電卓の陳腐化と日本のオフィス

明治時代の商人たちはソロバンくらい使えないとよい仕事につけなかったに違いない。戦中や戦後すぐのドラマをみていてもソロバンをはじいて、手書きで書類を書いているというシーンを見かける。事務作業には「ソロバン」の知識は欠かせなかったに違いない。

状況が一変するのは戦後に入ってしばらく経ってからだ。電子計算機が登場したのだ。最初の計算機は機械式だったが、徐々に電子式になり「電卓」と呼ばれるようになった。なぜ「卓」なのかというと、机のような形をしていたからだろう。それだけ重く、とても持ち運びができるようなものではなかった。

1964年にシャープが開発した電子計算機の初期型は重さが25キログラムあり、価格は50万円程度だった。月産目標台数は300台程度だった。オフィスユースの商品であり、個人に手が届くような代物ではなかっただろう。

1971年にオムロンが49,800円の電卓を開発に成功すると価格競争が激化した。1972年にはカシオが12,800円の電卓(カシオミニ)を発売する。「答え一発カシオミニ」というテレビコマーシャルを覚えている人もいるのではないだろうか。この頃から個人でも電卓を持てるようになった。発売後10ヶ月で販売台数が100万台を突破した。その後電卓の小型化競争が始まると、メーカーが次々と脱落した。残ったのはシャープとカシオだった。もはや、電卓を操れたからといって尊敬されることはなくなっていた。

電卓時代が終る兆候が見られたのは1980年代にマイクロソフトがMS-DOSを開発した頃からだった。「パーソナルコンピュータ」がオフィスに導入されるようになったからだ。当初は表計算ソフトが好んで使われた。マイクロソフトマルチプランやロータス1-2-3などが有名だ。

文章制作はさらに未開で、和文タイプのオペレータが作業を請け負っていた。日本では、パソコンとワードプロセッシングが結びつくことはなく、専用のワードプロセッサ(ワープロ)が先行した。日本の最初のワープロは1978年に東芝が発売し、価格は630万円だったそうだ。パソコンで一太郎などのワープロソフトが導入されはじめたのは1980年代の中盤頃だ。ワードとエクセルが一般化するのは、グラフィカルインターフェイスが改善されたWindows95頃からだという。もうバブルは崩壊していた。

バブル期のオフィスではパソコンを使えれば確かに就職に有利だったかもしれない。しかし、パソコンやワープロを使うのは「下働き」の仕事だった。OLや新人の役割で、正社員(いわゆる総合職)は「もっと生産性の高い仕事をするべきだ」という風潮があったのだ。生産性の高い作業とは社内の利害調整のことである。事務作業員を「事務屋」と呼んで蔑む傾向すら見られた。同じような傾向は英語にも見られる。グローバルな社会では英語くらいできなければという割には英語話者の地位は高くない。「英語屋」と呼ばれて通訳代わりに使われることもある。このため、総合職の中には英語ができてもひけらかさない人が多かった。「英語屋」として認知されると、通訳としてこき使われるからである。

新人類と呼ばれた人たちは「パソコンみたいな訳の分からないものは操れるかもしれないが、本当の仕事(つまり内部調整のこと)はできない」などと揶揄された。今では、専門家たちはスマホばかりしている若者を見て「日本の若者はパソコン離れしている」などと心配しているようだ。時代は繰り返すのである。

バブルが崩壊してしばらく経った今、電卓は100円ショップでも売られている。Amazonでは600円程度から手に入る。同じように、パソコンの地位も大いに凋落しつつある。今では20,000円も出せば立派なパソコンが手に入る。

ハローワークに行くと「入門パソコン講座」のような事業に多くの税金が投入されているが、こうした講座を卒業しても、最低賃金のパート労働くらいしか見つけられないかもしれない。欧米ではパソコンを使った労働は、もはや「知的労働」とは見なされない。最近パラリーガルの仕事を代替する人工知能が話題になった。初級の弁護士やパラリーガルという仕事すらなくなってしまうかもしれないのだそうだ。一昔前の印象で「知的労働」を捉えると、却って時代に取り残されるかもしれないのだ。

日本人は古くて面倒なものをありがたがる人が多いが、面倒なQWERTY式のキーボードは廃れて、スマホに似た操作感覚を持ったタブレット型のOSが主流になるかもしれない。「面倒なことを簡単にしよう」という思考こそがイノベーションを生むのだということを考えると複雑な気分になる。

参考文献

パソコンは高くない

軍事アナリストの小川和久さんは日本の競争力について心配しているようだ。若者のパソコン離れが進行しつつあり、これが貧困スパイラルに拍車をかけているという。これについて氏のアンチの方が「そもそも貧乏だからパソコンが買えない。因果関係が反対だ」とかみついた。日本の貧困については、議論すべきことがたくさんあるというのは確かだろう。しかし、このやり取りが不毛だということだけは言える。パソコンは別に高くないからである。

パソコンの価格は10,000円台から

試しにAmazonでスティックPCという商品を検索すると、5,000円台からパソコンが買えることが分かる。ただしこれはアンドロイドPCだ。小川氏の支持者たちのコメントを読むと、パソコンとはWindowsパソコンのことらしい。Windowsのパソコンで最安値は「ドスパラ」という会社が出している製品で、現在10,000円を切った価格で売られているらしい。キーボードがついているセットで13,000円程度だ。しかし、Amazonには取り扱いがない。もっと有名なメーカーの商品が欲しいということであれば、Intel(このパソコンのCPUを作っている、いわばお家元のような会社だ)製品をはじめ、いくつかの商品を選択することができる。価格はおおよそ15,000円程度。地方だから都会のように家電専門店がないという苦情も当たらない。Amazonでスマホから注文すればいいからだ。

なんで、パソコンがそんな値段で買えるのか、と疑問に思う方がいるかもしれない。どうせ、おもちゃのようなパソコンなんだろうというわけである。半分当たっている。パソコンはおもちゃみたいな価格で売られているコモディティなのだが、それでもテレビにフルサイズの動画を映しても楽しめる程度の能力を備えている。確かに記憶容量は低い。それでも32Gバイトあり、miniSDカードを足せば倍くらいまでにはなる。キーボードとモニター(モニターはテレビを使う)が付属していないのも安い理由だろう。

「テレビを占有されるからパソコンが使えない」と嘆く人は確かにでてくるのかもしれない。人並みにノートパソコンがいいという人もいるだろう。Amazon調べでは25,000円程度から手に入る。

WordやExcelは無料で使える

別の支持者のコメントの中に「パートでもWordやExcelなどの操作方法は求められる」というコメントがあった。確かにスティックPCや格安ノートPCにはOfficeは搭載されていないが、ネットにつなぐと「無料版」のOfficeが使える。機能限定版らしいのだが、関数などは普通に使えるという。家庭での利用には十分な内容だし「覚えたい」という人にはぴったりだろう。もちろん、お金を出せばOfficeを買い足すこともできる。

通信料金は月々4,000円弱から

一番のネックは通信環境かもしれない。これは月々支払わなければならないからだ。固定の光回線を使うと月々6,000円程度(別途工事費)がかかる。いくつか割引を使えばもう少し安くすむかもしれない。一方、無線通信分野の値引き競争は過熱気味だ。WiMax2という規格の商品がいくつかでている。本来、月々4500円程度の料金が必要らしいのだが、2年間は割引を適用して月々3,500円程度で利用できるのだという。別途通信用のルーターが必要なのだが、太っ腹なことに無料で使わせてくれるらしい。一度顧客を獲得するとよっぽど儲かるのかもしれない。

もちろん、食べるのにかつかつで、金銭的な余裕が1円もないという人もいるかもしれない。こういった人たちには適切な援助が必要だろう。しかし、日本のスマホ普及率を見る限り、多数の人たちは「全く余裕がない」というわけでもないのだろう。

知識の分断が招く不毛な議論

少し深刻かもしれないと思うのは知識の分断である。パソコンが安く買えて高速通信環境も手頃な値段で手に入るという知識はコモン・ナレッジだが、こうした知識にアクセスできない層というのが一定数いるのだろう。今回の場合「スティックPC」とか「wimax」などという言葉を知らないと検索できない。

そういえば、最近パソコンのコマーシャルをテレビで見なくなった。テレビで受動的に情報を取っている層はこうした情報を知ることはないだろう。「パソコン習熟が日本の競争力を左右する」と信じるなら学校教育などで教えるのも良いだろう。一方、「知識人」と呼ばれる人たちも「パソコンは最先端技術で高いはずだ」と思い込んでいるのかもしれない。つまり、知っているからこそ知らないのだ。

こうした知識的な分断があるせいで、議論が不毛なものになりやすいのだとしたら、それは単に不幸なことだ。

パソコンとモバイル機器は融合しつつある

さて、パソコン操作ができないと貧困になるという議論にはいくつか考えるべき点がある。

確かにスマホには欠点がある。画面が小さく、文字入力がしにくい。出先で読む人が多い事も考え合わせると、多分長い文章を読むのは苦手だろう。さらに、文章入力の手間を省く為に予測変換機能がついているので、あまり考えなくても自動的に作文できるようになっている。コミュニケーションが単純化しやすく、思考が高まらない。LINEやメールが随時入ってくるので、気が散りやすくなる。このため集中力が削がれやすいという研究の結果もでている。こうした特性から議論が感情的になりやすいのだ。人間の思考力はマルチタスクには向いていないようである。

では、やはりパソコンの方が優れているのだろうか。そもそもこの問いは意味をなくしつつある。パソコンのオペレーティングシステムとスマートフォンのオペレーティングシステムは融合しつつある。どちらかというとパソコン側がスマホに合わせているというのが実情かもしれない。ノートパソコンとキーボード付きのタブレットにはほとんど違いがない。パソコンを知っている人かお店の人に聞いてみると良い。違いが分からないという人も多いだろう。画面を分割してタブレットとして使えるノートパソコンもある。マイクロソフトのタブレットSurfaceにはOfficeが付いていて、キーボードを取り付けることができる。40,000円程度から手に入るようである。

日本の競争力とパソコン

最後の問題は少し難解だ。アメリカのIT産業の競争力が高いのは、IT分野でデファクトスタンダードを握っているからだ。その担い手は中国やインドから来た移民なのである。一方、日本人は中国から来た移民を「一時的な格安労働力」として扱ってきた。このために、優秀な人は集らず、少し働いただけで雇い主の基から逃亡するというケースが相次いでいる。日本の競争力を気にする「愛国的」な人たちは、移民の導入には否定的だろうし、それが中国人だということになれば猛烈に反対するだろう。国の競争力を高めるためには優秀な移民を招き入れた方がよいことは自明だが、この議論が日本で受け入れられないのも、また確かなことなのだ。

一方、パソコンが操作できるとしても、期待されている仕事は事務労働のパート程度のものなのかもしれない。特に、サービス分野の労働生産性は低く、パート労働者の労働時間も限られている。パソコンを知らなくてもできる最低賃金の仕事と、パソコンができてできる最低賃金の仕事にどういう違いがあるのだろうか。コンビニ業界のように非正労働者に依存する業界はパソコンに期待してない。スマホと同じように操作できるタブレットで仕事ができるようになっている。賃金が低く抑えられ、出世の見込みのない非正規の労働者がパソコンのオペレーションをしているというケースも珍しくない。コンピュータを使える人の能力が労働生産性に結びついていないのである。

つまり「パソコンができるかどうか」ということと、国に競争力があるかということの間には実はあまり関係がないのだと言える。貧困に結びつく要素があるとしたら、それはその家庭が持っている人的なネットワークの違いだろう。コンピュータやネットワークに関する智識を得られないというのは、そうした機器を使っている知り合いがいないということを意味しているに過ぎない。それを「若者のXXばなれ」という要素で括ってしまうと、議論が錯綜するばかりで本当に解決すべき問題が却って見えにくくなるのではないかと思う。

ハロウィーンと本当の私

これが「本当の私」なのではないか。テレビで渋谷のハロウィーンの様子を見てそう思った。あのハロウィーンがインターネットの影響なのはまず間違いなさそうだ。2chの時代から日本のネットは「匿名文化」だと揶揄されつづけてきた。LINEでもハンドルネームでないと「本音が言えない」人は多いはずだ。つまり、日本人は匿名にならないと本当のことが言えず、考えられない国民なのだ。だから扮装しないと自分を解放できないという人が増殖しても不思議ではない。

「扮装すれば自分が解放できる」のだとすれば、それこそが「本当の私」なのではないか。つまり、普段の「実名」が扮装なのではないかとも考える事もできる。「実名」は、親が与えた名前に過ぎない。自分が選び取ったものではないのだ。

もちろん、祭りの自分だけが本当の自分だということは言えそうもない。昔から日本には「ハレ」と「ケ」という区分があるとされている。ハロウィーンは「ハレ」にあたり、はめを外してもよい日なのだと考えられる。どちらか一つを選んで「本来の日本人の姿である」とは言えない。この2つを合わせた姿こそが「本来の日本人の姿である」と考える方がよいのかもしれない。

これは今の自分があるべき姿なのかと悩むすべての人の福音になるだろう。つまり「本当の私」という単独の人格は存在しない。自分というのは複数の人格が鍵束になったものに過ぎないのだ。むしろ「本当の私」というものを仮定した瞬間に、可能性として存在するかもしれなかった別の自分が消えてしまう。つまり「本当の自分」とは現在の自分、扮装して解き放たれた自分の他に「あるかもしれない自分」というものが含まれた不確定な存在なのだということが言える。人格は雲のようなもので、観察しようとするとたちまち消え失せてしまうのである。

現代の都市に住んでいる日本人は祝祭空間を持たないのではないかということは言えるのかもしれない。祭りの場には「役」のある年長者がいるが、渋谷のハロウィーンにはいなかった。この為に警察官が交通規制をし、街にはゴミがあふれた。その意味では渋谷のハロウィーンは不完全な祭りだと言える。反戦デモが高齢化したのと同じように、渋谷のハロウィーンデモも30年後には高齢化しているのかもしれない。白髪の中高年が扮装して街を練り歩くようになるのだ。

「ありたい姿」が「今の私」と重ならないことの問題点は何なのだろうか。理想を現実にする社会的変革ができないということである。渋谷の扮装者の多くが「地元から扮装で出かけるのは恥ずかしい」と考えていたようだ。つまり、彼らは人格を解放し可能性を広げる事は「恥ずかしい」と感じているのである。多くの仲間に埋没しないと「解放」が叶わないのである。

例えば、ファッションは「本当の自分」を解放するものだった。だから、先鋭的なデザイナーは誰も着ないような奇抜な格好をしていた。しかし、ファストファッションが台頭するとデザイナーは市場を模倣する存在になった。こうして市場はファッションによって「本当の自分を解放する」機会を失った。代わりに台頭したのが、匿名やハンドルネームで仲間とつるむインターネット空間だ。日本人はもはや、人格を解放するのにアパレル産業に頼らなくなったのである。

一方、社会変革者は、頭の中にある「あるべき姿」を実践している、渋谷流に言えば「恥ずかしい」人たちである。つまり、真の社会変革者の才能とは「群衆の助けを借りず、孤独に耐えて、扮装しつづける」勇気なのかもしれない。

もっとも、すべての人がファッションデザイナーや社会変革者である必要はない。年に一度ドンキホーテで衣装を買えば自分を解放できるのである。

「花燃ゆ」とNHKの教育観がよく分からない

「花燃ゆ」はいよいよ明治時代の群馬県に舞台を移した。群馬県県令の楫取素彦とその義妹美和が群馬の子女教育に奔走するというようなストーリーだった。見ているぶんには良かったのだが、ちょっと考えてみると「なんだか分からない話だなあ」と思った。さらによく考えてみると「ひどい話だなあ」と感じられた。

物語の前半は、国を変える為に長州(山口県)の有志が勉学に励むというストーリーだった。「変革の為に勉強する」というのは日本人が好みそうな話だ。「自分も何か変革できる」というような気分に浸れるからかもしれない。中盤では変革の意思に燃えた仲間が革命の犠牲になって死んで行く。

現在のストーリーはその流れを引き継いでいる。変革意識に富み時代の趨勢を見据えていた山口県民が無知蒙昧で目先の利益しか考えない群馬県民(江守徹が代表者として描かれる)を教化するという話になっている。群馬県で炎上騒ぎが起きないのはなぜなのだろうかと思うのだが、NHKは安倍晋三におもねろうと必死で、そこまで気が回らないらしい。

訳が分からなくなるのは、美和と女工たちの件だ。「女性に教養が必要なのはなぜ」なのだろうか。

女工の一人が文字が読めないせいで借金取りに騙されそうになる。そこに美和が登場して教育の大切さを説く。ここまではなんとなく分かる。しかし、その動機付けが奇妙だ。「自分の好きなように生きて行ける」世の中が作りたいのだという。今風に言い換えれば「私らしく生きる」ということだろう。

第一にこれは差別的だ。男性は「国家を変革するため」に教養を磨く。一方女性は「私らしく生きる」という名目で私的なセクターに縛られるのである。この違いはほとんど無意識に描かれるため、実はとても害のあるメッセージを広めている。

さらにこの「私らしく生きる」という考え方は、最近多くの女性を苦しめている。実際には多くの女性が「産むか働くか」という二者択一を迫られている。女性の「私らしく生きる」というのは、選択肢が複数あるということを意味するのではない。「どちらかを諦めて、それを自己責任として認める」ということを意味するのだ。しかも、その選択にはリファレンスやガイドになるものはない。加えて言うならば、男性もこうした「選択に対する自己責任」を押しつけられている。これが平成時代の特徴だ。にも関わらず、NHKにはこうした配慮は見られない。

皮肉なことに、搾取から逃れるために文字を覚え始めた女工たちは後に「搾取される存在」になる。「女工哀史」や「あゝ野麦峠」で知られる有名なストーリーにつながる。もっとも「あゝ野麦峠」は長野県の話なので「群馬県にはそんな悲惨なことはなかった」という主張なのかもしれない。日本の近代化は女性たちの犠牲の上に成り立っているのだが、そうした不都合な点は全くスルーされている。「花燃ゆ」だけを見ると、日本の女性労働者たちは明治政府(と開明的な山口県民)のおかげで教育が受けられるようになり「私らしく」生きる事ができるようになったのだなあという印象が残ってしまう。

物語が作られた時代の背景を映し出すというのは、ある程度仕方のないことだ。「あゝ野麦峠」は当時(1968年)の労働者たちの状況と心情を代弁していたのかもしれない。しかし、NHKの映し出す「女性が自立して私らしく生きる」というのは「機会均等法」時代の思想だ。バブル前の話である。もしかしたら、NHKの人たちは昭和を生きているのかもしれない。

楫取素彦は寡黙で周囲を説得する事なく学校教育普及のために奔走する。何も言わないので、これがどういった動機に基づくものなのかも、実はよく分からない。吉田松陰や高杉晋作を遺志を受け継いでいるのかもなあと想像できる程度だ。松下村塾の遺志とは何だったのだろう。

楫取素彦や当時の日本政府が日本の教育をどのように考えていたのかというのは、現在重要なテーマのはずである。当時の武士階層が持っていた教養主義を国民に広めようとしたのか、それとも単に国家競争力を増す為に実学教育を被支配層に押しつけたのかという点だ。

なぜ、これが重要なのだろうか。今の日本の教育界は大変なことになっている。

文科省は「国立大学から文系学部をなくせ」という通達を出して、一部で炎上騒ぎを起した。裏には「日本の競争力強化のためには文系学部や教養は必要ない」という思想が透けて見える。さらに、財務省は子供が減るのだから先生の数を減らすと言っている。「国立大学の学費を2倍にする」という話も出ている。既に大学生の半数は奨学金という名前の学生ローンを借りなければ大学に行けなくなっているにも関わらず、政府は学生に対する支援を減らそうとしているのだ。背景にはこの国の運営をしている人たちの「貧乏人は難しい事を考えず、黙って下働きをしろ」というようなメッセージと「国家競争力の強化につながることだけだけやってればいいのだ」という主張があるように思える。

物語の前半の吉田松陰と松下村塾の件で、吉田松陰は「西洋列強に肩を並べるためには、実学だけを勉強すべきだ」というようなことは言わなかったはずである。教育の層が厚くなればそれだけ社会の豊かさが増すという思想があったのではないかと思われる。多分、日本にも(少なくとも当時の武士階層には)教養主義のようなものがあったのではないか。

もっとも、現在の日本に「高等教育や教養が必要なのか」というのは議論の別れるところだろう。大学全入時代と言われる時代だが、30%程度は非正規労働者だ。日本社会は成長と前進を前提としていないので、読み書きパソコンくらいができれば十分に仕事ができるし「下手に教養を身につけたせいで、諦める辛さを実感するだけでなく借金すら背負うことになる」かもしれない社会なのだ。

そこに「一億総活躍」という終戦間際の「国家総動員」のような思想がでてきたせいで、ますます話がややこしくなった。余り何も考えずに作ったのだろうなと思えるスローガンだ。大学や大学院を出た人たちを持て余し「イノベーションがでてこない」と嘆きつつ、パートやアルバイトに貼り付けるという社会が、国民を総動員して一体どこに向かおうとしているのだろうか。

NHKの人たちがこのドラマを作った動機はよく分かる。「開明的な山口県」を持ち上げることで時の権力者におもねりつつ、「女でも分かる分かりやすい物語を伝えよう」としているのだろう。この作戦は失敗しているようにしか思えない。現在の状況をあまり真剣には考えてなさそうだということはよく伝わってくる。

こうした自動化された思想がいくつも積み重なり「女も教養さえ身につければ自分らしく生きられるはず」というメッセージだけが亡霊のように立ち上がり、視聴者を苦しませているように思える。

デジカメ写真のバックアップを取る・遺す

デジカメやスマートフォンで写真を撮っていると、知らず知らずのうちに溜まってくる。これをどう残しておくのがよいのだろうか。

デジタルカメラが日本市場に登場したのは1993年だそうだ。登場してから20年強しか経っていないことになる。最初はフィルムカメラより劣ったおもちゃのような位置づけだったが、2000年にシャープからカメラ付き携帯電話が登場すると状況は一変した。最初は写真メール(写メ)というメールに添付する小型の映像(128×96ピクセル)がスタートだったのだが、現在ではほとんどの携帯電話にはカメラがつくまでになった。1人が1台以上の携帯電話を所有しているのだから、すべてのカメラが記録する情報量は膨大なものになるだろう。なかには買い替えと同時に写真をなくしたという人もいるかもしれない。

人が一生に撮影する写真の量というのはどれくらいになるのだろうか。試しに手元にある写真を見たところ、10,000枚弱で6ギガバイト程度になっていた。初期の写真は640×480ピクセル程度だったが、最近のものは1280×96ピクセル程度(だいたい2L版の写真用のサイズだそうだ)で撮影されており、1枚のサイズは700キロバイト程度だ。最近のスマホは高解像度化が進んでいるので、ファイルサイズはもっと大きいかもしれない。2メガバイトとすると3倍の18ギガバイトということになる。

せっかく撮り貯めた写真がなくなるのは忍びない。どのようにすれば写真を残しておけるだろうか。

Google Photos

第一の選択肢は無料のオンラインサービスを使うというものだ。地震や洪水で家が浸水して家族の思い出が消えたという話をよく聞くが、オンラインサービスに預けておけば安心だろう。

現在最もポピュラーな選択肢は2つのある。GoogleとAppleだ。Googleは、PicasaとGoogle Photosという写真サービスを2つ持っており、お互いに連動している。1600万画素までであれば、無料で制限なく預かってもらえる。圧縮がかかるが、見た目ではほとんど分からないという。1600万画素もあれば、A4で300pdiで印刷できる。スマホの写真をすべてA4で印刷する人などいないから、十分すぎるクオリティと言える。自動でタグ付けもしてくれる。どうやら写真から直接判別しているようである。例えばインド旅行の写真を丸ごとアップロードすると、タージマハルの写真を自動で探し出してくれる。写真はWeb上で共有する事もできる。Google画像検索の対象にはならないらしい。

もちろん欠点もある。無料のサービスなので突然打ち切られても文句は言えない。実際にアカウントを凍結された例も報告されている。自分の子どもの裸の写真を「かわいいから」と言って自動アップロードした人がアカウントを凍結された例がある。児童虐待だと認定されたらしい。海外ではしばらく使わなかった(規約では9か月ということだ)人が、予告もなしにアカウントを閉じられたという例もある。メールアドレスをGoogleに依存していると、ある日突然誰とも連絡が取れなくなったということもあり得るのだ。

しばらくアクセスがないと削除されてしまうのだから、遺族が本人の死後に「いつまでも見られるから」という理由で、そのまま写真を預けておく事はできないことになる。Googleはデータを一括ダウンロードできる仕組みを提供している。

iCloud – Apple

Appleも写真をバックアップサービスiCloudを提供している。こちらは5Gバイトまで無料で預かってくれるそうだ。500万画素の写真を2MBとすると、2,500枚程度ということになる。それ以上になると容量を買わなければならない。iCloudサービスを使うと、どのデバイスで写真を撮った写真も同期される。例えば、パソコン(最新版であれば、Windowsでもよいのだそうだ)で写真を削除すれば、各デバイスの写真も整理される。2500枚というのは人が一生に撮影する写真の量としては少ないかもしれない。AppleTVを使えばテレビで表示する事もできる。LAN環境さえあれば、設定にはほとんど知識がいらない。

Appleのサービスでも写真の共有はできるが、共有する人がiOSを持ったデバイスやパソコンを持っていなければならない。そして、それは常に最新のものである必要がある。5年程度のオーダーであれば問題はないが「一生」見られるかといえば、疑問符がつく。Appleのサービスには継続性がないものが多い。写真を整理するソフトであるiPhotoはいつのまにか打ち切りになってしまった。iDiskというサービスを運営していたが、こちらもiCloudが普及したという理由で打ち切られてしまった。無料メールアドレスを配って、それを有料にし、それを打ち切るというようなことをしているので、今のサービスが今後も使えるかは分からない。

CDやDVDに保存する

長期保存するためには、CDやDVDに保存すればよいではないかという意見もありそうだ。しかし、意外なことにCDやDVDといったメディアの寿命は5年〜10年程度と言われている。最近では光学式ドライブを持たないパソコン(Appleなどが有名だ)も出ているので、昔のフロッピーディスクのような存在になってしまうかもしれない。今DVDを持っていたら、今すぐどこかにバックアップを取った方が良い。

1990年代にはフィルムカメラの情報を読み込んだフォトCDという形式があったが、読み込めるソフトウェアはなくなりつつある。「永久に」画像データを保存するというのはなかなか難しいらしい。フォトCDには100枚程度の小型サイズの写真が保存できたようだ。

SDカードに保存する

デジカメは保っているがパソコンがないという人もいるだろう。その場合、SDカードに保存しておいてカードごと変えているという人もいるのではないだろうか。ところが、SDカードにも寿命があるのだという。頻繁に書き換えをしていると5年程度でダメになるという報告がある。すべてが壊れるわけではなく部分的に痛んでくるということだ。すぐに発見できないので却って厄介だ。

さらに、SDカードは放置しておくと5年程度でデータが飛ぶのだそうだ。記録されている電子が放電してしまうらしい。と、いうことでSDカードは中期的にデータを保存する媒体としては使えない。DVDに保存しろと書いてあるものもあったが、DVDも中期的にデータ保存ができないのは同じである。

ハードディスクやSSDに保存する

ということで、データを中期間以上保存するにはパソコンがあった方が安心だ。最近では家庭内ネットワークに対応したハードディスクやSSDも登場している。パソコンがなくてもモバイル機器(スマホなど)だけがあればバックアップできる装置もあるようだ。こうしたネットワーク対応型ハードディスク(NAS)であれば、1TB(約1000GBに当たる)が15,000円程度で手に入る。二重バックアップができるものは20.000円を越える。家庭内LANに対応した装置(スマホ、タブレット、テレビ用のセットトップボックス)などで写真を共有する機能を備えたものもある。

ハードディスクの難点は壊れる可能性が高いことだろう。機械式なのでいつかは寿命が来るのだが、いつ来るのかは分からないのだ。このため、ネットワークの知識とバックアップの知識が必要になってくる。自動バックアップを取るためには、ハードディスクドライブを2つ以上揃える必要がある。アップロードしてしまえば整理まですべてやってくれるGoogleのクラウドサービスに比べると難易度は高いかもしれない。最近のネットワーク対応型のディスクは接続に複雑な仕組みを使っている。デバイスのOSが変わったら接続できなくなったというケースもないわけではない。

SSDはハードディスクと違ってうるさい動作音がない。理論上読み書きに寿命があるということだが、100年程度の耐久性はあるだろうとされているようだ。SSDは今のところテラバイト単位の製品を作るのは難しいらしい。128GBの製品が10,000円強で売られている。一生安泰という程ではないが、そこそこの保存容量ではある。

古いパソコンをサーバーとして利用する

WindowsXPのサポートが切れて、ネットにつなぐのはちょっとはばかられるという人もいるかもしれない。こうした古いPCをサーバー代わりに利用するという手もある。昔のパソコンは大きい代わりに作りが単純なのでハードディスクの増設などもしやすい。単純という事は壊れにくいということでもある。OSが古いままなので、古いアプリが「いつのまにか使えなくなる」ということもない。

古いパソコンの難点は部品が手に入りにくいということだ。中古品店を探せば安い部品が手に入るが、サポートは全くないので、すべて自前で解決する必要がある。

終わりに

ということで、バックアップには正解がない。残念ながら永遠にデータが保存できる媒体は存在しないのだ。

現実的には、オンラインサービスと自宅に複数の選択肢を保っていると良さそうだ。かつてのパソコンは100ギガバイト程度のハードディスクしか認識してくれなかったが、最近ではテラバイトクラスがスタンダードになった。ハードディスクの価格も安くなっているので、余裕を持って複数の装置や手だてを準備すると良さそうだ。改めてNASを準備しなくても、古いパソコンをサーバー代わりに利用するという手もある。

jQuery File Uploadでファイルが削除(デリート)できない

jQuery File Uploadは画像ファイルをサーバーに一括アップロードできるとても便利なjQueryプラグインだ。しかし、サーバーの設定によってはファイルのアップロードはできても削除(デリート)ができない場合がある。ブラウザーで見ると、403エラーが表示される。

その場合にはdelete_typeという項目をDELETEからPOSTに変更すると削除ができるようになる。具体的には’delete_type’ => ‘POST’とする。ハマる人が少ないのかどうか分からないが、GOOGLEで検索しても分からなかった。

よく見ると、コメント欄に書いてあった。

ただ、ジーンズを探したいのだが、ファッション雑誌は僕に優しくないのだった

毎日同じジーンズを穿いているうちに、ついに股がすり切れてしまった。素直にユニクロにでも行って「普通の(スリムストレートとでも言うのだろうか)」を買えばよいのだろうが「今、どんなものが流行っているのだろうか」と思い、いろいろ調べてみた。

試しに、ファッション雑誌を立ち読みしてみたのだが、いくつか問題がある。情報が脈絡無く並んでいる上に「生き方」を雑誌に合わせなければならないらしい。なぜ雑誌に生き方を強制されなければならないのか。

次にメーカーのウェブサイトをいくつか回ってみたのだが、知っているウェブサイトはどれもとても重い。しばらく待って表示されるのは馬鹿でかいイメージ画像で、どれもなんだかぴんと来ない。さらに、ファッション系サイトというのは、どれもイベントやキャンペーンの情報ばかりが並んでいる。あれは製品を売出そうとしているのではなく、マーケターが日々の仕事や知っている人たち(いわゆるセレブ)を自慢しているに過ぎないのではないかと思う。

では、全く参考になる素材が転がっていないのか、といわれるとそうでもない。例えば、Pinterestにはユーザーが選んだ素材が多くアップロードされている。気に入った素材を検索すれば、多くの情報を手に入れることができる。日本にもWEARのようなサービスがあり、多くのコーディネートを研究することができるのだ。

素材探しは楽しいのだが、結局何を探しているのだろうか、と考えた。全体を支配する法則のようなものを見つけ出して、効率よく「すっきり見える」形を探したいのだった。

20151024-001ジーンズというのは全体を形作る部品になっている。いわゆるシルエットというものだ。昔の服装は製造工程の都合に従って直線的な形をしていた。今でも規制服の標準的なものを選ぶと、箱形のシルエットが作られるだろう。

20151024-002ところが人間の体系はどちらかというと曲線を持った楕円のような形をしている。その楕円の重心をどこに置くかによってシルエットが決まる。この何年かのシルエットはこの重心を操作することによって「新しさ」を演出しているし、きれいな楕円が作れると全体的に「すっきり」した印象が作られるようだ。太さの違うジーンズというのは、こうした全体を作る為に利用されるのだ。

20151024-003モデル体型から外れた普通の人は「細長い」すっきりとした体型を作る必要があるのだが、体型は変えられない。安い服を着るとシルエットは直線的になるので、視覚効果に頼ることになる。そこで利用されるのが「ヘルムホルツ」「ミューラーリヤー」「フィック」といった視覚効果だ。これはシルエットとは違っているが、効率よくまとめるためにはとても重要な情報だろう。

20151024-004さらに体型が整っていれば、上半身の逆三角形を強調するために、セーターやTシャツの模様などを調整することもできるだろう。これも視覚効果の一つだろうと思われる。

こうした「シルエット至上主義」はイタリアのハイブランドが腰骨ぎりぎりのジーンズを売出したころには最先端だっが、若干揺り戻してから一般化した。普通だったジーンズの丈は流行遅れだということになってしまった。最近では「ノームコア」と呼ばれるミニマムなスタイルが「流行」し(脱ファッションの流れが流行するというのは奇妙なことだが)色や装飾がなくなったぶん、洗練されたシルエットの役割がとても大きくなった。

ファッション雑誌もこうしたシルエットごとに情報をソートしてくれればいいのにとは思うのだが、いくつかの点から実施は難しそうだ。第一に、ファッション雑誌は新しい製品を売りださければならないので、シルエットやディテールを絶えず操作する必要がある。さらに、整理された情報は「整然と」しているぶんだけ、退屈に見えるだろう。雑多さが活気を現すというのはよくあることだし、読者は同じお金を出すのだったら。さまざまな情報が欲しいと思うものなのかもしれない。最後に、そもそも雑誌は情報のソートができない。

さて、このように「全体を決めるシルエットさえ見つければよいのだ」という結論になったのだが、移り変わるのがファッションというものだ。同じようなものばかり作らされているデザイナーの間には、それを打破したいと考える人も多いのではないかと思う。実際に、最近のコレクションを見ていると体型を見せないシルエットなどがぼつぼつと登場しつつあるようだ。最初は試行錯誤かもしれないが、徐々に一般に受け入れられるシルエットが登場するのかもしれない。

1999年のウェブデザインを振り返る

フォルダーの整理をしていたら、昔のウェブサイトのスクリーンショットが出てきた。1999年のもので、主にテレビ局と音楽レーベルのサイトを集めたものだった。

この頃のサイトにはいくつか特徴がある。まず、文字がぎざぎざしている。この頃のブラウザーはスムーズな字が出力できなかった。スムーズな文字を出す為には文字を画像化する必要があった。いつごろ文字がスムーズになったのかと思い調べてみたところ、Windowsの文字をスムーズにする方法という記事が見つかった。Windowsでは2007年頃にはまだ文字はギザギザしていたようだ。マッキントッシュでスムーズなフォントが表示されるようになったのは2001年のOS Xからだ。

また、曲線も表現できなかったので、曲線を表示するためには画像に頼らざるを得なかった。しかし、画面全体を覆うような大きな画像は使えなかった。電話線を利用するモデムの速度は最終的には56kまで「高速化」していたが、それより早いADSLが登場するのは2000年代に入ってからのことだったようだ。

最大の特徴は全体を統合するグリッドという概念が薄いということだろう。現在のウェブサイトはまず大きな枠組みを決めて、その枠組みを分割してゆくことで画面全体を支配するデザインを作っている。中には画面幅を変えると全体の枠組みを維持したままで画像やセクションが拡大・縮小することもある。こうしたシステムをグリッドと呼ぶ。

当時のウェブサイトのデザイナーの中には出版出身の人たちもいたので「グリッドを意識したデザイン」というものは存在した。ところが、HTMLはもともと文章の構造とリンク関係を記述する言語であり、デザインには主眼が置かれておらず、部品は置くだけのものだった。当初は枠組みを記述するdivというタグがなく、デザインにはテーブル(もともと表を作るのに利用されていたものだ)を流用していた。1990年代の終わりにdivタグが登場した(1999年に出されたInternet Explore 5でもdivタグは表示される)あとも、しばらくはテーブルが多用されていた。縦線を記述するHTMLもなかったので、縦枠を引くためだけにテーブルタグを使うこともあった。

画像が使える事になったことで、ウェブにデザインという概念が持ち込まれたのは良い事だった。しかし、何でもできたために統一感がない上に「盛りだくさん」に情報が氾濫していたが、これが刺激的で新しかったのだ。

現在のウェブサイトは上部にグランドナビゲーションを横配置するのがお約束になっているが、当時にはそのようなお約束事はなかった。メインのメニューは左側に縦に並べられるものが多かった。中には画面の下にグランドナビゲーションを配置したコンテンツもある。メインコンテンツ(左)とサブコンテンツ(右:広告など)という概念もあまり明確ではなかった。現在の決まり事はこうしたさまざまな思いつきが淘汰された結果だといえる。

このように、1999年のウェブサイトと2015年のそれで一番違っているのは画面デザインについての考え方だろう。1999年のデザイナーはさまざまなパーツを組み合わせることで全体のデザインを組み上げていた。画面全体で個性を表現していたのだ。ところが、現在のデザインからはこうした個性が消えている。ウェブデザイナーの役割はモジュールとその配置方法を決める事であって、個性を決めるのはそれぞれのモジュール化されたコンテンツだ。

こうしたモジュール化はスマートフォンの登場でさらに加速しつつあるようだ。過剰なデザインはコンテンツに対する理解を妨げらるものだと捉えられている。そこで、過剰なグラデーション、背景の模様、陰影などは消え行く運命にある。陰影のついたデザインは小さな画面では視認性が悪い。そこでフラットなデザインが好まれるようになった。断片化された情報はソーシャルメディアによって切り取られ、横幅320ピクセルほどの画面でシェアされている。

メニューやナビゲーションにはリストタグを使うべきか?

ウェブサイト制作には「なんだかよく分からないが、そう決まっている」という決まりごとがいくつかある。そのうちの一つが「メニューやナビゲーションにはリストタグを使え」というものだ。しかし、その理由を尋ね歩いても、納得のゆく答えを見つけるのは難しいかもしれない。「そういうものだから」というのが、大方の意見だろう。

そもそもリストタグはメニューを横に並べるのには適していない。メニュー(とくに、グランドナビゲーション)のために発明されたのではないことは明らかだ。大抵のグランドナビゲーションは横に並べてあるので、CSSのディスプレイ指定を使って無理矢理に横に並べなければならない。

そこでいろいろと探したところ「ナビゲーションにリストタグを使うべきか」という英語の文章を見つけた。この文章によると、大抵の(多分、アメリカのことだろう)教科書には「ナビゲーションにはリストタグを使え」と書いてあるそうだ。たぶん、この習慣が日本にも伝わったのだろうと思われる。

ところが、目の見えない人用の支援ツールを研究した結果「リストタグを使ったメニューは認識しにくい」ということが分かったのだと言う。ユニバーサルデザインに配慮すれば、スパンタグを使った方がよいらしいのだ。

HTML5には、NAVというタグがある。だから、NAVタグで囲みさえすれば、仕様には合致していると言える。NAVタグを使うと「そこは、本文とは関係がない」という指定ができる。メニューやナビゲーションにリストタグを使うかどうかは、好みの問題だということになるだろう。

しかし、話はそれほど単純なものではなさそうだ。レスポンシブデザインが一般化し、それに対応したプラグインが発展した。「ナビゲーションにはリストタグを使う」ことが一般化しているので、大抵のプラグインもナビゲーションのリスト構造の把握に、リストタグとそのネストを利用している。つまり、レスポンシブデザインを意識すると、ナビゲーションやメニューにはリストタグを使わざるを得なくなるというわけだ。

ここで出てくるのは「メニュー構造をネストすべきか」という問題だ。確かに、ネスト構造を取るとサイト構想は把握しやすくなる。アコーデオンやドロワーを使えば、かなり多くのメニューを表示できるだろう。しかし、これはPCを使ってメニューを縦に並べた場合に言えることだ。これをタブレットやスマートフォンで表示するとかなり分かりにくい画面構成になることは間違いない。

そもそも、どうしてメニューにリストタグを使うようになったのかはよく分からない。昔のウェブサイトデザインを見ると、ナビゲーションが左横に縦に並んでいるものが多く見られる。単に文字を並べているだけなので、リストタグをそのままメニューとして使っていたのだろう。意外とそのころの名残が習慣として残っているだけなのかもしれない。

NHKばかり見ていると人はどうなるのか

テレビのリモコンが壊れそうだ。チャンネルを変えるのが面倒になったのでNHKに固定されている。すると、人はどのような信用体系を持つようになるのだろうか。

まず、日本には政党は自民党1つしかない。携帯電話の料金を下げようとしたり、給与を上げるように働きかけたりとなかなかよくやっているように見える。麻生さんは「企業は金を貯め込むのはよくない」的なことを言っていた。なかなかいいことを言うなあと思った。一度だけ岡田党首の顔を見たがなんだか顔色が悪そうだった。政府を批判しているようだが、何を言っていたのかは忘れた。共産党や維新の党(そういえば、今どうなっているのだ……)という党は存在しない。軽減税率の問題にも取り組んでくれているようだ。税金が安くなる(いや、上がるから高くなるのか?)はいいことだ。

安保反対のデモはちゃんと見かけた。若い人が政治に関心を持つのはよいことだ。最近の若者は恋愛を面倒がっているようだ。どうしてこんなことになったのかは分からないが嘆かわしい限りだ。若者はもっとしっかりしなければ、と思う。沖縄戦の特集もやっていた。戦争はいけないことだ。

そもそも政治は大きな問題ではない。それより大きいのは認知症だ。繰り返してキャンペーンをやっている。個人の努力でなんとかしなければならない。いくつになっても動けるように日々の体操も重要だろう。寝たきりになったり、ボケたりすると社会に迷惑がかかる。

TPPは農業の問題だ。農家はかわいそうだが、仕方がないのかなあと思う。安い肉や野菜が食べられるようになればいいなあ。企業が政府を訴えたりするらしいのだが、そういう例はいまだにないということなので、あまり考えなくてもよいだろう。なんとなくよく分からなかったが裁判はアメリカでやるようだ。英語ができない企業は大変だろうなあと思う。食べ物の安全についても懸念があったようなのだが、政府はちゃんとしてくれているらしい。農家に直接補助をするということだが、あんまりばらまいても良くないんじゃないのと思った。バターの品薄は改善されないそうだ。結局、情報が少ないのでよく分からない。

外国人研修生が逃げ出したのだそうだ。家族同然の付き合いをしていたのに、逃げられた建築会社の社長はかわいそうだった。ヨーロッパでは移民の問題があり、何かと大変そうだ。まあ、遠く離れているので、日本では大丈夫だろうが。アメリカは間違った情報を基にリモコンで人殺しをしているらしい。情報が間違っているので、当然間違った人を殺す。ひどい話だ。

繰り返し、傾いたマンションの問題をやっている。住んでいた人たちは運が悪かったのかもしれないが、儲けを優先する企業はもっといけない。こうした企業は国が厳しく取り締まるべきだろう。

ざっと、こんな感じ。特に何かを隠蔽しているといういわけではないのだが、政府の広報をそのまま流していて「それをどう効果的に伝えようか」というアプローチのために、批判的な態度は取りにくくなる。現在の政府の態度は「困った事は自分たちで解決しろ」「何かあったら、自分から申請してこい」という態度なので、情報構成もそうした内容になっている。

「弱者」を扱う分量が多いのはよいことのように思えるが、問題も多い。多分、問題だけでなく成功事例を扱うようにという規定か暗黙の了解があるのだと思う。成功事例はとても希なものかもしれないのだが、「困っている人は努力が足りないか、運が悪かったのではないか」という印象が残るのだ。実際に、その場になって解決策が見つけられない、解決策にアクセスできないということになるケースも多いのではないかと思われる。

もめ事に対しては、両論を流して「はい、公平に扱いましたよ。あとは、自分で考えてね」という態度のために、結局は「断片的な情報」と「よく分からないからいいや」という感覚だけが残る。

外国人研修生制度の問題は、結局のところ非定住型格安労働力の確保のための制度が破綻したものなのだが、こうした背景は扱われない。しかも、当事者である「逃げ出す外国人」にも取材をしないので、結局日本人雇用者の言い分だけが放送されることになる。

この夏、安保法制に反対した人たちには信じがたいかもしれないが、野党のプレゼンスはほとんどないと言ってよい。プレゼンスがないので、選挙のときの選択肢に入る事もないのではないかと思われる。取り扱われない理由はよく分からないが「公共放送はプライベートなパーティーの意見をいちいち取り上げない」という考え方があるのではないかと思われる。

NHKが地域に開かれた最も公平な放送局であることは確かだ。しかし、受信料を取りはぐれる心配がないので、経済や社会が傾いてゆくことに対しての危機感を持ちにくいのだろう。困っていないのだから、社会や政府に対して批判的な態度を取るようにはならないだろう。だから、社会には問題が山積していたとしても、それはすべて他人事のように扱われる。見ている人も知らず知らずのうちに「困っている人たちは大変だなあ」という感想を持つことになるのではないかと思う。