書くことは癒しなのか凶器なのか

先日来、書くということについて幾つかの記事を読んだり情報に接したりした。一つ目の記事はタイトルだけだが「日本人はレールを外れるとブロガーくらいしか希望がなくなる」というもの。次はヘイト発言を繰り返す池田信夫氏のツイートや、透析患者は自己責任だから死んでしまえという長谷川豊氏などの自称識者たちの暴力的な発言だ。

これらを考え合わせると、これからの日本では、経済的自由を得るためには他人を貶めたり権利を奪ったりしなければならないという結論が得られる。

確かに、他人を傷つける記事には人気がある。タイトルだけでも他人を攻撃するようなものをつけるとページビューが数倍違うことがある。しかも、検索エンジン経由閲覧している人が多い。そのような用語で<情報>を探し回っている人が多いということになる。ニュースサイトをクリックするわけではなく、わざわざ探しているのだ。それだけストレスが多いのだろう。

一方で別の書く作業も目にした。乳がんで闘病中の小林麻央さんが自身のブログを開設したのだ。病状はあまりおもわしくないようで、本人もそのことを知っている。これは、小林さんががん患者であるということを受け入れたということを意味しているのだろう。日常生活が中断されて茫然自失の時間があり、ようやく現状を受け入れようとしているのだ。書くことがセラピーになっているということもあると思うのだが、再び「書き出す」ということが重要なのだろう。人間には誰にでも回復しようとする力が備わっている。そうやすやすと「完璧な絶望」の中に沈むことはできない。

二つの「書く」という作業にはどのような違いがあるのだろうか。

第一に、池田さんや長谷川さんの意識は外に向いている。一方で内側には不調は起こりえないという暗黙の前提がある。池田さんは自らが「純血の」日本人だという意識があり、その外側にいる人たちを攻撃している。また、長谷川さんは自らは節制していて、絶対に糖尿病にはかからず、従って透析の世話にはならないと考えている。こうしたことを考えているうちは自らの中にある不調を考えなくても済む。

テレビは常にネタを探している。ネタは、オリンピック選手などの活躍をもてはやすか、他人を貶めることしかない。職業的に書いている人たちはこのうち貶めるべき他人を探すかかりというわけだ。うまく盛り上がったネタ(平たく言えばいじめなのだが)があれば製作会社が仕入れてテレビに売り込む。

他人の不幸をネタにすればいくらでも稼げそうだが、実際には自分の信用度を担保にしている。なんらかの問題解決に役立てば何倍にもなって帰ってくるかもしれないが、逆に自分の信頼を失うこともある。そのうち「騒ぎを作ろうとしているのだな」と考えられるようになれば、その人はテレビ局から見ればもう用済みだ。

もともと識者たちは専門分野から解決策を提示したり、多様な意見を出してコミュニティに資することがその役割のはずだ。皮肉なことに今回挙げた二人はどちらもテレビの出身だ。テレビ局には報道が問題解決などできるはずはないという強い信念ががあるのだろう。また、自分たちはいい給料をもらいながら、他人の不幸を取り上げても、決して自分たちの元には不調は訪れないし、あの人たちは自己責任なのだという間違った確信があるのかもしれない。

一方、小林さんは自らに向き合わざるをえない時間があり、その結果を書いている。つまり、その意識は内側に向いている。どうにもならないという焦燥感がある一方で、それでも生きていて、子供を愛おしいとかごはんがおいしいと思ったり、「また情報発信したい」と思えるということを学んだにちがいない。どうしようもない絶望があったとしても、人は少しづつ回復するし、何もしないで生きてゆくということはできないものなのだ。生活の自由度が狭まっても書くことはできるわけで、書きたいというのは、新しく歩み始めるための最初の一歩になり得るのである。

「書く」ということは、毒にもなれば、薬にもなる。正しく使えば癒しを得られるし、見知らぬ他人の助けになるかもしれない。一方で、自分の評判を削りながら陥れる他人を探し続けるという人生もあり得る。

多様性が許容できないのにネットを使いたがる老人

最近、Twitter上で「蓮舫の国籍を取り上げろ」と息巻いている人がいる。賛同者はほとんどいないし、自分が何を主張しているのかよくわかっていないようだ。一応、法律違反だからダメだということになっているのだが、法律が理念を実現するための道具だということが忘れられている。

彼らの本音は多様性の排除だ。まず多様性を武器にした蓮舫新代表に対する攻撃からはじまり、同じく多様性を持ったTBSのアナウンサーに対する個人攻撃になった。さらに人権や多様性の観点から二重国籍の人たちを擁護する識者を馬鹿呼ばわりしはじめた。

二重国籍はある種の特権だ。たまたま両親が別の国の出身であるとか、別の国で生まれたという偶然がなければ二重国籍状態にはならないからだ。多分、特権を持った人がもてはやされるのが許せないのだろう。

ここから本能的に自分が多様な世界にキャッチアップできないことを知っているのだろうということがわかる。

二重国籍は現行の法律では問題行動なのだが、変化が多い現代社会では有利に働くことが多い。国際競争力ということを考えると、多様な才能を日本社会に取り込むことができるかという問題が持つ意味は大きい。だから、これを機会に現行法制をどう変更してゆくかという議論が始まってもおかしくない。

これを見ていて、インターネット論壇も来るところまできたなあと思った。もともとネットに注目していた人たちは最先端の人たちだった。そもそもアクセスするためにはそれなりの技術が必要だったからだ。ゆえに初期のインターネットは多様な意見の大切さを知っていた。他者の意見に触れることで、新しい視座を得ることができるからだ。実はネットが出始めの頃は、気軽に他者の意見に触れるような環境はなかったのだ。

しかし、ある時点から出版社や新聞社で食べられなくなった人たちが集まるようになってくると状況が変わり8時メタ。多様な意見に触れることがよいという考え方は持たずに、自分たちが場を支配したいという気持ちが強い。他者が許容できないのだ。もともと出版社や新聞社は入った時点で「許されたものしか発言できない」という特権を得られるので、ネットでそれを再現しようとしたのかもしれない。現実世界で特権を失ってしまったからこそ、新天地のネットで王になりたいという気持ちが強いということも考えられる。

他者が許容できないので、とうぜん多様性も許容できない。ゆえに二重国籍など考えられない。良識的な意見も許容しないらしく、異論を唱えるものをことごとくブロックしているらしい。

日本社会では他者を許容できないことが成功の要因になることがある。組織は既得権防衛のための装置だからだ。しかしインタネットは基本的に多様な意見を排除できない。ブロックするというのは、自分の意見が相手に伝わらなくなるということなので、自らの影響力を排除するということなのだが、基本的なネットの仕組みがよくわかっていないのだろう。

もちろん、ブロックはネットの「間違った使い方」とは言えない。さらに言えば、自分で出資して会員制の空間を作っても良い。それができないのは、この人たちがもともとあった会員制のサロンを追い出されてしまったからだろう。

その意味では蓮舫問題は「ネットに不適合な人達」をあぶり出す装置になっている。

車椅子競技とギャンブル

朝からパラリンピックを見ていてちょっとびっくりした。かわいそうな人たちの大会だという認識があったパラリンピックなのだが、車椅子レースに観客が興奮しているのだ。最近の競技用車椅子は、車椅子界のF1のような形をしていてスピードも出るらしい。人はレースというものに無意識に熱中するものなんだなあと思った。

また単に走れば良いというわけでもなさそうで、何か操作している。ハンドルがないのに曲線路を走っているのがとても不思議だが、操作テクニックや戦略的な位置取りなども問われるんだろうなあと思う。

ある意味、競輪レースを見ているようだったので、これは公営ギャンブルにできるのではないかと思った。

メリットは2つある。

第一に障害者が稼ぐことができれば認識は変わるだろう。かわいそうな人ではなく「羨ましい人」という認識が生まれる。リハビリにも具体的な目標ができるだろう。

次に経済的なメリットもある。ギャンブルは人々を熱狂させるので、お金が集まりやすい。その資金を障害者のために使うことができる。

一方で、このアイディアは実現しないだろうなあとも思う。「障害者を使って金儲けをするとは何事だ」という批判が容易に予想されるからだ。

しかし、よく考えてみるとエクストリームスポーツに挑戦をする障害者も増えている。開会式で見られたように、車椅子で宙返りして見せる人もいるし、足がないスケートボーダーをテレビでみたことがある。エクストリームスポーツはすでに市民権を得ており経済的にも成功している。わざわざ障害者スポーツという枠を作らなくても、新興のスポーツに挑戦する人が増えてゆくのかもしれない。

人々が失敗を認めなくなったわけ

内田樹という人が「人々が失敗を認めなくなったわけ」について考察している。すこし違和感を持った。

この「鬼の首を」というのは、現象であって原因ではない。故にこれを責めても問題は解決しない。

一つひとつ紐解いてみよう。順をおって考えると意外と簡単だ。

最初に感じる違和感はこれを日本人論にしているところだ。しかし、謝らない社会はどこにでもある。20年前にはアメリカに行ったら自分の間違いを認めてはいけないと言われた。これは日本が甘え型の社会だったからだ。「すみません」というのは単なるあいさつであって謝罪の意味はなかった。どちらかというと軋轢をつくらないために「私の方が間違っているかもしれませんが」と言っていたわけである。受ける方も「そうだ、お前は間違っている」などとは言わなかった。これが甘え型社会だ。

このようなことができたのは人々の地位が安定していからだ。ところが、バブルが崩壊してから人々の認識が変わった。社会が椅子取りゲーム化した。くじ引きでもして誰かを引きずりおろさないと全員は生き残れないという(あるいは間違った)認識が蔓延したのだ。こういう社会ではちょっとした間違いが生死に関わるので誰も間違いを認められなくなる。

日本社会はお互いに「間違い」を作らずに許しあってきた。そのために間違いから学ぼうという習慣も根付かなかった。さらに厄介なことに暗黙知を形式化しようという習慣もなかった。長い時間をかけて黙って通じるまで経験を共有することが前提になっている。

間違いを決して認めないはずのアメリカ社会で間違いが許容されるのは「その間違いには理由があるかもしれない」と考えるからだ。間違いを形式化して問題点を抽出するのだ。ところが日本は急激にサバイバル型に変質したために、間違いは学習の機会だという認識が根付かなかった。そのため「ワンアウト退場」という極端な社会が作られた。

さらに人件費の削減もこの傾向に拍車をかけた。

間違いを見つけて修正するという作業は知的に負荷がかかる。すくなくとも余力がないとできない作業だ。この知的な余力は金銭的な理由から省かれるようになった。例えばマクドナルドのアルバイトはオペーレションの間違いを自ら修正することは要求されるが、全体を最適化したり、人気のないメニューを修正したりする知的能力は要求されない。最初の社会は間違いを認めない社会だったのだが、現在では自分が間違っているかすらわからない社会になった。

この「ワンアウト退場型」の社会にはさまざまな弊害がある。人々は分かることだけをやり、その他のことをカッコで括って外部化するようになった。だから、自分の専門外のことに関しては恐ろしく無関心だ。そのためシステムが暴走を始めても誰も気に留めないし、理解しようともしない。ただ、この現象も珍しくはなく、2003年にはすでに『バカの壁』が書かれている。

社会や組織が学習できなくなると、すべてのシステムを外から力づくでとめるしか方法がなくなる。Twitterが発達して暴力的なブレーキとして働くようになったのはつい最近のことだ。人々は、ワンアウト退場型でどうエラーを修正方法するかについて学んだのだ。

アメリカは違ったやり方をしている。トップの首を定期的にすげ替えるのだ。日本は流動性が低い社会なので「退場」したらやり直しはできない。だから間違いを認めることは決してできない。

それでも日本社会が崩壊しないのは、とりあえずうまくいっているやり方だけを踏襲してゆけばなんとかやっていけるからである。学びの機会を失ってしまったので成長することはないが、崩壊もしないのである。

鬼の首を取ったように他人の間違いをあげつらうのは、それが唯一のエラー修正策だからである。社会にあったエラー修正策を見つけない限りその状態は続くだろう。できれば、社会全体が成長してゆくほうが良いのだが、エラーを認めないと成長ができない。

そのためには一人ひとりにの認識を変えるしかない。

 

蓮舫叩き

ここのところTwitter上で不快なツイートを見る機会が増えた。蓮舫氏の二重国籍疑惑について執拗に叩いている人がいるのだ。蓮舫氏は首相には不適格だというのが理由のようだが、多分誰も民進党が政権を取れるとは思っていないわけで「叩きたいから叩いているんだろうなあ」という印象が残る。

叩くなら内容のない民進党の議論を叩けばいいのだが、それだと耳目が集められない。そこで、出自を叩くことにしたのだ。

蓮舫氏を叩くのは、彼女が颯爽としているからだろう。加えて女性であり民族的に多様なバックグラウンドを持っている。日本人は同調圧力が強いので「おとなしくマジョリティのために雑巾掛けをしろ」という主張に違和感がないのだろう。しかし、それをダイレクトにいうと人種差別・女性差別ということになってしまうので、国籍離脱の手続きの問題にしているわけである。

「在日台湾人の代表ならいいが、日本人全体を代表でできない」という主張があった。「俺は女で外国人の下は嫌だね」と言っているのだ。素直に「俺は」といえば良いのだが、それを言えないので「日本人」に置き換えている。会社でも「みんな嫌だって言ってますよ」というのは「私は嫌ですよ」くらいの意味しかない。

やっかいなことに、こうした考え方の人は多い。心の中では「女は黙って男のいうことを聞いていればいいのだ」と考えているのだろうし「外国人は下働きしていればいいのだ」という意識があるのだろう。アメリカではAlt-Rightという運動体にまで発展したし、フランスでは公共の場ではブルカは着用してはいけないというような移民に対する排斥運動も起きている。人々の本音は世界を覆いつつある。

さて、もう一つの面白い点は国籍に関する認識のずれだ。一連の<議論>を見ていると、日本人は国籍を「その人の出自か所属」だと考えている節がある。一種の家のようなもので、同時に二つの家に所属することはできない。ところがこれも国際的にはスタンダードではない。

欧米では、国籍をナショナリティといわずにパスポートホルダーという言い方をすることがある。いわば資格のようなものだ。もともと出自が多様なアメリカでは外国人のステータスのままで何世代も止まられると困るという理由もあるのだろう。スイスのように意図的に周辺国から人材を集めてきた国もある。厳密には「スイス人」という民族はないので、これも当たり前の考え方だ。結果的に、これが国に多様性をもたらしてきた。これが過去20年停滞してきた日本と成長を続けた欧米の違いになっているのだろう。

中国人もナショナリティにこだわらない。平気で国籍を変更する。変更先はカナダやオーストラリアといったアングロサクソン圏だけでなく東南アジアなどの周辺国に及ぶ。タイの華僑のようにタイ化する人たちもいるが、ほとんどは中国人意識を持ち続ける。中には子供に違う国籍を与えようと動く人たちもいる。国ではなく家族が安全保障の単位になっており、財産を保持し家を存続するのためにリスクを分散しようとしているのだろう。こうした国際的なネットワークが華僑の強みになっている。かといって華僑が中華人民共和国に忠誠心を持っていると主張すれば笑われるだけだろう。「国なんかどうでもいいしあてにならない」と思っているわけだ。

日本が停滞しているのは外から新しい知識が入ってこなかったからなのだが、それは多様性を徹底的に排除してきたからだ。蓮舫叩きをする人たちは、心のなかでうすうす自分たちが出遅れていることに気がついているのだろう。多様性の重要さを認識しているが、それに対応できないことに気がついているのかもしれない。中途半端に英語ができたりするらしいが、読み書きはできるが話せないし、英語のコミュニティで相手にされなかった過去がある可能性もある。

だからこそ多様性を叩くのだ。結局、自分たちの能力のなさを恨んでいるかわいそうな人たちなのかもしれない。

私の方が正しいという戦争

浪岡中学校のいじめの記事への検索での流入が増えた。関心が強かったということなのだろうが、その関心の高さは必ずしも歓迎されるようなものではないかもしれない。「自殺を防ぐには」という用語での検索が増えたわけではない。「犯人の名前」という用語で検索されているのだ。多分、ネットで犯人探しが行われているのだろう。学校の生徒は誰がいじめたかを知っている(※同学年でバレー部に入っていった子達だということは特定されている)ので、学校関係者ではない人が検索していることになる。

このいじめは部活での対立が元になっている。なんらかの対立があり自殺した子がやめた。それでも対立は続き、テレビの報道(※ミヤネ屋のスクリーンショットがネットに出回っている)ではかなり陰湿ないじめが展開されたらしい。

一方で遺書を読むとなく亡くなった子も「自分が一方的に被害者だった」という自己認識を持つのを拒否していたようだ。遺書では「疲れた」といいつつも、いじめた相手を糾弾している。

学校側はこの状態を放置し(ミヤネ屋のアンケートが本当なら人権侵害を放置していたことになる)た挙句、いじめとは思っていなかったと主張した。管理責任の及ばないところで生徒が勝手に行ったと言いたいのだろう。テレビ局としてはこれを否定することで、視聴者にカタルシスを与えようとしている。いじめ報道としてはお約束のフォーマットだ。学校は問題を放置して否認することで周囲に「もっと分からせなければ」という正義に火をつけている。そればかりか亡くなった生徒にも「何が何でも告発しなければ」という動機を与えている。

親も「いじめがなくなるように」という名目で遺書を公開しているのだが、実際には「娘は悪くなっかった」という正義の主張になっている。つまりは、いじめた友達と放置した学校が悪いということだ。形式上は報復感情は表に出ていない。

こうしてこの事件は地域の大騒ぎになった。学校関係者は誰がいじめたかがわかっているわけで、遺書で名指しされた側(黒塗りにはなっているが)たちがいじめられることになるだろう。転校することもできない。浪岡中から来たというだけで被疑者扱いされてしまうからだ。掲示板には「私たちが疑われる前に犯人を見つけ出そう」という書き込みも見られた。青森市に吸収されたこの街にとっていじめは地域の恥なのだ。

「いじめを防がなければならない」という題目は忘れられ「人を一人殺しているのだから、いじめられても当然だ」という他罰的な感情に火をつけている。

もともとは小さな部活の「どちらの言い分が正しいのか」という問題だったのだろう。それが大勢の正義を巻き込んで、極めて大掛かりないじめに発展した。正義という感情はこのように燃え上がると戦争に近い状態を生み出す。

確かにいじめはいけないことなのだが、死に一発逆転の効果を与えてしまってよいのだろうかという疑問が湧く。これは新しいいじめを生むだけでなく、抗議の自殺という解決策に高い価値を与える。つまり、対立に没頭している人に「死ねば注目してもらえる」というオプションを与えてしまうのだ。

浪岡中のいじめ問題 – 自殺者は被害者なのか

ご両親が娘さんの名前を公表されたようだ。

「浪岡中・犯人・名前」で検索してこられる方へ。この文章には、犯人の名前に関する情報はありません。で、調べてどうするんですか?


またいじめについてのニュースを読んでしまった。今度は青森県の浪岡中学校だという。このニュースを読んで、いじめによる死はなくならないのだろうなあと思った。学校側はトラブルは認識していったがそれをいじめだとは認識していなかったという。一瞬何を言っているのかよくわからなかったのだが、要するに「自殺しても事件化しなければいじめではない」という姿勢を示しているようだ。死ぬまで表面化しないのだから自殺は防ぎようがないのだ。

今回の考察にもつらい部分がある。公共の場で堂々と主張できないような内容だし、家族を失って悲しんでいる当事者にこれをぶつけることはとてもできそうにない。事実、この文章を読んだ人から「自分の意見を通すために遺書の内容を曲解している」という指摘が来た。指摘はコメント欄にある。どちらが正しいのかという<議論>が背景にあるのだと思う。

こうした指摘を受けても「それでも」と思うのだ。正しさというものが作り出す短絡さは多くの人を苦しめ、あるいは取り返しが付かない結果を生み出しかねない。その苦しみから救ってくれる人は誰もいない。ただ、本人だけが自分自身をそこから解放できるのだと。

いじめられる人は「弱者だ」と仮置きされることが多い。テレビの報道を見る限り自殺の練習をさせられたとか万引きをしないと言って殴られたいうような陰湿ないじめが行われていたらしいことが伺える。これだけを見るといじめられた生徒は一方的な被害者だったような印象を持つ。いわば群れの中で一方的に搾取されるような存在である。

もし、いじめられるものが弱者だったら、誰かにその窮状を訴えるべきだということになる。先生がなんとかしてもらえるように訴えるべきで、もしそれができないとしたら教育委員会に訴えるなどというのが効果的かもしれない。だが、そもそもアサーティブな生徒ががいじめられるはずはない。手を出すと面倒だからである。このようにすればいじめのコストを高めればいじめはなくなるだろう。

だが、こうしたアサーティブさは問題を解決してくれるのだろうか。このケースでは、亡くなった生徒の遺書が残っているのだが、黒塗りになった生徒◉との間に「どちらが正しいのか」というような構造があったような印象を持った。ここが今回引っかかったところである。

各紙の話を総合すると一年生の時にバレー部に入っており良い成績を残したが、◉たちのグループとの間に対立があり部活を辞めた。遺書では「頑張って◉と7名で優勝を狙ってほしい」と言っている。教室の片隅で閉じこもっているようなタイプではなく、一年生のときには学年生徒会会長を務めていたという。

「せいぜい」頑張ってと入れていたが、遺書には「せいぜい」とは入っておらず、したがって文意を大いに捻じ曲げているという指摘がありまましたので、取り除きました。また主観を客観化する意図はありませんので「印象を持った」などとしています。ただし、そういった印象を持つことは<正しくないから>けしからんというご意見はあるかもしれません。コメントには「原文を当たった上で考えて欲しい」ということがかかれていますが、その点については同意です。(2016/10/18)

当人の中にも「一方的にいじめられる弱者ではない」という認識があったのではないかと思える。テレビの情報が確かなら完全な虐待だが、当人は特別ひどい虐待はないと逆に否認している。

この遺書だけから類推すると「アサーティブさ」の方法が間違っているということになる。死んでしまえば、◉が悪となり、放置した学校は間違っていたということになるからだ。自殺が全ての問題を解決する手段になると考えていたとしたら実に悲しいことなのだが、その可能性が排除できない。

この場合先生がやるべきだったのは、いじめの防止ではなく、絶対的な正義などないということを双方に納得させることだったということになるのではないか思った。「どういじめを防ぐか」という視点ではこの問題は解決できないのではないか。それは被害者と加害者を作ることになり、加害者が「間違っている」という印象を作るからだ。

だから周囲が「いじめられる人を被害者だ」という認識を持つのは危険かもしれないと思う。いじめられる側にも問題があるという認識に立たない限り、たんに「アサーティブになれ」といじめの被害者を説得することはできない。さらに、結果的に人が亡くなったケースだけを特別視すると別の意味で死を利用することが可能になってしまう。

これを防ぐためには「自殺者を出したことは恥ずかしいことだ」という意識を捨ててオープンな調査をすべきだと思う。だが、人が一人亡くなっているわけで、これはなかなか難しいことだというのは十分に理解できる。

実際に掲示板では犯人探しが始まっている。中には浪岡中学校出身だというだけで犯人扱いされるから報道機関にいじめた奴の名前を通報しろという人までいる。その他大勢は「誰がいじめたのか実名を晒せ」と書き込んでいる。すでに実名が何人もでていて(もちろん加害者かどうかはわからない)これがさらなるいじめに発展するかもしれない。

ある意味、内戦のような精神状態になっているのではないかと思う。いったん命に関わる問題が起こると、あちら側とこちら側という意識が生まれ、統合が難しくなってしまうのである。自殺やいじめについて考えるためには、実は内戦が止められなくなった国や民族がどのような末路をたどるのかを考えると良いかもしれないと思った。

「保守」のこころね

今日は面白いTweeetの紹介から。

帰化とは「心を入れ替えること」だと主張している。これは日本人の心情をよくあらわしている。では心を入れ替えるとはどういうことだろうか。具体的には集団に尽くすことを意味しているものと思われる。会社でいう「雑巾掛け」だ。つまり意思決定の下位にのランクに入り「俺たちに尽くせ」と言っているのである。カラオケで「俺の歌を聞け」と言っているようなものだ。

こうした心情は村落共同体に暮らす人ならだれでも持っている。日本人は新しく入ってくる村人が自分たちの既得権益を脅かすことを恐れる。世話をかけず自力で生活し、なおかつ自分たちを助けてくれたり、何かおすそ分けしてくれることを期待する。何かくれるからといって威張ってはならない。そのため、村人は飛び抜けて優秀でもないが世話をかけすぎることもない中庸な人たちを求めるのである。

一方で「日本人でも日本人らしくない人」がいると言っているのだが、これは「俺に尽くさない人が多い」ということを意味しているのではないかと思える。「誰も俺の言うことを聞かない」という不満の表明である。俺は長い間雑巾掛け(自己主張せず他人に尽くす)をしてきたのだから、そろそろ後輩ができてもよいころだと考えるわけである。いつまでも部活の一年生状態は嫌なのだ。

最後の文章はゲストステータスを示す。これも日本の移民政策上のキーになっている。短期滞在のステータスでいるかぎりは「ゲストとして扱って」美しい日本というものを見せてやろうという表現だ。日本人は客人を大切にするという自己認識があり、それを発露したがっている。しかし、長期的に滞在すれば、いつかは自分たちのコンペティターになるかもしれないし、世話をしてやらなければならないかもしれない。それは困るわけだ。保守の人たちは外国籍の生活保護を極端に嫌がる。

ということで、この文章は日本の保守と呼ばれる人たちのこころねをよく表しているように思う。言い分はわからなくもない。だがこの心情が日本の国際競争力を削いでいる。村落は加入の要件が厳しすぎて窮屈な上にメリットがない。だから若者は都市に出て行く。

都市近郊にはこうしたしがらみを嫌った「かつての青年」たちが住んでいる。彼らは高齢化してもご近所付き合いを嫌う。かつての窮屈さを体験しているからかもしれない。おすそ分けですら「もらったらすぐに返礼しなければならない」と考えて「面倒だからやめてくれ」ということも珍しくない。しかし、その帰結は都市での孤立だ。

実は日本の保守層が感じている。俺は雑巾掛けをしてきたのに誰も俺のために雑巾掛けをしなくなったという不満は、人々が長い間の貸し借りから逃げ出しているということの裏返しなのだろう。会社の場合「俺が10年尽くしても会社は存続していないかもしれない」という懸念がある。非正規だからそもそも会社には期待しないという人もいるかもしれない。この雑巾掛け理論を社会保障に組み入れたのが年金制度だが「どうせもらえないかもしれない」という不安がある。まずは雑巾掛けをして後から受け取るというスキームはいろいろなところで崩れているのだ。

このような問題が国際レベルでも起きている。優秀な人たちは、どこで働くかを選べる。だから、わざわざ窮屈な国を選んだりはしない。たいていは英語が通じて、余暇があり、面白く生活できる国に移住するだろう。一方で、選択の余地がない人たちは日本に来るかもしれない。しかし、現在の日本の移民政策では数年で祖国に追い返されてしまう。すると限られた年限で(仮にそれが違法であっても)稼げるだけ稼ぐ。しかし、それもできないとなると噂はすぐに広まり移住先の選択肢からは排除されてしまう。海外の労働者は保守層に尽くすために生きているわけではなく、自分たちの豊かな生活を求めているからだ。

このように考えてみると、保守というのはあまり難しい概念ではないように思える。長期的な構造が定まればいつかは自分が敬ってもらえるという見込みを持った人たちが保守なのだろう。「他人を敬って尽くしたい」という人は誰もおらず、敬って欲しがっている人たちだけが残ったのが現在の保守なのかもしれない。

このように書いてくると「勝手に他人を分析するな」とか「俺が敬ってほしいから言っているのではない」などという感情的な反論が予想される。「俺を尊敬しろ」とは言えないので「世界に類を見ない日本の歴史のために、日本人は我が身を投げ出すべきだ」というインダイレクトな主張をする。そればかりか基本的人権を憲法で制限しろなどという人さえいる。それも政治的な主張としてはあり得るかもしれない。

しかし、そのように苛立ってみても基底にある不安は解消しないし、憲法を改正しても誰も「あなた」を敬うことにはならない。長期的な構造が崩れたのは終身雇用という体制が崩壊し「雑巾掛け」の意義が薄れているからだ。ここを脱却しない限り、不安は解消されないだろう。

と、ここまで書いて終わっていたのだが、ニューズウィークにAlt-Rightと呼ばれる人たちについての記事が載っていた。排他的な意見を持った人たちらしいのだが、かつてはリベラルだと思われていたシリコンバレー系の人にも思想として広がっているのだそうだ。2007年ごろには「優秀な移民はアメリカの国力を増す」という人たちが多数派であり、Alt-Rightな思想は異端に過ぎなかった。しかし、様相は変わってきているようである。

民主主義の本場アメリカでも民主主義疲れする人が増えているわけで、洋の東西を問わず、中流層に漠然とした不安が広がっているのかもしれない。日本でヘイトスピーチに加担する人たちも、世間では穏健で仕事ができる人なのかもしれない。

豊洲移転問題 – 山本一郎氏に反論する

山本さんが新しいコラムを執筆された様子です。詳しくはこちら。要約すると「専門家委員も政治家も報告書を読んでなかったのに今更騒ぐの?」という話。それはその通りですね。

で、以下は「魚市場は単なる流通拠点だからさっさと移転すれば」という話に関する考察です。


築地市場の豊洲移転問題に新しい進展があった。山本一郎氏が「潰れかけている店が騒いでいるだけなのだからさっさと豊洲に移転すべきだ」と言っている。

確かに山本氏の言い分は正しいと思う。築地の問題は実は大規模流通業者と中小仲卸の対立になっている。中小業者は移転で発生する設備の更新に対応できない。家賃も実質的な値上げになる。加えて築地のコマ数は限られているので、新規参入も難しいし、加入権が高値で売買されたりする。だから中小は移転に反対(ないしは積極的に推進したくない)立場なのだ。

では、すぐさま豊洲に移転しても構わないかと言われればそれもまた違うように思える。東京の職人気質の食文化は中小業者が支えている。この生態系は十分に調査されておらず、中小業者がどのような役割を持っているかがよくわからない。大量消費を前提にしていないので、数年後には東京から美味しい寿司屋が消えていたということもありえる。

もし東京が数年後の「おもてなし」を重要視するなら、築地の移転を取りやめて、どうしたら東京の食文化を守ることができるかを調査すべきだ。大規模業者は移転すればよいと思うが、中小の一部は築地に残るべきかもしれない。実は同じ魚市場でも機能が異なっている。

つまり、反論は「東京は世界有数の食のみやこであり、築地は観光資源だ」という点に論拠がある。すでに産業論ではなく、観光や伝統工芸をどう保護するかという問題だということだ。だから、その前提に対する反論はあるだろう。

まず、寿司屋は大量消費を前提するように変わりつつあるかもしれない。小さい子供にとって寿司屋といえば回転寿司を意味する。大量に魚を買い付けて全国で均一的に提供するというシステムだ。もし、これを是とするなら築地は必要がないし、細かな客のニーズに応える中小の仲卸も必要はない。設備投資にお金をかけられないなら淘汰されてもやむをえないだろう。

次に地方にも独特の魚文化がある。しかし、高級魚は都市の方が高く売れるので、東京に流れてしまう。例えば房総半島で獲れた魚の多くは地元を素通りして築地に流れている。仮に築地に伝統的な仲卸がいなくなれば、寿司ツーリズムのようなものが生まれるかもしれない。やはり地元で食べた方が美味しいからだ。福岡や仙台のような拠点では築地のような問題は起こっていないのだから、おいしい寿司はやはり福岡でというのも手だろう。福岡の人は佐賀の呼子までイカを食べにゆくこともあるし、塩釜にはおいしい寿司屋がたくさんある。地方ではこれが本来の姿だ。

一方、実は地方の魚流通や消費が未整備で東京に依存している可能性もある。だから、地方で高級魚を獲っていた漁師や伊勢志摩の海女さんがが壊滅するということもありえなくはない。実際どうなのかは誰にもわからない。

最近「日本は素晴らしい」というテレビ番組が横行している。確かに魚食文化は日本の優れた伝統なのだが、いつまでも続く保証はない。足元では「魚離れ」が進んでおり寿司さえ全国チェーンに押されている。そんななかで伝統を守るという視点を持つ人が少ないのは誠に残念だ。

実は築地の問題は保守の論客が論ずべき問題なのかもしれない。その意味ではガス会社から土地を買ってあとは役人と民間に丸投げするような知事は保守とはいえない。自称保守という人たちは軍隊を持ったり、天皇についてあれこれ言及したり、他人の人権を制限するのは好きだが、足元の暮らしを守ろうという気概は感じられない。そんなものはほっておいても存続すると思っているのかもしれないが、そういうものの中にこそ伝統というものは存在するのではないだろうか。

教育コミュニティと社会的報酬

最近、中古のMacintoshを手に入れた。最新OSが乗る物を1つは置いておきたかったのだ。セットアップすると分からないことが多く、いろいろなディスカッションボードで質問をすることになる。そこで「コミュニティと社会的報酬」についていろいろ考えた。

Appleのディスカッションボードはかなり紳士的だ。実名・匿名が入り交じっているのだが、回答者の知識は豊富で実践的な提案もある。最近はiPhoneユーザーが増えて「シロウトっぽい」質問も多いのだが、それにもできるだけ丁寧に答えている。

Appleのディスカッションボードが荒れないのは、ランク分けによる社会的報酬が与えられているからである。回答がよいと「役に立った」とか「問題が解決した」という評価が与えられ、バッジが上昇する。また、ランクが上がるとリアルのイベントに招待される仕組みもあるようだ。このリアルとつながっているというのはとても重要らしい。

一方で荒れているコミュニティもある。Yahoo!知恵袋で「デジカメ一眼レフのおすすめ機種を教えて」などと言えば「素人は何を買っても同じ」とか「自分が撮るべき写真がわかってから質問しろ」などという辛辣な回答が並ぶ。いわゆる「自己責任論」も横行している。上から目線でデタラメな回答(本人は正しいつもりなのだと思うが)を羅列する人も多いし、自分が知らないことを隠蔽するために自己責任論をひりかざす人もいる。「あなたがトラブルに巻き込まれたのは、あなたの不注意のせいだ」と言い、質問には直接答えないのだ。

荒れるコミュニティにはいくつかの要素が絡まっていそうだ。第一に「知識を持っている人は偉い」という序列意識がありそうだが、それだけは全てを説明できない。もし「くだらない質問だ」と思うなら答えなければいいだけなのに、なぜわざわざ長い時間をかけて他人を罵倒するのだろうかという点には疑問が残るのだ。

素人の質問に不快な思いをしているのだろうと思われるのだが、ではなぜ「不快な気持ち」にさせられるのだろうか。

多分、書いている本人が何らかの不満を抱えているのではないかと思われる。自分はこんなに知識があるのに、なぜ他人は理解してくれないのかという気持ちだ。それを他人にぶつけているのだろう。結局のところ「社会的報酬が得られない(平たい言葉でいうと評価されていない)」という不満を他人にぶつけているのではないかと考えられる。

こうした情景はYahoo!知恵袋だけでなく、様々なコミュニィで見られる。放置されていて社会的報酬が与えられないと、不確実な知識が増え、自己責任論が横行し、言葉遣いが荒くなる。ディスカッションボードはまだ「ソリューションオリエンテッド」だが2ちゃんねるはさらに荒れていてほとんど妄想に近いような解決策が話し合われている。

リアルでもこうしたことは珍しくない。現場が顧みられず、知識が評価されない企業でも似たようなことを目にする。たいていは教育に問題が起こっており、知識伝達が機能しない。一方で知識に対して社会的報酬があると知的満足が充足し、事故解決能力の高い組織が作られる。

本来ならボランティアワークで奉仕の精神が求められるはずの教育なのだが、実際には人は社会的報酬なしでは紳士的に行動できない。そこで費用を出してでも社会的評価をする必要があるのだ。