フレームを見極めれば安倍政権から卒業できる

Quoraでまた面白い質問を見つけた。自分が被害者家族になったとして死刑制度がない状態に納得ができるかというのだ。ところがこの質問には別の観点がくっついている。殺人を犯しそうな反社会的な人がいたらあらかじめ死刑にしてしまった方が良いのではとも言っている。

今回は「安倍政権からの卒業」というタイトルで書くのだが、内容のほとんどは死刑制度について考えている。安倍政権は入管法を生煮えのまま通してしまった。報道によると審議をすればするほど問題点が見えてくると自民党も認めているらしい。大島理森議長も懸念を表明し、とりあえず法案を通した後で全体像が見えた段階で途中経過を国会に報告するように求めた。(毎日新聞)このことから日本の政治全体が物事を考えられなくなっていることがわかる。立法府のトップが何が書かれているかわからないがとりあえず通してくださいと言っているのだ。

しかし、この問題を正面から捉えるのは難しそうである。全体像がわからずどこに糸口があるのかが見えてこない。そこで別の問題から「問題の解決には何を行うべきなのか」を探ってみようと思う。

死刑制度についておさらいしておく。日本では死刑制度が維持されており国民からの支持もある。内閣府の調査では「積極的には支持できないがやむをえない」と考える人が多いようである。一方死刑制度を維持している国は少ない。アムネスティのレポートによるとアメリカ合衆国、中華人民共和国、日本、及びイスラム諸国だ。その他にベトナム、ポーランドが死刑制度を残している。

内閣府の調査でも「家族の気持ちを考えると……」とする人が多いようだ。一見、家族の気持ちを慮った優しい日本人という姿が見えてくると言いたくなる。質問はこの一般的な国民感情に沿って世論を誘導しようとしている。

死刑制度に関して,「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,467人)に,その理由を聞いたところ,「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が53.4%,「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合が52.9%などの順となっている。(複数回答,上位2項目)

ただこの質問には面白い点がある。建前の家族擁護とは別にきちんと本音が書かれているのだ。それが反社会性である。殺人を犯すような人たちは反社会的なのだからそれを抑止するためには死刑のような極刑が必要であり、できることなら予防的に拘禁したいと考えている。本音は「人殺しをするような恐ろしい人たちは自分たちとは違っており、したがって死刑という極刑がないと防げないのでは?」と疑っていることになる。

ここまでは何回も考えたことがあったのだが、今回書いていてちょっと別の考えが浮かんだ。世界では死刑制度が廃止されており国際世論には抗えそうにない。そこで国内でも「人権問題」として死刑廃止したい人たちが増えてくる。世の中には自分たちと違った恐ろしい反社会的な人たちがいると考えても闇雲に人は疑えないので「家族感情があるから」という別の理由で死刑を存続させたいと願うわけである。

ではこの人が他の人から「あなたの本音は間違っていない」と言われたとする。彼はどう行動s流だろうか。

社会を支配したいと考えている人は「誰かの不安を利用したい」と考えるだろうし「死刑のような究極の支配装置は手放したくない」とも思うだろう。つまり、殺人者という反社会性の他に権力に飢えた獣という反社会性を持った人をおくとフレームが全く変わってしまうのである。

そういう人が、家族を殺されて極限状態に陥っている人を公衆の面前に引き出して、こう演説したとしよう。

さあ、みなさん。あなたの眼の前に大切な家族を殺されて泣いている人がいます。この人は家族を返して欲しいと願うが、それはもう叶いません。せめて、憎い犯人を殺さないと気が済まないのです。だが、中には人権という何の役にも立ちそうにないものを振りかざし、この人から大切な「報復する権利」を奪おうとしています!こんな理不尽が本当に許されていいのでしょうか。

この反社会的な人は、究極的な状態におかれている人を利用して自分の欲求を満たそうとしている。「かわいそうな家族」を利用して自分が他人に成り代わって誰かを殺す権利を保留しようとしているのだ。反社会的な彼は大衆が振り向いてくれるなら喜んで被害者家族を利用するだろうし、大衆を扇動していることに喜びを覚えるかもしれない。そうして犯罪被害者家族は犯人に人生をめちゃくちゃにされたうえに別の人たちに利用されてしまうことになる。

そう考えると、死刑廃止議論の背景にはこのアジテータの存在があるということに気がついた。民主主義の隙間をぬって国民の支持を得たヒトラーは支持母体である労働者や農民に対して「知識階級を利用して浸透してくる共産主義者と、どこにも属そうとしない都市住民のユダヤ人がドイツを破壊しようとしている」と訴えた。これがエスカレートしてユダヤ人の大量殺戮につながってゆく。これは当時の体制では国家権力による合法的な死刑であった。

YouTubeにはヒトラーの演説が多数残っている。今我々がこれを見るとヒトラーは狂っており無知な大衆が懐柔されているように見えるのだが、当時の人たちは合理的な判断でヒトラーを支持していると思っていたはずである。

ドイツ人が敗戦後に自分たちは間違いに気がついたが、奪われたユダヤ人の命が戻ってくることはない。彼らは自分たちを善良なキリスト教徒だと信じていたわけで、この過ちが彼らを後悔させたことは間違いない。彼らは自分たちの家族や民族を守るためと説得されて「自分たちとは違っている」ユダヤ人を殺したのだ。

強烈な前例があるからこそ、ヨーロッパの人たちは「国家権力は決して間違えないだろう」とは言えないわけである。

こうしたフレームワーク探しは自分だけで考えていてもできるのだが、あえて質問と問いを繰り返すことで探しやすくなると思う。なぜならば答えだけではなく問いの中にフレームが含まれているからである。議論にとって結論や思考過程は大切だが、実は質問自体にも機能はあるということになる。

古くから日本人はこれを問答と呼んでいた。禅問答という言葉が示すように東洋的な伝統でもある。移民問題のようにどこから手をつけて良いかわからない問題も問答を繰り返すことで新しい発想の糸口を探すことができるのではないかと思う。

ここから逆に発想すると安倍政権の問題が見えてくる。この問題点は安倍首相の資質によるものだ。安倍首相は本来的には「いいひと」なのだろう。お母さんの言いつけを守り政治家になっておじいちゃんの夢を実現させようとしているし、お友達、支持者、自分が恐れている人から何か注文をされると「なんとかして応じなければ」と思考能力が低下してしまう。ところが、安倍首相はたんにお友達の願いを聞こうとするばかりで自分でフレームを作らない。このため次第に問答によるチェックに耐えきれなくなるし、聞いている側もあまりのデタラメさにイライラしてくる。だから対話ができなくなってしまうのだ。

こういう人に反省を求めても無駄である。もはや海で溺れている状態なのだから反省ができるようなメンタリティではないだろう。そして我々の側にもゆとりはない。事実や統計が歪められているうちに何が真実なのか誰もわからなくなりつつある。今や日銀ですら政府の経済統計はあてにならないから自分たちで作らせろと主張している。経済の再生どころか現状把握すらできない。

大島議長は立法府のトップとしての役割を放棄しており、とりあえず議案は通せと言っている。が同時にこの問題は行政府には解決できないと思っているのだろう。さらに良心も残っているからこそ調停を行っているのだ。これに対応できる人は与野党限らず国会の中にまだいるはずである。

事態を懸念した大島理森衆院議長は自民党の森山裕、公明党の高木陽介両国対委員長と国会内で会談。「この法案は大変重い。政省令も多岐にわたる。施行前に法制度の全体像を明らかにすべきだ」と述べ、政省令ができた段階で政府から国会に報告するよう促した。野党も大島氏のあっせんを受け入れ、27日夜に衆院本会議が再開した。

良心ある与野党の議員有志は不毛な国会審議に見切りをつけて事態を収束するために対策を講じるべきである。少なくとも問答ができる体制を作らないと本当に大変なことになるだろう。日本には古くからの対話の伝統があるのだからやる気になれば今からでもできるはずである。

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