馬鹿は放置しておいたほうが良いのではないか

これまで、村落共同体について見ながら「日本人の行動原理」について考えてきた。その動機はいくつかあるが、日本人の行動原理について知れば合理的な民主主義にコンバートするためのきっかけがつくれるのではないかというのもその一つである。だが、それはちょっと違うのかなと思う出来事があった。「馬鹿には何をいってもダメなのかもしれない」と思ったのだ。

ヤフオクで安いカメラがないか眺めていたところ次のような英文が見つかった。多分、間違った英語にも著作権があるのだろうが、ちょっとがっくりきているのでそのまま引用なしで使うことにする。

Will be determined at the auction will always check the notes on the trading block before you bid, please we accept notes from our

上の日本語をみると「取引する前にメモを見てくれ」というようなことが書いてある。ヤフオクでは取引条件を読まずに入札してあとでいろいろと文句をつけてくる人がいるのだろう。こうしたフレーズ自体は珍しくない。英文にはそれを匂わせる単語が含まれているのだが、全体的に意味をなしていない。多分、そもそも伝える気がないのだろう。こうした伝える気がない英語は実は珍しくない。よく広告の包み紙や看板などで意味がわからない英語が使われている。

と同時に、この人は日本語の文法を理解しているのだろうかと思った。日本語で「あなたはここに書かれている文章を読んでから入札しなければならない」という文章を書き起こせさえすれば、あとはそれを翻訳して行けばよいからだ。もし、文法が意識されないのに普段から日本語が正しく書けているとしたら、日本人はどのように文法を意識しているのだろうかなどと考えた。

そうこうしつつ文章を眺めているうちに、この人が何を理解していないのかということを分析することにどれくらい意味があるのだろうかと思った。明らかに「わけのわかんないガイジンは近寄らなくてもいいんだよ」というのが伝えたいことなので、そもそも英語の文章が成立していなくてもそれほど気にしない人なのだろう。これが平気でいられるのは書いた英文がわからないからである。こういう人が英文法を学びたいと思っているとは考えにくい。

ここでいう馬鹿というのは「中学校レベルの英語すら話せない人」という意味なのだが、実際には「最初から学ぶつもりも意思疎通するつもりもない」人たちを意味している。最初からコミュニケーションを拒否している人を説得するのは不可能だ。

同じことが民主主義についても言える。民主主義というのは単に「みんなで多数決をして何かを決めて行きましょう」ということではない。民主主義はヨーロッパに生まれた社会統治の仕組みであり、文法や文化的背景がある。社会の自由を保証することで競争力を強めて行こうという考え方が民主主義である。もともとは同じ言葉をは話す「民族」をひとかたまりで社会と呼んでいたのだが、そのあり方は変化しつつある。つまり、社会の自由を肯定しつつ終わりのない変化に対して試行錯誤を繰り返すのが民主主義の本来の姿なのだ。

だから、安倍政権のようにそもそも民主主義を理解するつもりがなく「海外では民主主義というものがかっこいいらしいので、とにかく民主主義っぽいものを並べてそれっぽくやっていれば、なんとかなるんじゃないか」などと思っている人にいくら民主主義の基本を解いてみても意味はないのだろう。安倍政権は民主主義という言葉を通じてコミュニケーショを取ることを拒絶しているという意味で「馬鹿な」政権だということになる。

安倍政権は明らかに民主主義が理解できていなかった。議会というのは単なる儀式にすぎず、行政府と立法府の違いすらわからなかった。憲法は単なる努力目標で自分たちの考える美しい国柄を定めたものだなどといって憚らなかったし、統計資料というのは都合のよいデータだけを引っ張り出してくればよいなどと思っている。さらに外交についても単にお金をばら撒いて相手の機嫌をとりつつ自分たちの売りたいものを売れれば良いと考えているようだ。それを支援する人の中には「日本人に天賦人権は似合わない」という人や、弱肉強食の国際社会でみんな友達などという間違ったことを教えるのはよくないといって憚らない人たちが大勢いる。日本人の目から見ても異常だし、西洋の基準に照らし合わせてもデタラメである。

こういう状態が長く続いたために「なんとかしなければ」と考えてきたのだが、それは全て無駄な試みだったのかもしれない。民主主義を理解するつもりがない人に何を言っても無駄だ。こういう人たちに民主主義の基本的なルールを弄ばれてはたまらない。

色々と考えていると疲れてしまうし、本当は民主主義なんかないんじゃないかという気分にすらなってしまう。ネトウヨ化した自民党をいくら眺めてみても解決策は見つからないだろう。英語を学ぶためには簡単な文法を学んだ上でちゃんと英語を話せる人とコミュニケーションを取る必要がある。同じように民主主義を学ぶためには基礎を学んだら、民主主義が機能している国の人とコミュニケーションを取る必要があるのだろう。

日本には日本にあった統治の仕方がある。日本はもともと小さな利益共同体を核にした変化しない社会である。ただ、安倍政権を見ているとこちらの文法も正しく理解していない可能性が極めて高い。無自覚なのかもしれないが、省庁間の緊張のバランスを崩してみたり、自分たちの利権を導入してみたりとやりたい放題だった。しかしその結果利権を侵害された官僚組織から様々な形で復讐され始めている。

その意味では次の政権は正しく民主主義を理解している人が首班になってほしい。だが、それも叶わないならば正しい日本の利権構造がわかっている人が首班になるべきだろう。それはかつてあった政官財が癒着した政治の姿なのだが、それでも全く会話が成り立たないよりはマシである。いずれにせよ、日本型の利益共同体と西洋型の民主主義のどちらも理解しないままで「決められる政治」など目指せるはずはない。安倍政権の唯一の成果はそれが大衆レベルで理解されたことなのかもしれない。

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