清原和博容疑者は釈放されるべきではないのか

清原和博容疑者が覚醒剤使用の容疑で逮捕されてからしばらく経った。この問題を見ていて、この人は犯罪者として裁かれるべきではないのではないかと思った。

清原容疑者が薬に手を出したきっかけは痛み止めの服用だったようである。意外なようだが、痛み止めと違法薬物は地続きになっている。アメリカでは痛み止めへの依存性から抜けずにリハビリセンターに入る人もいる。記憶に新しいところでは(もう忘れている人もいるかもしれないが)トヨタ自動車で女性初の役員になったジュリー・ハンプ氏が「麻薬(オキシコドン)を密輸した」疑いが持たれた事件がある。痛み止めなのだが麻薬成分が含まれており、依存性もあるようだ。アメリカでは合法だが、処方を問題視する人もいる。

清原容疑者の報道者たちは、売れるネタが欲しいばかりに彼を見殺しにした。どうやら普段から異常行動があることを知っていたらしい。家族も気がついていて精神科もに担ぎ込まれたことがあったようだ。早くからリハビリセンターに入れていればここまで状況がひどくなることはなかったはずだ。それができなかったのは「犯罪者として前科がついてしまう」からだろう。

鎮痛剤など一部の人のものだと思うかもしれない。だが、麻薬と鎮痛剤が地続きになっているように、抑うつ状態と覚醒剤も地続きになっている。

「家族と離れて落ち込んだ」ことなどが清原容疑者をさらに追い込んでゆく。「ちょっとさびしい」ことで薬物やお酒への依存に追い込まれる人も多いはずだ。大人になると仕事がきついとかさびしいとかいうことはよくあるが、相談できる場所は少ない。動けなくなるほどぼろぼろになって初めて精神科に行くことになる。

精神科では長い時間待たされて5分ほど診察がある。そして、薬を渡されることになる。具合が悪いというと、薬の量が増えてゆくばかりだ。本当に必要な薬を飲まされているのか、5分ほどの診療でわかるはずはない。必要な薬を処方される人もいるだろうが、不必要な薬を飲まされている人も大勢いるはずだ。しかし、医者は困らない。親切に診療しても、5分で薬を与えても報酬は同じだからである。

誰でもうまくいっているときは良いのだ。しかし、何かトラブルがあったときに頼れる場所は多くない。その結果、非合法の薬物にすがることになる人が出てくるのだろう。いったん非合法薬物にすがると、そこから抜け出せなくなる。問題が地下化するからだ。特に覚醒剤は依存性が強く、再犯率も高いそうだ。

覚醒剤使用者を逮捕することで、却って覚醒剤の蔓延を助長しているのは確かだ。覚醒剤ばかりではなく、その他の違法薬物摂取者を見つけたら早めに通報してリハビリできる場所を作る必要があるのではないかと考えられる。

日本人はこうした薬物問題が起こると、逮捕して社会的に制裁すれば「なかったものにできる」と考えているようだ。確かに安心感を得る効果はありそうだ。「まっとうな社会は薬物的にクリーンだ」というメッセージだ。

しかし、もし問題を解決したいと考えるなら、今の法制度は健全に機能しているとはいえない。誰でも問題を抱える可能性があるということをもっと強く認識すべきだろう。

不倫が責められるとき・責められないとき

自民党甘利明議員の場合

誰がどう見ても口利き事件なのだが、秘書が責められただけだった。国民の前で泣いたことで「はめられたかわいそうな代議士」という印象がついた。大臣は辞職したが議員辞職はしなかった。検察当局も事件化には後ろ向きと言われる。URは補償額をもらしたことは認めたものの、つい口が滑っただけだと甘利議員をかばった。

民主党細野豪志議員と山本モナさんの場合

あまり顔の売れていなかった細野議員にはお咎めはなかったが、知的なのに親しみやすいキャラクターで知られていた山本モナさんはニュース番組を「体調不良」を理由に降板した。後に細野議員は民主党の重鎮になった。山本さんは後にプロ野球選手の二岡智宏さんとの不倫報道があり再び謹慎した。

川谷絵音さんとベッキーさんの場合

音楽業界では有名だが一般に顔の売れていなかった川谷さんにはお咎めはなかったが、元気印で好印象だったベッキーさんはすべての番組を降板させられ、CMもおろされた。当初川谷さんは結婚していることを知らせずにベッキーさんと付き合っていたということなので、川谷さんの方が悪いように思えるのだが、世間はそう考えなかった。

自民党宮崎謙介元議員の場合

お相手のタレントさんが無名なこともあり、お咎めはなかった。しかし、見た目がよく「育児休暇発言」で好印象だった宮崎議員は議員辞職に追い込まれた。宮崎議員は育児休暇発言が取り上げられるまでは無名だった。無名のままであれば週刊誌に狙われることはなかっただろう。

観察

日本では、公的な議員の汚職問題よりも個人のプライバシーに属する不倫の方が悪いことだとされる。「何をなすか」よりも「誰がなすか」という文脈重要だからだろう。

必ず男性が咎められるというわけではなく、有名な方が責められる傾向にあり、両成敗ということにはならない。不倫は社会的バッシングの対象になるのだが、社会的制裁は1人に向かう。その人を社会的に殺すことで、怒りが開放されるようだ。このことから不倫バッシングはマスによる社会的リンチだということがわかる。マスは「マスコミ」ではなく、視聴者や有権者を含む。

さらに考えてみると「イメージ」を損なった人が責められる傾向にあることがわかる。よいイメージがついている場合には何事も大目に見てもらえる。ベッキーさんの例でもわかるように「この人はいい人そう」というイメージには高い金銭的価値がある。社会的制裁は不倫そのものに向いているわけではなく、パブリックイメージが毀損されることで引き起こされていることがわかる。

結論

日本人は文意ではなく文脈で判断する。つまり何を言ったかではなく、誰が言ったかが重要だ。いったんよい印象をも持たれると経済的なベネフィットがある。しかし、好印象には大きな担保が設定されている。村社会で作られた印象を裏切ると社会的に殺されるまでの制裁を受けるのだ。

馬鹿な左翼が増えたのはGHQのせいかもしらん

石井孝明さんというジャーナリストが「頑迷な左翼が増えたのはGHQの教育プログラムのせいかもしれない」と仄めかしていた。GHQのは日本の教育を改悪して考える力を奪ったのだそうだ。頑迷な左翼が多いこと自体は否定しないが、日本の矛盾をすべてマッカーサーのせいにしても問題は解決しないと思う。いずれにせよ、面白そうなのでカウンターを考えてみた。

アメリカに住んでいたとき、カフェのテレビで討論番組をみていた。討論番組では福音派の男性が「子供を学校に通わせない」といきまいていた。学校で進化論を教えるからだそうだ。嘘を教える学校に子供を通わせることはできない、というのが彼の主張だった。周囲の人たちが「化石が出ているから進化論のほうが信憑性がある」と言っても頑として聞き入れない。次第に討論はエスカレートしてゆき福音派の男性は怒鳴り始めた。私は悲しくなりカフェのマスターに「なぜアメリカにはこのような頑迷な人が多いのか」と嘆いた。するとユダヤ人のマスターが面白いことを教えてくれた。

その昔、マッカーサーと言う人がユダヤの資本家たちつるんで、アメリカ人がものを考えないように教育プログラムを変えたんじゃ。科学的な教育をなくせば、アメリカ人たちは合理的な思考力をなくして喜んで企業のために働くようになる。自分たちの権利ばかりを主張してまとまらなくなるから労働運動もつぶせる。それが「この国の自由」の本当の意味なんじゃよ。

僕は「なるほど」とひざを打った。「テロで殺されるよりも多くのアメリカ人が銃で殺されているのに、誰も銃規制を訴えないのはアメリカ人が合理的に思考できないからなんだ」。マスターは否定も肯定もしなかったが、なんとなく肯定しているように思えた。

これが妄想だといいと思うのだが、頑迷なアメリカ人が多いところを見ると案外真実が含まれているのかもしれない。

というか、これは完全に妄想だ。頑迷なアメリカ人は多いことは確かだが、マッカーサーとは全く関係がない。もちろんアメリカには優秀な人たちも大勢いる。同じように日本で教育を受けた優秀な人もたくさんいるわけだ。「自由と権利」についても同じで、うまく活かせない人がいる一方で、立派に国のために尽くす人も多い。中には国のために働いて、戦争で四肢を失ったり大怪我をしたアメリカ人もいるのだ。

このエントリーを書いていて、大学生の元ルームメイトにたびたび聞かされていた言葉を思い出した。Stupid Americans(馬鹿なアメリカ人)という言葉だ。大量消費に明け暮れて物事を真剣に考えないアメリカ人を指す言葉である。彼はイランからきた移民の息子だった。LAにはお金持ちのイラン人がたくさんいるが、そうでない人たちも大勢いる。

左翼って馬鹿だなあと考える日本人と同じように、アメリカ人って馬鹿だなあと思うアメリカ人もいるのだ。単に馬鹿だと思っているうちはいいのだが、それが別の感情に変わることもある。

彼は大学でイスラムサークルにはまり、だんだん過激なことを言うようになった。最後には「一神教を信じない人とは暮らせない」と言われて追い出された。僕がアメリカにいたのは9.11のずっと前だが、こうしたルサンチマンが蓄積してやがてホームグローンと呼ばれる人を生み出すことになったのだと思う。自分以外は堕落している。それは教育が悪いからだ、自由が悪いからだ、というのはどこの国でも聞かれる言葉なのだ。

もちろんすべての人がそうなるというわけではないのだろうが、他人の自由や権利を恨む意識の中からやがて過激な方法で他人の自由を奪ってもよいと思う人たちが出現することがある。アメリカは徐々に不自由な国になりつつあるが、誰もその傾向を止めることはできない。「どこにでも安全を脅かされずに自由に出かけて行ける」という当たり前のことを平和で幸せな日本人はもっと自覚する必要があるのではないかと思う。

失うまでは気がつかないのかもしれないが。

ネット上で議論が成り立たないわけ

表面上「ネット上で議論をしたい」と思っている人は意外に多いようだ。だが、実際に意見を書いてみてもほとんど反論がない。傲慢にも「これだから日本人は」的なことを思ったりするわけだが、一から考えてみると意外と難しい。自分自身がディベートとはどういうものかということを良く分かっていないのだ。

そもそもディベートとは何か

日本語で調べてみてもたいした記事は検索できないが、英語で検索するとたくさんの記事が見つかる。英語圏ではディベートはスポーツの一つとして認知されているようだ。

まず、ディベートにはフォーマルなものとインフォーマルなものがある。フォーマル・ディベートにはかしこまった形式があるらしい。Affirmative(賛成)側は右に立ち、三回立論と反論を繰り返すと書いてあるものもあった。回数や準備期間にいろいろな流派があるようで、なかなか難しい。

一方、インフォーマルなディベートというものもある。まずは相手がどのようなポジションで立論するか分からないので、それを明確にする所から始めたりするそうだ。立論とポジションがクリアになったところで、反論を試みるべきだと書いてある。

インフォーマルなディベートは「意見交換」の場であって、喧嘩・競技・意思決定のいずれでもない。また、相手の言っていることに納得ができないからといって同じ話をいつまでも蒸し返してはいけない。意見に対して反論しても良いが個人攻撃はよくない。

「国会議員も見習って欲しい所だ」と書きたいのは山々なのだが、意外と英語でのディベートを練習したという人も多いのではないだろうか。政治家志望者の必須科目だとみなされているので、大学の弁論部出身の議員も多いはずだ。また、弁護士も弁論術を使う。それでも国会議論が口喧嘩にしか聞こえないのは残念なことである。

ネット上ではディベートは成り立たないようだ

さて、ネット議論である。今回参加したのは2つの議論だ。1つは緊急事態条項に関したもので、両論を並べて「どう思いますか」と言っている。普段のツイートから判断すると、書いている人は緊急事態法賛成派だ。背景には「中国の軍事的台頭」がある。改憲議論は「左右対決」になっているので、フレームを崩すことが大切だと思う。そこで「大地震に際して自民党が作った緊急事態条項を民主党が使ったら」という立論をしてみた。

だが、フレームを崩してしまうと、ほとんどの議論が無効になってしまう。これまでの反発が使えなくなってしまうのだ。そこで「参考になりました」という返事が来て終わりになってしまった。ディベートのお約束としては「立論の前提が違う」という反論になるはずである。緊急事態条項が重要なのは軍事的攻撃や外国に煽動された不心得なデモ(ちなみにSEALDsなどのこと)に対応することであって、政権に就く覚悟がなかった民主党が政権に就くことなど二度とないという反論になるはずである。

もう一つの議論は「愛国心」についてである。長島議員をからかったようなツイートをしたら「愛国心は大切」という反論が来た。そこで「長島先生のような立派な保守の政治家が保守を善導すべき」と書いたところ、横から「愛国心で善導なんかできるわけないだろう」というような反論が入った。その人が「愛国心と平和は両立するか」と問い掛けられたわけだ。右翼を論破しようと思ったのかもしれない。

議論をクリアにするためにはまず立論をしなければならない。その為には「愛国心」と「平和」を定義した上で、それが両立する根拠を示す必要がある。時間をかけて書きたいが、あまり長くは待ってくれそうにないので30分をメドにして立論した。

相手から来たのは意外な反応だった。宗教を持ち出したことで「ドメインが違う」と見なされたようだ。宗教はよく分からないから反論できないというのである。相手のプロフィールを見たところ「安倍政権は危ない」というブログを書いている人だった。自民党は保守ではなく極右だという。こちらもフレームが固定されていたのだろう。議論を円滑にするためには「愛国心」とは、安倍首相がいうような(いいそうな)意味の愛国心でなければならなかったのだ。子供を戦争に送り出すのに旭日旗を振るような愛国心だ。しかし、そのフレームで愛国心と平和が両立しないのは当たり前だ。戦時の愛国心だからである。

この場合議論を進めるためには「アベの愛国心は危ない」くらいにするべきだろう。ただし、これが議論になるかは分からない。価値判断なので人によって印象は異なるだろう。この手の議論はネット上に氾濫していてあまり面白みがない。

ディベートが成り立たない理由を考えてみた

たった二つのサンプルで総論するのは危険かもしれないが、日本で行われている「議論」というのは、ロジックではなく、フレームのコンペティションだということになる。フレームはいわば仮説なので、前提が狂うと使えなくなる。

日本でディベートが成り立たないのは、日本文化が探索を前提にしていないからだろう。サンプルや型というものがあり、それを模倣するのが日本文化だ。「考える」のは型に習熟した後だ。唯一の例外は外から圧力がかかった時だ。極力変化を避けるのが日本式と言えるのかもしれない。

型の習得がより重要視されるので探索型のディベートが成立しなかったのだろう。日本にもディベートを持ち込もうという人は多くいたが、その度に「型」が温存されるだけで広まらないのだそうだ。そしてまた別の型が輸入されるという状態が続いているということである。

ここで浮かび上がる最後の疑問は、自分で考える文化がないのに、なぜ個人が確固たる意見形成ができているかということだろう。

生活保護でもないと生きてゆけない……

Twitterで生活保護についての情報が流れてきた。持ち家があっても利用できるのだという。将来、持ち家を持っているせいで生活保護をもらえない下流老人が増えるだろうという観測をテレビかなにかで聞いたことがあったのでびっくりした。

もし、持ち家がとても豪華なら「売れ」といわれるそうだが、平均の家の場合にはそのようなことは言われないのだそうだ。ただし、ローンがある家の場合には受け付けられない。また65歳以上の高齢者はリバースモーゲッジを組めといわれるそうである。これは2007年から始まった制度だそうだ。高齢者で生活保護を受けるということは扶養してもらえないということだ。相続人がいないわけで、どっちみち家は国のものになる。だから、まあこれは仕方のないことかもしれない。

生活保護は役所の窓口でブロックされるという話をよく聞く。この場合、弁護士や地域の法律家ネットワークに助けを求めることができる。弁護士を頼んでも依頼人に費用はかからないのだという。「日弁連委託援助業務」というものがあるらしい。

法律家ネットワークの話によると「事前にアドバイスを貰うだけ」で問題が解決する場合も多いそうだ。何よりも「いざとなったら相談するところがある」ということを知るだけで安心感が増すという声も多いのだという。ただし、逆に弁護士がついたからといってすべての問題が解決するというわけでもないらしい。中には「がっかりした」という相談者もいるそうだ。法律家のネットワークは手弁当らしいので「がっかりした」と言われては心外だろうなと思う。

当座の困窮者の問題は解決しそうだが、問題も多い。現在の生活保護カバー率は20%程度だという話がある。現在の生活保護支出額は4兆円に届かないくらいだが、資格者全員にいきわたると20兆円くらいになってしまう。地方財政は直ちに破綻するだろう。

非正規雇用が40%を超えたということなので、近い将来国民年金の受給者が増えることが予想される。国民年金は月5~6万円だから、働けなくなった高齢者のほとんどが生活保護の有資格者ということになる。年金を増やしたいのは山々だが、これも国庫支出が大きな割合を占めるものだ。どっちみち国家財政は破綻する。

生活保護は健康保険と連動している。生活保護が増えると国民健康保険や介護保険の被受給者は減るので、保険料は高騰するだろう。すると、保険料をまかなえない人が出てきてさらに生活保護への移行が進むことが予想される。

リバースモーゲッジで家を担保にすることはできる。しかし、人口が減りつつあるので、地方に売れない家の在庫が増えることは容易に予想される。金融会社は地方から手を引くだろう。これを地方自治体が引き受ければ、地方自治体は空き家を大量に抱えることになる。これを金に換えるためには更地に戻さなければならないが、家の解体には数百万円の費用が必要になる。更地にしたからといて売れないかもしれない。今でも空き家問題は地方(といっても、東京近郊にも空き家に悩む地域は多い)にとって深刻な問題なので、これがさらに深化することを意味している。

将来的には問題がある一方で、生活保護制度を正しく運用することで防げる問題も多い。最近も亡くなった夫のなきがらを放置したままで「死体遺棄」と「年金不正受給」の罪に問われた妻がいた。もし生活保護が受けられることを知っていればそんなことにはならなかっただろう。高齢になった子供が亡くなった親を放置したままにして年金を受け取ったという事件もある。生活保護への認知が広がればこうした事件は防げる。

インターネットがあれば「生活保護は誰でも受けられる」という知識を得るのは難しくない。しかし、たいていの場合はネットもPCもぜいたく品だろう。知り合いの数が限られるに違いない。こうした知識からの孤立の方が貧困よりも大きな問題なのかもしれない。

「狂った世界」の道徳と憲法に関する議論

木村草太先生が道徳の教科書について怒っている。現在の組体操は憲法違反だが、道徳教育上有効として擁護されている。学校は治外法権なのかというのだ。木村氏は道徳よりも法学を教えるべきだと主張する。最後には自著の宣伝が出てくる。

Twitter上では「道徳教育など無駄だ」という呟きが多い。この点までは氏の主張は概ね賛同されているようだ。ただし、この人たちが代わりに法学を学びたくなるかは分からない。また、組体操についての懐疑論もある。「全体の成功の為に個人が犠牲になる」というありかたにうんざりしている人も多いのではないかと考えられる。

また、一般に「道徳」と言われる価値感の押しつけは「一部の人たちの願望である」という暗黙の前提があるようだ。その一部の人たちが押しつけようとしているのが、自民党の考える「立憲主義を無視した復古的な」憲法だ。だが、それは一部の人たちの願望に過ぎない。人類の叡智と民意は「我々の側にある」と識者たちは考えているようである。

これらの一連の論の弱点は明確だ。つまり「みんなが全体主義的な憲法を望み、それが法律になったときに木村氏はそれを是とするのか」という点である。すると道徳と法学は違いがなくなってしまうので、問題は解消する。すると法学者はけがの多い組体操を擁護するのだろうか。

考えられる反論は「人類の叡智の結集である憲法や法が、軽々しく全体主義を採用するはずはない」というものだろう。木村氏は「革命でも起こらない限り」と表現している。民意はこちら側にあると踏んでいるのだ。

このような反論は護憲派への攻撃に使われている。「憲法は国益に資するべきであり、現状に合わない憲法第九条は変更されるべきだ」というものである。天賦人権論や平和憲法は自明ではなく「アメリカの押しつけに過ぎない」という人もいる。国会の2/3の勢力を狙えるまでに支持の集った安倍政権は「みんな」そこからの脱却を望んでいると自信を持っているはずだ。

護憲派は第九条や天賦人権論を自明としているので、これに反論できない。哲学者の永井先生は木村氏を擁護し、木村氏はこう付け加える。

安倍政権は「憲法改正を望むのは民意だ」と言っている。木村流で言えば「真摯な民意」が憲法改正を望んでいるということになってしまう。選挙に行かないのは「真摯でない民意」だから無視して構わない。デモを起して騒ぐのは論外である。「選挙にも行かないくせになんだ」ということになる。

この一連の議論が(もちろん改憲派も含めて、だ)狂っているのはどうしてだろうか。「道徳」を押しつけたい側は「昔からそうだったから」と言っている。この人たちは「右」と言われている。そして護憲側は(この人たちは「左」と言われる)も「世界では昔からそうだったから」と言う。そして「みんな」の範囲を操作することでつじつまをあわせようとするのだ。

普遍的真理は大変結構だと思うのだが、それは常に検証されなければならない。もし検証が許されないとしたらそれは中世ヨーロッパと変わらない。カトリック教会は「神の真理は不変だ」といっていた。ただし民衆は真理に触れることはできなかった。ラテン語が読めないからだ。

多分、議論に参加する人は誰も検証のためのツールを持たないのだろう。にも関わらず議論が成立しているように見えるのが、この倒錯の原因なのではないかと思う。ラテン語が読めない人たちが神の真理について議論しているのである。

「普遍的真理」というのだが、実は民主主義国は世界的に例外に過ぎない。イギリスのエコノミストが調べる「民主主義指数」によると、完全な民主主義国は14%しかなく、12.5%の人口しかカバーしていない。欠陥のある民主主義まで含めると45%の国と48%の人口が民主主義下にあることになる。普通とは言えるが過半数にまでは達しない。

どちらの側につくにせよ、それを望んでいるのは個人のはずだ。しかし、日本人は学術的に訓練されていても、徹底的に「個人」を否定することになっている。個を肯定しているはずの「左側」の人たちにとって見るとそれは受け入れがたいことなのではないかと思う。

さて、個人が政治的意見を形成するのに使われるツールがある。それは「哲学」とか「倫理学」と呼ばれる。ちなみにこの議論で出てくる永井先生は哲学の先生だ。日本語では道徳と言われるが西洋では倫理学だ。

どちらも「善し悪しを判断する」ための学問だが、日本の道徳が答えを教えてしまうのに比べて、倫理学は考える為のツールを与えるという点に違いがある。

倫理学教育が足りないと感じている人は多いようで、数年前にマイケル・サンデルの白熱教室が大流行した。もちろんサンデル教授は独自の意見を持っているが、白熱教室でどちらかの意見に肩入れすることはない。記憶によるとサンデル教授は判断基準のことを「善」とか「正義」と呼んでいたように思う。

日本の政治的風土は「自分で考える」ことを徹底的に避ける傾向があり、価値観の対立に陥りがちだ。どの伝統を模範にするかでポジションが決まってしまうのだ。ところがこれでは外部にいる人を説得できない。

しかしながら、外部にいる人たち(いわゆる政治に興味のない人)も「選挙に行かないのは人ではない」くらいのプレッシャーを受けている。そこで「科学的で合理的な」政治に対する説明を求めるのだろうと考えられる。しかしそのためには、受信側も送信側も考えるためのツールを持たなければならない。

故に、学校では道徳を教えるべきなのだ。ただし、安易に答えを押しつけてはいけない。道徳の目的は答えに至るプロセスを学ぶ機会だからである。

キムタクする?

ついにSMAPの問題が「政治問題化」した。背景にはブラック企業に対応に悩まされる労働者(学生含む)の増加があるようだ。芸能界にも労働組合があれば、SMAPの4人は「公開処刑」されることはなかっただろう。芸能界には小栗旬のように「映画をよくするためには労働組合が必要だ」という俳優もいるが「SMAP程のスターでも芸能事務所には逆らえないんだ」というのは、多くの実演家に負のメッセージを与えたことだろう。

kimutaku個々の実演家の地位が低いのは日本の芸能界が多階層化しているからだ。利権のある一次企業と実演家を押さえている二次企業が実務家を搾取する(という言い方が気に入らなければ「利権を配分しない」と言い換えてもよい)構造ができあがっている。実務家は分断されており、交渉力がない。

本来なら、実演家たちは協力し合って一次企業(テレビ局)や二次企業(芸能事務所)と配分の仕組みを交渉した方がよい。しかし、そうしたことは起こらない。「足抜け」する人が必ず出てくるからである。二次企業は「足抜け」した人にわずかな利権を与えることで、他の実務家に「裏切るとろくなことにならない」というシグナルを送る事ができるのである。

芸能新聞の報道が確かなら、木村拓哉のおかげで、二次産業(ジャニーズ事務所)は安泰だった。そこで足抜け行為のことを「キムタクする」と呼びたい。

「キムタクする」主因はライバル(この場合は中居正広)の存在だろう。ライバルに勝ちたいという「自由競争」の原理が働いてしまうのだ。これは競争者としては仕方がないことである。しかし「キムタク」行為にはいくつもの弊害がある。

「キムタク行為」が横行すると、小栗旬がいうように芸能界が実力本位にならない。同じようなことが、IT業界にも言える。プログラムの価値を生み出すのはプログラマだ。プログラマが優秀なら、業界自体の競争力は増すはずだ。

ところが、日本ではプログラマは最底辺に置かれている。時間に追われ、一方的な顧客の仕様変更や無理な納期の注文に悩まされる。賃金は抑えられ、生活すらままならないこともある。面白いプログラムを作るどころか、生きて行くのがやっとだ。

そればかりか、時間がなく新しい技能を勉強できないので、早くから陳腐化する。疲弊して使い捨てられてしまうのである。だからコンピュータサイエンスを学んだ優秀な技術者はプログラマなど目指さず、とりまとめ(SEなどと呼ばれる)になる。SEは調整しているだけなので、業界全体の競争力が増すことはない。

同じような現象はアニメにも言える。底辺でアニメを支える人たちは個人事業主として消費される運命にある。現場を経験してから、面白いアニメをプロデュースする側に回ることはない。そもそも優秀な人は使い捨てられることが分かっているのにアニメ産業など目指さないだろう。国は「クールジャパン」などと言っているが、その助成金は、一次産業かよくて二次産業の上の方で「山分け」されてしまうだけだ。担い手のいない産業に持続性はないが、業界が気にする様子はない。「夢を持った若者」が次々と入ってくるからだ。

「面白いものができない」くらいなら我慢できるかもしれない。「キムタク行為」の真の弊害は、業界全体の安全が損なわれてしまうという点にある。「キムタク行為」は産業全体を不安定化させるのである。

ココイチのビーフカツ問題で見たように、末端の食品流通業者は、仲間が安さを求めて産業廃棄物に手を出しても分からないところまで疲弊化してしまった。明日食べて行けないかもしれないのだから、倫理などを気にしていられないだろう。

多分、末端の流通業者たちはスーパーに競争を強いられているはずだ。協力して交渉力を増したり、生産性を上げることもできるはずだが、そのようなことは起こらない。お互いにライバルだからである。末端業者は共同して「不当に安い価格での納入はしない」と言えればよいが、必ず「キムタクする」業者が出てくるだろう。中期的に見れば「キムタク」を防ぐ事で、食品業界の安全が確保されるはずだが「キムタク」業者も生活がかかっている。

この文章を読むと「木村拓哉を誹謗中傷している」とか「キムタク業者を非難している」と不快に思う人がきっといるだろう。もちろんアーティストとしての木村さんを批判するつもりはないし、生活のためにがんばっている人を誹謗中傷するつもりもない。

この問題の一番深刻なケースでは「被害者であるはずの弱者」が「加害者」になってしまうことがある。それが軽井沢のバス事故だ。

バス業界も受注関係はないが多階層化している。最下層では国が決めている運賃では採算が取れないくらいの構造になっているようだ。

軽井沢の事故で加害者になったのは高齢のドライバーだ。年金では暮らして行けなかったのだろうし、大手のバス会社が雇ってくるはずもない。慣れない長距離大型バスの運転に手を出して十数名の学生を殺してしまった。バスの運転手が産業別の労働組合を作り「労働条件を守れ」と言っていればこんなことは起こらなかったはずだが、果たしてあのバスのドライバーにそんな選択肢があっただろうか。

この問題で「キムタクした」人を責めるべきだろうか。もちろんそうではないだろう。しかし、加害者になり命まで落とした原因はやはり無理な労働条件で働いてしまったことにある。それを防ぐには一人ひとりのドライバーが連帯する以外にはないのだ。

国の監督がないのが悪いと言う人や規制緩和が悪いという人もいる。しかし、残念ながら国が労働者の一人ひとりを守ってくれるわけではない。せいぜい世間の耳目を集める事件が起きた時だけ一斉調査を行ってお茶を濁すだけだろう。

お互いに競争関係にある実務家が連帯することは難しい。足抜け行為によりその場の優位性を確保する方が簡単だ。だから、一連の問題が即座に消えてなくなることはないだろう。多忙を極める芸能人やアニメーターに「労働組合を作れ」と言っても夢物語にしか聞こえないはずだ。

しかし、それでも、業界の価値を決めるのは実務家だという自覚を持つ事で、状況は少しずつ前進するはずだし、諦めたらそこでその業界は死んでしまうのだろう。

Twitterの議論はなぜ噛み合ないのか

先日Twitterで「女性の社会進出」に関する小さな議論があったのだが、まったく噛み合なかった。まともなネット言論などないというのは定説になっているのだが、なぜなのだろうと考えてみた。

結局2つの要因に行き着いた。一つ目は「学校で議論の仕方を教えない」からというものだ。日本の教育は途上国式の「キャッチアップ」型で正解を教え込むことが教育だと考えられている。そして、次の原因はパーティーがないからというものである。

日本人はパーティーを開かないからTwitterで議論ができないのだ。

パーティーの席には知っている人もいれば知らない人もいる。また、意見が合う人がいるかもしれないが、意見の合わない人もいるかもしれない。もし、意見が合わない人と出くわしたとしても「私は帰る」とは言えない。座がしらけるし、誘ってくれた人に対して失礼に当たるからだ。

そこで求められるのは「聞く」ことと「自己主張する」ことのバランスだ。自己主張は特に難しく「アサーティブネス」が大切である。また、自己主張するにしても「ユーモアを交えて軟らかく」話した方がいい。あなたにとって自明のことでも相手は知らないかもしれない。

パーティーというと突飛に聞こえるかもしれない。これは「公共圏」の例えなのだが、日本には公共圏というものが存在しない。

政治的議論は異なる意見を折り合わせてよりより選択肢を探索するための意思決定プロセスだ。しかし、そのような難しいことが何の訓練もなしにできるはずはない。まず必要とされるのは、異なった意見を表明する自己主張(アサーティブネス)だろう。

Twitter上での「議論」を見ていると、その態度は両極端だ。「私が何か言ったところで状況は変わらない」といって押し黙る人たちがいる一方で、「あなたは何も分かっていない」と突然叫び出す人がいる。その中間がないのではないかと思う。つまり、意見表明と意見交換がないのだ。

こうした状況を見ると「Twitterはバカばかりだから議論が成立しないのだ」と言いたくなる。しかし、政治家にも同じような状況が見られる。「支持者」とばかりしか話さない人が意外と多いのだ。学者にも一方的な主張を叫びまくっている人が意外と多いので、知能が高ければ議論ができるというものでもないらしい。

民主主義を健全に保つ為に政治的議論は重要だ。しかし「学校で政治議論を教育しろ」と主張してみても、なんだか楽しくなさそうだ。パーティーをやれば民主主義が盛り上がるという主張の方がなんとなく受け入れられやすいのではないかと思う。

給食と自由を巡る論争

小学校1年生の娘を持つ母親が学校の先生に文句をいうのを聞いた。その市の小学校では給食は残さずに食べなければならないらしい。食べ終わるまで席を立ってはいけないのだ。しかしその娘には食べられないもの(ただしアレルギーではない)がある。そこでその母親は「学校が食べ物を押しつけるのはよくないのではないか」というのだ。児童には「食べない自由もある」という主張である。

普通に考えると「先生が言う事を聞かないのはよくない」ということになる。若い母親は黙って従うべきである。一方で、こうした主張は「民主的」とは言えず、あまり好まれない。

そこで次に考えられるのは、給食を食べないデメリットを伝えるという方法だ。給食は栄養バランスを考えて計画されているのだから、まんべんなく食べる事でバランスのよい食事ができるはずである。子供の頃の食生活はその後の食生活に影響を与えるだろう。つまり、好き嫌いをなくしてくれる先生に感謝するならまだしも、非難の対象にするのは「筋が違うのではないか」というものである。

この論の反論として考えられるのは「栄養バランスも自己責任である」というものである。つまり、その人の食事を管理するのはその人自体であって、他人にとやかく言われる筋合いのものではないというものだ。つまり、人には「不健康になる自由」もあるというわけだ。

さらに食べ残しは食料を無駄にするので良くないという論も考えられる。しかしこれも「食費を払っているのは親(あるいは納税者)なのだから、無駄にする自由もある」という反論が予想される。

自由というのはかなり厄介な概念だ。「正しい食生活を身につける」という大義があるのだから、そもそもそれは自由ではなく「ワガママだ」とレッテルを貼ってしまいたくなる。実際には「先生には従うべきだ」とか「子供の時に偏食をなくすべきだ」と言った方が簡単だし、現実的であろう。

その一方で「嫌な事をしない自由」という概念にはやや不自然さを感じる。このような考え方はなぜ生まれたのだろうか。

これは学校の側に責任の一端がありそうだ。学校は自由の意味を教えないことで問題を再生産しているのではないかと思う。

最近の学校は親を「お客様」として扱い、最終的な責任を負うのを嫌がるようである。先生は「最終的に食べるか食べないかは母親の責任だし、次の学年の先生がどのような指導をするのか分からない」と言ったそうである。本来なら「絶対に子供のためになるのだと信じている」くらいのことを言って母親を説得してくれても良さそうだが、そうはならないらしい。母親は仄めかすように「偏食はよくないんじゃないですかねえ」というようなことを言われ「攻撃されているように」感じたようだ。

最近は偏食の子供も多いらしく(ついでにアレルギーの子供も増えているようだ)先生たちも苦労しているようである。しかし子供に「栄養バランス」などと言っても分からないし、いちいち説明するのも面倒だ。そこで学校は給食をゲーム化するようである。クラスごとに目標を決めて食べきったら表彰するのだそうだ。つまり、子供は「なぜホウレンソウを食べなければならないか」ということを学ぶ前に「自分が食べないとクラス全体の迷惑になる」ということだけを学んでしまうのである。小学生はこのようにして「集団主義」を身につけてしまうのだ。

これを聞いて、去年起きた子供の死亡事故を思い出した。チーズ入りチヂミを食べた児童が亡くなったという事故だ。その学校ではクラスで同じような競い合いをしていた。そこで児童は目標を達成しようとしてアレルギー物質の入った食べ物を食べてしまったのだ。

よく考えてみると、先生には児童を説得して指導するインセンティブはない。先生に期待されているのは、国や市が決めた教育要項に従って「効率よく」クラスを運営することだ。「児童が偏食行動を身につけようと、給食さえ食べてくれれば知ったこっちゃない」のかもしれない。先生個人の力量は期待されておらず。集団で行動すればよい。そこで責任だけを負わされてはたまったものではないだろう。

給食の問題から実情をまとめると次のようになる。親の側は「個人の自由」を盾に「嫌な事」を避けようとする。子供が嫌がること事を強制して嫌われるのも避けたい。その一方で子供たちは「個人としての自覚」を持つ前に「集団主義」を身につけてしまう。先生は「児童個人を説得して訴える」ことを放棄しており「個人で職業的な責任を取る」ことも避けるのだ。

このような状況下で、どの程度の「自由」を子供に与えることが「正しい」のだろうか。また、嫌がる子供にホウレンソウを食べさせるために、子供をどのように説得すべきなのだろうか。答えは様々あり、その答えに行き着く論理も種々あり得るだろう。

女性が子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うことだ

NHKで保育士が足りないという話をやっていた。実際には資格を持った人は70万人も余っているのだという。にも関わらず、保育士として働いていない人が多い。平均給与が20万円程度しかないので、続けたくても続けられないのだという。気概に燃えて保育士を志しても、現場の課題な要求に燃え尽きてしまうひとも多いということだ。

いろいろ検討してみると、この状態で子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うということである、ということが分かる。

番組を見ているときには深く考えなかったのだが、後になって疑問に思ったことがある。50歳代の人を加えても給与が20万円しかないということは、この人たちが働いていた当初から、保育士の給与は低く抑えられてきたということだ。番組ではこの点には触れず「社会の関心を高めなければならない」というような論調で議論が進んでいた。しかし、社会の関心が高まっても保育士の給与が上がる訳ではない。

昔から平均給与が低かったということは、保育士というのは一生続ける仕事だとは認識されていなかったということになる。お嫁さんになる人の仕事だったのだろう。一般の企業でいうところのOLさんのような位置づけだ。確かに子供が好きそうだから、よいお嫁さんになれそうだ。もしくは、子育てが終ってから仕事に復職するということも考えられる。

こうした現象は統計的に確かめられている。OECDで統計をとると、日本の賃金格差は韓国と並んで高い部類にある。両国で共通するのは女性の就業者がM字カーブを描いているということだ。つまり、女性は補助労働力として位置づけられており、子供を産む時に一度キャリアを中断されるのだ。

この労働慣行が残っている中で、一生「女性向きの仕事」に就くということは、補助労働力に留まる事を意味する。と、同時に子供を産む事を諦めるということになってしまうのだ。男性がこの職に就くという事は世帯主になるのを諦めるということである。

問題の一端は、補助労働力ににも関わらず、かつての男性のように長時間職場に縛り付けられてしまうという点にある。企業や社会はこうして補助労働力に依存する構造になってしまったようだ。

企業は、制度の「いいとこどり」をしているつもりなのだろう。補助労働力に依存しつつ、その補助労働力に過大な負担を追わせている。学生が学業に専念できないという「ブラックバイト」と同根だ。

日本の社会は男性の正社員を、女性の補助労働力が支えるという構造になっている。このバランスが崩れたことが、保育師不足の直接の原因であると考えられる。故に、保育士の問題だけに注目しても、保育師不足は解消されない。

解決策は2つある。かつての終身雇用に戻るか、生産性を向上させて短時間労働の集積でも生産性が落ちないような工夫をするということだ。労働者には、短時間労働でも生活が成り立つような賃金を与えなければならない。

日本のサービス業の労働生産性は低い。これが低い賃金で長時間労働に貼付けられる原因になっている。しかし、日本は製造業依存の期間が長かったので「一生懸命働けばよいものを作れる」と考えるのが一般的だ。しかしながら、サービス産業では一生懸命働いて過剰なサービスをするほど、労働時間だけが伸びて賃金が上がらないことになる。これが日本のサービス産業の生産性を下げているのだ。がんばる方向が真逆なのである。

現在の状況で保育士になるということは、子供を持つ事を諦めるということだ。しかも、保育士の資格を取る為には学校に通って資格を取らなければならない。現在、学生の半数は奨学金(という名前の学生ローン)に頼っているので、借金をして、一生子供を持つ見込みのない仕事につくということになる。これは合理的な選択とはいえない。故に、保育士は減り続けるだろう。

つまり、女性が子供を産むということは、別の女性(つまり保育士)に子供を産ませないということを意味する。あるいは保育士の争奪競争に打ち勝つということで、それは別の母親が働けないということである。男性保育士を女性並に処遇するという事は男性に家庭を作らせないということであり、間接的に夫候補を減らすということだ。

問題の根源は企業文化にあるので、保育師不足は政府の責任ではない。しかしながら、昔風の企業慣行を放置しているという意味では、与党(企業よりの政策を実行)も野党(正社員労働組合に依存)も共同正犯と言えるだろう。