福田財務事務次官更迭騒ぎ – ポリティル・コレクトネスの世界にようこそ

財務省の福田事務次官がセクハラ騒ぎで炎上している。Webに公開されたものはどうやら本人のものであることはまちがいがないらしく、3つのテープをつぎはぎしたものが出回っているようだ。週刊誌が捏造したという話もあるのだが、むしろいろいろなところで同じようなことをやっているということなのだろう。

この事件はもちろん安倍政権の末期症状の一つとしても捉えられるのだが、日本がポリティカリーコレクトな社会に入ったことを物語る最初のケースになるのではないかと考えられる。

これまで職業に入った女性は男性社会に合わせて行動するのが「正しい」と考えられてきた。名誉ある男性社会の一員として「受け入れてあげる」代わりに母親であることを諦めたり性的な嫌がらせに耐えるという嫌な経験を引き受けるということだ。だが、これからは知的な職業であればあるほど「人権に配慮した人が正しい」と考えられるようになるだろう。逆に男性は「これくらいいいじゃないか」と思ったとしてもそれを絶対に口にだすことはできない。男性は常に政治的に正しくなければならない。

もしかしたら被害者は一人ではないかもしれない。会話の様子から会話は最近のものらしいのだが、もし一人にしかやっていないなら直近の行動を調べれば該当記者が分かるはずである。「該当者は名乗り出るように」といっているところをみると「誰に言ったのか」がわからないということで、これはすなわち方々で同じことをやっているのだろうということになる。

これは政界だけの問題ではない。報道各社も彼の人格が分かっていて女性を担当者として当てていた可能性が高い。複数だとしたら複数の会社が同じことをやっているということだ。そして「情報を取る」ことを優先にして女性記者の人権をないがしろにしていた可能性が高い。「役立たずの女なんだからせいぜい女を武器にして会社に貢献してよ」というわけだ。

これについて、福田事務次官は辞任するべきだという声があり、出所の分からないテープで辞めさせられたら悪い前例になる可能性があるという声もある。確かに個人の能力と人格は別なのだがこれは辞めざるを得ないのではと思える。仮にこれが政権を貶めるための週刊誌のワナだったと仮定して「ではどうしたらよかったのか」と考えてみたのだが「どうしようもないだろうな」と思った。それは男性社会がセクハラ親父に甘いという社会通念があるからだ。その証拠に麻生大臣は「ほらやっぱり」と思われている。

さらに「詩織さん」の件がある。彼女はレイプされたという疑惑があるのだがテレビ局の立場を利用したとされるジャーナリストは立件されず、それどころか「女を武器に仕事を取ろうとしたのだろう」などとセカンドレイプされた。確かなことはいえないが政権が擁護したのではないかという疑惑がささやかれている。もしあのときに厳正に対応していれば今回ももう少し違う展開が考えられたかもしれない。

さらに、だれもが財務省は明らかに嘘をついていると思っている。今回の件も本当に何があったのかは良く分からないが、肌感覚に合致してしまった。福田さんが何をやったのかではなく、その後の男性社会の対応のほうが反発を買っている。男はトクだと「誰もが知っている」のだ。

こうした肌感覚はどこから来るのだろう。

先日駅で女性が男性にしつこく声をかけられているのを見た。お金儲けしたくないですかと言われていたが、さらにナンパも兼ねているようでしつこくLINEのアドレスを聞かれていた。彼女には何の落ち度もない。たんに女性であるというだけである。

さらにTwitterで聞いた話では女性だとエスカレータの真ん中に立っているだけで男性がぶつかってくることがあるのだという。こういう経験をしたことがある男性はいないと思うのだが、女性であるというだけでぞんざいな扱いを受けたりすることがあるらしい。

男性は気がつかないが、女性は常にこのような脅威にさらされている。そして何かあったとしても訴えることができる場所はそれほど多くなく、それどころか「自己責任論」で片付けられてしまう。こうした一つひとつのできごとが積み重なって「ほらやっぱり」という感覚になるのではないだろうか。

常識に根ざした感覚は単なる思い込みかもしれない。だが、週刊新潮側は取り立ててこれを照明する必要はない。ああやっぱりなという普段の感覚に接木されて全体が「常識」で判断される。そしてそれが森友・加計問題のようなもやもやした事件の印象と合体して「分かりやすい」印象が生じてしまうのだ。

こうなるとだれにも状況はコントロールできない。ここで「やはり冷静に人格と仕事とを分けてみては」とか「今、事務次官に辞められると政権に打撃が」などといえば、かばっているとみなされてお前はセクハラ男の味方をするのかと責められる事になるだろう。

こうしたことはアメリカでは珍しくない。日本人男性であるというだけで沖縄や女性を蔑視していると取られることはよくあることだ。日本人男性であるというステータスは変えられないのでこれも一種の差別なのだが、日本人男性はことさら女性の人権には敏感であるという態度を取ることを求められる。これがポリティカルコレクトネスの世界である。

一方で日本人は差別の対象でもあるので、白人に向かって「あなたの不愉快な態度はアジア人差別ですか」などと言ってもいけない。これは逆に白人男性であるというだけで彼らが有色人種差別者であるというレッテルを貼ることができてしまうとても重い言葉なのだ。白人男性にとってこれは社会的な死を意味する。

このためアメリカでは肌の色が見えていても「見えないフリ」をして、政治的に正しい発言をしなければならない。カリフォルニアのような先進地域だと移民に対しても差別的なことは表立っては言えない。

これまで漠然とした不満だったものが、やっぱり男性社会はいざとなったら女性を不利に扱うのだという具体的な見込みとなり、漠然とした政府の不信感につながる。もちろんそこに合理性はないのだが、いったんできてしまった連想はなくならない。

事務次官の件を放置すれば騒ぎは拡大するだろう。これを解明するためには与野党の女性議員による調査委員会などを作ってセクハラ官僚をすべてパージするくらいのことをやらなければならなくなるはずだ。大げさと思う人もいるかもしれないが「黒人差別」を疑われたスターバックスはアメリカで店舗を休業して研修会を開いている。

財務省側は裁判をするなどといっているようだが、裁判の恐ろしさを舐めている。裁判になると「被害者の会ができるんじゃないか」とされている財務事務次官の普段の言動が暴かれる上に、報道各社が「女性を武器にしてコメントくらいとってこれないのか」などとほのめかしている事実が明るみに出るかもしれない。そもそも報道各社が毅然とした態度を取っていれば女性記者(あるいは記者たち)が週刊誌を頼る必要はなかったはずである。福田さんの強気の裏には「奴らは情報が欲しいのだから訴えてこないし表ざたにもしないだろう」という安心感があったのだろう。こうなるともう政治だけの問題ではなくなる。

財務省は「裁判するぞ」と脅せば記者たちの雇用主が黙っていないと思っているようだが、実は雇用主の側も下手に財務省に加勢すると社会的に制裁される可能性があるという点が見落とされている。

その意味ではこの福田事務次官の問題は単に個人のセクハラ発言という問題ではなくなりつつある。日本が本格的にポリティカルコレクトの世界に突入した契機としてとらえられるべきである。

残念ながら原因はこれまでこの種の問題を放置してきた男性社会の側にある。差別意識がなくせないのであれば、日本人男性は本格的に建前を脱ぎ捨てられない社会を生きることになるだろう。

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要点は最初に書け – 読んで欲しければ

今回の話は「要点は最初に書け」というものだ。ブログでページビューを稼ぎたいと思っている人にも役に立つし、例えば安倍政権を倒したいのに賛同が得られないと悩んでいる人にも役に立つだろう。

要点を最初に書けといっても、もちろんそれ以外のことを書くなというわけではない。

先日面白い体験をした。「IPアドレスが自己割り当てになったらどうしたらいいのか」という記事が検索エンジンに引っかかるのだが滞留時間がほとんどんかった。これにちょっと手を加えたところさらにたくさん読まれるようになった。ここから「読んで欲しければ要点は最初に書け」ということを学んだ。要点を書かないとそのまま素通りされてしまうのである。そして要点というのは「相手が探していること」であり自分が言いたいことではないということも学んだ。

最初に書いた記事はIPアドレスが取得される仕組みを基礎から順序立てて細かく書いていた。「コンピュータに詳しい」という自負があるので、問題解決するなら基礎から知らなければダメなのだというような気持ちがあったからである。だが、これは良くなかった。誰も読んでくれないのだ。

この記事は検索エンジンからの流入はある。そしてそれは一過性のものではないようだった。そこで、どうにかしなければならないという気持ちになり、要点を冒頭に付け加えた。細かいことがわからなくてもとにかくルーターのアドレスを調べて手動設定すればいいのだ。そして画像を添付した。

すると滞留時間が目に見えて変化した。最初は平均0秒だったのだが、それが12分まで伸びた。最初に要点だけ書いておくと「俺がほしい情報はここにある」という気持ちになるようである。読んでもらっても同じことを細かく書いているだけなのだがそれでも構わないようだ。「忙しい現代人」は秒単位で役に立つ情報を切り分けているんだなと思った。

滞留時間が増えると有用性が増したと判断されるのかさらに流入者が増えた、と書きたいところなのだがそうではない。多分この辺りは検索エンジンに依存しているのではないかと思う。特定のファンがついているというわけではなく「たまたま検索エンジンにかかっているだけ」である。

このことから別のこともわかる。自分であたりをつけたり自分が言いたいことを書いてはいけないということだ。流入は検索エンジンに依存しているのでコントロールができないうえに、ユーザーは自分が知りたいことだけを検索するからだ。さらにすでにたくさんの人が書いている記事は計策されにくい。いろいろな書いてみてたまたま当たったものについて「ポイント」だけを書くのが良い。それが面倒ならいろいろ書いておいて当たったものにだけ改良を施せば良い。ウェブはスペースが限られているわけではないので、細かいことは時間が許す限り付け加えて行けばよいということになる。

とにかく好きなことをだらだらと書くのが楽しいので、普段はだらだら記事を増やして行き、定着したものだけを見直している。

ただ、このやり方はこちらのブログには当てはまらないかもしれないとも思った。こちらはタイトルと冒頭(これは釣りになっていることが多い)だけを読んで「わかった」と考えてRTされることが多い。政治や文化は複雑なプロセスなのでこの「わかった」が危険なのである。さらにトップページへの遷移が顕著に増えることもある。過去の傾向から多分「安倍政権の悪口が書いてある」とか「共産党が危険な理由が書いてある」などと感じた人が同じような記事を探しているのではないかと思っている。特に政治は複雑なので「答えが見つかった」と感じると同じ記事を探したくなるのではないだろうか。

政治的な意見をつぶやくときには誤解を恐れていろいろと注釈を入れてしまいがちなのだが、これは避けた方がよさそうだ。もし反発を受けたらそのときに注釈を入れてやれば良い。とにかくわかりやすいのだと思わせることが重要で、細かい説明は後からすればよい。

ただしこれは単純なメッセージだけを考えていれば良いということではない。議論を呼びそうな話題についてつぶやくのならあらかじめ想定問答集くらいは考えておいた方がよいし、できればどこかに自分の考えをまとめておくと良いだろう。相手に対する対策にもなるが、まずは自分で検証ができる。常々書いているように「安倍は戦争を従っているから憲法は守らなくては」と主張しても誰も聞いてくれない。その戦争が何なのか当人たちも説明ができないからだ。ただしそれは「あれ、戦争って何だろう」と考えてみないと気がつけないことでもある。

今「戦争反対」デモが各地で行われているのだが、共産党が署名を集めるキャンペーンをやっているからのようだ。自民党と公明党への投票が3000万人程度なので、それくらいの署名が集まれば自分たちの方が正しいことになるという理屈のようである。ただ彼らに「何が戦争なのか」と聞くとリーフレットを渡される。そこには共産党のいう安倍政権が戦争をする理屈が細かく書いてある。ただこれが現実離れしており読んでもよく意味が話からない。そこで人々は興味をなくし「やっぱり共産党が今の政治を気に入らないから騒いでいるんだな」などと思ってしまうわけだ。

これまで見てきたように契約型の民主主義社会に移行したいと考えているなら、市民が政治を監視するのはとても重要だ。だから、一方的に作ったお話をデモで叫ぶのはもうやめた方が良い。ただしそれを一人でやるのは難しいので、政治について意見交換ができる素地を普段から作っておく必要がある。そのためにもまずは興味を持ってもらう方法を考えることは重要だと思う。

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安倍首相の嘘はどういう経路で国を衰退させているのか

本日は安倍首相が嘘つきであるという前提で文章を書く。なぜ嘘つきなのかという証明はしない。嘘を嘘と認めることが重要だと考えるからである。誹謗中傷だと取られても構わないが、人格攻撃が嫌いな人は別の言葉で置き換えても良い。

安倍首相は嘘によって政権を維持しようとしている。昨日の決算委員会を見て、嘘を認めるときにも嘘をつくことに驚きを感じた。今回は太田理財局長の答弁をきっかけにTwitterで「太田さんが嘘を認めたぞ」というようなつぶやきが流れ、ほどなくして新聞の記事になった。あまりにも嘘が多すぎるのでそれを認めるのに長い時間がかかり、本当のことを言ったというだけでニュースになるのだ。

この件NHKが「抜いて」、西田参議院議員が指摘し、太田さんが認めたという流れなになっている。ニュースでは西田さんが太田さんを罵倒したところが多く使われたのだが、空々しいにもほどがあると思った。たぶん隠し切れなくなったか佐川理財局長にすべてをかぶせるという落とし所が見つかったのだろう。野党が指摘して見つかると「彼らの得点になってしまう」という気持ちもあったのではないかと思う。しかし、マスコミの人たちもこれがお芝居だということを知っているはずで、知っていて「財務省が嘘を認めた」と言っているのである。異常としか言いようがない。

嘘がいけない理由を倫理的に説明することもできるのだが、ここではPlan/Do/Checkというサイクルで説明したい。計画を実行してチェックすることで学びを得るという一連の流れだ。意思決定がすべて正しいということはありえない。もともと思い切ったことをしているのだから、時々見直せばよい。ことわざ「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とあるのだから間違えること自体は悪いことではない。

しかし安倍政権はこのチェックのサイクルを無視している。チェックすることによって万能感が損なわれるのが嫌なのだろう。

例えば、観察したように北朝鮮を巡る会談から除外されているのに、自分たちのおかげで交渉が進展したのは嘘というより現実否認である。しかし首相が現実否認するとそのあとの議論が一切許されない気分が作られる。それどころか、事実を隠蔽することまで日常的に行われるようになった。自衛隊の日報改竄は霞ヶ関で作った嘘がばれないように後世の教訓になりそうな日報をなかったといって捨てていたという問題だ。首相が過ちを認めて改めないので、その下にいる人たちは間違いを隠蔽して認めないようになってしmったのだ。

安倍政権は学ばないので自分たちの自分たちの政策がどんな影響を与えるのかを予測できない。これが嘘の最初の副作用だ。

現在の保守政治家は学ばないことを怖がらない。すべての教訓はすでに経験によって獲得していて自分はすべて知っていると考えているからなのだろう。西田議員と彼に続く自民党議員たちの質問を見ていて彼らhが学ぶ必要がない理由がわかった。西田議員はある意味選挙で何が一番重要なのかを正しく認識している。有権者は経済が成長しない理由を取り除くことなど望んではいない。彼らが欲しがっているのは当座の仕事である。

今回の質疑で西田さんは「どんどん鉄道を作ればよい」と主張し、プライマリーバランスの改善などどうでもいいと言い出した。経済成長すればプライマリーバランスはおのずと改善するのであって今は経済成長を再び起こすことが重要なのだという。多分念頭にあるのは世銀からお金を借りて新幹線を作ったように借金で鉄道建設を促進することなのだろう。新幹線ができてから経済成長が始まったという明確な経験が元になっているのだろう。これは戦争で破壊された生産設備が現代的な形で復活したので借金が役に立ったという点をまるで無視しているのだが、彼らにとってはそんなことは些細でどうでもいいことなのだ。

とにかく景気が良くなるまでお金を使えという話なので特に学ぶ必要はないし推移を注意深く見る必要もない。経済成長しないなら使い方が足りないといって騒げばいいのである。

これに対して政府側は議論せず「国際的信用も大切だし、地方にもお金を回したいし」というあいまいな答弁をしていた。足元では情報の改竄が恒常的に行われているのですでに自分たちが何をしているのかが分からなくなっており何も決められなくなっているのかもしれない。

だがさらに深刻なのは野党側だ。政府与党が小出しに嘘を回収するので、嘘を追及することが存在意義になってしまっている。政権運営の経験が乏しいかほとんどないので対案を出したりチェックしたりということができないのだが、嘘をついているのだろうと糾弾することはできる。小西ひろゆき議員は数まで数えて執拗に「安保法制が違憲だということになったら総理をやめますか」と質問をしていた。安倍首相がそれを認めるはずはないのだが、森友問題で旨味と達成感を学んでしまったのだろう。

本来ならこうした野党議員は淘汰されてなくなるはずなのだが、安部政権がこまめに嘘をついてくれるおかげで仕事ができてしまっている。こまめな嘘と隠蔽は野党に対する安倍政権の雇用対策でもある。

さらにマスコミは明らかに嘘だと分かっていることでも、政府が公式見解を出すまではなかったこととして報道する。そして政府が嘘を撤回するたびに恭しく「認めた」と伝えるのだ。マスコミが政府のお芝居にお付き合いするのは自分たちが責任を追求されたくないからだろう。「誰かが言っている」と書いている限り、自分たちの責任が追及されることはない。

日本は強い中央政府が協力に産業を推進することで成り立ってきた国だ。だから官僚機構の政策立案能力の低下は国の成長を著しく阻害する。すべての官僚がチェックではなく嘘のためにリソースを浪費しているので、経験から学びながら政策立案能力を磨くことができなくなっている。そして議員にはそもそも政策立案の意欲はない。

最初に安倍首相が嘘つきであるという前提で議論を始めたのは嘘つきであるということを証明することに時間を割かれると経験から学ぶことができなくなってしまうからである。このままでは日本は何も学べないどころか、今どこにいて何をしているのかすらも分からなくなってしまうだろう。すでにそうなっているかもしれない。

嘘という価値判断を含んだ言葉が嫌いであれば「現実から学ばない」と言い換えてもらっても良い。学ぶつもりがないというのは恐ろしいことなのだが、「全てを知っている」と思っあがっているとその恐ろしさもわからなくなってしまうのである。

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NHKのシビリアンコントロール違反というプロパガンダ

本日のエントリーはある意味失敗作だ。最初に日報を隠すのがどうしていけないのかということを説明しようとして失敗した。隠してはいけない理由が見つからなかったのである。

前回、日報を隠すのはクレジットカードの明細を隠して総額だけを渡すようなもので、それは社会通念的に認められるものではないと書いたので、これは全体の筋立てに無理があったということになる。つまり、日報を隠すのは法的にはいけないことなのかもしれないが、必ずしもいけないとは言い切れないということである。

例えば、全体例に出したクレジットカードの場合には、支払いという社会的な義務を正しく行うことが重要だ。もし、クレジットカード会社が「支払いがなかった」かのように振る舞うと利用者はどう思うだろう。最初は裏があるのではと疑うかもしれないのだが、周囲の人にも請求書が送られていないことがわかると次第に慣れてしまい「まあ、いいか」と思うかもしれない。

もちろん、誰かが支払いをする必要があるわけだから、請求は回り回って大きくなるはずである。だが、その結果がわかるまでには時間がかかる。それまで「なかったことにしょう」と思う人も出てくるかもしれない。

日報は不都合なことが書かれていた。自衛隊は憲法の制約があり戦地にはいけない。それは彼らが軍隊ではないからである。だから行った先は戦地であってはならない。しかし、非戦地が戦地になったからといっていち早く撤収することはできなかった。それは「かっこ悪いから」である。外国には軍事的貢献をしていると見られなければならないので撤収の決断ができなかったのだろう。

確かに、送り出した人たちは悪い。だが、反対している人たちも「本当に軍事的な国際貢献が必要ないのか」とか「この状態で本当に日本人だけが逃げ出してもよいのか」ということを議論しなかった。

政権運営に失敗して国民の信任を失った野党には他に攻め手がなかった。軍事・防衛は彼らにとっては格好の逃げ場だった。戦争がいけないという意見に反対する人はおらず、実際に戦争が起こるような状況にも置かれてこなかったからである。

もちろん、ここを攻められる原因は与党側が作っている。これまでだましだまし既成事実を作ってきたから法的な整備が一切進まず、さらに国民の理解もえてこなかった。

加えて、軍事防衛に固執するようになってしまった野党に対峙するうちに「あのうるさい野党が唯一根拠にしている憲法さえなければ、日本はもっと国際的に尊敬されるのに」と考えるようになる。さらにそれを単純化して「軍隊さえ持てば世界から尊敬される」などと考えるようになってしまった。

日本は今回の朝鮮半島対話から完全に切り離されている。これは、日本が軍隊を持たないからではなく、国内的な意思統一ができていないからである。

日本はアメリカの周辺国家に留まるのか大国として振る舞うのかというポジショニングの問題を解決していない。仮に大国として振る舞うなら「主権」に対して国民が関心を持つはずで米軍の常駐に拒絶反応が出るはずだ。しかし、日本人は軍事的にはコンパクトのような協定を憲法の上において満足している。コンパクトのような自由協定は軍事基地を置く以外に主要な産業がないような小さな国々にとっては合理的だが、日本にとっては必ずしも合理的なシステムとは言えない。それは政策オプションがアメリカのポジションに制約されるからだ。小国としてもピボットができなくなるので不利に働くということは以前のエントリーで説明した。

日本政府に大国指向があれば周辺国を挑発することはないはずだ。これは中国が経済圏を作ろうとしている大陸中央部の国を挑発しないのと同じことである。だが、実際に安倍政権がやっているのは中国への対抗心からくるバラマキであり、一帯一路のような戦略性が見られない。

野党に対峙していくなかで、日本政府の軍事・防衛戦略は「ボーイズクラブの妄想」のようになってしまった。幼稚な中国への対抗心や軍隊を持ったらもっと威張れるはずというような国家像なので、大人になる前の中学生的な妄想と言って良いかもしれない。

戦争は全部いけないという野党、軍隊を持ったら強くなって威張れると考える与党、面倒なことを考えたくない国民。これを総称して「文民」と呼んでいる。これが統制しているのが自衛隊である。

ここまで考えてくると日報の隠蔽問題がどうして国民の間で問題にならないのかがわかる。つまり、何も考えたくないし、不都合なことは見たくないからだ。だから、日報が隠されるのは実は「文民の要望だ」ということになる。野党は騒いでいるのだから非難の対象から除外されるべきだと考える人がいるかもしれないが、彼らは政権が欲しいかあるいは気に入らないから騒いでいるに過ぎない。問題そのものに関心があるわけではない。

国民は無関心から自衛隊を難しい立場に追いやっているという点で改竄や隠蔽に加担している。しかし、みなさまのNHKは優しさからくるのかもしれないが嘘をついている。それが表題になっているNHKのニュースの伝え方である。つまり、文民統制に違反しているとほのめかすことで国民の責任を曖昧にしているのである。

日報は国民が「不都合なものはみたくない」から隠されてきた。しかし、隠すこと自体は悪いことであり肯定できない。そこで「文民統制の点で問題がある」という認識にすり替えた。もともと統制するつもりがなく不都合があれば現場で適当に対処せよといって送り出しているのに、実際に文書が隠されていることがわかったら「軍人(自衛隊)が勝手にやった」「暴走した」と騒いでいる。これは戦前の国民が大陸進出を支持したのに、結果的に失敗して第二次世界大戦で負けた途端に「大本営発表で隠蔽した」とか「関東軍が勝手に暴走して戦争を始めた」などと騒ぎ出したのに似ている。

クレジットカードのたとえに戻ると、日報を見るということは「使いすぎてしまった明細を受け取る」のと似ている。ここで「なぜお前はそんなに使ったんだ」と夫が妻を攻め立てて、妻が黙ってしまうというような話である。だが、ここでやらなければならないのは「なぜそんなことが起こったのか」を検証することであって、離婚だ、家を出て行けと騒ぎ立てることではないはずである。

しかし、日本人は戦前と同じ過ちを繰り返そうとしている。誰かが勝手にやったことだと騒ぎ立てて問題の解決を避けている。確かに文書の隠蔽はいけないことなのだが、この話は多分そこで終わらせてはいけないのではないだろうか。

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自衛隊の日報隠しがなぜいけないのか理解できなかった……

今日の話はちょっと気が進まない。普段わけ知り顔で得意そうに政治について書いているのに、今回は自分があまり賢くないということを示しているだけのエントリーになってしまうからだ。

実は自衛隊が日報を隠したことがなぜいけないことなのかがよくわからなかった。よくわからなかったので興味がわかず、あまり取り扱ってこなかった。

この疑問を解決するためには解決しなければならない二つの要素がある。一つは日本の防衛戦略に関する基礎的な理解である。これについては別に書くかもしれないのだが、要約すると次のようになる。

日本は国民の理解を得ながら防衛戦略を推進するしかない。変化の多い環境では「一人のリーダーが独占的に意思決定する」か「みんなが納得して意思決定してゆく」という二つの選択肢しかない。北朝鮮は前者を取ったわけだが、いったん国際社会に組み込まれてしまうと今度は経済的競争という「平和な戦争」が始まり、やがて労働党独裁では対処できなくなるだろう。中国のように限定的な解放という戦略は狭い北朝鮮では取れない。

ということで、この文章には日本は国民に理解してもらいながら権限を委託してもらうしか生き残る道がないという前提がある。これは民主主義が美しいから民主主義社会になるべきだというお話ではないし、武器を取るとやがて全面戦争になり地球が滅びるというようなお話でもない。一方で、自民党の強いリーダーシップと長い民族の歴史があればおのずと世界から尊敬されるというようなお話でもない。

そもそも、日報って何だろうと思った。何だかわからないので身近なものに例えようと思って題材を探した。最初に思いついたのはプログラミングだった。外付けハードディスクに日報の断片があったということなので素人プログラミングと状況が似ているなと思ったのだ。チームでプログラムをやる場合、当然ながら勝手にローカルにコピーして保存してはいけない。チーム内で共有しているプログラムが持っている変更を常に引き継いで行かないと思わぬバク担ってしまうからである。

しかし、この例は無理がある。森友学園の文書改竄問題のような契約書や決済文書の場合ローカルコピーが様々なところにあるのは問題だが、日報はそのようなものではないからである。このプログラミングのメタファーは日本人が協力できないということを考えるには重要なのだが、今回の例には当てはまりそうにない。

次に考えたのは日報が「トランザクションデータだ」というたとえである。つまり、最終成果物を作るために必要な材料というわけだ。この線で考えてゆくとすぐにそのヤバさがわかった。

「トランザクション」という考え方はコンピュータシステムを嗜まない人にはあまり馴染みがない概念かもしれないので「明細」と言っても良い。つまり日報は最終レポートを作るための原材料だ。

例えばフレンチレストランで食事を楽しんだあとに、ワインでふらふらになった頭で請求書をもらっても、明細は確認しない。これは私たちがお店を信頼しているからである。お店を信頼しているからこそ安心してへべれけになれるのだ。だが、あとになって支払いを思い起こし「過剰請求」されたのではないかと考えたとする。慌てて店に電話したところ「いや、もう明細は残っていないんですよね、そういう決まりなんで」と言われたらどう思うだろうか。多分「ぼったくりだ」と直感するに違いない。

日報は途中成果物なので最終レポートがしっかりしたものであれば特に見る必要はない。しかし仮に疑念があった場合には日報を取り出して「ちゃんと現地の情勢は反映されていますから」と説明しなければならないし「なんならご覧になりますか」と言わなければならない。

レストランの例で説明するとわかりやすいのだが、日報などと言われて「これは法令や省令で保存しなくてもいいということになってるんですよね」などと説明されると、法律じゃ仕方がないなと思ってしまう。稲田前大臣は「請求書は絶対に正しいし、その明細は捨てた」と言っているようなものなのであり、これは無理筋の説明だ。

ここまでドヤ顔で書いてきたが、多分みんなこれがわかっていて騒いでいるんだろうなと思った。新聞を読んでいる政治通の人たちもこれがわかっているんだろう。自分だけが理解していなかったわけで、ちょっと恥ずかしい気分になった。

途中成果物と最終成果物は不可分なので、最終成果物が取ってあるから途中成果物は捨ててもいいという理屈は成り立たない。明細を見せられないということは少なくとも不誠実の証だし、決まりにより捨ててもいいなどというのは、最初から騙す気満々だったということになる。レストランの例でいうと日本政府はぼったくりレストランなのだ。

しかも「何が何でも騙すぞ」と思っていたわけでもなかったらしい。財務省の例を見て「あとで問題になったら誰かのクビを差し出さないと収まらなくなるぞ」とビビったのだろう。ぼったくりレストランとしての覚悟もなかったようだ。

例えば新聞社は記事が最終成果物なので途中成果物は捨てても構わないとは主張できない。確かに取材源の秘匿という問題があり、普段は表にださないのかもしれないのだが、何か疑念があった時には取材メモを出さなければならないだろう。加えて別のところから「実は結論と違った事実を掴んでいた」というような話が出てきたら読者はどう思うだろう。多分、その新聞社は潰れてしまうか世間から叩かれるのではないだろうか。

さらに、調書も途中成果物である。普段はこれをおおっぴらにすることはないのかもしれないが、もしどこかから犯人を有罪にするためにはあってはならない調書が出てきたらどうだろうか。間違った情報だけで有罪判決を出してしまったとしたらその裁判はやり直しになるだろうし、警察は大いに責められるはずである。調書が判決の基礎になっているからである。

調書に関しては刑事事件として刑が確定したものに関しては情報が開示されるという法律があるそうだ。不起訴になった場合には開示されないともいう。

これらのことを考えていて、日報が隠蔽されていたということのヤバさがわかったのだが、一旦理解できると「なぜみんなもっと騒がないのだろう」と思えてくる。よくわからないが一部の人たちが騒いでいるだけなので「あの人たちは政権が欲しくて言っているんだろうな、お気の毒さま」と思っているのかもしれない。

さて、最初のややこしい話に戻る。日本は防衛戦略として「国民の理解を得ながら防衛政策を進めてゆくより他にない」というちょっと硬い話である。この部分はいったん文章を全部書いたあとに付け足した。なぜかというと結論が書けなかったからである。

日本人にとって民主主義は儀式(リチュアル)にすぎないのだから防衛文書が隠されていても儀式さえ滞りなく終わればそれで良いようにも思える。フランスのジャーナリストには「民主主義のお芝居をしている」と書かれているそうである。この人は紳士なのだろうがこれは皮肉ではない。多分事実だ。

政府も官僚も国会も司法もメディアも国民も、日本の民主主義を構成するすべての人たちが表面上はそれぞれの役割を果たしているように見えて、実際には「民主主義というお芝居」を演じているだけなのではないか?という皮肉すら言いたくなってきます。(ルモンド特派員 フィリップ・メスメール)

お芝居でも国は動いているわけだからそれでもいいじゃないかという見解は成り立つ。だがこれが成り立つのは固定的な環境があって、そこに順応するストーリーを時間を書けてでっち上げられる場合だけだ。現実の国際情勢は刻一刻と変化し、アメリカ大統領までもが「日本はアメリカの防衛戦略にフリーライドしている」といって拍手喝采されるようになってしまった。隣の国は核兵器を持とうとしている。この状況に対応する唯一絶対の正解があるという人がいたらその人は十中八九大嘘つきだろう。

こうした情勢の変化を受けて意思決定しなければならないことは増えてゆくはずのだが、その度に「センソー(何の戦争かはわからないけどとにかく「センソー」)ハンタイ」というデモを起こされて国会が止まっては困るのだ。だから、軍が関与する国際情勢上の変化はありのままに伝えられる必要があり、その意思決定はお芝居や儀式では困るということになる。そしてそれは防衛だけでなく経済にも影響が波及する。経済競争は多分「平和な戦争」である。

この点について考え出すとかなり長い文章になりそうなので、今日はここまでにしたい。今日の結論は日本政府は、意気地のないぼったくりレストランだということである。

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西部邁さんの自殺幇助はなぜ許容されるべきではないのか

西部邁さんの自殺を幇助したとして二人の知り合いが逮捕された。最初の感想は不謹慎だが「これが本当の確信犯だな」というものだった。これについて島田裕巳さんがこのようにツイートしている。人によってフレームワークはそれぞれだなと思ったが安楽死の問題だとは思えなかったし、そもそも議論の対象にしてはいけないのではないかと思った。

いろいろ考えていて、この問題は戦後の保守思想の限界をよく示していると思った。がさらによく考え他結果、保守思想ではなく日本の戦後思想の限界があるのではないかと感じるようになった。事前に安倍首相が国際情勢に乗り遅れてゆく姿を観察したからだと思う。

安倍首相が国際情勢に乗り遅れた理由は、彼と彼の取り巻きが「国際情勢をよく理解している」と思い込んでいるからだった。価値観を含んだ言い方をすると「知っていると思い上がっている」ということになる。ところが「自分たちだけが真実を知っている」と思っているのは保守だけではない。護憲派が盛り上がらない理由として共産党の人が「自分が戦争の悲惨さを一番よく知っていて、それ以外のすべての取り組みはすべて不完全である」と考えていることを観察した。

どうやらこの全能感は広く共有されているようである。ではそれはどこから来るのだろうか。

一足飛びに話を始めてしまったために西部さんの問題に戻る。西部さんは自分の人生の価値は自分がよく知っており役に立たなくなったら自分で終わらせて良いと考えていたようだ。つまり、自分の人生を「アンダーコントロール」な状態にしたかったということになる。そして、彼の信奉者たちはその思想に乗ったのだ。

このニュースについて聞いた時に最初に思ったのは、誰かの自殺を認めてしまうと別の人たちの自殺を考え直してもらうことができなくなると考えたからだ。学生たちは極めて閉鎖的な空間で「学校だけが人生だ」と思い込むようになる。周りの人たちも学校生活から脱落したらこの先社会から受け入れられず、人生は終わりだと考えることで、さらに追い詰められて行く。だが、この考え方は必ずしも正しいとは言えない。

島田さんがいう安楽死の問題は苦しい病気を逃れられない上に治癒の見込もない場合には死期を早める選択肢がありうるという話であって、西部さんには当てはまらない。加えて西部さんが学生と同じような心理状態に陥っていた可能性すらある。多分西部さんは「自分はよく考えた」というだろうし「衰えてゆく恐怖はお前にはわからないだろう」というののだろうが、それは多分学生たちも同じようなことをいうだろう。

そもそも、人間は自分の人生の意味を自分で理解できるのだろうかという疑問がある。キリスト教ではこの考え方を明確に否定している。人生の価値を知るのは神だけであり人間はそれを知ることができない。だから自殺はキリスト教圏では犯罪なのである。だが、わからないから考えないということにはならない。わからないからこそ追求しようという姿勢が生まれるのだし、人知を超えたものだから他人の命も大切にしようということになる。

日本はキリスト教圏ではないのだから、こうした考え方を当てはめることはできないように思える。日本の場合には村の外に人知を超えたものをおくことで「畏れ」を通して人間に謙虚さを教えていた。

最近、欠損村落について考えている。日本人は書かれた契約を大切にしないので社会が作れないのだが、それでも村落コミュニティを持続させるための知恵を置いていてそれを「伝統」という名前で括ってきた。

だが、日本人が村落を捨てた時にこの人知を超えたものを捨ててしまったのかもしれないと思った。人間はすべてをコントロールできるのだから、自分の命を自分で処分してもよいと考えるようになったのである。これは何も保守だけの心情ではない。

ではこのアンダーコントロールは何を生み出すのだろうか。

例えば、安倍首相は世界に向けて福島原発の問題はすべてアンダーコントロールだと宣言した。多分、その当時安倍首相は本気だったのではないかと思う。しかし、実際には原発の問題をコントロールすることはできない。廃炉の見込みが立たないばかりではなく、放射性物質が海に撒き散らされる事態も収束できないようだ。しかし、安倍首相はアンダーコントロールだと宣言してしまったので、戻れない人たちを「自己責任だ」といって切り捨てたり、放出される放射性物質をなかったことにしようとしている。

自分はすべてがコントロールできるはずだという傲慢さは現実の否認につながり、さらに他人の人生を否定することになる。保守の場合「日本の伝統についての解釈はすべて自分が知っているのだから、それに当てはまらない人は生きている価値がない」という展開になる。

「自分の人生は自分で処分できる」と考えているうちは自己責任だから良いではないかと思えるのだが、実際には他人の人生を巻き込んで暴走してしまう可能性があり、実際にそういうことが起きているのである。安倍首相は「国際情勢は自分がよく知っており、実際に自分が言った通りになった」と思い込むことで国力を衰退させてしまう可能性が高い。しかし彼らはそれを反省せずに「脱落した人は自己責任だから自分で自分の命を処分すべきだ」と言い出すことになるだろう。

もし、西部さんが保守であったとしたら日本人が持っていた畏れのようなものを織り込んでいたはずなのだが、その根をみると多分出発点は日本の伝統ではなかったのではないだろうか。

こうした倒錯がどうして起こるのかを考えてみた。科学というのは神の領域に近づこうとする人間の試みである。しかし、その成果だけを見るとすべてのことが「ぱっきりと」説明できているように思えてしまう。追求や探索の過程がすべて終わっているからである。

日本人は戦後西洋から「科学的思考」を取り入れた際に、科学を正解の束だと誤解した可能性がある。一方で村落が持っていた鎮守の森の得体の知れなさなども捨ててしまい「自分たちが知っている理論だけがすべてをコントロールできるのだ」と思い込んでしまったのかもしれない。

平たく言ってしまうと「日本人はもっと謙虚になるべきだ」ということになるのだが、かつてはそうした謙虚さをきちんと持っていたのではないかと思う。本来ならばそれこそが保守が追求すべきことなのではないかと思う。

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問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

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マクドナルドのwi-fiはなぜつながらないのか

千葉市のマクドナルドでwi-fiが接続できないという経験をした。近隣の三店舗あるのだがそのうち二店舗がアウトだった。たまたまなのかもしれないのだが、構造的な問題があるようだ。大げさに聞こえるかもしれないのだが、森友学園問題で安倍政権に感じる「もやもや」との共通点も多い。キーワードになるにはまたしても「村落」である。マクドナルドのような外資系の会社にも村はある。




日本国民は政府のユーザーだ。疑問への答えが返って来ればそれ以上は追求しないはずである。森友学園の問題も説明さえしてもらえればいい。しかし、現実はどうだろうか。財務省の内部のセクションの名前や担当者の名前はたくさん出てくるものの、一向に「森友学園へなぜ割安の土地が払い下げられたのか」という問題についての説明はない。そのうち「わざとだろう」ということになり問題はエスカレートしてゆく。

同じようにマクドナルドのwi-fiはつながらずそれについて説明を求めても明快な返事はない。そして同じようにマクドナルドの内部で何が起きているのかということに詳しくなってしまうのである。具体的にはフランチャイズが本部からwi-fi設備を押し付けられているのである。

どうしてもつなぎたい場合にはいったん電波を掴んでから電波の強度チェックをするといいと思う。二階の席でギリギリでここから外れると電波が途切れてしまった。全ての席で使えるようにはなっていないのだ。

近辺の3つのマクドナルドはどれもフランチャイズだ、人の出入りが多いショッピングモールにあるマクドナルドでは問題なくwi-f-接続ができたのだが他に店舗ではダメだった。

最初の店舗ではそういうものなんだろうなと思いカスタマーサポートの技術担当にクレームを入れて終わりになった。「本部に伝えます」とのことだった。しかし二店目ではもっとひどい問題が起きた。

お店のルーターはカウンターに置いてあるのだが「ルーターは二階の店長の部屋にある」し「お客様に勝手に対応してもらうことになっています」と言われた。実はルーターはカウンターの下にあるのでこれは嘘だということがわかっていた。そこでカスタマーサポートに連絡した。直接話してほしいというと、まず従業員同士で電話の押し付け合いが始まった。チームリーダーみたいな人があまり詳しくない人に電話を押し付けていた。そして押し付けられた人は電話を取ったままで延々とカスタマーサポートの人と話しはじめた。ギロッと睨まれたので多分恨まれているんだろうなあと思ったのだが、こちらもだんだんイライラしてきた。お客さんの私物の電話で延々と話し続けていたからだ。

結局、休憩していたというマネージャークラスの「SHIMIZUさん」が飛んできた。お客さん用の接続マニュアルがありルーターは下にありますという。SHIMIZUさんはマニュアルの存在と初期対応を知っていたのだが、その下の人たちがいうことを聞かないのだろうと思った。

この従業員のやる気のなさの原因は程なくしてわかった。店長が連絡してきて「お店はハンバーガーを売っているだけであって、wi-fiを提供しているわけではない」と言い放ったのである。正直な感想だとは思うのだが、それをお客さんに直接いうんだと思った。さらに「こうなったら設備の電源を切って、ステッカーも剥がして、このwi-fiはつながりませんという但し書きを店内に置く」と言い始めた。

だが、店長にも言い分があった。実はwi-fiの費用はフランチャイズ持ちなのだそうだ。本部に言われるがままに店を改装しパソコンが使える電源を配備した上で、ソフトバックに月々の金を払っているのだという。だが、マクドナルドは何の情報も渡さずあとは勝手にやってくれと言わんばかりだというのである。

さらに店長は「お前は前にもクレームを入れてきただろう、あの時にも本部に連絡したが、機械には問題がないと言われたぞ」と凄んでくる。つまりいちゃもんをつけていると思われたらしい。確かに別店舗についてのクレーム入れたがこの店を利用するのは初めてだった。前にも本部にクレームを入れて適当にあしらわれたということと、この店がwi-fiルーターを持て余しているということはわかる。さらにルーターを再起動してもらったときにSHIMIZUさんにIPアドレスが取れていなかったが取れましたよねと説明してあるのだが、多分誰も理解していないのだろうなと思った。ルーターは再起動しないということなので問題は長い間(もしかしたら1日以上)放置されていたのかもしれない。

だが店長はテクニカルサポートに対しても怒っていて「接続したままで文句を言われなくなるまで」設備は提供しないと客に向かって宣言したのである。具体的には、ちゃんとした技術的案内があるまで設備の提供を中止するのだという。

店長は本部への不満をぶちまけたのち電話を切った。そこでマクドナルドに電話をして「企業の公式見解を求めます」と宣言した。マクドナルドのカスタマーサポートは謝罪はしてくれるが、決して原因究明はしない。本部にレポートはあげるかもしれないがその結果をお客さんにフィードバックする権限はないのである。だから、問題は本部の人が認識するまで放置される。前回の安全偽装の問題でわかったのは、本部の人はネットやテレビで炎上するまで問題を放置するということなのだが、多分この問題も同じように放置されるのだろう。業績は上向いているとはいえ企業体質は変わってしないのだ。

サポートのたかみさんという女性は国会対応に置ける太田理財局長のような役割を担っている。つまり、謝罪はしてもよいが抜本的な改革は約束してはいけないし、顧客に報告する権限もない。それはマクドナルドでは本部と店側の問題だ。太田理財局長は行政府と議会にかわって問題解決を約束してはいけないのだ。

だが、本部も議会も責任はとらないのだから、謝りつつも具体的な約束は何もしないというのが「リスク管理」になってしまう。たかみさんの話を聞いていて「国会答弁みたいだな」と思ったのだが、多分日本中でこの「太田話法」が広がっているのだろう。

マクドナルドでwi-fiが使えなくても特に問題はない。今回は返金してくれた上にポテトのサービス券もくれたのでコールセンターと会話した無駄な時間以外に実害はない。それに、居心地のいい空間が必要ならスターバックスにゆけばよい。不思議なことに同じ機材を使ってもスターバックスやコンビニで接続できないという経験はない。

しかし国の場合には別の国に移住するわけにも行かない。そして相手が逃げようとしていると思うと自動的に追求したくなってしまう。野党が「もりかけばかりに集中する」気持ちがよくわかった。明らかな問題があるのに権限がない現場の人が決して認めようとせず、怪訝がある人たちは決して責任をとろうとしない。するとついつい追いかけてしまうのである。

マクドナルドはwi-fiがまともに扱えない理由はいくつかある。まずは古い体質のフランチャイズの人たちが抵抗していて新しいサービスを覚えようとしない。彼らには拒否権がないのでいやいや設備は導入するが決して納得はしていない。そしてその不満を平気で顧客にぶつけてくる。従業員は「そんなお金はもらっていないから」と言って拒否し、店長は「本部が悪い」と罵る。しかし考えてみればwi-fi機器の仕組みはそれほど難しいものではないし、定期的に状態をチェックすべきだ。しかし、彼らはそれをやらない。

だが、こうした問題は認識されることがない。なぜならばwi-fi環境についての責任者がいないからである。本部は売り上げをあげるのが仕事であり、フランチャーズはハンバーガーを焼くのが仕事だ。そしてサポートセンターはお客さんに謝って何もしないのが仕事になっている。テクニカルサポートはそんな中で「端末を再起動して、ルーターの近くに座って、ダメなら諦めてください」というのが仕事になっている。つまり、それぞれのムラができているということだ。ここに足りないのは新しい技術なりサービスの導入をするために責任と権限を与えられた組織横断型のプロジェクトマネージャーだが、日本的な村落共同体には村の領域を超えたリーダーは生まれない。だからこの問題は村落の構造問題なのである。

この経験から、なぜ私たちが財務省の中の組織に詳しくなってゆくのかがわかる。日本人は「問題が起きた責任」は自分の村の外にあると考えるからである。実際には協力して対処しあえないことが問題なのだが、日本人は決して他人とは協力しない。だから村人が指ししめす通りに歩いていると「村を一周したね」ということになって終わる。もしくは、不満が爆発し「リーダーの首を挿げ替えろ」ということになるのだろう。

今回の森友学園問題の問題では「安倍やめろ」コールが起きている。もしかしたら安倍首相はやめてしまうかもしれないが問題そのものは残るだろう。さらに悪いことに問題の記憶が政権ごと消えてしまうので、また一からやり直しになってしまうのだ。

次回のエントリーではなぜ問題が解決に向かわないのかを貴乃花親方の事例をあげて説明したい。これも村落が絡んでいる。

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ガン細胞としての安倍政権と免疫細胞としてのデモ

NHKの人体が最終回を迎えた。これまでメッセージ物質という人体内のコミュニケーションプロセスについて扱っていたのだが、今回はガン細胞もメッセージ物質を使って人体をコントロールするというような話を紹介していた。自己増殖が目的化して暴走したのがガン細胞であり、そのために最終的には体を滅ぼしてしまう。この番組を見ながら安倍政権はガン細胞みたいだと思った。

誰かをガン細胞扱いすると単にレッテル貼りだと非難される可能性が高い。だが、やはりこれは重要な視点である。つまり、安倍政権をガン細胞だと考えるとそれを抑制する免疫機能は何だったのかという疑問に突き当るからである。持続可能な社会というのは免疫機能に当たる何かが備えられているはずで、それを突破したのが安倍政権ということになる。実際に重要なのはレッテル貼りではなく、何が免疫機能なのかを知ることなのだろう。

昨日の答弁を見た限りでは自民党は変わりそうにない。「この改竄事件は官僚が勝手にやったことであり、安倍首相も麻生大臣も関わっていない」という筋で乗り切るつもりのようだ。前回官僚機構を恫喝して悪評が立ったので、温和そうな武見議員を前面に押し出して対処していた。その上で国民の目を北朝鮮に向けさせて「こんなことをしているような余裕はない」というシナリオになっていた。トランプ大統領を抑えられるのは安倍首相しかいないという「物語」は事態を悪化させるとは思うが、武見議員は与えられた仕事をうまくやったと思う。ただ、山本一太議員はなぜか安倍首相を持ち上げて「ああ、やっぱりこの人たちは変われないんだろうな」という印象を強く打ち出していた。ただこれは山本さんの味なので、これについてとやかく言うつもりはない。

自民党のこの態度はいつものことなので、特に絶望は覚えなかった。絶望したのは太田理財局長の答弁だ。太田さんは安倍政権の作ったシナリオを「正解」として覚え始めていた。この方は財務省次官候補のエースなのだそうだが「正解がないと何もできない」という病のようなマインドセットを抱えているようだ。こういう人が財務省ではエースと呼ばれるのだなと考えると暗い気持ちになる。つまり、これは官僚組織が現状にあった正解を探索できないということを意味しているからだ。

話をよく聞いていると反省してるという態度は見せつつ何も回答していなかった。最終的に福山哲郎議員に押し切られ「私は答えられない」と追い詰められていた。これには二つの理由がある。そもそも正解に破綻があるので正解を答えてもだれも納得しない。さらに、佐川さんがまだ証人喚問に応じていないので参考書がまだ埋まっていない。佐川さんが答えた時点でそこが埋まるので、そのあとはそれを前提に無理のあるシナリオを答弁することになるだろう。

太田さんの答弁から、日本にはそもそも普通に考える「事実」という概念は存在しないということがよくわかる。普通「事実」というのはありのままに起こったことを指すのだから、個人の見解や心象を聞けばそれが事実になるはずだ。つまり、お話を作って暗記する必要はない。財務省の中だけでも様々な見解があり、お互いにうまくコミュニケーションが取れていなかったようだから、その事実はお互いに矛盾したものになるだろう。だがこれは日本では「個人の見解」や思い込みということになり事実とはみなされない。事実というのは後から作られた「解釈」の事なのである。与党と野党の解釈は異なっているのだから「本当に何が起こったのか」が解明されることはないはずである。

普通の日本の組織には明確な目的があり、ストーリーメーキングが暴走することはない。組織の利得が最大になるようにあるプロセスに従って事実を組み上げるからである。ところが、政治家は外から自己の正当化のためにこの非公式ルートを使おうとした。これが暴走の原因になっている。この事実が気に入らない人がいるから途中経過を持ったまま亡くなる人が出たわけだし、リークも出ている。だがそもそも「ありのままの事実」という概念がないので、新しい事実が明るみに出るたびに事実を変化させてゆく。こうして組織がどこに向かっているのかがわからなくなる。つまり異物が取り付いて外から記憶を操作しているのが安倍政権なのである。ガン細胞という言い方はショックかもしれないが、実際に起こっていることを見ると外からの病変が意思決定と現状認識に影響を与えているのは間違いがない。

世間では「だれが悪いのか」ということが問題担っているようだが、実際には安倍政権の自己保身と官僚組織の問題二つ(正解を暗記し、組織として正解を作る)が組み合って問題が起きている。

だが、この意思決定の仕組みはかなり曖昧に作られている。少なくとも財務省は近代的な民主主義が受け入れられなかったようだ。電子決済システムは権限を明確にした上で仕様を決めてプログラミングをしてゆく。仕様を作るためには「権限」が規定されている必要がある。しかし、財務省は電子決済システムをうまく運用できていなかったようで、電子決済システムで作った資料を印刷して利用していたということがわかっている。この印刷されたもう一つの決済文書は、法律でプログラムされていない「根回し」に使ったのではないかと思われる。

安倍首相は電子決済を徹底して組織を立て直すと言っているのだが、これは非公式のルートをなくすということを意味している。だが、そもそも政治家の関与があるから非公式ルートがあると考えると、安倍政権には(もしくは野党にも)組織の立て直しはできない。

しかし、こうした非公式な意思決定ルートはそれなりの経緯で構築されており、普段はうまく動いている。安倍政権がここに取り付かない限り暴走が表面化することはなかっただろう。

安倍首相は昨日今井総理補佐官の名前が出た時い落ち着きをなくし、なんども答弁を確認していた。財務省官房は「官邸の関与がなかった」とは断言しなかった。今はまだ追求されていないがこの辺りにも物語があるのだろう。物語は官邸の関与を隠すために作られているようなので、総理の関与は明白である。だが、この関与は少なくともプロセス上の法律違反にはならないように「設計」されていたのだろう。こうした設計ができるのは公式ルートの他に記録に残らない非公式ルートがあるからである。つまり、官僚が持っていた仕組みをうまく利用しているのだ。

前回はデタラメな英語を例にあげて「そもそもコミュニケーションをするつもりがないのにデタラメな文章を綴っている」と安倍政権を分析した。だが、この分析は間違っていたようだ。自己増殖と自派閥の強化が自己目的化しているとはいえ、その暴走は通常のコミュニケーションルートを使って行われるからだ。

さて、普段こうした暴走が未然に防がれるのはなぜなのだろうか。それは常識のある人たちが組織の内部で抑えていたからだろう。亡くなった職員は「信じていたものが裏切られた」と語っているようなのだがこうした一人ひとりの良心が免疫の役割を果たしているはずである。だから免疫を保全する上でのホイッスルブローイング(内部告発)は非常に重要なのだ。

また、Twitterでめちゃくちゃなことを言われても「いやそんなデタラメはないですよね」といなすのも免疫の一部と言えるし、素直な良心からくるデモ行為も健全であれば免疫機能を果たしていると言える。

ただ、この免疫機能がいつもうまく働くとは限らない。この辺りはもう少し丁寧に考える必要があるのだが、免疫不全を起こす例をあげてみよう。

  • 私一人が何かを言っても組織や社会は動かないから何を言っても無駄という無力感。
  • 自分はおかしいと思うが組織の論理というのはこういうものなのだろうという納得。
  • とにかく安倍政権はおかしいというストーリーに固執して違った可能性を受け入れないし、感情的に詰り続ける頑なな態度。
  • 普通の個人が政治に関心を持つはずなどないのだからあの人たちはだれからお金をもらっているのだろうという懐疑心。

個人の「これはおかしいのではないか」という社会常識は意外に健全だと思う。これがうまく働かないと、結果として組織防衛が自己目的化して暴走することになる。私たちは何が社会をかろうじて暴走から守っているのかということをもっと考える必要がある。

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馬鹿は放置しておいたほうが良いのではないか

これまで、村落共同体について見ながら「日本人の行動原理」について考えてきた。その動機はいくつかあるが、日本人の行動原理について知れば合理的な民主主義にコンバートするためのきっかけがつくれるのではないかというのもその一つである。だが、それはちょっと違うのかなと思う出来事があった。「馬鹿には何をいってもダメなのかもしれない」と思ったのだ。

ヤフオクで安いカメラがないか眺めていたところ次のような英文が見つかった。多分、間違った英語にも著作権があるのだろうが、ちょっとがっくりきているのでそのまま引用なしで使うことにする。

Will be determined at the auction will always check the notes on the trading block before you bid, please we accept notes from our

上の日本語をみると「取引する前にメモを見てくれ」というようなことが書いてある。ヤフオクでは取引条件を読まずに入札してあとでいろいろと文句をつけてくる人がいるのだろう。こうしたフレーズ自体は珍しくない。英文にはそれを匂わせる単語が含まれているのだが、全体的に意味をなしていない。多分、そもそも伝える気がないのだろう。こうした伝える気がない英語は実は珍しくない。よく広告の包み紙や看板などで意味がわからない英語が使われている。

と同時に、この人は日本語の文法を理解しているのだろうかと思った。日本語で「あなたはここに書かれている文章を読んでから入札しなければならない」という文章を書き起こせさえすれば、あとはそれを翻訳して行けばよいからだ。もし、文法が意識されないのに普段から日本語が正しく書けているとしたら、日本人はどのように文法を意識しているのだろうかなどと考えた。

そうこうしつつ文章を眺めているうちに、この人が何を理解していないのかということを分析することにどれくらい意味があるのだろうかと思った。明らかに「わけのわかんないガイジンは近寄らなくてもいいんだよ」というのが伝えたいことなので、そもそも英語の文章が成立していなくてもそれほど気にしない人なのだろう。これが平気でいられるのは書いた英文がわからないからである。こういう人が英文法を学びたいと思っているとは考えにくい。

ここでいう馬鹿というのは「中学校レベルの英語すら話せない人」という意味なのだが、実際には「最初から学ぶつもりも意思疎通するつもりもない」人たちを意味している。最初からコミュニケーションを拒否している人を説得するのは不可能だ。

同じことが民主主義についても言える。民主主義というのは単に「みんなで多数決をして何かを決めて行きましょう」ということではない。民主主義はヨーロッパに生まれた社会統治の仕組みであり、文法や文化的背景がある。社会の自由を保証することで競争力を強めて行こうという考え方が民主主義である。もともとは同じ言葉をは話す「民族」をひとかたまりで社会と呼んでいたのだが、そのあり方は変化しつつある。つまり、社会の自由を肯定しつつ終わりのない変化に対して試行錯誤を繰り返すのが民主主義の本来の姿なのだ。

だから、安倍政権のようにそもそも民主主義を理解するつもりがなく「海外では民主主義というものがかっこいいらしいので、とにかく民主主義っぽいものを並べてそれっぽくやっていれば、なんとかなるんじゃないか」などと思っている人にいくら民主主義の基本を解いてみても意味はないのだろう。安倍政権は民主主義という言葉を通じてコミュニケーショを取ることを拒絶しているという意味で「馬鹿な」政権だということになる。

安倍政権は明らかに民主主義が理解できていなかった。議会というのは単なる儀式にすぎず、行政府と立法府の違いすらわからなかった。憲法は単なる努力目標で自分たちの考える美しい国柄を定めたものだなどといって憚らなかったし、統計資料というのは都合のよいデータだけを引っ張り出してくればよいなどと思っている。さらに外交についても単にお金をばら撒いて相手の機嫌をとりつつ自分たちの売りたいものを売れれば良いと考えているようだ。それを支援する人の中には「日本人に天賦人権は似合わない」という人や、弱肉強食の国際社会でみんな友達などという間違ったことを教えるのはよくないといって憚らない人たちが大勢いる。日本人の目から見ても異常だし、西洋の基準に照らし合わせてもデタラメである。

こういう状態が長く続いたために「なんとかしなければ」と考えてきたのだが、それは全て無駄な試みだったのかもしれない。民主主義を理解するつもりがない人に何を言っても無駄だ。こういう人たちに民主主義の基本的なルールを弄ばれてはたまらない。

色々と考えていると疲れてしまうし、本当は民主主義なんかないんじゃないかという気分にすらなってしまう。ネトウヨ化した自民党をいくら眺めてみても解決策は見つからないだろう。英語を学ぶためには簡単な文法を学んだ上でちゃんと英語を話せる人とコミュニケーションを取る必要がある。同じように民主主義を学ぶためには基礎を学んだら、民主主義が機能している国の人とコミュニケーションを取る必要があるのだろう。

日本には日本にあった統治の仕方がある。日本はもともと小さな利益共同体を核にした変化しない社会である。ただ、安倍政権を見ているとこちらの文法も正しく理解していない可能性が極めて高い。無自覚なのかもしれないが、省庁間の緊張のバランスを崩してみたり、自分たちの利権を導入してみたりとやりたい放題だった。しかしその結果利権を侵害された官僚組織から様々な形で復讐され始めている。

その意味では次の政権は正しく民主主義を理解している人が首班になってほしい。だが、それも叶わないならば正しい日本の利権構造がわかっている人が首班になるべきだろう。それはかつてあった政官財が癒着した政治の姿なのだが、それでも全く会話が成り立たないよりはマシである。いずれにせよ、日本型の利益共同体と西洋型の民主主義のどちらも理解しないままで「決められる政治」など目指せるはずはない。安倍政権の唯一の成果はそれが大衆レベルで理解されたことなのかもしれない。

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