空き家の研究 – 市場と社会主義の失敗

朝日新聞に低所得者向けに空き家を有効利用してはどうかという国交省の提案が載っていた。耐震基準を満たした空き家のデータベースを作って、低所得者に貸し出すというのである。確かになんとなく良さそうな提案ではあるが、本当に実現できるものだろうか。

まず、耐震基準から見ておこう。2015年4月の日経新聞によると2/3が旧耐震基準で作られているそうである。空いている住宅は市場価値が低いものが多いのだが、壊すのにもお金がかかる。更地にすると解体にお金がかかるうえ、税金が跳ね上がる。だから売るに売れないし、壊すに壊せないという人が多いのだ。

それでも、1/3は引き受け手が出るのではないかというポジティブな意見もあるだろう。確かに園通りだ。朝日新聞には「成功事例」も載っている。ひたちなか市や多治見市ではすでにこのような制度があるということである。

気になるのは国土交通省がやるのは「情報提供のインフラ作りだけ」という点である。今回もデータベースなのだが、過去の空き家対策もデータベースだ。あまり自分たちで手を汚したくないのではないかと思う。実務は市町村に丸投げするのではないだろうか。

そもそも、空き家のマッチングがうまく行かないのは情報インフラが整っていないからではない。不動産市場になにか不具合があるからだろう。問題はいくつかある。市場は低所得者が入れるような住宅を供給するような体制にはなっていない。家は終身雇用で給与が上がって行くという前提でなければ手に入れることすら難しい。人々は新築で家を買いたがり(一生に一度の買い物だから自分で設計したいのだろう)中古住宅は人気がない。さらに、地方では人口が減りつつあり、都市への一極集中が進みつつある。つまり、データベースを作っても市場の失敗をカバーすることはできないのだ。

加えて、不動産の賃貸は手間がかかる。借り手が家を傷つけたとか、敷金礼金が帰ってこないとか、売りたいのだけど出て行ってくれないとかさまざまな問題がある。記事を良く読むと、地方自治体も仲介するだけであり、細かいことは持ち主と借り手同士でやってくれということになっている。

例えば家が壊れたとすると貸し手が修繕しなければならない。余計な手間がかかる。さらに相続して複数の相続人で遺産を分けたいとなったときには売ってから分割しなければらなない。そんな時に貸し手の都合で「今すぐ出て行ってください」などと言えるだろうか。こうした問題はすべて貸し手に丸投げされることになっているのだ。

さらにご近所問題もある。駅から遠く、都市計画上共同住宅が建てられなくなってい土地は、共同住宅に転用できずに売れ残る。そこに、低所得者の方が入ってくる。すると近所の住民はどう思うだろうか。トラブルが予想される。自治会への参加はどうするのか、ゴミ置き場の掃除はどうなるのかといった些細な問題なが、住民には大きな問題なのである。

 

空き家の問題の根幹には、人口の減少、終身雇用制度の破壊、それでも変わらない都市への一極集中の問題など「日本人の生き方」に関する多くの問題が隠れている。これを放置して「データベース作りましょう」というのは、国の怠慢としかいいようがない。

朝日新聞も「データベース=福祉政策」というので一面の扱いだった。多分、朝日新聞に勤めている高給取りの人たちにとっては、空き家の状況というのは他人事なんだろうなあと思った。そういう人たちにとっては、足下の問題よりも「明日戦争になるかもしれない」というほうが切実な問題に思えるのかもしれないが、実は日本のコミュニティというのはかなり深刻に蝕まれているのである。

鳥越俊太郎氏出馬 – 本当の意味

都知事選挙の候補者選びは迷走した。自民党は分裂し、民進党などの野党4党は鳥越俊太郎氏を推薦することで落ち着いきそうだ。自民党のごたごたは、ポスト安倍政権がどのような形で崩壊するのかを示していると思うのだが、野党の共闘にはどのような意味があるのだろうか。

たまたまみたテレビでは四者(増田・小池・宇都宮・鳥越)が自分の政治的主張を展開していた。少なくとも自民党系の二者は「自分が知事になれば、このようなよい未来が保証されている」というビジョンを提示した。ところが、鳥越さんだけは「若者に楽観的な未来は提供できない」と語った。これは政治家としてはふさわしくない発言である。

政治家同士が競合するのは、政治家たちが同じ属性を持っているからだ。彼らは夢を売り、その対価として権限と地位を得るのである。彼らの目的は待遇であり、これは「外的なインセンティブ」に分類できる。

ところがそこに別の属性が紛れ込んでしまうと、議論自体が成り立たなくなる。鳥越さんは「何も提供できない」と言っているのだが、それは統計的には事実である可能性がきわめて高い。鳥越さんの発言の裏にある統計的事実は人口動態のトレンドだ。このような主張が紛れ込むと全ての「政治的議論」が無効化してしまう。その破壊力はきわめて大きい。全ての議論が「嘘くさく」聞こえてしまうのである。

鳥越さんが支持されているのは、世間が「ジャーナリスト」というものに「正義の味方幻想」を持っているからだろう。都政や安倍政権には悪が跋扈しており、それを裁いてほしいと思っているわけである。この役割を果たそうと鳥越さんが考えたとしたら、それは外向的な動機に基づいていると言えるだろう。

ところが鳥越さんにはその気はなさそうだ。政治的な主張と動機はありそうだが、それは外的なインセンティブによって動かされているわけではなく、内的に「おかしいことはおかしいのではないか」とか「真実が明らかにされなければならないのではないか」と考えているように思える。つまり、この人だけが内向的な動機付けを持っているようなのだ。

このことは標語にも表れていた。宇都宮・小池氏が「都民に希望を与える」としており、増田氏は「職員をまとめる」としていた。どちらも相手に何かを提供するというスタンスである。増田氏が「都民を見ていない」という点は重要だ。ところが鳥越氏だけは「自分がやりたいことをやる」と言っている。対象が違っているというレベルでしかない。そもそもベクトルが逆なのだ。

もっとも、有権者は鳥越さんが内向的な動機付けを持っているからといって支持を諦めることはないだろう。有権者は「見たいものを見たい」という強い動機を持っているからである。マスコミの扱いはさらにひどく、与野党対立という形に無理矢理押し込めていた。

どうやら、ご本人はこの違いに気がついていないようだ。そこで「インサイダー」「アウトサイダー」という説明を試みている。外向的な動機付けを持った人たちが「インサイダー(当事者)」であり、それを見つめている人がアウトサイダーというわけだ。

外向的な動機付けを持った人たちは取引がしやすいが、内向的な動機付けは外からコントロールできない。つまり、この擁立で一番苦労しそうなのは、民進党の人たちだろう。特に民進党はそれなりの利権構造を持っているだろうから、取引を持ちかけるはずで、それが覆された時にどのような混乱が起るかどうかがよく分からない。そもそも外向的な動機付けに動かされる人たちは内向的な人が何を考えているか理解できないのではないかと思う。

もっとも、現在の鳥越さんが内的な動機付けを持っているからといって、外的な動機付けの人にならないとは限らない。4年というのは人を変えるには十分な時間なので、4年後には「立派な政治家」になっているかもしれない。しかし、内的な動機付け(いわゆるジャーナリスト魂)を扱いかねた人たちが、なんらかのトラップをしかけて、知事を追いつめるということも考えられなくはない。

さて「鳥越さんが出てきた」意味は何なのだろうか。それは都民がそろそろ「政治的なビジョンというのは、地位を得るための取引なのだな」ということに気がついている現れなのだろう。そこで、そうした野望を持たない人が新鮮に見えるのではないだろうか。

イオンモール無差別殺傷事件と報道

イオンモール釧路昭和で1人が殺され3人がけがをする事件が起きた。いずれも女性だった。松橋伸幸容疑者(33歳)はすぐに逮捕され「人生を終わりにしたかった。誰でも良かった」という旨の供述をした。

普段なら、殺人者の人となりなどを仔細に報道する様子が見られるのだが、今回はあまり報じられることはなかった。他に大きなニュースがあったからという事情もあるが、この容疑者が「精神疾患」を煩っていたことが分かったからだ。ネットの報道の中には病気は統合失調症だと伝えているものがあるのだが、大手マスコミは「精神疾患だ」としか言っていない。多分、報道コードの制限があるものと思われる。

松橋容疑者はホームセンターで包丁を買ってから市内の病院(何科の病院かは伝えられていない)に行ったあとでイオンモールに行き、すぐに包丁で女性たちを刺したそうだ。職場(新聞配達員だった)は病状を知らなかった。容疑者は家族と同居していたので、家族は病状を管理していたものと考えられるだろう。

マスコミが病名を伝えないのは病気への偏見が助長されるのを恐れているからだろう。統合失調症の病状は投薬で抑制可能とされているのだが、社会復帰しても「何かしでかすのではないか」とされ、復帰が難しいケースが多いという。かつては「発祥したら病院に閉じ込めておけ」という風潮があったのだが、人権上の問題がある上に社会的な負担も大きいため社会復帰させるという方針に転換している。その方針への悪影響を恐れているという側面もありそうだ。

精神的な不調があると、鬱か統合失調症というラベルを付けて「とりあえず投薬する」というお粗末な実情があるのも確かだ。精神科医は病気が良くなってもならなくても処方箋さえ出していれば報酬が貰えるからだ。故に松橋容疑者の病状がどんなものであり、どのような不調を抱えていたのかは分からないし、それが病気に関係しているかも分からない。

報道をタブー視することには、偏見を助長しないという効果もあるが、劣悪な環境が改善される機会を奪っているという効果もあるのだ。よく分からないものにはふたをしましょうということで、それをきれいな言葉で「コンプライアンス」と呼んでいる。実情は目を背けているだけである。

一方で、テレビのコメンテーターは心神耗弱について心配していた。つまり、病気=善悪の判断が付かないという印象があるためだろう。放送コードに引っかからないように配慮しつつも「心神耗弱で無罪放免になってしまうのは好ましくない」という論調だった。視聴者が好みそうなことを言っているという自覚があるのだと思うのだが、視聴者はテレビが他人を罰するのを見たがっているという自覚があるのだろう。

ジャーナリズムの名前の元で「悪」を叩くということが横行しており、少しでも複雑な事情があり表立って叩けないと「商品価値がない」とばかりに次のセンセーショナルなニュースに飛びつくのである。

ネガティブな感情をネットにぶつけるとどうなるのか

Google Search Consoleで500エラーが増えた。対策は簡単だったのだが、これは情報が整理できたから言えることで、実際に問題が起きているときには「何がなんだか分からない」状態だった。

  • Google Search Consoleで500エラーが増えたら、サイトマップ・RSS・内部リンクを確認する。
  • 問題が発見できたら、問題を修正する。

今回は結局、内部リンク(グルーバルナビ)が原因だった。

マルチサイトで3つ運営しており、テンプレートもプラグインも共通の「はず」なのに、1つのサイトだけで問題が見られた。500エラーは大量にあるので「サイトマップ」が間違っているのだろうと「思い込んで」しまった。だが、いくら探してもデッドリンクは見つからない。

そこでGoogleのフォーラムとWordpressのフォーラムに問い合わせた。結果、Googleで不愉快な思いをしたのは過去のエントリーの通り。だが、Wordpressのフォーラムで問題は解決した。

もともと、www.xxx.com/2016/06/記事名/のようになっていたのだが、グローバルナビゲーションのトップに帰るリンクが単にindex.phpになっていたため、Googleがこれをwww.xxx.com/2016/06/記事名/index.phpと誤認したらしい。ここにアクセスするとWordpressが500エラーを起こすのだ。まあ、サイトを立ち上げるときにチェックしていれば防げた問題だ。

途中「500エラーを引き起こす原因があるとインデックスに不利だ」と考え、リンク形式をwww.xxx.com/?p=9999形式に変えた。だが、後でよく考えてみると、クロールエラーが出ているわけだから、ロボットはアクセスせず、従ってインデックスされているはずはない。だが、迷っているときには意外と基本的なところが分からなってしまうのだ。

ということで慌ててサイトマップを再送信したのだが、一件も登録されなかった。その後徐々に登録は進んだ。数日で1/3程度が登録された。しかし、古いインデックスは削除されない(Wordpressでは古い形式でアクセスするとトップページに戻る仕組みになっている)ので「内容は異なるがとりあえずアクセスできる」という状態になる)ために、ユーザーから見ると意図しない情報が表示される結果になる。

/?P=形式だと他のサイトにURLを貼りやすいので便利なのだが、結局もとの日本語URLに戻した方がよさそうだという結論になった。つまり、Wordpressではいったん情報が広まってしまうと、パーマリンクの設定を変えることは難しいようだ。

さて、問題に直面すると意外と視野狭窄に陥る。仮説に捉われてしまう訳だ。そこで外からの視線は大切だ。目が多ければ多いほど問題が解決しやすくなると言えるだろう。

実際にはネガティブな感情に捉われた人がいて憂さ晴らしのターゲットにされたりすることもあるのだが、それでも助力を求めるのは大切なことだと思った。今回当たったネガティブな人は「自分のせいでトラブルにあっているのに、人に助けを求めるとは……」という態度だった。普段から周囲に助けてもらえていないのかもしれない。そこで他人に「自己責任」を迫り、その環境が再生産されているのではないだろうか。

冷静に考えると助力を求めるべきとは思うが、問題が分からずにイライラしているところにネガティブな攻撃をぶつけられると、かなりストレスになるので、くれぐれも悩んだ人に出会ったら優しくしてあげたいものである。結局のところ、よいコミュニティを作れば、自分の問題解決も楽になる訳だし、ネガティブな感情ばかりぶつけていては、いざというときに助けを得られなくなるのだ。

政治を低級なバラエティ番組のような状況にしたのは誰か

自民党に質問というTwitterのハッシュタグを見ていた。内容はいわゆる「左派」と呼ばれる人たちがこれまで呟いていることとほとんど違いはなく、新しいアイディアや視点は発見できなかった。彼らは答えも分かっているようで、あえて質問する意味はなさそうなことばかりだ。例えば「憲法改正を争点にしないのはなぜか」と聞いているのだが、彼らが期待している答えは「国民に都合の悪いことを争点にしたくないからだ」というものだろう。だが、もちろん自民党がそんなことを答えるはずはない。

自民党・公明党政権は民意の合意がないままで諸政策を進めているので、積み残された民意(それは全国民の総意ではないのだろうが)は解消点のないまま渦巻いている。この鬱積した世論が噴出した形だ。

これを見ていて不思議だったのは、なぜ自民党が予め仕込みの質問をしなかったのかということだ。たいてい、最初の質問によって雰囲気が決まるわけだから、最初にアベノミクスを礼賛する質問をしていれば、いわゆる「アンチ」は寄り付かなかったはずである。それが山本一太議員の失態によるものか、Twitter社のキャンペーン・コンサルタントの不始末なのかは分からない。

いわゆるネトウヨの人たちは「くだらない」とは呟くものの、リスクを取ってその空気をはねのけようとまではしなかった。一番割りを食ったのは、本当に質問のあった人たちだろう。両親の介護サービスが削られているがなんとかしてほしいという質問が見られたが、このような切実な声はごく少数だ。政治が近いところにありそうで意外と誰も政治の恩恵や害を実感していないことが分かる。実際に政治の影響を受けている人たちは、それどころではないのだろうなとも思った。

いわゆる「ネット工作員」などという人たちは存在しないか無力な気もする。もしネット工作員がいるのなら、安倍政権礼賛のコメントで埋まっていたはずだ。ネット工作員の人たちが与えられているスクリプトが今回はうまく機能しなかったという可能性もある。または、空気を作って他人を叩くのは楽しいが、いったん「アンチ」の雰囲気ができてしまったことで工作員たちが萎縮してしまったのかもしれない。

ネット工作の役割は炎上を抑えることにある。左側のコメントに様々な手法で立ち向かい「火消し」してしまうのだ。いわゆる破壊工作である。普段は非常に有効な戦略だ。この破壊活動がないと舛添人民裁判のようなことが簡単に起ってしまうだろう。だが、彼らは安倍政権の政策について理解しているわけではないので、即興的な対応ができないのだろう。ましてや「質問の形を取って政権を礼賛する」などという高等なことはできないようだ。空気に反してまで立ち向かおうという姿勢もなさそうなので、いったん空気が変われば、簡単に駆逐されてしまうかもしれない。

このやり取りを見ていて、日本人は政治に興味がないのだろうなと思った。関心の対象になっているのは政治ではなく「部族の一員になって他部族を叩くこと」である。つまり、政治は一種の(それもかなり下等な類いの)エンターティンメントと化しているのだ。もっとも、エンターティンメントですらないのかもしれない。実情はいじめに近い。

この状況は自民党が作り出した物なので(多分、ネット工作などということを考えだしたのは自民党だ)同情するに値しない。しかしソーシャルメディアは「課題を発見し」「非顧客を発見する」のに向いたメディアだと考えると、宝の山から得られるはずの潜在的利益を毀損していることになる。生活に行き詰まっている人や、将来に不安を持っている人は多いだろうし、日本を成長させるアイディアを持っている人もいるはずなのだが、そういう人たちは不毛な「政治」議論から距離を置くことになるのだろう。

リステリンユーザーは食べることに大胆です

リステリンが不自然なコマーシャルを流している。それは「リステリンユーザーは食べることに大胆です」というものだ。日本語は主語を提示しないので、リステリンユーザーは大胆に食べるとこなしても不自然に聞こえる。多分「大胆に食べよう」くらいになるのでないだろうか。このキャンペーンは本国のものを輸入したらしい。翻訳したことで不自然さが生まれたのだろう。

「大胆に」と訳されているのは英語ではBoldだが、これは日本語でいう「ワイルドだろう?」に近いのではないかと思う。つまり「無茶な」というような意味である。アメリカでは若者はワイルドであることを求められているということになる。

そこで検索したところ、「大胆の研究」というビデオを見つけた。早口なのだが難しい言葉は使っていない。

https://www.youtube.com/watch?v=ZJsdda1t9fQ&feature=youtu.be

このビデオから分かるのはアメリカ人の問題解決指向だ。問題を解決するには科学的研究が必要だと宣言し、仮説(hypothesis)を立てている。そしてある程度のコンフィデンスレベルを満たした物を解決策とするわけだ。このビデオは多分パロディなのだが、それほど教育の中に定着している(あるいは蔓延している)考え方なのだと言えるだろう。

ただし、このビデオの「科学的研究」はかなりいい加減である。Studies show that studies show things (研究は研究した結果を示す)と言っているのだが、これは何も言っていないのに等しいし、95%のコンフィデンスレベルに対してMath (算数・数学)says that’s high!と言う。

アメリカ人は「科学的に割り切って、仮説をどんどん立てて、問題を解決してゆこう」と考える。だが、科学的なソリューションを好むから論理的というわけでもなさそうだ。

多分、日本のコマーシャルは「リステリンユーザーは大胆」という「疑似事実」や「仮説」の宣言そのものが不自然に感じられるのではないかと思う。日本人にとって「事実」には仮説は含まれないのだ。それよりも多分、大胆だと思われる芸能人を見せて、それと「同一化」させる方が日本人には好ましく感じられるのではないかと思う。両国の文化はかなり異なっており、直接持ち込むとちぐはぐな感じが残るのだ。

女はややこしいなあと思った話……

今回は、やや炎上含みのタイトルを付けてみた。最近「暴君と化す大衆」というテーマで考え事をする機会が多くなった。舛添人民裁判やトランプ候補のポピュリズムなど、素材には事欠かない。まだ考え途中なのだが、いくつか分かったことがある。

  • 人には誰にも「これは絶対に正しい」という領域(これを正義と言ったりする)がある。
  • そして人は正義を基準にして序列を作り上に立ちたがる。

「人がいかに正義を身につけるようになったか」という点がポイントだ。例えば若者が選挙に行かなくなったのは、自分たちが政治の主因こうであるという感覚を見いだせなくなったからだと思うのだが、ではなぜ中高年は疑いもせず自分たちの市民感覚が政治に反映されるべきだと考えるのかというような疑問が出てくる。

いずれにせよ、この2つが結びつくと、暴力としての大衆が表れるというわけだ。こうした図式は至る所に見られるのだが、特に注目しているのが「ご近所付き合い」である。簡単に正義と正義が対立しやすい上に逃げ場がない。また家という財産が絡むので後に引けなくなってしまうのだ。

さて、今回こんな体験をした。正義が形成される経路が分かり面白かった。

運営するサイトの1つで不可解な現象が起きている。Googleが不正なURLでアクセスしてくるのだ。不正なので500エラーが返っているようだ。気持ち悪いのでなんとかしたい。検索してみたもののこんな現象は起きていないようなのでGoogleのフォーラムに投稿してみた。

この手のフォーラムには「エキスパート」と呼ばれる人がいる。一般の投稿者のうちでフォーラムに貢献する人を「エキスパート」と呼んでいるのだ。その「エキスパート」の女性は、このような経験をしたことがないらしいのだが、日課として書き込みをしているらしく「〜ではないか」というようなアドバイスをくれた。

しかし、あまり的を得ているとは思えなかったので「そうではありませんでした」と書いた。すると次に来たのは「あなたは私の言っていることを理解していないようだが、あなたが言っているようなことは100%起こりえない」という返事が来た。怒っているようである。

内心「知らないなら黙っていればいいのに……」と思った。そこで「だから女はなあ」と思ったのだ。女性の上役や部下などにありがちな態度だなあと感じた。

その後トラブルはWordpressのフォーラムで解決した。グランドナビゲーションに間違いがあり、そこからクロールしていたらしい。RSSやサイトマップではなかった。「Wordpressで解決しました」と書き込んだところ、Googleの掲示板では次のような書き込みがあった。相当怒っているらしい。これはそのまま残っている。

低級なバグなのに人を否定する偉そうな態度が取れた物だなと感動する。低級な知識しかないようだから他人に対する物言いを改めよ。

それでも収まらなかったらしく、リンクをたどりWordpressのフォーラムにやってきて「この人は理解力がない低級な書き込みをしている」と書き込んでいた。Wordpress側の世話人は「ここはWordpressの問題を書き込む場所だ」といって発言を削除した。

政治的な発言を書き込むブログではかなり注意して発言しているのだが、技術的な内容なので油断していたという反省点はある。しかし、実際に燃え上がるのはこういう些細なやり取りなのだなあと思った。そう考えると、政治的な「炎上案件」も、人工的に作られている物は除いて、実際には「俺のいうことを否定された」「善意でやっているのに言うことを聞かなかった」などの些細なことが発端になっている可能性が高いのではないだろうか。

日本人には悪い癖がある。何か問題があると過去の経験に基づいた「解決策」を提示する。そこで未知の問題にぶつかると、それを例外としてなかったことにしたがるのだ。なぜそのように思うのかは分からないが、多分「自分の管轄するドメインの平和が乱された」という気分になるのではないだろうか。

例えば組み体操の例で考えてみよう。組体操では事故が起きる。最初先生は「お前の鍛錬が足りないからだ」と「親切心で」アドバイスしてくる。だが、組体操には根本的な問題があり生徒の鍛錬だけでは事故は防げない。最悪、死亡事故や障害が残るケースもあるのだが、すると今度はそれを「運が悪かった」と例外扱いしたがるのだ。曰く「この生徒には才能がなかった」とか「やりたくないなら見学すればいい」というような具合である。

本当はその人が組体操界を背負って経っている訳ではないはずなのだが、ついその気になってしまうのだろう。組体操についてよく知っているという自負があり、問題が解決できないと、人格が否定されたと考えてしまうのではないかと思う。

実際に組体操の本家である日本体育大学は「現在学校で行われている組体操は危険だ」と言っている。つまり、背負って立っていると考えているものは間違いである可能性が高い。だが、それでも「人よりも高く」するのがやめられない。専門家として振る舞ってきたペルソナを捨てられないのだ。

このような倒錯した正義感は至る所で見られる。Yahoo!知恵袋などでは日常的に見られる光景である。「知識がある」方が偉いのであり「偉くない人が言うことを聞くべきだ」という図式が生まれる。「知識」を使って人を脅す書き込みも少なくない。世の中は不快な出来事に満ちているのに、なぜか不快を再生産し続けるのだ。

問題解決ができないと「お前が悪い」「そんな問題は存在せずに自己責任だ」ということになる。「自己責任」という言葉の裏には「私には解決できない」という気持ちが見え隠れしているると思った方がいい。「保育所が見つからない。お母さんの自己責任だ」というのは「私には解決策が思い浮かばないから、なかったことにしろ」というのとだいたい同じ意味である。問題を解決したい人は、まず「その問題が存在すること」を証明させられることになり、そこで疲弊してしまう。

問題を解決したい場合、まず「問題」と「人格」を分けて考える必要がある。最近アドラー心理学が流行しているようだが、課題の分離をすることで問題解決がしやすくなるし、感情的な議論は少なくなるだろう。

さて、ここまで書いてきていよいよ「だから、女は」の部分だ。女を差別するのかと言われそうだが、実際に差別している。ではこの差別はどこから生まれるのだろうか。男性は総合職化するにつれて「課題と人格を分離」することを学ぶ。専門知識だけでは課題が解決できなくなるし、全く専門が異なる人たちの相手もしなければならないからである。総合職にならない人は「使われる側」なので、そもそも相手を仕切れる人なのだという望みは持たない。

だが、女性は違う。女性は専門職のエキスパートとして過ごすことが多い。そのうちに専門知識の多寡がその人の評価につながることになる。さらに悪いことに男性管理職は「細かいことが分からない」ので、細かいことを職人である女性に任せることになる。さらに「先生や親の言うことを聞くのが良い子」という教育もあるので、専門知識の「お城」ができてしまうのだ。場合によっては「私らしい感性」が持ち味になることもあり、さらに人格と課題の癒着が進む。

こういう女性は自分の経験が通用する限りにおいては「実に面倒見がよい」可能性が高い。しかし、いったん限界に達すると「問題それをなかったこと」にしたがる。「私のいうことを聞けなければ知りませんよ」となるのだ。

これは「気質」によるものではないと思う。例えば経営学を勉強しに来ている女性は課題と人格の分離ができていたように思える。多分、分離しないと課題がこなせないからだろう。ある種の差別があり、それが「だから、女は」という評価を再生産してしまうのだと思う。

こうした、私のいうこと聞きなさい的な「正義」は至る所に蔓延しており、問題の解決を難しくしている。

いずれにせよ、余計な感情的な軋轢を防ぐのは意外と簡単かもしれない。単に目の前にある共通の「課題に注目」すればよいのである。

 

パーソナルギフト – 祝祭化する日常

「ギフト市場が変わりつつある」のだそうだ。お中元やお歳暮などの「建前」ギフトが廃れ、家族やお友達に贈り物をするのが流行しているのだという。ある調べによると、17兆円のギフト市場のうち8.6兆円がパーソナルギフトに使われている。2000年と2009年を比較すると154%という成長率なのだそうだ。一方で、法人の儀礼的な贈り物や、上司や部下へのお中元やお歳暮なども廃れつつある。

これをマーケティング的な立場から肯定的に捉えることはできる。パーソナルギフトは、現代的な顕示的消費の一種だ。家族への贈り物は「すてきな私とすてきな私を取り囲むすてきな人たち」というCMから抜け出たような幸せな関係を確かめ合う絶好のイベントだといえる。これは「本音で私らしさを表現できる絶好の機会」なのだ。

こうした「あるべき幸せ像」というのは昔から見られる。日曜日には私鉄に乗って渋谷にお出かけして、祝祭的な空間を楽しむというパルコ風の絵柄だ。仲良し母娘の進化した形が、パーソナルギフトなのではないだろうか。

このパーソナルギフトは、母と娘の親密な関係が基礎になっているものと思われる。だが、それだけでは父親に対して「不公平」なので、父の日もイベント化する。妻の実家に対してだけ贈り物をするのは「不平等」なので、夫の実家にも贈り物をするようになる。それをソーシャルメディアで見せびらかすのが、現代の幸せの形なのだろう。

いっけんよさそうなパーソナルギフトだが、本当にそれでよいのかという気持ちにもなる。CMに出てくる家庭はサザエさん一家のようなものだ。絶対に年を取らないし、病気になることもない。現実の家庭から「幸せな部分」だけを切り取ったのが「ありのままの私たち」なのである。

ところが現実はサザエさん一家のようではない。女性には濃密すぎる母親との関係に疲れている人が少なくない。例えば『家族という病』などという本もあるし「重すぎる母親」というワードで検索すれば、複数の本が出てくる。自己の考える幸せ像というのは意外と偏狭なものであって、それに沿わない家族は「重すぎるお荷物」扱いになってしまうのだ。仲良くなりたいのにネガティブな感情をぶつけられて疲れてしまう人が多いということだろう。

妻は「義理」で夫の家に付け届けしているに過ぎないのだが、マーケターはこれを「本音だ」と見なす。だが、妻たちは「夫の家で見ず知らずの親戚と一緒の墓に入りたくない」と考えているし、病気などの「辛い現実」は見たくない。それは「私らしさ」とは関係がないからだ。

例えば法事のような行事では「私らしさ」は発揮できない。それらは堅苦しく儀礼的なものと考えられ忌避される。私たちがどこから来てどこに行くのかという問題が見過ごされてしまうことになる。

実際には家族には不都合な現実がいくつもあって、それを受け入れてゆかなければならない。家族関係が祝祭化するということは、それだけ現実を見ていないということの裏返しでもある。

この状況の一番困難な点は何だろうかと考えた。人生には陰影がありそれが「私らしさ」を作り出している。そこから良いところだけを切り取りインスタグラムにアップし、悪いところをクローゼットに隠しても「本当の私」にはならないのだ。それを見て他人の家庭をうらやましく思い、自分の影の部分をさらに隠すという悪循環にはまる人もいるだろう。

マーケティングで作られた「私らしいステキな生活」は、人々に重荷を背負わせかねないのである。

安倍首相が嘘をついても誰も気にしないのはなぜなのだろうか

松田公太さんという参議院議員が怒っている。文章を読んでもよく事情が分からないのだが、原発政策に反対していた同僚議員が、そのサブセットである核燃料サイクルスキームを維持する法律に賛成していて「支離滅裂だ」というのだ。

この主張は普通の日本人にはなぜか奇異に見えるはずだ。では何が奇異なのかと考えてみてもよく分からない。いろいろ考えを巡らせると、日本人の「はい」の使い方と英語の「Yes」の使い方の違いという点に行き着いた。

「あなたは学生ではありませんか」と聞かれると、日本人は「はい、私は学生ではありません」と答える。当たり前だ。あなたの言うことが「正しいか」ということが問題なのであって、私が学生かという事実はその次になる。ところが英語では「私が学生かどうか」という点に焦点があるので「いいえ、私は学生ではありません」となる。単に事実が問題になっているからであり、それ以上の意味はない。

しかしこれを日本人が聞くと「私が否定された」と感じる。「お前は間違っている」と言われたように思うのだ。実際にこれで立腹する人が出てくる。

英語話者は「事実」を中心にコミュニケーションを組み立てているのに対して、日本語話者は「あなたが正しいかどうか」という関係性を中心にコミュニケーションを組み立てていることになる。松田氏が怒っているのはそこだ。多分、対象物を見ているのっだろう。ところが同僚議員は「どのように対応すれば、ノーと言わずにすむか」ということを基準に意思決定している。これがお互いに「デタラメ」に見えるのだろう。

安倍首相は有権者や支持者たちに「ノー」を言わない。有権者や企業が税金が払いたくないと言えば「そうですよね」と言い、財務官僚が財政規律が大変だと言うと「そうですよね」と言う。そこで全体の論理が破綻し、立腹する人が出てくる。だがそれは「敵」なので言うことを聞く必要はない。頂点がそうなのだからフォロワーである議員たちの言っていることもめまぐるしく変わる。その場に応じて都合のよい「事実」をパッチワーク的に当てはめてゆく。

英語でいうアカウンタビリティ(日本語では説明責任と呼ばれる)という言葉が日本で成り立たないのは、そもそも説明する事実が存在しないからである。あるのは関係性だけなのだ。

厄介なのはそれに反対している人も状況に応じて「ノー」を言っているだけということだ。消費税増税に賛成だった民進党が「増税延期せよ」と言い出すのは、それは敵対者が「増税を実行する」と言っていたからであり、それ以上の意味はない。つまり両者は全く違うようで、実は車の両輪なのだ。関係が変われば「何がイエスか」も違ってきてしまうのである。

両陣営はお互いに「整合性がない」と罵り合っているが、それはお互いの文脈から外れているからだ。

では、日本にいる人たちは全て「関係性重視」のコミュニケーションを目指すべきなのだろうか。それはそうとは言い切れない。二つの明らかなデメリットがある。

一つ目のデメリットは状況をフォローしていないと、何が賛成すべきで何に反対すべきかが分からなくなってしまう。松田さんの文章では、なぜ野党側が今回の法案に「反対しなかったのか」がよく分からない。透明性がなくなり多様な意見が受け入れられなくなる。それはつまり解決策が限られるということになる。

明らかに間違った進路を進んでいる場合にお互いを忖度して進路を変えなければどうなるだろうか。最終的には崖にぶつかるか、海に落ちてしまうだろう。このような態度は「グループシンキング」の状況を生み出しやすい。いわゆる「集団無責任体制」という奴である。日本の歴史で一番顕著なグループシンキングは大量の餓死者と都市空爆を許した第二次世界大戦である。

ここから我々は何かを学ぶことができるだろうか。それはもし問題解決したければ「コンテクストベース」の議論をやめて「事実ベースの議論」に集中すべきだということになる。つまり、人格と事象を切り離して考えるべきなのだ。コンテクストベースの現場で状況を変えるのは不可能に近いし、残念ながら日本人は訓練や強い危機感なしに事実ベースの議論ができない。

次善の策は何もしないで、帰結を受け入れることだ。日本人の最大の防御策は意見の対立があり、状況が膠着することだ。意思決定や変更ができないのだから、動かないことが最大の防衛策なのだ。状況が破綻するのは「強いリーダーシップ」とやらを発揮して無理に動いてしまった時だろう。

経済学者も政治家も問題を解決するつもりはないらしい

先日来「言葉の使い方」が妙に気になっている。いつもの通り安倍首相のおかげだ。安倍首相は常々「リーマンショック級」という言葉を使っていた。リーマンショックとは金融機関の信用機能が毀損され、経済が疑心暗鬼に落ちいた上で、大規模なリセッションが起きたという事例だ。にも関わらず安倍首相はこれを「景気悪化」と単純化した上で、G7の首脳にプレゼンしてしまった。これに加担したのは外務省なのではないかと言われ始めているらしい。経済の専門家ではなさそうだ。炎上しはじめると一転して「自分はそんなことは言っていない(官僚が勝手にやった)」と申し開きをした。

これは問題だ。問題を解決したり意思決定しようと思えば現状を分析する必要がある。しかし、安倍首相の頭の中には選挙のことしかなく、外務省は滞りなくG7を進行したかった。どちらも経済の問題を解決するつもりがなかったわけである。

だが、政治家たちは「リーマンショック級か」ということをしきりに議論している。物事の定義などどうでもよいらしい。すなわち、政治家たちにはそもそも問題を解決しようというつもりはないということになる。彼らは状況を利用することで頭がいっぱいなのだろう。

気になり始めると他の事例も気になる。別の議員は「日本の問題は供給サイドの問題に集約できる」と言っている。ただ、その中身を見ると「労働慣行」や「企業の構造的な問題」を意味しているらしい。もともとケインズの「需要サイド」という問題の建て方があり、それに対抗する形で供給サイドという言葉がうまれたということである。それぞれの考え方から処方箋のようなものが作られ、それを需要サイドの経済学とか供給サイドの経済学と呼んでいたのだろう。

どうやら政治家たちはそれぞれの処方箋を丸暗記しており、理屈をつけるためにこれは「供給サイドの問題だ」などと言っているらしい。Wikipediaを丸ごとコピペしたのだが、ソリューションは次の通り。減税して小さな政府を目指すということらしい。市場経済の調整メカニズム(つまり供給メカニズム)を政府が阻害していると考えるようだ。つまり供給サイドの制約要件は政府と社会主義的な政策なのだ。

  • 民間投資を活性化させるような企業減税
  • 貯蓄を増加させ民間投資を活性化させるような家計減税
  • 民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和
  • 財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化

しかし、消費者=生産者でもあるので、需要サイドとか供給サイドという言い方はなじまない。にも関わらずこういう言い方が通用するというのは、すなわち誰も問題を解決するつもりがなく、従って現状を分析する意欲がないということである。社会主義的な政策に反対しているのである。面白いのはその政治家が所属する政党は民共共闘を唄い、一般的には左派政党だと認識されているということだ。

別の経済評論家はもっと悲惨だ。アベノミクスは成功しつつあると主張している。労働人口が伸びているというグラフを出してどや顔である。実際には非正規雇用が増えており、給与総額は減っている。それを指摘されると今度は「経済が分からないやつは、そのうち正規雇用転換が始まるという経済の基本が分かっていないのだ」と言う。もちろん、過去にそのような事例もあったのだろうが、理論には前提条件があるはずだ。だが、それは無視する。

日本の場合は終身雇用を支えきれなくなっており、これが非正規雇用への転換を促進しているものと(少なくとも直感的には)予想される。社会保障の費用分担が正規と非正規で違っている点がこれを後押ししているのではないかと考えられる。この構造転換は社会保障システムの破綻を予想させるのだが、政権をたたえてその日の生活を支える必要がある人には、10年後のことなどどうでもよいのだろう。

感じるのはドメスティックな教育とグローバルな教育の違いだ。少なくともアメリカ式の教育に触れている人は、予断なく状況を分析して、プロセスを明確にした上で、結論を出して、人に説明すべきと考えているように思える。ところが、ドメスティックな教育しか経験していない人たちは、こうした手続きをすべて「効率が悪く無駄だ」と考えるようだ。それは東大を出ていても、成蹊大学レベルでも同じらしい。

いずれにせよ、誰も「用語の定義をちゃんとしよう」とか「前提条件を明確にしよう」などと言い出す人はいない。自分の思い込みで情報発信し、好き勝手に論評している。首相のようなエライ人、新聞社、経済学者、一般庶民に至るまで、それでもなんとなく議論めいたものが進行してゆくのである。