シリアル – 朝ごはんについて考える

先日、NHKのあさイチという番組で「主婦の時間のやりくり」という特集をやっていた。そこでは、忙しい主婦が朝ご飯の品数をそろえることが「偉い」と評価される一方で、坂下千里子のような「手抜き主婦」がパンにピーナツバターを塗っただけの朝食を「えーこれが朝ご飯なの」などと非難されていた。

伝統的な家族観のもとでは坂下千里子は糾弾される運命にある。これが多くの主婦を苦しめている。主婦は「みそ汁が飲みたいなら自分が作れ」とは言えないからだ。だが、これは合理的な選択ではない。

朝ご飯の目的は栄養を取り「体と頭を立ち上げる」ことである。ピーナツバターとパンだけでは栄養が足りないのだが、特に品数を揃えるのも面倒だ。だが、世の中にはシリアルという便利なものが売られていて、多くの食材と栄養素を同時に取ることができる。

「いやいや、朝は暖かいものが食べたい」という人がいるかもしれないのだが、インスタントスープやコーヒーを付ければ言いのだし、「朝には発酵食品が必要だ」という人がいるのなら、ヨーグルトを付ければいい。朝は忙しいのだから、火を使った料理を極力減らしたいと考えるのが人情というものである。わざわざご飯を炊いてみそ汁を作る(具を揃えて出汁から作ると結構面倒くさい)必要はないわけである。

どうやら日本人は「効果」を「かけた手間の時間」で計測するという悪癖があるらしい。「人月指向」なわけで、これは、延々と続く残業のように様々な無駄の温床になっている。だが、朝ご飯の効果は「栄養」で計測されるべきだ。短い時間で栄養が準備できるなら、それは「費用対効果が高い」と賞賛されるべきではないだろうか。

品数が多い朝ご飯が賞賛されるのはなぜだろうか。いくつか理由がある。

  • 昔はシリアルのような便利なものがなかったので、栄養をまんべんなく取ろうと思うと様々な食品を組み合わせる必要があった。
  • かけた時間が愛情の量だと錯誤されている。

もちろん、専業主婦なら朝ご飯づくりに時間をかけてもよいのかもしれないのだが、公共放送を使って賞賛するほどのことではないのではないかと思う。

朝ご飯を作ってもらう側(まあ、本当は夫が作っても良いのだろうが)の一番の障壁は「ママが作ってくれたご飯と違う」というものなのだろうが、自炊経験がある人なら、独身時代には時間をかけていなかったはずなので、意外と受け入れは難しくないと思う。すると、残る障壁は姑世代の「私たちの時代はこうではなかった」という、世間の目かもしれない。

もっとも受け入れる側も「時間をかけないで栄養を摂取できるのはいいことなのだ」とは思わないかもしれない。それよりも海外セレブ(たいては女性モデルのことだ)などが、朝ご飯としてスムージーを飲んでいるのを見てあこがれるというのが受け入れ経路になるのではないかと思う。同じ栄養でも青汁ではダメなのだ。

さて、アメリカでシリアルが流行したのは「肉を食べるよりも健康に良い」とされていたからだそうだ。ベーコンと卵の食事は「コレステロールが高く不健康だ」とされていたのだろう。ただし、砂糖を使いすぎているとか栄養が添加物由来であるという批判もあるという。ヨーロッパなどのいくつかの国で「伝統的な朝食を破壊した」という批判もある。

アメリカではシリアルの消費は伸び悩んでいる。ケロッグは朝食以外でシリアルを使おうというキャンペーンをやったり、朝の時間をうまく使おうというキャンペーンまでやっているそうだ。この記事が挙げる、シリアルが食べられなくなった理由は3つだ。

  1. 忙しすぎて、シリアルすら作っている時間がない。代わりにシリアルバーなどを食べている。
  2. 子供が少なくなり消費量が減った。
  3. 砂糖は健康に悪いという認識ができ、伝統的なベーコン&エッグに戻りつつある。

理由1と3は矛盾するように思えるのだが、アメリカでも二極化が進みつつあるのかもしれない。特に理由1はショッキングだ。日本人の常識から見ると、シリアルを準備する方が「時短だ」が、それさえも「時間がなくてできない」というのだ。アメリカ人は何に時間を使っているのかが知りたくなる。

県という単位

「1県に1人の代表者を出したい」。簡単そうに見えるこの主張が選挙制度改革の足かせになっている。都道府県の人口にばらつきが多く、一つの単位として使えないからだ。一番大きなのは東京都で1300万人が住んでいるのだが、一番小さな県は50万人程度の人口しかない。

では、県を再編成すればいいのではないかと考えて実際にやってみた。政府がやるといろいろ文句が出るだろうが、ネットの片隅でやっても誰も文句は言わないだろう。北東北を2県にし、北陸も3県1市に整理した。岡山と広島は独立していてもよさそうなのだが、山陰が弱者連合になってしまうので、山陽の県に面倒を見てもらうことにする。東九州と肥前は1県ずつに整理する。宮崎を分割して大分や鹿児島とくっつけるという手もある。するとだいたい200万人規模でまとめることができるのだが、いろいろと不具合もある。

japan

第一に政令指定都市が成り立つ地域と成り立たない地域がある。ここで市松模様になっている県(熊本、教徒、新潟、宮城)は政令指定都市と県を分離してしまうと、県側に100万人規模の人口しか残らない。一方、県と政令指定都市を分離しても地域として成立する地域はある。だが、そうすると90万人くらいしかない「県と同格の地域」ができてしまう。つまり、県と同じような機能を持つ政令市と県の関係も一概に整理することは難しそうなのだ。

山陽地方と山陰地方をひとまとまりにするなど「地域としての一体感がないから無理だ」と文句を言う人はいるだろうが、この主張にはあまり正当性はない。例えば福岡県は県の東西で言葉が全く違っている。同じように兵庫県は山陽・山陰・瀬戸内海と3つの異なる地域の連合体だ。一方、佐賀県のように、同じ肥前でありながら長崎奉行所の管轄に入らなかった地域もある。薩長土肥の一国だったので、独立性を守ったのかもしれない。長崎は壱岐・対馬・五島・九州本土というまとまりのない地域を管理している。

最後に残る問題は首都圏への一極集中だ。神奈川県には3つも政令指定都市があるのだが、それでも県部の人口は300万人を超える。埼玉県部や千葉県部(それぞれ政令市を除く)も500万人近くの人口を抱える。一番大きな問題は東京である。1/10の人口を抱えるが一体性が高い。例えば世田谷区は80万人以上の人口を抱えていて一区で政令指定都市が作れるのだが、これは世田谷区の中に複数の行政区が作れるということを意味するのだ。

こうしたバラバラな自治体を統一的に分割するルールなど作れそうにない。道州制も人口のばらつきが大きくあまり本質的な意味はなさそうだ。都道府県はそもそも成立当時から一貫性がなく、今も一貫性がない。効率化を目指すならば県や道州という単位をあきらめ、比例代表制にするのが一番良いのではないかと思う。

政治的主張の組み立て方 – リピーターと新規ユーザー

ソーシャルメディアの反応を見ると、政治的な主張にどの程度の引きがあるのかが分かる。だが、その反応は要面的であり、使い方を間違えるととんでもない勘違いを生み出しかねないのではない。以下、具体的に示す。

一部の方は既にご存知だと思うのだが、Google Analyticsでユーザーの行動が終追えるようになった。ユーザーごとにIDが割り当てられていて行動をトレースできる。そこでリピーターの行動の解析を試みることにした。

念のために申し添えると「プライバシーが漏れる」ということはない。IDは固有だが、名前などとは紐づけられていないからだ。IDは各個人のブラウザーに入っているが、パソコンを押収でもしないかぎり、個人の特定はできない。

ユーザーの行動履歴は閲覧できても、エクスポートには対応していない。そこで、ページをコピペして加工した。ユーザーの多いサイトで同じことをするのは大変だろうなあと思う。

user_id interaction ページ名という形式に加工してCytoscapeに読み込ませる。やろうと思えばページのジャンルをアトリビュートとして読み込ませることもできるのだと思うが、面倒なのでやらなかった。多分書いている本人がよく分かっていないので、意味がないだろうと思ったからである。もちろん、バスケット分析などもできるのだが、そこまでやりたい人(主にECサイトの人だろう)は、カスタマイズされたコードとIDを埋め込んでいるものと思われる。

まず、ヘッドラインで反応しているひと(いいね)などは全く当てにならないようだということだった。傾向が全く違うのだ。多分、Retweetもヘッドラインに反応しているのかもしれない。時々、ヘッドラインと全く違うことを書いていたりするのだが、本文は読まれていなさそうだ。

次に分かったのは「ユーザーというのは一人ひとり違った指向を持っていてつかみ所がない」ということだった。このブログはいわゆる「左翼層」をターゲットとした記事(一言でいうと、安倍政権が災いを引き起こしているという内容だ)が多いのだが、リピーターはほとんど読んでいないようだった。「Twitterにはバカが多い」とか「NHKは情報を隠蔽した」いう記事は多くのページビューがあったのだが、リピーターにはこれも読まれていない。みんなが読む情報に飛びつく人は飽きるのも早いということになる。

ユーザーのニーズは多様化している。例えばマーケティング系のもの、コミュニケーションに関わるもの、マスコミのあり方に対するもの、イノベーションについて、デザインなどと複数のジャンルについて幅広く読んでいた。特定の傾向は見られない。

さて、これを見る限りは、野党勢力は今夏の参議院選挙であまり躍進できないのではないかと思われる。自民党の憲法案やTPPへの関心は多分それほど高くない。具体的に何が起るかイメージできていないのではないかと考えられるし、多分反対する野党陣営は「大げさだ」と考えてられているのではないかと思う。

熱心な人はTwitterで安倍首相の悪口をつぶやいているが、多分誰も読んでいない。多くの人は飽きているか、そもそも最初から気にしていない。情報発信者も「カラオケ状態(つまり、誰も他人の歌を聞いていない)」なのではないかもしれない。リアクションを見ながら発言している人は、おそらく誰もいないのではないだろうか。

では、そのような人たちは政治に関心がない無知蒙昧な人たちなのかというとそうでもないらしい。政治記事にも読まれているものがあるからだ。これも傾向は判然としない(書いている人が分かっていないのだから傾向が見えないのも当然だ)ものの「意識高い系のワードと政治を組み合わせたもの」や「公共性に関するもの(ただし、公共についてポジティブなのかネガティブなのかは判然としない)」などは読まれている。今のレベルでは仮説にすぎないものの「自民党中心の政治が制度疲労を起こしている」と考えている人は多いのではないかと考えられる。だが、野党も「旧態依然としている」と思われているために、支持が広がらないのだ。

いずれにせよTwitterやYahoo!ニュースのヘッドラインに引っ張られて政治主張や情報発信の方針を決めるのは危険だから止めたほうが良さそうだと思った。自分のメディアを持ち、定期的に反応を解析しないと、表面的なリアクションに引っ張られる危険性があるのではないだろうか。

多くの露出を得るためには、インフルエンサーにフックしたり、過激なことを書く必要がある。ただし、リピーターを獲得するためにはそれではダメなようだ。感情で動く人は、辛抱強く文章を読んだりはしないのだ。

レトロなポスターに使えるフォント

Photoshopを使うと、写真からイラストを作ることができる。色合いを抑えて、枠線を付けるとなんちゃってイラストの出来上がりである。だが、そこに文字を付けるときに考え込んでしまう。フォントはたくさんありすぎてどれを選んでいいのかよく分からないのだ。

使っていいセリフ系フォント

下記に挙げるフォントは使える。古くからあるフォントだからだ。

  • Garamond (16世紀)
  • Caslon (1734)
  • Baskerville (1757)
  • Bodoni (19世紀)
  • Didot (19世紀)
  • Cochin (1912)

使っていいサンセリフ系フォント

下記に挙げるサンセリフ系フォントは使える。レトロ調ポスター(今回はアールデコとする)は1910年から1930年までの短い間に作られたのだが、それに合わせていくつものサンセリフ系フォントが作られたからである。

  • Copperplate (1910)
  • Futura (1923)
  • Gill Sans (1930)
  • Peignot (1937)

ここに挙っていないサンセリフフォントは使えないものがある。HelveticaやUniverseは戦後に作られた。

さて、パソコンにインストールされている「なんか古そう」なフォントの中にも使えないやつがある。使えないのだが「なんとなく古く見える」ように作られているので、分かって使う分には面白い効果が得られるかもしれない。

  • Bauhaus (1975)
  • Trajan (1989)
  • Desdemona
  • Hervulanum (1990)

なお、ブラックレターのGoudy Textはなんちゃってフォントのように思えるのだが、1928年制作だそうだ。これは使えるのである。

その雑草には名前があります

IMG_0198よく家のブロック塀のような所にこんぺいとうのようなピンクの花を咲かせる雑草が生えている。実はこの雑草にはポリゴナムという名前が付いている。和名をヒメツルソバというそうだ。

ポリゴナムは他の草が生えなさそうなところに群生している。どうやら夏の暑さにも冬の寒さにも耐えるらしい。それほど日当りはなくても大丈夫なようだが、じめじめした木の根もとなどは苦手なようだ。どちらかといえば荒れて乾燥したところに生えている。ほんのちょっとした隙間に種が潜り込む。

ポリゴナムはタデの仲間である。つまりソバの近縁だ。ソバも荒れ地に生えることで知られているのだが、親戚であるポリゴナムも栄養の少ない荒れ地で生きてゆけるらしい。逆に栄養の良すぎる土地では他の植物に駆逐されてしまう可能性があるということになる。

実はこの花は外国原産らしい。日本語の情報では「ヒマラヤ原産であり、ロックガーデン用に明治時代に輸入された」という情報が広まっている。英語版のWikipediaではアジア原産だと書いてある。オーストラリアやアメリカにももたらされて自生しているらしい。

IMG_0195さて、この雑草の名前を知ったのは実はホームセンターなどで売られているからだ。価格は199円であった。花よりも高い値段で売られているのだ。

不思議なもので名前と値段が付いているとなぜか雑草扱いしたくなくなる。

よく「素人でも育てやすい園芸植物はありませんか」と聞くガーデニングの素人がいるのだが、実際には「増えすぎて困る」ものもあるのである。ポリゴナムもそのような植物の一つだ。

オスプレイを巡る倒錯した議論の根源を探る

熊本と大分の地震の対策としてオスプレイを使ったことが非難されている。オスプレイは何故だか左翼の攻撃の対象になっているのだ。もともとはアメリカのいうままに兵器を買わされることを苦々しく思っていた人が多かったのだろう。つまり、左翼的動機というよりはナショナリスティックな動機だ。日本では愛国派が従米で左翼が反米というようなねじれがあるので、当初から議論はややこしくなっている。

左翼がオスプレイに反対する理由を探しているうちに「オスプレイは危ない」という側面が強調されるようになった。もちろん、改良はされているわけだから、安全性はそのうちに担保されるようになるだろう。岩波がこのようなことをつぶやいて「ミリオタ」と呼ばれるクラスターに攻撃を受けている。ミリオタの攻撃はツイートのコメント欄で見ることができる。

興味深いことに、なぜオスプレイを買ってはいけなかったということもミリオタさんたちの議論から分かる。一つはオスプレイが既に旧型に属するらしいということだ。どうやら、もっと効率のよいタイプが開発されているらしい。次の理由はオスプレイが大きすぎると言うことである。イスラエルは「高すぎて買えなかった」らしい。

オスプレイは確かに熊本に物資を運んだが、あまり小回りが利かなかったらしい。そもそも、物資移送にはあまり活躍せずに早々に帰ってしまった。あまり使い勝手はよくなさそうである。よく「いい宣伝になった」という人がいるが、あまり役に立たなかったというのが正解だろう。

要するにオスプレイはフォードの大型車(まあ、シボレーでもいいけど)みたいなものなのだ。割高でバカでかい。フォードの大型車(しかも型落ち)を高値でつかまされたということになる。多分、開発したのに売り先がないと責任を取らされるのだろう。そこで、日本政府に売りつけたということになる。つまり、日本政府がいうところの「アメリカ」は、アメリカ全体ではなく、アメリカのトップでもないということになる。

そもそも、日本はなぜアメリカから割高な兵器を買うことができるのだろうか。それは戦争が差し迫っている脅威ではないからだ。もし、戦争が差し迫った脅威なら、支出できる税金は限られているわけだから費用対効果を気にするはずだ。つまり「国際情勢の変化で戦争の脅威が云々」というのは全くの嘘なのだ。

どうしてこのような議論になってしまったのは不明だが、オスプレイは2つの要点を押さえておくことだけが必要なのではないかと思った。なぜ、今のような議論になってしまったのか、よく分からない。

  • 日本政府はお買い物が下手で、タチの悪いディーラーとつきあっているらしい。
  • でかいアメ車を買ってしまったために「子供たちの送り迎えにも使えるよ」などと言い訳して家族のひんしゅくを買った。

今読まれる文章を書くにはどうしたらいいのか

先日書いたNHKの文章が軽く「バズって」いる。鹿児島県の震度情報を「隠蔽している」というものだ。どうやらGoogle検索で上位に来ているらしい。そもそもなぜ人々は検索してまで情報を探すのだろうか。
megane情報が完全な形で提供されることはほとんどないから、情報の伝え手は様々な工夫をしてできるだけ全体像を伝えようとする。

これは眼鏡の絵。

ところが、昨今のマスコミには様々な「配慮」が求められる。プレッシャーがあるからだ。それはコンプライアンス(その内容は曖昧だが、とりあえず法令遵守と訳される)だったり、スポンサー(NHKの場合は国)への配慮だったり、政治家への圧力だったりするようだ。終身雇用制度があった頃には「ジャーナリズムの正義を守る」などと言えていた人たちも最近ではおとなしくならざるを得ない。辞めると下請けやフリーランスに「転落」してしまうからである。

ところがこうした「配慮」は弊害をもたらす。全体像が伝わりにくくなるわけだ。すると、人々はそこを埋めようとする。

この模式図が眼鏡を意味しているのは明らかだ。だが、これを「眼鏡ではありません」と伝えてみる。だが、見ている人は「ああ、これは眼鏡じゃないんだなあ」とは思わない。眼鏡であることは誰の目にも明白だと思うはずだ。そこで却って「これは眼鏡なのだ」という確信を強める。そこで「これは眼鏡なんだ」という「情報」を求めるようになるわけだ。わざわざ「NHK隠蔽」で検索する人が増えるのはそういう理屈なのだろう。

つまり「情報を補間して、みんなが思っていること」を書いてやればそれなりの支持を集めることができる。隠蔽にはこうした負の効果がある。

ここでは奇妙な倒錯が生まれる。もともとの絵が「眼鏡だった」ことはどうでもよくなるのだ。「それを隠蔽している」ということが問題になる。例えば、安倍政権を批判している人たちにとっては個別の問題はもはやどうでもいいことだ。単に安倍政権が地上から(しかももっとも惨めな形で)なくなれば、あとはもうどうでもいいわけだ。

また、ヘッドラインだけが問題になる。つまり「NHKは情報を隠蔽している」というヘッドラインだけが必要で、あとは関連する単語さえ並べてあれば「これだけ長く書いてあるのだから、おそらくこれは真実」ということになる。

読み手の関心は「認知的不協和」の解消(俺の推論は正しいはずだが、相手はそうじゃないと言い張っている)にあるわけで、真実が何なのかということには興味が行かない。自分で情報を検証することには意味がない。最悪なのは「問題の解決」を求めなくなるということだ。認知的不協和の解消に一日を費やすので、もはや解決する時間などないわけだ。

配慮が増えるたびに、元の絵は見えにくくなる。だが、それは情報を隠したことにはならない。人々は「見たい絵」を見るようになるのである。

実際にはさらに複雑なことが起きている。両陣営がお互いに見せい絵を見せようとしている。今回の例では元の絵は眼鏡だったのだが、もはやその形は明瞭ではない。すると人々はますます「見たい絵」を見るようになる。これが行き着き先は「デマ」である。デマは情動が見せる絵だ。つまり、情報が隠蔽されると理性的な判断は失われるということになる。デマの行動は合理性を欠くので、しばしば受けて全体にとって損な行動になる。

ここまで考えると、情報の公正公平がなぜ重要なのかが分かる。元の絵を元の絵のままで見せなければならない。(かといって嘘をついてまで単純化してはいけない)そうしないと「何かを伝える」という基本的な役割が果たせなくなるからである。

その意味で安倍政権のやっていることは罪深い。情報を意図的に混乱させることで、情報そのものの信頼性を毀損している。これは情報空間を破壊するという意味では情報テロと呼んでよい。しかし、その結果は政権側の思惑通りには行かないはずだ。人々はますます見たいものを見るようになる。検索の動機を与えて、ますます都合の悪い「真実」があぶり出されることになるだろう。

震災対応に見る分散型システムの優位性

熊本・大分の地震では「物資が足りない」という声が多く聞かれた。品物は足りているのだそうだが、分配がうまくいっていなかったらしい。そこで多くの人が「震災に備えて、自治体は情報をシステムを作っておくべきなのではないか」と考えたようだ。日本を元気にする会の松田公太参議院議員もその一人。

さて、ここで日本人が「システム」というと、中央に大きなサーバーがあり、その情報が集約化される図を思い浮かべるのではないだろうか。それをNECか富士通に作らせるのだ。その裏にあるのはオペレーション上の慣習だろう。下にいる人が上にいる人に決済を求めることになっている。だからシステムのその慣習に合わせるのだ。そのピラミッドの頂点は当然国である。

だが「車輪は発明するな」のことわざの通り、実際には情報を集約するシステムはできている。情報通信研究機構(NICT)が既にリリースしたシステムがあるのだ。だが、NICTの作ったシステムは、役所や国会議員が考えそうなものではなかった。Twitter上のつぶやきを分析して表示している。

中央集権的な伝達システムではどこかで連絡ミスが起きる。そもそも日本人はチーム連携が苦手な上に、最近の公務員は非正規が1/3を占めている。下が言ったことが上に伝わるということは期待しない方がよさそうだ。中央集権的なシステムは既に崩壊していると言ってよい。だったら、膨大な情報をそのまま抽出して「必要な人」が検索した方が簡単なわけだ。分配も計画的にやるより分散型でやった方がいい。手近にあるものを運べそうな人のところに運んでやればいいわけである。

そもそも「情報がないない」と言っていたのはお役所の人たちだ。情報通信研究機構(これは総務省管轄の研究所らしい)で何を作っているのか知らなかったに違いない。情報通信研究機構にも限界はあったようだ。UIがあまりよくないし、自然言語による質問には対応していないようである。予め想定された質問から選ぶことになっている。

技術そのものはできあがっている。Googleがそのよい例だ。「おそば食べたい」というと近所のそばやを検索してくれるという例のあれである。多分、こうした技術を組み合わせれば中央集権的な(コンピュータ用語でいうところの、サーバー依存の)システムを作らなくても、分散型でやってゆけるのではないだろうか。

Twitterでは「水道管が破裂した」などという報告を集めてくれるシステムを作ればいいんじゃないのかという意見も聞いたが、千葉市が「千葉レポ」という仕組みを運用している。エンジンはセールスフォースだそうだ。スマホで近所の危険情報などを報告すると市役所の職員がなんとかしてくれる(なんとかしてくれないこともあるが、経過は教えてくれる)という仕組みである。

かつてはちょっとした不具合だったとしても、市議に泣きついたり(市議会議員の仕事は実質的には苦情処理だったのだ)市長に手紙を書いたりしていた。市長に手紙を書くと数ヶ月後に部局長から形式的な手紙が送られてきていた。仕組みを作ることで、苦情の申し立てがしやすくなったし、その後の対応も分かりやすくなっている。

システムを発注するのは役所なので、どうしても中央集権的になってしまいがちだ。だが、実際に有事の際に役に立つのは分散系のシステムのようである。多分、システムに従ってオペレーションを変えた方が効率的な仕組み作りが楽にできるだろう。

NHKは薩摩川内の震度情報を隠蔽したのか?

先日「NHKは鹿児島の震度情報を隠蔽した。薩摩川内市には稼働中の原発があるからだ」と書いたら、多くのアクセスを貰った。すこし罪悪感を感じた。当初の印象だけで隠蔽と決めつけてよいのかと思ったからだ。そこで震度情報を改めてみてみた。結論は書かないので図をみて判断していただきたい。もし隠蔽ではなければ図こそがNHKの公平さを証明することになるだろう。

NHK側に立って擁護すると、当初は震源が熊本市近辺にあったので、鹿児島まで入らなかったという仮説が立てられる。

fig1

当初の震度情報。鹿児島が表示されていない。薩摩川内市は震度4だった。五島列島は震度2だが表示されている。鹿児島だけがない。fig2

八代市付近で起きた地震の情報。震度3以上が表示されている。上の図では震度2でも表示があったよなあと思う。よく分からない。どの地域を表示するかは恣意的に決められるのかもしれない。震源地は図のほぼ中央(ただし南北だけ)にある。詳しい震度(Yahoo!)はこちらから。

fig4

よく分からないので、最初の震度7の地震と5強の地震を比べてみた。これによると鹿児島県西部(薩摩地方)の震度は頭だけが出ていたはずで、やはり意図的に消されていたことが分かる。善意に解釈すれば中途半端に出ていたので消したことになる。だが、宮崎県南部にもすべてが表示されていないものがあり、中途半端に出ていただけで消したという解釈は少し難しいかもしれない。

マスコミ不信

朝日新聞が記者クラブ問題について書いている。「表現の自由」国連報告者がやってきて、日本の記者クラブ制度には問題が多いと警告したらしい。記事によると「ジャーナリストの多くが匿名を条件に面会に応じた。政治家からの間接的圧力で仕事を外され、沈黙を強いられたと訴えた」のだそうだ。

内部ではきわめて深刻な問題が起きているようだ。どうやら新聞社は政治家から「恫喝」されているらしい。と、同時に新聞社は記者クラブを通じて特権的な立場にある。恫喝もされているが、同時に恩恵も受けているという複雑な状況に置かれているようだ。

問題だと思うのは、朝日新聞が記者クラブに関してさらっと書いていることだ。デービッド・ケイ氏は記者クラブの排他性も指摘し「記者クラブは廃止すべきだ。情報へのアクセスを制限し、メディアの独立を妨害している制度だ」と批判したとしている。朝日新聞はまるで人ごとのように書いている。知らない人が見たら「朝日新聞は記者クラブに加盟していないのではないか」と思うのではないだろうか。かといって、記者クラブ制度を見直しますとも書いていないし、反対に「記者クラブはメリットがある」とも主張していない。朝日新聞のこの記者はケイ氏のレポートをどのような気持ちで聞いたのだろうか。

もう一つの記事でも報道の自由は失われつつあるらしいことが分かる。報道の自由度ランキングで72位に転落したという。10年には11位だったというから短い間に大幅に落下したことになる。朝日新聞はこちらも他人事感満載で伝えている。日本の民主化度は高いので、ジャーナリズムが足を引っ張っているということになる。

新聞社は(少なくとも表立っては)異議を申し立てることができない。記者クラブを通じて優先的に政府から情報を分けてもらっているからだ。だからこそ朝日新聞は中立を装って応援団になってくれる人たちが外野で騒いでくれることを期待しているのかもしれない。

新聞社は特権的な地位を享受しながら、政治家の圧力から逃れることはできない。政府が何を隠蔽しようとしているのかは分からない。冷静に考えてみると、そもそもそれが必要なことなのかすらも不明だ。有権者は政治にはあまり興味がなさそうだから、何を伝えられても選挙結果には影響がなさそうだし、政府に不利な情報そのものはネットにあふれており、断定調で書かれている。

この不自然な状況にはいくつかの問題がある。

第一に、国際的な悪評が形作られることになる。この手の調査団に「匿名で」悪口をいうジャーナリストが増えるだろう。日本人は自浄能力がない。まるで中国か北朝鮮のようだ。それは日本の民主主義に対する懸念ではない。日本人そのものへの懸念だ。

マスコミの不信感も高まっている。つい最近も「NHKは鹿児島の震度情報を隠蔽した」と書いたら軽く「バズ」った。きわめて不健康な状況だ。マスコミ離れが加速しており、信頼度も下がりつつあるのではないだろうか。曖昧な状況ではデマが拡散されやすい。曖昧な情報は補間され、好きなように判断されるのだ。これは社会の安定性を大きく損なう。人々は「読みたいニュース」だけを真実だと考えるようになるだろう。政府に不信感を持っている人たちは政府批判を読みたがり、別の人たちは政府を妄信する。いうまでもなく、どちらも間違いだ。誰かがバランスの取れた報道をする必要があるわけだが、インターネットからそういうメディアが出てくるのはまだまだ先のことになりそうだ。そもそも、真実は曖昧なものであり、ネットでは人気がないからだ。

最後にマスコミは政府が作ろうとしている非民主的な状況に加担することになる。「内心は嫌々従った」と後で言い訳するのかもしれないが、国民を裏切ることになるだろう。政府が戦争をしたいのか、国民を大企業の奴隷にしたいのかは分からないが、権力の共犯者になってしまうということだ。戦前の政府と同じ状況だ。

これを打開するために新聞社がやらなければならないことは2つある。第一に政府からいかなる恩恵も受けないことだ。軽減税率の対象から外してもらい、記者クラブ制度も廃止すべきだ。安倍首相とお寿司を食べに行くのもやめたほうがいい。次に新聞社は自分たちが公平中立な第三者であるふりをやめるべきだ。新聞社は問題の渦中にあり、状況を作るのに加担している。