保守派が夫婦別姓を懇願する日

長い文章になってしまったので要約しておく。リベラル勢力が夫婦別姓を実現したければ、結婚制度そのものに依存しない方がよい。どちらかといえば非婚夫婦(同性を含む)に法的資格を与えるか、結婚のメリットを「差別だ」として糾弾した方がいい。一方で、保守勢力が家族の絆を強制すると、少子化が進み結婚制度が崩壊してしまうかもしれない。不思議なことに、どちらの勢力も自分たちの目的と反対の方向に努力していると言える。「結婚」という形に形にこだわりすぎているのだ。

結婚と家に関する議論は思ったよりも面白かった。今回のお話は、いつか保守派が夫婦別姓を懇願する日が来るかもしれないというものだ。

今回はまず議論の視点をちょっと変えて、ゲイのカップルはどうして同性婚を熱望するのかという視点から考えてみた。ゲイのカップルが結婚したがるのは、カップルというものは「人並みに」結婚すべきだと考えているからだ。愛し合っている2人が結婚できないのは「人並みではない」のだ。

では、先進国では結婚はどれくらい「人並み」なのだろうか。これに直接答える統計はない。事実婚は政府に登録しない結婚なので統計が取れないからだ。それに代わる統計が婚外子の割合だ。スウェーデンやフランスでは50%以上が婚外子で、アメリカも40%以上が婚外子なのだそうだ。こうした国々では「結婚する事」はもはや当たり前でもなんでもない。

フランスで婚外子が多いのは結婚制度が窮屈だったからだという説がある。カトリック国なので離婚が難しいという説があるが、これは疑わしい。スウェーデンはカトリック国ではないし、イタリアの婚外子率はそれほど高くない。

フランスで結婚に人気がないのは、結婚が難しいからだそうだ。いくつもの書類を揃え、最後には市長との面談が必要なのだ。離婚にも同じような煩雑さがある。かつては弁護士を立てて裁判をしないと離婚ができなかったそうだ。一方、アメリカで婚外子が多いのは、結婚が贅沢な行為になっているからだという。経済的に結婚生活が維持できない人たちがいるのだ。

つまり、結婚が難しくなると、結婚しないで子供を作る人が増えるのである。

フランスでは結婚できないゲイのカップル向けに契約制度を作った。最初はゲイカップルが利用するだけだったが、そのうち「結婚したくない」カップルが制度を利用するようになり、婚外子が増えていった。つまり結婚の枠外にある人向けに「その他」扱いした制度を作ったがために「その他」が一般化してしまったのである。

結婚しても姓を変えたくないという人は、事実上「結婚して新しい(同一の)家を創る」という制度を否定している人たちだ。法的には一つのまとまりとして認められたいが、別々の家に属したいと思っているということになる。こういう人たちは、結婚以外に法的な枠組みができれば、それを選択してもよいはずなのだ。つまり、婚姻と一つの家を作るということは全く別のことで、さらにいえば、事業体としての家、婚姻、家庭というのも別々の概念なのだ。

日本では婚外子の割合は極端に低いことから事実婚が多くないことが予想される。事実婚が多くないのは結婚や離婚が比較的に簡単だからだという人もいる。第二次世界大戦後、当時としてはリベラルな価値観(男女の合意だけで結婚できる)が持ち込まれたので、結果的に西洋のような結婚制度からの離脱が起こらなかったというわけだ。さらに、終身雇用が当たり前で、扶養家族としての妻を優遇した税制があったという理由を加えてもよいかもしれない。

いずれにせよ、結婚が難しくなると、結婚できない人が増える。結婚できなくても家庭はできるわけだから、社会がそれを追認せざるを得なくなる。と、同時に事実婚が増えて結婚に対する憧れが消えてしまう。すると、結婚という制度自体が相対的に意味をなくしてしまうのである。

そんなのは「お笑いぐさだ」と考える人もいるかもしれない。しかし、若い女性の中には「結婚はしたくないが、子供は欲しい」と考える女性が増えているという話もある。すでに父親のいない家庭というのを指向している人がいるということになる。

日本でも結婚のコストは高くなりつつある。特に、女性が負うコストは大きい。企業からはパート労働を担う安価な労働力として期待されているし、子供の面倒も母親が見るものだと考えられている。家庭では、無料の労働力として期待されており、家事や介護は妻の仕事だとされている。自民党はこうした無理難題を女性に押しつけて「社会進出」と呼んでいる。支払うコストが大きいのに得られるベネフィットは少なくなれば、結婚制度を選択する合理的な理由がなくなる。

つまり、結婚に対する縛りをきつくしてしまうと、結婚制度そのものが崩壊してしまう可能性がある。すぐにガラガラと崩れ去る事はないだろうか、数世代単位で消えてしまうかもしれない。

リベラルな人たちは自民党の諸政策に反対しない方がいいかもしれない。自民党が憲法や法律など様々な手段を駆使して、結婚や家庭の義務などを強化すると、人々は結婚制度から逃げ出すだろう。結婚したら離婚できないようにするのもよいかもしれない。多分、婚外子差別があるなかで結婚のしばりをきつくすれば出生率の低下が起こり、あるしきい値を越えた時点で、女性は結婚を選ばなくなるはずだ。皮肉なことに、保守派が自説を通せば通す程「リベラル」が狙っているとされる「家制度の崩壊」が起こりかねないのだ。自称保守派は、理想の家庭を追求するあまり、日本民族の転覆を狙う共産主義者の手先になってしまうのだ。

結婚制度が破壊されても女性は案外困らないかもしれない。妻と子供の姓だけが同じになり、父親がどの姓なのか分からない(つまり、父親が誰なのか分からない)という「家庭」が増える可能性もある。その時の保守派は「姓は同じでなくてもよいので、昔あった結婚という制度を使ってください」とお願いすることになるかもしれないのである。

夫婦別姓問題と家族制度の崩壊

夫婦別姓が許されないのは違憲か合憲かという裁判の決着が出た。違憲ではないというのが結論だったのだが、これに対するリアクションが興味深かった。

別姓推進派の中には「姓をなくすことはアイデンティティを失う事なのだ」と涙ながらに訴える人がいた。姓の問題というよりも、女性であるというだけで自身を否定された強烈な経験が投影されているのだと思う。

一方で別姓反対派は、別姓推進は共産主義者の陰謀だと思っているようだ。共産主義者は家族制度を解体を画策しているが、それは最終目標である国家の解体への第一歩だということだ。「なんと大げさな」と思うが、右派の中ではかなり浸透した見方らしい。悪の秘密結社が世界征服のために幼稚園バスを襲うのに似ている。

右派の見方で特に危険だと思ったのが、家族制度の神聖視だ。家族制度さえ再構築できれば、社会問題が一挙に解決するだろうと思っているフシさえある。ところが実際には家族の絆は密室を作り出す事がある。こんなニュースを思い出した。

年老いた父親が娘を殺した。娘には病的な暴力癖があった。家族にたびたび暴力を振るうので、一人暮らしをさせたが、問題は解決しなかった。次に、精神病院にかかったが「統合失調症」「解離性人格障害」などと病名は定まらない。福祉にも相談したが無駄だった。最終的に父親が首を絞めて「問題を解決」せざるを得なかったのだ。

確かに特殊な例だ。しかしながら、家族を介護していて共倒れになるという話は珍しくない。家族の問題は家族で解決しようという意識が強く、問題を表沙汰にするのは恥だという意識が強いかもしれない。その結果、日本の殺人事件の半数は家族間の殺し合いになっている。「嘘だ」と思うなら、統計を調べてみるとよいだろう。

現状でもかなり悲惨な状況にあるのに、「家族の問題だから社会は関与しない」と突き放してしまうとどういう事態に陥るのか想像するのは難しくない。だから、姓さえ統一すれば自ずから一体感が生まれ、問題が解決するというのは幻想に過ぎない。憲法を改正して家族保護条項を作ろうという話もあるが、同一線上にある議論だ。

こうした幻想が温存されるのは、議論の当事者たちが難しい家族の問題に直面してこなかったからだろう。思い込みだけで議論しているのだ。

しかし、危機感を感じる背景にはなにかがあるはずだ。それに対峙しないかぎり不安は消えないだろう。

もともと、日本の家族は「絆の共同体」などではなく、事業体としての色彩が強かった。例えば、子供のない家に養子に出すことも当たり前で、兄弟なのに姓が違うということも珍しくなかった。家は財産管理の単位で、それを「家督」と呼んだ。

こうした事業体としての家族を肩代わりしたのが企業だった。こうして、夫が稼いて妻が支えるという形式が作られた。一方で、家が事業の主体ではなくなったために、子供は家から切り離された。さらに終身雇用制度が崩壊したために、かろうじて「家のようなもの」を支えていた経済基盤が崩壊しつつある。地方では中小の商店、工場、農家などが「事業体」としての家を作っていたが、崩壊しつつある。大規模店舗ができたために個人商店が潰れたり、農業に魅力がなくなり子供に継がせることができないなど、事情は様々だ。

家が崩壊しつつあるのは、共産主義者の陰謀ではない。崩壊しつつあるのは日本型資本主義だ。姓を同一にしようが、別々にしようが家の崩壊には何の関係もない。また、戦前の家父長制度を復活させたからといって、かつての終身雇用型の社会が戻ってくる訳ではないのだ。

「貧乏人は栄養について考えろよ」という厚生労働省のお達しについて

厚生労働省が「貧困層ほど栄養バランスが悪いから、栄養に関する知識を身につけましょう」と発言し、炎上した。ぎりぎりの食費でやりくりをしている層は、そもそも栄養バランスのよい食事ができないというのだ。日本人の食事環境はかなり追い込まれているようだが、現在の食の貧困化はまだマシなレベルにある。この先、さらなる砂漠化が進む可能性もある。

現在、スーパーの大型化が進んでいる。拠点を集約することで経費を削減しようという動きだ。大型スーパーには生鮮食料品も豊富に揃っているが、こうしたスーパーに行くには車が必要だ。

車を持たないお年寄り、単身世帯、母子家庭などは、大型スーパーマーケットには行けないので、近所にあるスーパーマーケットに通う。しかし、こうした地域拠点のスーパーマーケットは少ない人数で回せるように「ハードディスカウンター」に置き換わりつつある。従業員を細小限にして経費を削減するハードディスカウンターには生鮮食料品があまり売られていない。代わりに扱われているのは、管理が簡単な加工食品だ。つまり、貧乏で余裕のない人ほど、こうした加工食品に頼ることになる。こうしたハードディスカウンターが増えれば、食品会社は儲けを重視して加工食品をより多く取り扱うようになるだろう。

生鮮食料品は流通に手がかかる贅沢品になりつつあるのだ。

しかし、ハードディスカウンターで自炊する人はまだ恵まれているかもしれない。料理や食事という概念を持っているからである。

自炊する余裕すらない働く母親は、子供に菓子パンやインスタントラーメンを与えて育てるかもしれない。こうした食料は作る手間がかからず買い置きもできる。もしくは数百円を与えて「何か好きなものを買え」というだろう。もしかしたら、ポテトチップスを買ってきて夕食代わりにする子供もいるかもしれない。

すると子供には「食卓には野菜や肉があるべき」だという観念が身に付かない。そもそも食事とおやつの区別も付かないかもしれない。食事とおやつの概念がない人が、炭水化物とタンパク質などといった栄養素について学ぶ事はないだろう。「栄養の知識を身につけろ」というが「栄養」がどういうものだか分からなくなる可能性もあるのだ。

これが世代間で連鎖すれば「料理」や「食事」を最初から知らない世代が出てくる。こうした家庭環境にいる子供がインスタグラムに食事の光景でもアップしてくれれば表面化するかもしれないが、そのようなことは起こらない。菓子パン一つで子供を放置するのは、ある人たちから見れば虐待だが、別の人には日常になるのだ。テレビを見ながらポテトチップスを食べる子供は「夕食」という概念すら持たないだろう。

普通に食事をしている日本人にとっては想像が難しい食の貧困問題だが、アメリカの事例を見ると印象が変わるかもしれない。アメリカには冷凍ポテトを解凍し、お湯で溶いたマカロニチーズを皿に盛るのが料理だと思っている人たちが大勢いる。

そんなアメリカで、ミシェル・オバマの給食プログラム改革が大失敗した。ミシェル・オバマはジャンクフードに依存する習慣を改善しようと学校給食にヘルシーな食材を使おうとした。しかし、このプログラムは不評だった。薄味で量も少なかったからだ。学校給食を拒否する子供が続出し、一部の州ではボイコット運動にまで発展したそうだ。却って廃棄される食品が増えたという。

ファストフード(化学調味料で味付けされたハンバーガーや砂糖で一杯のコーラなど)に慣れた子供たちには薄味の食事は不評だったのだろう。ミシェル・オバマは学校にあった不健康な食事や飲料も追放したために、学校の自動販売機の売上げも激減した。

栄養のある生鮮食料品を食べさせようというプログラムだったが、ファストフードや冷凍食品に慣れきった業者はこうした食品を提供できなかった。その為に、単に量が減っただけの食事を出すところも多かったようだ。また、学校給食に囲い込んだ食品業界の反発もあったという。食品業界は、トマト・ペーストを塗ったピザを「野菜だ」と議会に認めさせたこともあったという。手間がかかる生鮮食料品よりも加工食品の方が食品業界の儲けが多いのだ。

発想は良かったが、実行力が伴わなかったせいで「オバマが学校給食を貧困化させて、教育行政に手を突っ込んでいるのだろう」というような陰謀論をささやく人すらいる。

日本の食育や給食制度はよくできている。そして、食の砂漠化を防ぐ防波堤のような役割を果たしているのだ。日本人の食事への関心が給食制度を支えているのだが、なくしてからやっとありがたみに気がつくのかもしれない。

その意味でも、単に「栄養に関する知識を身につけましょう」という厚生労働省のアドバイスはあまりにも軽すぎた。

「日本人の安心安全を守る」という口上は口先だけの約束なのではないか

靖国神社を爆破しようとしたとして、全昶漢(チョン・チャンハン)容疑者が逮捕された。再入国しようとした羽田空港で火薬とタイマー(のようなもの)を持っているところを捕まったのだという。これを聞いて「火薬を持っていても飛行機に乗れるのか」と不安に思った人も多いのではないだろうか。

この人が怪しいということは誰もが知っていたようだ。週刊誌の記者がマークしていたということだから、当然警察も知っていたのだろう。当然、韓国政府もそのことを知っていたに違いない。にも、関わらずこの人は火薬を持ったまま飛行機に乗れてしまったわけである。

このことはつまり日韓の飛行機(どこの便かは分からないが、金浦-羽田間は日韓のコードシェアのようだ)は、警察にマークされるような人物が火薬を持って乗って来てもお咎めがないということを意味している。世界各国でテロが蔓延する現在、これはとても危険なことだ。誰もが「犯人が機内で火薬を爆発させたらどうするつもりだったのだろうか」と危惧を抱くだろう。そうなったら乗客は巻添えである。少なくとも日韓の飛行機には乗らない方がいい、ということになる。容易にテロリストの標的になりそうだからだ。

「荷物検査では見分けられなかった」という意見もあるようだが、ロシアの飛行機はジュース缶に仕掛けられた爆弾が原因になったという情報もある。日韓の警察当局が航空会社に連絡しなかったのだとしたら、責められるべきは日韓当局ということになる。日韓の公安当局は危険な男を野放しにした上に、穏便に逮捕さえできれば乗客は巻添えになっても仕方がないという「判断」をしたのかもしれない。

一方、この発表自体が嘘なのではないかという人もいる。容疑者が韓国から火薬を持ち込んだとすれば、単独犯だという印象が強まるからだ。このことは日本国内に協力者がいないということを意味する。もしこれが当局の偽装だとすれば、別の危険性がある。本当は国内にいるかもしれない協力者を隠蔽してしまうことになるからだ。韓国人の協力者だから当然韓国人だろうという予想が成り立つのだが、そうとばかりは言い切れない。政府に不満を持っている日本人も大勢いるのだ。

このニュース「韓国人はけしからん」という意味ではそこそこ話題になったが、日本の治安対策は大丈夫かというような声は聞かれなかった。また、航空機へのテロ対策を強化すべきだという声もなかった。これは新幹線で焼身自殺が起きたときの対応に似ている。ポリタンクが持ち込まれて起きたのだが「新幹線で手荷物検査をしろ」という人はほとんど出なかった。

セキュリティが強化されればそれだけ不便になることは容易に予測できる。そこで「致命的なことはほとんど起こらないだろう」という見込みが働くのだろう。いわゆる正常化バイアスが生じるのだ。マスコミが政府の圧力に屈したという見方もあるだろうが、「何も起こらないで欲しい」という意識も働いていてのではないかと思う。

この事件は間接的に日本人がテロの脅威を外国のものだと考えていることを伺わせる。「日本にいれば大丈夫だろう」という見込みを抱いているのだ。今のところ国内で深刻なテロは起きていないので、この見込みは正しいが、明日のことは分からない。

よく安保法制の議論で「戦争法案が通ったら日本はテロの標的になる」という人がいる。なかには、原発がテロに襲われると指摘した人もいた。しかし、実際にはこうした発言は単に相手を攻撃する意味合いしかないのだろう。と同時に、今回の件で積極的な発言をしなかった安倍首相も「日本人の生命を守る」ことにあまり関心がなさそうだ。「世界情勢は変わっている」などという発言をよく聞いたのだが、本心では「変わったのはアメリカの要望だ」ぐらいにしか思っていなかったのではないだろうか。

性的マイノリティとかわいそうな政治家たち

ある地方都市の市議会議員が「同性愛者は異常な動物だ」と言いバッシングを受けた。市議は発言を「酒の勢いだった」と釈明した。今回は練馬区の議員が「やはり同性愛は日本の伝統として受け入れがたい」と議会で質問したことが問題視されている。

これについて、異端視されている「同性愛者がかわいそうだ」という指摘がある。だが、本当にかわいそうなのは、多分指摘をした政治家たちの方だ。

リチャード・フロリダの有名な著作に「クリエイティブ都市論」というものがある。2008年の発表なので、随分と古い本だ。フロリダは社会に豊かさをもたらす「クリエイティブクラス」という人たちを定義した上で、都市が競争力を持つためにはクリエイティブクラスを集めなければならないと言っている。

フロリダが注目したのが、同性愛の人たちの集積度合いである。同性愛の人たちが暮らしやすいということは、その都市がオープンであるということを意味する。クリエイティブな人たちはそうしたオープンな(フロリダは寛容なというような言い方をしている)環境を好むのだ。

東京は世界でも有数の都市なので、クリエティブクラスにとっては居心地のよい都市だといえる。だから、渋谷や世田谷といった地域で同性愛者に優しい環境づくりが行われるのは偶然ではない。有権者がそれを支持し、多様な価値観を許容する人たちが集ってくるからだ。これがスパイラルを形成する。

とはいえ、日本の性的マイノリティがおおっぴらに「私達はゲイなので、先進地域に引っ越しました」などと表明することはないだろう。表に出ている人たちは新宿あたりで商売をしている人たちか、芸能界やファッション業界などで活躍している一部の人たちだけのはずである。故に多様性と先進性の関係は表立っては語られないのではないかと思われる。

一方で、そうした人たちから見放された地域は「古くからの価値観」にことさらこだわるようになる。有権者が古い価値観を持ったヒトたちだから、新しいアイディアが地元から出てくることは期待しない方がいい。彼らは過疎化や競争力の低下などを心配するが、具体的にはどうしていいか分からない。古い人たちが考える「繁栄」とは、せいぜい地方の名産品が売れて、工業団地ができることぐらいだろう。後は自分たちがクールだと思う価値観を外国人観光客に押しつけるのも好きだ。スーツを着たおじさんたちがアニメを売り込んでも全然クールではないが、本人たちは気がつかない。

こうした地域はインドや中国などの中進国と競争せざるを得なくなる。企業を誘致するためには法人税を下げて、自国通貨をバーゲニングし、安い労働力を買い叩くくらいしか選択肢がない。まあ、それも仕方がないことだ。

地方都市の凋落は目に余るものがある。例えば、大阪市長選の状況を見ると哀れさを感じてしまう。彼らの望みはせいぜい「東京並の大都会になり、新幹線を誘致する」くらいのことだ。それすら叶わずに、大企業は市場を求めて東京や海外に流出してしまう。保守的で新しいサービスを受け付けない都市で再先端のサービスや製品を売っても仕方がない。そうした市場では、国で蛍光灯を禁止してLEDを売りつけるくらいがせいぜいだろう。

同じ事は移民にも言える。アメリカの先端都市が優秀な中国人やインド人を使って、ITのデファクトスタンダード作りに邁進していた時期、日本は外国人労働者を「社会保障制度から排除された安価な労働力」くらいにしか扱ってこなかった。そんな国に優秀な労働力が集るはずはない。事実、外国人実習生は次々と「研修先」から逃げ出している。

移民の方にも選ぶ権利がある。シリア難民ですらスマホを使って条件の良さそうな国を選択しているのである。スマホやPCすら使いこなせずNHKしか情報源のない年老いた政治家たちが「あの人たちはかわいそうだ」と思っているとしたら、かわいそうなのは難民ではなく、その政治家の方だと言えるだろう。

政治家が自分の信条を述べる事は別に構わないと思う。しかし、それが後進性のスティグマになってしまうということは考えた方がいい。多分、受け取った人は「渋谷や世田谷区と比べて練馬区って案外遅れているのだなあ」とか「まあ、東京のはずれだから仕方ないか」くらいにしか思わないだろう。

県はなぜPrefectureなのか

英語圏で、日本の行政単位はPrefectureだというと変な顔をされる。Prefectという言葉には学校の風紀委員という意味がある。監督官というようなニュアンスかもしれない。英語のウィキペディアによると、日本の小さな行政単位をPrefectureと呼び始めたのは江戸時代のポルトガル人なのだそうだ。ポルトガル人がPrefectureと呼んだ組織は国(今でいう県)よりももっと小さな単位だったとのことである。

Prefectはラテン語圏では地方の行政長官の意味があるそうだ。風紀委員とニュアンスは似ている。監督者の名称なのだ。その歴史はローマ帝国に遡るという。ラテン語圏では、地方の行政長官がいる役所をPrefectureと呼び、そのうち、地域の主府(いわゆる県庁所在地)をPrefectureと呼ぶようになった。つまり、Prefectureは行政単位の名前ではなく、役所の名前なのである。地域名はProvinceと呼ばれる事が多い。Provinceは日本語では州(ローマの場合は属州)と訳される。

そもそも、県はどのような行政単位だったのだろうか。これもWikipediaによると、県の起源は古代中国に遡る。地方の人口稀薄地を郡と呼び、面積は小さいが人口の多い地域を県と呼んだ。もとは地方官庁を示していたという。秦の時代になり、郡の下に県が置かれるようになった。

日本の県は明治政府の直轄地のうち都市部でない地域の呼称だった。都市部の直轄地は府と呼ばれた。正確には行政単位の名前ではなく、その行政単位を治める役所の名前だ。小さな単位に過ぎなかった県だが、明治政府が藩を廃止して直轄地として編入したために、県の相対的な地位は高くなった。さらに都市に置いた府を廃止(東京、大阪、京都を除く)したために、地方の役所の名前に過ぎなかった県はいつのまにか行政単位の一般的な名前になったのだ。

現在、英語版のWikipediaではPrefectureは「県」という字の訳語として使われている。歴史的に見ると、日本で結びつけられ、後に同じ漢字で現す単位をPrefectureと呼ぶようになったのではないかと考えられる。少なくとも英語ではPrefectureを行政単位としては使う人がいないので、このラテン語由来の語をなんとなく(あるいは恭しく)受け入れてしまったものと思われる。

明治時代には地方の行政長官や役所の名前をPrefectureと呼ぶのは自然なことだったのかもしれない。中央政府が地方に設置する管理役所が県だからだ。知事も県令も官職であり、地方自治とは関係がなかった。この状態が戦後の昭和22年まで続いた。戦中まで知事は公選で選ばれる政治家ではなく官僚だったのである。

ところが、戦後になり県知事が公選になっても、県をPrefectureと呼んでいる。一方、県の責任者の名前はPrefectとかPrefectureとは呼ばれずアメリカの州知事と同じGovernorである。中央から任命されるわけではないから、当然と言えば当然だ。

それでは県の訳語として正しいのは何なのだろうか。

イギリスでは国(Country)の下の単位をCountyと呼んでいる。一般的に、Countyは郡と訳されるが、イギリスの行政単位は州と訳することが多いようだ。しかし、これは例外的だ。

大抵の国では、国の下の行政単位はProvinceと呼ばれる。カナダの州もProvinceだ。ベルギーは3地域(Region)の下に10州(Province)がある。中国の省や韓国の道もProvinceである。フランスはProvinceを廃止してDepartmentと呼ばれる固まりを作った。今ではDepartmentの上にRegion(地域)というまとまりあるそうだ。そして、県の主府のことをPrefectureと呼んでいる。イタリアの州は英語ではRegionと呼ばれ、その主府がPrefectureである。

このように考えると、県の訳語も、Provinceが妥当なのではないかと思える。もっと正確に言うと地域名称がProvinceであり、県庁所在地がPrefectureだ。これを当てはめると、今「県」と呼んでいるものは「州」と呼んだ方が良さそうだ。西洋的な伝統に従うと県庁所在地を県と呼ばねばならず、東洋的な伝統に従うと郡の下部組織が県ということになる。

そうなると九州や東海などの単位はRegionと呼ぶのが相応しいということになる。Regionは一般的には州ではなく地域と呼ばれる。だから道州制は正しくは地域再編とでも呼ぶのが相応しいことになる。最初に道州制を名付けた人は、アメリカのようになりたいという含みがあったのかもしれない。しかし、アメリカの州はProvinceではなく、State(国)なので、そもそも訳語が間違っていることになる。

不思議な事に、誰が地域の固まりを県と呼ぶことを決め、その訳語をPrefectureにしたのかは分からなかった。文献を調べて行けばわかるのかもしれないが、そうした史料をまとめた人はいないらしい。今となっては、誰がどのような意図で行政単位を県と呼び、それにPrefectureという訳を当てたのかは分からないのである。

パリとブリュッセルはどれくらい近いのか

まずは基準になる日本のマップから。東京を中心とすると仙台から名古屋を経て大阪までが地図に収まる。だいたい新幹線で2時間から3時間くらいの距離で、海外旅行の行き先としてセットで語られることが多い。

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ブリュッセルを起点にした同縮尺のマップにはロンドン、アムステルダム、ケルン、ドルトムント、フランクフルト、パリが入る。ブリュッセルからパリまでは特急タリスで2時間かかる。パリからロンドンまではユーロスターで2時間程度だ。つまり、ブリュッセルとパリの間は感覚的に東京から名古屋あたりの距離であることが分かる。

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この地域は国境を越えての交流が盛んだが、国境に対する意識も違うかもしれない。この狭い地域に言葉が全く通じない諸民族がひしめき合っていて、何百年も戦争を繰り返していた。このように狭い国同士で国境を設けていては通商の邪魔になるとは分かっていても、それをなくす事ができないという歴史が長かったのである。

さて、アメリカだとどのような距離感なのだろうか。ニューヨークを中心にすると、ボストン、フィラデルフィア、ワシントンあたりまでが射程になる。北東回廊という高速鉄道路線が引かれている地域に該当する。こちらも1回の観光で訪れることができるエリアなのかもしれない。北西部にカナダ国境が少しだけ見える。ロングアイランドは小さな島にしか見えないが、横断すると鉄道で2時間45分かかるのだそうだ。距離も東京-浜松くらいある。

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アメリカといっても東と西では状況が異なる。ロスアンジェルスを起点にするとサンフランシスコとラスベガスが射程に入る。ほとんどがカリフォルニア州だ。こちらも1回の観光で訪れることができるぎりぎりの広さかもしれない。ロスアンジェルスとサンディエゴの間には鉄道が走っているが、サンフランシスコに行くのには飛行機を利用する人の方が多いのではないだろうか。北カリフォルニアは感覚としては別の州に近い。一方、メキシコが近い。スペイン語系の住民も多く、ファストフード店などに行くと「英語が通じないのでは」と思う事も多い。カリフォルニアの家庭の40%以上が英語以外の言語を話すという統計もある。

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デリーを中心にすると、ジャイプールとアグラ(タージマハルなどが有名)が近いことが分かる。1回の観光旅行でセットになる典型的な3都市である。北東に見えるのは中国だが、直接行き来することはできない。この3都市の間はそれほど離れていないように見えるが、鉄道で移動するとそれぞれ4時間以上かかる上に遅延も多い。

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一方、同じ都市圏と言ってもよい程近いのに遠く離れているのが朝鮮と韓国だ。ソウルを中心にすると、韓国全土と朝鮮のほとんどが同じ地図に収まる。この狭い地域で戦争状態が50年以上も続いている上に、ソウルは休戦ラインに近い。ソウルから釜山までの所要時間はKTXで2時間50分だそうだ。昔ながらのセマウル号で5時間の所要時間だ。平壌から丹東の手前にある新義州までは3時間45分かかるとのことである。

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戦争状態といえば、シリアの首都ダマスカスはどうなっているのだろうか。驚く事にレバノンやヨルダンとは目と鼻の先といった近さにある。シリア北部からだとトルコが近い。内戦が長い間続いているのだから、多くの国民が逃れて行くのも当たり前なのかもしれない。ヨーロッパに多くの難民が流れて大騒ぎになったのだが、トルコ、レバノン、ヨルダンにはそれ以上の人数の人たちが逃れているのだという情報もある。

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これを見ると東京という都市がいかに外国から離れているのかということがよく分かる。地図の中に国境が引かれていないのは東京の地図だけだ。同じ日本でも福岡を中心にすると違った図が見える。韓国が射程に入るからだ。東京に住んでいる人たちが、移民とか外国人というものに実感がないのもある意味当たり前なのかもしれない。

障害者は生まれるべきではない、について考える

茨城県の教育委員の女性が「障害者は生まれると大変なので、堕胎できる早期に発見できた方がいい」と発言し「炎上」した。女性は発言を撤回し、教育委員も辞めると言っているらしい。これに対して橋本知事は何が起きているのか分かっていないらしい。この無自覚さは一種の罪だろう。多くの他人の人生に影響を与えるという意味では、重い類いの罪といえるかもしれない。

「炎上」したのはこれがナチスの主張に通じるとされたからだ。ナチスの主張とは「自分の持っている価値観を外れた他人は死んでも(あるいは殺しても)いいのだ」というものだ。堕胎は合法的に認められた数少ない殺人行為だ。だから、長谷川さんは「役に立たない子供は殺してしまえ」と言っているということになる。

ナチスばかりではなく、イスラム原理主義の首謀者たちもそう信じている。首謀者たちはパリ市民の命をなんとも思っていないばかりか、犯人たちの命も利用して構わないと思っている。ナチスは「合法的に」他人の命を奪ったのだが、イスラム原理主義者は違法に行っている。とはいえ、彼らは「国家格」を主張している。彼らの「法」に従えば、それは合法的な行為なのだろう。

長谷川さんの言動に対して「いや、障害者も役に立っている」とか「意義のある人生を送れるはずだ」という人がいる。さて、それはどうだろうかと思う。

そもそもそうした論法が成り立つ為には、その話し手が「自分の人生には意義があり、人の役に立っている」という視点を持たなければならない。しかし、障害の有無にかかわらず、人の人生に意義はあるのだろうか。

多分、県知事や画廊の経営者というように名を成した人は「自分の人生は意義があり、自分は人の役に立っているのだ」と考えているのかもしれない。70年も生きていて「そもそも人生というのは無為なものなのではないか」という疑問を持った事が一度としてなかったのだろう。時に人生に立ち現れる不条理に遭遇したこともなければ、そうした境遇に立ち会った人に共感したこともなかったのだということになる。

そういう人が教育行政を差配しているということに対して、深い闇を感じる。教育とは「役に立つことだけを教える」ことではないはずだ。不意にぶち当たる不条理に対しての準備をさせる事も教育だろう。

「人生には意義がない」が「意義がない」ということを受け入れることは難しい。そこであえて、何かを見いだそうとするのが人生なのかもしれない。生きて行く事に何の意味がなかったとしても、新しい朝は訪れる。

不条理に対する準備がないことは何を招くのだろうか。

「意義のある人生」と「意義のない人生」を切り分けることが、地獄の入り口になることがある。無為に苦しむ人もいるが、さらに危険なのは、無為を感じた人が「何か大きくて意義深いもの」に触れた時に感じる高揚感だ。

イスラム原理主義の人たちはそれを神と呼ぶ。神に祝福される世界を作るのが「ジハード」だ。天国に行ける事が保証されているのだから、他人の人生を奪ってもよいのだ。同じように「目覚めた人」が「目覚めていない人」を善導してやるのが、オウム真理教の「ポア」だった。この場合、善導とは相手を殺してしまうことである。無為を感じたまま「偉大なもの」に触れた人たちは、いとも簡単に、他人の人生を踏みにじってしまうのだ。

無為を教えない現代の日本にも無為を感じる人たちは大勢いる。宗教はヤバいということになっているので、代わりに目をつけられたのが「連綿と続く日本の伝統」だ。「国体原理主義」といえる。こうした人たちは「日本の伝統」を盾に他人の権利を踏みにじろうとする。ただ、実際には伝統とは切り離されているので、歴史的な経緯というものには、驚く程興味がない。

彼らの思想も「ナチス」や「イスラム原理主義」に通底するものがある。「意義のあるもの」と「意義のないもの」を分けた上で「意義のないもの」を奪おうとするのだ。しかし、その裏には「自分たちの意義」への疑いがある。だからこそ「意義のないもの」を作り出して、自分たちの人生に意味を与えようとしているのだ。奪う事でしか生きていけないのである。

日本の政治家はこうした人たちを単なる確実に票が読める集票マシーンくらいにしか考えていないのかもしれない。しかし、これは危険な状態だ。なぜならば、意義に飢えた人は少し奪うだけで満足する事はできないからだ。奪っても奪っても満足する事はできないのではないだろうか。

今回の件を原理主義と重ねるのは、いくらなんでも極端だという批判はあるかもしれないが、底を流れる構造は似通っている。このように人の人生を「意味の重さ」で計ることは危険なことなのだ。無自覚であるからこそ、罪が深いのだとも言える。

もっとも「人生に意義などないなら、他人の人生を奪ってもよいのではないか」という疑問は残る。確かにそうなのかもしれない。しかし、飢餓感情から他人の人生を奪い続け、いくら奪っても満たされないというのはどういう状態なのだろうかと考えてみたい。人はそれを「地獄」と呼ぶのではないだろうか。

イスラム教徒の思い出

パリでイスラム教徒が自爆テロ事件を起した。ニュースでこれを見た人たちはいろいろな感想を持ったようだ。「だから移民はダメだ」という人や「この際、日本にも非常事態法が必要だ(だから憲法改正して……)」という人もいるだろう。一方「一般のイスラム教徒は平和な人たちのはずだ」と主張するリベラル寄りの人もいるかもしれない。双方とも実感がこもっているとは思えない。移民と接したことがないからだろう。

イラン系のイスラムの人と住んだことがある。最初は普通の学生のように見えたが、次第にイスラム教徒の友達を連れてくるようになった。そのうち雰囲気が怪しくなり「お前の国では複数の神様を信仰しているのだろう」と言い出した。そしてそれを理由に「一緒に住めない」ということになった。多分、イスラム教徒のルームメイトを住まわせたかったのだろう。

さらに仲間とつるんで「お前の乗っている車は良さそうだから置いて行け」とまで主張しはじめた。恐喝だが、さほど罪悪感はなかったのではないかと思う。裏返せば「車を持っている」ことがうらやましかったのだと思う。彼らは車を持てる程には裕福ではなかったのだ。

結局、部屋を出て行かざるを得なくなった。

「差別」というのを実感した初めての経験だった。上の階に住んでいたイスファハン出身者に聞くと「国の中でも南北差別がある」ということだった。肌の色が若干違うのだそうだ。そして、同じ国の出身者が「何かに染まって行く」ことに戸惑っているようでもあった。

彼らは幼い頃に英語を習得しているので、日常生活上差別されることはないはずだ。しかし、マイノリティには「見えない壁」のようなものがある。いくら上手に英語が話せるようになっても「白人と同じ」にはなれない。そこで、同じような人たちとつるみ、下を探すようになるのだ。それが同じ国の人だったり、英語があまりできない外国人だったりするのだ。

決して教育がないわけではない。他の大学の学生や医者のような専門職の人たちともつながりがあった。比較的高学歴のムスリムのネットワークがあったのだと思う。一方で、国の伝統的な宗教からは離れており、穏健なイスラム教に触れる機会はなかったかもしれない。伝統から切り離されているというのは大きな要素だと思う。

日本にも同じような例があった。「オウム真理教」だ。信者たちは比較的高学歴なのに「なぜ生きているのだろう」というような疑問を持った。しかし、日本は伝統的に「無宗教」なので宗教やコミュニティによる救いない。伝統的な仏教(オウム真理教が仏教だと仮定するとだが)から切り離されているからこそ、ラディカルな教義を持った自信ありげな教祖に「イカれて」しまうのだろう。

差別に敏感だからこそ「下に見た相手」を差別するという構造がある。そこで「万能感」のようなものを感じるのだが、それが虚飾だということに気がつくのは時間の問題だ。「世の中は間違っている」と感じてもおかしくはない。自爆テロ犯のように「天国にしか自分の居場所はない」と感じる人は極端な例だと思うが、その裏には「自爆テロ犯を利用してでも、世の中に一泡吹かせてやろう」と考える人がいる。その周辺には「そういった思想を応援しよう」と考える比較的裕福で(おそらくは教育もある)人たちがいるのだ。

だから「移民は不遇で貧しい人々」というラベリングは間違っている。

「オウム真理教」の人たちが「自分たちこそが目覚めている」と感じていたように、こうした過激なイスラム教徒は、自分たちこそが「祝福されるべきだ」と感じているのかもしれない。自分たちが祝福されないのは社会が邪悪だからなのだ。だから、伝統から切り離された人たちが、こうした闘争を「ジハードだ」と考えるようになっても不思議ではない。

かといって、これが移民問題だと考えるのも正しくないだろう。もし、欧米にイスラムの移民がいなければ、ラディカルなキリスト教徒が「世直し」と称して過激な運動を起したかもしれない。現に移民の少ない日本でも「オウム事件」が起きた。社会転覆を狙ったテロ事件だったが、移民とは何の関係もない。ジハードの代わりに「ポア」という言葉が使われた。殺人を正当化して「邪悪な人たちを救済している」と言い放ったのだ。

アメリカでは、9.11事件の後イスラム系移民が危険だということになったのだが、「ホームグローンテロリスト」という言葉ができ、マイノリティが危険視されるようになった。しかし、実際には白人の男性が頻繁に銃乱射事件を起すようになった。白人の大量殺人は「テロ」とすら呼ばれず、ありふれた殺人事件だと見なされている。

格差や差別はいけないことだ。しかし、それは「差別される人がかわいそうだから」ではない。差別は徐々に社会を破壊するのだその事が分かるのは状況が悪化した時だが、その時には個人の力ではどうしようもなくなってしまっている。もう後戻りはできない。

「外交や話し合いで解決すべきだ」という人もいる。しかし「ポア」を正当だと考えていた教祖に対して「外交が有効だ」などという人がいるだろうか。「ポア」とは他人が間違っていると感じたら命を奪っても良いという思想だ。お互いの立場が違うことが前提の「お話し合い」は通用しないのだ。

さて、こうした文章を読んで「個人の感想でイスラム系のイラン人を断定的に扱っている」という批判めいた感想を持つ人もいるかもしれない。しかし、状況はそれほど単純でもない。

前述のようにイラン人と言っても「肌の色の白さ」による区別があるようだ。さらに、トルコ系の少数民族(アゼリ人)が同居している。同じ言語の話し手の間にも差別がある。隣国にまたがって同系の言語を話すクルド人が住んでいるが、少数民族扱いになっている。アフガニスタンにもダリー語というペルシャ語系の方言を話す人たちがおり、ペルシャ人からは差別されているのだという。

一方、イラン系にもユダヤ人が存在する。イラン・イスラム革命の際にアメリカに亡命した人たちが多く、比較的裕福な住宅地に住んでいる人が多い。ユダヤ系はやっかみの対象にもなっているのだ。一方、イラン国内にもユダヤ系が残っているということである。アフマディネジャド前大統領は改宗ユダヤ系の出自だという説があり、同時にイスラエルに敵対的なことで知られていた。

つまり、イラン人やイスラム教徒だからといって、常に弱者で「差別される側」の人とは限らないということになる。

ネット上の人種差別発言と本物の差別

アメリカ人が作った日本人を題材にした映画を見た。ここにでてくる日系の人たちのお辞儀が変だと思った。彼らはいつも相手の目を見ている。目を見ていないと不安なのだろう。そこで改めて思ったのだが、日本人はお辞儀をするときに相手の顔を見ない。

アメリカ人(それが例え日系人であっても)は、相手を対象物として捉えている。考えてみると当たり前のことだ。そこには「私」と「あなた」の関係がある。裏返せば、日本人は会話をしているとき相手を意識していないということになる。そこには「我々」という拡張された私がいるのみだ。主語を特定しなくても話が進むのは「我々」が主題を共有しているからだろう。

日本人は拡張された私(我々)としか会話をしていないということは、つねに価値観が共有されているということを意味する。故に日本人の会話には「いいえ」とか「私はそうは思わない」はあり得ない。「我々」が複数になり、ちょっと人と違ったことを言うと吊るし上げられることがある。こうした「私」を共有することを「空気」と呼ぶのだと思う。日本人は「私達」に埋没することに居心地の良さを感じるのだ。

故に、人を「あなた化」することは懲罰になり得る。最近こんなことが起きた。難民を差別するひどいイラストを描いた、はすみとしこ氏という無名のイラストレーターを応援する人たちの個人情報が晒されたのだ。晒した人がセキュリティ会社の社員だったことで騒ぎが広がった。

これはとても不思議だ。晒された「個人情報」はFacebookあたりから流れた公開情報らしいのだ。どうして公開情報をリスト化すると「個人を暴いた」ことになるのだろうか。

一つ考えられるのは「職場の情報」と「個人の意見」が結びつくことによって「その人個人の意見」が「職場の意見」だと混同されることがあり得る。つまり、そこには「私」というものはあり得ず「xx会社の社員」とか「教員」という「我々」として扱われるという事情があるのだろう。しかし、そのことを差し置いても「個人情報が晒された」ということが懲罰になり得るのは、その人が「個人として認知される」のが罰としての意意味合いを持っているからだろう。これを「アイデンティティの確立は懲罰だ」と英語で説明しても、きっと分かってもらえないのではないかと思う。

皮肉なことに「個人を暴いた」ことの懲罰も、暴いた個人の情報を暴き返すというものだった。反安倍 闇のあざらし隊氏の職場が特定され、それがセキュリティ会社だったことで、騒ぎが大きくなった。

さてこの「私のない日本人」という分析を見て「自分には当てはまらない」と思った方も多いのではないかと思う。職業経験が長いと「私」と「お客様」とか「私」と「利害が重ならない相手」などと接する機会が増える。つまり徐々に「私」と「あなた」として話す経験を積むわけである。こうした「私」の意識は地位が高くなるほど高くなるだろう。地位の高い日本人の仕事は主に利害調整だからだ。これが家庭に持ち込まれ、その子女も「私」意識を学習してゆくということになる。社会的地位は世代間で引き継がれるのだ。

逆に職場で個々の仕事に携わっている人は、調整作業をすることは少ないだろう。故に「私」意識を持たないままで職業人生を過ごすことになる。つまり「私意識のなさ」は職場での地位が低いことを意味する。これが家庭に引き継がれると「私意識のなさ」が社会的に地位が低いことのスティグマになってしまうのだ。当人たちは平気かもしれないが、地位の高い(あるいはそうした家庭に生まれた人)たちからは蔑視の対象になってしまうかもしれない。しかし、それを指摘されることはないだろう。本物の差別というのは過酷で、決して表沙汰になることはないのだ。

ネットで差別発言を繰り返している人というのは「回りの人が言っているから自分も安心だ」と考えているのではないかと考えられる。そこでアイデンティティを晒されることで「罰せられた」と感じる。もし、普段から「私」として過ごしていれば、そもそも過激な差別発言は行わなかっただろうと思われる。その人のブランド価値を下げてしまうからだ。(もっとも、職業的に浮かび上がることを目的に「炎上マーケティング」を試みる人もいるだろうが……)

公共空間で人種差別をするということ自体がその人の社会的地位の低さを暴き出してしまうのである。本物の差別というのはもっと過酷だ。表沙汰になることは決してないにも関わらず、人々の間に共有されており、無意識に立ち現れるのだ。