに裏打ちされているのだろう。そもそもGHQに恩赦されて政治家として復帰しておきながら「あの憲法には納得していなかった」という人の子孫がトップにいるのだから当然といえば当然かもしれない。多分家の中でぐちぐちと「本当はGHQにこびへつらいたくなかった」と女々しくつぶやいていたのではないだろうか。それが娘を通じて孫に伝わり、いつしか「おじいさまの悲願」となり、政治的リソースを食いつぶしている。1日も早くこんな日を終わらせることはできないのだろうか。

 

犬について考えるついでに憲法についても考えてみた

また、犬が倒れた。老犬になるとびたびこういうことが起こるそうだ。これについていろいろ考えたついでに(考えるだけでなくやることがいっぱいあるのだが)憲法についてもちょっと考えた。関係なさそうなのだが、犬の介護くらいのことでも「社会」について考えることがあるのだ。

犬が倒れると食事をしなくなったり、歩けなくなったり薬を飲まなくなったりする。しかし、一人であれこれ考えるだけでは何も解決しない。そこでウェブサイトを検索すると歩けなくなった犬の介護用ハーネスの作り方が書いてあり、公共図書館で本を借りることもできる。つまり、悩んでいる人は大勢いて知識の分かち合いも行われているのだ。つまり、誰も助けてくれないようでいて社会と関わることがある。ただしその関わり方は様々だ。もちろん、同じことは人間にも言えるのではないかと思う。

私たちはいろいろな義務を背負っていて、同時にそれを誰かと分かち合うことができる。堅い言葉で言うと「相互扶助」という。相互扶助という考え方では「義務と権利」というものは実は同じことで、それを個人だけでやるか、社会と分かち合うかということを決めているだけということだ。

例えば教育の無償化は「教育を受ける人」には権利になるが、支える人には義務になる。が、義務を負った人も同時に権利を持つ。

「教育の無償化」というと、そうした義務を負うことなしに権利だけが得られるという間違った印象を持つ。こうして議論が歪められてゆく。これは「権力」が介在することによって相互扶助という原則が見えにくくなるからであると考えられる。ゆえに教育無償化の議論は極めて有害なのだ。

こうした歪んだ意識は様々なところで見ることができる。例えばふるさと納税などもその一例だ。本来なら「学校教育に使われる」か「俺の肉を買うか」ということになるのだが、直接還元される肉に人が殺到する。税というものが正しく理解されていないし、健全に運用されていないからこういうことが起こるのだろう。が「私たちのために使われる」という政府に対する信頼がないことが背景にあり、一概に納税者を責められない。

ただ、これは民主的な社会の話だ。支配者が「国民に与える」恩典憲法では、極端な話義務について書く必要はない。与える権利だけを記載すれば良いからである。その意味では帝国憲法は恩典的だが、その改正によって生まれた戦後憲法もGHQからの「恩典的」憲法なのかもしれない。日本憲法は権利の数が多いというが、これは実はGHQが国民に与えたという性格があるからだ。その上「民主主義はいいものですよ」というプロパガンダ的な性格を持っている。リベラルの人たちの護憲運動に説得力がないのは、それが彼らによって勝ち取られたものではないからだ。護憲・平和などと言っているが、それは上から落ちてきたものを拾っているに過ぎない。

「社会の関わりを定義する」という筋から考えると、憲法改正にはふた通りの議論があるということになる。

  1. 余力ができたりインフラが整ってきたので、社会が個人に対して新しい関わりを持つという方向性。これは社会保障インフラなどについて言える。責任を負うが享受できることも増える。
  2. 個人のリテラシーが整ってきたので、今まで社会が関わってきたことから手を引く。これは規制緩和などについて言えるだろう。責任からは解放されるが、享受できるサービスも減る。

つまり憲法議論は、個人が社会とどの程度関わりたいかという個人の考えが社会的なコンセンサスを得て成り立つのだということになる。これが「国民が主権者である」という言葉の意味ではないだろうか。つまり、リベラルは合意形成機能を持っているべきだ。日本にはこうした機能がなく、社会が引きこもりを起こすのである。

市民側からの圧力がないので、民主主義憲法を権力者である首相とカルト系宗教の支持者たちだけが社会と国民のあり方のバランスを変えたがっているというとても偏った状況が生まれている。ここから「飴」を与えて権力を奪取しようというおかしな現象が起こるのだが、結局義務を負うのは国民である。国民はこれをわかっているので「政治に何を言っても無駄」という冷めた空気が生まれるのだ。

だからといって「憲法は権力を縛るものなので指一本触れてはならぬ」というのもあまりに歪んだ議論である。憲法は国民がどう社会に関わるかということについて記述されるべきで、権力に対する重石として置いてあるわけではない。が、リベラルから改憲の動きが出てこないのは、彼らが社会についてあまり何も考えていないからなのかもしれない。

さらに、社会はくだらないものだから引きこもるということであればそれも考えの一つなので、国や社会の関与を減らすべきだという主張もできる。減税とサービスの低下が選択肢ということになる。

つまり社会が助け合いをしようという人たち(つまりリベラル・革新派)ほど権力が強くなるはずで、本来は改憲派になる可能性が高いということになる。ところが日本人の意識には恩典憲法的な価値観が残っており、この通りにはことが運ばないのだろう。リベラルは自分たちの運動で得た権利ではないので「根がない」状態にあると言える。

リベラルの人たちは(例え国防に対する考え方などが保守的であっても)まず合意形成機能を獲得する必要がありそうだ。民進党の人たちの「バラバラ感」を見ると、安倍首相の批判に熱中している時間はないのではないだろうか。

憲法改正やってみればいいんじゃないか

昨日、複雑に絡まるマダガスカルジャスミンの植え替えをしながら、Twitterでときどきやりとりさせていただいている人とちょっとしたやり取りをした。安倍政権が好き放題しているのは政権交代が起こらないからなのだが、それはどうしてなのだろうというのものだ。テキトーに考えた結果は「日本人は政権交代に懲りている」というものだった。

長い間、日本人はアメリカ流の二大政党制と政権交代に大いなる憧れを持っていた。当時の課題は金権政治からの脱却だった。そこで選挙にお金がかからなければ政治は清浄になるだろうという根拠のない期待が生まれ、政党助成金と小選挙区制が導入された。しかし、それでも不満は収まらなかった。

バブルが崩壊して「このままにすると日本は大変なことになる」というような空気が生まれた。今度は「官僚がお金を隠しているだけなので、政権交代すれば大丈夫ですよ」という政党があらわれた。自民党は緩んでしまっており大臣の失言などが止まらなかったので「もういいよ、面倒だから政権交代だ」ということになったのだが、結局その人たちはたんなる嘘つきだった。

つまり日本人は「見たことがなかった政権交代」に過剰な憧れを抱き、一回失敗したら怖くなってしまったことになる。前回ご紹介したNHKの調査では政治参加意欲そのものが低下しており、NHKはその理由をこのように分析している。2004年と2014年を比べているのだが「政権交代しても結局無駄だった」という感覚があるのだろう。

本稿ではこの背景について、①政治に働きかけても何も変わらないという意識、②前回に比べて比較的安定した経済的状況、③若い世代を中心とした身近な世界で「満足」するという価値観の変化、の3つが重なったことが要因ではないかと考察した。

さて、政権交代が問題を解決しないとなった今、政治家の関心は憲法である。つまり、憲法さえ変えれば「賢い俺たち」が政治を劇的に変貌させるという根拠のない自信があるのだろう。が、これは政治家だけの感覚ではなく若い人たちの中には改憲派が多いという記事もある。この毎日新聞の記事は「社会が変わってほしいという期待感もある」と言っている。

制度さえ変えれば何かが劇的に変わるだろうと考えるのは日本人がプロセスを無視して結果だけを求める傾向が強いからだ。が、その制度が失敗してしまうと今度は極端にそれが嫌になってしまうのである。

いわゆる一連の政治改革は結局は自民党の派閥の内紛だったのだが、憲法改正論議は自民党のパートナー政党の乗っ取りが目的になっている。結局は内紛なので議論が成熟するはずはない。だったら一度「本格的な議論」をして国民投票してみればいいんじゃないだろうか。特に教育無償化は財源を巡って炎上する可能性が高く、多分国民は憲法改正論議自体を嫌がるようになるだろう。

 

 

豊洲移転問題と我慢の民主主義の崩壊

まだ、築地残留か豊洲移転でもめているらしい。この問題は不思議と部外者が大勢参加している。そのため、議論がなにを解決すべきなのかがわからず、いつまでもくすぶり続けている。ではなぜそのようなことになったのか。考えているうちに日本流の「我慢の民主主義」が崩壊しているのかもしれないなと思った。

問題を整理したいならまず何を解決するかを明快にしなければならない。それは誰のどんな課題を解決するのかということだ。この議論は、実は豊洲か築地かということだけが議論されており「誰の問題を解決するか」が棚上げになっている。

豊洲問題を離れて寿司屋について考えてみよう。寿司屋にはいろいろな種類がある。銀座久兵衛のような高級寿司店も寿司屋だが、すしざんまいのような回転寿司店のほうが数は多い。ここで数の原理で「寿司屋はすしざんまいしか認められない」と言い出したらどう思うだろうか。多分「銀材の高級な寿司屋は日本の伝統的な文化だし」と考えるのではあるまいか。実は築地か豊洲の議論はこれに似ているのだ。

高級寿司屋は細かな流通仕入れルートに支えられており、目利きが重要だ。一方で、すしざんまいのような回転寿司店は全国に効率的に同じ魚を届ける必要があり「効率的な」流通が必要になる。つまり、すしと言っても全く違う業態だと言える。だから、提供すべきソリューションも違ってきて当たり前なのである。

効率化を追求するためには規模の経済を働かせる必要がある。すると高級寿司店を支える零細業者は同じルールでは立ち行かなくなる可能性が高い。一方で細い伝統的な人たちに合わせると規模の経済が追求できないので大規模業者は営利が追求できない。が、普段は「共存してやって行きましょう」ということになっている。

実際の日本の魚食文化は大規模化・集約化が進んでいる。これは消費者が面倒な魚から離れてパックで買える切り身や外食を好むようになっているからだと言われているそうだ。つまり、ほったらかしにすると大規模流通だけが生き残る可能性が高い。どんな魚が大量流通に向いているかを見たければ西友とかコストコに行けば良いと思う。コストコでは外国産のサーモン(鮭ではなくトラウトの一種が多いようだが)が売られていたりする。が、西友しかしらない人は「こんなものだろう」と思うかもしれないが、大衆魚はもっと調理に手間がかかっていた。鯖を買ってきて背骨と身を分離したり(三枚におろすとかいう)、小さなアジをあげて酢につけて食べたりしていた。

大衆魚を食べる文化は高齢者世帯にしか残っていないと思うが、観光資源としての役割もある。接待で寿司を食べる人が減った代わりに観光客を惹きつけているのだ。国や都は一方で「クールジャパン」などといって外国人を引きつけようとしている。

現実には「流通に乗る安くて手軽な魚」志向があり、小規模事業者は経営的に危機にあるのは確からしい。豊洲推進派の人にこんなTweetがある。

確かにそこまでは事実なのだが、これをどう読み解くかはどんな意識を持つかによって全く違ってきてしまう。彼がほのめかすように言っているのは「苦しいから都から金をせびり取ろうとしているのだ」ということなのだと思う。確かに議論としては成り立つので堂々と「小さいところは滅びればいいし、高級寿司屋だけ残ればいいんだ」と主張すればいい。

が、伝統を大切にして観光資源を守るのだということになれば「経営危機にある魚屋が多いのだから税金で保護すべきだ」となる。つまり「どんなオブジェクティブを設定するか」で同じ事実から得られる結論は全く違ってきてしまう。

問題を提示して決めてもらうのは政治の役割である。その意味ではオブジェクティブがないのに議論が進むはずはなく、政治は役割を放棄していると言える。小池都知事のオブジェクティブは都議会の制覇であり「みなさんがお好きな方に決めますよ」と考えているからまとまらないのだ。

そもそもこの豊洲推進派のマインドは問題だ。多分彼らが「民主的には多数派」であり、力が弱い人たちをねじ伏せてきたのだろう。それどころか「経済的に苦しく、経営者が無能だ」という別紙感情さえほのめかされている。我慢を強いられる人を否定して追い込めば、一部が過激化するのは当たり前だ。だから早く豊洲に移転したいなら、零細業者をどう保護すべきかを考えるべきだった。

そもそもなぜ当初から議論に参加していた築地移転派の人たちは今になって騒ぎ出したのか。彼らは仕様策定の段階から議論に参加していたのではないか。議論の最中に豊洲移転への「空気」があり、我慢を強いられていたのではないかと考えられる。もし、この段階で議論に透明性があり、問題点が出尽くしていれば「後でグダグダ」いう人は出なかったはずだ。日本人は空気に負けて我慢することがある。ずっと我慢していればいいのだが、状況が変わると「やはり私はこう思っていた」と言い出すことになる。

これに「よくわからないが大勢に従っておこう」という人が加わる。彼らは「実は盛り土をされていませんでした」ということを知ってから騒ぎ始めた。

推進派の人たちは建物さえ立ててしまえば(つまり既成事実さえ作れば)みんな黙って従うだろうと考えて、嘘をついたり相手を恫喝して黙らせてきたのだろう。が、そうはならないのだ。それどころか後になって「みんなが騒いでいるのだから議論い参加できて当然」という空気になると、もはや収集がつかなくなってしまうのである。「あの時実は納得していなかった」とか「俺は騙された」という人が増える。

その意味では現在の政府の動きは危険だ。都合の悪い状況を隠してとりあえず既成事実を作るような動きが増えている。すると「議論にはコミットしないが後で文句をいう」人が増えることになる。議論がティッピングポントを超えると収集がつかなくなるので、日本人はますます何も決められなくなってゆくだろうことが予想される。それを利用しようという政治家が現れて議論を煽るようなことになれば、政治はますます機能不全に陥ることになるだろう。

ということで豊洲移転問題は今後日本の民主主義が機能不全に陥った最初の事例になるのかもしれない。

森友問題が盛り上がらない理由を仮説を立てて考えてみた

今日は確かめようがない仮説の話。財務省が森友学園に勝手に安い価格で国有財産を売っぱらっていたことが明確になった。誰が入れ知恵しているのかはわからないが、籠池理事長は財務省を泳がせておいて、持っている材料を小出しに攻めてくる。すると「財務省は今度も嘘をついていたよね」ということが明らかになる。非常にうまいやり方だといえるだろう。

もう国民の中に財務省を信用する人は誰もいないだろうし、安倍昭恵も関わっていたのだから(少なくとも名前が使われるのを黙認していた)安倍首相の宣言が確かなら首相退任は避けられない。

が、世論は全く盛り上がらない。なぜなのだろうか。3つの仮説を考えてみた。

1つ目の仮説は攻め手の問題だ。民進党に信頼がないという理由がありそうだ。しかし、そもそもなぜ民進党が信頼されないのかということがわからない、これを解くためには別の「盛り上がっている」事例を引き合いに出す必要がある。豊洲の問題があれだけ盛り上がっているのは、都政に携わる人たちがなんらかの利権を獲得しているからだと考えられる。つまり「相手の得」が「自分たちの損」であるという理解があり、得をした人を罰するために小池都知事と都民ファースとの会があると考えるとうまく行く。「民進党」が盛り上がらない理由は、自民党に誰も私服を肥やした人がおらず、さらに民進党は国民の他罰感情を利用して政権をかすめとろうとしているという理解があるからではないかと思われる。

このようなコンフィギュレーションは日本人には説明不要だが、実はかなり複雑な情報がないと理解されないのではないかと思う。敵味方という文脈の方が、適当か不適当かという対象物よりも重要視されているからである。

民進党が有権者の支持を得られない理由だけはわかる。「俺たちにやらせてくれたら消費税増税はしない(つまり損はしない)」といって政権を奪取したが、消費税増税を押し付けた「嘘つき」だからである。つまり彼らは嘘で有権者の貴重な票を簒奪した悪人であり、日本の村落的なルールでは決して許されない裏切り行為なのだ。

一方で、日本人は納税者感覚を持っておらず、財務省が自分の財産が勝手に処分したという考えを持っていないのではないかという仮説も立つ。つまり、日本人は大局的な観点から損得を計算しておらず、目先に取引関係に強い関心を持っているのではないかという仮説につながる。もし財務省が籠池さんからなんらかのキックバックを受けており「おいしい思い」をしていたら違うリアクションがあったのかもしれない。

そもそも、日本人は最初から民主主義というものを信じておらず、自分も安倍首相たちとお近づきになれば、いい目をみることができるかもしれないと考えていたという可能性もある。これが最後の仮説だ。かつて国民が政府の不正に怒っていたのは政治というものが自分たちとは遠く離れたところで行われていて、自分たちのあずかり知らぬところでおいしい思いをしている人たちが多いと考えていたからなのかもしれない。が、安倍首相はネットを通じて国民に直接働きかけたために「俺もうまくやったら籠池のおっさんみたいになれるかもしれない」と感じているのではないだろうか。安倍政権を擁護する人の中には「大企業が傾けば俺たちの暮らしがダメになる」という人が多い。例えば東京電力が原子力発電をやめれば不況になって給料が下がるというような考え方だ。裏返せば普段からTwitterなどで安倍政権を擁護しておけば、悪いようにはされないという意識があるのかもしれない。

ここから日本人は、自分のところに得が回ってこないのに、別の人だけが得をするのがとても嫌なのではないかという大きな仮説が浮かんでくる。これを確かめる術はないのだが、この視点を持つといろいろなことがうまく説明できる。今回は籠池さんも学校をなくしており、最終的に「得」はしていない。ということで籠池さんへのバッシングにはならない。財務省は振り回されているだけであって特に得はしていない。安倍昭恵さんも特に得はしていない。さらに安倍総理も特にはキックバックなどを受けているわけではない。すると、国民の多くが向かう「敵」が作られないのだ。

多分、加計学園の件も、学園関係者が私服を肥やして豪勢な生活をしていて、一方で関連自治体が困窮しているという絵を作らない限りそれほど盛り上がらないのではないか。少なくとも銚子市は大変困窮しているわけだが、特に同情は集まっていない。他人の損にはあまり同情は集まらず「自己責任でしょ」ということになる。やはり「誰かが得をしている」という絵が重要なのではないだろうか。

もし、これを盛り上げたければ「加計学園の件を追求すれば嫌なこと(消費税が上がるとか財政が破綻するとか)」が避けられるという絵を描かなければならない。これは小泉首相がやったやり口だ。なんとなく納得されれば国民はそれほど深く考えずそのアイディアに乗るだろう。が、民進党は一度それに失敗しているので、誰か別のプレイヤーが必要ということになる。

日本人は民主主義のような内面化されたルールが一人ひとりを自制するなどということは信じておらず、絶え間ない相互監視を通じて相手を縛り付けることだけが損を回避する唯一の手段なのだと考えているのではないだろうか。民主主義は一流国として海外とお付き合いするためのドレスのようなものであって、決して物事の本質ではないということになる。

Uniqloのキャンペーンを見て、日本にデモがない訳を考える

Uniqloが面白いデニムのキャンペーンを始めた。なぜ、Uniqloが日本では通用してもアメリカで苦戦するのかがよくわかる。

Uniqloだけをみつめていてもよくわからないので、Appleがなぜもてはやされるのかを見てみよう。Appleはもともと巨人IBMに対抗するというイメージで成功した。コンピュータは専門的な知識が必要だと考えられていた当時、Appleのパソコンはグラフィカルインターフェイスを持っていて「誰でも簡単に」使うことができたのだ。これが巨人や権威をうちたおすというイメージに転換され、クリエイティブな人たちに受け入れられた。彼らの目標はパソコンで作品を作ることであって、コンピュータを操作することではなかった。

つまり、価値観を通じて企業と消費者が結びついていて、製品はその間を結びつける媒体になっている。価値観で結びつくためには、当然ながら消費者の中に価値観がなければならない。価値観は「生き方」である。こういうアプローチをライフスタイフ型という。

同じことはDIESELにも言える。DIESELの現在のキャンペーンは「壁を壊す」というものだが、当然ながらトランプ大統領のメッセージの否定になっている。つまり、消費者の中に価値観があり、商品を買うことでその価値観を発露しているということになる。政治は当然ライフスタイルの一部なので、アパレルメーカーが政治的メッセージを発するのは当たり前のことだ。

ここでUniqloのキャンペーンを見てみよう。Uniqloのキャンーペーンは、デニムの聖地であるロスアンジェルスで様々な形のデニムを研究するというものだ。やっていることはデニムの3D加工である。つまり、デニムは工業生産品として扱われており、その加工を「効率的に行う」ことで、できるだけ安価に人気のデニムが生産できることになっている。これは極めて工業生産品的な扱いかたである。それを象徴するのが「イノベーション」で、イノベーションそのものがかっこいいということになっている。

こうしたやり方は「みんなと同じものを」「より安く」手に入れたい日本人には受けるやり方なのかもしれない。しかし疑問もある。3D加工は何のライフスタイルの反映なのだろうか。

3D加工というのはもともとアメリカ人のお金持ちが「履き古したようなジーンズ」をできるだけ早く手に入れたいという欲求から生まれた。その祖型はビンテージのジーンズだと考えられる。ジーンズはもともとワークウェアなので、これ見よがしではないが高級感は出したいというような気持ちの発露なのだろう。例えていえば、ステーキではなくおにぎりを食べたいが、やはり近所の惣菜屋の弁当は嫌なので梅干しを南高梅にして、その伝統やうんちくを語るというような感じなのではないだろうか。

ところが、Uniqloはロスアンジェルスで3D加工のものを安く作れるという方向に舵を切ってしまう。確かにいろんなジーンズがあるけれど「どれがUniqloのオススメですか」ということはよくわからない。「いろいろ作ったからあとは自己責任で選んでよ」ということになっている。なぜそうなるかというと、日本人には作り手にも受け手にもライフスタイルがないからである。

まずUniqloにはデザイナーは存在しない。そもそも個人の価値観で消費者を引っ張るという考え方がないからだ。デザイナー集団は外注になっていて「部材」の一つとして扱われている。かといって、消費者にどんなデザインが欲しいのかを聞いても「よくわからない」というような答えしかも取ってこない。それは、消費者も「今流行っているものを手っ取り早く教えて欲しい」とは思っても、個人の価値観が存在しないからではないだろうか。多分、日本人にライフスタイルを聞くと「より安く」「より楽に」ということになるはずだ。

「人は見た目が100%」というドラマを見ているのだが、テーマは「男性や世間に受け入れられるためにファッションを選ぶ」というものになっている。つまり日本人にとっては「人は他人からどう思われいるかが100%」なのだ。

これは日本人にとっては極めて自然なことだ。日本人は政治的な意見を持つことを自分に禁止しているのだが、これは政治的意見に限らないということがわかる。つまり、日本人は自分自身がより好ましいライフスタイルを持つことを禁止していて、他人にもそれを強制するのだということが言える。日本人がライフスタイルを維持するのは他人の目を気にしているからなので、そこに協定が加わると「楽な方に」と流れてしまう。これを理解すると、次のような問題にも応用できるだろう。

  • なぜ、日本ではデモが起きないのか。
  • なぜ、野党がだらしなくなり、選挙がないと、自民党の中で失言が増えるのか。

また、改革は自己目的化するのだから、政治改革にはめざすものがなくなり、政治改革や民主化の推進が自己目的化した挙句、何も達成できないということになる。これはUniqloのキャンペーンでデニムのイノベーションが自己目的化しているのと同じことなのである。

知らずに自治会の役員なんかをやるとちょっと危ない? 法律の改正

いつものようにFeedlyを見ていたら政府広告が挟まっていた。個人情報保護法が変わるのだそうだ。もしかしたらニュースを見た記憶があるのかもしれないのだが、元来ぼーっとしたタチなのであまり意識していなかった。

ポイントは2つで、5000名以下の名簿も保護の対象になるということと、匿名化した個人情報の活用ができるようになるという点だ。後者はこれまでは統計データなら利用はできていたのだが、今後は統計処理しなくても個人の購買履歴や移動履歴などを活用できるということになる。活用というとよくわからないが、ぶっちゃけ「定期券を持っている人がどこからどこまで移動したか」という個人単位のデータを売り買いできるということである。マーケティングデータとしてはかなり貴重なものなので需要は高いだろうが、自分の購買履歴や行動履歴を勝手に売り買いされるというのはどうも「面白くないなあ」という気がする。こうした議論を恐れてか、広報ページの書き方は「公益」を全面に押し出した書き方になっている。

が、意外と見落とされそうなのが「5000名以下の名簿」の方である。タイトル立ては「5000名以下の個人情報を扱う事業者」となっているので、一般の人たちには関係なさそうだが、広報ページには次のようにある。

例えば、これまでは大勢の従業員を抱える企業や大量の個人情報を事業に利用していた企業などが個人情報保護法の主な対象でしたが、これからは中小企業や個人事業主も対象になります。また、個人情報を利用する事業が営利か非営利かは問われないため、町内会・自治会、学校の同窓会などにも、個人情報を取り扱う際のルールが義務づけられることになります。

つまり、自治会の役員を引き受けて名簿を作ったら「事業者扱い」されてしまうのだ。注意しなければならないことはいくつもあるが、管理にはこのような決まりが課せられる。

取得した個人情報は漏洩などが生じないように、安全に管理しなければなりません。

  • 紙の個人情報は鍵のかかる引き出しで保管する
  • パソコンの個人情報ファイルにはパスワードを設定する
  • 個人情報を扱うパソコンにはウイルス対策ソフトを入れる

など

Excelのパスワードの設定の仕方がわからなかったり、ウィルス対応ソフトが入っていなかったりすると、漏洩した時に「注意義務違反」になる可能性があるのだ。具体的には次のようなアドバイスがあるという。名簿を集める時に「親睦と連絡のために使いますよ」などということを明示した上で、了解を得る必要があるということだ。

そのため、同窓会名簿や自治会名簿を作成する場合には、①利用目的の特定(改正法第15条)、②利用目的による制限(改正法第16条)、③適正な取得(改正法第17条)、④取得に際しての利用目的の通知等(改正法第18条)、⑤第三者提供の制限(改正法第23条)等の個人情報取扱事業者としての義務を遵守する必要があります。これらの義務を遵守しているのであれば、従前と同様に名簿を作成することはできます。
なお、名簿を配布する先の会員が個人である場合には、個人情報保護法の適用はありませんが、会員に対して、名簿の紛失や転売をしないように注意喚起をすることが大切です。

もちろん、注意義務違反で直ちに逮捕されるということはない。しかし、注意義務違反が見つかった後で、監督官庁(個人情報保護委員会)の命令に従わなかったりして悪質性が認定されると、最終的には六ヶ月以下の懲役(または30万円以下の罰金)まで行くことがあるということになるようだ。逆に「いい加減な管理をしたから情報が漏れた」などというクレームも監督官庁へ報告することになるという。だが、現行法下で罰則を受けた事例はないとのことである。また、名簿が漏洩して、経済的な損出が出た時にも民事上賠償の責任が出てくることになる。

難しいことはわからないからパソコンでの名簿管理はやめようとする人たちもでてくるだろうが、そうなると手書きということになるので、あまり現時的とは言えない。今のうちに名簿管理ソフトのパスワード設定方法とか、ウィルス管理ソフトの勉強をしておくべきだろう。現在集めている名簿については取り直しは必要ないとのことだが、新しく取る名簿は適用対象になるということなので、五月末以降は運用に気をつけたい。