もう日本人が戻れる村はなく、かといって夢想している正解も存在しない

今回は、韓国人が序列を気にしておりそれに逆らおうと「文句を言い続けているのでは」という仮説を書いた。そして、どうやら日本人も「集団の空気」を気にしており、空気と不整合があると苦痛を感じるようだ。




日本人も韓国人もこうした不整合からくる居心地の悪さを自覚していないようだ。こうした不整合を背景にした議論は人々に苦痛をもたらし出口がない。問題解決を目的としているはずの政治的議論が苦痛になるのは、そもそも人々が何を求めているのかがわかっていないからではないだろうか。

そんなことを考えてどうするのだろうという人がいるかもしれない。実際にTwitterでメンション付きで「コミュニケーションの裏側について分析してどんな意味があるのだろうか」というつぶやきを見つけた。確かに背景を分析しても問題は解決できない。が、そもそも我々は問題解決という入り口にまだ立っていないのではないだろうかと考えることでようやく前に進むことができる。解決策が見つけ出せるようになるのはその先である。

ここで重要なのは、私たちが「村全体が一つになっていて自分たちがその正義と同一化している状態」に居心地良さを見つけるということである。ところが民主主義社会において「みんなの意見が完全に一致すること」などありえない。常に意見の相違が存在する上に、二大政党制だと常に半数近い人が「正義の側ではない」可能性がある。かつてそのような村があったのかという疑問もあるのだが「もう村はないのだから後戻りはできないのではないか」という問いかけが生まれる。

いずれにせよ、もう村がないのに村の一体感を求めるという欲求は様々な問題を引き起こしている。Twitter上では常に「負けている方の半分」が文句を言っている。2009年頃には公共工事がすべて悪だとされていたので、自民党支持者の人たちは居心地の悪さを感じていた。彼らは常に攻撃的で「なぜ公共工事には良いものがあるのか」という説得力のないことを言い続けていた。そして、現在では民主党を支持していた人たちが自民党政治について文句を言い続けている。こちらは民主主義の理想が実現せず、安倍首相が戦争に向かっていると主張する。

立憲野党支持者と呼ばれる人たちはうすうす自分たちの言っていることには根拠も説得力もないということに気がついているはずである。せいぜい小沢一郎のとっくに終わった政治闘争二利用されるか、共産党の活動に使われるだけであることもわかっているのではないだろうか。しかしそれでも彼らは闘争をやめられない。

日本の場合、こうした屈折した感情は大きなものに結びつくという特徴もあるようだ。世界平和、民主主義、二千六百年の日本の伝統、家族の価値観というような「ありもしない」ものが、当然実現されるべきものだと誤認されてしまうのである。経験上それは避けられないことだと思うのだが、大きな用語を使いたくなったら少し用心してみなければならない。

家族の価値観とは家族同士が「大切にしよう」と思うから維持されるものであって、家族制度を復活させ父親である家長に大きな権限を与えたからといって実現できるものでもない。同じように日本人が自分たちで戦争を防いで行こうと思わなければ憲法第9条には何の意味もない。だが大きなものに陶酔すると日々のこうした努力が何かくだらないことのように思えてくる。

東京大学を出て家庭教師もやっていた「優秀な」平沢勝栄議員も家族がどのようにして維持されててきたのかということについて考えない。東大の教育が正解を教えることに特化しており自分の頭で考える術を与えてこなかったことを、あのLGBT発言はよく表している。彼らは単に「自分が知っている正解ではないから目の前から消したい」と感じているだけなのであり戦後教育の悲しい暴走とも言える。

我々はもう失われてしまった村をいつまでも懐かしく思い、ありもしない正解を捏造してそれに固執している。それが様々な苦しみや軋轢を生んでいるのではないかと思える。ただ、そこから脱却するのかそれともそこに止まるのかは個人の自由である。少なくとも、立ち止まらずに相手を非難し続けることには商品的な価値があり、街の本屋にはそうした類の本が溢れている。少なくとも喉の痛みや鼻水を抑える風邪薬のような効能はあり全く無駄とも言えないのである。

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LGBTばかりになると国は潰れるのか

平沢勝栄議員が「LGBTばかりになったら国は潰れる」と発言してニュース(毎日新聞)になっている。このニュースについて平沢議員を批判する立場から考えて行きたい。




第一にこの「ニュース」には怪しい香りがする。今後、議論が予想されると書いてあるところから「この毒にも薬にもならない議論で遊んでいてね」という含みを感じてしまう。本人は差別するつもりはないと言っており頭の悪さを感じる。自分が何を言っているのかわからないなら今後一切講演活動はしないほうがいいと思う。

第一にLGBTの割合は流行によって決まるようなものではない。だから社会がそれを容認したからといって数が増えたり減ったりすることは考えにくい。同性愛者は子供の時から「同性が好きかもしれない」と思うわけだし、異性愛者は放っておいても女性を追いかけるようになる。だから国家がLGBTを認めたからといってLGBTブームが起きてその結果みんなが同性愛者になるとは思えないのである。平沢さんは曖昧な情報をもとに話をしている。これは自分が「同性が好きだ」と感じた人たちにとって有害だ。社会に手本がない中アイデンティティを構築して行くことになるのだから、できるだけ「正しい知識」が必要なのである。特に自分は間違った性の認識を持っていると感じると自殺に行き着いたりすることもあるようなので、これは命の問題なのである。(一橋大学アウティング事件:Wikipedia

次の観点は多様性の容認だ。多様な空間には多様な人たちが集まる。だから同性愛者を容認したほうが社会が栄えるという研究がある。ただしこれは厳密には同性愛を容認しろという話ではない。同性愛者を社会の一員として認めるというのは他の多様性を認めるということである。いわば社会が開かれているというシグナルなのだ。こうした論調はすでに2000年代に語られている。クリエイティブ・クラスの世紀では、知的労働者は多様性を容認する都市に惹きつけられるというような主張がされている。異質な人たちの中には同性愛者だけではなく外国人労働者なども含まれる。だから渋谷区はその意味では先進地域なのである。

ところが日本全体では外国人労働者を社会の一員として認めるという機運もない。こうした社会がそもそも同性婚を認めるとは思えないし、多様な才能を受け入れることも、新しいアイディアを応援することもないだろう。だから、日本では魅力的なベンチャービジネスが生まれず、知的労働者は日本を目指さない。LGBTを認めることは多様性を認めることであり、多様性を認めるということは新しい可能性を認めるということなのであるが、平沢さんは「そういうのはよくわからないから考えたくない」と言っている。これはコンクリートに固執する自民党全体に言えることなのだろうが、自民党政権下の日本が成長しないのは、新しいアイディアを受け入れないからである。自民党政権が成長戦略に掲げるのは原発の輸出だが、原発はかなり旧世代型の技術であり、実はコンクリートの塊なので単純作業の多い公共事業型の建築と相性が良いのである。彼らは新しい価値観を受け入れないので、新しいアイディアもまた彼らをすり抜けて行くのである。

ここまではよく言われている話である。が、三番目はあまり語られていないのではないかと思う。自民党はとにかく考えることを面倒臭がるので「昔みたいなサザエさんの世界に戻せば問題は消えてなくなるんじゃないか」と思う人が多いようだ。ついでに自分たちが威張るために教育勅語を復活させようと考える人も多い。

ところがその家族自体がなくなってしまうかもしれないという衝撃の調査報告がある。マスオさんが見合い結婚したもののサザエさんに指一本触れないのでタラちゃんが生まれないという世界である。

日本では実は同性愛とは関係なく異性愛の方が危機に瀕している。相模ゴム工業が調査した結果、20歳代の童貞率が40%を超えたそうだ。若者のコンドーム離れという笑えない話があり、その基礎調査になっているのだろう。今回引用したリンク先には、男性が告白すると「SNSでさらされる」という話が紹介されている。恋愛どころか告白ですらリスクなのだから、結婚まで至るのはかなり難しそうである。

しかし、この調査はサンプル数が少ないので「何かの間違いかもしれない」と思う人も多いだろう。確かに確かめようがない。

去年から今年の初めまでの歌番組を見ていて面白いことに気がついた。女性が応援するジャニーズのアイドルは王子様的でありどこか中性的である。ところがこれがアニメになると男性らしさが前面に出てくる。2.5次元という新しいジャンルがあるらしく、キャラをかぶせると安心して「男性らしさ」が打ち出せるわけである。

これがどうしてなのかということに答えられる人は誰もいないのだろうが、男性らしさもある種のリスクになっている可能性があると思う。女性の社会進出が遅れている日本で女性が男性らしさを認めることは支配されることを容認することになってしまう。女性だけで子供を育てることも難しく女性のひとり親=貧困という現実もある。つまり、現実世界の男らしさはリスクでしかないのである。

この説明だと女性だけが男性らしさを忌避しているように思えるのだが同じことが女性アイドルにも起きている。アニメの声優がキャラクターとシンクロしているものが最新の流行らしい。もともとアイドルをヘタウマにしたのがAKB48だと思うのだが、高齢になるに従ってなまめかしさがでてきてしまった。端的に言えば指原莉乃は美人になりすぎた。そこで、年をとらないキャラクターが好まれるようになったのではないかと思う。

小林よしのりは「恋愛禁止」がAKB48を崇拝する理由だったと言っている。普通に考えると、一人に占有されずに「みんなの恋愛対象だから」アイドルとして成立しているのだと解釈したくなるが、恋愛がリスクだと考えると「トイレに行ったり恋愛したりする」ものはアイドルとしてふさわしくないと考える人がいたのかもしれないと思えてくる。

男女ともに肉体関係に踏み込んでこないものをアイドルとして消費している。男性と女性をくっつけておけばやがて子供が生まれたという昔とは違ってきている可能性があるのだが、なぜそうなったのが全くわからない。しかし一つだけ確かなのは波平さんは岩田屋での見合いまでは面倒を見られても夫婦の夜の生活までは指導できないということだ。

これは国家の危機だと言える。エンターティンメントはこの傾向をいち早く補足して新しいアイドル像を打ち出す。だが、ほのぼのとした年末の紅白歌合戦を見て「社会の危機だ」などと思う人はいないだろう。

その意味で、平沢勝栄議員はLGBTではなく紅白歌合戦について苦言を程すべきだった。韓流グループとLDH(EXILE系)を増やして男性らしさを流行らせるべきだったということになる。

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どうせわかってもらえないと諦めるリベラル

Twitterで「日本がIWCを脱退したので海外から批判が集まりオリンピックが大失敗するだろう」というTweetを複数見かけた。一方、Quoraでは実際に捕鯨に対する反感が集まっており日本人に「なぜ日本人はクジラを殺すのか」という質問がぶつけられているので「日本語でちまちまとTweetするなら英語で反論してほしい」というようなことを書いて引用Tweetした。




実際には「日本人がクジラを食べたがっているわけではなく、安倍さんと二階さんの地元だと説明してほしい」と書いた。すると「自民党政権を政権につけている日本人が非難されるだけだ」という反論が戻ってきた。

この返答を見ていつかのことがわかった。まず日本人が世間とか世界を持ち出すとき実際に気にしているのは村の上下関係であって、村の外には実はあまり関心がないということだ。だが、それはすでに観察済みであってそれほど目新しいことはない。

この人は過去Tweetを見ると反自民党系の人らしい。アメリカ人に実際に説得してこういう答えが返ってきたのでなければアメリカ人がどう反応するのかは知らないはずだ。ということは、どこかから既知の「でもみんなが自民党を支持している」という答えを持ってきたはずである。つまり、普段からネトウヨに言われていることを気にしており、自分でもそう思っているのだろう。

日本のリベラルは自民党政権には勝てない。何を言っても「実は俺たちが何を言ってもみんなは賛成してくれない」と信じ込んでしまっているからだ。

前回「韓国が居丈高に対応するのは実は日本が怖いからではないか」と書いた。同じことが日本のリベラルにもいえる。つまりリベラルはすでに議論に負けているという自覚があるからより強い主張を繰り返すことになるのだろう。止まった瞬間に「自分が間違っていること」を認めてしまうことになる。

ただ、今回のリアクションを「リベラルの負け犬の遠吠え」と揶揄するつもりはない。自民党の支持者たちも2009年には同じようなメンタリティを持っていた。彼らは自分たちのどこが間違っていたのかと内省することはなく、公共工事にも良いものがあると言いつのり、天賦人権のために自分たちは政権を追われたと被害者意識を募らせてあのひどい憲法草案を作った。リベラルも「なぜ自分たちは支持されなくなったのか」と反省することなく被害者意識を募らせることになるだろう。

鬱積した気持ちという意味では韓国の「恨(ハン)」に近いのだが、日本の場合はこれが上から目線で語られる。自民党支持者は、今度はアメリカと戦争すれば負けないと思い、憲法という大きなルールを支配すれば勝てると信じる。民主党支持者は民主主義という正解にこだわる。これが負けた側の鬱積した感情を素直に表現する韓国人と大きく違っているところである。日本人は自分こそが本物の権威とつながっているという水戸黄門幻想を持っているのである。

日本人にせよ韓国人にせよ「上下関係」や「多数決」を気にする。みんなの意見が自分の意見より強い「集団主義的な」社会だからだ。自分たちの考える正義が空気に負けた時に屈折した感情として恨が生まれるのだ。だが、アメリカ人はそうではない。自分の意見や立場を伝えることが大切な社会である。そして「アメリカ人みんな」は存在しないから、言ってみないとどんな反応があるかはわからない。

実際にQuoraで「日本人がクジラを食べたがっているわけではない」などと言ってもそれにUpvote(いいね)がつくことはない。なぜならば質問をしてくるアメリカ人はもともと反捕鯨に関心がある人たちだからである。一方、アメリカ人がみんな日本人に反発しているわけでもない。人によって関心ごとが違うのだ。

反捕鯨の人たちが「日本人全体」を主語にしている間、彼らは日本全体を説得しようとするだろう。しかし、誰が原因なのかがわかればそれなりに対応するはずであり、どう行動するかは彼らの問題である。「私を捕鯨問題で説得しても仕方がないですよ」と説明することだけがこちら側の責任である。

トランプ政権で入管施設で子供が複数人亡くなっている。これに反発する人は多いだろうが、だからといってアメリカ人全体が移民の子供を殺したがっていると考える日本人はあまりいないだろう。つまり「アメリカ人全体がトランプ大統領のやっていることを全て承認している」とは思わないはずなのだ。しかし、もし仮にアメリカが日本の人権状況に文句をつけてきたら「アメリカだってこんな残酷なことをしている」と言い出すはずである。

ここからもう一つ面白いことがわかる。日本人は「自分が何かやりたくないこと」があるか、自分がやっていることに介入されて不快になると、「どうせそんなことは無駄だ」と言ったり、意見ではなく人格を否定する。「その人のいうことを聞かなくても構わない」ということを証明しようとするのである。これは、その人の人格を認めてしまうとそれは空気の一部になり「従わなければならない」と重荷に感じてしまうからだろう。つまり、人格と意見が不可分であり「人それぞれにいろいろな考え方がある」ということが理解できない上に、普段からやらない理由を探しているのである。それだけ自分の意思決定権に強いこだわりがあるのだ。

日本や韓国ではどうやら集団の雰囲気が個人の意見に大きな影響を与えているようだということがわかる。だが、言動ではなくちょっとしたリアクションを通して集団に対する恐れが時折ほの見えるだけで普段は全く意識されていない。

アメリカは自分の意見を表明し相手を説得しようとする社会である。だから合意された空気よりも合意形成のための意思決定プロセスを知りたがる。このため欧米型の異文化コミュニケーションの本は「意思決定プロセス」に強い関心がある。一方で他人の目を気にする日本人は世界で認められている日本に関心があり「日本人論」を書きたがる。最近Quoraで日本人は中国人のことをどう思っているのかということを聞かれることが増えた。その意味では他人の目を気にして承認されたがる文化は東洋に広がっているのではないかと思う。

自分の意見を述べることに慣れているアメリカ人はその人が何を言っているのかがわかれば何を目標にしているのかがわかる。しかし、集団の空気を読んで自分の意見を屈折させてしまう東洋的な人たちの政治的な意見は主張だけを聞いていても、彼らが何を気にしているのかが実はよくわからない。だから「リアクション」を観察することが重要なのである。

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演じる家族 – 花田家と安倍家の共通点

元貴乃花親方の息子である花田優一さんがテレビに出まくっている。どうやらマスコミはリスクのある政治報道よりもこの若者を叩くほうが報道価値があると思っているようである。世も末だ。だが、この一連の報道を見ていてとても気になることがでてきた。それは家族と道徳的価値である。

元貴乃花親方は新興宗教と関係を持ち独自の道徳感を持っている。だが、それに社会的価値が全くないことは明らかである。誰一人追随者がいない。彼の道徳は彼が作り出したファンタジーだがそういうことはよくある。日本人の男性は「育てる」ということにあまり関心を持たない。興味があるのは競争だけである。人は競争だけをして生きて行くわけではない。

一方息子である花田優一さんが道徳的観念を持っていないこともまた確かなようだ。納期はすっぽかし、奥さんとは早々に離婚し、両家の親に報告もしなかったようである。にもかかわらず、花田優一さんは臆せずにテレビに出まくった。爽やかなルックスでよどみなく流れるように話す様子から彼が一連の報道に大した罪悪感を持っていないことがわかる。まだ23歳という若さを考えると大胆というか異様と言って良い。彼は道徳的規範の代わりに「爽やかな若者を演じる」術を身につけており、テレビもそれを好意的に受け止めているのである。雑誌ではこうした「爽やかさ」は伝わらない。

父親である元貴乃花親方は「このままでは大変なことになる」と他人事のようにこれを週刊誌にぶちまけているというところから、この人が「自分も子育てに三角すべきだ」という意識を一切持っていないことがわかる。雑誌にそんなことを書けば息子にどんな批判が集まるかは容易に予測できたはずなので、もう常軌を逸しているとしか思えない。だが、この人は貴ノ岩にも同じことを言っていたし「花田勝氏」にも同じことを言っていた。正しくないと思ったものを容易に切断できてしまう人なのであろう。

さらに河野景子さんもテレビに出て「貴乃花の言っていることもわかるし息子の言っていることもわかるが、間に立ったりはしない」と言っている。母親もまた「家族」を切断してしまっているようだがそれに違和感は感じていないようだ。こうして演じる一家が作られ、テレビはそれを歓迎する。本物の家族より演じている方が本当に見えるのだ。

人間が社会規範を受け継ぐ時、家庭はとても大切な役割を果たす。しかしながら、元貴乃花親方にとって家族というものは取り立てて省みる価値がないものだったのだろう。だが、さらに重要なのはテレビを見ている人たちも「家族が価値観を育てる」ということにさほど関心を持っていないということである。彼らがみ違っているのは勝利に向けて邁進する貴乃花とそれを支える健気で華やかな家族の姿なのである。

この「正しさ」と「結果としての勝利の全面的な正当化」への固着は極めて男性的な日本ではよく見られる光景だ。それを陰で補正してきたのが女性だった。だが、女性は一人で子育てをしているわけではなかった。問題は、常に外に触れている「相撲部屋」としての貴乃花部屋と、プライベートとして孤立してしまっている家庭の絶望的な乖離である。これは群れで子供を育てる「共同養育」という習性のあるヒトとしては極めて異常な状態だ。

先日NHKで育児ノイローゼについての特集をやっていた。母親が不安を感じやすいのはヒトが群れで子供を育ててていた名残なのではないかという説があるそうだ。戦後の核家族化には「共同養育環境」が阻害されるという決定的な問題がある。

鍵を握るのは、女性ホルモンのひとつ「エストロゲン」です。胎児を育む働きを持つエストロゲンは、妊娠から出産にかけて分泌量が増えますが、出産を境に急減します。すると母親の脳では神経細胞の働き方が変化し、不安や孤独を感じやすくなるのです。 
なぜそんな一見迷惑な仕組みが体に備わっているのか?その根本原因とも考えられているのが、人類が進化の過程で確立した、「みんなで協力して子育てする」=「共同養育」という独自の子育てスタイルです。人間の母親たちは、今なお本能的に「仲間と共同養育したい」という欲求を感じながら、核家族化が進む現代環境でそれがかなわない。その大きな溝が、いわゆる“ママ友”とつながりたい欲求や、育児中の強い不安・孤独感を生み出していると考えられています。

https://www.nhk.or.jp/special/mama/qa.html

この花田家を見ていて安倍晋三を思い出した。彼も実家が政治家であり、子供の頃は選挙一色の暮らしをしていた。選挙に勝つことが家の至上目標だった。安倍晋三も子供の頃に寂しい思いをしたという。彼の規範意識のなさが、選挙にかかりきりになる家と孤立した家族から来ているのではないかと思った。政治家の二世・三世も演じることを強制された人たちなのである。ただ、ここでは孤立した家とは言わずに「独立国家の共同体」と表現されている。心理的な正当化が起こるのだ。

「やっぱり普通の家庭への憧れはあった。人の家に遊びに行って友達が両親なんかと楽しそうに話してたり、父親と何か楽しそうにやり合っているのを見ると『ああ、いいな』と思ったりしたものです。それに引き替え、うちの家には父は全然いないし、母も選挙区へ帰ることが多かった。だから父がたまに家にいたりすると、何かぎくしゃくした感じがしたものだった」(『気骨 安倍晋三のDNA』)

洋子はこれを「我が家は独立国家の共同体のようなものでした」と表わした(前掲書)。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45140

花田優一さんが生まれる前から花田家は常にマスコミに注目されていた。河野景子さんや花田優一さんは後援者らがいるパーティーで「形式的に正しい家族」を演じることに慣れてしまった。お母さんはそれを使って講演活動までしているし息子も靴を売るためだと言って父親のパーティーで営業活動などをしていたようである。しかし、形式的に正しさを演じているということは、内心の正しさなど何も意味がないのだということを意味になりかねない。同じようなことが世襲の政治家の家庭でも起きているのではないかと思う。選挙で受けがよければ裏で何をしていても構わないという虚構の家族である。

選挙に勝ち続けるということは有権者からみて正しい家族像を演じ続けるということだ。この結果ばかりに注目し本来持つべき道徳心をないがしろにすることは、社会が個人に与える刑罰のようなものだ。内心など何の意味もないとして個人の道徳心を絞め殺してしまうのである。安倍首相は嘘を嘘と思わない虚の政治家であり、教育や子育てへの投資には極めて無関心である。お友達にも、外面的な規範である教育勅語的を復活させれば世の中の道徳の問題は全て解決するという人たちが多いようだ。ある意味元貴乃花親方に似た思想を持っている。

花田優一さんは、元貴乃花親方が予想するようなことにはならないかもしれない。23歳の修行から上がりたての若者に立派な靴など作れるはずはないが、彼の元には新しい靴の依頼がくる。「あのテレビに出ている花田優一が作った靴」に価値があるからだろう。また、マスコミも彼らのおもちゃになってくれる便利な人形を求めている。普通の家族の日常には商業的価値はないが、演じる家族にはその価値がある。一部では花田優一さんは多弁なのでお父さんより政治家に向いているのではないかとさえ言われていた。あながち皮肉でもなさそうである。これが日本人が欲しがっている「リアル」なのである。

安倍晋三さんも今の所「大変なこと」にはなっていない。大変なのは嘘に振り回され続ける国民である。ただ、それも選挙民が聞きたい歌だけを政治家に要求し続けた結果なのかもしれない。安倍晋三は岸信介の孫を演じていればいいわけだし、麻生太郎は吉田茂の顔真似をしていればいいのだ。

ただ、こうしたいびつな演じる家族は日本の未来を危機にさらしているように思う。孤立家族で育ったが経済的には恵まれていた安倍晋三が首相であり、自分のために小学校が作られたという極めて特殊な家庭に育った麻生太郎が副首相である政権が「あたたかな子育て環境」に積極的になれる可能性はほとんどない。彼らが熱心に取り組んでいるのは演技を賞賛してくれる周りの人たちに恩恵を与えることであり、国の未来にも個人の内心にも全く関心がないのである。

ローラの政治的発言と個人主義

Quoraでまた面白い視点を発見した。ローラが政治的発言をすることの是非を聞いたところ、個人の発言をとやかくいうべきではないと叱られたのである。日本における個人主義の理解としては極めて真っ当だと思った。




これまでローラはこの問題について<正しく>理解はしておらず、西洋的な外面にしたがって政治問題に参加したのだと分析してきた。西洋的な外面とは「セレブは環境問題や人権問題について積極的に発言すべきだ」という価値体系である。実際に彼女が出演しているTBCのコマーシャルは環境問題とリンクしているので一定のマーケティング的な価値があるものと思われる。最近はインスタを経由してこうした価値体系が直接日本に入ってくる。ただこれは環境問題についての発言であって、基地の移設が国防にどう関与するかというような話ではない。最近ではBTSが人権問題で演説したことからもわかるように、アメリカを中心とした文化ではこれがトレンドなのだ。

これが日本で摩擦を起こすのは西洋の民主主義の価値観と我々の村社会の価値観が全く異なっているからである。

アメリカのセレブが環境問題で積極的に発言するのは、彼らの発言に社会的な意味があるとされているからである。もともとキリスト教文化圏には献金文化がある。社会的に成功している人はそれに応じて社会にそれを還元しなければならないという考えたかたである。なので「政治的発言」と言ってもそれは人権擁護とか環境問題のようにあまり個人の利害に関わらないものになる。そして、それは必ずしも個人の見解ではなく社会的に意味があるものとされる。社会はセレブが政治的な発言をすることを積極的に期待するのである。デモが政治的発言として社会に組み込まれているのと同じようにセレブの情報発信も社会に組み込まれている。

ところが村落性が強い日本では個人の考えが政治に生かされることはない。村落性が強い社会というのは、個人の意見が顧みられず政治的な意思は集団の利害を調整した上で集約されるという世界である。通貨になっているのはイデオロギー(個人の理想)ではなく村の利益なのである。

このため村と個人の利害関係が一致しなくなるとそれを窮屈に感じる人が出てくる。そういう人たちは相互監視的な村のあり方を嫌うので「社会は個人に干渉すべきではない」と感じるようになる。個人の理想は村から出ることはできるが、それを社会二戻す仕組みはないのである。村は村だけで利害調整を行う。だから村は過疎化し、外に出た人たちは孤立する。一人ひとりの人生をみるととても複雑なことが起きているが、構造自体は極めて簡単である。

ローラは政治的発言をすべきではないという場合それは「村を離れた人が村に干渉するなどとんでもないことだ」という意味になる。だから村人がローラの政治的な発言をすべきかということを決めるべきではないというカウンターの価値観が生まれる。

ところがこれは裏返すと、ローラの発言は個人が勝手にやっていることだから社会とは関係がないということになってしまう。しかし、日本人は窮屈な村落に慣れているのでそれに気がつかない。この主張をした人は多分自分が何を言ったのかよくわかっていないと思う。この後のコメントで延々と個人が政治について語ることの「リスク」について言及していた。

前回はアレルギー反応としての辺野古反対について見てきたのだが、実は窮屈になりすぎてしまった村落に対する反対意見の表明としての「個人主義」という考え方もあるのだなと思った。

例えば自分勝手としての個人主義は立憲民主党などのリベラル政党に見られる。みんなが好き勝手に意見表明はするがいつまでたってもまとまらず政治問題解決のために事務所をつくったり議員同士が組織的に協力しないという学級崩壊的な世界である。だがこれはリベラルでは取り立てて珍しい光景ではない。そして彼らが集団でまとまろうとすると党議拘束がかかり少数の執行部が決めたことをしぶしぶみんなが守るという集団になる。彼らはそのやり方を学校で習っているわけでもないだろうから、日本人の「村人DNA」がとても強いことを意味しているのだろう。

日本人はほぼ無意識のうちに強い村意識を受け入れている。これをいくら長々と書いたところでキリスト教文化が個人の貢献を元にした公共を作っているということを見たことがない人には、西洋的民主主義の仕組みは理解できない。

日本の民主主義が崩壊しているという不満を共有する人は多いが、実はかなり複雑な背景があると思う。村的民主主義(実際には集団そのもの)が崩壊しかけており、かといって個人主義的民主主義も理解されてこなかった。保守と呼ばれる人たちは強い国家が村を再建してくれることを望んでいる。そしてリベラルと呼ばれる人たちはその村に取り込まれたくないと思っている。しかし、国家権力は自分たちだけが快適に住めるオトモダチの村を作るだけで国民を救済してくれないし村から離散した人たちは一致団結して新しい社会を作ろうとは思わない。だから、いつまでたっても問題が解決しないというのが平成も終わろうとしている2018年の政治風景なのではないだろうか。

しかしながらこの問題の最も基礎にある問題は、自分たちの社会が何であって何を望んでいるのかということを言葉にして外形化できていないことなのではないかと思う。表面的には日本語という同じ言語を話しているのだが、お互いに意思疎通が不可能ということなので、いわば我々は現代のバベルの塔に暮らしていることになる。

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ローラの政治的発言と所有集団

モデルのローラが辺野古基地に関する反対署名を呼びかけて話題になっている。これについて芸能人は政治的発言をすべきではないという人と、テレビで政治的発言ができないのがおかしいという声がある。これについて整理したい。




前回、所属集団・所有集団という概念を作った。日本人であると宣言した時、それが単に所属先(日本国籍を持っている)を意味しているのか、それとも「俺の国」と言えるかという問題である。実際に所有していなくても、俺の国と言えた方が「所有感覚」が強いといえる。

まずは、テレビが政治的発言を禁止している理由を考えよう。アメリカなどのいわゆる民主国家は個人の理想(イデオロギー)を実現するために作られた国である。こうした国では個人が意見を持つのは当然のことであり、当然テレビもその社会思想によって「設計」されている。

ところが、日本はそうなっていない。テレビはスポンサーの意向を無視することはできず、電波は国からの免許を受けている。それぞれの利権集団は集団として集めた意見を集約してその一番大きな単位が国になっている。だから異議申し立てをするとしてもそれなりの通路を通じて決まった方法で集約していかなければならない。この意見集約を根回しや調整などと言っている。だから「芸能人が個人的に勝手に」そこから外れる発言をされると「調整ができずに困ったこと」になる。日本の芸能人は個人の意見を代表しているわけではなく、テレビ局、企業、政府といった集団で決まった決定事項を「告知する」ために雇われているいわば出入り業者なのである。

日本人は村が階層構造を持ち、最終的には中心に何もできない権力者を置いた上で少人数で意思決定するというやり方を好む。また、最小単位である村は相互に意思確認可能な少人数の集団であって、トップにいる人たちは村が何を考えているのかわからないという構造もある。かなり複雑で緻密な構造体なのだが自然発生的にできているので、日本人もこうした構造があることをあまり意識しない。

例えば、日本人は会社でも会議では賛成しかしない。会議というのは、意思決定に参加できなかった人が行き場のない感情をぶつける場になることはあっても、意思決定が覆るようなことはない。表は裏で根回しが終わったことを最終的に承認して見せる儀式の場に過ぎないのである。日本人は表で意思決定が覆ることを好まないので、野党が支持されることはないのである。だが、トップにいる人たちがトップダウンで何かを決める場所ではない。トップの人たちは情報を持っていないか、そもそもお飾りかのどちらかなので、意思決定はできない。この集団を通じたボトムアップというのが日本型の民主主義の特徴である。

芸能人が事前に打ち合わせたのと違う意見をいうというのは、そもそも会議での不規則発言のようなもので、日本のような社会ではあってはならないし、もしそんなことが起こったら日本人は意見調整ができなくなる。会議に権限がないので、会議の意思決定をボトムに流す仕組みがない。だからそれが儀式に過ぎないことがバレてしまうのである。

しかし、日本では民主主義が機能していないと感じる人びとは多いはずである。これは、村から排除されてしまい所有をしている組織も所属をしている組織もないという人が増えているからであろう。つまり、日本ではフリーの人には人権がないのだ。

デモが政治的プロセスとして組みいれられている国ではデモの結果を受けて意思決定が変えられる可能性がある。それはデモが一人ひとりの意見を反映していて、なおかつ一人ひとりの意見が国を作るからである。韓国もまた国防に国民のフルコミットが必要な戦時体制下にあり民意は大切である。こうした国ではデモが政治的に機能する。

日本でデモに参加したいという人が増えているのは、村の複雑な仕組みが日本の統治機構として機能しなくなっているからだろう。もっともわかりやすいの現象は「うちの会社では」と言える労働者が減っていることだろう。終身雇用が当たり前だった時代には、労働組合が指定した候補者に入れるなどということが当たり前に行われていた。

加えて、日本もリスク社会化しており、「嫌なこと」が増えている。いわゆるリベラルな人たちが嫌っているものは「バイキン」に置き換えられる。例えば戦争・原発・大気汚染・給食を洗浄する水に含まれる塩素・遺伝子組み換え食品などは全てバイキンである。合理的に拒否したいというわけではなく生理的に嫌なのだ。これが日本のリベラルが政治的意見に見えない理由だ。政治的発言というよりは身の回りを除菌してきれいにしておきたい欲求として捉えるとわかりやすい。だから彼らには合理的な対案などない。床に落ちた食品は捨てるしかない。そこに対案などいらないのだ。

ローラの政治的発言はその意味ではとても厄介な場所にある。ローラは個人の意見が政治の基礎にある国を真似して「国際的セレブ」という印象を与えるために政治的発言を行っているものと考えられる。これ自体は悪いことではない。問題は日本にはそうした素地が全くないという点である。

そもそもローラがどうして辺野古の基地建設に反対しているのかはわからないし、彼女のその他の価値観と辺野古がどう接続しているのかもわからない。あるいは通底するものなどないかもしれないのだが、それは個人の内心を持たないかあまり興味がない日本社会としては取り立てて珍しいことではない。

さらに、それを支持する人たちは「サンゴ礁が壊されるから嫌」とか「戦争はいけないことだから基地はダメ」と言っているだけであり、必ずしも国防に興味があるわけではない。これは沖縄の当事者たちの政治的意識とも少しずれているし、もちろん日本の政治的な意思決定とも接続していない。いわばアレルギー反応なのである。

前回は「所有がないことに対して日本人は関心を示さない」ということを見たのだが、実際には「所有がないことにも関心を示す」場合があることがわかる。これが生理的欲求である。免疫細胞が嫌だと思ったものを排除し時には過剰反応してしまう生理現象がアレルギーだ。

ここまでの考察を整理しよう。日本の芸能人がテレビで政治的意見を表明でいないのは日本の意思決定の仕組みがこうした「不規則発言」を処理できないからだ。それなのに「政治的発言をしたい」という人が増えるのは日本の統治機構が壊れかけているからである。だが、個人の内心が国を作るという認識がほとんどないので、西洋のセレブを表面的に真似てもそれは政治にはならない。しかし、もともとそうした政治意識がないのでそれに違和感を感じる人はそれほどいないということになる。

このため、日本人はこの問題をきっかけに辺野古や日本の国防といった政治課題について考えることはない。ただただ、芸能人が政治的発言をすべきなのか、そして今回の意見を無視しても構わないのではないかという議論だけがひたすら行われるのである。

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櫻井よしこ氏は二度失望する

櫻井よしこが「将来に禍根残しかねない入管法改正案 日本は外国人政策の全体像を見直す時だ」という記事で安倍首相を批判している。反対方法が独特でありいったい何に反対しているのかがよくわからないのだが、安倍首相は無責任な野党と同じと言っているのでかなり怒っているようだ。

最初のパートでは入管法の改正に中身がないということを言っている。この点は野党と同じだ。だが、後半では一般永住者に中国人が多く中華人民共和国は外国に住んでいる中国籍の人に有事の際の防衛協力を求めていると言っている。つまり、潜在的なスパイになりかねないと指摘しているのだ。櫻井が訴えたかったのは最初のパートではなく二番目だろう。

櫻井よしこが個人の意見を言っているとは思えない。彼女の界隈の人たちの意見を代表しているのではないかと思われる。つまりネトウヨが安倍政権の移民政策が気に入らないと言っているのである。彼女たちは建前では世界に誇るべき日本民族はこれからも永遠に繁栄するだろうと言っているのだが、本当は「中国の躍進」を恐れている。経済的にも人口も伸びてゆく中国が怖いのだが、それを認められないので軍事的な脅威と共産党の世界征服の野心に置き換えていると言える。

さらに文章そのものにも日本人らしさが出ている。議論に慣れていない日本人は主張と人格を分離できない。そこで反対されることをとても嫌がる。だから最初に「これが否定されても困らない」という別の問題を置きたがるのである。櫻井の文章は以前に観察した死刑制度維持を訴えるQuoraの質問に似ている。最初は家族感情を理由に死刑制度は維持すべきではないかと誘導しているが二番目のパラグラフでは反社会性を持った人は排除すべきではと書いてあった。本音は反社会的な人が紛れ込んでいて自分たちに害をなすかもしれないという恐れがあるから死刑制度を維持したいのだが、それがストレートには言えないので別の問題を持ち出している。

もちろん保守と恐れが結びつくのは日本だけではない。ある意味極めて自然な態度とも言える。アメリカ人も潜在的な脅威を抱えているからこそ銃を持ちたがるのだが、怖いから銃をもたせてくれとは言えず、憲法に保障されたアメリカ人の権利であり自分たちにはコミュニティを守る使命があるからだからと言っている。つまり、保守は本質的に被害者になることへの恐れを持っており、その反動として正義とか力を持ちたがる。そしてその正義とか力は時として暴走する。弱さゆえに力を持ち出した人はそれが制御できないからである。アメリカでは人生に失望した人が他人を巻き添えにして自殺するような事件がたびたび起きている。

安倍首相は保守が持っている本質的な感情を理解できない。なんらかの理由で内心が欠如している安倍首相は、相手の主張から内心を読み取ることができないのだ。だから「軍事的な勇ましさを訴え」て「憲法議論さえ維持していれば保守は満足なのではないか」などと思ってしまうのだろう。彼には彼の「内心の空虚さを埋めるために立ち止まれない」という彼にとってとても大切なミッションがあり、他人の問題に構う時間はない。そして、ネトウヨの要望とトランプの要望は同時に叶えることができるぞなどと考えて一兆円分の戦闘機を注文してしつつ、移民政策では大勢の中国人を招き入れるというようなちぐはぐなことをやってしまうのだ。

櫻井が今後どのようにこの問題に対応するのかはわからない。少なくとも外面的には安倍首相が彼女たちの持っている問題意識を共有していないということを認めてしまうと、保守世界は崩壊するのだから、表立っては反対しないのではないだろうか。が、彼女たちは内心大いに失望することになるだろう。

ところが彼女が失望するであろう理由はそればかりではない。Quoraを観察していると、政治的な議論に極めて冷笑的で冷酷な回答をする人が増えている。

中国が民主主義国として出発していたらどうなっていたのかという質問には「チャイナに民主主義が定着するはずはない」というような回答がついていた。この中国をチャイナと書く人の他の回答を見てみると中国や韓国に対して蔑視的な回答が多く見られる。「支那」と書くとTwitterなどでアカウント停止になってしまうが、中国と書くと「負ける」と思っている人たちが最近チャイナという言葉を使い始めている。同じように韓国を南朝鮮と呼ぶ人たちもいる。

彼らは櫻井たちが潜在的に持っている恐れを共有してはいない。実際に世界で何が起こっているのか、日本がどのような国になりつつあるのかという点もおそらくは分析していないはずだ。彼らが政治的に目覚めた時にはすでに勇ましい議論が繰り広げられており、それが政権に認められた「政治的に正しい態度だ」ということは知っている。だから自らも勇ましい発言をすればひとかどの存在としてみてもらえるだろうという見込みを持っているのであろう。

彼らは櫻井たち先輩ネトウヨが持っていた潜在的な怖れを共有しない。最初の入植者たちは関東軍の後ろ盾があってこそ中国人に対して傲慢に振る舞えるのだということがわかっていたが、後から入ってきた人たちは日本人は何をしなくても偉いのだと思っている。立場が弱いと必要以上にへりくだり、相手が自分を恐れていると思うとどこまでも居丈高になるという日本人が昔から持っていた悪い性質が彼らにはある。

櫻井が立ち止まって後ろを振り返ると彼女たちの後には誰もついてきていなかったことがわかってしまう。だから、彼女たちは勇ましく歩き続けるしかない。彼女たちが「自分たちが伝統保守を破壊してしまった」と気がついた時に感じる失望はとても大きなものだろう。だからこそ立ち止まってはいけないのだ。だが、彼女たちは「関東軍」は最後まで入植者を守ってはくれないだろうということに気がつき始めている。

ネトウヨの源流がどこにあるのかはわからないのだが、1990年代の小林よしのりの時代には迷っていた日本人がその迷いを払拭するためにわざと「ゴーマンかまして」いた。危機感があったから強さを求めたのである。だが、その運動は権力や権威に結びつくこと躊躇や怖れを見失いつつあるのかもしれない。保守思想は「何もしなければ忘れ去られてしまうかもしれない」という危惧が根底にあるはずなのだが、何も勉強しなくても何も守らなくて良いことになれば、実際の保守思想は破壊されてしまう。あとは何の根拠もなく「自分たちは守られている」と根拠もなく信じている人たちだけが残される。

中国東北部に取り残された人たちが最後にどうなったのか、を考えてみるとその恐ろしさがよくわかる。

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フレームを見極めれば安倍政権から卒業できる

Quoraでまた面白い質問を見つけた。自分が被害者家族になったとして死刑制度がない状態に納得ができるかというのだ。ところがこの質問には別の観点がくっついている。殺人を犯しそうな反社会的な人がいたらあらかじめ死刑にしてしまった方が良いのではとも言っている。

今回は「安倍政権からの卒業」というタイトルで書くのだが、内容のほとんどは死刑制度について考えている。安倍政権は入管法を生煮えのまま通してしまった。報道によると審議をすればするほど問題点が見えてくると自民党も認めているらしい。大島理森議長も懸念を表明し、とりあえず法案を通した後で全体像が見えた段階で途中経過を国会に報告するように求めた。(毎日新聞)このことから日本の政治全体が物事を考えられなくなっていることがわかる。立法府のトップが何が書かれているかわからないがとりあえず通してくださいと言っているのだ。

しかし、この問題を正面から捉えるのは難しそうである。全体像がわからずどこに糸口があるのかが見えてこない。そこで別の問題から「問題の解決には何を行うべきなのか」を探ってみようと思う。

死刑制度についておさらいしておく。日本では死刑制度が維持されており国民からの支持もある。内閣府の調査では「積極的には支持できないがやむをえない」と考える人が多いようである。一方死刑制度を維持している国は少ない。アムネスティのレポートによるとアメリカ合衆国、中華人民共和国、日本、及びイスラム諸国だ。その他にベトナム、ポーランドが死刑制度を残している。

内閣府の調査でも「家族の気持ちを考えると……」とする人が多いようだ。一見、家族の気持ちを慮った優しい日本人という姿が見えてくると言いたくなる。質問はこの一般的な国民感情に沿って世論を誘導しようとしている。

死刑制度に関して,「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,467人)に,その理由を聞いたところ,「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が53.4%,「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合が52.9%などの順となっている。(複数回答,上位2項目)

ただこの質問には面白い点がある。建前の家族擁護とは別にきちんと本音が書かれているのだ。それが反社会性である。殺人を犯すような人たちは反社会的なのだからそれを抑止するためには死刑のような極刑が必要であり、できることなら予防的に拘禁したいと考えている。本音は「人殺しをするような恐ろしい人たちは自分たちとは違っており、したがって死刑という極刑がないと防げないのでは?」と疑っていることになる。

ここまでは何回も考えたことがあったのだが、今回書いていてちょっと別の考えが浮かんだ。世界では死刑制度が廃止されており国際世論には抗えそうにない。そこで国内でも「人権問題」として死刑廃止したい人たちが増えてくる。世の中には自分たちと違った恐ろしい反社会的な人たちがいると考えても闇雲に人は疑えないので「家族感情があるから」という別の理由で死刑を存続させたいと願うわけである。

ではこの人が他の人から「あなたの本音は間違っていない」と言われたとする。彼はどう行動s流だろうか。

社会を支配したいと考えている人は「誰かの不安を利用したい」と考えるだろうし「死刑のような究極の支配装置は手放したくない」とも思うだろう。つまり、殺人者という反社会性の他に権力に飢えた獣という反社会性を持った人をおくとフレームが全く変わってしまうのである。

そういう人が、家族を殺されて極限状態に陥っている人を公衆の面前に引き出して、こう演説したとしよう。

さあ、みなさん。あなたの眼の前に大切な家族を殺されて泣いている人がいます。この人は家族を返して欲しいと願うが、それはもう叶いません。せめて、憎い犯人を殺さないと気が済まないのです。だが、中には人権という何の役にも立ちそうにないものを振りかざし、この人から大切な「報復する権利」を奪おうとしています!こんな理不尽が本当に許されていいのでしょうか。

この反社会的な人は、究極的な状態におかれている人を利用して自分の欲求を満たそうとしている。「かわいそうな家族」を利用して自分が他人に成り代わって誰かを殺す権利を保留しようとしているのだ。反社会的な彼は大衆が振り向いてくれるなら喜んで被害者家族を利用するだろうし、大衆を扇動していることに喜びを覚えるかもしれない。そうして犯罪被害者家族は犯人に人生をめちゃくちゃにされたうえに別の人たちに利用されてしまうことになる。

そう考えると、死刑廃止議論の背景にはこのアジテータの存在があるということに気がついた。民主主義の隙間をぬって国民の支持を得たヒトラーは支持母体である労働者や農民に対して「知識階級を利用して浸透してくる共産主義者と、どこにも属そうとしない都市住民のユダヤ人がドイツを破壊しようとしている」と訴えた。これがエスカレートしてユダヤ人の大量殺戮につながってゆく。これは当時の体制では国家権力による合法的な死刑であった。

YouTubeにはヒトラーの演説が多数残っている。今我々がこれを見るとヒトラーは狂っており無知な大衆が懐柔されているように見えるのだが、当時の人たちは合理的な判断でヒトラーを支持していると思っていたはずである。

ドイツ人が敗戦後に自分たちは間違いに気がついたが、奪われたユダヤ人の命が戻ってくることはない。彼らは自分たちを善良なキリスト教徒だと信じていたわけで、この過ちが彼らを後悔させたことは間違いない。彼らは自分たちの家族や民族を守るためと説得されて「自分たちとは違っている」ユダヤ人を殺したのだ。

強烈な前例があるからこそ、ヨーロッパの人たちは「国家権力は決して間違えないだろう」とは言えないわけである。

こうしたフレームワーク探しは自分だけで考えていてもできるのだが、あえて質問と問いを繰り返すことで探しやすくなると思う。なぜならば答えだけではなく問いの中にフレームが含まれているからである。議論にとって結論や思考過程は大切だが、実は質問自体にも機能はあるということになる。

古くから日本人はこれを問答と呼んでいた。禅問答という言葉が示すように東洋的な伝統でもある。移民問題のようにどこから手をつけて良いかわからない問題も問答を繰り返すことで新しい発想の糸口を探すことができるのではないかと思う。

ここから逆に発想すると安倍政権の問題が見えてくる。この問題点は安倍首相の資質によるものだ。安倍首相は本来的には「いいひと」なのだろう。お母さんの言いつけを守り政治家になっておじいちゃんの夢を実現させようとしているし、お友達、支持者、自分が恐れている人から何か注文をされると「なんとかして応じなければ」と思考能力が低下してしまう。ところが、安倍首相はたんにお友達の願いを聞こうとするばかりで自分でフレームを作らない。このため次第に問答によるチェックに耐えきれなくなるし、聞いている側もあまりのデタラメさにイライラしてくる。だから対話ができなくなってしまうのだ。

こういう人に反省を求めても無駄である。もはや海で溺れている状態なのだから反省ができるようなメンタリティではないだろう。そして我々の側にもゆとりはない。事実や統計が歪められているうちに何が真実なのか誰もわからなくなりつつある。今や日銀ですら政府の経済統計はあてにならないから自分たちで作らせろと主張している。経済の再生どころか現状把握すらできない。

大島議長は立法府のトップとしての役割を放棄しており、とりあえず議案は通せと言っている。が同時にこの問題は行政府には解決できないと思っているのだろう。さらに良心も残っているからこそ調停を行っているのだ。これに対応できる人は与野党限らず国会の中にまだいるはずである。

事態を懸念した大島理森衆院議長は自民党の森山裕、公明党の高木陽介両国対委員長と国会内で会談。「この法案は大変重い。政省令も多岐にわたる。施行前に法制度の全体像を明らかにすべきだ」と述べ、政省令ができた段階で政府から国会に報告するよう促した。野党も大島氏のあっせんを受け入れ、27日夜に衆院本会議が再開した。

良心ある与野党の議員有志は不毛な国会審議に見切りをつけて事態を収束するために対策を講じるべきである。少なくとも問答ができる体制を作らないと本当に大変なことになるだろう。日本には古くからの対話の伝統があるのだからやる気になれば今からでもできるはずである。

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「拉致被害者を取り戻すためには軍事行動もやむなし」なのか

朝日新聞に少々過激な記事が出ていた。伊木隆司米子市長が北朝鮮への軍事行動を仄めかしたというのである。日本人は言いにくいことは人のせいにする傾向がある。「安倍首相がそう望むのであれば」というのは要するに自分が「拉致をするけしからん北朝鮮は軍隊を使って懲らしめてしまえ」と思っているということなのだろう。1973年生まれのまだ若い市長は普段からこうした言動で知られていたということなので、要するに米子というのはこういう人をよしとする土地柄なのだろうと思う。

北朝鮮による拉致問題の解決を訴えるシンポジウムが20日、鳥取県米子市であった。伊木隆司市長(45)は「安倍内閣が軍事行動をするというのであれば、全面的に支持したい」と述べ、北朝鮮への軍事行動を容認する考えを示した。

「とんでもない話だ」で終わって良いところなのだが、一応基本的なバックグラウンドを整理しておこう。今回はWikipediaで戦時国際法日本国憲法第9条の項目を読む。

まず日本の憲法は国の交戦権を放棄している。では交戦権は何かという問題がでてくる。実はこれが意外と曖昧なのだ。英語の原文ではBelligerent Rightsなどと表現される。もともとはラテン語で戦争を意味しており武力を行使することが全般的に含まれる。つまり戦争する権利そのものと言って良いので、言葉自体は何も説明してはいない。

Wikipediaに詳しい議論がまとまっている。もともとマッカーサーは自衛も侵略も全部禁止したかったようだが、のちに「自衛は良いのではないか」という議論になった。それでも共産党は「自衛ができないのは危険だ」という今とは全く異なった理由で憲法第9条に反対していたことから、交戦権に自衛のための武力行使が含まれるという明確な保証はなかったことになる。

1946年(昭和21年)の憲法改正審議で、日本共産党の野坂参三衆議院議員は自衛戦争と侵略戦争を分けた上で、「自衛権を放棄すれば民族の独立を危くする」と第9条に反対し、結局、共産党は議決にも賛成しなかった。

ではなぜこのような曖昧な議論が生まれたのだろうか。二度の世界大戦に直面した結果、戦勝国だった連合国(のちに日本では国連と言い換えられた)の管理のもとですべての戦争を禁止しようという動きが生まれた。このため国連には法的には戦争という概念がないそうだ。

ただし現代では国際連合憲章により法的には「戦争」が存在しないため、武力紛争法、国際人道法(英: International humanitarian law, IHL)とも呼ばれる。

ウェストファリア体制では主権国家の権利として戦争が認められていた。ただしやみくもに戦争をされるとヨーロッパ全体が大混乱するので、ある程度戦争の決まりを作ろうということになった。これが破綻したのが第一次世界大戦で、第二次世界大戦ではついに核兵器という大量破壊兵器が使われることとなった。さらに、当時の植民地にも主権国家格を与えざるをえない状態になったので「このままでは大変なことになる」と考えて戦争そのものを禁止しようとしたのだろう。

日本はこの国際体制のもとで管理されるべきだと考えられてたのだから、交戦権一般が否定されたのは当時の国際標準化を目指した動きだったことがわかる。その後の議論は実は全て内向きの後付け議論であり、実際に何も変得られなかったからこそ成立している議論に過ぎない。

憲法を改正しても国連憲章を変えるか破棄しない限り人質奪還作戦は実行できない。ところが米子市長の発言からわかるように、日本人は「そうはいっても国際世論を味方につけさえすればなんとかなるのではないか」と考えている人が多い。市長は「戦争を支持するつもりはない」と釈明したようだが、発言自体は撤回せず議論が必要としている。これは、議論をすればなんとか軍事行動ができる余地があるのではないかと考えていることを意味するが、これは間違っている。

日本人は多神教的な村社会を形成していて「原理原則というのは結局みんながどう解釈するかによってどうとでもなる」と考えているかもしれないが、一神教が支配的な欧米が主導する国際世論は原理原則を気にする。だから村の発想で国際法規を議論してもあまり意味はないのだ。

実際の国際紛争を見ているとそのことがよくわかる。例えばイラクの戦争では「イラクが大量破壊兵器を持っていて何か良からぬことを考えている」という疑いがあったことが介入のきっかけになっている。実際には欧米が利権を守りたいという動機があったとしても「国際秩序へのチャレンジ」などというそれなりの理由付けは必要なのである。また現在のイエメン内戦はサウジアラビアなどがイエメンに介入しているが表向きは「暫定政府の支援」という名目になっている。クリミア半島も住民投票で現地の人たちがロシアの編入を望んだのにウクライナが邪魔をしたという表向きの言い分がある。「国際世論をまとめればなんとかなる」なら、こんな面倒な言い訳をしないで、さっさと踏み込めばいいわけだが、そうはならないのだ。

主権国家が単独で自国の利益のために軍隊を動かすことはできないので、拉致を解決するという理由では軍事行動は起こせない。たとえ、自衛隊が軍隊になり、日本が交戦権の放棄を撤回したとしてもそれは現在の国際法上は無理である。

米子市長は一連の発言を通じて「日本人が軍隊や軍事行動について全く理解していない」と言っている。こんな人たち(つまり日本人)に武器を持たせるのは危険だと思われかねない。主権国家は問題解決の軍事行動はできない。かろうじて国際社会の治安維持という名目で集団行動ができるだけである。

時の政府が、軍事行動や、軍事行動ができるよう憲法改正をするというなら、問題解決のために私は支持したい

ただ、Quoraで質問したところ「アメリカはしょっちゅう映画のようなことをやっている」と回答してきた人がいた。アメリカは力が強いから軍事行動ができると思い込んでいる人がいることになる。多分ハリウッド映画を見すぎているのだろう。ただ、こう思い込んでいる人は意外と多いのではないだろうか。

産経新聞までもがアメリカが軍事行動を仄めかしたからアメリカ人が3名戻ってきたなどと書いているのだが、実際にはアメリカは仄めかしただけで実際の行動には出なかった。オットー・ワームビアという青年が昏睡状態で帰国した事件があった(GQ)が、この時も軍事行動というオプションは提示されていなかった。Quoraの同じ質問で、イラン革命の時に人質奪還を企てて失敗したと教えてくれた人がいた。革命の混乱時の出来事であり、外交官を保護しなかったという特殊な事情があったそうだ。だが、これも軍事作戦としては失敗している。つまり、どこに誰がいるかわかっていたとしても、現地で動けるように訓練しておかないと、いざという時に作戦は実行できない。拉致被害者はそもそもどこにいるかさえわからないのである。

さらに、イギリス軍がシェアレオネで人質を奪還したという作戦を見つけたのだが(wikipedia)これはシェアレオネ政府からの奪還作戦ではなく、シェアレオネに駐留していたイギリス軍が主権格を持たないテロリストに対する作戦である。北朝鮮は確かに「テロリスト的」に見えているのかもしれないのだが、一応少なくとも形式上は多くの国に承認された主権国家なのでテロリスト扱いすることはできない。

この一連の議論や発言から日本人が軍隊や戦争についてあまり理解しないままで憲法改正の議論をしていることがわかる。さらに拉致被害についてもあまり真剣に捉えていないのだろうということがわかる。軍事攻撃の意味も具体的なイメージも、主権国家とテロリストの形式的な違いも理解していない。

この件について調べていて一番説得的だったのは、日本政府は朝鮮語ができる人を養成していないので朝鮮半島で人質を探すことはできないだろうという分析だった。つまり、拉致被害者を救うために朝鮮の政府を軍事攻撃で打倒したとしても、拉致被害者を見つけられないのだから救いようがないというのだ。このことからも、改憲を目指している人があまり拉致被害者の救出のことを真面目に取り合っていないということをうかがい知ることができる。彼らは単に勇ましいことが言いたいだけであり、それが取り上げられたとしても日本は依然何の反省もしていない危ない国なのだと思われて終わりになってしまうのである。

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お医者さんにかかるときにIDがないと診断拒否されるかもしれないという話

Yahoo!で読売新聞の面白い記事を見つけた。内容も面白かったのだがそのあとの無反応ぶりも面白かった。記事のタイトルは病院で「なりすまし防止」外国人に身分証要求へというものだ。これだけを読むと「あ、外国人の話なのか」と感じるだろう。だが冒頭のパラグラフを読むと全く別のことがわかる。記事を素直に読むと日本人にもIDが必要になるのである。

政府は外国人が日本の医療機関で受診する際、在留カードなど顔写真付き身分証の提示を求める方針を固めた。来年4月開始を目指す外国人労働者の受け入れ拡大で、健康保険証を悪用した「なりすまし受診」が懸念されるためだ。外国人差別につながらないよう、日本人にも運転免許証などの提示を求める方向だ。

つまり、IDカードがないと診療が受けられなくなる可能性があるということになる。実際には健康保険証を持っていても10割負担ということになるのだろう。IDとして想起されるのは運転免許証だがすべての人が持っているわけではない。そういう人はパスポートかマイナンバーカードが必要になるはずだ。このエリアは特にリベラル系の人たちが反対しそうなテーマなので、Twitterでも大反対が起こるだろうなと考えたのだが、実際には無反応だった。

先日来、フレームワークの話をしているのだが、日本人はフレームでものを考えるのが苦手なようである。このため毎日新聞社は「外国人のなりすましを防止する」というフレームを提示することで「ああ、日本人には関係がないな」という印象を与えようとしているのだろう。

以前、2020年からマイナンバーカードを保険証にするという話が出た時も大反発されていた。そもそもマイナンバーカードに反対をするというのも実は経緯から来ている。別に野党が反対する根本的な理由はない。労働組合や社会党系の人たちが1970年代から国民総背番号制度(コトバンク)と呼んでこれを嫌っていた反対してきたのが現在にお約束事として残っているだけの話なのである。これが長い間積みかさなり「政府はマイナンバーカードを使って国民の健康状態を盗み見しようとしている」というようなビッグブラザー言説が生まれた。

一方で、政府の世論把握能力も低下しているのではないかと思われる。最近の読売新聞社は政府のサウンディング(昔は観測気球などと言われた)に使われることが多い。官邸主導が増えて自民党が持っていた「世論を探る」機能が弱体化しているのではないかとも思う。顧客である有権者を管理しているのは各選挙事務所だからである。反発が出れば撤回もあったのだろうが、無反応だったので記事通り来年度には国会審議なしで「運用」が始まりそうだ。

いずれにせよ、フレームに乗れば大騒ぎがおき、乗らなければ大切であろうとなかろうと無視される。そこで「検討を始めた」というニュースが次から次へと出てきて、そういえばあのニュースどうなったんだろうというようなことが増えてゆく。

政府としては2020年からマイナンバーカードに保険証の機能を持たせようとしている。政府はマイナンバーカードに全てを集約したいのだがTwitterの反応は「なぜ保険証に顔写真をつけないのか」と反応していた。政治家が説明せずに新聞辞令だけで物事を進めようとするので、話が理解されないままで複雑な方向に流れてしまうのである。保険証に顔写真を入れると保険を受け取るために顔写真を撮影しなければならなくなるので市町村役場は大混乱するだろうし、保険証は厚生労働省版のマイナンバーカードになってしまう。

これまで膨大な社会問題をすべてたった一つの保守・リベラルという対立軸で「処理」してきた日本人は問題の目利きができなくなりつつあるのだなと思った。そこで話の持って行き方でその後の問題の良し悪しが大きく変わってしまううえにどんどん部分最適化が進む。

試しにこの問題をQuoraで質問してみたところ「あなたがどこでそんなデタラメを仕入れてきたのか知らないが」というようなニュアンスの回答が戻ってきた。日本人は変化をとても嫌がるので、表から「来年から日本人がお医者さんにかかるときにはIDを求める」とやってしまうと大反発が起こる可能性があるということがわかる。ヘッドラインの書き方は重要でフレームワークさえ変えてしまえばいくらでも反応を操作できるということになる。

実はフェイクニュースよりこちらの方が怖い。フェイクニュースは事実に当てはめれば違っているということが立証できるのであとから反論が可能だが、初動である空気を作ればなし崩し的にものごとを動かすことができるのである。一方で反対している人たちも実はよく考えて動いているわけではなく既存の対立行動に合わせて脊髄反射的に反応しているだけなのである。

よく野党支持の人達は説明責任を果たせなどというのだが、よく話を聞かずに騒ぐ人も多い。結局この国民がいてこの政府なのだなという気になる。そう思ってTwitterのタイムラインを見ていたら「消費税20%」でちょっとした騒ぎが起きていた。こちらも3%か5%かくらいから揉めており目的ではなく税率が一人歩きした議論が定着していることがわかる。

だが、この問題を1日おいてみて、そもそもお医者さんが明らかな日本人に「IDを出せ」ということはないんだろうなと思った。通達が出ても無視すればいいだけの話だからだ。結局は外国人対応であり「差別なのでは?」という野党の反発を事前に封じたかっただけなのだろう。が、今度は日本人なのに外国風の苗字を持っているとか(結婚するとこういうことがあるそうだ)白人系や黒人系の両親を持つ日本人が差別されることになるんだろうなと思った。彼らは明らかな日本人であるにもかかわらず在留カードの提示を求められたりすることがあるそうである。

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