個人が炎上したら……

先日来「一般人同士が議論することは難しい」ということについて考えている。これについて考えるようになったにはあるTwitterの@ツイートがきっかけだ。どうやら「言葉の使い方が間違っている」という指摘をされた人が逆上し、ことあるごとに指摘した人につっかかるようになったということらしい。その突っかかり方は尋常ではなく、2ちゃんねる(もしくはそれに似た掲示板)では職業が特定された上で「障碍者枠で採用された知的障害者」ということになっていた。攻撃されたTwitterアカウントは実名で、攻撃した人のアカウントは凍結されていた。

Twitterで他人と話すときには街で話すのと同じようにしたほうがよいとは思う。街で通りすがりの人に「あなた間違っている」というようなことは言わない。かといって通りすがりの人と会話を交わしていると仲良くなったりもするわけだから、そうやって関係をつめてゆくのがよさそうだ。

しかし、だからといって炎上が防げるわけではない。その2ちゃんねるはもともと反政府系の主張をする人をこき下ろす場だったのだが、それが拡大して対象になった有名人に絡んだ人たちを巻き込んでいったらしい。2ちゃんねるは一般に認知されるわけではない。吹きだまり化が進展し、発言がどんどん過激になり、最終的には妄想に似た決めつけになっている。こうした書き込みでは社会的報酬は得られないので、書き込みがどんどんと過激化するのだろう。多分社会的報酬が得られないことにも腹を立てているのではないか。

一般人が「住所や職業などを特定される」と生活の脅威を感じかねない。刑事事件として取り上げてもらうようにスクリーンショットを取って警察に訴えるという手があるらしいのだが、警察は特定の要件が整わないと取り合ってくれないそうだ。例えば「あいつは殺人犯だ」とか「あいつを殺してやる」などといった書き込みであれば警察は動くが「女とみれば見境なしだ」などといった程度では事件化できないのだという。親告罪なので告訴する意思が必要である。

警察が取り上げてくれないと民事事件にして弁護士に頼むという手があるようなのだ。これには数十万円の費用がかかる。いくつか弁護士事務所のページを見つけたので、お金を払ってでもやめさせたいという人が多いのかもしれない。それだけ中傷が多いということである。有名人や企業の場合、書き込みは商品価値に直結するので、お金を出してでもやめさせるということになる。ただしIPの開示請求に応じる必要はなく、技術的には「ログが削除された」と言われればそこでストップだ。

となると「悪口を言われる実害は何だろうか」と考えるのが一つの手かもしれない。2ちゃんねるは社会的な影響力のない中高年の集まりなので、実害は少ない物と思われる。言葉は過激かもしれないが、行動に出る人は少ないのだ。ただし、その書き込みをみて誰かが襲撃をかけてきたり、あるいは悪い風評で経済的な実害が出れば、それは犯罪行為ということになる。それまでは放置するべきなのかもしれない。逆に普段から「書き込みを監視すべきだ」という意見を持ちたくなるが、却って政府の監視が強まる結果になるだろう。

最近では大分県で野党系の事務所の敷地に無断で監視カメラを設置したとして警察官が書類送検された。大分は民進党や社民党が強い地域なので、警察が暴走したものと思われる。多分、ネットの監視ができるようになれば違法なアクセスは増えるのではないだろうか。

2ちゃんねる(あるいはそれに類する掲示板)に書き込んでいるのは、多分40歳代から50歳代の人たちだろう。中身の傾向を分析しようかなあと思った。一応データマイニングみたいなことはできるわけだが、読んでいてあまりにも気分が悪くなったので途中までしか読めなかった。普段の生活で理路整然と考える習慣がないまま大人になるとこんなにもグロテスクな思想を溜め込むのかという意味ではかなりの驚きがある。

少なくとも高校の過程で、自分の考えを短い文章で述べさせるという教育をしたほうがよいと思う。現在は体制側がこうした人たちを抱き込んでいるのだが、多分過激思想にも簡単にはまってしまうだろう。まさか「国語教育は国の安全保障に直結する」などという結論に至るとは思っていなかった。

小池都知事の帯の位置

今回は保守とはなにかについて考えたい。今回はかなり差別的な発言が並ぶ。

小池都知事がリオオリンピックの閉会式に登場した。これを見ていて「女性が大股で旗を振りかざすのはおかしい」と思った。あと思ったのは「あの着物濡れたら高そうだな」というのと「帯の位置がヘン」というものだった。

「帯の位置が変だ」というのに理屈はない。多分、地方の法事かなにかに出かけてゆけば「あなたおかしいわよ」と言われそうな感じだが、なぜおかしいのかという理由は「昔からそう決まっているから」しかない。男性でもやせていると「着物が似合わなくて可哀想だなあ」と思う。これも理屈はない。ある程度大人になると恰幅がよくなる(単に太るということだが)のがスタンダードだと見なされているというのが唯一の理由だろう。スタイルを保っている人が着物を着ると差別されるのだ。

同じようなことはいろいろとある。最近「天皇を楽にしてあげたい」という人が増殖した。いわゆる「保守」を名乗る人たちだが、NHKのアナウンサー(か、解説員)が同じようなことを言っていて唖然とした。目上に「〜してあげてたい」などとは言わない。言葉が適切でないというわけではなく、そもそも「目下が目上に何かしてやれる」と考える時点で不遜なのだ。

本来「保守的」というのはこのくらい融通が利かない。さらに厄介なことにクラス意識が背景がある。着物を見慣れているとか、階級意識の中で生活するというのは、自分のクラスを肯定的に捉えていて、そうでない人を見下す態度なのだ。生まれ育ちは変えられないからである。同じように「日本語がへん」な人を見下したりするのも同じようなことだ。

しかしながら、園差敬語を知らない人が表立ってその間違いを指摘されることはない。心の中で「あの人の言葉は変だから、生まれが粗野なのだろう」と思う訳だ。同じように「小池百合子都知事が女なのに旗を踏ん張ってみっともない」などとは表立っては言わない。それは「男性」の特権を振りかざす行為だと考えられているからである。だが、厳然として「表に経つような仕事は男の物なのだ」という意識はある。生まれも性別も変えられないのだから、これは差別意識である。しかし、自分の属性や出自を誇るということは裏返しの差別感情を抱えているものなのだ。

少し本題から離れて「差別は何故いけないのか」ということを考えてみたい。一つの経験は海外での生活だ。英語ができない人や非白人に対する差別というものは厳然として存在する。厄介なことに教育やスキルのような能力と関連するので、その差別意識は根深い。こういう「自分の力ではどうしようもない」ことを体験すると、人にされて嫌なことはやめようという気になる。日本でヘイトスピーチがなくならないのは、当事者たちが外にでて差別を体感しないからだろうと思う。

また、日本人男性は「女性を蔑視して従わせる」というようなステレオタイプがあるので、ことさらその種類の発言には気を使うことになる。インドのようなアレンジメント・マリッジ(見合いのこと)があり、渋谷でジョシコーセイを買うのが日本人男性だと思われている。SAYURIという映画では忍従するゲイシャ・ガールの女性を中国人のチャン・ツィイーが演じた。日本人は女性を寒村から買ってくる人身売買が行われているとい考えられている。これはアメリカで白人が「レイシスト」でないとことさらに強調するのと同じ緊張を与える。

最後の要素は自分が差別されかねない状態に陥ったときに生じる感情だ。その境遇を認められないのは他人ではなく自分自身なのだが、意外と自分が苦しむのだ。逆に一生安泰なのは、何もしなかった人だけだが、それでも人は老いて行く訳で、いずれは何らかの差別意識に遭遇することになる。一番ひどい経験は、銀行などで老眼鏡をお願いしただけで「鼻で笑われる」ということだ。多分老眼鏡というのは70歳以上の人がかけるものという意識があるのだと思う。意外と誰でも経験することなのだ。

さて、いわゆる「ネトウヨ」とそれに連なる人たちを見ていると、伝統から切り離されている感じがある。過激なイスラム原理主義の人たちがヨーロッパに多いのは、彼らが本来の伝統から切り離されているからである。本来の保守は差別的だが、ラディカルな思想を排除するメカニズムがある。いわゆる「原理主義」というのは伝統から切り離されたところで生じる暴走なので、差別的な意識が役に立つのだ。本来の伝統から切り離されている「くせ」に弱者を差別して保守を気取る人に「お前は何も知らないだろう」と攻撃するのにも一定の機能はあるかもしれないと思う。

逆に保守を気取る人たちは「自分たちが伝統から切り離されて見当違いなことを言っている」可能性を考えた方がよいとは思うのだが、それに気がつかないからこそ、あのようにラディカルなことが言えるのかなとも思える。

本来保守思想というのは分かりにくいものだ。同じコンテクストを共有した人以上に広がらないからである。現在「保守」とか「ネトウヨ」と呼ばれる人が増えているのは、その大元にいる安倍首相を支える「右翼雑誌系右翼」が劣化したからだろう。劣化したおかげで却って大衆が「ああ、分かる」というようところにおりて来たからではないだろうか。保守が持っていた「階層を保存する」という要素が抜けて、その差別意識だけが生き残ったのかもしれない。

例えて言えば「武士」がなくなったら、農民が刀の代わりに竹刀を振りかざして弱い人たちをいじめはじめたみたいな図式が見える。

東浩紀さんの思い出と日本の言論界

さきほどのエントリーで「日本人が発言すること」について考えた。一般人は発言するべきではないという認識があり、意思決定に関わる発言は特権と考えられるのではないかというのが結論だ。しかし、日本が脱開発途上国化する上で、一般人が自分の意見を形成するのは大切だと思う。モデルのない先進世界には正解はなく、模索が必要とされるからだ。しかし、意見形成するために考えをまとめるのはなかなか難しい。

これについて考えていて東浩紀さんの名前を思い出した。過去に投瓶通信という記事を書いたことがあるのだが、Twitterでご本人から「くだらない」という呟きを頂いた。それにつれてページビューが伸びた。たくさんのフォロワーがいるのだろう。なぜくだらないと言われたのかはよくわからない。

「投瓶通信」は浅田彰さんというバブル期に流行った方について述べている。浅田さんと言えば、学生時代に流行した(多分ちょっと前に流行していた)「ニューアカ」の騎手だが、全く読んだことはなかった。その界隈の人たちを怒らせる内容を含んでいるのかもしれないが、読んだことがないのでよく分からない。ただ、大人になっても「デリダ」や「吉本隆明」などを引き合いに出す人は結構いたので、当時流行っていたのは間違いないだろう。

東さんの呟きにはいっさい理由付けがなかった。ただ「素人は黙っていろ」という上からの呟きだった。当時Twitterは今ほど流行っていなかったので、多分ソーシャルメディアでシロウトがうかうかと論評するというのが耐えられなかったのではないかと思った。論評というのは限られた人たちができる特権だという意識は一般庶民だけではなく言論人の間にもあるのだろうと思う。

言論マスターにならないと意見を発表できないのだが、他人の目に触れないで、なぜマスターになれるのだろうか。よく分からない。

日本の言論界は長い間意思決定からは排除されていた。意思決定は言論ではなく複雑なグループダイナミズムで決められ、「そのコンテクストにいる」ということが重要だったからだ。そこで言論界は「プロレス」的な状況に活路を見いだした。

子供の時代に北杜夫、遠藤周作、筒井康隆などを読んだが、そこには文壇バー(銀座にあるらしい)の様子が書かれている。「野坂昭如が暴れている場所」みたいな感じだ。私小説を脱却した日本の出版界では、文壇バーで夜な夜な作家同士が殴り合うことでコンテンツを作っていた。野坂昭如がテレビカメラの前で大島渚監督を殴る(あるいは逆だったかもしれない)というのがニュースになったりした。

北杜夫のように躁鬱病を煩っている人がその様子を面白おかしく書いたりする読み物もあった。最近相模原で障害者施設が教われる事件があったが、政治家に手紙を書いて主張を伝えたりするのは北杜夫の本を読んでいるようだった。あれで「ピンと来た」人も多かったのではないかと思う。後の分析で津久井の容疑者も「双極性障害なのではないか」という見立てをする人が表れたりしている。北杜夫はマンボウ・マブゼ共和国を設立し、借金して家族を困らせていた。そのように日常生活に収まらない騒ぎを起こすことが作家として重要な資質だと思われていたわけである。

これをテレビ的に仕立てたのが田原総一郎だ。言論空間で殴り合いをやらせたのが「朝まで生テレビ!」である。この後の世代に「ケンカをしかけて見せる」行為が言論なのだという印象を与えることになったのではないかと思う。

ショーマンはけんかしてなんぼという姿勢は今でも残っている。SMAPは解散騒動についてケンカしろという人がいるが、これも「言葉は嘘をつけるがケンカには嘘がない」という認識があるからだろう。ただし、ケンカは感情を発散させる効果はあるが、問題解決には役に立たない。

「朝まで生テレビ!」が残した悪いレガシーは、言論が合意を形成し、問題解決のためには時には妥協するという文化を阻害した点にあると思う。ここから出て来た政治家が「TVタックル」などで自民党を叩いたことが民主党躍進の原動力になった。「コンクリートから人へ」というスローガンが破綻することは最初から分かっていた。藤井元財務大臣が「財源が出なければ謝れば良い」と言っていたことからも明らかだろう。

「相手をなぐって聴衆の耳目を集める」というのは日本の言論界の習い性になっていると考えないと東さんが全く無名である人のブログに背景についての説明を省いたまま「くだらない」などというコメントを寄せる理由が分からない。

前回のエントリーでは「先生と生徒型」の言論空間ができると、生徒に属する人たちが意見表明ができず、合意形成が成り立たないという予測を立てた。これが人民裁判的な状況を生み出している。まとまった意見が形成できないから、さらに乱暴な形で発散されるのだ。さらに「一般人は黙っておけ」という圧力が働くことも予想される。「仕事でくたくたになって帰ってきた人が、堂々と意見を述べる他人」を疎ましく思うという姿勢だ。

一方でそのような空気を抜け出した人の中にも特権意識があったようだ。Twitterが普及した現在ではこういう特権意識はなくなったように見えるが「プロによる論評のみを載せた」とか「識者だけを集めた」というネット言論空間が生きている。なんとなく、江戸時代の水利関係や共有地を巡る論争が未だに生きているのではないかと感じられる。しかし、よく見てみると紙媒体やテレビから排除された人だったり、政治の意思決定から離脱した人だったりする。なかなか屈折した思いがあるのかもしれない。そういう人たちは「上」を叩きつつ、後続が出ないように「下」も排除するのだ。

 

なぜオタクはTwitterでドヤ顔をするのか

2016/10/14: 記事全体を削除しろという要請がありましたが、引用していたTweetのみを削除して全体を遂行しなおしました。


今日の問題はこのツイートから考えたい。

オタクはどうして毎日ツイッターしてるだけの自分の意見が正しいと思えるのだろうか。

このツイートには面白い問題がいくつも隠れていると思う。

日本人は「普通の人」は意見をいうべきではないと考えている。例えば、生徒は教師のいうことを黙って聞くべきだ。

次に意見表明に「正しい」という言葉が使われている。英語でRightという言葉を多用すると、皮肉まじりの反応が返ってくることがある。多様性が前提にあるので「何が正しいか」は受け手が最終的に判断するという意識が強いからではないかと思われる。だが、日本ではそもそも何かを言うということは特権であり言われたことは拝聴しなければならないという強い意識が働く。つまり発言権があるということは正解を決める権利があるということと同じ意味なのだ。

するとこのツイートが持っている意識が分析できる。ピア(同僚)か目下(このツイートでは毎日ツイッターしているだけのヒマなおたくという言葉が使われている)が意見表明するなどということはあってはならないという意識があるのではないだろうか。

なぜ、それはあってはならないことなのだろうか。例えば、表明された意見が空気のように場を支配するからという仮説は立てられる。だから誰かが何かをいうのを牽制しなければならないという意識が働くのかもしれない。

居酒屋談義には「物を言わない」階層の人たちが集まる。上司の愚痴を言っても「プレゼンして社長に掛け合おう」というような結論にはならない。毎日集まって「他のメンバーがなにも言わない」ように監視し合っているという見方もできる。意見表明せずに相手を探りながら空気を醸成しようとするところに要点があるのかもしれない。リーダーシップは重荷なので、半匿名で発言するのだ。

なぜ日本人が「リーダーシップ」を嫌うのか。「決める政治家」には必ずアンチが現れる。安倍晋三、橋下徹、舛添要一郎などが思い浮かぶ。一方強いリーダーに見えても利権を調整しているだけの石原元都知事はそれほど嫌われなかった。そしてアンチの考える「責任」は「視界からいなくなる」ことを指している。日本人は巧みに個人による意思決定を避けているのだ。

一方で、最初のツイートの「普段の仕事に埋没すべきで、意見表明はするな」というのは、明らかな同調圧力だ。意見表明と意思決定は特権のある人たちだけの特別な行為であり、市井の人間は黙っ手だけ動かすべきという意識がありそうだ。だが、それはピアだけでなくリーダーにも及ぶ。そもそも特権的なリーダーは許容されないのかもしれない。

相手に意見を伝えて尊重されたいというのは間違った感情ではないが、自分がまとまった考えを主張できないからといって相手の口を封じるのは間違っている。先日ツイッターで野口悠紀雄が口述筆記を紹介していた。歩いているときにスマホに話かけると文章になって残るという技術があるそうだ。自分の考えをまとめて伝えることができるようになれば、とにかく相手の口を封じてやろうという風潮はなくなるのかもしれない。

ここで「日本人」という言葉が多用されているので反発心を持った人もいるかもしれないが、「先生が一人でしゃべる」という方式はアメリカでは見られない。もちろん教壇は尊重されるのだが、ディスカッション形式の授業も多い。他の国はどうかはわからないが、蓮舫氏を見ていると中華圏でも自分の主張をはっきり伝えるという教育が浸透しているのではないかと思える。学校は一貫して青山学院なのだそうだが、台湾のエリート層には意見形成の教育があるのかもしれない。

先生が一括して教えるというやり方には「正解を効率よく教えることができる」という捨てがたいメリットがある。かつての寺子屋には職業別の手習い本がありその職業に必要な知識と漢字だけを教わるというシステムがあったそうである。このために江戸時代の識字率は高かったそうだ。

日本は世界に類を見ない高齢化社会になったのだから「正解はない」ということ自覚して、社会全体で正解を探る方法を学ぶのはとても重要なのではないだろうか。

PCデポ問題 – 隠れた焦点

PCデポの件は大炎上している。株価が下げ止まらないようで、数百億円が吹き飛んだという話を読んだ。さて、この件に関しての経緯を読んだのだが、ちょっと衝撃を受けたことがあった。騙されたという父親は実は認知症だったようだ。

この件について語る人は少ない。認知症は関わると面倒だと思われているのだろう。多分、テレビでも話題に上らないのではないだろうか。

しかし、この件はかなり深刻な問題を抱えていると思う。この経緯から分かるのは認知症になってもPCデポに出かけて行きパソコンを使うための契約ができてしまうということだ。つまり、行動力は衰えないということなのだ。

PCデポの件が「人民裁判」によってのみ裁かれてしまうと、認知症が疑われる人には物を売るなということになりかねない。高齢者と契約するときに「あなたの精神が正常かどうかを証明してくれ」というような話になりかねないのだ。PCデポはこれから「70歳以上は相手にするな」ということになるだろう。無料解約に応じなければならなくなるからである。企業文化からして「丁寧に対応しろ」ということにはならないように思える。

認知症だという診断は得られるが、そうでないという診断をしてくれる病院はない。しかし、下手に認知症の人に物を売ってしまうと、契約が無効になるばかりか、株価に重大な影響がでかねないとなると「コンプライアンス」の名前のもとに極端な商慣習が広がりかねない。これは高齢者の人権を著しく侵害するだろう。

一方で、家族は二十四時間認知症患者を見ておけないのも事実だ。その間も出かけていって何らかの契約を結びかねない。どうやら、認知症程度であっても、本人が結んだ契約を無効にするのはそれほど簡単なことではないらしい。裁判を起こして、不当な契約だったということを証明しなければならないようだ。そもそも「誰に相談するのか」ということもよく分からない。弁護士の知り合いがいるという人は多くないのではないだろうか。禁治産状態にするということもできるのだろうが、いっさいの契約が結べなくなるということだから、同居が前提になるはずだ。また、本人にそれを了承させるのも極めて難しいだろう。

ある日突然認知症になって何も分からなくなるということではなく、症状は徐々に進む。本人はもちろん分からないし、家族も気づくのが遅れることが多いようだ。どこまで契約が有効で、どこから無効になるのかというのは、多分誰にも分からないはずだ。

PCデポのような「どう考えてもひどい」というようなケースですら、企業との交渉にはかなりの労力がかかる。これからこういうことが増えて行くのだ。

これが10年前ならまだ企業に余裕があり「年寄りを騙してでも成功してやろう」などと考える企業は多くなかった。30年前なら地域に時間に余裕がある人も多く見守りのようなことができたはずである。しかし、現在ではみな忙しく、心理的な余裕もない。

このケースを「政治がなんとかしなければならない」とか「痴呆症患者は高齢化が進むと増える傾向になる。社会の対応が急がれる」と結ぶことは簡単だ。しかし、それよりも「こういう事案に遭遇したら、個人的にどうすべきなのか」ということを考えるのが重要なのではないかと思う。意外とどうしてよいか分からないと思う人が多いのではないだろうか。

対価を払わない客 – 日本人のフリーライダー気質

先日来、セブンイレブン「事件」について考えている。セブンイレブン事件とは個人的に体験した問題でネットを騒がせたものではない。この事件を処理するなかでいろいろな人と話をした。共通するのは、異常を見て見ぬ振りをしたいという感情だ。何かの間違いであればよいのだが、10000万に1つくらいは本当にまずい案件が含まれているかもしれない。いったんそれが露見すると、マクドナルドのケースのようにかなり取り返しのつかない問題が起るのだろう。

中の人たちはなぜ異常を見て見ぬ振りをするのだろうか。アルバイトの人たちにはそもそも権限がないし、責任を取る筋合いもない。社員たちの管理が行き届かないので、シフトリーダーが実質的に店を仕切る「無責任体制」で店を回していることが多いようだ。

しかし、社員側はもっと複雑だ。1時間ほど店にいたのだが、お客というものがこんなに横柄だとは思わなかった。一方で近所の顔なじみの客というのもいるようだ。「営業さん」の飯塚さんはこういっている。

経営相談員の仕事はお客とお店側の調整なのですが、たいていの店のクレームは店に処理してもらっています。それはたいていの場合店のオーナーのポリシーによるものだからです。

クレームの内容についてはよくわからないのだが、お客の要求に対して店が応じられないということがよくあるのだろう。安心・安全に関わる問題ばかりではなく「店の態度が気に入らない」とか「ちょっとしたサービスに応じてくれなかった」というクレームが始終寄せられているのではないかと想像した。

中にはアルバイトの人たちがちょっと目配りしていればよかったということもあるのだろうが、権限がないのでそうしたことはできない。しかし、かつてあった万屋のような近所との台頭な付き合いもないので対等に話もできない。「客だったらこれくらいやってもらって当たり前」という人が多いのだろう。

セブンイレブンは商品ラインナップしか決められないが、クレームの多くはサービスに関するものなのかもしれない。こうした「解決するはずのない」問題に振り回されるうちに「もう、どうでもよくなってしまう」のではないかと考えることができる。

消費者は「サービスは無料で提供されるもの」という意識を根強く持っている。それにうんざりしていた企業側がPCデポのような「サービスを有料にして提供する」という姿勢に共感したものと思われる。しかし、それは日本人が持っているような「誠心誠意尽くしてお客様に喜んで頂く」というような類いのものではなかった。やはり、堕落した社員とあまりやる気のないアルバイトによって運営される詐欺まがいの行為に堕してしまったわけである。

しかし、PCデポが人件費(彼らが勤務している空き時間の人件費を含む)を賄うためには「ショートカットを3つつくって3,000円」というような価格でなければ維持できないのも確かだ。PCデポの客はできるだけ安いお金でパソコンを買いたい人たちなので、そもそも成り立たない商売だったのだろう。アップルのように「最新のサービスにはお金を惜しまないし数年で新しいものに買い替える」という人たち向けの並のプレミアムサービスをプレハブだてでやっているのだ。

このように考えてくると、背景には、日本人の複雑な貸し借りと助け合いに基づいた地域共同体が「サービス産業」によって代替されつつあるという姿が見える。しかし、サービスと支出のバランスがとても悪い。同じような問題は福祉政策でも起っている。地域や家族が支えてきた介護や保育が「サービス産業化」することによって様々な問題が出て来た。

国はなんとかして地域や家族をサービスの担い手として使いたい方針なのだが、これは2つの理由でうまくいっていない。1つは全産業が人を使い倒す方向(いわゆるブラック化だ)に動いており、かつての担い手にボランティアの余力がないこと。もう1つはかつての無料の労働が当たり前すぎて、その構造を誰も研究していないということである。知らない物は復活させることができないのだ。

で、あれば「サービスとその対価」のバランスを取って行くしかないと思える。それは多くの日本人にとっては苦手な分野ではないかと考えられる。

目的の不在がデスマ案件を作る

タイムラインに「築地新市場は設計ミスだ」というツイートが流れてきた。不具合はいくつかあるらしいのだが、仲卸のスペースが足りず、通路が狭すぎて荷物を積んだ荷車が行き来できない恐れがあるらしい。

真偽は分からない。しかし、ありそうな話ではある。もともとスペースが決まっているところに無理矢理必要な数を埋め込んだのだろう。一方で、ありふれた話でもある。IT業界ではよく見られることだ。無理矢理マネジメントで仕様を決めて、あとで現場が「これは使えないですよ」という。それでもインプリするのだが、やはり使えないということになり、大混乱するのだ。

それをなんとか納めようとして泥沼化することを「デスマーチ」と呼ぶ。

しかし、製造業のプロジェクトではデスマーチは起らないものとされていた。曲げられない鉄は曲がらないわけで、マネージメントは現場を無視することはできなかったのだ。同じことは建築にもいえる。日本は目に見えて触れるものは扱うことができる。

どうしてこのような気風が生まれたのかは分からないが、農業が関係していたのかもしれないと思う。稲を育てるためには水と温度が必要だ。殿様が「稲が二倍に増えろ」などと叫んでも、農家を24時間働かせても稲は増えない。つまり、日本人は「所与の」ものは尊重する知恵を持っているということになる。

しかし、目に見えないと「なんとかなるんじゃないか」と考えてしまうらしい。IT産業はこれで没落したのかもしれない。プログラムだったらなんとかなるんじゃないかと思ってしまうのだろう。

だが、オリンピックの競技場の問題や築地市場の問題を見ていると、それも過去の話になってしまったのかもしれないと思う。甘い見積もりも、仕様のつめの甘さも、現場を交えずにマネジメントだけで「こうだったらいいなあ」という希望的観測でものごとを決めてしまっていることに起因している。

だが、それとはすこし毛色の違う引用ツイートを見つけた。

上位目的というのは聞き慣れない言葉だ。検索したところ、ワープロで文章を書くというのが目的だとすると、プレゼンの為に文章を書くというようなことのが上位目的になるのだそうだ。近視眼的な目的ばかりに気を取られて、中長期的な視野が持てないというような意味だろうと推察した。それが流行っているというのだ。

プログラムは完成した段階で不具合があると作り直しということになる。しかし、コンクリートは固まってしまうわけで、壊してやり直しということはできない。だから、先に進めてしまうということになる、

デスマーチは集団思考が作り出す。使う人・作る人・意思決定する人が分離されて起る問題だ。しかし、中長期目的の不在は、すなわちリーダーシップの不足である。意思決定に迷ったときに「原点に戻ろうではないか」というヴィジョンが提示できる人がいないのだ。

こうした問題は政治の世界でもよく見られる。最近では憲法がデスマ案件になっている。もともとは何かの不具合の修正だったのだろう。やがてそれに「気持ち」が乗るようになった。全文に日本を讃える文章が掲載された。さらに「自分たちを落とした有権者はけしからん」ということになり、人権はふさわしくないとか、日教組が学校で余計なことを吹き込むからだというようなことになった。最終的にできあがったものは「これは憲法をとはいえない」というような代物だ。最近では「これは案なので、そのまま議論に乗ることはない」などと言い出している。

ここでは課題と心情を分離できないことが問題になっている。最近では憲法を変えること自体が自己目的化しているようだ。さきほどの呟きを引用すると「上位目的」が失われているのだ。憲法草案を決めた人たちの中には「なぜ憲法を変えねばならないのだ」と疑問に思った人はいなかったらしい。自民党の党是だからというのが唯一示された理由である。

つらつらと考えていると、これは悪い兆候だなあと思う。欧米はコントロール不能なものをどうコントロールするかという視点で経済や社会を成長させてきた。ところが、日本はコントロールができないものに依存して生きて来たように思える。稲は人間の思惑通りには成長しないし、鉄は曲がらない。だからうまくやってこれた。だが、いったんコントロールを手にすると集団思考が働き、すべてをぶちこわしてしまうのだ。

「ああ、嘆かわしい」とか「日本終了」とか思うわけだが、最大限ポジティブになってみると次のような教訓が得られる。これさえ克服すれば課題の解決は可能だということになる。

  • 集団思考を避けるために、強力なリーダーシップを置く。
  • リーダーシップを円滑に働かせるために、フォロワーシップを発揮する。
  • 使う人、作る人、意思決定する人が話し合って物事を決める。
  • 課題と心情を分類し、目的を明確にする。
  • 目的はチームで共有する。

一橋大学の同性愛者自殺裁判

一橋大学のロースクールで同性愛者が自殺をしたというニュースがTwitterで話題になっている。クラスメイトの男性の告白をしたところ断られた上に、告白されたことを暴露されたらしい。結果、パニック障害になったのだが、大学側は適切な援助をせず「ちゃんと授業にでないと卒業できないよ」と逆にプレッシャーを与えたというのだ。

これを受けて多くの人が「大学の対応はけしからん」と言い、被告男性を責めた。大学側は性同一性障害と同性愛の区別すらついていなかったらしく「え、そこからですか?」という驚きはある。また、告白された側の男性が「人間のクズ」であることは間違いがない。

しかし、大学や被告を責め立てたとしても問題は解決しない。

同性愛者がマイノリティとして生きて行かなければならないというのは事実だ。マイノリティにはマジョリティ以上の「胆力」が求められる。ある程度強くなければ生きて行けないのだ。だが、同時にマイノリティはそれほど珍しい存在ではない。

例えば新宿二丁目に行けば同性愛の人が大勢いて、この手の「失恋話」は珍しいことではないだろう。「かわいそうねえ」と同情してもらえることもあるだろうし「そんなの当たり前じゃない」という人もいるにちがいない。同性愛だけがマイノリティではないことを考えると、以外とありふれた存在である。

そのように考えると、この大学の特殊性が浮かび上がってくる。一橋大学のようなエリート校のロースクールに入るためには、社会勉強をしている時間はなかったのかもしれない。その上、学校関係者もエスタブリッシュメントばかりを相手にしてきたのだろう。そういう「どマジョリティ」の人たちは、同性愛と性同一性障害の区別すらつかなかったのだ。

ロスアンジェルスでは男性同士がベッド一つの家に住んでいるというのは自慢したり悲観したりするほど珍しいことではない。その人たちがオネエ言葉で話すということもないし、スカートをはいて社会生活をしているわけではない。芸能界にはオネエ言葉の弁護士などがいて、良い稼ぎをしている。そういう人たちをみて顔色を変えることは政治的には正しくない態度だと考えられている。「あなた同性愛者なのか」と聞くこともない。さらに民族的なマイノリティエスタブリッシュメント(顕著なのはユダヤ人だが、その他にイラン人のコミュニティなどがある)層が住んでいる。このような多様性が都市の繁栄を支えている。

この多様性をふまえた上で日本社会を考えると、マイノリティ問題は実は深刻な問題を含んでいる。さらに、ここがロースクールだったことを考えると、その閉鎖性は致命的だ。法律家は人権問題を扱う訳だが、人権抑圧される人は何らかの意味で少数派だ。しかし、その当事者が少数派に対するまなざしを持っていない。それどころか「マジョリティ」を偽装しなければ生きて行けないほど均質な社会なのだ。そのような社会では少数性は「単なるスティグマであって、社会のお荷物だ」という意識を生み出すのかもしれない。

実は多様性は活力なのだが、そうした視線を持ち得ないのだ。

さらに少数性への対処も遅れている。例えば教会などだと「いじめられてかわいそうねえ」などと頭をなでられることはない。教会は常に問題に接しており(中には子供を失った親などという救いのないケースもある)「強く生きてゆかなければならない」などど諭されることが多い。しかし、エスタブリッシュメントばかりの大学は日の当たる側面しか見てこなかったのだろう。

少数性は誰でもが直面する問題だ。例えば、周囲に例のない健康問題を抱えればそれだけで「マイノリティ」である。

これを指摘するのは少々残酷だが、こうした均質な環境で、自殺した本人も本当の意味でマイノリティについて考えたことがなかったのではないかと考えられる。同性愛者だからといって、自動的に他の同性愛者を受け入れているとは限らない。どのような家庭環境なのかは分からないが、もしかしたら息子が「普通でない」ことを受け入れられなかった可能性はある。

社会人経験を持っていない人がいきなり法律家になるのも問題だ。適切な休学制度などがあれば本人は閉ざされた教室から解放されていただろうし、それなりに人生を考える時間や、社会について学ぶ機会が得られたはずである。新宿二丁目か海外に出れば「同性愛者」がどのように扱われているかを知るチャンスもあったはずだ。

一橋大学でロースクールに入ることができたほどの人が、外に出さえすれば、様々な経験ができたはずで、それは社会の多様性を促進する上で大きな助けになったはずである。

人がパニックを起こすほど孤立しても、その人に代わって孤立してやることはできないし、その人のことを100%理解してやるのは不可能だ。しかし、周りにいる人は「あなただけではない」と言ってやることができるはずである。

なぜあなたはハブられるのか

夏休みが始まってからしばらく経った。普段の教室から離れ、一学期にあったことを冷静に見ることができる時期かもしれない。

今回は「なぜあなたはハブられるのか」について考えてみたい。そして、どうしたらその状況から抜けられるのかもあわせて考えたい。ちなみに「ハブる」とは仲間はずれにするというような意味だ。

「なぜハブられるのか」を検索すると「あなたに落ち度があるのだから、一つづつ改善して行こう」というような文章が多数見つかる。だが、本当はそれは間違っていると思うし、ひどい誤解が含まれている。

本当に円満な社会は少ない。たいていの社会は緊張に満ちている。日本には「他人を平等に扱う」という伝統がなく、なんらかの序列構造を持っているのが一般的だ。例えば、誰が足が速いとか、勉強ができるとか、お金持ちかとか、序列の作り方はたくさんある。しかし、序列は曖昧で崩れやすい。そして、序列がないと不安を感じてしまう人たちがいる。

なぜ序列がないとダメなのだろうか。それは、社会が様々なことを決める枠組みだからである。これを意思決定という。社会は意思決定の枠組みなのだ。みんなの意見を聞くと、結局なにも決まらないので、序列を作って「強い人のいうことを聞く」ということにしている。誰の家で宿題をやるとか、どこに遊びに行くとか、どのテレビ番組(あるいはアプリ)について話し合うかなど、決めなければならないことはいくらでもある。誰も意思決定しないと何も決まらないから、当然何もできない。

日本社会では意思決定が集団構造になっているのが一般的だと言われている。つまり、何かを決めるリーダーグループがいて、その他大勢がそれに従うという構図である。日本社会では「納得がゆくまでみんなで行き先を話し合う」ということは行われない。日本人は徹底した話し合いを面倒だと思うのである。一方で、一人で全部の責任を引き受けるのも嫌だ。決めたことで何か悪いことが起ると(例えばイタリアレストランにいったのに、ことのほかまずかった)責任を取らされるからである。だから「なんとなく決まった」ことにしたいのだ。

しかしながら、このやり方だと「なぜこの人たちのいうことを聞かなければならないのか」と不満を漏らす人が出てくることがある。その不満を解消する方法はいくつかある。例えば、順番に誰かの言うことを聞く(この前はA君が行き先を決めたら次はB君だ)方法があるが、これはなかなか面倒だ。すると、代わりに「意思決定にも参加できないし、行動も一緒にしない」という人を作るのだ。

  1. 一緒に行動して、意思決定する人たち
  2. 一緒に行動するし、なんとなく影響を与えられるが、意思決定はできない人たち
  3. 一緒に行動できないし、もちろん意思決定できない人

では、なぜそのような人が必要なのだろうか。それは、もともとグループの構造が曖昧であり、なおかつ常に不安を抱えているからということになるだろう、この3カテゴリーの人たちが「ハブられる」人だ。

さて、そのように考えてくると、ハブられる原因は集団の側にあって、ハブられた人たちの問題ではないということが分かる。つまり、何か努力をしたからといって仲間に入れてもらえるということはないのである。逆にその集団から離れてしまうと「見せしめ」の効果が薄れるので、ターゲットが別に移る可能性もある。しかし、それも集団側の問題なので、あまり期待はできない。

あなたのせいではないのだから、「努力してなんとかしよう」とは思わないほうがいい。

厄介なことがいくつかある。第一のポイントは「ハブられる」ことには表面上の理由があるということである。実際は「見せしめにできるなら誰でもよかった」わけだが「あの時ああ言ったから仲間はずれになったのかも」とか「誘われたのに行かなかったから」などと思い当たる節がいくつか出てくる。すると、この表面上の理由をくよくよと考えてしまうのだ。

次のポイントは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みだ。そもそも「意思決定ができない」のにみんなでつるんでいるのは「みんなが仲良くしなければならない」という思い込みがあるからだろう。バラバラなのだったら、最初から自分だけで好きなことをすればいいのだ。特に女性は「仲良くしなさい」と言われることが多いので、このようなプレッシャーが強い。

しかし、よく考えてみると「どうやって仲良くするのか」ということを教えてもらった人はそれほど多くないのではないだろうか。また女性は「リーダーになってグループをまとめるような役割」は期待されないので「なんとなくみんなのいうことを聞きながら、全員一致で何かを決める」ということになりがちだ。しかし、それは無理難題である。だから、手っ取り早い方法に走るのだ。それが「仲間はずれ」を作って、まとまるという方法である。仲間はずれは道徳の破綻なのである。

いちばん厄介なのが「とにかく仲良くしなさい」という先生だ。数学が分からないのに「とにかく100点を目指せ」というのに似ている。先生はクラスで問題が起ると責任を取らされるので、何も問題を起こしたくない可能性が高い。この場合先生が「介入」するとさらに厄介になるだろう。

さて、ハブられた人は「自分だけが仲間はずれにされた」と思いがちである。中にはそれが嫌で自殺を考える人も出てくるくらい孤立することがある。しかし、実際にはこうしたことはよく行われている。大人になったら解決するということもない。

例えば政治の世界でも、同じようなことが日常行われている。何が決まったということよりも、誰が誰とお友達で、誰が仲間はずれにされたというようなことが記事の中心になっていたりする。

大臣が1年ごとに交代するのは「みんな平等に大臣にして上げなければならない」という思い込みがあるからだし「首相と仲良しだから早く大臣にしてもらえた」と書かれることも多い。

さらに「仲間に入れてもらえなかった」と恨みを募らせて大騒ぎする人たちもいる。外で仲間を募って復讐を果たす人もいるし、Twitterで相手の裏話を暴露する議員もいたりする。

また「全てあいつらが悪い」と思い込むことによって、うまく行っていない現実から目をそらすということもよく行われている。

こうした現実はあまり慰めにはならないかもしれないのだが、外から見ているととてもくだらないことに思える。重要なのは「政治は下らないなあ」と思うことではない。外から見ているとたいての人間関係のごたごたはくだらないことばかりなのだというのを知ることだ。つまり、クラスの人間関係だけが人生の全てではないのだ。

 

障害者はあなたの道具じゃない

久々にかなり腹立たしいツイートを見かけた。さらに腹立たしかったのが、なぜ腹が立つかを説明しなければならないということだ。非常にばかげている。

ツイートの内容は「障害者はカナリア」というものだった。安部首相を非難する文脈なので年配の左派だと思う。最近、弱者を排除する風潮があり、津久井の事件はその文脈で起きたというようなことが言いたいのだろう。

カナリアというのは炭鉱労働者が死なないように先に死ぬセンサーのようなものだ。つまり、一般市民が死ぬのを防ぐために障害者が犠牲になったということを言っているのだ。多分意識していないのだろうが、この人は障害者を道具だと思っていることになる。これは人間のオブジェクト化である。自分の政治的な主張のために他人を利用しており、それが当たり前だと思っているのだ。

自分が息苦しさを感じているのであれば、単に「嫌だ」と言えばいい。左派は政治的な欲求が通らないという意味では弱者のだが、自分たちのことを弱者だと思いたくない。そこで弱い他人を利用しているのだ。障害者を弱い人間だとみなすことで、自分たちはそれよりはマシだといえるようになる。実に厄介で屈折した搾取なのだ。

やっかいなことに「自分を弱者の支援者だ」とみなしている人ほど、他人を利用していることに気づかない。いわゆる右派(ヘイトといわれる人たちだ)はまだ、蔑視しているという意識があるのだが、この手の人たちにはその意識はないのだ。それどころか、このような批判を受けると「私たちは弱者のためを思って言ってやっているのに」と怒り出したりする。実に厄介である。善に気が付かないのだろう。

なぜ、この国には平等という概念が全く根付かないのだろうか。怒りというより悲しみがこみ上げてくる。なぜみんな隣人から奪いたがるのだろう。