刺青とタトゥー – 伝播と歴史

NHKで海外からの観光客の呼び込みについてのプレゼンテーションを見た。その中に、銭湯でタトゥーが入っている人たちを一律に排除するという話が出てきた。観光客が来ただけでこれだけ大騒ぎになるのだから、移民の受け入れなんか絶対に無理だろうなあと思った。

その中にオセアニアの女性が顔の刺青で差別されたという話が出てきた。その民族の間ではタトゥーには家紋としての役割りがあるそうだ。こうした伝統は太平洋沿岸に広がっており、かつての日本も例外ではなかった。中国の古い書物には倭人が刺青をしていたという記述があるという。台湾の原住民は今でも刺青が通過儀礼になっており、日本もこうした太平洋世界の一員だったということがわかる。

だが、日本での刺青はその後廃れてしまう。代わりに刑罰として刺青を入れるという伝統が生まれた。太平洋原住民の伝統がなぜ消えたのかはわからないが、刑罰としての刺青には「犯罪者は真っ当な人には戻れない」という意味合いがあり、大衆に対しての抑止力としての効果が期待されたのだろう。

ところがこれはいささか浅はかな考え方だったようだ。犯罪者たちは社会に受け入れてもらえないので、自分たちで集団を作るようになった。社会復帰を許さず犯罪者に差別感情を向けると、犯罪組織が定着してしまうのである。ならずものの集団は刺青を様式化して仲間のシンボルとした。日本人は自分のドメインに関しては真面目なので、刺青の様式は精緻化し芸術の域まで高められることになった。

こうした犯罪者を社会から排除する」という意味合いの刺青は西洋にも見られる。ドイツ人はユダヤ人を収容所に入れる前に番号を書いた刺青をした。家畜に焼印を押すような感覚だったものと思われる。きわめて残虐な行為だ。

だが、西洋の刺青は太平洋経由で持ち込まれた。タトゥーという言葉は太平洋語(もともとは台湾あたりが発祥とされる)由来だ。このように、西洋のタトゥーは冒険や蛮勇の印と考えられている。イギリス王ジョージ五世は日本人に刺青を入れさせたことで知られている。軍人として諸国を訪れたさいの「お土産」と考えられたようだ。ジョージ五世は横須賀でスカジャンを買うような感覚で刺青をいれたのかもしれない。アメリカでも軍人が海外赴任する前に勇気を鼓舞したり、愛国心を確かめるためにタトゥーを入れる伝統があったようである。

このように限定された人たちの間の流行りだったタトゥーが西洋で一般化するようになった経緯はあまりよくわかっていないようだが、一時の流行ではなく定着しており、アメリカでは5人に1人が刺青をしているという調査もあるそうだ。

思い浮かぶのはサッカー選手だ。もともと下層階級のスポーツだったサッカーが世界に広まる過程でタトゥーも広がったものと考えられる。今ではベッカムのような白人や日本人の間にも広まっている。ベッカムがファッションアイコンになる過程で若者にも影響を与えている。

日本の銭湯や地方自治体が刺青を一律に禁止するのは、個人で責任を負いたくないからだろう。「〜ということになっている」とすれば、個人の責任が減免されると考えるのだろう。確かに犯罪者の印である刺青の入った人たちが集まれば、普通の人たちは怖がって入らなくなるだろう。だが実際には刺青は多様化しているので一律にルールを作って解決することはできない。

これを解決するためには「担当者に権限を与えて現場で判断させる」必要があるのだが、権限移譲して責任を持たせるのは日本人が苦手とする作業である。現場の判断は「仕事を楽にする」ほうに働きがちで、現場の風紀の緩みや安全性の低下につながる。これは日本人が成果を末端の構成員には渡さないので、組織の責任を果たそうという気持ちが生まれにくいからだろう。日本人は自分のドメイン以外のことには極めて無関心なのだ。

だが、タトゥーと刺青が区別されないのも当然のことである。各地の歴史は結ばれており、複雑に反響し合いながら変化し続けている。太平洋の文化が西洋に広まり、日本の犯罪者組織の間で芸術の域にまで高められた刺青はイギリスの王様に影響を与える。それがサッカー選手を通じて日本に逆輸入されるという事態になっている。もう一つのルールだけで全てを規定することはできないのである。

なぜ日本の政治は歌舞伎化してしまったのか

さて、先日来政治の演劇化について考えている。

アメリカでは、現状を打破してくれそうなトランプ候補に人気が集まった。プロレスやリアリティーショウで大衆の心を煽る手法を身につけたトランプ候補は当初「政治でなくリアリティーショウ」などと揶揄されていたわけだが、実際には、実際の政治は信頼できないと考える有権者を掘り起こし、従来の誠治参加層を離反させた。念入りに作り込まれたドラマが忌避されてリアリティーショウに人気が集まるのに似ている。旧来からのテレビの視聴者は離れてしまう。

一方、日本の政治は歌舞伎化している。実際には外国の状況や衰退してゆく人口動態に振り回されているだけなのだが、自民党は力強い統治者を演じ民進党がそれに反対するという図式である。問題解決ではなくテレビが入った時にいかに悲壮な顔をして反対して見せられるかというのが、野党政治家の一番の腕の見せ所になっている。問題解決は出来ないが、何か問題提起をしてそれがテレビニュースに乗れば一躍「朝生討論会」メンバー入りである。政治家はひな壇芸人化しているわけで、政治のバラエティー化と言える。

両国の現状は、政治が普段の生活から遊離してしまっていることを意味している。

アメリカの場合はそれでも選挙キャンペーンに有権者が参加することができる。有権者は対話を通じて目の前の問題について学ぶことになる。一方日本にも自分たちの問題に目を向けるチャンスはある。こうした問題は地域の自治会などで取り扱われている。自治会が扱う問題は国の規制の問題に行き着く。つまり地域と国は連動しているのだ。

これとは別に住民相談室を作っている地域政党もあり一定の支持者がいる。たいていの場合には「消費者のネットワーク」が母体になっているようだ。

しかしながら、自治会や消費者組織は一般化することがない。いろいろな問題がある。

第一に日本人の有権者が消費者化している。日本の政治はもともとは臣民型と呼ばれていたそうだが、アメリカに解体された。その後、紆余曲折を経て有権者は税金を払ってサービスを受益する消費者になった。これは皮肉な例えでもなんでもなく、市役所などでは有権者のことを「お客様」と呼ぶことがある。

もともと自民党は地域の生産者団体を組織してできている。地域生産者とは農家や地域の中傷零細企業だ。もともと政治は生産と結びついていた。しかし、長い歴史の中で有権者は生産者ではなくなり、ついには正規従業員でもなくなりつつある。それを受け入れる政治団体はないので、国民の政治離れが進むのである。

非生産者が政治に参入しないのはどうしてなのだろうか。

バブルを知っているくらいの世代の人たちは、左翼がもっと暴力的だった時のことを知っている。大学にはアジトがあり、普通の学生は「政治とは過激なものだから近づいてはいけない」ということを学ぶ。彼らは勉強もしないで7年間も闘争するドロップアウトであった。普通の知識人(といっても都心の大学生くらいのレベルだが)にとっては、政治はテレビで見るものであり参加する(といっても角棒を持ってデモに参加することだが)ものではないのだ。

自治会に入るのも敷居が高い。地域には「仕切り屋」がいる。仕切り屋たちにはいろいろな流儀があり、それ以外のやり方は許容しない。日本人は村落を作って落ち着くのを好むので、多様性を受容するのに慣れていないのだ。地域の中には退職前の職業が違うために、やり方が合わないという人たちが必ずいる。こうしたところに新規参入者が入ると大変なことが起こる。「どちらの味方になるのか」ということになってしまうのだ。

バブル期の大学のアジトと自治会は違っているように思えるのだが、実際には多様性を許容しないという点では似通ったところがある。違いは血の気の多さくらいだ。大学のアジトは闘争を繰り返し、小さな集団に分裂した。これは決め方を闘争によって決めようとしたからだ。国会が「プロレス」だとしたらこちらはストリートファイトのようなもので、実際に死人も出ている。

自治会の場合は気軽に引っ越せないので、そのまま耐え忍ぶしかない。集合住宅の中には「お金で解決する」人たちもいる。管理会社が自治会に入り、居住者は管理費を払うという形式だ。これは自治会が単なる「お掃除当番」だと見なされているからである。

日本の地域政治に消費者団体と自治会組織の二本立てになっているのは、お母さんが政治参加しようとしても自治会では主役になれないからだ。「お前は世の中のことは何もわかっていない」と決めつけられてしまうので、消費者団体などに避難してしまうのだ。

政党も自治組織や消費者組織を活かし切れているとは言えない。政治家は「仕切りたがる」人たちなので、こうした団体を自分たちのファンクラブだとしか考えていないからだ。そのため、独自の候補者を立てない消費者団体(現在では高齢化の問題に対処いている人たちも多い)は各所からくる応援要請を「どれにしようかな」と選び、付かず離れずの態度を取ることがある。取り込まれてしまうのを恐れているのだろう。実際に話を聞いてみるとその態度はかなり冷ややかである。

地域の団体は生存を危機にさらすような闘争を避け、ニッチを獲得するとそこで場を支配したがる。素人の「政治家」は人を利用して自分の利益を追求しようというずるさを持たないので、たいてい協力者がいない。

まとめると、日本では多様性のなさとリーダーシップの欠如から政治の演劇化が進んでいるものと思われる。これが政治の演劇化を加速しているのではないかと考えられる。

政治的な相互依存状態を確認するには

最初に政治的相互依存という概念に気がついたのは軍事アナリストの小川和久さんという人のツイートを見た時だった。ということで、偉大な洞察を与えてくださった小川さんには感謝したい。

さて、日本の防衛政策は行き詰っている。アメリカが国力を維持できず、アジア地域からの暫時撤退を希望しているからだ。安倍首相はアメリカをつなぎとめるために、憲法を無視した安保法案を成立させた。今でも南スーダンに行くのは現地の邦人保護ということになっているそうだが、実際には多国籍軍事活動への参加だ。

ここまで無理をしたのに潮流は変えられず、トランプ大統領時代にはこのトレンドはもっと顕著なものになりそうだ。安倍さんはアメリカにフリーライドして中国に対抗しようとしたわけだが、アメリカ人はその意欲を共有してはくれなかった。

安保法案が一部の国民のアレルギー的な反対にあっている時に小川さんがやったのは2つのことだった。「日本が独自で防衛するととんでもない出費になりますよ」といって国民を恫喝することと「実は日本はアメリカの大阪本社である」という仮想万能感を鼓舞することだ。

これはアメリカ人の実感とは異なっているだろう。第一に日本はキリスト教文化圏に属していないためにヨーロッパのようにアメリカのパートナーにはなりえない。次に沖縄はアメリカの利権であって、日本が協力して提供しているわけではない。最後に兵器の改良や長距離化が進んでいるので、無理をしてまで日本に基地をおく必要は無くなっている。

だからこの「大阪本社論」には小川さんを支持している人たちの気分を少しマシにするくらいの効果しかない。例えていえば朝鮮王朝は「朝鮮は小中華なのだ」と言っているのと同じことである。属国の中でも特別な属国なのだと言っているのだが、清が体調すると最終的には日本に占領されてしまった。

さらに「独自試算」は日米同盟をつなぎとめたい防衛省コミュニティから出てきているようだ。具合の悪いことに日本の軍事費はGDPの1%という低率であり諸外国からは「もっと出してもよいのでは」と言われかねない。現実的に「フリーライド」状態にあるものと考えられる。かといって、防衛省の言い値で軍事費を調達するととんでもない額になりそうだ。これは防衛省に調達能力がなく、防衛産業が寡占だからだろう。ある意味オリンピックに似ている。

考えてみればわかることだが、外国が3%程度の軍事費を使っているのに日本だけが10%などになるとは思えない。よっぽどの買い物下手ということになってしまう。かといって2%になっても、今の2倍のコストとイニシャルコストがかかる。日本は海が広域な上に軍事上の同盟関係を作ってこなかったのでヨーロッパのような集団防衛(もちろんこれは憲法改正が必要なのだが……)ができないのである。

つまり、日本の防衛政策はとても難しい判断を迫られている。

しかし、小川さんたちは新しいスキームを提供しようという努力をしない。その能力がないのだろう。着想はできるかもしれないが、政治的なリーダーシップは発揮し得ない。日米同盟に頼りきりになり、何も準備をしてこなかったからだ。

安倍首相も基本的人権の否定という政治的には無意味なキャンペーンには政治的リソースを使っているが、日米同盟後をどうするかということについては無関心だ。同盟関係の見直しは政権基盤を揺るがしかねないわけで、リスクを避けているのだろう。

代わりに彼らがやっていることは何だろうか。それは、軍事費などには興味がなく、単に「戦争のような汚いことには手を染めたくない」と言っている人たちが繰り出す無知な批判を「科学的な批判ではない」といって逆批判することだけである。不都合な現実には目を背けることができるし、馬鹿な左翼をいじっている時だけは優越感に浸ることができるからである。

つまり、彼らは相互依存状態にあるということになる。新しい提案をし得ない左翼が批判する人たちを必要としているのは明白だが、実は批判される人たちも左翼を必要としているのだ。

だが、自分が依存状態にいるかどうかということは自分ではよくわからないのではないだろうか。これを確かめるためにはなにかを作ってみるとよいのではないかと思う。何かと忙しくなるので、ぴったりと張り付いて批判者を見つけるのに時間を使うのがバカバカしくなる。

つまりは、相互依存は実は不安の裏返しだったということがわかるのである。「建設的な議論をしろ」とは思わないのだが、結局一人ひとりの意識が変わることによってしか状況は動かせない。

と、同時に何かを作るためにはリソースが必要だ。相互依存的な批判合戦と炎上が蔓延するのは、実は創造的な活動に使う時間やお金といった資源が不足しているということなのだろう。

なぜ安倍首相の支持率は高いままなのか

安倍首相に人気があるのは世論操作ではない

Twitterで安倍首相の支持率が高いままなのはNHKが世論操縦しているからだというようなことを言う人がいる。しかし、これはあまりにもうがった見方なのではないかと思う。実際には安倍首相は国民のニーズを捉えているのではないだろうか。

トランプが大統領に選出されて日本人はかなり動揺したようだ。トランプが日本を敵視しているということはなんとなく知られていたからだ。宗主の機嫌を損ねれば日本は危ういと考えた人が多かったのだろう。日本人は権力と良好な関係を保持している状態を好むのだと考えることができる。関係性を意識しているのだろう。

日本人のニーズとは何か

日本人が恐れているのは現状が変わってしまうことだ。そのために緩やかな衰退を選択した。変化を起こせば状況が好転するかもしれないが、それが自分のところに及ぶかはわからない。で、あれば相互監視して勝ち組が出ないようにした上で、みんなで貧くなって行こうという選択である。

だから日本人は「今までどおりで大丈夫」と言ってもらえることを望んでいる。安倍首相はこのニーズに沿って行動しているに過ぎない。

実際には日本人は貧しくなっている。一人当たりのGDPは凋落の一途をたどる。先進国と中進国が成長を続けている一方で日本だけが成長していないからである。だが、そのことに日本人は気がつかない。みんなで貧しくなっているからだ。

もちろん、脱落するのも嫌なので手助けはしないで「自己責任」で切り捨てて行くし、学術の基礎研究や企業の国内投資のような未来への投資はしない。凋落してゆくのが分かっているから、未来への投資は合理的な選択肢と考えられないのだろう。

変わらないために政策が首尾一貫しないというのはおかしい気がするのだが、変えてはいけないのはアメリカとの関係なので、日本はアメリカの動向次第で日本の政策を転換しなければならない。だから、国内政策が一貫しないということになる。しかし、これもおおむね国民の合意が得られている。

もっと古層にある変わりたくない人たち

日本の政治をモニターしている人は、安倍首相が基本的人権を否定するような動きをしていると指摘するかもしれない。しかしそれはもっと昔の「変わってはいけない」を代表しているに過ぎない。それは、日本が戦争に負けてしまったという歴史的事実を受け入れないということである。中国や韓国が経済的に台頭したこともこの動きに拍車をかけており「敵」の姿は複雑になっている。

もう一つ安倍首相の支持率が高い理由は、左右対立にあるのだろう。アメリカの二大政党制はアイディアのコンペティションだが、日本の左右対立は、戦後すぐの東西対立が日本に持ち込まれた結果ガラパゴス化したものだ。

東側陣営は1989年に崩壊したので左派は人権や環境に逃げ込んで難民化した。人権や環境は左派のアシュラムだった。さらに厄介なことに、連合が正社員の労働組合であり既得権益化してしまっている。彼らも変わりたくないという点では、典型的な日本人気質を持っている。

さらにその下には非正規労働者の層が広がっているのだが、彼らを代表する政党はない。彼らは自己責任のもとに切り捨てられてしまった人たちだ。だが、もともと何も持っていないので変わりようはない。

対立が相互依存に変わるとき

一方の右派はアメリカに追従して経済利益を守ろうという人たちと、日本の敗戦や相対的な国力の低下を認められない人たちに分離している。中にはこれが一緒くたになっている人もいるかもしれない。1989年に共産主義が崩壊したように自由主義経済も今の形では存続しそうにない。トランプ大統領が「自由主義はアメリカから仕事を奪った」と宣伝したためである。

今、右派は明らかに混乱しているのだが、それを見ないようにしている。便利なことに、左派が繰り出すめちゃくちゃな非難を「デマだ」と言ってさえいれば、自分たちの矛盾を直視しなくて済む。そして「現状維持こそが最善なのだ」とつぶやき、自己肯定ができる他人の呟きを検索する。これは合理的な主張ではなく単なる願望なのだが、これには仕方がない一面がある。他に選択肢が見つからないからだ。

左派は右派なしでは存続できない。文句をいう相手だからだ。しかし、右派も現実に負けかけているので左派なしでは自我を保つことはできない。つまり、左右は敵同士ではなく、相互依存していることになる。

皆様のニーズに応えるNHK

「変わらない」ためにあらゆる無理を重ねているので、真実を直視することはとても難しい。本来なら目の前にある情報を見て、行動を決めればいいだけなのだが、それができなくなってしまう。そこで、言葉を言い換え現状から目を背けるという選択肢が生まれる。その意味ではNHKは政府のプロパガンダを行っているわけではないのではなく、国民の期待に応えているのだ。

日本にも仮想万能感を持っている人たちは多いと思うのだが、トランプのような扇動政治家は現れない。橋下徹が「インテリの敗北だ」と言っていたが関西以外には広まらなかった。東京を置き換えた怒りにただ乗りしようとしたのだろうが、うまく行かなかったようだ。これは日本人が等しく貧しくなっており、置いて行かれたと考える人が少ないからなのかもしれない。

保守という欺瞞

櫻井よしこという「有識者」がとんでもないことを言っている。訳すると次のようになる。

天皇は個人としていろいろやっているみたいだが、そんなのは趣味みたいなもんだ。ただ、黙って存在していればいいわけで、体が悪くなったからといって途中で逃げ出すことなどあってはならない。そういうこともあるから、明治政府は天皇が退位できないようにしたのだ。

櫻井さんは家族に対して倒錯した考えを持っているのだろうと思い調べてみた。お父さんが早く家を出て母親に育てられたそうだ。父権というものに過度な幻想を持っているか、敵意を反転させているのではないかと思う。

だが、この意見自体は、いわゆる「保守」といわれる人たちの総意のようなので櫻井さんを攻撃したいとは思わない。前回のエントリーで「人権派」と呼ばれる人たちが実は人権を信じていないということを考察したので、日本人は右派も左派もイデオロギーというものを信じないという特性があるのだなあという乾いた感想を持った。内的な怒りをぶつける先になっているのかもしれない。

右派の特徴は、個人の徹底的な排除である。天皇すらその例外ではなく、家のために殉じるべきだという考えなのだろう。面白いのはその中で「自分だけは例外である」と考えている点なのだが、もしかしたら自分に価値を見出せないからこそ他人の価値を剥奪したがるのかもしれない。

このように都合よく考えられなければ、自分も「殉じる」側に回る可能性を考えるはずである。逆に天皇のことをなんとも思わないからこそ「利用できる」と考えることになる。そう考えると右派というのはイデオロギーではなく病気あるいは認知のゆがみなのだということが分かる。

もし日本をひとつの家と考えるなら、その家長である天皇がいなくなったらどうしようということを「わがことのように考える」はずだ。しかし、いわゆる皇室擁護派の人たちにはその意識が希薄だ。実は天皇家は題目のようなものであって、なくなったら次の題目を持ってくればよいと考えているのかもしれない。日本は天皇を中心とした家であるなどといいながら、実際には心理的に乖離しているのである。

どうして右派保守はこういう人ばかりを吸い寄せるのだろうと考えたのだが、やはり天皇制に問題があるのではないかと思った。天皇は政治的権能を有しないことになっているので政治的発言を避けてきた。しかし、何も言わないからこそ「それなら代わりに何か言ってやろう」という人をひきつけることになる。なぜ、天皇の権威に行き着くかというと、それ以外では言うことを聞いてもらえなかったからなのだろう。別の成功体験(例えば経済的に成功した)などがあればそれが拠り所になっていたのではないだろうか。

これを防ぐためには次の天皇は積極的に情報発信すべきかもしれない。政治的な権能がないからといって何も発言をしてはいけないという決まりはない。まずはTwitterあたりからはじめてみるのがよいのではないだろうか。イギリスの女王も政治的には中立でなければならないので投票などはできないようだが、確かTwitterアカウントは持っていたはずだ。

櫻井さんを見ていると、保守というのは、成功体験がなく認知機能に問題がある人なのだということになってしまう。だからこそサイレントマジョリティが安倍政権を支持するのかもしれないのだが……

パククネ・トランプ・安倍晋三

パククネ大統領に抗議する人々の群れを見ながら、これアメリカや日本と何が共通して何が違っていたのだろうかと考えた。割と共通するところがあると思える一方で、アウトプットはかなり異なっている。

トランプの図式が一番わかりやすい。人々はある理想を追いかけたがそれは叶わなかった。そこで変革したいが、人々は解答を持っていない。そこで全てを総とっかえしてやろうという機運が生まれて大衆が殺到した。

ということで、これをパククネに当てはめてみる。日本で伝わっているのはパク大統領が有権者から攻撃されているという点だけなのだが、実際にはそれを扇動している人がいるのではないかと考えられる。自然発生的に集まったものではないのだろう。そして、そこには「裏切られた理想」があったはずである。それが何だったのかはあまり伝わってこない。

日本の場合はもっとわかりにくい。「裏切られた理想」は民進党が担っている。つまり先導者(煽動者)が安倍晋三である。つまり、民進党が何かをやればやるほど安倍首相に支持があつまるという仕組みになっている。ところが韓国のようなリアルな世界での反発は起こらない。代わりに人々が集まっているのがTwitterだ。炎上が繰り返されている。実は日本はトランプ後の世界であると言える。煽動者が機能している限り、怒りは何か別のアウトプットを求めるのだろう。

アメリカではすでに非白人にたいして「国に帰れ」などという動きが出ているそうだ。日本の場合には社会秩序や一般常識といったものが攻撃材料になっているのだが、アメリカの場合には「白いアメリカ性」が問題になるのだろう。

変革は「リベラル」で括る事ができる。つまりまだ見た事がない理想の世界の追求だ。そしてその理想の世界を形にしたのが「イズム」だ。その反動には名前がない。保守というのとも違っている。保守はある意味世界(イズム)でそれを表明して恥ずかしいという事はない。今起こっている運動はイズムではないので人々はそれを表明したがらないのである。

トランプ大統領は自分の政策を表にしたが矛盾だらけで全てを実現できるとは思えない。それを気にしないのは、それぞれの発言はその時々の思いつきの集積だからだろう。だからこそ、受け手は好きな発言だけを受け入れる事ができる。トランプは「マイピープル」全てが喜ぶ政策を実現したいと真摯に考えている。ただ、そんなマイピープルはどこにも存在しない。

例えばヒトラーはドイツ人は東方に進展する権利があると主張して多くのドイツ人の支持を受けた。しかし、その主張にヒトラーイズムという名前が与えられる事はなかった。この「形にならない感じ」が大衆を動かす。もしヒトラーがこれをイデオロギー化していればそれほどの支持を集めなかったかもしれない。それは変革の一部になってしまうからである。人々が「失った」と考えているものが人々を熱狂させるのだが、実際にそれを持っていたかはわからない。

そのように考えると韓国が一番悲惨だなと思った。彼らが怒っているのは民主主義と法治主義が機能していない事だ。だが、実際に韓国に民主主義が機能した時代は一度もない。さらに悲惨な事に彼らは自分たちの力で民主主義を手に入れた歴史もない。でも、だからこそ純粋に怒る事ができるのだろう。

そう考えると、なぜ名前のないイズムがTwitterで蔓延するのかがわかる。一人ひとりがつながっていないので、それをまとまった形にする必要がないし、無理にまとめればどこかにほころびができて崩れてしまうだろう。この繋がっているようで実は分断されているものが煽動を容易にしているように思える。

 

憲法第24条とサザエさん

右翼系の団体がサザエさんを引き合いに出して、憲法第24条の改正を訴えているらしい。ちなみに第24条の条文は次の通り。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

改正論者は父権の回復を訴えているのだと思うのだが、サザエさんは果たして適当な例だったのだろうか。もともと、サザエさんを書いた長谷川町子の家には父親がいなかった。早くに病死してしまったそうだ。このため、サザエさんには父性が希薄である。そのため、磯野波平にはそれほどの威厳はないし、マスオさんに至ってはほとんど存在感がない。彼らは外から収入を持ってくるための記号として機能しているにすぎない。

これが修正されたのはお茶の間の苦情によるものと思われる。例えば、漫画の中でのワカメちゃんはあけすけな性格だったが「女の子らしくない」ということになり、カツオとの間で役割交換があったという話もあるそうだ。このようにキャラが修正されてゆき、ついには時代も止まり(サザエさんができた当時にはテレビも炊飯器もなかったので、アニメのサザエさんはある程度変化していた)今の形が出来上がる。

長谷川家で大黒柱として機能していたのは母親であり、のちに姉妹は夫に頼ることなく出版社を設立した。

つまり、第24条否定派の人たちが本気でサザエさんを理想の家庭だと考えているのだとすると、その意味するところは簡単だ。彼らはサザエさんを理解していないのである。もしサザエさんの家を模倣するとしたら、日本のモデル家庭は母系家族でなければならないということになる。

確かに母系家族にはメリットがある。サザエさん一家には女性の間に主従関係がない。それはフネとサザエが本当の親子だからである。これが嫁姑の話になるとすると、物語は暗転するだろう。フネは無神経な嫁であるサザエに嫌味をいい、サザエはそれを耐える。そして、疲れて帰ってきたマスオにサザエさんが姑の愚痴をこぼすのだ。早く出て行きたいがあなたの稼ぎがないせいでそれが叶わない。それはあなたの稼ぎが悪いせいだということになるだろう。

ここでは考えなければならないことがいくつもある。サザエさん一家が生まれた背景が「戦争による混乱の結果」なのか、そもそも日本の家構造が母系的だったからなのかという問題である。この類の議論が錯綜するのは日本の伝統の模範が武家にあるという前提が置かれるためなのだが、実際には農村はもっと母系的だった可能性もある。

そう考えてみると「権威的な父親の元でまとまる」というような物語は日本では全く見られない。橋田寿賀子ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」でも父性は機能しておらず、実質的に取り仕切っているのは母親(母親が死んでからは血族ですらないお手伝いさんが代行している)である。父親が紛争解決に出てくる場合はたいていお金で解決している。橋田寿賀子にとって父性とは経済力(つまりはお財布)なのだろう。あのお父さんは大企業に勤めていたという設定なのだが、それにしてもいくら貯金を持っていたのだろうなどと考えてしまう。

もし、憲法第24条が家の規定であるとして、それを日本風に変えるとすれば、母系に改めるべきかもしれないと思ったりもする。

さて、今回例に出したのはどちらも女性の書き手による。一方の男性は家庭にほとんど興味を持たなかった。それは家が事業の主体でなくなってしまったからだろう。

一連の考察から、憲法を新しくするとしたら、事業や安全保障の主体としての家をどのように位置付けるかという議論が必要になることがわかる。だが、日本人は観念的なことにほとんど興味を持たないので、そもそもの議論が起らない。

普段の家庭を観察すると、子育てのために嫁が実家との結びつきを重視するという傾向が見られるはずで、父系の関係はむしろトラブルの元になっているのではないかと思う。つまり、経済的な裏打ちのないままで父系中心にまとめると、日本の家庭は相当混乱するだろう。

韓国と日本の集団社会の違い

韓国の大統領がまた炎上している。韓国の大統領は地域や血族を優遇して炎上するのが常なのだが、今回の大統領は血族とは疎遠だった。しかし、お友達を優遇していたようだ。最初は情報を漏らしたことが問題視されていたようだが、企業からのお金も流れていたようだという話に発展しているようだ。

なぜ、韓国ではこの手の話題がなくならないのだろうか。それは韓国が氏族社会だからである。氏族は安全保障の単位として機能している。だから、何かあれば集団を頼るのは当然なのである。

もう一つの韓国の特徴は強いリーダーシップだろう。裏には権力格差を意識する社会構造がありそうだ。このために大統領には強い権限が集中し、周りの人たちもそれを是認する傾向がある。しかし、権力は天賦のものではないので人気が終わりに近づくと周りが騒乱状態に置かれるのだ。

「韓国は民度が低い」と笑うのも一興なのだが、ここで興味深いのは日本との関係だ。日本には氏族はなく、強いリーダーシップも見られない。氏族がないので身内への贔屓のようなことは少なくとも国レベルでは起こらない。またリーダーシップも強くない。

安部政権は安倍晋三の強いリーダーシップの元にまとまっているように見えるが、実際には党首と地方領主の相互契約に基づいている。このため、いろいろな問題が起きている。

例えば小池百合子は未だに自民党を離脱していない。都の組織から見れば若狭勝とともに造反者なのだが、領地を自力で獲得してしまったために、安倍晋三が小池百合子を応援し、小池百合子が若狭勝を応援するという奇妙な構図が生まれた。

さらに福岡では麻生太郎が応援する一派と鳩山邦夫の支持者が激突し、勝った側が領地を獲得した上で自民党の公認を得るということが起きてしまった。

もっとも懸念されているのがTPPをめぐる混乱である。もし安倍晋三が強いリーダーシップを持っていれば山本農林水産大臣を黙らせることができたはずなのだが、山本大臣は「失言」を繰り返している。

TPPというのは旗の役割を果たしており、実際にはそれ以上の意味合いを持っていない。野党がTPPに反対しているのは、自民党が賛成しているからにすぎない。と同じように「どうせ勝てる戦争」だと考えた自民党の兵士たちも本気では戦わないのである。強行採決という言い方が嫌いならば、「議会などリチュアル」なのだと言い換えてもよいだろう。山本大臣の領地は高知にあるそうだ。

日本がこのような契約社会になったのは、大きな敵がいなかったからだろうと考えられる。強いリーダーを立てて、弱くなったら捨てるという行動様式が生まれたのは、韓国が基本的に中国の脅威にさらされた小国だったからだろう。

ここまで整理できるとアメリカとの関係が見えてくる。日本は移動が少ない社会なので共通言語ができやすい。このため全てを形にする必要がない。一方、アメリカは移動の多い社会なので共通言語ができにくく、全てを明文化する必要がある。このため英語で契約というと明文化されたものを指すはずである。つまり、日本は非言語型の契約に基づく分散型の社会なのだとまとめることができる。

TPPが厚い文書になったのは「紛争解決の際には双方が真摯に解決を図る」という一文が使えないからなのだが、自民党の関係者はさほど問題視していないようだ。アメリカに忠義を尽くしていれば「悪いようにはされないだろう」という期待があるからだろう。さらにその裏には政府と国民の間には緩やかな調整機能があり、システムが崩壊するような大きなことは起こらないだろうという仮定があるのではないかと考えられる。

日本は小さな利益集団の合邦体なのでそれ以外の集団は全て仮想のものだと言える。

欅坂46がオタクに謝罪すべきかもしれない理由

欅坂46というグループがハロウィーンのコスプレにナチス風の軍服を採用し、ユダヤ人団体から謝罪を要求されているそうだ。これがハフィントンポストに掲載され、逆に欅坂46を擁護する動きが広がった。だが、秋元康はまず日本のオタクに謝罪すべきかもしれない。

欅坂46がナチスの軍服だと気がつかずにあのコスチュームを着用した可能性はある。では、そもそもなぜ、ナチスの軍服=カッコいいと考えられるようになったかを考えてみたい。

ナチスの軍服はアニメの中で何度も登場している。有名なのは「宇宙戦艦ヤマト」と「機動戦士ガンダム」だ。どちらも悪役なのだが、日本人のクリエータはこれを絶対悪としては描かなかった。これは日本が第二次世界大戦で敗戦したというのと関係しているだろう。つまり「絶対悪」とされた側にもそれなりの事情があるということが理解されていたわけである。

ガミラスは惑星が荒廃してしまい生き残りのために地球型惑星を探していた。ジオンはもう少し複雑で被差別階層が選民思想に目覚めたということになっている。ただし、その中から旧人類を凌駕する人々が生まれたというモチーフがあり、実は敵味方ではないのではないかという可能性が提示されている。

そこでデスラー総統やシャー・アズナブルにはアンチヒーローという位置づけが生まれることになった。デスラーは帝国そのものを代表しているが、シャーの存在はもっと屈折している。いずれにせよかつてのオタクはこうした葛藤を理解していた。

ところが、こうした設定がオタク世界に正しく受け継がれなかった可能性がある。単にあのような軍服がなんとなくかっこいいという評価だけが残ったのかもしれない。つまり善悪が作り出す葛藤という側面が抜け落ちているのだ。

欅坂46のクリエーターが「オタクはこれくらいやっておけば受けるだろう」という安易な発想を持っていることが分かる。あくまでもオタクは彼らから見ると対象物であって、その背景にあるコンテクストはまったく理解されていない。かわいい女の子にかっこいい制服を着させれば彼らは喜ぶだろうという安直な姿勢が見える。つまりオタクの劣化を前提にしており、それゆえに稼げると考えているのだ。

この背景にあるのは「悪とされた人たち」の葛藤の物語である。ガミラスですら絶対悪のようには描かれず地球と人類が迎えるかもしれない未来が提示されている。ガミラスとイスカンダルは選択できる未来である。運命を受け入れて滅びるか、他者を犠牲にして生き残るかということである。

ここで、議論になっているのは「なぜナチの軍服だけが悪者扱いされるか」という点かもしれない。たとえばMA1やチノパンももともと米軍由来だが、圧制者のシンボルとしてタブー視することにはならなかった。最近では単にアーカイブ化され街着として流通している。そこには葛藤はないのでハローウィーンの衣装としては面白みに欠ける。

このことからやはり過去の物語性を消費していることは分かる。うっすらとした葛藤の記憶はあるのだが、それは風化しているのだ。

ユダヤ人団体が恐れるのはユダヤ人迫害の記憶の風化なので、彼らが抗議するのは当たり前のことである。クリエーターは彼らに対して「なぜ、こうした格好をさせたのか」ということを説明すべきなのだが、多分「日本のオタクにはこの程度の理解力しかないから」としか言えないのではないかと思う。もし、そうでないならクリエーターは堂々と説明すべきだろう。

また、クリエーターたちは「欅坂46というのはドメスティックでとてもヨーロッパなんかで展開なんかできるグループじゃないんですよ」といっていることになる。だからこそ、海外展開の際のコンプライアンスまでは意識しなかったのだろう。ここでも「日本のオタクはこの程度の似たような女の子ををあてがって置けば十分なんですよね」と言っているということになる。

つまり、演者に意図があったかが問題なのではなく、この程度で十分なんだと考えている点が問題だということになる。愚弄されているのは実はファンなのではないだろうか。

この件に関して一番気持ちが悪いのは当の本人たちがどう考えているかが伝わってこないところだ。アイドルは秋元先生が着ろといったものを着るというのが前提になっているからかもしれない。

意思のないアイドルというのは西洋世界では考えれられないが、日本人男性は意思を持たないお人形のような女性を好むということになり、それそのものが人権侵害だということになってしまう。

ただ、西洋ではスカーフで女性の顔を覆うのも人権侵害だと考えられているのだが、これについては民族的な伝統の問題があり、彼女たちに人権が侵害されているとは一概に言い切れないという微妙な問題がある。ゆえに西洋で人権侵害的だとされるからといって日本人を非難するのはやめたほうがよい。

「フレンズ」というアメリカドラマのエピソードに「スタバで何を頼むかという意見すらない人間は人扱いされない」というようなエピソードがある。一般的な知能を持っている人は意見を持っているはずだというプレッシャーを風刺したものだ。つまり、政治的な意見を持たない人間というのはお人形だと考えられてしまい、それを強要するのも人権侵害だという理屈になる。

ただ、欅坂46のメンバーの中に歴史やオタク文化に詳しい人などいるはずがないという前提を置くのはやめたほうがいいかもしれない。

フィンランド人とエストニア人 – 民族とは何か

エストニアでIT化が発展したのは民族が他国から侵略されても民族が存続するためだという話を読んだ。いい話なのだが疑問が残った。調べてみたがよくわからない。

ご存知のようにフィンランド人とエストニア人の言葉はお互いに通じる。つまりエストニア人というのがなくなっても困らないということになる。たとえていえば九州がなくなっても日本人がなくならないというのと同じような話である。

だが、話はそれほど単純でもなさそうだ。そもそも、エストニア人とはどういう人たちかという点がよくわからない。もともとエストニア人という概念は無かったようだ。この地域の支配民族はドイツ人で、バルトドイツというのだそうだ。その地域が、デンマーク、スウェーデン、ロシアなどに占領されてゆく。フィンランド地域も状況は似ている。違いはドイツ人が北上しなかったという点だけだろう。フィンランド人という民族集団は意識されず、カレリア人とかスオミとか呼ばれる人たちがいただけだった。これがスウェーデンに占領されて逆にローカル意識が生まれたという経緯のようだ。今でもスウェーデン語はフィンランドの公用語の1つだという。

この集団はアジア系の言語を話すコーカソイドの人たちだ。都市ではなく農村に住んでいて被支配層として認識されていた。つまり「山の人たち」だったわけである。ところがそのうちに「民族性」というものを身につけていった。

国と民族というのは別の概念だったのだが、そのうちに民族国家という概念ができて、話がややこしくなった。例えばドイツとロシアが領土を分割した際に、ドイツ語を話す人たちをドイツ圏に移住させるということが起こった。そのうちにドイツのアイデンティティを持つ人たちはもっと西の方に移動することになる。ヒトラーがドイツを東方に拡張するという野望を抱き、それの揺り戻しが起きたからだ。

いずれにせよ、これらの民族性がどのように作られているかということを考えてゆくと「土地に住んでいるドイツ語を話せない人」というのがエストニア人だということになってしまう。つまり、他者によって規定されているということだ。

とはいえこれだけで規定されているわけでもない。北に住んでいる人はフィン人と自認しており、ロシア圏に入っている人たちはカレリア人というアイデンティティを持っている。さらにフィンランドに住んでいるカレリア人やエストニアに住んでいるフィン人などもいる。

いっけん、国がなくなっても民族がなくならないようにという説明は正しいように見えるのだが、実際には民族というものが複雑に規定されていて、一筋縄で生成されたりなくなったりするというものでもないのではないかと思われる。

ヨーロッパの状況を見ると自明に見える民族という概念だが、日本に当てはめるとよくわからない点もある。日本地域は中国との関わりから2つに分かれている。早くに中華圏から独立した九州・四国・本州地域と、中華圏に止まった琉球地域だ。しかし、本土と呼ばれる地域には猿田彦信仰が残り、大陸から来た人たちを先導したことになっている。しかしネイティブの言語を持っている人たちは残存せず、かといって先住民族を惨殺したという歴史も残っていない。

言語を見ると明らかに半島との連続性が見られるのだが、語彙は全く異なっている点から、徐々に別の言語が混交したような形跡がある。ヨーロッパでいうと、ウラル系の言語とゲルマン系の言語がいつのまにか新しい言語を形成していましたというような話である。

なぜヨーロッパでは言語の統合が起こらず古い民族集団が温存されたのか、なぜ日本ではこうした違いが溶解してしまったのかというのは、なかなか説明しづらいのではないだろうか。ポイントになりそうなのが、リーダーを作らないという点だ。バルト世界のように、ドイツ人という支配層ができなかったことで、被支配層も形成されなかったのではないだろうかと想像してみた。だが、本当のところはよくわからない。大陸のような他者を持たなかった日本人は、日本人だという意識をあまり持たなかったのだ。