保育所の問題とコモンズの悲劇

保育所問題の議論がなんだかあらぬ方向に向かっているようだ。「保育士の待遇を改善すれば問題が解決する」というのである。議論の前に、まずコモンズの悲劇(共有地の悲劇とも)のコンセプトを理解する必要がある。

ここに4軒の畜産家がいる。牧草地の間には誰のものでもない土地(条件1)があって、柵がない(条件2)。どのようにすると一番よいのだろうか。

持続可能性を考慮に入れると、誰のものでもない牧草地(共有地・コモンズ)を4軒の畜産家で協同管理するのがよい。コモンズに入れる牛の数を適性に割り当てて、牧草が生えてくる余地を残すのだ。ときどきでかけていって肥料を撒いたり、手入れをするのもよいかもしれない。コストはかかるが、これが一番よいやり方である。

しかし、短期的な利益を考慮すると事情が変わってくる。コスト負担はできるだけ避けた方がよいが牛の数は増やせばいい。最終的には他の3軒の畜産家を駆逐することができるだろう。ただし、それでも手入れをしなければ牧草地は枯れてしまう。つまり、4軒とも倒産してしまう。牧畜家がいなくなれば牛乳が飲めなくなる。

ここで「牛乳が欲しいから」という理由で誰か他の人が牧草地の管理を買って出たらどうなるだろうか。畜産家は安く牧畜できるが、その費用には関心を払わなくなるので、限界まで事業を拡大させる。すると社会はインフラを維持できなくなる地点に到達する。維持ができなくなったところで市場は崩壊するだろう。

これを実際の経済に置き換えてみると、いろいろなことが分かる。牧畜家に当たるのが企業で、共有の牧草地に当たるのが社会的インフラだ。牧草地の維持は社会の持続可能性を示している。難しいことは何もない。たとえとして引っかかる点があるとしたら人間を牧草扱いするとは何事だという点だろうが、そこは我慢して欲しい。

安倍政権は企業減税して、その分の負担を消費税に求めている。社会的インフラの維持を企業ではなく働き手から得ようという算段だ。

しかし、これには問題が多い。年金生活者が増えて所得に占める賃金の地位は下がりつつある。さらに、企業にとってはコスト削減のインセンティブが働く。端的に言えば子供を持っている従業員の雇用は割高になるために切り捨ててしまうのが一番経済合理性が高いということになってしまうのである。一度職を離れた人を同じスキルで非正規雇用すれば賃金はさらに下げられる。

今のままで保育士の賃金を上げると、社会的インフラへのフリーライド(ただ乗り)のインセンティブが強まる。ただ乗りした方が短期的に勝利できる可能性が強まるからだ。他の条件が同じなら、手厚い従業員保護をする会社よりも人件費の面で有利になる。却ってフリーライダーが勝ちやすくなってしまうのだ。

また、この政策は政府の債務を大きくする。保育所だけが社会的インフラではない。福祉を手厚くしたり、公的補助をして企業を誘致したりすると、フリーライドのインセンティブを強めることになるのだ。つまり、現在の政策を続けてゆくと、その延長線上には財政破綻があるということになる。財政破綻した瞬間に市場は崩壊する。

この問題の解決策はいくつかある。

第一の解決策は、牧草を輸入することだ。牛乳がなくなると困るから、消費者のコストで牧草を輸入して共有地においておくのである。この方法の欠点は牧草を輸入すればするほどそれに乗って牛が増えてゆくということだ。市場が牧草を賄いきれなくなったときに市場は崩壊するだろう。結局、コモンズを買っている(外国の土地を共有地として使っている)ことになる。牧畜家が牧草輸送のコストを負担するという方法もあるのだが、いずれにせよこれは奴隷制の例えなのである。牛は丸々と太っているが、足元は砂漠化しているということだ。帝国主義的な資本主義では正当化されるのかもしれないが、現在ではこの方法を取るのは無理だろう。

第二の解決策は共有地を牧畜家に割り当ててコストを負担させることだ。保育所の場合には、子供のいる従業員に対して保育所の設置を義務化するという政策になる。所有権を明確にする方法は「内部化」と呼ばれる。この方法の難点は共有地が私有化されることで、本当に共有地が利用したい人が締め出されてしまうというものである。例えば、零細企業などは従業員のための施設が作れず倒産してしまうかもしれない。もともと保育園はこうした企業のために作られた(つまり福祉の一環なのである)ということを考えると本末転倒かもしれない。すべてを自由競争にゆだねるというのは資本主義的には王道だが、これですべてがうまく行くというわけでもなさそうだ。私有地化による悲劇をアンチコモンズなどと呼ぶそうである。

第三の解決策は、牧畜家から税金を取って誰か他の人が共有地を管理するという方法である。この方法だと零細企業が締め出されることはなくなるかもしれない。この解決策の問題点はいくつかある。代理人が割高な料金を取って過大請求するかもしれない。代理人をどれだけ信頼できるかという問題になる。本来は規模の経済が働くので効率的なはずだが、必ずしも成功するとは限らない。つまりこの解決策は「社会主義的」アプローチだ。つまり、不効率になる可能性が高いのである。代理人が牧草地を独占するのだから、牧草地の管理人には「できるだけ高い金を牧畜家からふんだくってやろう」というインセンティブが働く。あるいは管理人が誰が草を食べられるかを決めるので不公平感が生まれるのだ。

現在の方法は第三の解決策に近い。一番の違いは牧畜家から税金を取っていないのに牧草地を協同管理しようとしているという点だ。そこで、問題を無視するか(自民党流アプローチ)つじつまを合わせようとしている(野党的アプローチ)ために、保育所の問題は「解けない問題」になっているのである。

最悪なのは牧草地の管理者(保育所の場合は国)が独占企業と同じになっているという点だろう。牧草地も増やさないし、
水もやらない(つまり保育士の待遇もよくしない)。そして費用は牧畜家ではなく消費者に負担させようとしている。牛は丸々と太っているが、砂漠が広がるという光景が生まれつつあるのだ。

地方分権して牧草地の管理人の数を増やせば少なくとも共有地独占の問題は解決するだろうが、企業のフリーライドの問題は解決しない。

難しい言い方をすれば、こうしたありようを変えてゆくことを「統治機構の改革」と呼ぶべきなのだ。つまり、日本を変えるということである。戦前の支配体制に復帰を目指したり、単に地方に財源を移すことを統治機構改革と呼ぶのは間違っているのではないかと思える。

コメはいつめしに変わるのか

外国人から日本語について聞かれてもにわかに答えられないことがある。コメはいつめし(あるいはごはん)に変わるのだろうか。普通に考えると電子炊飯器に入れた状態はコメだが、出したときにはめしになっているということになる。では、透明な炊飯器があり中身が見えたとして、いつからめしになるのだろうか。

この質問は問いの立て方が間違っている。めしをみて「これはコメか」と問われれば「はいそうです」と答えるからだ。つまり、コメはめしに変化したのではないのだ。だが、生米をみて「これはめしだ」という日本人はいない。つまり、コメに「食べられる」という属性を与えたものがめしなのだ。

同じことは水にも言える。水を温めたのがお湯だ。お湯は水であるが、水はお湯ではない。水に「温かい」という属性を与えたのがお湯である。お湯に場合は事情が異なっている。40度程度はぬるま湯と呼ばれるが、これが30度の場合には水という人が多いに違いない。つまり何度からがお湯とはいえないのだ。ちなみに温泉法によると25度以上のものは温泉と呼ぶらしい。法律的には25度以上はお湯なのだ。

ではこれが日本語特有の現象かと言われればそうではない。小麦(wheat)を粉にしたものが小麦粉(flour)で、これを加工したものがパン(bread)だが、焼かれていない状態ではパンとは呼ばず生地(dough)と呼ばれる。食べられない状態のパンを生地と呼んでいるのだ。だからコメがいつめしになるのだと聞かれたら、小麦はいつ生地になり生地はいつパンになるのかと聞けばよいのだ。コメはあまり形が変えずに食べられるのでこのような混乱が起こるのだろう。

放送と言論の自由

奥野さんという民主党の代議士が高市総務大臣に変なことを質問したためになんだかめちゃくちゃな議論が行われている。「政治的に偏った放送を行った放送局の電波を政府が停止できるんですか」と質問し「できます」との回答を得たのだ。民主党は「自民党は言論弾圧に乗り出した」と騒ぎ、憲法学者の先生たちも「高市発言は憲法違反だ」と騒いでいる。

もともと、放送法は電波を政府や権力者たちが独占しないために「不偏不党」が唄っており、権力批判を制限するための法律ではない。ところが最近では政権に近い人たちが公然と「政権批判ばかりして、偏っているから電波を止めてしまえ」などと言い出すようになった。中には真剣に「ジャーナリズムは共産主義に洗脳されている」などと考える人たちも出てきているようだ。そこで「自民党政権は言論弾圧のために電波を止めかねない」という懸念が生まれたのだろう。

ところが、そもそも「不偏不党」性は言論の自由に抵触する。だから、あの法律はもとから憲法違反なのだ。そのため法曹界では、普遍不党を唄った条項は努力目標だというような曖昧な解釈をしているようだ。法曹界の面白いところは法律の無謬性を信じているという点だろう。法律だって間違えることがあるわけだから、状況が変われば法文を変えればいいと思うのだが、それでは法律の持っている「神聖性」が失われていると考えているのかもしれない。同じことは自衛隊と憲法の関係にも言える。現実的に世界有数の武力集団なのだから「あれは軍隊ではない」といっても笑われるだけである。

かつてはテレビのチャンネルは数局分しか取れなかったので「限られた資源」だったわけだが、最近のデジタルテクノロジーを使えば、より多くの放送局を作ることができる。インターネットを使えばもっとたくさんのチャンネルを見ることができる。だから、憲法を純粋に適用すれば「不偏不党」を唄った条項を廃止すべきなのだ。

ところが、そうするとNHKが自民党寄りの報道を繰り返すようになるのは火を見るよりも明らかである。スポンサーが政権なのだからこれは致し方ないところだ。下手したらチャンネル桜みたいになってしまうかもしれない。憲法学者の先生はそれも嫌なのだろう。このため『立憲デモクラシーの会』が出した声明はなんだかまわりくどいものになってる。単純に「電波はもはや稀少なものではないのだから、あの条文はなくすべき」と書けば良かったのだ。

高市大臣がお友達と裏でどんな勇ましいことを言っているのかは知らないが、具体的に電波を止めようとしているわけではないので、この話はこれ以上広がりようがない。総務省出身でこの件が得意だった奥野代議士はこれがバズったのがうれしかったのか、再度質問に立ち、テレビカメラの前で見事に自爆した。もっと勉強しろよとは思うが、もともとこの程度の人なのだと思う。民主党は次回の衆議院選挙ではもっと質の高い候補者を送っていただきたいものである。でないと、本当に共産党くらいしか入れる政党がなくなってしまう。

預金を守るにはどうしたらよいのか

「安倍政権はけしからん」とか「安倍総理はけしからんというやつはけしからん」という人は多い。Twitter民主主義界隈ではさまざまな話が飛び交っている。そこでいつも「この人たちは何かあったときのための防衛策は考えているのかなあ」と思う。

日本の財政はトレンドとしては破綻に向かっている。国民貯蓄を政府がばら撒くことで政治が成り立っているからだ。国民の間には追加経済対策を望む声が多いが、これは国民貯蓄をばら撒いてくださいというのと同じことなのだ。

政権を維持するために「消費税増税を延期すべきだ」という意見もなくならない。にもかかわらず法人税は減税され続けている。生活保護受給者をいじめて経費削減をという人はいるが、票田になっている年金受給者への支給を減らせという人はいない。国中が分配を求めているわけで、これでは財政が良くなるはずはない。

だが、状況は変わり始めている。マイナス金利は銀行に対する課税措置だ。手数料は日銀でなく国庫に入るのだそうだ。つまり日本は資産課税を開始したのである。資産に課税することについては賛否あるだろう。余剰の資本が金融市場を荒らしているのは確かだ。また、格差が広がっているので、全部がいっぺんに破産すれば、すべてがチャラになる。究極の平等政策でもある。

財政が破綻すると預金は封鎖される。通帳の数字は残っていても原資になるお金がないからだ。ギリシャのように引き出し制限がかかるだろう。たんすに円を預金しておけばよいのではと思う人がいるかもしれないが、これも効果がない。日銀は円を切り替えるという名目で市中にある通貨を単なる紙切れにすることができる。新円切り替えと呼ばれる措置だが、これも実績がある。

第二次世界大戦後の財政破綻では国民のほとんどすべてがいっぺんに困窮した。困窮は首相や皇室にまで及んだということである。ところが、今回は平等な破綻は起こらないかもしれない。情報を握っている政治家たちやそのお友達は事前に資金を海外にフライトさせるだろう。

防衛策は簡単だ。海外の銀行に資産を移せばよいのである。急には作れないのだから、事前に準備しておいた方がよい。海外で口座を作ったら、定期的に資金を移動する必要がある。使っていない口座は凍結される恐れがある。郵便局に行けば一回2,500円で送金してくれる。受け取り側の銀行にも手数料が発生する。利用している銀行の手数料は15ドルだった。

資金フライトを恐れているのか、オンラインバンキングで海外銀行への振り替えを実施している邦銀はない。用紙に書き込む必要があるのだが、一度送金した情報を元に振込用紙を印刷してくれるサービスがあるそうだ。送金時には、マイナンバーを登録してある口座から振り込むか窓口でマイナンバーカードを見せる必要がある。なので海外に移した資金は政府に把握される。

海外の銀行にある預金でも日本のATMでも引き出せる。銀行によって違うと思うのだが、契約している銀行では郵貯、セブンイレブンで引き出せるようだった。ただし、照会と引き出しにはそれぞれ5ドルの手数料が必要だ。ただし、VISAデビットがついており、これで買い物をすると手数料はかからない。為替レートも中値でそれほど悪くなかった。VISAデビットはクレジットカード代わりに使える。

口座のチェックはインターネットでできるので、支店を訪れる必要はない。最近はチェックを頼まなくてもメールで個人に支払いができるらしい。一番困るのはコミュニケーションかもしれない。問い合わせ自体はSKYPEを使えば無料なのだが、スタッフと話すのに現地言語が必要だ。英語(シンガポールや香港を含む)ができない人はきついかもしれない。

確証はないが、日本政府は富裕層が海外金融機関を使うのを嫌がっているようだ。邦銀からの海外送金は不便なままだし、海外からの受け取りにもマイナンバーが必要。富裕層相手のシティバンクのリテールを潰したといううわさもあるし、アメリカのE-Tradeも日本居住者向けのサービスを停止してしまった。海外の銀行は日本の財務当局の「監視」が難しいからだろう。超富裕層向けにはサービスを実行しているのかもしれないが、一般庶民は海外口座が持ちにくくなっている。

もし、どうしても銀行口座が持てないというなら、あとはドルをたんす預金するしかない。これは北朝鮮などでよく行われている方法だ。ハイパーインフレに苦しんだジンバブエは自国通貨を廃止して外貨しか使えないようにしてしまった。

食品廃棄率の嘘と本当

Twitterで日本は輸入食品の約半分を捨てているというツイートが流れてきた。これを見て「ひどい」と思った。日本は流通が現代化されていないので無駄が多いだろうと思った。業界が自浄能力を発揮できないのなら、廃棄物に税金をかけて廃棄物を減らすべきだ。ところが、朝の頭でもう一度調べなおしてみると、この情報は嘘らしい。

消費者庁が調べたところ、日本の食品生産量は8424トンで、生産・流通段階では641万トンが廃棄されている。意外なことに家庭ではもっと多い1072万トンが廃棄されている。家庭の方がより多くの食品を捨てているのだ。そのうち可食部分は500~800万トンだという。つまり廃棄物には生ゴミも含まれているのだ。

どうも環境派の人たちは数字に弱いらしい。もともとの数値自体は正しいのだが、間違って引用することが多いのだ。これでは「大騒ぎしたいから数字を膨らませているだけ」と言われても仕方がない。多く流布している数字は輸入量が5500万トンで廃棄が1800万トンだというものだ。冷静になって考えるとなぜ輸入と廃棄を比べるのかがよくわからない。

とはいえ、これは放置していい問題とも思えない。消費者は割高な料金を支払っているからだ。特に問題なのはチャンスを逃さないために過剰に発注される可食廃棄物だろう。品切れになると買ってもらえないので多めに発注しておくのである。だが、冷静に考えるとブドウグミがないからといって何も買わないで帰る人がどれくらいいるのだろう。多くの人は(それが廃棄ロスの削減だと知っていれば)文句を言いながらもコーラグミを買って帰るのではないだろうか。また小売にとっては適正な在庫管理をするインセンティブになる。これは政策として取り組んでもよい問題だろう。

一方で、消費者は別のお金を払っている。それがゴミの焼却だ。生ゴミには多くの水分が含まれていて量もかさばる。税収が減少している地方自治体はゴミ焼却炉の維持に苦しんでいるのだが、生ゴミを減らせばその分だけ焼却炉の数を減らせる(あるいは新しいものを建てなくてもすむ)のである。消費者庁のレポートは東京都の数字を引用しているのだが、東京都は家庭ごみを開けて中身を調べたようだ。そこまでやってゴミを減らそうとしているのだろう。

生ゴミを減らすのはなかなか難しい。自治体の中には水分を抜くためのコンポストを推奨しているところもある。コンポストで自然乾燥してから家庭菜園の堆肥などに使うのだが、コンポストの購入に費用がかかる上、土地のない人たちにはあまりメリットがない。

もっと問題なのは、食べられるのに捨てられる食品だ。冷蔵庫の在庫管理システムなどを作ることは技術的には可能(冷蔵庫の食品の賞味期限を一覧表化してスマホなどで閲覧できるようにする)なのだろうが、一般の家庭の主婦が使いこなすのはなかなか難しそう。仮にすべての食費にバーコードをつけたとしても、買い物帰りにすべてチェックインするとしたら膨大な手間がかかるだろう。

「生ゴミに罰金を」などといえば批判を浴びそうだが、実際には多くの自治体がゴミ袋を有料化している。これはゴミを出さない家庭へのインセンティブになっている。

この問題について気になったのは、食品廃棄に反対する人たちのほとんどが「世界的にみて突出している」とか「飢えている人がたくさんいるのに」と言っていることだ。羞恥心や罪悪感で他人を操作しようとしていることになる。なぜ「お金がかかるから無駄をなくそう」といえないのだろうかと思うのだが、本質的に自分の欲求を通すことを禁止しているのだろうと思われる。だが、なぜそうなったのかということに合理的な説明はできそうにない。

Sankei’s Paranoia

I was bit surprised. One of Japanese leading newspapers Sankei called a demonstration protesting Abe’s “war law” as a Nazi-alike activity.

It is cognitive dissonance. Sankei and its supporters believe they are doing right things. However, they are frustrated because young people don’t follow Sankei. They internally explained that was because young people ignorant and immature. But the anti-government movement showed they are not ignorant but willing to change the situation. So they have changed their explanation. The young people are protesting because the young people are brainwashed by a evil party like Nazi.

Ironically, the movement is ignored by Japanese voters. About 50% of voters still supporting Abe because it is still better than DPJ’s traumatic three years. Japanese voters are afraid of changes. Only right wings feel the movement is a threat and can’t help calling the movement a Nazi like activity.

Recently Sanae Takaichi a minister of Internal Affairs and Communications told the government could suspend a broadcasting station if the government judged programs were unfair. It must be a shocking comment for westerners but Japanese voters didn’t react much nor called it a Nazi alike attitude.

Japanese have enjoyed full spec democracy for 70 years but it seems that the US failed to “install” democracy to Japan.

学校教育には道徳の代わりに宗教を導入すべき

最近、様々な新興宗教にはまる人を見る機会が増えた。特に多いのが「国体教徒」たちだ。いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちである。成年になってはまると「ああ、生きる意味が見つかった。この国に生まれて良かった」などと思ってしまうのだ。だがその根幹にあるのは「国の為に人が存在する」という倒錯した教義だ。よく聞いてみるとそれは「権力者のための尽くせ」という以上の意味はない。権力者の人たちは国よりも自分の幸福の追求に熱心なのだが、熱に浮かされているうちはその事に気がつかないのである。

他方で「原発を止めるべきだ」とか「基地をなくすべきだ」という信条が宗教化することもある。もちろんそれは悪い主張ではないかもしれないが、それがなくなれば世の中の全ての災厄がなくなってしまうわけではない。中にはそれだけが人生の目的になっている人もいるのではないか。

宗教教育にはいくつかの利点がある。

第一に、宗教は明らかに学校で教える科学とは違っている。だから経典を文字通りに信じる事はなくなる。つまり、子供のうちに宗教に触れると宗教に対する免疫がつくのだ。かといって、宗教すべてがデタラメというわけではない。よく誤解されるところだが、さまざまな矛盾を受けとめる事で、その裏側にある「真実」を考える機会が得られるだろう。

第二に、宗教に頼ることがなくなる。意外に思えるかもしれないが、古典的な宗教は生きる意味を教えてくれない。まともな宗教は「神様について行けば万事OKだ」とは言わないものなのだ。世の中には、子供を失った人や不本意ながら病気になった人がいる。宗教はそうした人たちの逃避先になっている。だから、宗教を学ぶ人は誰でも人生の不条理に触れることになる。もし神様がいるのなら不条理は世の中からなくなっているはずである。だが、そうはならない。

第三に宗教は人を操作しないということが学べる。日本の新興宗教は個人崇拝につながるものが多い。結局、ある個人の為に財産を寄付することで「救いを買う」という制度になっている。すると階層の上にいる人ほど「他人を利用してやろう」と思うことになる。なかにはポイント制度を導入している宗教すらある。強化月間のようなものもある。ほとんどマーケティングだが、中にいると気がつかないのだろう。だが、古典的な宗教にはゲーミフィケーション的な要素はない。人を操作しても救いが得られないことを知っているからだ。

何も考えていなかった人がある日突然人知を越える偉大なものに出会い「くらくらする」体験は誰にでもある。人生にはうまく行かないこともあるのだから誰かに頼りたくなることもある。正解のない人生に迷ったとき正解を教えてもらえたらと思うこともあるだろう。人は決して万能ではないということを知る意味でそれは悪い事ではないだろう。

私達は、人生のどこかで「私達の人生は一人ひとりのものである」という大切な事を学ばなければならない。かといって一人ひとりは孤立しているわけではなく誰がとつながっている。宗教はその大事なことを教えてくれ機会になるのではないかと思う。

Twitterでカラまれたことに対する考察

まず分かったのはこの人はまとまった意見を書けない人なんだろうなあということだ。議論するためには頭の中にある体系を持っていることが必要だ。まとめ方にはいろいろあると思うが、少なくとも「問題」「問題に対する見方」「そのソリューション」と三段が必要だから140文字でこれをこなすのは無理だ。

「Twitterで議論できる」と考える人はそもそも、140文字の情報の固まりが浮遊しているだけのようだ。なんとなく分かっていたことではあるのだが、実際に想像してみるとなかなか恐ろしいことだ。それぞれのデータがまとまりのないままチャンクのままで存在するのだ。

そもそも情報を集めるのはあるまとまった考えを得る為だ。まとまった考えを得るのは「与えられた情報の中でできるだけ確実な(これは正しいとは限らない)意思決定をするため」である。

では、Twitterの140文字の情報やYahoo!ニュースのヘッドラインが相互に関連せずに浮遊している人というのは何を目指しているのだろう、と考えると「よく分からない」としかいいようがない。

強いて想像するとしたら、コミュニケーションの目的は1つだ「情報発信の方向や用語の使い方」でどのムラに所属するのか(政治の場合には右か左か)が分かる。ヤノマミ族やニューギニアの人たちが言語を分けるのと同じ理屈である。ちょっとした発音や用語で外敵を見分けるのだ。と同時に同じ言語を話す人たちとの間では所属欲求が満たされるのである。

ここから導き出される結論は簡単で、情報そのものにはさしたる意味があるわけではないということになる。関係性こそが問題なのだ。

故にTwitter上で議論は成り立たない。そこにあるのはヤノマミ流の「お前が去るか俺がお前を殺すか」という選択だけだ。もしそれを議論と呼ぶのだとしたら、定義が違うのだということになる。議論はお互いが持っている情報をすりあわせた上で、より正しい解決策(それはあるいは共通した解決策を模索しないという解決策かもしれない)を導き出す為の手段である。

お前が持っている「自民党が人権を抑圧しようとしている」という認識は「間違い」で、それは「ネットの意見だけを鵜呑みして」「騙されているのだ」という主張を繰り返していた。彼が(彼女かもしれないが)の言いたかったのは「正しい情報さえ手に入れれば、きっと正しい態度になるはず」という主張である。

そもそも相手は正解を知っているわけだから、議論する必要はない。それは説得と呼ばれるべきだ。

だまされているという根拠も示されているが、それは薄弱だった。「人権抑圧は、中国のような抑圧国家がやることであって、日本のような立派な先進国がそんなことするはずはない」というものだった。左派の人たちは「日本は先進国であるはずなのに、北朝鮮かナチみたいなことばかりいう」と思っているので、平行線を辿る。どちらも見込みだからだ。

では、全く無駄な話だったかと言えばそうでもない。どうやら、僕は次のような信念体系を持っている事が分かった。これは異質な意見にぶつけてみないと分からないことだ。

人はそれぞれが幸福を追求すべきであり、結果的に社会の繁栄につながる。幸福の追求は個人の内発的な動機に基づいて行われるべきだ。社会は個人が幸福を追求するための装置であり、社会の存続の為に個人が存在するわけではない。しかしながら、個人の幸福の追求は衝突することもある。社会はそれを調整する機能を持つべきだが、それは最低限のものである必要べきだ。個人は間違えるし、全ての個人の情報を持ち得ないので、多様な意見を集めることで間違いを補正すべきだ。故に民主主義のプロセスは擁護されるべきである。また、不運は誰にでも訪れるので、社会的な保証は準備するべきである。社会や国家の有り方として現在の民主主義が正しい解なのかは分からないが、結果的には現在取り得る政体の中では最適な解である。民主主義国の経済的な成功がそれを裏付けている。何人も無謬ではないので「正しい」答えはあり得ない。「正しい意見」を持っていると主張する人は疑われるべきだ。

批判的に見れば、かなり「西洋流に洗脳されている」とも言える。特に功利主義的な主張は「では生産性のない人はこの世から消えてもよいのか」という問いにつながるのではないかと思う。そもそも人の人生に意味などあるのだろうかという問いもあり得るだろう。

共産主義という悪魔

政府が言論の自由を制限し人権をないがしろにすれば、経済の活気が失われる。だから、自民党の政策を進めて行けば国家は没落するだろう。これは自明の理屈だと信じていた。

だが、右派の人たちはそうは考えないように思える。どういう世界観があるのかいろいろ聞いてみたかったのだが、どうやら仮定そのものが間違っているらしい。そこに理屈はないらしいのだ。

出発点になっているのは知性への反発のようだ。知性といってもマスコミと学校の先生といったレベルなのではないかと思う。どちらも左翼に支配されていると考えているようだ。知性が左翼に支配されているのは、もともとはGHQが、日本を弱体化させるために民主主義を持ち込んだせいなのだが、それを引き継いだのが北朝鮮であると彼らは考えている。彼らの世界観では先生たちは無知な生徒を洗脳しようと「人権教育」をするのだが、マスコミも左派知識人に支配されていて、この邪悪な計画を隠蔽しているのである。

右派の目的はそうした「悪い人たち」から無知でではあるが善良な市民を守ることらしい。むしろ「正しい人権」の守護者であるという認識を持っているのではないかとすら思える。

こうした意識がなりたつのは「自分たちは賢いのだ」という万能感を持っているからだろう。ほとんどの人たちは真実を知らないか興味がないので「私達が正しいことを教えてやらなければならない」という認識が成り立つ。ただし、教師やマスコミと言った人たちは「賢いのではなく間違っている」なぜならば、外国に協力する売国奴だからである。そうすることで自分たちの万能感が担保されるわけである。

ただし、民主主義についてはあまり関心がなさそうだ。売国的な知識人さえ排除できれば、正しく民意が反映されるだろうと素直に信じている。権力者が権力を濫用するだろうなどということは全く考えていないようだ。現在の経済状態についてもあまり危機意識を持っていないのではないようだ。

よくわからないのは自民党の改憲勢力との関係だ。磯崎議員は「キリスト教的な天賦人権論は日本にふさわしくない」と主張しており西田議員は「そもそも日本人に人権があるのがおかしい」などという。

だが、今回お話したネトウヨ系の人たちは「立憲主義が破壊されることがあれば、世界から非難されるだろう」と言っている。今非難されていないから安倍政権はそのようなとんでもないことを考えているはずがないという理屈になるらしい。彼らは安倍政権とお友達の連続性をどう捕らえているのかが気になるところだが、怖くて聞けなかった。もしかしたら耳には入っていないのかもしれない。

逆に左派への危機感のアンテナはびんびんに張られている。彼らによると、中国は虎視眈々と日本の殲滅を狙っており、左派勢力は彼らの尖兵になって日本を弱体化させようとしているらしいのだが、最終的な目的は不明なままである。「所詮ファッション左翼」なので深く考えていないのだろうと推論している。また、人権派は行き過ぎた見返りを求めていて、日本に寄生しているのだそうだ。

高度経済成長世代は「中間層が階層を昇る余地があることが経済的な繁栄をもたらす」と考えるし、成長が定常状態だと考える。だが、そもそも「成長」という概念そのものがない。だから成長しないから政府の政策が間違っているという認識はなさそうだ。だから彼らの政治への関心は分配に向いてしまう。政治といえば分配の議論なのである。そこで「行き過ぎた分配を求める人がいけない」という理屈が成り立つのだろう。

こうした世界観はキリスト教の信仰心に似ている。神は無謬であり、祝福された民は神を信じる限りは繁栄することができる。なぜなら神がそう約束したからだ。しかし、世の中には悪魔がいて、何かと神が作った平和を壊そうとしている。だが、悪魔がなぜ神を邪魔するのかという点についての答えはない。神に祝福された世界では、悪い事は起こりえない。何か起こったとしたらそれは「罰が当たった」のである。行いが悪かったのだ。故にセーフティネットなど必要ないのだろう。

この人たちと国体原理主義の人たちとの間には断層があるように思える。国体原理主義者たちは日本書紀に書かれたことは真理だと考えており、明治維新で捏造された伝統と信じている。だが、ネトウヨの人たちの多くはそこまで急進的な国体教を信じているわけではなさそうだし、普通に資本主義社会を生きていると感じているのかもしれない。これは、マルクス主義を教条的に信じている人と単に分配を求める人が一緒くたに「左翼」と混同されるのと同じことなのかもしれない。

左派と右派の一番大きな違いは、現状への危機意識というか不安を持ちあわせているかという点のように思える。一方共通点もある。左派が疑念を持っているのは権威主義的な父性への反発なのだと思うのだが、右派はそれが知性への反発にすり替わっている。これは同根なのではないかと思うのだ。

日本の左派たちは分配こそが解決策であって、全ての問題が解決されると考える。その原資は儲けすぎている企業が支出すべきものだ。一方で、右派は、アメリカ・資本主義・自民党という旧西側の体制を信じていて、これに従っていれば全てが解決すると考えているのかもしれない。トランプ旋風を見ると、アメリカ人は、自分たちの不調はすべて外国人に起因すると考えており、サンダースの支持者たちは企業と1%が悪いと考える。

非常に単純化すると、共産主義という悪者がいるために、それに対峙する人たちを正義だと定義しなければならないのだろう。天国とは悪魔がいない場所のことなのだ。

「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」

ネットで「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と言っている人を見つけた。ちょっとめまいがしたのだが、どういう精神構造を持っているのかにも興味もあった。どうやら「人権」を叫ぶ人たちというのは全て外国の陰謀で動いていると考えていることは分かった。彼らの世界観によると「人権」を叫ぶ人たちというのは全て売国的な共産主義者なのだ。

西洋流の教育を受けた人間の頭の中では人権は自由主義と結びついている。私有財産を許容することで経済が活性化するからだ。また、政府の干渉をなくせば自由交易が増えて、域内の価値が最大化されると考えられている。さらに、言論の自由を保証することでより多くの意見が集る。これを集約する中でよりよい選択肢が生まれる。この「集合知」が民主主義を支えると考える。だから民主主義社会ではプロセスと多様性が大切なのだ。

こうした世界観が生まれるのはどうしてかと考えてみた。それは冷戦下で育った人たちは「私有財産や言論の自由がなく」「中央集権的な計画経済」がどうなったかを身をもって知っているからだ。つまり、中国、ロシア、東ヨーロッパで何が起こり、それがどのような結末を迎えたかを目撃しているのだ。つまり、資本主義(自由主義)と社会主義を対立概念として捉えているのである。

ところが「日教組陰謀論」を信じている人たちの頭の中ではGHQのもたらした民主主義と社会主義がごっちゃになっているようだ。どちらも「日本を弱体化させた」と考えられている。なぜ、アメリカと社会主義がごっちゃになっているのかが長い間分からなかった。

twoviews少し考えた結果、視点をずらせばよいことが分かった。戦前の日本と西洋の民主主義諸国(社会主義も自由主義も)を対立概念として置けばよいのだ。アメリカも共和制国家なので同類といえば同類である。つまり、視点を右傾化させればよいのだ。

よく考えてみると、今の世代は東側の世界を知らないのだ。その上低成長時代に育ったので「言論の自由が経済的豊かさをもたらす」などと言われてもぴんとこないのだろう。民主主義とは「バラバラに自分の言いたい事を言っている」ようにしか見えないのかもしれない。

アメリカが日本を弱体化したという話なのだが、アメリカは日本を資本主義のショーケースにしようとした。そのため、通貨を安く抑えて日本の品物がアメリカを席巻することになる。結果的にアメリカの経済を脅かすまでになり「日米貿易摩擦」と呼ばれ、日本は西独を抜いて世界第二位の経済大国になった。もし、アメリカが日本を弱体化させたいのであれば、教育を通じて日本人をわがままにするなどという回りくどいことはしなかっただろう。アメリカ市場から締め出してしまえばよかったのだ。

つまりGHQの日本弱体化計画とは「ショッカーが世界征服をするために幼稚園バスを襲う」というのを同じような話なのである。

この世界観のおもしろい所は、西洋流の民主主義社会との対立概念を何に置くかという点だろう。戦前の日本は計画経済ではなかったのだが、なんとなく、満州の植民地経営と戦時計画経済が頭の中にあるのではないだろうか。みんなが心を合わせて一生懸命働けば効率的に豊かになれそうな気はする。しかし、それは計画経済下の社会主義と一緒なのである。「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と考える人たちは、皮肉なことに彼らが嫌いな左派の人たちと同じ目的を持っているということになる。

ここまで考察すると、左側の人たちがどのような指向を持っているかが気になるところである。彼らはなぜ人権が大切だと思っているのだろうか。なんとなく「人権が大切なのは当たり前だろう!お前さては右翼だな」などと言われそうな気がする。よく考えるとこれも当然の反応だ。低成長なので、自由と民主主義が経済的成長をもたらすという前提が信じられないのだろう。

結果的に右派が社会主義を信奉し、左派が自由主義を擁護するというめちゃくちゃな鏡の世界に住んでいるのだ。