そもそも民族とは何なのか

国連は2008年以来、沖縄人は琉球弧の先住民族だと認定するように日本政府に勧告しているらしい。この勧告について自民党は「国連に撤回を求めるべきだ」として問題化しようとしている。

この発言には大いに問題がある。国益に反するので、国連に勧告撤回を求めるのはやめた方がいいだろう。撤回を求めている人たちは本土の代表であって「抑圧者」だと見なされる可能性がある。次に民族の概念は定義が曖昧であり、そもそも議論が成り立たない可能性が高い。沖縄選出の自民党議員に「我々は日本人である」という運動をやらせてもいいが、これは沖縄に住む人たちを分断することになるだろう。民族という概念は政治の産物なので、政治問題化しやすいのだ。

もし撤回を求めるとしたら、代わりに「第三者」に琉球諸島(そもそも琉球諸島そのものにも明確な定義が存在しないそうである)の住民へのアンケートを依頼すべきだ。民族というのは、その人のアイデンティティの問題だからだ。琉球弧の人たちは、ことによっては複数のアイデンティティを持っている可能性があるし、先島諸島の人たちが本島に住む人たちと違う民族意識を持っている可能性すらある。

民族は曖昧で複雑な概念である。

日本人はノルウェーにはノルウェー人が住んでいると思っているだろうが、実際はそれほど単純ではない。ノルウェーは長らくデンマークやスウェーデンと同君連合を組んでいた。なので、ノルウェーの言語はデンマークとスウェーデン語とあまり変わらない。しかし、それでは独立した民族とは言えないので「独自の言語」を取り戻す運動があり、従来の言語と独自言語の2つが公用語として採用されている。アイルランド人の多くはアイルランド語ではなく英語を話す。しかし、独立国に住みアイルランド人としての自己認識を持っており、アイルランド語が保存されている。

また、ペルシャ語を話す人はイランとアフガニスタンにまたがって住んでいる。だが、彼らは別民族とも同一の民族とも言えない。イランのペルシャ人はアフガニスタンのペルシャ系の人たちに対する差別意識がある。ペルシャ人は(トルコ系の言語を話す人と区別して)ペルシャ語の話者をさす場合とイランに住むペルシャ語系の人をさす場合があるそうだ。

ウズベグ人はロシアの統治を経てソ連で定義された。ウズベグ人の中にはトルコ系とペルシャ系の言語を話す人が含まれ、コーカソイド系とモンゴロイド系がいるそうである。ウズベグ人の中に含まれるタジク系の人たちだが、タジク語はペルシャ語の方言なので、この人たちはペルシャ人ともいえる。こうなると、何がなんだかさっぱり分からない。歴史的に「ウズベグ」と呼ばれる人たちがおり、イスラム系の非ロシア人をまとめる際に人工的に作られた概念らしい。だが、一度ウズベグ人という概念ができてしまうと民族意識が後から形成される。

民族という概念は時に悲劇を生む。ルワンダに民族対立があると信じている日本人は多いが、そもそもツチ・フツという概念はヨーロッパ系の人たちがでっち上げたものだと考えられている。バンツー系の支配層と被支配層に違った民族概念を与え「ツチはエチオピアからやってきた」という「事実」を作り出した。後にラジオのプロパガンダを真に受けたフツ系の人たちが、短期間で50万人から100万人のツチ系の人たちを虐殺したのだ。

北朝鮮と韓国に住む人たちは、自分たちを同一民族だと考えているが、朝鮮語と韓国語という別名称の言語(内容はほぼ同一)を話す。台湾に住む人たちは、同じ国に住み、ほぼ同系の言語を話すが、中国人だと考える人と、台湾人だと考える人に分かれている。中には「台湾人であり中国人だ」と考える人もいる。つまりこの2つの概念は二律背反するものではない。台湾にはオーストロネシア系の原住民がいて、話が複雑化する。誰が本来の台湾人なのかという問いに単純な答えはない。

日本人が「琉球人などという概念は存在しない」という主張をしているのと同じような主張をしている人たちもいる。それは中国共産党だ。彼らは「中国に住んでいる人たちはすべて中華民族だ」と主張している。やっていることは、少数言語の破壊と植民地政策だ。チベットの同化政策を見るとそれがよくわかる。

そもそも民族は定義のない概念であり自己認識以外には議論が難しい。加えて日本政府は、琉球人を否認することで少数民族を圧迫しているという印象を与える危険性すらあるわけである。

県という単位

「1県に1人の代表者を出したい」。簡単そうに見えるこの主張が選挙制度改革の足かせになっている。都道府県の人口にばらつきが多く、一つの単位として使えないからだ。一番大きなのは東京都で1300万人が住んでいるのだが、一番小さな県は50万人程度の人口しかない。

では、県を再編成すればいいのではないかと考えて実際にやってみた。政府がやるといろいろ文句が出るだろうが、ネットの片隅でやっても誰も文句は言わないだろう。北東北を2県にし、北陸も3県1市に整理した。岡山と広島は独立していてもよさそうなのだが、山陰が弱者連合になってしまうので、山陽の県に面倒を見てもらうことにする。東九州と肥前は1県ずつに整理する。宮崎を分割して大分や鹿児島とくっつけるという手もある。するとだいたい200万人規模でまとめることができるのだが、いろいろと不具合もある。

japan

第一に政令指定都市が成り立つ地域と成り立たない地域がある。ここで市松模様になっている県(熊本、教徒、新潟、宮城)は政令指定都市と県を分離してしまうと、県側に100万人規模の人口しか残らない。一方、県と政令指定都市を分離しても地域として成立する地域はある。だが、そうすると90万人くらいしかない「県と同格の地域」ができてしまう。つまり、県と同じような機能を持つ政令市と県の関係も一概に整理することは難しそうなのだ。

山陽地方と山陰地方をひとまとまりにするなど「地域としての一体感がないから無理だ」と文句を言う人はいるだろうが、この主張にはあまり正当性はない。例えば福岡県は県の東西で言葉が全く違っている。同じように兵庫県は山陽・山陰・瀬戸内海と3つの異なる地域の連合体だ。一方、佐賀県のように、同じ肥前でありながら長崎奉行所の管轄に入らなかった地域もある。薩長土肥の一国だったので、独立性を守ったのかもしれない。長崎は壱岐・対馬・五島・九州本土というまとまりのない地域を管理している。

最後に残る問題は首都圏への一極集中だ。神奈川県には3つも政令指定都市があるのだが、それでも県部の人口は300万人を超える。埼玉県部や千葉県部(それぞれ政令市を除く)も500万人近くの人口を抱える。一番大きな問題は東京である。1/10の人口を抱えるが一体性が高い。例えば世田谷区は80万人以上の人口を抱えていて一区で政令指定都市が作れるのだが、これは世田谷区の中に複数の行政区が作れるということを意味するのだ。

こうしたバラバラな自治体を統一的に分割するルールなど作れそうにない。道州制も人口のばらつきが大きくあまり本質的な意味はなさそうだ。都道府県はそもそも成立当時から一貫性がなく、今も一貫性がない。効率化を目指すならば県や道州という単位をあきらめ、比例代表制にするのが一番良いのではないかと思う。

オスプレイを巡る倒錯した議論の根源を探る

熊本と大分の地震の対策としてオスプレイを使ったことが非難されている。オスプレイは何故だか左翼の攻撃の対象になっているのだ。もともとはアメリカのいうままに兵器を買わされることを苦々しく思っていた人が多かったのだろう。つまり、左翼的動機というよりはナショナリスティックな動機だ。日本では愛国派が従米で左翼が反米というようなねじれがあるので、当初から議論はややこしくなっている。

左翼がオスプレイに反対する理由を探しているうちに「オスプレイは危ない」という側面が強調されるようになった。もちろん、改良はされているわけだから、安全性はそのうちに担保されるようになるだろう。岩波がこのようなことをつぶやいて「ミリオタ」と呼ばれるクラスターに攻撃を受けている。ミリオタの攻撃はツイートのコメント欄で見ることができる。

興味深いことに、なぜオスプレイを買ってはいけなかったということもミリオタさんたちの議論から分かる。一つはオスプレイが既に旧型に属するらしいということだ。どうやら、もっと効率のよいタイプが開発されているらしい。次の理由はオスプレイが大きすぎると言うことである。イスラエルは「高すぎて買えなかった」らしい。

オスプレイは確かに熊本に物資を運んだが、あまり小回りが利かなかったらしい。そもそも、物資移送にはあまり活躍せずに早々に帰ってしまった。あまり使い勝手はよくなさそうである。よく「いい宣伝になった」という人がいるが、あまり役に立たなかったというのが正解だろう。

要するにオスプレイはフォードの大型車(まあ、シボレーでもいいけど)みたいなものなのだ。割高でバカでかい。フォードの大型車(しかも型落ち)を高値でつかまされたということになる。多分、開発したのに売り先がないと責任を取らされるのだろう。そこで、日本政府に売りつけたということになる。つまり、日本政府がいうところの「アメリカ」は、アメリカ全体ではなく、アメリカのトップでもないということになる。

そもそも、日本はなぜアメリカから割高な兵器を買うことができるのだろうか。それは戦争が差し迫っている脅威ではないからだ。もし、戦争が差し迫った脅威なら、支出できる税金は限られているわけだから費用対効果を気にするはずだ。つまり「国際情勢の変化で戦争の脅威が云々」というのは全くの嘘なのだ。

どうしてこのような議論になってしまったのは不明だが、オスプレイは2つの要点を押さえておくことだけが必要なのではないかと思った。なぜ、今のような議論になってしまったのか、よく分からない。

  • 日本政府はお買い物が下手で、タチの悪いディーラーとつきあっているらしい。
  • でかいアメ車を買ってしまったために「子供たちの送り迎えにも使えるよ」などと言い訳して家族のひんしゅくを買った。

震度情報を隠蔽したNHK

熊本地方で地震が起きた。震度7だった。かなり大きな地震で、福岡でも震度4の地域があったそうだ。阪神淡路みたいな大惨事にならなくて良かったと思ったが、それでも9人が亡くなった。

そんななか不可解な動きがあった。NHKがなぜか鹿児島県の震度を表示しなかったのだ。この状況は今でも続いている。お昼のニュースでも当時の震度表記から鹿児島県が省かれている。どうやら偶然外されたわけではないらしい。(実際の図はこちらにのせた。偶然表示されなかったのだという意見もあるだろうから、ご自身の目で判断していただきたい)

これはかなり不自然だ。多分、鹿児島でもかなり揺れただろうから、地元の人たちは「なぜ鹿児島の震度が表示されないのだろうか」と思ったのではないだろうか。

これはかなりあからさまな動きだ。現在、薩摩川内市では原発が稼働している。Yahoo!によるとこの地域の震度は4だったそうである。これが反原発の人たちを刺激するのを避けたかったのではないかと思われる。Twitterは「地震が起きたあともなかなか地震速報に切り替わらなかった」と指摘する人がいる。ちょうどニュースをやっていたのだから、すぐに切り替わっても良さそうだ。

ほんの数分でNHKの上層部では「鹿児島の震度は表示するな」と指示したのだろうか。普段からそのような取り決めがあったのかもしれないし、その場で慌てて決めたのかもしれない。だが官僚的な組織で「現場の判断で鹿児島を外す」みたいなことがあり得るだろうかという疑念が生じる。

何がなんでも今すぐ、すべての原発を止めてしまえとは思わない。反原発運動は一部の人たちのライフスタイルとなってしまっているので、それはどうなのかとも思う。しかし、当地の震度を隠すというのは少しやり過ぎではあるまいか。

NHKに人たちが国民を向いていないのは明らかだ。普段どのような態度で視聴者と接しているのだろうか。受信料は欲しいが視聴者の冷静な判断力を信頼していないことになる。本当にこんな放送局を支えるべきなのか。割と真剣にそう考えた。

追記1:これを書いてから2日ほど経って、NHKは熊本付近を表示した後に九州全域を表示するようになった。さすがに一度作ってしまった地図を作り直すのはバツが悪いと思ったようだ。一方、Twitterでは「NHKは隠蔽していた」という情報が一人歩きするようになっている。

追記2:震源地が南にずれて鹿児島の震度が表示されるようになった。「川内原発に近い」と懸念を表明している人もいるが、断層は川内までは到達していないのだという人もいる。八代で震度5強の地震が起きている。この記事を書いた後で別の地震が起り、熊本の死者の数は40名を超えた。少なくとも観測史上では初の群発地震だったようだ。NHK・鹿児島・隠蔽で検索が増えており、いわばバズった状態になっている。ちょっとした隠蔽だったと思うのだが、これはかなり高く付くのではないかと思う。こうした不信感に疲れが重なるとデマのもとになる。マスコミの責任として、なぜ表示しなかったのかを説明するべきだと思う。

 

核廃絶に向けて唯一日本人だけができること

オバマ大統領が広島に来るかもしれないらしい。前回は政府に内々に打診したが、官僚が勝手に断っていたようだ。そこで今回はワシントンポストに「リーク」して既成事実を作っている。安倍内閣はオバマ大統領にスルーされたのだと思うが、いったん事実ができてしまったら反対するわけにもいかない。ご機嫌伺いの日本政府は「賛成も反対もしない」という立場だそうだ。意向が固まれば賛成だと言い出すのではないか。

さて、オバマ大統領は広島と長崎に原爆投下したことを謝るべきなのだろうかという問題がある。原発問題はきわめて政治性が高く議論が交錯しやすい。結論によっては北朝鮮が核を持つことすら正当化されてしまう。

現在北朝鮮がワシントンに核攻撃すればそれは違法ということになる。多くの市民が巻き込まれるのは明白だからだ。だが、かつてはそうではなかった。

第二次世界大戦までは、市民を巻き込んだ殺戮は違法ではなかったそうだ。軍隊を警察に例えると、各都市の警察官は市民を巻き込んで相手都市に踏み込んでもよかったのだ。なぜならば都市を統括する国は存在しなかったからだ。警察と呼ぶのがふさわしくなければ、自警団と言っても良い。武士のようなものである。だが、第二次世界大戦の後「人々が殺し合うのは良くないのではないか」ということになった。そこで、とりあえず市民を巻き込むのはよしましょうということになった。

もう一つの変化は原爆の発明だ。例えれば第二次世界大戦までは武士は刀だけで戦っていた。そこにアメリカ現れて隠し持っていた拳銃で日本人の市民を「ずどん」と撃ったのだ。もう日本が負けることはわかっていたのだから無意味な殺生だったが、効果はてきめんだった。みんな黙ってアメリカに従うものと思われた。

ところがアメリカの思惑は外れた。共産主義が台頭したからだ。ソ連は拳銃の密造に成功したし、アメリカは中国の利権を取り損なった。もともと日本を追い出して中国利権を手に入れるのが戦争の目的の一つで、そのために国民党を抱き込んでいた。だが、彼らのもくろみは外れたわけだ。

最近、オバマ大統領は「銃を持つのはよくない」から段階的になくすべきだと言っている。「国際社会」はその手始めとして中国に「あなたが持っている銃の種類と数を公表せよ」と言っている。つまり、銃を登録制にしたいのだ。しかし、中国の立場からすると、そんな話に従う必要はない。だから、銃は野放しである。

特に厄介なのは北朝鮮だ。第二次世界大戦後「主権国家には踏み込みませんよ」という協定が作られ、代わりに戦争が禁止された。しかし、北朝鮮だけは「そんな話は信じられない」と言って拳銃の密造を始めた。イラクやリビアがいちゃもんを付けられてアメリカにやられるのを見ているから、彼らの危機感も間違っているとはいいきれない。イラクやリビアがやられたのは実は石油を持っているからなのだが、北朝鮮にはそんなことはわからない。そしてどうやら密造拳銃を完成させたらしい。イスラエルも密造拳銃を持っているらしいのだが、アメリカはイスラエルには何も言わない。

このように考えると、アメリカの大統領が広島を訪れたところでさしたる影響はなさそうだ。結局、この事態を作ったのはアメリカだからである。「お前が言うな」というだけの話である。

「主権国家を保証する代わりに戦争そのものを違法にしよう」というのが、第二次世界大戦後の取り決めだったのだが、この枠組みすら崩れつつある。そんなのはどうにでもなる話(事実イラクは主権国家だったが侵攻された)だ。そこで登場したのが「もう主権国家格を追求するのはやめて、国家体制に反逆しよう」という人たちだ。主権国家格など何のトクにもならないと彼らは思っている。彼らはテロリストと呼ばれているが、これは主権国家体制が崩壊しているという事実を印象操作しているだけなのかもしれない。

日本の役割はどうだろうか。結局のところ、広島や長崎の市民たちは「見せしめ」のために殺されたのだ。アメリカ人にとって同胞(つまり同じ人間である)ヨーロッパに原爆を落とすのははばかられたことだろう。身代わりにされたのだ。

物わかりのよい日本人は「あれは天災のようなものだ」と思い込もうとしてきた。戦争の原因を作り出したことは確かなのだから相手を恨むのはやめにしようというわけだ。台風や津波で殺されても日本人は天を恨まない。この地上で生きてゆかなければならないからだ。結局のところ「赦す」ことでしか、憎しみの連鎖を乗り越えることはできないということを私たちはよく知っているのだ。

この価値観を相手に伝えるのはとても難しい。日本人は自主的に赦したわけだから、相手に同じ気持ちを抱かせるために言葉を重ねることは無意味だろう。ただ、その戦後の繁栄だけが「相手を赦すことはいいことなんだな」と思わせる効果があるのではないかと思う。ただ、見せしめで殺されたことは事実なのだから、それを曲げてはいけないように思う。「それでも相手への恨みを捨て去れますか」というのが日本人に向けられた問いだろう。

事実アメリカ人はこの日本人の態度を不可解に思うようだ。「広島なんかに行ったら、謝れという話になるのではないか」と思っている人も多い。

オバマ大統領は結局「日本人が赦した」姿勢を見て、それに沈黙で返礼するしかない。その意味ではアメリカ人要職の訪問には意味がある。だが、アメリカ人には、この状況をどうこういう資格がない。自分のレジェンド作りの為に広島や長崎を政治利用しているという見方すらできるのだ。これは原爆で殺された人たちへの冒涜にならないのか、しばし冷静に考えてみる必要がありそうだ。

おそらく外交も無意味だ。口約束なんか破られるに決まっているからだ。だから、外交努力で戦争を防止することなどできない。となると、諸都市の武士団が拳銃を「ずどん」とやらないのは、経済的に緊密に結びついているからでしかない。いったん経済的に結びついてしまえば、けんかはしにくくなる。

ただし、絶対的な経済活動の敗者たちは、刀を持って歯向かってくるだろう。もはや武士だけが刀を持てる時代は終わったのだし、刀狩りもできない。

いくさを防ぐためには「赦す」か「分け与える」しかないのだ。世界中で日本人だけがそれを「身を以て」語ることができるのである。

大西英男議員とリーダーシップ

昨日まで二回、社会のフォロワー層が「荒れたコミュニティ」を作るのではないかと書いた。その間に考えていたのが、社会のリーダー層たちの「リーダーシップの欠如」だ。フロワー層がリーダーシップがないのは、ロールモデルがないからだ。また、社会に尊敬できるリーダーがいないと、フォロワー層は地下化する。結果、コミュニティが荒れるのである。

そのときに頭をちらついていたのが、「巫女のくせに」発言の大西英男議員だった。北海道で「自分の世話をしてくれた巫女」が「自民党が嫌いだ」と言ったから、夜の街に連れ出して説教してやろうと考えたと発言したのである。

この発言が反発されたのは、こうしたおじさんが珍しくないからだろう。こうしたおじさんは社会の至る所にいて、たいした仕事はしないのに大きな顔をして威張り散らしている。そして女性が男性のお世話をして夜もおつきあいしてくれるのを当然だと考えているのだ。社会のフリーライダーであり、単なるお荷物だ。

この手の人たちは、女性は補助的な職業に就くべきだと考えている。理由は簡単で女性だからだ。女性の役割は「立派なお仕事をしている男性」のお世話をすることである。機会均等法が運用されるようになる1990年代までの会社社会では一般の女性は「お茶汲み」と呼ばれていた。大西議員は巫女さんを「お茶汲み」だと考えており、夜のご接待もお仕事のうちだと考えているのである。こうした価値観を持っている男性は珍しくない。

普通に考えると、こうした図式が成り立つためには「ご立派なお仕事」をしている男性は、経済的に社会を支えなければならないし、リーダーシップを発揮して社会をまとめなければならない。そしてリーダーシップを発揮するためには、それなりの修練が必要になるはずである。

だが、大西議員に代表される人たちは、男性であるだけで自ずとリーダーになる資格があるのだと考える。だから、リーダーシップなど学ぶ必要はないし、リーダーとして研鑽を積む必要もない。

こんな調子だから、日本にはリーダーシップが成立しないのだと言える。つまり、自称「保守思想」が蔓延すると社会からリーダーシップが失われるのだ。

このように、自民党の自称保守の人たちにはリーダーシップはない。単に誰かほかの人たちが考えた「日本は男性を中心とした社会に回帰すべきだ」というお題目を丸暗記して、女性や子供に威張り散らしているだけだ。つまり、彼らは保守を名乗るフリーライダーなのだ。

「いや、実際に大西議員に会えば彼が真のリーダーだということがわかるはずだ」などという人がいるかもしれない。だが仮に大西議員がリーダーとしての自覚を持っていたとしたら、このような女性蔑視発言はしなかったはずだ。リーダーの役割は社会の活性化だ。組織運営に携わったことがある人なら、女性を「お世話係」として卑下することがどんな影響を与えるかわかるはずだ。実際に神社関係者は大西議員の発言に反発している。女性の働き手のマネジメントをしている彼らは発言がどんな影響を及ぼすかを知っているからだろう。

大西議員の経歴を見ると、議員秘書を出発点にして、地方議会で議長を務めた後に政治家デビューしている。実際に組織マネジメントに携わっていた経験がない。だから、リーダーシップについて学べなくても当然のキャリアなのだが、長い間政治家をやっていると「自分たちが日本を動かしているのだ」という万能感にとらわれることになるのだろう。

こうした人たち見て、多くの人たちはリーダーシップや保守思想について「あの程度のものなのだな」という感覚を持つのではないだろうか。

日本人からリーダーシップが失われたのは何故なのだろうか。よく用いられる説明は、アメリカ人が押し付けた現行憲法のもとで増長した左翼思想を持った教師たちが日本の教育を破壊したというものだ。この説を採用するなら、現行憲法と左翼教師たちが保守思想を破壊した結果、大西議員のようなリーダーシップを持たない自称保守政治家が量産されたことになる。

で、あれば、憲法を改正して、リーダーシップを欠く政治家が現れた場合には公開で罰を与えるよな規定を作った方がいいかもしれない。リーダーシップの欠如したこの手の政治家は単なる社会のフリーライダーであり、害悪だからだ。

ヤフオク化

ヤフオク(ヤフーオークション)は面白い。市場で手に入れられなくなったものを安く手に入れることができるし、ジャンクショップを歩きまわる手間も省ける。だが、なんとなく殺伐とした雰囲気がある。曰く「質問はするな」「クレームをいうな」「落札したら早く金を払え」などなど。いたずらで落札して、お金を振り込まない人も多いらしい。逆に落札して「いつ届きますか」と聞いても返事が来なかったりする。

どうして、こんなことになるのだろうかと思った。

元々、日本人は人付き合いが嫌いだ。愛想を良くしているのは仕事上必要だからか、職場でそうするように強要されているからだろう。ヤフオクの出品者たちはこうした組織的に押し付けられた愛想の良さというものを嫌っているのではないかと考えられる。しかし、愛想をよくするのは、比較的わかりやすい社会構造の中で、好ましいキャラクターを保持しなければならないからだと考えられる。

だが、ヤフオクはジャンク市場なので、品質が悪かったとしても文句を言われる筋合いはない。決済後クレームをつけてきてもそれは無視すればよいだけの話だろう。だが、クレームをつけられると嫌な気持ちがするので、予防線を張って嫌な思いをするのを防ごうとしているのかもしれない。いずれにせよ「クレームをつけるな」と言われてもクレームを言ってくる人はいるだろう。つまり、日本人は不特定多数からのネガティブな意見に対して耐性がないということになる。

では、日本人が商売が下手なのか、まともに買い物ができないのかということになるのだが、そんなことはない。つまり、能力の問題ではなく、日本人が伝統的なコミュニティを維持するのに必要な要件を欠いているために、こうした混乱が起きているのだということになるだろう。

日本人は村落的な社会的監視網を使ってコミュニティを維持しているのではないかということが類推できる。インターネットではこれを欠いてしまうので、市場全体が「お行儀悪く」なってしまうのである。コミュニティを正常に維持するためにはいくつかの方策が考えられる。

一つ目は、「その場限りの」ドライな関係に慣れることだ。Twitterでもとんでもない暴言を吐く人や自分の考えを押し付けてくる人はいる。「このように思う人もいるのだ」と慣れてしまうことだ。商取引の場合には条件を提示しておき、その枠に収まらない人たちを排除してしまうということになる。

もう一つのやり方は会員資格を限定してメンバーを限ることだろう。メンバーシップを限れば、村落的な関係性を維持することができる。

いずれにせよ、インターネットが登場したことで、日本人とコミュニティに関する態度は過渡期にある入ったのではないかと考えられる。

完全に村落共同体的な状況が戻ることはないわけで、不特定多数の交渉に慣れる必要があるのだろう。

 

秋葉原は昔とあまり変わっていなかった

古いマックを漁っていて「これだけネットが発達すると秋葉原は大変なんだろうなあ」と思った。と同時に、秋葉原に行けば「もっと良いもの」が手に入るのではないかとも考えた。Amazonでなんでも手に入るようになったわけだから、わざわざ秋葉原になど行かなくてもよいはずなのだが、どうしても昔の感覚が残っている。いったいどっちが正しいのだろう。

結論からいうと秋葉原の中古PC市場はそれほど変わっていなかった、昔からやっている店が結構残っている。違いはといえば、外国人と(アニメの聖地になっているらしい)とメイドさんが増えたことだが、ハードだけでなくコンテンツも揃うというのは実は昔からの姿だ。

パソコンの量も変わっていた。昔はそこそこ高級品だったパソコンだが、古いノートパソコンがプラスティックのかごに入れられて「無保証」で売られていた。値段も1000円とか2000円だ。これを探して、適当なACアダプタを見つけるらしい。日本人の姿も見られるが、外国からきた人たちも多い。発展途上国に持っていって売るのではないかと思う。秋葉原は国際市場に組み込まれているのだ。インド系が集まっている店があり、インドっぽい香りがしていた。お香でも焚いているのだろう。アジアとダイレクトにつながっていると感じられるのは面白いと思った。

Macintoshに限ると、Macbook(2006年から2009年頃までに売られていたもの)や古いMacminiなどは置いていなかった。代わりにあるのはMacbook Proなどやや高めの値段帯のものだ。ヤフオクなどと秋葉原の店頭は棲み分けができているらしい。古いMacは店頭に出すほどの利益は得られないのだろう。WindowsPCなどは種類が多すぎてよくわからない。メモリなどは種類が多すぎて安いのか高いのかよくわからない。安いといっても千円以下の違いなので、家で検索して買った方がいいのかもしれない。

秋葉原の魅力は「ああ、こういうものが手に入るんだ」ということがわかることかもしれない。ただ「ごちゃごちゃ置いておくんで、適当に探してください」という方式だから、ある程度の知識と並々ならぬ体力がないとつらい。個人的にはIDEのハードディスクが大量に売られていて安心できた。古いパソコンを使っていると「このハードディスクが壊れたら後がないかもなあ」などと思ってしまうのだ。ただ、これもAmazonと比べて1000円程度の違いだ。

東芝製の16GBのUSBメモリが360円で売られていた。お土産に買ってかえろうかなあと思ったが、使い道が思いつかない。NASに付けてWindowsとMacで両方使えるファイルサーバーにするか、UNIXを入れてWindowsPCを再活用するなどできそうだが、別にないと困るというほどでもない。SSDはいうほどは安くなかった。

昔は秋葉原に行かないと買えないものが多かった。Macintoshなどもその一つだ。しかし、最近では新しいMacを探すために行く場所は銀座や表参道になった。かといって秋葉原の魅力が損なわれているというわけではないらしい。昔からの店は依然多く見つかるし、アニメファンや商売人など多くの外国人を引きつけている。

 

自転車と回復

2年ほど雨ざらしにしていた自転車のチェーンに油を注した。チェーンに塗るのではなく、一つひとつのチェーンに油を入れてゆくのだそうだ。正しくメンテナンスしたら動かないと思っていたギヤが動き出した。もう動かないから捨てようと思っていたのだが、捨てなくてよかった。雨の中で放置していた自転車には悪いことをした。調べると自転車カバーは100円ショップにも売っているそうだ。もっと早く調べればよかった、と後悔した。

なんでもないことなのだが、ちょっとした幸せのようなものを感じた。人から見ると、あるいは笑われるくらい小さな幸せなのかもしれない。自転車に気が向くということは「どこかに行ってみたい」と思うようになったことだ。人生には何があるか分からない。あるいは、もう立ち直れないと思うこともある。だが、その日々も永遠には続かないのだ。

人はすべて回復する力を持っている。その力は不思議なものだ。一日いちにちを過ごしているときには気がつかないが、回復は少しづつ進む。あるいは、回復とは元通りになることではないのかもしれないが、それは必ずしも「前より悪くなった」ということを意味しない。

今苦境にある人にはこの言葉は届かないだろう。闇の中にあるとき人には他人の言葉は聞こえないしそんな余裕もない。だが、それでも言いたいと思う。どんな人も回復する力を持っている。神様という存在があるのかどうかは分からないが、それは神様が与えた恵みではないかとすら思う。決して自らが努力して得たものではない。

世の中には様々な情報があふれている。本当もあれば嘘もあるかもしれない。しかし、人には回復する力があるということだけは確かなことである。私は今それを知っている。他人と比べればほんのささやかな知恵かもしれないのだが、私は今それを持っていて、誰かに伝えたいと思っている。

日本の原発議論は人類がいかに愚かかという見本市

最近、原発事故に絡んで、ある経済学者が「日本人はリスクを知らない」と主張している。「みんな馬鹿だからリスクが合理的に判断できないのだろう」というのだ。驚くべきことにこれに同調する輩までいる。「ドライに割り切る精神が大切」なのだという。勉強ばかりしているとアホになるらしい。では、何がアホなのか。

日本語の「危険・危機」にはいくつかの種類がある。それが「リスク」と「カタストロフ」だ。リスクは将来的に起こりうる危険のことだが、カタストロフは今起こっている危機である。どうやら、日本人はリスクは過大に評価するくせに、カタストロフは「あれは例外なのだ」といって過少に評価する悪い癖があるらしい。

福島の事故は住めなくなった地域の人たちにとっては、原発はリスクではなくカタストロフだ。実際には二号機のベントができずに放射性物質を関東地方を含む東日本一帯に撒き散らす恐れもあったのだという。幸い爆発が起きなかったのは格納容器の密閉度が今ひとつだったからだそうだ。つまりあの事故は関東地方の人間にとってもカタストロフになる可能性のある事故であり、そうならなかったのは「たまたま」である。さらに福島の廃炉も現在進行中のカタストロフだ。海域に放射性物質の混じった地下水を撒き散らす恐れは今も消えていないし、今後数十年も消えないのである。

ところが事故から5年経って、多くの日本人は(当事者も含め)「あの事故は例外だったのだ」と思い込もうとしている。福島はたまたま運が悪かったのだということだ。原発廃炉作業も日常となり、ある意味慣れてしまった。

もちろん日本全体の経済合理性だけを考えると「住めなくなった人たちにお金を払って納得してもらおう」と主張することも可能だ。だが、仮に東日本全体が居住困難になっていたら、同じことが言えただろうか。大阪に住んでいる人が東京から来た子供に「お前は汚染されているから、一緒に遊んじゃだめだって」というような世界である。

これは正義の問題に置き換えることができるだろう。つまり、誰かの幸福のために別の人の生活をめちゃくちゃにすることが経済合理性の名の下で許されるかということだ。科学ではなく倫理の領域だ。他人の人生を根本レベルで破壊することは、経済的自由に含まれるべきなのだろうか。

自分は科学的で合理的であるとうぬぼれる人は倫理的な問題を見逃しがちである。感覚が麻痺してしまうのだ。かつてアメリカでMBAが流行したときにも同じような「賢い」人間が増殖した。その行き着いた先がエンロンなどの経済事件だった。「cooking book」といって会計を操作することで、業績を過大に見せる手口が横行したのである。悪評が広がるのを恐れたMBA提供校は倫理教育をカリキュラムに組み込むことになった。つまり経済合理性は人々の心を暴走させかねないのだ。

「経済合理性があるから原発は優れている」と主張する人は「いざとなったら、お金を払ってめちゃくちゃになった人の人生を買い取ればいい」と言っている。挙句「福島の事故で死んだ奴はいない」とまで言い放つ。

この論理を許してしまうと、原発の提供会社は「過大な設備を作らなくても平気だ」と考えるようになるだろう。「事故を起こしてめちゃくちゃになった人の人生を買い取る」のは事業者ではなく国だからだ。つまり、利得は手に入れつつ損出は外部化してしまえるわけである。これは電力会社にとってみれば「経済的合理性」のある(つまり最善の)答えである。

「経済合理主義」を唄う「自称賢い人たち」はこれにどのように応えるのだろうか。