キムタクする?

ついにSMAPの問題が「政治問題化」した。背景にはブラック企業に対応に悩まされる労働者(学生含む)の増加があるようだ。芸能界にも労働組合があれば、SMAPの4人は「公開処刑」されることはなかっただろう。芸能界には小栗旬のように「映画をよくするためには労働組合が必要だ」という俳優もいるが「SMAP程のスターでも芸能事務所には逆らえないんだ」というのは、多くの実演家に負のメッセージを与えたことだろう。

kimutaku個々の実演家の地位が低いのは日本の芸能界が多階層化しているからだ。利権のある一次企業と実演家を押さえている二次企業が実務家を搾取する(という言い方が気に入らなければ「利権を配分しない」と言い換えてもよい)構造ができあがっている。実務家は分断されており、交渉力がない。

本来なら、実演家たちは協力し合って一次企業(テレビ局)や二次企業(芸能事務所)と配分の仕組みを交渉した方がよい。しかし、そうしたことは起こらない。「足抜け」する人が必ず出てくるからである。二次企業は「足抜け」した人にわずかな利権を与えることで、他の実務家に「裏切るとろくなことにならない」というシグナルを送る事ができるのである。

芸能新聞の報道が確かなら、木村拓哉のおかげで、二次産業(ジャニーズ事務所)は安泰だった。そこで足抜け行為のことを「キムタクする」と呼びたい。

「キムタクする」主因はライバル(この場合は中居正広)の存在だろう。ライバルに勝ちたいという「自由競争」の原理が働いてしまうのだ。これは競争者としては仕方がないことである。しかし「キムタク」行為にはいくつもの弊害がある。

「キムタク行為」が横行すると、小栗旬がいうように芸能界が実力本位にならない。同じようなことが、IT業界にも言える。プログラムの価値を生み出すのはプログラマだ。プログラマが優秀なら、業界自体の競争力は増すはずだ。

ところが、日本ではプログラマは最底辺に置かれている。時間に追われ、一方的な顧客の仕様変更や無理な納期の注文に悩まされる。賃金は抑えられ、生活すらままならないこともある。面白いプログラムを作るどころか、生きて行くのがやっとだ。

そればかりか、時間がなく新しい技能を勉強できないので、早くから陳腐化する。疲弊して使い捨てられてしまうのである。だからコンピュータサイエンスを学んだ優秀な技術者はプログラマなど目指さず、とりまとめ(SEなどと呼ばれる)になる。SEは調整しているだけなので、業界全体の競争力が増すことはない。

同じような現象はアニメにも言える。底辺でアニメを支える人たちは個人事業主として消費される運命にある。現場を経験してから、面白いアニメをプロデュースする側に回ることはない。そもそも優秀な人は使い捨てられることが分かっているのにアニメ産業など目指さないだろう。国は「クールジャパン」などと言っているが、その助成金は、一次産業かよくて二次産業の上の方で「山分け」されてしまうだけだ。担い手のいない産業に持続性はないが、業界が気にする様子はない。「夢を持った若者」が次々と入ってくるからだ。

「面白いものができない」くらいなら我慢できるかもしれない。「キムタク行為」の真の弊害は、業界全体の安全が損なわれてしまうという点にある。「キムタク行為」は産業全体を不安定化させるのである。

ココイチのビーフカツ問題で見たように、末端の食品流通業者は、仲間が安さを求めて産業廃棄物に手を出しても分からないところまで疲弊化してしまった。明日食べて行けないかもしれないのだから、倫理などを気にしていられないだろう。

多分、末端の流通業者たちはスーパーに競争を強いられているはずだ。協力して交渉力を増したり、生産性を上げることもできるはずだが、そのようなことは起こらない。お互いにライバルだからである。末端業者は共同して「不当に安い価格での納入はしない」と言えればよいが、必ず「キムタクする」業者が出てくるだろう。中期的に見れば「キムタク」を防ぐ事で、食品業界の安全が確保されるはずだが「キムタク」業者も生活がかかっている。

この文章を読むと「木村拓哉を誹謗中傷している」とか「キムタク業者を非難している」と不快に思う人がきっといるだろう。もちろんアーティストとしての木村さんを批判するつもりはないし、生活のためにがんばっている人を誹謗中傷するつもりもない。

この問題の一番深刻なケースでは「被害者であるはずの弱者」が「加害者」になってしまうことがある。それが軽井沢のバス事故だ。

バス業界も受注関係はないが多階層化している。最下層では国が決めている運賃では採算が取れないくらいの構造になっているようだ。

軽井沢の事故で加害者になったのは高齢のドライバーだ。年金では暮らして行けなかったのだろうし、大手のバス会社が雇ってくるはずもない。慣れない長距離大型バスの運転に手を出して十数名の学生を殺してしまった。バスの運転手が産業別の労働組合を作り「労働条件を守れ」と言っていればこんなことは起こらなかったはずだが、果たしてあのバスのドライバーにそんな選択肢があっただろうか。

この問題で「キムタクした」人を責めるべきだろうか。もちろんそうではないだろう。しかし、加害者になり命まで落とした原因はやはり無理な労働条件で働いてしまったことにある。それを防ぐには一人ひとりのドライバーが連帯する以外にはないのだ。

国の監督がないのが悪いと言う人や規制緩和が悪いという人もいる。しかし、残念ながら国が労働者の一人ひとりを守ってくれるわけではない。せいぜい世間の耳目を集める事件が起きた時だけ一斉調査を行ってお茶を濁すだけだろう。

お互いに競争関係にある実務家が連帯することは難しい。足抜け行為によりその場の優位性を確保する方が簡単だ。だから、一連の問題が即座に消えてなくなることはないだろう。多忙を極める芸能人やアニメーターに「労働組合を作れ」と言っても夢物語にしか聞こえないはずだ。

しかし、それでも、業界の価値を決めるのは実務家だという自覚を持つ事で、状況は少しずつ前進するはずだし、諦めたらそこでその業界は死んでしまうのだろう。

Twitterの議論はなぜ噛み合ないのか

先日Twitterで「女性の社会進出」に関する小さな議論があったのだが、まったく噛み合なかった。まともなネット言論などないというのは定説になっているのだが、なぜなのだろうと考えてみた。

結局2つの要因に行き着いた。一つ目は「学校で議論の仕方を教えない」からというものだ。日本の教育は途上国式の「キャッチアップ」型で正解を教え込むことが教育だと考えられている。そして、次の原因はパーティーがないからというものである。

日本人はパーティーを開かないからTwitterで議論ができないのだ。

パーティーの席には知っている人もいれば知らない人もいる。また、意見が合う人がいるかもしれないが、意見の合わない人もいるかもしれない。もし、意見が合わない人と出くわしたとしても「私は帰る」とは言えない。座がしらけるし、誘ってくれた人に対して失礼に当たるからだ。

そこで求められるのは「聞く」ことと「自己主張する」ことのバランスだ。自己主張は特に難しく「アサーティブネス」が大切である。また、自己主張するにしても「ユーモアを交えて軟らかく」話した方がいい。あなたにとって自明のことでも相手は知らないかもしれない。

パーティーというと突飛に聞こえるかもしれない。これは「公共圏」の例えなのだが、日本には公共圏というものが存在しない。

政治的議論は異なる意見を折り合わせてよりより選択肢を探索するための意思決定プロセスだ。しかし、そのような難しいことが何の訓練もなしにできるはずはない。まず必要とされるのは、異なった意見を表明する自己主張(アサーティブネス)だろう。

Twitter上での「議論」を見ていると、その態度は両極端だ。「私が何か言ったところで状況は変わらない」といって押し黙る人たちがいる一方で、「あなたは何も分かっていない」と突然叫び出す人がいる。その中間がないのではないかと思う。つまり、意見表明と意見交換がないのだ。

こうした状況を見ると「Twitterはバカばかりだから議論が成立しないのだ」と言いたくなる。しかし、政治家にも同じような状況が見られる。「支持者」とばかりしか話さない人が意外と多いのだ。学者にも一方的な主張を叫びまくっている人が意外と多いので、知能が高ければ議論ができるというものでもないらしい。

民主主義を健全に保つ為に政治的議論は重要だ。しかし「学校で政治議論を教育しろ」と主張してみても、なんだか楽しくなさそうだ。パーティーをやれば民主主義が盛り上がるという主張の方がなんとなく受け入れられやすいのではないかと思う。

人気のある政治ブログを作るにはどうしたらいいか

毎日だらだらと書いている。テレビやネットの二次情報が多くなるので、政治ネタが増える傾向がある。本を読まなくても書けるからだ。読まれない記事も多いが、時々「ヒット作」が出る。ということで、どんな記事に人気の反応が良かったかを調べてみることにした。ブログに「全目次」があり、過去の「いいね」の数が分かる。いくつか傾向があることが分かった。

個人的な内容なので人に読ませるようなものではないのだが、「なぜ野党が支持を集めないのか」ということを考える上でヒントになる情報も少なくないのではないかと思う。

一体化欲求を満たす

ページビューを稼ぐのに一番良い方法は有名人に乗っかることだ。有名人の主張に賛同した記事を書くとRTしてもらえる。読まれる時間も長い。こうした読者は有名人に一体化したいと考えているのだろう。

もちろん、こうした人たちは有名人に賛同しているのであって、このブログに賛同しているわけではない。従って、彼らが二度とブログを訪れることはないだろう。日本人は多数派と一体化したい欲求を持っている。

一体化欲求が肥大化したのが、ネットのバッシングだ。バッシングに加担するとページビューが伸びる傾向にある。テレビ番組が揶揄されることも多い。例として「安倍首相の生肉事件」がある。障害児はかわいそうだから出生前に見つけた方が良いといった教育委員を批判した記事も人気だった。一方で佐野研二郎氏のようにネットから火がついたものもある。

男性的価値観に訴える

有名人のエンドースメントがなくても読まれる記事はある。「日本人は遅れている」という主張を書くと読んでもらいやすい。その場合「科学的で合理的な」ポジションから攻めるのがよいらしい。科学的、合理的、効率的という価値観は「男性的属性」と考えられる。日本人は男性的な文化を持っている。

旧弊な家族観も嫌われるようだ。女性は結婚して家に入るべきだとか、夫婦は同姓であるべきだという主張を否定すると人気が集る。「古くて非合理」な価値観を押しつける人は嫌われているのだろう。年配の世代から価値観を押しつけるのに辟易としている人が多いのかもしれない。

男性的な価値観は「脳科学で効率的に学習する方法」とか「ライフハック」への人気につながる。ボーダーシャツを着るとスタイルがよく見えるという記事が人気だった。「楽して痩せられる」という類いなのだが「科学的な(あるいは科学的に見える)」裏付けが必要だ。これも男性的な価値観だ。

男性的価値観の変種が左翼バッシングだ。「弱者に寄り添おう」という左翼人権主義は「弱さのスティグマ」と見なされている。左翼思想はイジメの対象にしか成り得ない。野党が伸長しない理由はそんな所にあるのだろう。民主党が日本に北欧型の福祉モデルを導入しようとしていた時期の「日本はスウェーデンのようになれない」という記事が人気だった。日本人は「福祉で弱者に金が使われると、俺たちの取り分がなくなる」と信じているのではないかと思う。弱者に優しく、みんなに心地よいという価値観は「女性的なもの」だ。

もし、左翼が政権を取りたいと考えるなら「弱者の側」に立ってはいけない。保守には「旧弊で古めかしい」というレッテル貼りが有効だろう。

証明できないことを言い切る

一方で、左翼層からの人気を集めたのではないかと思われる記事もある。「自衛隊は暴走するだろう」というものだ。安倍首相が今すぐ戦争を始める気配はなく、証明もできない。だから、それを言い切るとクリック数が増えるのである。しかし、読まれているとは言えない。表題を読んで満足するのだろう。

左翼層の目的は安倍政権の攻撃になっているのだろう。これを男性的に(すなわち科学的、合理的に)攻撃したいのだ。左翼は少数派で一体感が強く、広がりがない。「弱いものによりそう」はずの左翼リベラル的思想が攻撃性を帯びるのは、日本人が本質的に男性的な価値観を持っているからではないかと思われる。

コミュニケーションの難しさと所属の曖昧さ

全く違った分野で人気を集めたのが、コミュニケーションの難しさを書いた記事だ。自分の言いたいことが伝わらないという人もいるのだろうが、「俺の話が分からない異常者がいる」と感じている人も多いのではないかと思う。これを「科学的に」書くのがよいのではないかと思う。脳の不具合(あるいは傾向)で話が理解できない人がいるというような記事になる。決して「話を聞いて分かりあおう」と書いてはいけないらしい。アサーティブになろう(つまり自分が変わるべきだ)という論調も好ましくない。あくまでも自分は変わらずに相手を変えたいと考えているのだ。ただし「あなたは簡単な法則を知らないだけで損をしている」という書き方をすると人気が集るかもしれない。この手の記事は検索経由で根強い人気を集めている。Twitterで消費されるわけではない。

職場や学校でのコミュニケーションの複雑さは増しているらしい。

人々は一体化の欲求を持っており、群れを作って多数派であることを証明しようとすることは先に観察した。しかしながら、実際には属性への不安を感じているらしい。つまり自分がどのような人なのかがよく分からないのだ。このブログでは性格テスト(MBTI)について書いた記事があり人気を集めている。

学生は「自分をよく知って会社を攻略せよ」と言われる。しかし、社会に出るまで自分がどんな人なのかは良くわからない。そこでMBTIのような「科学的な」区分に需要があるのだろう。

よく「原子化された社会」と言われるが、『分かり合えない』社会化は進行しているようだ。しかし、それを互いの思いやりで乗り越えようという気にはならないようだ。どちらかというと「科学的に」攻略したいと考えているのだ。

人気のないもの

一方で読者に響かない記事もある。まず読者の興味の射程にない記事は読まれない。例えば、アフリカのテロや内戦の記事などは読まれない。「安倍政権の台頭でで戦争への忌避感情が強まっているのだから、どうしたら戦争が防げるか考えてみよう」などと考える人はいない。フランスのテロは同情されるが、ナイジェリアでテロが起きても「アフリカって危ないんだな」くらいにしか思わないのだろう。

女性的な価値観(共生、共感、居心地の良さ)に基づいた記事も無視される。日本人は弱者だと規定されることを嫌がる。寄り添ったり分け合ったりすることも嫌いだ。故に左翼的な価値観で安倍首相を攻撃してはいけない。左翼の理屈で政権批判をすると「弱者だ」と見なされることになるからだ。

さらに「社会を良くする為には自分が変わらなければならない」という論もよくない。あくまでも自分が好むように他人が変わることが求められるのである。試した事はないが、自己変革を促す為には、カルト宗教的な要素が必要なのではないかと思う。つまり、このように変われば天国に行ける(あるいは成功できる)という明確なゴール設定があればよいのではないかと思う。

こうした傾向の背景にあるのは、日本の教育なのではないかと思う。日本の教育の主眼は結論を「効率よく暗記する」点にあり、途中の過程は求められない。そこで「自分で考える」「仕組みを知る」「因果関係を検討する」などは苦手なようだ。読み手は結論を予め持っていて、それをバックアップするための論拠を求めているのだ。

Twitterにみる日本人の怖れ

Twitterが140字制限をなくすというニュースが広がった。Twitter社は長い間赤字に苦しんでいる。株主の間からは文字数制限をなくすべきだという声が根強く、これに応えた形だ。しかし、この変化は日本人ユーザーを動揺させた。Twitterらしさがなくなってしまうというのだ。

Twitter社はなにも10,000字を使わなければならないと言っているわけではない。日本人ユーザーが今までのようにTwitterを使い続ければ、これからも日本のTwitter環境は変わらないだろう。それでも日本人は変化を好まない。取りあえず「変わる」というニュースを聞けば反対してみせるのが日本人なのだろう。

日本人はなぜ変化を嫌うのか。それは、変化がリスクだと感じられるからだろう。ではなぜ、変化はリスクなのだろうか。

本来ならば、個人が便利な方向に環境が変化してゆけば、それは他人にとっても便利である可能性が高い。つまり、利得の総和が増す。これを「成長」という。しかし、環境が変化すると今まで環境から利益を得ていた人が損をする可能性がある。そこで日本人は全体の利得ではなく、個人の損に目が向いてしまうのだ。

環境を変えようという動きは「あいつだけがトクをしようとしているのだ」と受け取られる。そこで「スタンドプレーは慎むように」という話になる。このような相互監視と上からの押さえつけはどれも「変化しない」方向に働く。

最近、育休を取りたいと言った国会議員が同僚から猛反発を食らった。男性が育休を取る事ができるようになれば「助かった」と感じる人は多いだろうが「有権者にこびて選挙を有利に運ぼうとしている」と感じる人が多いのだ。最終的に党の有力者から「スタンドプレーを控えるべきだ」とたしなめられたのだという。国会議員がその調子なのだから、個人が生きやすいように社会を変えておこうという動きが広がるはずはない。

こうした環境のことを「空気」と呼ぶ。人が空気を作り出しているはずなのだが、日本人は個人が空気を変えることができるとは考えない。

変化を怖れる人はたとえ便利なことが分かっても、新しいテクノロジーを採用したり、便利な制度を導入することができない。成長ができないのは絆が弱くなったせいではない。むしろお互いの結びつきが強すぎるのである。

このためテクノロジの変わり目は世代の変わり目である事が多い。例えばファックスを覚えた世代はその後もファックスを使い続ける。その後の世代はファックスには目もくれずスマホを使うのだ。

こうして不便な状態に置かれる事が多い日本人だが、こうした不便さに熟達することに不思議な喜びを感じている。これを「職人技」といい、一生道を追求するのがよいとされる。そして不便さに慣れた人たちは、後の世代にも不便を押しつける。便利さを追求するひとを「わがままだ」と決めつけることもある。

例えば「社会の支援なしで子育てをした姑世代」は嫁の世代にも同じような不便さを求める。そして社会の支援を求めることはわがままだとみなされるのだ。

変化を怖れる人に変化を受け入れさせるのはどうすればよいのだろうか。それは「何も変わらない」という説明をすることである。それでも変化を怖れる人はその話を持ち帰り、集団で検討する。そしてお互いの利得が変わらないことを確認して初めてその変化を恐る恐る受け入れるのである。こうしたやり取りを「根回し」と呼んでいる。

Twitter社の仕様の変更が日本のTwitter文化を変えるとは思えない。人々は今までのようにTwitterを使い続けるだろう。もともとこの短文文化は2チャンネルから来たものだ。2チャンネルには文字数の制限はなかったが、参加者は短文で投稿しており、今でも高齢化した参加者たちが同じように短文で投稿し続けている。使い続けているうちに仲間内での約束事が積み重なり新規の参加者を受け入れなくなる。そこで新しい参加者たちは全く別のプラットフォームを選ぶだろう。

給食と自由を巡る論争

小学校1年生の娘を持つ母親が学校の先生に文句をいうのを聞いた。その市の小学校では給食は残さずに食べなければならないらしい。食べ終わるまで席を立ってはいけないのだ。しかしその娘には食べられないもの(ただしアレルギーではない)がある。そこでその母親は「学校が食べ物を押しつけるのはよくないのではないか」というのだ。児童には「食べない自由もある」という主張である。

普通に考えると「先生が言う事を聞かないのはよくない」ということになる。若い母親は黙って従うべきである。一方で、こうした主張は「民主的」とは言えず、あまり好まれない。

そこで次に考えられるのは、給食を食べないデメリットを伝えるという方法だ。給食は栄養バランスを考えて計画されているのだから、まんべんなく食べる事でバランスのよい食事ができるはずである。子供の頃の食生活はその後の食生活に影響を与えるだろう。つまり、好き嫌いをなくしてくれる先生に感謝するならまだしも、非難の対象にするのは「筋が違うのではないか」というものである。

この論の反論として考えられるのは「栄養バランスも自己責任である」というものである。つまり、その人の食事を管理するのはその人自体であって、他人にとやかく言われる筋合いのものではないというものだ。つまり、人には「不健康になる自由」もあるというわけだ。

さらに食べ残しは食料を無駄にするので良くないという論も考えられる。しかしこれも「食費を払っているのは親(あるいは納税者)なのだから、無駄にする自由もある」という反論が予想される。

自由というのはかなり厄介な概念だ。「正しい食生活を身につける」という大義があるのだから、そもそもそれは自由ではなく「ワガママだ」とレッテルを貼ってしまいたくなる。実際には「先生には従うべきだ」とか「子供の時に偏食をなくすべきだ」と言った方が簡単だし、現実的であろう。

その一方で「嫌な事をしない自由」という概念にはやや不自然さを感じる。このような考え方はなぜ生まれたのだろうか。

これは学校の側に責任の一端がありそうだ。学校は自由の意味を教えないことで問題を再生産しているのではないかと思う。

最近の学校は親を「お客様」として扱い、最終的な責任を負うのを嫌がるようである。先生は「最終的に食べるか食べないかは母親の責任だし、次の学年の先生がどのような指導をするのか分からない」と言ったそうである。本来なら「絶対に子供のためになるのだと信じている」くらいのことを言って母親を説得してくれても良さそうだが、そうはならないらしい。母親は仄めかすように「偏食はよくないんじゃないですかねえ」というようなことを言われ「攻撃されているように」感じたようだ。

最近は偏食の子供も多いらしく(ついでにアレルギーの子供も増えているようだ)先生たちも苦労しているようである。しかし子供に「栄養バランス」などと言っても分からないし、いちいち説明するのも面倒だ。そこで学校は給食をゲーム化するようである。クラスごとに目標を決めて食べきったら表彰するのだそうだ。つまり、子供は「なぜホウレンソウを食べなければならないか」ということを学ぶ前に「自分が食べないとクラス全体の迷惑になる」ということだけを学んでしまうのである。小学生はこのようにして「集団主義」を身につけてしまうのだ。

これを聞いて、去年起きた子供の死亡事故を思い出した。チーズ入りチヂミを食べた児童が亡くなったという事故だ。その学校ではクラスで同じような競い合いをしていた。そこで児童は目標を達成しようとしてアレルギー物質の入った食べ物を食べてしまったのだ。

よく考えてみると、先生には児童を説得して指導するインセンティブはない。先生に期待されているのは、国や市が決めた教育要項に従って「効率よく」クラスを運営することだ。「児童が偏食行動を身につけようと、給食さえ食べてくれれば知ったこっちゃない」のかもしれない。先生個人の力量は期待されておらず。集団で行動すればよい。そこで責任だけを負わされてはたまったものではないだろう。

給食の問題から実情をまとめると次のようになる。親の側は「個人の自由」を盾に「嫌な事」を避けようとする。子供が嫌がること事を強制して嫌われるのも避けたい。その一方で子供たちは「個人としての自覚」を持つ前に「集団主義」を身につけてしまう。先生は「児童個人を説得して訴える」ことを放棄しており「個人で職業的な責任を取る」ことも避けるのだ。

このような状況下で、どの程度の「自由」を子供に与えることが「正しい」のだろうか。また、嫌がる子供にホウレンソウを食べさせるために、子供をどのように説得すべきなのだろうか。答えは様々あり、その答えに行き着く論理も種々あり得るだろう。

こびとの話 – ネット表現は難しい

江川紹子さんというジャーナリストが「Wi-Fiが故障したが2〜3日したら復旧した」とツイートしていた。プロバイダー障害であれば評判になっていただろうから、多分機械の不具合だったのだろう。その後復旧したということはハードの障害ではなかった可能性が高い。ということはソフトウェアの不具合かキャパオーバーだろう。

ただ、そのまま呟いてもおもしろくないので「小人が直したのでお供えでもしてください」というような表現にして投稿した。

実際にWi-Fi機器はしょっちゅう小さな障害が起きており、それをプログラムで修正している。小さな故障を修正しつつ今あるトラフィックを捌く必要があるので、速度を落として動作を続ける。しかしそれでも捌ききれなくなると止まってしまうのだ。動作が停止するとトラフィックが途切れる。すると余裕ができて修正できることがある。そこで「自然に復旧した」と感じられるのである。

2〜3日待つのが嫌な人は、一度スィッチを切ってから電源を入れ直すとよい。リセットすると大抵の不具合は修正される。

Wi-Fi機器のようなインフラ機械は、無事に動いても誰にも感謝して貰えない。なのに、動作が止まると文句を言われる宿命にある。中では「わたわた」と小さなプログラムが動いているのだ。実際にトラフィックを覗いてみると「この番号は誰だ」とか「この信号を送れ」などという信号が行き交っている。その動きは小人さんさながらである。

正月ぐらいは修正ロジックを書いているプログラマさんたちに感謝してお供え物をくらいしても良いだろう。

しかし、ネットの表現は難しい。その後のリアクションを見ると、小人とは、一般の人が休んでいるときに働いている「中の人」のことだと思われたようだった。正月の休みの期間にコンビニに買い物に行けるということは、別の誰かが働いているということである。最近ではそういう働き手が多いのだ。

さて、話はここから意外な方向に転換する。小人は差別用語だという人が表れたのだ。もともとは「プログラム」を擬人化するために使っていた「小人」という用語が「人」を示すものになった。それが「小さな人」を差別しているということになったのだろう。

「小人」は放送禁止用語として指定されているらしい。理由は書かれていなかったが、小人症の類推があるのではないかと思われる。そこには「白雪姫と七人のこびと」の例が書かれており「白雪姫と七人のドワーフ」と言いましょうと書かれてあった。検索すると、ディズニーは「こびと」とひらがな表示にしているらしい。真相はよく分からないが「差別だ」という指摘があったのかもしれない。

漢字だとダメでひらがなだとよいというのが、情緒を重んじる日本人らしい。ちなみに「小人症」は英語ではドワーフィズムと呼ばれるので、小人症を差別用語だと見なすならドワーフも差別である。

さて、この人はなぜこのような指摘をしたのだろう。この指摘をした人は原発に反対して福島瑞穂さんを応援しているらしい。江川紹子さんも「社会正義の味方だ」と思われているのだろう。その人が「差別用語」を使うのが許せなかったのではないかと思う。しかし、個人で「良い悪い」の線引きをするのはとても難しい。そこで「放送局が面倒を避ける為に使っている規範」がその人の正義になってしまうのだ。

外から入ってくる規範には様々な種類がある。宗教に規範を求める人もいれば「日本の伝統や国体」が正義になる人もいる。中には「原発や戦争はいけない」を規範にする人もいるだろう。正義は社会を安定させるが、時には大きな衝突を引き起こす。

正義という「大我」を暴走させないためには「小我」をうまく満たす必要がある。一方で、正義を語る人は実際には「自分が正当に扱われていない」といういらだちを募らせていることが多いのではないかと思う。

そこで「よく御存知ですね。勉強になりました」と返事をした。「御存知でしたら、もう少し教えてください」みたいなことを書いたのだが、多分この指摘をした人はそれ以上言葉について考えることはないはずだ。どうしていいのか分からなかったのだろう。「いいね」が戻ってきた。言葉に敏感なようだが、本当は言葉自体には興味がないのだろう。

しかし「あちらを立てれば、こちらが立たず」である。いわゆる「差別用語をとにかく使わない」という姿勢はプロの文筆家の嫌うところなのだ。

一律に特定の言葉を否定することを「言葉狩り」という。筒井康隆の断筆宣言(小説にてんかんへの差別表現があるとされ、批判に晒された)でも見られるように、昔から表現の自由と<弱者>への配慮は緊張関係にある。案の定(というか、意外な事にというか)江川紹子さんから直接「それは言葉狩りだ」という指摘が入った。職業文筆家としては譲れない一線だったのかもしれない。

「言葉狩り」はなぜいけないのだろうか。それは、私達が持っている差別的な感情にふたをする役割を持っているからだ。言葉さえ使わなければ、その面倒なことはなかったことになり、それ以上考えなくてもすむのである。

さて、これが「ちょっとしたユーモア」のつもりで書いた投稿が、正月に休んでいる、遠く離れた会ったことのない人の心を騒がした物語の顛末と考察である。

お正月なので「お供え物」について考察したい。Wi-Fi機器にお神酒を備えてもプログラムが飲めるわけではない。中の人も仕事としてやっているわけだから「休みの日に働かされてかわいそうに」というのも失礼な話である。結局、お神酒は自分に飲ませるものなのだ。「正月は休んで気楽に過ごしてね」というくらいの意味合いだろう。

これがなぜお供えになるのだろうか。自分が休むということは、他人にも休む時間を与えてあげるということだ。自分に優しくするということは他人にも優しくしてあげるということなのだ。結局は「小我」を満たす事が「大我」につながってゆくのではないかと思う。

テレビジャーナリズムという幻想

古館伊知郎がニュースステーションを降板するといって大騒ぎになっている。権力を批判する人がテレビから消える。それでは安倍政権の思うツボだというのである。こうした言説には違和感を感じる。そもそも、古館伊知郎が「テレビジャーナリスト」扱いされるようになったのはなぜなのだろうか。

そもそも、テレビのニュースは退屈なものだった。最初にこれを変えたのはNHKだ。1970年代にニュース原稿を読むのをやめて「語りかけるように」したのだ。

バブル期の後半に、テレビ朝日が夜のテレビニュースを変えた。ニュースにワイドショーのような「分かりやすさ」を加えた。しかし、それは「ジャーナリズム」を指向したものではなかった。あくまでもニュースショーだった。NHKとの差別化を狙ったものと思われる。そこで起用されたのが、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」で人気だった久米宏だ。久米はニュースを読むアナウンサーではなかった。

その後、バブルが崩壊し、自民党政治への信頼が失われて行く。自民党の政治家は「金権政治化だ」とみなされるようになる。時代に沿うようにしていテレビニュースショーは「反権力化」していった。自民党を離党した「右派リベラル」の人たちが担いだのは熊本のお殿様の子孫である細川護煕だった。細川首相は近衛家の血も引いている。血筋の良さが重んじられるという点では、とてもアジア的な政権交代だった。

この頃の趨勢は「反自民」だった。しかし、非自民内閣が失敗したために、社会党を巻き込んだ「自社さ」政権ができ「自民党をぶっ壊す」と言った小泉政権へと続いて行く。有権者はこの間、一度も「左派」の政党を支持することはなかった。

ニュースステーションの枠を継いだのが古館伊知郎だ。久米は「ニュースステーションがなくなるのだから、次の司会者がいるはずはない」と主張したという。この人もジャーナリスト出身ではなかった。どちらかといえば、スポーツ中継(特にプロレス)などで活躍していた人である。つまり、テレビ朝日は依然としてニュースをショーだと考えていたのだ。「権力を監視し、提言する」のがジャーナリズムだとすると、ジャーナリズムのように見せるのが報道ステーションだった。

前者を格闘技だとすると、後者は格闘技をショーアップしたプロレスのようなものだ。報道ステーションは、格闘技ではなくプロレスなのだ。その悪役として選ばれたのが「権力」だったのである。

小泉政権が終ると自民党に対するバッシングは最高潮に達する。有権者は「自民でないなにか」を求めるようになった。そこで表れたのが民主党だが、3年間の民主党政治は無惨な結果に終った。東日本大震災のような天災もあり、有権者は民主党を「穢れたもの」として打ち捨てた。古代に疫病があると都を捨ててたようなものだ。民主党の後期ごろから人々は「改革」と口に出して言わなくなった。

「どうせ、変わらない」という空気が蔓延し、有権者は政治への興味を失った。今では一部の人たちが「安倍政権は許せない」と叫ぶ(あるいは呟く)だけである。反対が多いように見えるのに、自民党は支持され、憲法改正さえ伺う勢いである。「反権力」はもうトレンドではない。多分「権力側にいたい」というのが今の気分なのだ。

日本人は戦後一貫して「未来」を向いていた。現在よりも一年後の方がよくなると思っていたのだ。バブルが崩壊してもそれは変わらず「この状態はいつしか改善するはずだ」と考えていたように思う。明治以降「脱亜」の意識が強かったので「日本人は西洋に比べて劣っている」と考える人が多かった。実際は世界第二位の経済大国だったのだが「日本は小国である」と考えていた。

ところが、最近では「日本はここが優れている」という番組が多く見られるようになった。先進国最低レベルのGDPなのだが「日本はまだ西洋諸国と肩を並べている」と漠然と信じている人も多い。中国を中進国だと見下しているのだが、経済規模では遥かに及ばない。日本人は未来よりも過去の良かった時代を見る事に決めたのだろう。不安な未来を見つめるよりも、確実な過去を見て安心したいのだ。

だから「反権力」や「ジャーナリズム」はもう流行らない。商品価値がなくなったショーを続ける意味はない。だから、見ていて安心できるキャスターや、現状を肯定するニュースショーが求められるはずだ。多分「官邸から圧力をかけられたから反権力的な人たちが降ろされた」のではないのではないかと思う。

そもそも、現代のビジネスマンはスマホでYahoo!ニュースを見ているはずだ。これまでのように「権力批判」が売り物になるのは、高齢者相手のニュース番組だろう。TBSの時事放談やサンデーモーニングなど、今の政治の不出来を嘆くショーが生き残るのではないだろうか。

ローコンテクスト文化と是々非々文化

松田公太という参議院議員が、菅官房長官の「是々非々」発言に疑問を呈している。多分、松田さんは是々非々という言葉の意味が分からなかったのだろう。海外経験が多いことが影響しているのではないかと思われる。

菅官房長官は、おおさか維新の党を指して「是々非々を歓迎する」と言っている。これは「取引が可能だ」という意味合いを含んでいる。おおさか維新に大阪府市の改革をやらせる代わりに憲法改正への道筋を立てて欲しいと考えているのだろう。お互いの利権には踏み込まず、目標を達成する協力をしましょうということである。

一方で、ローコンテクスト文化圏の是々非々は「出された法案を検討し合理的な判断を下す」という意味合いだろうと思われる。例えば社民党や共産党のような万年野党が「とにかく政府の方針にはなんでも反対する」のと比べて合理的に聞こえる。

ハイコンテクストの人たちは「関係性」に注目する一方で、ローコンテクストの人たちは「対象物」に着目する。同じものを見ているつもりで、まったく別々のものを見ているのだ。

菅官邸にとって、おおさか維新は好ましい相手だ。自民党に近寄る議員たちは「あわよくば自民党に入れてもらいたい」と思っている人ばかりだ。いわば「フリーライダー候補」と言える。また「万年野党」とも利害圏が共通している。だから「万年野党」は何かにつけて反対するのだ。一方、おおさか維新は自前の支持者を持っていて自活している。中央と地方なので利権の棲み分けも完璧である。これがおおさか維新が好まれる原因だろう。

菅官邸は取引を持ちかけるのが好きだ。沖縄に対しては「遊園地を誘致してあげるから、基地に反対しないでね」と言っている。「あなたたちのことは分かってますよ。おいしい思いをしたいんですよね」というわけだ。それは「私達もおいしい思いをしたいんですよ。分かっているでしょ」というメッセージを含んでいる。これを仄めかすように伝えるのが日本式だ。

一方、菅官邸はこうした「是々非々」の取引ができない人たちが嫌いだ。原発を稼働に「とにかく反対」という人も嫌いだし、軍事費で儲けたいと思っているのに「とにかく戦争反対だ」と叫ぶ人たちも嫌いだ。「沖縄の誇り」を持ち出されると取引ができないので、これも嫌がる。そして、こうした人たちがいないように振る舞う。

菅官房長官や安倍首相はこうした人たちと対峙するときに、目を見ないで嫌な顔をすることが多い。特に女性(多分見下しているのだろう)などが相手の場合には露骨に嫌な顔をする。取引ができないとどうしていいか分からなくなってしまうのだ。

松田さんの党は(党でなくなったみたいだが)安保関連法案には賛成しているので「是々非々党」だと思われがちである。日本人の受け手(つまり有権者)もそのように受けとめている。「政権と取引したのだろう」という具合だ。しかし、実際には「国会で審議できるようにしよう」と言っている。官邸から見ると取引したいと考えている利権に踏み込もうとしているように見えるのだ。日本人は自分の縄張りに他人が入ってくるのを嫌がる。さらに、こうした取引をするのに言語的な交渉を行わない傾向がある。お互いに目をみて「分かっているでしょ」と非言語的なやり取りを行う。

このハイコンテクストな「是々非々文化」はかなりの弊害を生み出している。そもそもコンテクストを理解できない外国人もいる。アメリカのようなローコンテクスト文化圏の人だと「日本人は集団で私を排除しようとしているし、はっきりと要求を表に出さない」と思うかもしれない。もっとやっかいなのは女性だ。「女の人は建前だけ言って困る」というのは「是々非々の対応ができない」という意味である。だから、日本では地位が上がるほど女性の管理職が少ない。「女は面倒」なのだ。

こうしたハイコンテクストな文化が残っている企業には優秀な外国人や女性が近づかないだろう。多様性がないということは、こうした顧客のニーズが満たせないということである。ハイコンテクストな人たちとの間でのやりとりが好まれるので、ガラパゴス化してしまうのである。

最近ではオリンピックでこの是々非々文化が問題を起している。ザハ・ハディド氏は外国人であり女性でもある。組織委員会の人たちは「それとなく」要求を伝えた(あるいは仄めかした)はずである。それがうまく伝わらなかったのだろう。利益が確保できない事を怖れた建設会社が法外に高い見積もりを出して「自爆テロ」を演じたのではないだろうか。代わりに出てきたのが「話が分かる」日本人男性の建築家だ。

さらにはエンブレムでも「話がわかりそうな」広告代理店が「話のわかりそうな」アートディレクタを採用して形だけのコンペが実施された。日本人にとっては「利益を分配する」というのは自然な文化なのだ。

大きな公共事業には国際コンペが義務づけられている。TPPが発効すれば地方レベルの公共事業にも国際コンペが義務づけられそうだ。日本の「是々非々問題」は国際的な軋轢を生じさせそうである。この文化は、アメリカやアングロサクソン系の人たちからは「非関税障壁」と見なされているからである。

NHKの女性進出プロパガンダ

古館伊知郎が報道ステーションを降りるといって大騒ぎになっている。官邸の圧力だろうというもっぱらの評判だ。しかし、分かりやすいところにかける圧力は圧力とは呼べない。無知蒙昧な庶民を「教育してあげる」のが本物のプロパガンダだろう。もともとカトリックの宣伝のことを軽蔑的に呼んだのがはじまりだそうだ。

今年撃沈した大河ドラマ『花燃ゆ』の後半のテーマは「女と教育」だった。女は教育をつけて国の経済発展に尽力すべきだというメッセージである。「経済力を付けて自立すべきだ」という台詞が語られた。そうすると「私らしく輝ける」というのである。

今年後半の朝ドラ『あさが来る』のテーマも「女と社会進出」らしい。福沢諭吉(武田鉄矢が押し付けがましく演じている)が「女も教育をつけて経済的自立を果たし責任を負うべきだ」と主張した。ドラマ自体は楽しく見ているのだが、武田鉄矢には「うんざりぽん」だ。

この2つは偶然選ばれたのではないのだろう。女性進出を政治的スローガンとしている安倍政権の動き(ウーマノミクス)と重なるからだ。確かに女性の社会進出自体は悪い事ではない。

確かに女性は期待されている。企業で正社員を非正規で置き換える動きが進んでいるので、女性は貴重な労働力として期待されているのだ。政府によると、女性は働き手であるとともに、家事や育児をこなし、将来は介護労働にも携わるべきだ。

一方で女性が重要な役職に就く事は好まれない。政府は小泉政権の頃に掲げた女性公務員の管理職の割合を30%以上にするという目標を7%に引き下げた。政府は「女性を管理職にしたらカネを払う」と言っているのだが、申請した会社はほとんどない。

そこでNHKのメッセージだ。NHKの考え方によれば、女性の社会進出が遅れているのは、女性に教育と意志がないからである。だから、教育を付ければ自ずから女性は社会進出するであろうというのだ。実際には女性の教育は進んでいるが、女性が教育を付けたからといって男性並に稼げるわけではない。実際には補助労働力として期待されているだけだ。もちろん「学をつければ良い仕事に就ける」という期待を持てる男性も減っている。

もちろん、どのような作品を選び、どんなメッセージを乗せるかはNHKの自由だ。いやなら見なければよいだけだし、朝のドラマにそんなメッセージが込められているとは誰も思わないだろう。うっかり見逃してしまう人の方が多いのではないかと思う。

気になるのは「私らしく」という点だ。女性が意識を高めれば私らしく輝けるというメッセージには宗教的な響きがあるが、実際には取捨選択を迫られる上に自分の選択が正しかったのかについて確信が持てない。そこで周囲との比較が始まるのである。

この無責任なメッセージを政府がNHKに押しつけているとは思えない。おそらく政府の歓心を買う為に「自主的に」行っているのではないだろうか。明白に主張しているわけではないので、罪の意識も薄いかもしれない。しかし、こうした無責任なプロパガンダを流す前に、NHKは自らが雇っている高学歴で意識の高い女性が高い地位に就けるように努力すべきだろう。管理職の割合を50%程度まで引き上げるなら、NHKのメッセージを信じてもよいと思う。

女性が子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うことだ

NHKで保育士が足りないという話をやっていた。実際には資格を持った人は70万人も余っているのだという。にも関わらず、保育士として働いていない人が多い。平均給与が20万円程度しかないので、続けたくても続けられないのだという。気概に燃えて保育士を志しても、現場の課題な要求に燃え尽きてしまうひとも多いということだ。

いろいろ検討してみると、この状態で子供を産むということは、別の女性が子供を産む機会を奪うということである、ということが分かる。

番組を見ているときには深く考えなかったのだが、後になって疑問に思ったことがある。50歳代の人を加えても給与が20万円しかないということは、この人たちが働いていた当初から、保育士の給与は低く抑えられてきたということだ。番組ではこの点には触れず「社会の関心を高めなければならない」というような論調で議論が進んでいた。しかし、社会の関心が高まっても保育士の給与が上がる訳ではない。

昔から平均給与が低かったということは、保育士というのは一生続ける仕事だとは認識されていなかったということになる。お嫁さんになる人の仕事だったのだろう。一般の企業でいうところのOLさんのような位置づけだ。確かに子供が好きそうだから、よいお嫁さんになれそうだ。もしくは、子育てが終ってから仕事に復職するということも考えられる。

こうした現象は統計的に確かめられている。OECDで統計をとると、日本の賃金格差は韓国と並んで高い部類にある。両国で共通するのは女性の就業者がM字カーブを描いているということだ。つまり、女性は補助労働力として位置づけられており、子供を産む時に一度キャリアを中断されるのだ。

この労働慣行が残っている中で、一生「女性向きの仕事」に就くということは、補助労働力に留まる事を意味する。と、同時に子供を産む事を諦めるということになってしまうのだ。男性がこの職に就くという事は世帯主になるのを諦めるということである。

問題の一端は、補助労働力ににも関わらず、かつての男性のように長時間職場に縛り付けられてしまうという点にある。企業や社会はこうして補助労働力に依存する構造になってしまったようだ。

企業は、制度の「いいとこどり」をしているつもりなのだろう。補助労働力に依存しつつ、その補助労働力に過大な負担を追わせている。学生が学業に専念できないという「ブラックバイト」と同根だ。

日本の社会は男性の正社員を、女性の補助労働力が支えるという構造になっている。このバランスが崩れたことが、保育師不足の直接の原因であると考えられる。故に、保育士の問題だけに注目しても、保育師不足は解消されない。

解決策は2つある。かつての終身雇用に戻るか、生産性を向上させて短時間労働の集積でも生産性が落ちないような工夫をするということだ。労働者には、短時間労働でも生活が成り立つような賃金を与えなければならない。

日本のサービス業の労働生産性は低い。これが低い賃金で長時間労働に貼付けられる原因になっている。しかし、日本は製造業依存の期間が長かったので「一生懸命働けばよいものを作れる」と考えるのが一般的だ。しかしながら、サービス産業では一生懸命働いて過剰なサービスをするほど、労働時間だけが伸びて賃金が上がらないことになる。これが日本のサービス産業の生産性を下げているのだ。がんばる方向が真逆なのである。

現在の状況で保育士になるということは、子供を持つ事を諦めるということだ。しかも、保育士の資格を取る為には学校に通って資格を取らなければならない。現在、学生の半数は奨学金(という名前の学生ローン)に頼っているので、借金をして、一生子供を持つ見込みのない仕事につくということになる。これは合理的な選択とはいえない。故に、保育士は減り続けるだろう。

つまり、女性が子供を産むということは、別の女性(つまり保育士)に子供を産ませないということを意味する。あるいは保育士の争奪競争に打ち勝つということで、それは別の母親が働けないということである。男性保育士を女性並に処遇するという事は男性に家庭を作らせないということであり、間接的に夫候補を減らすということだ。

問題の根源は企業文化にあるので、保育師不足は政府の責任ではない。しかしながら、昔風の企業慣行を放置しているという意味では、与党(企業よりの政策を実行)も野党(正社員労働組合に依存)も共同正犯と言えるだろう。