臆面もなく嘘をつく人とその事情

前回、千葉市職員がトイレをきれいに管理していないという話を書いた。が、あまり興味を持たれそうにないので「日本人は嘘をつく」というような表題にした。何軒かコメントをいただいたのだが「嘘つきが多い」と考えている人は少なからずいるようだ。

問題なのはどうやったら嘘が減るかということなのだが、それについては確たる答えがない。そこで他人を非難して終わりということになってしまう。いつしかTwitterに嘘つきを糾弾するコメントが溢れるようになった。

トイレは、いったん千葉市役所から「市職員が巡回します」という回答をもらった。が実際には数ヶ月巡回しただけでやめてしまったらしい。つまり、千葉市役所は、上司と市長の名前の入った文書でその場限りの嘘をついたことになる。今回、また汚れているのを見て現場の人に「片手間でトイレの管理なんかできませんよね」と聞いたところ、若干言いにくそうに「そうだ」という返事があった。つまり、できもしないことを約束したことになる。

嘘をつかれると処罰感情が湧く。例えばTwitterではよく「政府の誰々が嘘をついた」という怒りのツイートが流れてくる。だが、嘘をせめても問題は解決しない。裏には日本人が民主的な手続きと議論の意味を理解していないという事情がある。つまり、意義があって納得できなかったとしても、その場で意義を飲み込んでしまう。できないならできないと言うべきだったのだろうが、その場で嘘をついた方が簡単だと考えてしまうのである。

市役所へのクレームは広報課で集中管理されているので、電話インタビューをした。ある部署が「できもしない約束」をしたことが露見した場合、その職員に対して注意するというパスはあるようだ。最終的には局長レベルまで行くらしい。また市長も市長への手紙を見ていて、それなりに関与しているという。

が、こうした「叱責」のパスがいつもうまく機能するとは限らない。本人が回答に納得していなかったり予算的に無理だったとしても「なんとかするように」と職員個人の責任に落とし込まれてしまう可能性があるからだ。これについて広報課に「無理を是正する仕組みがあるのか」と聞いてみたところ、広報課は黙り込んでしまった。コンセプトは理解したらしいが、個人の失敗をカバーしたり、予算的な措置をとるといった発想がそもそもないようだ。

この背景には、日本人の意思決定の仕組みがある。日本人がもともと集団の長を集めて利権を調整する集団指導体制なので、集団間で相互にカバーする仕組みがなく助け合いも行わない。実は他人には冷淡な社会でだ。何らかの理由で集団指導体制が崩れたり、実行部隊と意思決定部隊が分離してしまうとすきまにある責任が個人に落ちてきてしまうのである。

責任は個人に落ちてくるのだが、個人への権限委譲は行われない。すると結果的に個人のせいにされて終わりということになってしまう。最終的には責任を取るはずの人が「知らなかった」ことになり「責任を取る能力も資源もない個人が叱責されて終わり」になることも多い。いわゆる「トカゲの尻尾切り」という現象である。

無理が生じると、個人が嘘をつかざるをえなくなる。そのうち収集がつかなくなり、他罰感情が集まる。が、実は問題は誰かを罰しても解決しないのではないだろうか。

文部科学省は加計学園問題について内閣府から恫喝されていたようだ。恫喝された文章も残っている。が、文部科学省はそうした文章は残っていない(あるいは残っているかもしれないが見つかっていない)といわざるをえない。それをOBが「いやそんなことはないだろう」といって大騒ぎになる。いずれはバレる嘘なのだが、嘘をつかざるをえないのである。同じことは森友学園問題でも起きてる。こちらは官邸が前のめりになっていたプロジェクトのために法律を曲げて無理なロジックを作って土地の値引きをしていた。その経緯が露見しそうになったので財務省が「資料を捨てた」という嘘をついている。この場合の嘘は法律違反にまで発展している。

NHKのように思考停止状態に陥ってしまった集団もある。オリンピックの予算を開催自治体が分担することが大筋決まったと政府の見解を垂れ流しつつ、公平性を担保するために千葉、埼玉、神奈川県知事の「聞いていなかった」という声も伝えている。いったい何がどうなっているのかさっぱりわからない。ヘッドラインを読むと「大筋決まったんだな」と思えるが、文章を読むと何も決まっておらず、誰も納得していないというように読める。

東京オリンピック・パラリンピックの費用について、東京都、組織委員会、政府の3者は予備費を除いて総額を1兆3900億円とし、このうち都と組織委員会がそれぞれ6000億円、政府が1500億円を負担する方向で合意したことがわかりました。残る400億円は東京都以外の自治体が負担する案が示されていますが、最終的にどこまでの負担となるか詰めの調整が行われています。

この場合NHKは嘘をついている。内容をよく聞けばバレてしまう程度の嘘である。

もちろん千葉市と国には違いもある。千葉市は一応市長が市民への回答を見ている。これは前の市長時代の反省を踏まえたものだ。市長への手紙は前市長の代からあるのだが、形式的に運用されていた。上層部は利権の獲得に熱心で、最終的には市長が汚職容疑で逮捕されるというところまで発展する。当然、職員の士気は低かったはずだ。そうしたことは徐々に改善されつつあるようなのだが、それでもマネジメントの失敗は完全になくならない。利権の獲得ができなくなっても、相互で助け合うという文化が根付くわけではないからだ。「誰かのためにやったことが回り回って自分のトクになる」などとは誰も考えない。一方。国の場合は官邸が「役人が嘘をつく理由」になっている。明らかに官僚に嘘をつかせている。

どうやら、トップがどうであるかということとは全く別の問題として、日本型の意思決定方式に原因があり、個人が嘘をつかざるをえないというメカニズムがありそうだ。

いつまでも騒いでいたいのならこのままでもよいと思うのだが、同じことは会社や学校でも怒っているはずだ。そろそろ日本人が持っている意思決定と統治の癖について理解すべきなのではないだろうか。

 

自民党はなぜ人権にそれほどまでに敵愾心を燃やすのか

共謀罪について考えていて一つわからないことがある。菅官房長官が「人権を擁護する人たち」に関してなぜ強い敵愾心を持つのかがさっぱりわからないのだ。菅官房長官はおそらく安倍首相を忖度してああいった発言をしているのだとは思うのだが、もし自分たちに意見があればそれを主張すればいいだけの話で、感情的な文章を出すのはあまり筋がよくない。

が、全然違うところで違う話をしていて「ああ」と思うことがあった。あれは安倍首相の劣等感の表れなのだと思ったのだ。だとすると、その劣等感に国民を巻き込むのはやめてほしいものだと思う。

ある日、QUORAで質問でもしてみようと思った。できるだけ当たり障りのないものが良いと思い「外国人がインドで苦労して手で食べるのをみてどう思うか」と聞いてみた。が、回答はインド人にはあまりよく受け入れられなかったようだ。

インド料理にはそれなりのマナーがある。外国人が知らずに「ただ手で食べればいいんでしょ」などとやると実はマナー違反になることがある。つまりインド人は手づかみで料理を食べているわけではないのである。

だが、どうやらインドの人の中にも「手づかみで食べるのは文明的ではない」という気持ちがあるようだ。つまり、西洋的な伝統に対して恥ずかしさを感じているということになる。2人の回答者の一人はマギという食事をフォークで食べて苦労したと言っていた。日本の人はマギーブイヨンでよく知っているマギーだが、検索するとカップヌードルのような麺料理らしい。

非西洋人には多かれ少なかれ西洋文化に対するコンプレックスがある。西洋人のように「立派に」フォークで食べたいと思うのだが、それができずに「恥ずかしい」思いをしてしまう。そこで「馬鹿にされているのではないか」と考えて、却って強い態度に出てしまうのだ。

同じことが民主主義や議論についても言える。西洋的な社会に触れた人たちは、社会に参加するということを経験を通じて自然に学ぶ。だが、こうした経験をしない人も大勢いる。そして、それを知らないことが「西洋的なスタンダードでは恥ずかしい」とも思っている。そこで、西洋人から「あなたは民主主義を理解していない」などと言われると、却って威丈高な態度を取ってしまうのかもしれない。中国人がその典型だろう。内政干渉というのは「西洋文化の押し付け」である。

つまり、安倍政権というのは日本が民主主義を完全にはマスターできなかったという恥ずかしさの裏返しの上に立つ政権だと言える。それを支えているのも「手づかみで食事をするような」意識の人たちということになるだろう。

さて、ここで考察を終えることもできる。つまり「日本人は戦後70年を経ても民主主義を身につけることができなかった劣等な民族である」という結論になってしまうのだが、そこで終わってもよいものだろうか。

例えばインド人の食べ方にはそれなりのマナーがあり「手づかみ」ではない。左手は使わず、親指以外の指をスプーンのようにしてカレーをすくい、親指で押し込んで食べる。が「恥ずかしい」という自意識があるとマナーがあるということすら認識できないのかもしれない。

同じように日本人にもそれなりの意思決定と統治のメカニズムがある。実際には集団指導体制を取ることが多い。利益代表者が集まって、強いリーダーを作らず均衡型の意思決定をするのが普通だ。これは日本人が内心への干渉を極端に嫌い、自分の領分が侵されることを許せないという気持ちがとても強い体。こうした意思決定は様々な場所で見ることができる。が、日本人は「政治の意思決定は民主的であるべき」という思い込みがあるために、それを自覚しないことが多いのではないだろうか。

安倍政権ももともとは均衡型の政権と言える。自民党には複数の派閥があり、それが深刻な争い発展しないように「お神輿」を担いでいる。重要なことは派閥同士の話し合いによって決まる。現在、いろいろな問題が起きているが、お神輿がしゃしゃりでるとろくなことにならない。意思決定が歪められて「忖度」が横行するのである。なぜこんなことになったかというと、間違えて「西洋型の強くて決められる政党」を目指して、総裁への権力集中が起こったからだと考えることができる。

強すぎる勢力ができると日本人は裏で足を引っ張り始める。よく自民党の中で「長期政権の弊害」などと言われる諸々の現象がおこるわけである。長期政権の弊害が生まれるのは、日本人がそもそも議論に参加して決めたことには従うという気持ちが全くないからである。自分の内心とは違った結果に従わざるをえなくなると「俺は実は納得していなかった」と言い出す人が必ず出てきてしまうのである。

例えて言えば「フォークとナイフも使えない」し「かといって箸で食べるためのマナーも知らない」という状態が生まれていることになる。つまり、どっちつかずのまま混乱を迎えつつあるのが安倍政権と言えるだろう。箸を使うのは恥ずかしいので勉強もしてこなかったから、突き刺してつかうしかないということだ。

足元では様々な動きが出てきている。常に内閣府から押さえつけられ天下り利権を取り上げられ「公衆の面前で恥をかかされた」文部科学省は週刊誌に内部文書をリークした。政府が「千葉、埼玉、神奈川との間で費用負担について同意した」と発表すればNHKがそれを鵜呑みにした報道をだし、神奈川県知事がTBSのテレビにでて「いや聞いていない」という。天皇陛下が退位したいというリークが古参の職員によってなされて、安倍政権が任命した責任者が慌てて否定する。こうした動きは安倍政権と強すぎる内閣官房への意趣返しと言える。すべての人を抑えることはできないわけで、日本型の強すぎる組織はこうして内部から崩壊してゆくのだろう。

だからこそ、議論を透明にして、議論の過程で言いたいことは全て言わせてしまうのが民主主義のルールなのだが、それが守られない。それは日本人が民主主義を知らず、知っていたとしても守るつもりなどないからなのだ。

 

教育と警察の違いについて考えてみる

なんか恐ろしいTweetを見つけた。教育委員会が独自に調査することを「治外法権」と言っている。

何が恐ろしいのかを説明する前に、前提を整理しておきたい。それは教育と警察の違いだ。警察力の目的は反社会的な行為を罰してから社会復帰を目指してもらうとことにある。つまり懲罰が目的(の一つ)になっている。なぜ懲罰が必要かというと、権力に委託せずに個々人が勝手に「調停」を始めたら収拾がつかなくなる可能性があるからである。例えば、日本では果たし合いは禁止されている。日本人は殺された家族の敵をとる権利を奪われているのだが、結果的には安心して暮らすことができる。なぜなら報復的に殺された人の家族が、報復をしかえすということがないからである。

これが成り立つためにはいくつかの前提条件がある。一つは一般庶民が警察を信頼しており、懲罰権を委託した方が安心だと考えているということ。もう一つは一般庶民が、何がよくて何が悪いかと理解しているということである。

例えば小学生は何をしていいかを十分にわかっていない可能性がある。だから、何か反社会的なことをしたとしてもそれがいけないことだと思っていないかもしれない。そこで、それを未然に防いで再発を防止するというのが教育の目的の一つだということになる。

これが、普通の国で警察と教育を分離するそもそもの目的であると考えられる。

一方、治外法権というのは、ある法体系の中にそれに従わない人たちがいるという状態を意味する。例えば駐日米軍は「実質的に」治外法権状態におかれているが、これは彼らがもともと占領地であって<未開>な法体系を持つ現地警察を信頼していないからだと考えられる。戦前の中国には中国の法律が及ばない地域があったが、これも<先進国>が<未開な中国>の法律を信頼していなかったからである。

つまり教育を治外法権だと言ってしまうと、それは教育機関は一般の基準とは異なった価値体系を持っていて「勝手に判断している」と言っているのと同じことになってしまうのである。それは教育が警察を信頼していないということだ。それを平然と言えてしまうところに恐ろしさがある。民主主義に関する根本的な認識を欠いているのだが、発言権がありテレビなどで見識を欠いたままの意見を<垂れ流し>てしまうからである。それをまねてた人たちが議論をコピペする頃には何がなんだかわからなくなってしまう。

もちろん、実際には教育と警察の間にはさまざまな現実的な問題が発生している。いじめ問題を調査した結果「可愛い生徒を被害者と加害者に分けられない」などと言って教育機関としての責任を放棄してしまう教育委員会もある。さらに、教育者が実は社会的な善悪の価値基準を持っていないように見えることも多い。そこで、集団的な圧力が働き「悪いことがあったけれどもそれを隠してしまおう」と考えて隠蔽に走ることも珍しくはない。

さらに、大学のように「教育はできるだけ権力に制限されないで学術を追究できる自由が保障されるべきだ」と考えている人たちもいる。自民党の教育に関する議論を読むと「教授たちは社会主義思想に毒されて教育の自由をはき違えているから取り上げるべきだ」などという被害妄想的な議論がある。実際に、学長や理事長たちがカリキュラムをかえられるように変更が加えられ、日本の大学では今大変な問題が起きている。

つまり、教育と警察を巡る議論にはいくつかの(ここでざっとみただけで3つの)違ったレイヤーがあり、これを一緒くたにして議論するとまとまるものもまとまらなくなってしまうのではないだろうか。

この議論が専門家にどう受け取られるかはわからないのだが、高度教育の問題を別にすると、教育と警察を巡る議論についての態度はいくつかにわかれるように思える。

  • 教育の自主性は保たれるべきであり、教育者にはその資格があると考える立場。つまり、警察は教育に介入すべきではない。
  • 教育の自主性は保たれるべきだが、実際には教育者たちにはそれを守る資格や能力がないので、社会的な介入が必要という立場。が、警察が介入すべきかどうかはわからない。
  • そもそも教育の自主性などというものは絵空事であって、社会は積極的に子供たちを罰しなければならないという立場。

こうしたレイヤーを間違えると議論がめちゃくちゃになりかねないのだが、実際にはめちゃくちゃな議論が横行している。その背景には先生になる人が、教育の独立性が「なぜ重要なのか」ということを考える機会がないからなのではないかと思う。

そこに部外者たちが大量に参入することで、却って教育現場がゆがめられることになるのではないだろうか。

日本人が議論ができないのは日本語のせいなのか

前回のエントリーについて、こういう感想をいただいた。

前回言語的なことは避けて書いていたので「ああ、やっぱりここにきちゃうのかあ」と思った。言語論にあまり乗り気ではないのは、これについて考え始めるとチョムスキーくらい読んで言語学の知識を得なければならなくなりそうだからだ。

日本語が議論に向いていないというのは確かなように思える。確かに語順によるものとも考えられるので、最初に検討してみよう。日本語では動詞を先に持ってきて会話を成立させることも可能だ。日本語はマーカーをつけて文法的な地位を表示する言語であり、語順はあまり関係がない。

  • 食べた、俺パンを。

また、パンを見てこう呟くこともできる。

  • 嫌い!大嫌い!

日本語は「何を扱っているのか」を記述しなくても文章が成立してしまう。だから、主題に焦点を当てるのが難しいという特徴がある。英語だとhate! といっても憎しみという単語を連呼しているだけになってしまうので、最低限でもI hate it!と言わなければならない。次にありきたりな文を見てみよう。同僚がおにぎりの袋を持っているのを見てあなたが言った一言だ。

  • 日本語
    • 今日はパンじゃないんですね。
    • はい、パンじゃないです。
  • 英語
    • You don’t eat bread today.
    • No, I don’t eat bread today.

まず、日本語は「あなたのいったこと」は正しいという意味で「はい」と言っている。関係性を意識しているのがわかる。英語は「私(あなた)がパンを食べる」ということを否定している。これが主題だ。さらに日本人は「私が食べる」ということを言っていない。それがわかるのは共通の認識を持っているからだ。この文章を不思議がる人は誰もいないし、類推できなくて疲れたということもない。

一方、英語でもIt’s not bread.とは言えるわけだが「あなたは昼食にパンを食べないのね」という意味は持たない。これは単におにぎりがパンではないということを言っているだけだからだ。多分「何を当たり前のことをいっているのだろう」と思うだろう。You are right!ともいえるが、これは過剰な待遇表現になるのではないかと思う。英語でも相手を肯定して「へつらい」を示すことはできるのだが、通常はそこまではやらない。

だが、それでも「今日は」が持っている複雑さはわからない。こんな事例がある。QUORAにあった「恥ずかしい日本語の間違い」というトピックから抜粋した。「今日かわいいね」と言ったら女性に怒られたというものだ。正しくは「今日かわいいね」と言わなければならないそうだ。

「今日は」には限定の意味があり、主題や主語のマーカーではないのだ。今日はかわいいといってしまうと、昨日はどうだったんだということになる。が文章自体は「今日かわいい」といっているだけであって、昨日のことは特に言及されていない。が日本人はそこに限定の意味を見出してしまい「じゃあ、昨日は」などと思ってしまうわけである。つまり「今日はパンじゃないんですね」という会話には「いつもと違うけどどうしたの」という含みがあるのだ。

日本語は主題を限定しないで会話が作れるので、文章を接続する時に最初の文章と次の文章で主題を変えても構わないということになる。この特徴のために日本語を英語にする時に間違いが起こることがある。実際の英文は忘れたが、こういう文章(ピリオドは1つしかない)を見たことがあった。

日本に投資する、こんな会社がリストされている。

こんな会社とは東芝のことだ。実際には、適切な会計報告をしていない会社を上場させたままにしている東証一部には投資すべきではないということを言っている。元の日本語は「こんな会社がリストされているのに日本に投資する」だろう。多分英語では言いたいことを言わなければならないので、「あなたは東証一部に投資すべきではない。なぜならば……」という文章を言及する必要がある。さらに、文章の主語は統一しなければならないというルールも存在する。

つまり、日本語を英語にするためにはかなりの情報を追加して文章を整理する必要がある。ここで必要な追加要素は次のようなものだ。

  • 主題:あなた
  • アクション:投資する
  • 関係性:にもかかわらず
  • 関係性:こんな会社をリストしているところの

いろいろなものを手当たり次第に見てきたのは、日本語ネイティブの人が日本語の特徴を知るのが極めて難しいからだ。日本語はかなりの情報を補っているということがわかる。

ここまで見てゆくと、日本語が「合理的でない」のかという問題が出てくる。だが、そもそも意識の流れというのは主語を持たない。私という固定された視点があり、そこに入ってきた情報(光、音、頭の中の考え)の流れがとりとめもなく展開されてゆく。午後取り組まなければならない仕事のことを考えていたのに、テレビで政治家の不正のニュースをみながら、お昼ご飯のことを考える人もいるだろう。つまり、思考にピリオドはないので主語もおけない。関心人の焦点があるだけである。

日本語ネイティブの英語話者が、モノリンガルな人の発言を「論理的でない」と感じるのは、翻訳を通じて論理的な文章構成に触れているからだろう。モノリンガルな人もそれを知覚しているはずだが、無意識のうちに行われるのでそれを意識することができないのだと考えられる。

いくつかの論文を読むと、英語は「論理」を記述しているのだが、日本語は「今の話し手の意識の流れ」を記述しているという説が見つかる。さらに、会話の文末をぼかしたり、そもそも言わなかったりということが多いようだ。そもそも日本語の会話の半数が「述語を持たないという観察もある。主語も明確でなく述語も持たないのだから、その会話の目的は何なのだろうかということになる。つまり、これは日本語の会話がそもそも叙述を目的にしていないのではないかと予想できるわけだ。

ここまで長々と書いてきたわけだが、ここまで見てきても日本語が何の情報を交換しているのかということはよくわからない。

冒頭の書き込みに戻る。否定的な書き込みが必ずしも反論になっていない理由は、多分そのトピックそのものが関心の焦点ではないからだ。つまり、トピックはどうでもよいということになる。ではどうでも良いことになぜ噛み付くのかという問題が出てくる。

経験的に思い当たるのは、発言した人(Aさん)の人格を否定しているという可能性だ。会話の術部を省略して相手に決めさせることが「待遇」になっているわけだから、逆の待遇も有り得る。異議を申し立てることで関係を記述しているのだから、主題がずれても構わないのだ。普段の生活の中ではBさんは、語尾をぼかして相手に決めさせているのかもしれない。

お前個人の意見なんか聞いちゃいないんだよ……

英語でQUORAというQ&Aサイトがある。ここでは、実名で比較的まともな議論が行われている。ちょっとした焦りとともに、どうやったら日本語で建設的な議論ができるのかを考えた。だが、結果的には「日本人と議論するのは無駄だな」という結論になったので、書くことは何もないのだが、一応、考えた過程をまとめておく。

正確には、英語圏で数年以上の経験を積んだことがない日本人は建設的な議論の空間からは排除すべきだというのが結論になった。多分、中国語圏の人も大丈夫だと思うのだが、中国語の経験がないのでよくわからない。

英語圏には個人が意見表明を通じてレピュテーションを確立できる場が複数ある。一方、日本のQ&Aサイトはあまりまともにならない。最近ではYahoo!のコメント欄が匿名で荒れているという話がある。英語圏では個人が専門知識を披瀝することがその人の信頼性を増すという考え方があるのに比べて、日本にはそうした認識がないからであると考えられる。

劣情を匿名でぶつけ合うのが日本のインターネット議論の特徴だ。議論の場というのは基本的に荒れ果てていて、その中で喧嘩に強い人が生き残ってお金をもらって叩き合いをするのが日本の言論ということになっている。言論は「リアル北斗の拳」状態なのだ。

この違いはかなり大きい。英語圏では自分の知見をブラッシュアップしたり、逆にいろいろな人から知識を得ることができる。知識はネットワーク状に形成されるという特徴があるので社会全体の生産性が上がって行く。一方、日本人は同じガムを噛み続けるように知識が陳腐化して世界から取り残されてしまうというわけである。日本人は教育というと大学教育ばかりに着目するがこれはとても愚かなことである。

が嘆いてばかりはいられないので、原因を探ってみることにする。だが「どうして日本人は公開の場で意見表明しないのか」を考えると、途端に壁にぶつかってしまう。かろうじていくつかの特徴があるなと思ったが、どうしてそうなってしまったのかがよくわからない。つまり、対策の立てようがないのだ。

一つ目の特徴は「意見表明」が儀式になっているという点だ。日本人は集団間の調整でものをきめるのだが、形式的にリーダーが決めたことにすることが多い。つまり「リーダーに花を持たせる」のである。だが、同時にリーダーが一人勝ちするのを嫌う。

例えば最近の例では、安倍首相が個人の考えとして「憲法改正は第9条の追加と教育から」などといって自民党の中が大騒ぎになってしまった。安倍首相ですら祭り上げられる存在なので、個人として意思決定のコンペティションに参加することができないのだ。安倍首相の「力強い決断」はすべてアメリカからの圧力によるものであることがわかってきている。自民党の中に「アメリカに逆らうとマズイ」というコンセンサスがあり異論がでにくのだろう。意見表明は「あやしあい」の道具になっており、実際の意思決定とはあまり関係がないということだ。つまり、公開の場で意見を言ったり聞いたりしてみんなで決めて行くということがありえないのだ。

日本人の意思決定のメカニズムはよくわからないが、外から自民党の様子を見ていると派閥間の利害調整が意思決定に大きな役割を果たしているのではないかと思われる。つまり数が大きな影響を持っている。が、派閥は「持ちつ持たれつ」の関係を持っており、単にいうことを聞いているわけではないのだろう。

ここから想像されるのは、かなり固定的な人間関係がないと日本人は意思決定ができないということだ。自民党末期「麻生降ろし」が行われたが、これは「選挙に負けてしまう」という焦りが背景になったものだった。つまりベネフィットが得られないということがわかると、途端に何も決められなくなってしまうのではないだろうか。

日本人は徹底して個人の意見を嫌う。会議などで「それはお前個人の意見だろう」と言われたことがある人は多いのではないだろうか。集団の意見というのは個人の意見の集約のはずなのだが、個人が意見を直接表明すると嫌われる。いくつか理由が考えられる。リーダーでさえ個人の抜け駆けは許されないのだから、普通のメンバーが意思決定に大きな影響力を与えたとみなされるのがまずいのだろう。さらに、会議の場では「みんなが納得し」て「誰も傷つかか」ず「リスクが全くない」意見が求められることがある。それを求めていつまでたっても結論が出ないということはよくある。つまり利害調整が出来る時には裏で物事が決められるのだが、それがないと何も決められなくなってしまうのだ。

集団が説得力を持つという例を見つけるのはそれほど難しくない。例えばニュースショーのコメンテータは、ある集団に属していたという属性が説得力の源泉になっている。「元読売新聞の誰々さん」とか「時事通信社特別何とか委員のだれそれさん」というのがそれにあたる。就職の選抜も「今年は東大生を何人とMARCHから何人」という割り当てがなされることがある。これは東大というのが能力の指針として利用されているからだ。が、面白いことに「オリンピック金メダリストのだれそれさん」であっても、いったん集団性を帯びてしまえば政治問題についてコメントができることになっている。

このように考えると、日本人の公開議論は意思決定とは別の機能を持っているのだということがわかる。例えば「待遇」や「仲間の選別」であると考えらえる。つまり日本人は意思決定のために議論することはほとんどないのだ。

人がおとなしく振舞うのは、社会的なふるまいがある利得をもたらすからだ。You behave because of their reputationという英文が先に浮かんだが、日本語に訳せなかった。日本人は公共の場で良い評判を得るために公開の場で適切に振舞うということがないからだ。さらに社会貢献が感謝されるという背景がある。(His/ her social contribution counts.)

こうした社会的な認識はQ & Aサイトが適切に運用されるためにはとても重要なのだが、うまく訳せないのは、日本人がそもそも社会貢献や自分が参加して社会を建設するという意識を持っていないからだろう。利害調整は人から隠れて、テーブルの下で行うべきことなのだ。

建設ができないのだから、あるものの中で収まるか、破壊するかしか道はないということになる。右派左派ともに誰かのコピペの意見が多く新しいアイディアが得られないことはよくある。これを不思議に思っていたのだが、実はコピペこそが日本人にとって議論の目的なのだろう。つまり、「意見表明」は所属集団への帰属表明であって、西洋でいうところの意見表明や知識の交換ではないからだろう。

ということで、日本語で意見を求めたり、Twitterに健全な議論を期待するのは最初から意味がないという結論になった。特にTwitterには決まった構造はないので、いつまでたっても構造は作られないので、別の目的に用いるべきだということがわかる。社会的な圧力を顕在化させたり、地震などの時の情報インフラとしては有効なので、うまく活用すべきだと思う。

砂漠化する政治議論

面白いツイートを見かけた。選挙を控えている熊谷千葉市長がツイッターで絡まれている。もともとは零戦が復活するという話なのだが、これに「零戦=日本軍=悪」という人が絡んだ。それに対して、共産党にも反省すべき歴史があるが共産党が全面否定されるわけではないですよねと返したところ、熊谷市長は共産党とソ連の関係を知らないと非難されたのだ。

唐突に共産党が出てきたところには違和感があるのだが、今度の市長選挙の対抗勢力は共産党しかなく、選挙がらみだと考えたのかもしれない。が、全体としては他愛もない話でしかない。

面白いことに、このところ熊谷千葉市長はツイッター上で「炎上」しているらしい。どうやら「政治家=右翼」という図式があるらしく、ジェンダー系の話を「右翼の人権侵害」みたいに捉えているらしいのだ。この話が面白いのは、千葉市で熊谷市長が置かれている状況と部外者の印象がかなり異なっているという点である。

もともと千葉市は自民党を中心に金権政治が行われていたところであり、民主党から出た市長は若くてリベラルだという漠然とした印象がある。が、こうした文脈は千葉市以外には伝わらないのだろう。そこでいろいろな人が自動的に個別のツイートに噛み付くという状態になっているようだ。政治家の発言にアレルギーを持つ人が多いのだろう。いずれにせよ、千葉市には対立候補を擁立する政党は共産党以外にはなく、こうした炎上は政治には何の影響も与えないのだ。

こうした部外者が政治問題に口出しをするケースはもはや日常化してしまっている。日本人が政治に関心がないというのは嘘だろう。この構図は豊洲問題にも見られる。豊洲問題は日本人がなぜプロジェクトをまともに扱えないかというケーススタディーとしては面白いのだが、所詮は東京都民の問題である。にもかかわらず全国各地の人たちがツイッターで「参戦」してきて、落とし所がない「議論」を繰り広げている。つまり、なんだかよくわからないが部外者が「気軽に政治的な話題に参入してきて落とし所がないままで相手の人格を否定しようとする」ということが常態化しているのだ。

もちろんこれは日本だけの問題ではない。例えばアメリカでは政治的騒乱は必ず暴動に発展する。窓ガラスを割ったり、商店を略奪したり、車を転倒させたりするようなことが行われるわけだが、これは政治的議論にある程度の知識や技術が必要とされるので、それができない人たちが騒ぐのだ。日本では政治的議論がこうした「暴動」の場になりつつあると言えるだろう。

こうした状況は幾つかの理由により建設的な議論にはつながらない。例えば自民党には熱心な「サポーター」が大勢いて日夜宣伝工作を繰り広げている。が一方で会費を払って党員になる人はそれほど多くはないらしい。一般党費は4000円でしかない。これはお金をもらってTwitterに悪口を書き散らしている人は多いが、お金を払って政治家をささえようなどという人はいないということを示唆している。お金をもらって暴れる人や、お金はもらえないがなんらかのベネフィットを求めて体制擁護の意見を書き散らしている人は見かけるが、議論に参加しようという人はいない。

建設的な政治意見をいう人はいないのだが、ちょっとした政治的な意見表明すらできなくなっているらしい。政治的意見を公的にいうことは「危険だ」という空気が生まれつつあるようだ。

共産党の機関紙「赤旗」によると。政治コメディーを扱うザ・ニュースペーパーは森友問題をテレビでやれないということである。高市早苗総務大臣が「停波をほのめかす発言」をしてからテレビ局が萎縮しているのだろうというような分析になっている。前回、ザ・シンプソンズを引き合いに出してテレビで政権批判をしても別に生死に関わることはないと書いたわけだが、正直なところそれは間違っていたのかもしれないとすら思った。ザ・シンプソンズはトランプ大統領をかなり批判的に書いているが、トランプ大統領に近いFOXのコンテンツだ。

そもそも、どうしてこのようなことが横行することになったのだろうか。こうした空気が広がったのは、安倍政権が国民の声を聞かなくなった頃からだ。「決められる政治」を標榜して、どんどん物事を決めてゆくのだが、説明がめちゃくちゃで、議論をするつもりはないらしい。最近では「そもそも」という言葉の使い方を巡って騒動が起きている。憲法の解釈もめちゃくちゃなら、言葉すらデタラメということで、議論が全く成り立たない。さらにマスコミを恫喝したのでまともな議論が表舞台から消えてしまった。

日本人は政治的な意見表明のロールモデルを持たなくなったので「脊髄反射的に相手の人格攻撃をする」ことが政治的な意見表明だと思い込むようになったのだろう。恐ろしいことにこれが拡大再生産されて、政党の議論すらおかしくなりつつある。

公の場で相手を否定せずに意見をすり合わせてこなかったツケは実はかなり大きいのではないだろうか。誰も決まったことに責任や愛着を持たないのに、社会を支えて行こうという気持ちになれるはずはないからだ。「政治的な意見表明が行えなくなったら安倍が戦争を起こす」ということはないだろう。が、国民が政策決定に関わらなくなれば民主主義は内側から壊死してしまうのだ。

決めたことはみんなで守らなければならないが、決める時に責任を持って議論に参加しなければならない

クールビズの温度はなんとなく決まったので科学的根拠がないという話が出ているそうだ。自民党の人たちは民主主義というものを根本から理解していないのだなと思った。正直、もううんざりだといいたいのだが、「え、なんで怒っているの」ということになりかねないので、説明してみたい。

大人の世界ではみんなで決められたことには従わなければならない。そのためには自分の考えが違っていれば「違う」と言わなければならないし、わからないことがあれば「わからない」という必要がある。

誰でも(ずけずけものをいうアメリカ人などでも)嫌われるのは嫌だから、議論の全体が一定の方向に流れている時「私はわかりません」とか「それは違うと思います」というのは勇気のいるものだ。だが、それでも意見をいうのが大人というものなのである。

実際には「許容範囲の温度」を17度〜28度と法律で決まっているので、その上限にあたる温度を設定した(つまり高い目標を立てた)ということである。前段になる法律は随分と前に作られたものなので、それに妥当性があるかというのは議論のあるところだろう。エアコンの設定温度ではなく室温(実際の温度)が28度になるように調整するということもあまり知られていない。

今回「28度は高すぎるのでは」と言った人たちには男が多かったのではないだろうか。男性は夏でも無駄に暑いスーツを着てネクタイを締めたがるので、室温を高く感じるのだろう。女性との間で「エアコン論争」が起こるのも珍しくない。当時の責任者が女性の大臣だったということもあって、その時には文句を言わないのにあとからグダグダと「いやああれには科学的根拠はないんですよ」という。こういうことをいう人は議論に責任を持って参加していないことになるし、多分責任を持つ気もないのだろう。

嫌われたくないという理由で何も言わなかったのなら、そのあともずっと黙っていろよと思うのだが、こういう人に限ってあとになって「聞いていなかった」とか「納得していなかった」などと言い出す。

こういう人たちはそもそも「みんなで納得して決める」ということができないので、審議時間=議論の質ということになってしまう。最近の大切な議論は全てこんな調子で常に「真剣に考えた結果納得ができていない」という人たちを置き去りにすることになってしまう。

民主主義の危機だと思うわけだが、自民党のこうした態度は民主主義以前に大人としてどうなのかと思う。副大臣どころか政治家を辞めてしまうべきなのではないだろうか。この副大臣は比例復活ということだ。

自民党議員の姑息さは多分日本人のこうした無責任さに裏打ちされているのだろう。そもそもGHQに恩赦されて政治家として復帰しておきながら「あの憲法には納得していなかった」という人の子孫がトップにいるのだから当然といえば当然かもしれない。多分家の中でぐちぐちと「本当はGHQにこびへつらいたくなかった」と女々しくつぶやいていたのではないだろうか。それが娘を通じて孫に伝わり、いつしか「おじいさまの悲願」となり、政治的リソースを食いつぶしている。1日も早くこんな日を終わらせることはできないのだろうか。

 

安倍首相が破壊したもの

ネトウヨと話をしているとどうして疲れるんだろうかと考えた。

これは何かと聞かれたら四角形が一直線に並んでいると答えるだろう。ではこれはどうだろうか。

これは四角形が円のように並べられていると答える人が多いのではないか。

簡単な例なのでこれが何なのかを迷う人はいないと思うのだが、斜めから見るとこういう図形になる。円弧の形に四角形を並べてたもので、横から見ると一直線に見える。

視点によってものの形は違って見える。

ネトウヨは、このようにものを把握する能力がない。ある特定の視点からしかものを見ないので「これは円である」とか「これは線である」などという。そして「それが違っているよ」というと「じゃああんたはこの図形が何に見えるのか(対案を示せ)」というか「丸じゃなければ三角なのか(二者択一)」と怒り出すのだ。

ネトウヨを満足させることは難しい。彼らを満足させ続けるためには、常に彼らから見ている視点からものをみて話を合わせなければならないのだがこういう人は大勢いる。彼らは自分で決めたいのだが、自分たちの視点でしかものをみることができないので、周囲にも同じ視点を強要するのだ。たいへん迷惑な人たちである。

ネトウヨの思考形態を「視点と形」から整理したのだが、安倍さんについて考えていて、これが当てはまるなと思った。

安倍さんは「憲法を改正したい」という望みを持っている。今、協力をもうして出ているのは維新と公明なので彼らを抱き込めば憲法改正ができると考えたらしい。そこで教育無償化と自衛隊の追加を言い出した。

だが、これはいろいろと具合が悪い。一つは過去の自民党の憲法草案や現在の党内議論と整合性がない。さらに「自衛隊は憲法の中に位置付けられていない」から改憲したいという理屈付けは「自衛隊は現行憲法下で違憲だったことはない」という過去の政府答弁と合致しない。

が、これを「おかしい」と思うためには、議論を統合する必要がある。が、安倍さんの支持者は議論が統合できないネトウヨなので統合を気にする必要は全くない。円をみを見たいと思っている人には円と言えばいいし、線を見たい人には線を見せれば良いのである。

アメリカから「今すぐ自衛隊を米軍の作戦に動員しろ」と言われれば、自衛隊を集団的自衛のために動員するのは合憲だと言い張る。しかし憲法を改正したい人たちには「自衛隊は憲法で位置付けられていないから都合が悪い」という。そしてそれを国会に追及されると「自分は憲法を遵守する立場にいるので答えられない」といえば良い。すべての絵を統合するとむちゃくちゃなのだが、その場その場で辻褄が合ってしまう。

こうした姿勢が受け入れられるのは、受け手側が「聞きたい話だけを聞きたい」と考えていて「後のことはどうでもよい」と思っている必要がある。「北朝鮮が攻めてくるのだからごちゃごちゃ言っているとやられる」と考える人は理屈を軽視する。つまり、結果に飛びつく人が多ければ多いほと安倍さんに人気が集まる仕組みになっている。

大量の情報が急激に流れてゆくので、特に統合しなくてもその場その場で合致しているように見えればよいということになる。逆に言うとすべてを統合すると誰も満足させることができなくなってしまうのかもしれない。

例えばアメリカでは大企業の代表者とポピュリストの代表者の間で票が分断されており、その状態はまだ続いている。それは彼らがイデオロギーという主体を抱えているからである。フランスでも全く同じ動きが起きていて「どちらにも味方できない」という人がいるそうである。現在の政治状況はそういうレベルで分裂しているのだが、安倍さんはこれらを曖昧にしているので、より多くの人を満足させることができるのだろうということになる。背景には資本主義のシステムが破綻しかけていて、すべての人たちを満足させることができなくなっているという事情があるのかもしれない。

安倍さんのまやかしがどういう効果を生むのかはよくわからない。第一に統治機構が無力化だろうことは予想できる。政治的な議論は断片化されて無力化されることになる。日本は何も決められず漂流することになるだろう。もしこれで憲法が変わってしまえば憲法は意味を失うだろう。いわゆる「壊憲」だ。が、これは権力者には都合が良いのかもしれない。なんでもその場その場の勢いでやれてしまうからである。

政治が無力化すると視点と視点が統合されないままにぶつかり合うだろう。これがどんな弊害をもたらすかを観察するのは難しくない。Twitterでは極端な意見がぶつかっていて、日々何の生産性もない「論争」が行われている。が、こうした論争は不愉快なだけで何の便益もないのだから、多くの人が政治から遠ざかって行く。

何も決められず、誰の協力も得られないわけだが、政治を私物化したい人たちにとっては却って都合が良いのかもしれない。

 

俺にファンができた話

前回の「情弱」の人にまた絡まれた。うざいなあと思ったのだが一応返事しておいたのだが、あまり建設的でないなあと思った。どうやら「自分た正しくてお前が間違っている」ということが証明したいだけらしいからだ。

もちろん、こうした人たちとの対話が全く役に立たないというわけでもない。今回は自民党の憲法議論について絡まれたのだが、「安倍さんは自衛隊を憲法の中に位置付けたいだけだ」という。確かに表面的に見ると安倍さんは受け入れられやすいことを言っているだけのようにも思える。論じると色々な不具合が出てくるのだが、それは正常な人間がプロセスというものを気にするからだ。安倍さんを含めてネトウヨの人たちは結果しか気にしないのだ。

さらに調べてみてわかったのは、石破さんが自民党の憲法を決める会の顧問という立場にあり、安倍さんはそれに(まあ首相なので当然なのだが)に関わっていないということだ。憲法に詳しい人ほど「下手箒庵は出せない」と思うのだろう。何をどう変えるかについての結論が出せないらしい。安倍さんはこれにイラついていて「メンバーを入れ替えて結論を出させる」ように誘導したいようだ。石破さんは多分それに不快感を感じているのかもしれない。

絡まれると一応それについて調べるので少し詳細がわかる。だから異論も役には立つ。逆に左翼系の人たちはあまり読み込まずにタイトルだけ見て礼賛してくるが「自分とちょっと違う」ことがわかると怒り出したりするので、新しい発見があるという意味ではネトウヨの絡みの方が役に立つ部分が多い。だがやはり総合的に考えると単なる時間の無駄だ。

どちらも「とにかく相手が間違っている」か「とにかく相手が正しい」と考えているために「折り合って着地しよう」というコラボレーションが一切生まれないのだ。極端な言い方をすると日本の教育の闇を感じる。結果だけを詰め込んでそれをとにかく信じるように教え続けた結果なのではないかとさえ思う。

ところが、ある考えをきっかけに劇的に視野が変わった。この人はなぜ個人の落書きみたいなブログを見て「それを打倒しなきゃ」と思ったのだろうかということを考えたのだ。フォローはされていないらしいのだがモニターされているようなので気にしてはもらっているらしい。「言論としてある種認められたんだなあ」という結論に達した。正直なところかなり気持ちが良くて、人並みに自尊心があるんだなあなどと思った。

もともとこのブログは個人の読書日記から派生したのだが、その前には「世の中はくだらない。俺様の考えは〜だ」みたいなブログを図入りで書いていたことがあった。が「私」が過剰に入った読み物はあまり面白くないし、誰も読んではくれない。ということで読んだ本の感想を書くことにした。書いて感想を書いておかないと忘れてしまうからである。単なる備忘録なので誰かが賛同したり反発したりということは原理上起こらないはずなのだ。

皮肉なことだなあと思うのだが、強烈な主張や一人語りは多くの人たちの心を動かさないようだ。一方で、自分の主張を抑えて周囲を観察しそれに自分なりの観察を加えると徐々に読まれるようになってくるということなのかもしれない。

ネトウヨの人たちはプロセスを気にしないで「俺様の主張」を相手にも押し付けてくる。それにお付き合いしてしまうと「主張合戦」になり本当に解決したかった問題がわからなくなるし、過剰な自己主張は誰にも耳を傾けてもらえない。そもそもお付き合いする義理はないわけだし適当にお付き合いしている分には新しい発見があって良い。

例えていえば星座の味方が違っているようなもので折り合いがつかない。ネトウヨは地球から見た星の関係が「オリオンの形に見える」などと思っていてそれが唯一の正解なのだが、実際にはこれらの星々には何のつながりもない。いろいろな角度から見なければ本当の関係性はわからない。がネトウヨは「本当の関係なんかわかってどうするのか」と思うのだろう。

ということで絡んでくる人に対しては「俺のファンなんだな」と思っているくらいがちょうど良いのかもしれない。

 

憲法改正やってみればいいんじゃないか

昨日、複雑に絡まるマダガスカルジャスミンの植え替えをしながら、Twitterでときどきやりとりさせていただいている人とちょっとしたやり取りをした。安倍政権が好き放題しているのは政権交代が起こらないからなのだが、それはどうしてなのだろうというのものだ。テキトーに考えた結果は「日本人は政権交代に懲りている」というものだった。

長い間、日本人はアメリカ流の二大政党制と政権交代に大いなる憧れを持っていた。当時の課題は金権政治からの脱却だった。そこで選挙にお金がかからなければ政治は清浄になるだろうという根拠のない期待が生まれ、政党助成金と小選挙区制が導入された。しかし、それでも不満は収まらなかった。

バブルが崩壊して「このままにすると日本は大変なことになる」というような空気が生まれた。今度は「官僚がお金を隠しているだけなので、政権交代すれば大丈夫ですよ」という政党があらわれた。自民党は緩んでしまっており大臣の失言などが止まらなかったので「もういいよ、面倒だから政権交代だ」ということになったのだが、結局その人たちはたんなる嘘つきだった。

つまり日本人は「見たことがなかった政権交代」に過剰な憧れを抱き、一回失敗したら怖くなってしまったことになる。前回ご紹介したNHKの調査では政治参加意欲そのものが低下しており、NHKはその理由をこのように分析している。2004年と2014年を比べているのだが「政権交代しても結局無駄だった」という感覚があるのだろう。

本稿ではこの背景について、①政治に働きかけても何も変わらないという意識、②前回に比べて比較的安定した経済的状況、③若い世代を中心とした身近な世界で「満足」するという価値観の変化、の3つが重なったことが要因ではないかと考察した。

さて、政権交代が問題を解決しないとなった今、政治家の関心は憲法である。つまり、憲法さえ変えれば「賢い俺たち」が政治を劇的に変貌させるという根拠のない自信があるのだろう。が、これは政治家だけの感覚ではなく若い人たちの中には改憲派が多いという記事もある。この毎日新聞の記事は「社会が変わってほしいという期待感もある」と言っている。

制度さえ変えれば何かが劇的に変わるだろうと考えるのは日本人がプロセスを無視して結果だけを求める傾向が強いからだ。が、その制度が失敗してしまうと今度は極端にそれが嫌になってしまうのである。

いわゆる一連の政治改革は結局は自民党の派閥の内紛だったのだが、憲法改正論議は自民党のパートナー政党の乗っ取りが目的になっている。結局は内紛なので議論が成熟するはずはない。だったら一度「本格的な議論」をして国民投票してみればいいんじゃないだろうか。特に教育無償化は財源を巡って炎上する可能性が高く、多分国民は憲法改正論議自体を嫌がるようになるだろう。