炊き出しの場所を探す – Googleクライシスマップの使い方

金曜日の夜に熊本地震からしばらく経った。無料wifiの提供は始まったようだが、未だに「物資が届かない」とか「情報がない」などの声があるそうだ。

自治体はまとめサイトを作るべきだという話があるようだが、実際には民間で災害対策情報をまとめている人たちがいる。例えばGoogleは「クライシスマップ」というものを提供しているのだそうだ。東日本大震災の復興支援への対応経験がある九州大学の学生がまとめた情報だそうだ。「情けは人のためならず」というが、支援の経験は自分たちが被害者になったときに活きるものらしい。

ただ、このマップを見ても、どう活用してよいか分からない。慌てているとなおさらだろう。いつ地震が来るかは分からないのだし、使い方だけでも見ておこうと思った。なおスマホから見ると使いにくかったので、タブレット(いくらか電池の持ちがよい)かノートパソコンで見るのが良いのではないかと思う。予めブックマークしておくか、「google 災害情報」で検索すると出てくる。備えあれば憂いなしだ。

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まず、広域の地図が表示される。広域にわたっているために、ちょっと分かりにくい。crisis002

そこで自分の住んでいる地域を検索する。ここでは東区健軍とした。青い筋で見えているのは車が通れる道路。本田技研が情報提供しているそうである。渋滞情報までは分からないが、通行できることは分かる。その他は判例がなくよく分からない。

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欲しい情報を見るためには、レイヤーを使う。レイヤーは画面右にある。レイヤーを選択すると選択画面が出てくるので「炊き出しマップ」を選択した。これは災害ごとに異なると思われる。炊き出し場所は赤いピンで表示されているらしい。画面左にあるピンを選択したところ小学校の名前が出た。ラジオで情報を取得したようだ。かなり詳しい情報が載っている。

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都市部の道路は通れるようだが、通行実績がない(すなわち通れない)ところがかなりあるようだ。予め分かっていれば無駄な動きが少なくてすみそうだ。スマホしかなく情報が取れない人の代わりに調べてあげるというような「リモートボランティア」という支援もあるのではないかと思った。情報が最新のものかは分からないが、すくなくとも闇雲に動くよりはよさそうに思える。

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「Yahoo!災害マップ」と検索すると避難場所情報が出てくる。

震度情報を隠蔽したNHK

熊本地方で地震が起きた。震度7だった。かなり大きな地震で、福岡でも震度4の地域があったそうだ。阪神淡路みたいな大惨事にならなくて良かったと思ったが、それでも9人が亡くなった。

そんななか不可解な動きがあった。NHKがなぜか鹿児島県の震度を表示しなかったのだ。この状況は今でも続いている。お昼のニュースでも当時の震度表記から鹿児島県が省かれている。どうやら偶然外されたわけではないらしい。(実際の図はこちらにのせた。偶然表示されなかったのだという意見もあるだろうから、ご自身の目で判断していただきたい)

これはかなり不自然だ。多分、鹿児島でもかなり揺れただろうから、地元の人たちは「なぜ鹿児島の震度が表示されないのだろうか」と思ったのではないだろうか。

これはかなりあからさまな動きだ。現在、薩摩川内市では原発が稼働している。Yahoo!によるとこの地域の震度は4だったそうである。これが反原発の人たちを刺激するのを避けたかったのではないかと思われる。Twitterは「地震が起きたあともなかなか地震速報に切り替わらなかった」と指摘する人がいる。ちょうどニュースをやっていたのだから、すぐに切り替わっても良さそうだ。

ほんの数分でNHKの上層部では「鹿児島の震度は表示するな」と指示したのだろうか。普段からそのような取り決めがあったのかもしれないし、その場で慌てて決めたのかもしれない。だが官僚的な組織で「現場の判断で鹿児島を外す」みたいなことがあり得るだろうかという疑念が生じる。

何がなんでも今すぐ、すべての原発を止めてしまえとは思わない。反原発運動は一部の人たちのライフスタイルとなってしまっているので、それはどうなのかとも思う。しかし、当地の震度を隠すというのは少しやり過ぎではあるまいか。

NHKに人たちが国民を向いていないのは明らかだ。普段どのような態度で視聴者と接しているのだろうか。受信料は欲しいが視聴者の冷静な判断力を信頼していないことになる。本当にこんな放送局を支えるべきなのか。割と真剣にそう考えた。

追記1:これを書いてから2日ほど経って、NHKは熊本付近を表示した後に九州全域を表示するようになった。さすがに一度作ってしまった地図を作り直すのはバツが悪いと思ったようだ。一方、Twitterでは「NHKは隠蔽していた」という情報が一人歩きするようになっている。

追記2:震源地が南にずれて鹿児島の震度が表示されるようになった。「川内原発に近い」と懸念を表明している人もいるが、断層は川内までは到達していないのだという人もいる。八代で震度5強の地震が起きている。この記事を書いた後で別の地震が起り、熊本の死者の数は40名を超えた。少なくとも観測史上では初の群発地震だったようだ。NHK・鹿児島・隠蔽で検索が増えており、いわばバズった状態になっている。ちょっとした隠蔽だったと思うのだが、これはかなり高く付くのではないかと思う。こうした不信感に疲れが重なるとデマのもとになる。マスコミの責任として、なぜ表示しなかったのかを説明するべきだと思う。

 

Lineいじめとコミュニケーション特性

必要に迫られてLineについて勉強している。これがいろいろとややこしい。つい、いじめの温床になるのも当然だななどと思ってしまった。もっとも、この感想には男性としての偏見が含まれている。そもそも女性同士のコミュニケーションが複雑だからだ。

伝統的な電子コミュニケーションの基礎はメールだ。基本的に一対一のコミュニケーションツールで、メーリングリストを使うと一対多に拡張できる。その後にメッセンジャーツールができた。メールに即時応答できるが、これも一対一のツールである。さらにFacebookが出てきた。これは個人が好き勝手にコミュニケーションして、個人がリアクションするというツールだ。最後に登場したのがSkype。これはメッセンジャーを音声にしたものだが、電話の代替でわかりやすい。これにTwitterが加わる。これは「弱い靭帯」ツールとして機能している。簡単にフォローもアンフォローもできる。Instagramも「弱い靭帯」ツールだ。

ところが、Lineはこの「個人主義」で「弱い靭帯」という要件を欠いている。

女性は男性のように「用事があったら見ておいて」というメールメンタリティは受け付けないようだ。要するに会話が楽しみたいわけである。会話はコミュニケーションの手段ではない。女子高生はお互いに相手の話を聞いていないというが、老人ホームでも女性は会話が成立していなくても、お互いになにか話し合っていることがあるそうだ。いわばカラオケ状態だ。

Lineは最初からグループが前提になっている。グループがあるから「外す」ことが可能になる。Facebookでは「相手から外される」ことはあるが「外し」は存在しない。そもそもそんな概念がないからだ。誰が考えたのかは知らないが、Lineはアジア的なメンタリティだ。特に日本人は集団が意思決定して集団が従うことで知られている。これは大陸アジアとも違った形なのだそうだ。Lineが日本人の間に爆発的に流行したのは、一度Lineが使われるようになると他の人も使わなければならないという同調圧力が働くからだろう。

ところがLineでは「外し」はかなり重要な意味を持つ。勝手にアンフォローすることはできず、いったんブロックしてから削除するのだそうだ。なぜこのような仕様にしたのかはわからないが、これは十分「絆」になっている。絆とは家畜をつなぐ綱のことだ。

また、相手からメッセージが来ると、夜中であってもけたたましい音がする。そこで、通知がこないように設定することになる。あまり仲良くない相手や企業から頻繁に通知が来るとウザい。ところがLineを使い慣れない人は「相手の通知設定がどうなっているか」はわからない。だから関係性が曖昧になりがちだ。絆が不必要に強いからこそ、関係性が隠蔽されやすいのだ。

例えばSkypeは相手のステータスがわかるようになっている。これも個人主義的な文化だ。「今は話できない」ことがわかっているからこそ、相手は安心して電話がかけられる。ところがLineはそれを推察するしかない。気が弱い人は通知を常時オンにしておく必要があるだろう。そもそも「今は邪魔しないでください」というのが表立って言えないのが日本人なのだ。

このように「集団主義的」に見える日本人だが、実はそのコミュニケーションに対する態度には偏差が大きい。つまり、人によって実はバラバラなのである。そのバラバラさにはいくつかの要因がある。

  • 年齢:年齢によってリテラシが異なる。
  • 生育歴:他人がどれくらい生活に干渉していいかは生育歴で決まる。
  • 関係性:親密さの度合いによって許容できるコミュニケーションが異なっている。

年齢によってパソコン、タブレット、スマホに対するリテラシは大きく異なる。もっともリテラシが低いのはパソコンに慣れていない高齢者だ。パソコンに慣れていない高齢者にとって、パソコンは「混乱」と同義なのだ。

電話やFaxにはモードがあり、そのモードは1種類である。電話がなれば受話器を取る。電話をかけたければ数字を押す。これだけだ。一方、パソコンやタブレットのUIはモーダレスである。教科書にはUIはモーダレスにして、ユーザーの自由度を増せと書いてあるものがあることが多い。ところが高齢者はモーダレスは苦手なようだ。さらに画面の一部(小さなアイコン)がボタンに変わるなどいうことは本能的に受け入れないようなのだ。

モーダレスなデバイスに接すると、端からみると認知が破壊されたような状態になるらしい。例えば文字は書けるのに、ひらがなでの入力ができなくなる。「入学」を「にゆーがく」などと打とうとする。またLineで受信メッセージが出ると何をしてよいかわからなくなるようだ。あの受話器のマークがボタンではなく単なる絵に見えるのかもしれない。絵を「押す」ということができないのだ。

認知体系が破壊されると電話での常識すらわからなくなるようだ。つまり「相手が忙しそうなときに電話をかけるとどうなるか」というのがわからなくなる。実は電話とかFaxとかの機械はかなり多くの情報をバンドルしている。これは経験的に学んだものだ。だが、装置が変わるだけで過去の学習が無効化されてしまうのだ。経験から普遍的なルールを抽出するというような学習にはなっていないようだ。

女性は会話を好む。だが、会話が成立するためにはかなり多くの概念を共有している必要がある。実はここにかなりの分断が起きている。一方、男性はコミュニケーションの「目的」に集中しやすいので、分断が少ない。

女性の中にも、テレビ電話を極端に嫌がる人(生活を覗かれるのがイヤなのだろうし、化粧をしていないところを見られるのもイヤなようだ)もいれば、気にしない人もいる。個人的な価値観もありそうだが、関係性が大きく影響しているようである。要するに「よそゆき」の関係性の人には私生活に踏み込んで欲しくないのだ。この場合、夫が防波堤のような役割を果たしている。

一方、テレビ電話は嫌がらないが、時間が分散していて集中した時間が取れない人もいる。こうした違いは関係性のほかに生育歴にもよるようだ。大家族でよそ者の出入りが多かったようである。

生育歴が関係するので、実の親子のコミュニケーションにはそれほど問題が生じないのだが、それ以外のコミュニケーションではもともと問題が発生しやすい。

日本人女性といってもすべての人が集団主義的とは限らない。誰かにじゃまされずにじっくりと文言を考えたいという人もいる。こういう人に一番向いているメディアは実は手紙やFaxなのではないかと思う。

で、あればはっきりと「私にはこう連絡してほしい」と言えればよいのだろうが、主張するような訓練は受けていない。「私とあなたの間には違いがない」というのがコミュニケーションの前提だからだ。ここにジェンダーの問題も絡んでくるのだろう。できるだけ共感的で相手にあわせるべきだという刷り込みだ。

Lineはコミュニケーションに集団圧力を加えることで大きくなったツールで、個人の主張ができるようには作られていない。もし個人主義的なツールだったならこれほど発展しなかっただろうし、これほど状況が複雑化することもなかっただろう。

Lineいじめをなくしたいなら、学校でメールアカウントでも作ってメールからコミュニケーションの基礎を学ばせるべきだ。よく「コミュニケーション障害」などと言われるが、これだけ事態が複雑化しているのだから、問題が起きて当然なのだ。

 

核廃絶に向けて唯一日本人だけができること

オバマ大統領が広島に来るかもしれないらしい。前回は政府に内々に打診したが、官僚が勝手に断っていたようだ。そこで今回はワシントンポストに「リーク」して既成事実を作っている。安倍内閣はオバマ大統領にスルーされたのだと思うが、いったん事実ができてしまったら反対するわけにもいかない。ご機嫌伺いの日本政府は「賛成も反対もしない」という立場だそうだ。意向が固まれば賛成だと言い出すのではないか。

さて、オバマ大統領は広島と長崎に原爆投下したことを謝るべきなのだろうかという問題がある。原発問題はきわめて政治性が高く議論が交錯しやすい。結論によっては北朝鮮が核を持つことすら正当化されてしまう。

現在北朝鮮がワシントンに核攻撃すればそれは違法ということになる。多くの市民が巻き込まれるのは明白だからだ。だが、かつてはそうではなかった。

第二次世界大戦までは、市民を巻き込んだ殺戮は違法ではなかったそうだ。軍隊を警察に例えると、各都市の警察官は市民を巻き込んで相手都市に踏み込んでもよかったのだ。なぜならば都市を統括する国は存在しなかったからだ。警察と呼ぶのがふさわしくなければ、自警団と言っても良い。武士のようなものである。だが、第二次世界大戦の後「人々が殺し合うのは良くないのではないか」ということになった。そこで、とりあえず市民を巻き込むのはよしましょうということになった。

もう一つの変化は原爆の発明だ。例えれば第二次世界大戦までは武士は刀だけで戦っていた。そこにアメリカ現れて隠し持っていた拳銃で日本人の市民を「ずどん」と撃ったのだ。もう日本が負けることはわかっていたのだから無意味な殺生だったが、効果はてきめんだった。みんな黙ってアメリカに従うものと思われた。

ところがアメリカの思惑は外れた。共産主義が台頭したからだ。ソ連は拳銃の密造に成功したし、アメリカは中国の利権を取り損なった。もともと日本を追い出して中国利権を手に入れるのが戦争の目的の一つで、そのために国民党を抱き込んでいた。だが、彼らのもくろみは外れたわけだ。

最近、オバマ大統領は「銃を持つのはよくない」から段階的になくすべきだと言っている。「国際社会」はその手始めとして中国に「あなたが持っている銃の種類と数を公表せよ」と言っている。つまり、銃を登録制にしたいのだ。しかし、中国の立場からすると、そんな話に従う必要はない。だから、銃は野放しである。

特に厄介なのは北朝鮮だ。第二次世界大戦後「主権国家には踏み込みませんよ」という協定が作られ、代わりに戦争が禁止された。しかし、北朝鮮だけは「そんな話は信じられない」と言って拳銃の密造を始めた。イラクやリビアがいちゃもんを付けられてアメリカにやられるのを見ているから、彼らの危機感も間違っているとはいいきれない。イラクやリビアがやられたのは実は石油を持っているからなのだが、北朝鮮にはそんなことはわからない。そしてどうやら密造拳銃を完成させたらしい。イスラエルも密造拳銃を持っているらしいのだが、アメリカはイスラエルには何も言わない。

このように考えると、アメリカの大統領が広島を訪れたところでさしたる影響はなさそうだ。結局、この事態を作ったのはアメリカだからである。「お前が言うな」というだけの話である。

「主権国家を保証する代わりに戦争そのものを違法にしよう」というのが、第二次世界大戦後の取り決めだったのだが、この枠組みすら崩れつつある。そんなのはどうにでもなる話(事実イラクは主権国家だったが侵攻された)だ。そこで登場したのが「もう主権国家格を追求するのはやめて、国家体制に反逆しよう」という人たちだ。主権国家格など何のトクにもならないと彼らは思っている。彼らはテロリストと呼ばれているが、これは主権国家体制が崩壊しているという事実を印象操作しているだけなのかもしれない。

日本の役割はどうだろうか。結局のところ、広島や長崎の市民たちは「見せしめ」のために殺されたのだ。アメリカ人にとって同胞(つまり同じ人間である)ヨーロッパに原爆を落とすのははばかられたことだろう。身代わりにされたのだ。

物わかりのよい日本人は「あれは天災のようなものだ」と思い込もうとしてきた。戦争の原因を作り出したことは確かなのだから相手を恨むのはやめにしようというわけだ。台風や津波で殺されても日本人は天を恨まない。この地上で生きてゆかなければならないからだ。結局のところ「赦す」ことでしか、憎しみの連鎖を乗り越えることはできないということを私たちはよく知っているのだ。

この価値観を相手に伝えるのはとても難しい。日本人は自主的に赦したわけだから、相手に同じ気持ちを抱かせるために言葉を重ねることは無意味だろう。ただ、その戦後の繁栄だけが「相手を赦すことはいいことなんだな」と思わせる効果があるのではないかと思う。ただ、見せしめで殺されたことは事実なのだから、それを曲げてはいけないように思う。「それでも相手への恨みを捨て去れますか」というのが日本人に向けられた問いだろう。

事実アメリカ人はこの日本人の態度を不可解に思うようだ。「広島なんかに行ったら、謝れという話になるのではないか」と思っている人も多い。

オバマ大統領は結局「日本人が赦した」姿勢を見て、それに沈黙で返礼するしかない。その意味ではアメリカ人要職の訪問には意味がある。だが、アメリカ人には、この状況をどうこういう資格がない。自分のレジェンド作りの為に広島や長崎を政治利用しているという見方すらできるのだ。これは原爆で殺された人たちへの冒涜にならないのか、しばし冷静に考えてみる必要がありそうだ。

おそらく外交も無意味だ。口約束なんか破られるに決まっているからだ。だから、外交努力で戦争を防止することなどできない。となると、諸都市の武士団が拳銃を「ずどん」とやらないのは、経済的に緊密に結びついているからでしかない。いったん経済的に結びついてしまえば、けんかはしにくくなる。

ただし、絶対的な経済活動の敗者たちは、刀を持って歯向かってくるだろう。もはや武士だけが刀を持てる時代は終わったのだし、刀狩りもできない。

いくさを防ぐためには「赦す」か「分け与える」しかないのだ。世界中で日本人だけがそれを「身を以て」語ることができるのである。

価格と期待値

昨日は「消費者があまり期待しない市場」での価格形成について観察した。市場が決定する最低価格帯に価格が収斂する。まれにそこから外れる値段がつくものもあるが、それは例外的である。例えばヤフオクでは、ひと世代かふた世代前のMacにこうした動きが見られる。一方、最新型の機種ではこうした傾向は見られない。新品よりもいくらか割安な値段で取引されるし、値段にもばらつきがあるようだ。

両者を分けている価値は曖昧だが、強いて言えば「ライフスタイル」だ。スペック(速度)にはそれほど大きな違いはないのだが、やはり「スタバでどや顔」したい人たちはライフスタイルの選択肢として最新のMacを選んでいるのだ。最新型のマックには「ブランド価値がある」ということになる。

ユニクロは「あまり期待しない」人たちから脱却し、ブランド価値への移行を指向していたようだ。しかし、それを諦めて価格志向に回帰しょうとしている。週末だけ安い価格で売るのもやめるらしい。ユニクロは「品質」と「価格」を両立させる方針だという。

これが正しい選択なのかはよくわからない。価格重視の人たちは「価値にはあまり期待をしない」からだ。最低限着られればよいのである。こうした顧客たちが商品知識を持っていないとはいいきれない。商品について熟知したからこそ、あまりこだわらなくなった可能性もある。だから、消費者を教育するのも徒労に終わるかもしれない。

IMG_0133では、価格重視の人たち向けにオペレーションを省力化するのがよいのだろうか。その典型的な例がマクドナルドだ。

マクドナルドは近視眼的にコスト管理をするとどうなるかという壮大な社会実験になっている。

この写真は最近食べたマクドナルドだ。200円で買える。包みを開くと具とパンがバラバラになっていた。レストランというよりは給餌場の様相だ。話には聞いていたが、実際に見るとかなりショッキングである。日本人が持っている食堂に対する期待値を大きく損なう。

だが、これを目にすると「ああ、やっぱり」くらいの感想しか持たない。そもそも300円(税込)でコーヒー(これもまともに抽出したものかどうかは怪しいものだが)とわずかな休息さえ得られればよいのである。

マクドナルドは主婦を雇って「子供にも優しい」品質をアピールしようとしていたが、業績は回復しなかった。従業員も顧客もマクドナルドには過剰な期待はしていない。だから、高いものを食べたりはしないだろう。それくらいの価格帯で食べられるおいしい(そして期待を裏切らない)ものはいくらでもあるからである。

低価格路線を取ると品質にはあまりコストをかけられなくなる。それでも「品質」と「価格」を両立しますと言い続けなければ、マクドナルドのようになってしまうというわけだ。

このように価格は需要と供給の単純な交点ではなさそうだ。同じ品質のものでも価値観によって大きく変動してしまうのだ。

1971年にマクドナルドが日本に入ってきたとき、それは「あこがれのアメリカ」というライフスタイル商品だった。日本は40年ちょっとであこがれを消費し尽くしてしまったことになる。

大学生のパソコン離れ

スマホが普及するにつれて、パソコンができない子供が増えているという。大学はまずパソコンを教えなければならないらしく「自分たちは何学部なのだ」と嘆く先生が多いのだと言う。これを聞いて「何か変だなあ」と思った。

かつて、卒論をワープロで提出しようとしたら、先生から「ワープロは心がこもらないからよい論文が書けない」と言われた。手書きだからこそ心がこもるというのだ。つまり、ついこの間まではパソコンは大学教育には必須ではなかったのだ。だから、大学生がパソコンを使えなければ、使わなければよいのである。

パソコンがなければ「調べ物ができない」と言う人がいるかもしれない。これはよい指摘だ。昔アメリカの大学では、最初に2つのことを教えてくれた。1つはGopher(Gopherはテキストベースの検索システム。wwwはこれにグラフィックスを加えたのが「画期的」だった。テーブル組でレイアウトができるようになってからインターネットは爆発的に普及し始めた)の使い方で、もう1つはそれを使って大学の蔵書リストをあたることだ。最近では、学術論文ネットワークの使い方を教えてくれる。いくつかの有料サービスが学生なら無料で使えることになっている。

これはよい仕組みだ。確かにGoogleでもあらかたのことはわかるのだが、アカデミックスキルを身につけたとは言えない。やはり学術論文をあたるのが「正しいお手前」である。「インターネットは信頼性が置けない」と言っているのは、やはり日本人が田舎者だからだ。世の中には有料のソースというものがある。知的な訓練を積ませたければこうしたソースの使い方を身につけさせるべきなのである。

さて、現在のQWERTYキーボードは、キー同士があたらないようにという工夫の結果生まれたものだ。現在ではタイプライターを使う人はいないので、キーボードがQWERTYである必要はない。これだけスマホ組が増えているわけだから、誰かがUSBで接続できるフリック入力ができるキーボードを売り出せばよいだけの話だ。これは爆発的に売れるだろう。機械式のキーボードではなく、タッチスクリーン式の液晶画面のようなものになるかもしれない。Googleはエイプリールフールのネタとして触れるフリックキーボードの提案をしている。

かつての教授たちが「手書きしか認めたくない」と思っていたのは自分たちがパソコンを使ったことがなかったからだろう。そこで「気持ちがこもらない」などと言ってみるわけだ。同じようにスマホが受け入れられないのは、現在の教授たちがスマホを使いこなしていないからだ。

さて、パソコンが使えないのはなぜだろうか。確かなことはわからないが、子供が(たとえ子供部屋はあったとしても)自分だけのスペースを与えられていないことが原因になっているのではないかと思う。じっくり自分だけで占有できる時間と空間がなく、また逆に家族とは情報を共有したくないと思っている。この結果、時間が切り貼りになり、集中することができない。そこでパーソナルスペースを持ち歩くことになったのだろう。だが、そのパーソナルスペースも人付き合いに浸食されてゆく。

多分これが「若者がスマホしか使えない」ことの唯一の問題ではないかと思うが、時間を切り売りしている大人も多いのではないだろうか。

大西英男議員とリーダーシップ

昨日まで二回、社会のフォロワー層が「荒れたコミュニティ」を作るのではないかと書いた。その間に考えていたのが、社会のリーダー層たちの「リーダーシップの欠如」だ。フロワー層がリーダーシップがないのは、ロールモデルがないからだ。また、社会に尊敬できるリーダーがいないと、フォロワー層は地下化する。結果、コミュニティが荒れるのである。

そのときに頭をちらついていたのが、「巫女のくせに」発言の大西英男議員だった。北海道で「自分の世話をしてくれた巫女」が「自民党が嫌いだ」と言ったから、夜の街に連れ出して説教してやろうと考えたと発言したのである。

この発言が反発されたのは、こうしたおじさんが珍しくないからだろう。こうしたおじさんは社会の至る所にいて、たいした仕事はしないのに大きな顔をして威張り散らしている。そして女性が男性のお世話をして夜もおつきあいしてくれるのを当然だと考えているのだ。社会のフリーライダーであり、単なるお荷物だ。

この手の人たちは、女性は補助的な職業に就くべきだと考えている。理由は簡単で女性だからだ。女性の役割は「立派なお仕事をしている男性」のお世話をすることである。機会均等法が運用されるようになる1990年代までの会社社会では一般の女性は「お茶汲み」と呼ばれていた。大西議員は巫女さんを「お茶汲み」だと考えており、夜のご接待もお仕事のうちだと考えているのである。こうした価値観を持っている男性は珍しくない。

普通に考えると、こうした図式が成り立つためには「ご立派なお仕事」をしている男性は、経済的に社会を支えなければならないし、リーダーシップを発揮して社会をまとめなければならない。そしてリーダーシップを発揮するためには、それなりの修練が必要になるはずである。

だが、大西議員に代表される人たちは、男性であるだけで自ずとリーダーになる資格があるのだと考える。だから、リーダーシップなど学ぶ必要はないし、リーダーとして研鑽を積む必要もない。

こんな調子だから、日本にはリーダーシップが成立しないのだと言える。つまり、自称「保守思想」が蔓延すると社会からリーダーシップが失われるのだ。

このように、自民党の自称保守の人たちにはリーダーシップはない。単に誰かほかの人たちが考えた「日本は男性を中心とした社会に回帰すべきだ」というお題目を丸暗記して、女性や子供に威張り散らしているだけだ。つまり、彼らは保守を名乗るフリーライダーなのだ。

「いや、実際に大西議員に会えば彼が真のリーダーだということがわかるはずだ」などという人がいるかもしれない。だが仮に大西議員がリーダーとしての自覚を持っていたとしたら、このような女性蔑視発言はしなかったはずだ。リーダーの役割は社会の活性化だ。組織運営に携わったことがある人なら、女性を「お世話係」として卑下することがどんな影響を与えるかわかるはずだ。実際に神社関係者は大西議員の発言に反発している。女性の働き手のマネジメントをしている彼らは発言がどんな影響を及ぼすかを知っているからだろう。

大西議員の経歴を見ると、議員秘書を出発点にして、地方議会で議長を務めた後に政治家デビューしている。実際に組織マネジメントに携わっていた経験がない。だから、リーダーシップについて学べなくても当然のキャリアなのだが、長い間政治家をやっていると「自分たちが日本を動かしているのだ」という万能感にとらわれることになるのだろう。

こうした人たち見て、多くの人たちはリーダーシップや保守思想について「あの程度のものなのだな」という感覚を持つのではないだろうか。

日本人からリーダーシップが失われたのは何故なのだろうか。よく用いられる説明は、アメリカ人が押し付けた現行憲法のもとで増長した左翼思想を持った教師たちが日本の教育を破壊したというものだ。この説を採用するなら、現行憲法と左翼教師たちが保守思想を破壊した結果、大西議員のようなリーダーシップを持たない自称保守政治家が量産されたことになる。

で、あれば、憲法を改正して、リーダーシップを欠く政治家が現れた場合には公開で罰を与えるよな規定を作った方がいいかもしれない。リーダーシップの欠如したこの手の政治家は単なる社会のフリーライダーであり、害悪だからだ。

LINEコミュニティと自民党の憲法改正案

昨日はヤフオクを例に挙げて、オンラインコミュニティが殺伐としてくる事例は何が原因なのかを考え、日本人は不特定多数が集まるコミュニティでどう振る舞ってよいかわからないのではないかという仮説を立てた。そこで過剰に防衛的になったり、逆に匿名を利用してオークションを荒らす人がでてくるわけだ。

ここで提示できる解決策は2つある。1つは脱村落的な世界に慣れることであり、もう1つは伝統的な村落コミュニティに戻るというものだった。日本の右派(保守とも言われる)の人たちは、村落的コミュニティに戻れば社会矛盾は一挙に解決すると考える人が多い。村落共同体の基礎は個人ではなく家族なので、家族回帰が語られる。逆に脱村落化するのは自由主義的な考え方である。ある種の社会的訓練がないままで自由主義化したのがヤフオクなのだ。つまり、これはかなり政治的な課題だともいえる。

では、日本型の村落コミュニティが理想なのかという疑問が出てくる。例えばLINEは村落コミュニティを作っている。ただし、かなり窮屈なコミュニティだ。相手のメッセージに対して即座に返信することが求められる、仕様のせいもあるかもしれないのだが、参加している人たちの注意力は既に散漫になっており、家事や仕事をしている間にメッセージが来ても、すぐに返信したくなってしまうらしい。

LINEにはグループを作る機能もある。よく知られているように、相手が気に入らないとLINE外しやLINEいじめという問題が起るのだ。社会的制裁(村八分)が頻繁に用いられるのである。グループは実際の集団である家族からは分離している。親が子供のLINEを除くことはタブーとされており、家族が揃った食卓でスマホ片手にバラバラの時間を生きているというのはよくある光景だ。

つまり、保守層が考えるようにはならない。家族はもはやバラバラの時間を生きているわけだし、こうして新しく作られたコミュニティも持続性を欠いている。特に顕著なのは個人と個人の距離感の問題だ。

「適度に距離を保って楽しく利用すればいいのではないか」などと思うわけだが、それは使っていない人の発想だ。いったんコミュニティが成立してしまうと、その監修から逃れることができなくなる。

LINEコミュニティに欠けているのはオンライン特有の属性ではない。LINEコミュニティに参加している人たちはフォロワー属性が強いのではないかと考えることができる。日本の意思決定やコミュニティの特色は「集団性」だ。それほど強い集団を形成するわけではないが、個人としてコミュニティに参加したり、発言するのを嫌うである。つまり、社会的集まりを運営した経験がないままでコミュニティが形成されると、一人ひとりがうまく距離を取れなくなる。そこでLINE外しやLINEいじめが頻発するわけである。

ここまで「日本人」と大枠でくくってきたのだが、日本人のSNSに対する態度は一様ではない。掲示板時代からコミュニティに参加していた人たちがいる。この人たちはオンラインコミュニティに慣れていて、適当な距離を保ちながら会話を行うことができる。掲示板が「荒れた」のは2chが出てきたからだ。普及するにしたがってフォロワー層が出てくると、元いた人たちはいなくなってしまう。

また、留学・海外勤務を経験した人たちはFacebookに慣れている。ここにもも「すぐに反応しなければならない」という約束はない。また、グループという感覚も薄い。個人対個人のやり取りになっている。

Facebookはいくらか「盛られている」。それが露見するのは「盛ることを知らない(もしくはその必要がない)」人が入ってきたときである。例えて言えば、フレンチばかり食べている人のところにお母さんが乱入してきて「週末に帰省したときのお味噌汁は何がいいか」と聞かれるような感覚だ。

Facebookは実名だという説があるのだが、アメリカでも名前やキャラクタを作って登録している人もおり、必ずしも実名コミュニティとは言えない。芸能人が芸名で活動するのと同じような感覚だ。ここから類推すると、実名であってもある程度のキャラクタを作っている人が多いのではないかと思う。本名で活動している芸能人のテレビに出ている姿が本人そのものではないのと同じような感覚だろう。日本人はこれを「盛る」というが、普段から生活を「盛っている」のがアメリカ人だ。

その意味ではSNSはそもそもキャラを作って参加する(これをセルフブランディングなどという)ものだ。日本人が集団の中に埋没することを好むように、アメリカ人はキャラに埋没することを嗜好するのだ。

さて、話が脱線したが、現代社会はすでに「個人化」している。それは、おそらくアメリカから憲法を押し付けられたからではなく、多くの現代人が複数のコミュニティを同時に生きているからだろう。故に憲法で旧来の家族感を押し付けたとしても、実際にできあがるのは、家族が食卓を囲みながらそれぞれのスマホ画面を覗くようなバラバラで出来損ないのコミュニティなのではないかと考えられる。

ヤフオク化

ヤフオク(ヤフーオークション)は面白い。市場で手に入れられなくなったものを安く手に入れることができるし、ジャンクショップを歩きまわる手間も省ける。だが、なんとなく殺伐とした雰囲気がある。曰く「質問はするな」「クレームをいうな」「落札したら早く金を払え」などなど。いたずらで落札して、お金を振り込まない人も多いらしい。逆に落札して「いつ届きますか」と聞いても返事が来なかったりする。

どうして、こんなことになるのだろうかと思った。

元々、日本人は人付き合いが嫌いだ。愛想を良くしているのは仕事上必要だからか、職場でそうするように強要されているからだろう。ヤフオクの出品者たちはこうした組織的に押し付けられた愛想の良さというものを嫌っているのではないかと考えられる。しかし、愛想をよくするのは、比較的わかりやすい社会構造の中で、好ましいキャラクターを保持しなければならないからだと考えられる。

だが、ヤフオクはジャンク市場なので、品質が悪かったとしても文句を言われる筋合いはない。決済後クレームをつけてきてもそれは無視すればよいだけの話だろう。だが、クレームをつけられると嫌な気持ちがするので、予防線を張って嫌な思いをするのを防ごうとしているのかもしれない。いずれにせよ「クレームをつけるな」と言われてもクレームを言ってくる人はいるだろう。つまり、日本人は不特定多数からのネガティブな意見に対して耐性がないということになる。

では、日本人が商売が下手なのか、まともに買い物ができないのかということになるのだが、そんなことはない。つまり、能力の問題ではなく、日本人が伝統的なコミュニティを維持するのに必要な要件を欠いているために、こうした混乱が起きているのだということになるだろう。

日本人は村落的な社会的監視網を使ってコミュニティを維持しているのではないかということが類推できる。インターネットではこれを欠いてしまうので、市場全体が「お行儀悪く」なってしまうのである。コミュニティを正常に維持するためにはいくつかの方策が考えられる。

一つ目は、「その場限りの」ドライな関係に慣れることだ。Twitterでもとんでもない暴言を吐く人や自分の考えを押し付けてくる人はいる。「このように思う人もいるのだ」と慣れてしまうことだ。商取引の場合には条件を提示しておき、その枠に収まらない人たちを排除してしまうということになる。

もう一つのやり方は会員資格を限定してメンバーを限ることだろう。メンバーシップを限れば、村落的な関係性を維持することができる。

いずれにせよ、インターネットが登場したことで、日本人とコミュニティに関する態度は過渡期にある入ったのではないかと考えられる。

完全に村落共同体的な状況が戻ることはないわけで、不特定多数の交渉に慣れる必要があるのだろう。

 

ネットの情報は信頼に値しないガセネタばかりなのか

よく、ネットの情報はガセネタばかりだから気をつけるべきだなどという人がいる。だが、実際にガセネタを流しているのはマスコミの方らしい。いくつかの事例がある。

安倍首相はクルーグマン教授を呼び世界の経済情勢について話を聞いた。話はすべてコンフィデンシャルだとした上で「観測」という形で「消費税増税は延期すべきだという話になった」と漏らしたようだ。マスコミはそれを鵜呑みにして「クルーグマン氏が消費税増税延期を示唆」などと伝えた。TVでは今でもそういっている。

だが、これが正確ではないことはよく知られている。クルーグマン氏本人がやり取りをネットで公表してしまったからだ。クルーグマン氏は「財政再建よりも支出の拡大を」とは訴えているが、消費税増税を延期しろとは言わなかったようだ。だが、記者クラブから排除されているタブロイド紙を除いたマスコミは本人の発表を無視し「クルーグマン氏は消費税増税するなと言った」という話を伝え続けている。

ネットがなければ、クルーグマン氏が独自見解を発表する事はできなかっただろうし、これほどまでに浸透しなかったかもしれない。だが、Twitterのおかげで個人でも簡単に情報を拡散することができるようになったのだ。

週刊誌が乙武氏の不倫疑惑を伝えた。この件について山本一郎氏はこれは松田公太参議院議員の一派がリークしたのだと指摘した。もともと乙武氏は元気会に接近していたのだが、元気会が政党要件を失ったことで見限ったというのだ。これをTwitterで見て「松田さんも裏では姑息なことをやっているなあ」と思った。乙武氏がいなくなれば東京からライバルが一人減るからである。

ところが、松田氏は自身のブログで「法的措置を検討」と息巻いている。法的な対応を考えているとTwitter上で発表した。証拠がないのだから訴えられれば負けるだろうという識者まで出てきた。選挙前になるとこうした情報が錯綜することになる。大抵は町の噂レベルで終るのだが、インターネットが出現した事で、全国が一つの村のようになった。ネットがなければ、この噂が広まることもなかったかもしれないが、双方の意見を聞く事もできなかっただろう。

最後の事例は、意図的な編集である。権力から独立しているべきマスコミがかなり偏重姿勢を強めていることが分かった。

日本テレビは「民進党の岡田代表が消費税増税をスケジュール通りに実施せよと主張している」と伝えた。次の日のネットには「岡田代表は今度の選挙で勝つつもりがないのだ」とか「岡田さんは狂ったに違いない」とのの嘆きの声が渦巻いていた。

ところが、これはテレビ局側の恣意的な編集だったようだ。この発言は「そもそも増税できる環境が整っていない」と続いている。岡田代表は都合良く発言を切り取られないように結論を最初に言うことを心がけるべきだろうが、選挙で不利になるような印象操作をしようという魂胆はあまりにもあからさまだ。ネットがなければ情報が一人歩きしていたかもしれない。

「政治家やマスコミは正しい情報発信を心がけるべきだ」と書いてドヤ顔で閉めたいところなのだが、選挙前になるとどうしてもこうした「怪情報」が一人歩きする。選挙管理委員会は個人が怪情報を出すことに神経質になっているが、実際に発信汚染を作っているのは、政治家本人やマスコミとその関係者たちだ。

「マスコミ」は政治家の発言ををそのまま垂れ流すか、週刊誌の騒ぎを後追いするための装置になっている。そもそも二次情報なので正確さを求めるのは無理というものだろう。

「有権者はメディアリテラシーを持って接するべきである」とも結論づけたいところだ。なんとなく考えて解決したような気分になれるからである。しかし、そもそも元の情報が間違っている(あるいは意図的に切り取られている)わけだから、リテラシーの持ちようがない。

結局、多くの人は信じたいものを信じることになるのだろう。これでは議論がかみ合うわけはない。心或る人が「これではいかんのではないか」などと思わないのだろうか。