それは政治的論争ではありません、たんなるいじめです。

いわゆる右派の主張をしている人が執拗に他人を罵倒しているのを見た。どうやら常習者らしい。また別の人は女性の活動家や政治家を執拗に攻撃している。比較的知能が高そうだ。これを見て思ったのだが、いわゆる右派の主張に乗っている人にとってTwitterはおおっぴらに他人を罵倒できる息抜きの場になっているらしい。つまり、これは政治的議論を装った安全な場所からのいじめなのだ。たいへん卑怯な行為である。

これを見て思ったことはいくつかある。左派と右派の違いは他人へのシンパシー(共感能力)の違いだと言われている。西洋では女性を弱者とみなして執拗に攻撃する男性は「知的(これは知能だけではなく共感能力などを含む)でない」であると見なされる。つまり、何も実名で自分の知性のなさをさらけ出さなくてもいいのにと思ってしまう。

次に思ったのは、これが無力感の裏返しになっているらしいということだ。こうした人たちの提案が受け入れられることはない。にも関わらず、延々と主張を繰り返している。主張が通らないので、他者への攻撃に転じるのだ。それに乗る人たちがいるので、主張は理解されなくてもある種の一体感が得られるのだろう。さらに悪いことにこういった人たちは紳士協定を結んでお互いをかばい合っている。会社にも、仕事はできないが政治的にはやたらに影響力のあるやっかいな人たちがいる。やたらに「俺は聞いてない」とか「根回しがなかった」とかいって生産的な議論を妨害する抵抗勢力がいるが、まさにそんな感じだ。

そのくせ、他者からの攻撃にも意外と弱いらしい。すぐにブロックしたがるのだ。ブロックされたということは彼らの感性にヒットしたということなのだろう。すると崇拝者といじめの対象だけが残るわけで、彼らの心の平安が保たれるということになる。

そもそも、なぜいじめが起るのだろう。それは、いじめる側の人たちが抑圧されているからだ。予めテンションがかかっている訳だ。つまり、いじめは管理の失敗なのだと言える。学校で先生がいじめに加担することが多いのも(黙認したりほのめかしたりすることが多い)のも先生が管理されている存在でありなおかつ管理に失敗しているだからだ。それを学校側が隠蔽するのは当然だ。それは学校の管理の失敗を意味するからである。先生を抑圧し、必要なリソースを与えないというのは管理の失敗なのである。

会社の場合には「目的が見失われており」「評価の基準が曖昧である」ことがいじめの原因になったりする。学校と会社の事例を見てわかるのは、組織が本来の目的を見失って構造が曖昧になったときに、人々は自らが動いて秩序を維持しようとするのだという結論が得られる。ただ、その秩序維持は弱者への搾取と同義である。弱者を搾取することで失敗しかかった集団を維持しようとする試みだ。だから、いじめは現代版の生け贄なのである。

学校のいじめと違って政治議論を装ったいじめには対応策がある。いじめられるシグナルを減らせばいいのだ。典型的なのが福島みずほ参議院議員だ。甲高い声早口な声で反論する。表情は怒っている。これは典型的な「コルチゾール反応」だと考えられる。攻撃への防御姿勢だ。

こうした非言語的なコミュニケーションは意外と見逃されがちなのかもしれないが、きわめて重要だ。ヒトはかなり残酷な生き物で「コルチゾール反応」は「この人は社会的階層の下位にあるからいじめても大丈夫だぞ」というシグナルになってしまうのだ。いわゆる左派と呼ばれている人たち(男女問わず)にはこの「コルチゾール反応」が多いのではないだろうか。

よく、民進党の議員に「先生は民進党を出るべきだ」と懇願する人がいるが、「いじめの対象に自分が崇拝者している人がいるのはおかしい」と思っている人がいるのではないかと考えられる。そもそもそれは最初から政治的な議論ではなかったということだ。

こうした政党が支持を得るためには、非言語的コミュニケーションについての基礎を学ぶ必要がある。

日本の右派と左派はなぜ折り合わないのか

Twitter上では今日も、いわゆる「右派」と「左派」がそれぞれの主張を呟いている。お互いに攻撃しあっているのだが、その議論がかみ合うことはない。なぜ噛み合ないのかを理論的に考察した人はいない。

左派はおおむね機会の公平さよりも分配を重視しており、穢れを嫌っている。一方右派は新しい試みを嫌い、外敵や外国人を排除して同じまとまりで固まりたいと考えているように見える。

だが、両者は差異よりも共通点の方が大きい。例えば「純粋さ」を求めるという点は似ている。左派は放射性物質などの汚染物質を穢れだと考えるのだが、右派は外国人を穢れだと考えている。戦争についての忌避感も実は共通している。左派が戦争の原因が国内にあると考えているのだが、右派は中国が戦争の原因であると考えるという違いがあるだけだ。

故に、政治的に固まっている左派も右派も実際には同根であると考えることができる。両者の差異は見込みだけだ。右派は自分たちに取り分があると考えている。すなわち分配の意思決定に参加できると漠然と信じている。一方、左派は意思決定から排除されていると考え穢れを押し付けられると信じているわけだ。

信じがたいかもしれないが、右派がいなくなると、左派と呼ばれている人が左派的なつながりを持ったままで「保守化」することがある。例えば「高齢者の分配」を支持する人たちが「保育園ママ」を排除するということが起りえるのだ。

「分配を受けていないのに、漠然とおこぼれに預かれると思っている層と漠然と自分は意思決定から排除されているだろう」という見込みを持つ人がいる。経済的弱者が右派的な思想を持って安倍政権を応援したりするのである。現状よりも「ありたい自分」を設定して見込みの分析を行っているのかもしれない。

面白いのはアメリカと中国に対する態度だ。右派と呼ばれる人たちはおおむねアメリカに対して好意的な見方をしているのだが、親密さを利用してアメリカの意思決定に関与できるのだと信じているのだろう。つまり、忠誠心や帰属意識によって保護してもらえるという見込みを持っていることになる。一方で中国は日本に敵対的であって意思決定に関与できない。それは不確実なよそ者であって穢れに属するのである。一方、左派の人が親中国的とは言えない。そもそも日本の政府から排除されているのだから、外国にまで意識が及ばないのだろう。日本の政府はアメリカと親しくしているので、反米の姿勢を取ることはあり得る。

ここまで考えてくると「穢れとは何か」が分かる。意思決定に関与できないと不利益を押し付けられることになる。それを「穢れ」と呼んでいるのだろう。

左派を攻撃する右派は、従って複雑な経路を使って攻撃をする。彼らは意思統一できないのは、自分のコントロールできない何かが邪魔をしているからだと考える。2つの根源がある。1つはアメリカ(彼らに言わせれば共産主義に汚染されていた悪いアメリカ)が作った現行憲法で、もう1つは中国や韓国の影響を受けた「売国奴」だ。決してトピックそのものに反対している訳ではないのだ。

左派は「自分の与り知らぬところで何か悪いことが行われているので、放射性物質を押し付けられる」という理由で原子力発電所に反対する。右派は左派が騒ぐのは中国や韓国に入れ知恵された人が日本の秩序を攪乱していると考えるわけである。

アメリカで右派と左派の対立を研究する場合「その人がどのような道徳的態度を持っているか」という理論構成になるという。だが、日本では「その人の道徳的態度や価値判断」はそれほど問題にならず、自分が意思決定にどの程度関与できうるかという見込み(つまりは実際の所属ではなく、主観的な所属意識ということになる)によって態度が決定するのだということが言える。「私」ではなく「我々」で考えていることになる。個人の価値観で指標を取ると右派も左派もその態度はバラバラなのではないだろうか。

これを拡張すると政治に興味がない人は「意思決定にも参加できないが、不利益の分担もない」と考えているのではないかという仮説が生まれる。故に「政治に関心のない人を取り込む政策」を作ることは不可能だという見込みが生まれる。こうした人たちを抱き込むためには2つの選択肢がある。

仮想的な万能感を与えて、意思決定に参加できるのだという見込みを与える。これは過去に小泉政権や政権奪還時の民主党が使った手だ。しかし、いったん政権ができるとこれが「仮想的だった」ことがばれてしまう。

不利益を分担させる。これを使った政権はないのだが、安倍政権の政策が進めばやがて「反安倍」が生まれる可能性はありそうだ。ただし、その前に自民党から反安倍の動きが起きて動きを封じてしまいそうな気がする。

最初の疑問に戻ると、右派と左派が折り合わないのは当然だといえる。実は憲法第九条も原発の問題も「どうでもよい」のだ。だから、合理的にその安全性(あるいは危険性)を説得することは不可能である。誰が担い手になるかによって善し悪しが決まるということだから、文脈こそが主役なのである。

 

人は縛られているうちに、自らを縛るようになる。

他人とのコミュニケーションはたまに面白いことがある。今回は人が「法」というものがどのように捉えられているかを発見した。法律は人が作ったものだ。だから人が変えられるはずである。だが、どうやら「法理論」を物理法則のように捉えている人がいるらしい。

長島昭久議員がこのところ、去年の安保法制について呟いている。そのレスポンスの一つに「政府はこれまでも憲法につじつまを合わせるように苦心惨憺してきたのに、その苦労を無視するのか」というようなことをいう人がいた。言いがかりだ。

そもそも「つじつまを合わせなきゃ行けない時点で間違ってんじゃないのか」などと思う訳だが、こういう感覚を持っている人は意外と多いのかもしれない。多くの人は法律を守る側にいるわけで「赤信号で止まりましょう」と言われたら、ずべこべ言わずにそれに従う必要がある。「なぜそういう理屈なのか」などと言い出したら、社会生活は破綻するだろう。

ここでは「黄色で止まれ」と言われていたのにある日突然「黄色はゆっくり左右を見たら進んでもいい」となった。人は喜ぶだろうか。じゃあ、今まで「黄色で止まってきた俺はなんだったんだ」と立腹する人も出てくる。では、その人は何に起っているのか。

これを考えると「なぜ、過去に作った決まりは変えられないのか」という問いに行き着く。そして、そこから「それは、強制されてきたからだ」という答えが得られる。

憲法第九条は敗戦の結果作られ、自衛隊もアメリカのリクエストである。さらに一般国民は国会議員になることはほとんど不可能(理論上は可能だが、供託金が高く実質的にはお金持ちか組織のある人しかなれない)だ。そこでそれをもろもろ受け入れて「太陽が東から昇るように状況を受け入れる」ことになるのだろう。実はそれが変えられるものだったということが分かっても、態度を変容することは難しい。

たとえは悪いのだが、これは奴隷として生きていた人が「実は自由になってもよかった」と言われたときの感情と似ているかもしれない。きっと彼は解放してくれた主人を恨むだろう。これまでの忍従の苦労が全て徒労だったことが分かってしまうのだから。憲法学者は神官のようなものだ。実は無力なのだが「これは神の試練だ」などと騙っているわけだから。試練を受忍することがその人の人生の目的になってしまう。

加えて、今回の解釈変更も実質「アメリカに強制されている」わけで、何重にも自由意志が蹂躙されていることになる。他者から縛られているうちに、自分を縛ることになってしまったということになる。

自らを呪縛から解放しない限り、この不毛な議論は続くのではないだろうか。

イケメンという呪縛

社会生態学者の安冨歩教授がLGBTの人が体験する差別について書いている。なるほどなと思わせるところもあるが、納得できないところもある。安冨さんは、男性っぽい女性は「美しい女性」だとされるが、女性っぽい男性は「美しい男性」だとは見なされないと主張している。

これは、明らかに間違っている。特に日本にはジャニーズがある。背が低く幼形の男性の方が好まれるのだ。これは男性が幼い前田敦子をセンターに据えるのに似ている。日本人は幼形が好きなのだ。ジャニーズの世界で背が高くなるということは「センターを外される」ことを意味しているし、ましてや筋肉を付けたりひげを生やしたりして男性らしさを強調することも実質的に許されていない。その典型が木村拓哉である。彼は「木村拓哉という牢獄」に入っているのだ。

美人という枠について言及されているので一部言い当てているとは思うのだが、正常な男性が「<暴力>の中に住んでいない」という認識は必ずしも正しくない。

最近フジテレビが夕方のニュースはイケメンを起用し始めた。月替わり・日替わりでイケメンが出てくる。男性の「Objectification」だ。この中で男性は知的であることが要求されない。彼らは癒しであり知性が低いことが暗黙のうちに求められている。ひどい言い方だが「愛玩の対象」として置かれているのだ。

これが顕著になるのが伊藤利尋アナ(キャスターというのか)の不在だ。伊藤アナがいなくなると美男美女ばかりになるので、イケメンいじりがなくなるのである。だが、伊藤アナが入ると状況が一変する。非美形の伊藤アナがイケメンの知性を制限するように誘導するのである。

これは日本テレビの夕方のニュースとは違っている。こちらはジャニーズのタレントがキャスターとして置かれているのだが、アナウンサーレベルの話し方と取材能力が求められており、時間的なコミットもあるようである。

フジテレビのニュースに木村拓也というきれいな顔のアナウンサーが出てくる。外回りでお天気を読むアナウンサーだ。アナウンサーなので「知的枠」のはずなのだが、イケメン枠だとされている。ここでキャラの問題が出てきた。伊藤アナが熊本に出張した穴を埋めたのだが「普段はイケメン枠なのに知的枠のキャスターとして座らなければならない」ことになったのだ。結果、木村アナは「二重人格」になりキャラが破綻した。結局、外回りに戻されたようだ。

安冨さんは「テレビは劣等感を植え付ける装置だ」と書いてあるのだが、これは間違っているのかもしれない。つまり、劣等感を持っているはずの人が、美しい人たちを鑑賞の対象にして閉じ込めているのかもしれないのだ。すると文中のマツコ・デラックスさんの立ち位置が違ってくる。マツコさんは美しい男性を「対象物化」するために置かれていることになる。抑圧する側の人(しかも女性)の代表だという構図になってしまう。あれは、容姿から解放された女性の姿なのだということになるわけだ。

安冨さんが「気持ち悪く」見えるのだとすれば(ご本人を見たことがないのでなんとも言えないのだが)、それはスタイルが獲得できていないからだけなのかもしれない。例えばIkkoさんを見て「気味が悪い」という女性はおらず、女性のお手本になっている。Ikkoさんを見て感激のあまり泣き出してしまう女性すらいるのだ。りゅうちぇるも同じである。化粧をしているが「病気か趣味か」と聞かれることはないだろう。スタイルさえ決まってしまえば、人は意外と気にしないのだ。

ユーザーとしての安冨さんにスタイルを獲得しろと求めるのは無理があるかもしれない。重要なことはここに空白のマーケットがありそうだということであり、デザイナーの需要があるということだ。問題の本質は、意外と「たんに、才能のあるデザイナーがいないだけ」なのかもしれない。

 

きのう・きょう・あしたの語源

日本語では、今日からみて次の日のことを「あした」と表現する。ただし、あしたのもともとの意味は「朝」である。このことから、昔の日本には明日・今日・昨日という概念がなかったことが分かる。あしたの対になる言葉はゆうべであり、これは昨日の夜の意味だ。日本人は今、あしたの朝、きのうの夜くらいの時間軸で生活していたことになる。

明日、昨日は中国語から輸入した概念らしい。現在では明天・昨天というようである。中国語では、翌年のことを、明年・来年と言うらしいが、日本語からはなぜか「明年」という表現が落ちてしまっている。

ゆうべには今でも「一般的な夜」の意味と「昨日の夜」という二種類の使い方がある。これは日本語に冠詞がないからだろう。つまり、evening, the evening, an evningのような区別ができないのだ。同じようにあしたにも、「一般的な朝」と「特定の(つまり明日の)朝」という二種類の区別があったのではないかと類推できる。

ちなみに昨日はきのふであり「(さ)きのひ」から来ていると考えられているようだ。「さき」が、「さきの大戦」のように過去を向いているのが興味深い。「このさき」というと将来のことになる。今日はけふであり、「け」は「けさ(この朝)」と同じだという。「ふ」は「ひ」が転じたものらしい。

NHKが印象操作を試みるもあえなく失敗に終わる

安倍首相がメルケル首相を訪問した。NHKのニュースによると概要は次の通り。

  • 安倍首相はお城に招かれた。(特別待遇がほのめかされている)
  • 安倍首相はドイツにさらなる財政出動を要請した。
  • メルケル首相は、ドイツに移民が流入しており内需は喚起されていると語った。
  • 財政出動については、引き続きG7で協議することにした。
  • メルケル首相は日本のリーダーシップのもとで力強いメッセージを発することに賛同した

ところが、事前に様々な情報が出回っている。総合すると次の通り。報道の中で何がぼかされているのかがよく分かる。

  • 安倍首相はメルケル首相は、ドイツは難民の流入もあり、既に十分に財政出動していると主張し、安倍首相の提案をやんわり断った。(あるいは、両者は認識に違いがあることが分かった)
  • メルケル首相は、G7では代わりに規制緩和や財政規律などについて話し合いたいと語った。
  • メルケル首相は、競争的な通貨切り下げには勝者はなく、為替相場の安定が重要との認識を示した。
  • メルケル首相は、日本にNATOのメンバーシップをオファーし、フランスやイギリスを説得できると語った。

TBSでは「メルケル首相は財政出動について明言を避けた」としていて「課題が残った」としている。このラインがぎりぎり公平と言えるのではないかと思う。NHKのニュースだけを見ると、日本のリーダーシップにメルケル首相が賛同したという印象が得られる。だが、事前に様々な情報が入っている人から見ると、安倍さんはメルケル首相に相手にされていないことが分かる。それどころか安倍さんの政策や主張に釘を刺す発言もある。すると、却ってしらけた印象になってしまうのだ。

情報ソースは主に2つある。一つはクルーグマン教授の「東京で話し合われたこと」というものだ。安倍首相は「ドイツに財政出動させるにはどう説得すればいいか」とたずね、クルーグマン教授に「外交は専門外」だとやんわりと断られている。ノーベル賞学者を呼んでもこの程度のことしか聞けないのかと国民をあきれさせた。もう1つの情報ソースは外国の通信社などである。こちらはグーグル検索すれば簡単に手に入るし、Twitterでも情報が飛び交っている。特に専門知識は必要がない。

特にNATOの下りは重要だろう。第一に日本は集団的自衛権を行使できないので、NATOには加盟できない。しかし、日米同盟は別口と考えられている。「だったら、NATOにでも入れますよね」というのは、日本のダブルスタンダードに対する皮肉だ。次に、安倍さんは今回の旅行でロシアを訪問することになっている。ロシアとヨーロッパは緊張関係にある。NATOはロシアに対抗するための装置である。そこで、メルケルさんは「あなたはいったいどっちの側なの?」と迫ったわけである。

安倍さんのコウモリのような態度(日米同盟に臣従する態度を見せつつ、ロシアにも接近する)は警戒されているし、平和憲法を空文化してアメリカとの集団自衛にコミットする姿勢もあまりよくは思われていないのではないかと考えられる。

各社ともメインで伝えていないところを見ると、NATOの件は、何かのついでにほのめかしただけのようである。

よくNHKは大本営だという人がいるが、大本営が成り立つためには情報が遮断されていなければならない。ところが実際には様々な情報が飛び交っているから、大本営発表は単なる道化にしかならない。日本のマスコミはそのまま権威を失ってゆくのではないかと考えられる。

また、NHKだけでなく、特定の情報を鵜呑みにする(これは、NHKだけでなく、左派や右派、ないしは自分の専門だけの情報ソース)ことの危険性も示唆している。

強い関係と弱い関係 – 選民教育と一般教育の違い

普段いろいろなツイートをするのだが、返信は滅多にない。これだけいろいろ書いているので、憎悪に満ちた返信があってもよさそうだが、それはない。なぜなのだろうかと思うことがある。

昨日面白い体験をした。民進党の蓮舫参議院議員が「日曜討論に岡田さんが出る」とツイートしていた。昨日は憲法記念日なので日曜討論はない。まあ、別にどうでもいいことなのだが、面白いので突っ込んでみた。すると「日曜討論ではなかった」という旨の返信があった。

すると、蓮舫議員と私宛にいくつかのレスポンスが来た。多分蓮舫議員に構ってもらいたい人だったのではないかと思うのだが、よく分からない。なかには「お前は民進党支持のようだが、民進党には何もできないではないか」というものもあった。

そこで思ったのだが「民進党」というのは「公衆の面前で叩いてもよい」存在になっているらしい。こういったことは自民党の政治家には起らないし、日本を元気にする会でも起らない。さらに民進党の議員では長島昭久議員のところでもあり得ない。

多分「蓮舫さんが女性だから舐められている」のだろうなあと想像した。つまり「この人は弱い」という人が叩かれるのであって、いじめの構造に似ている。だが、民進党の女性議員をイジる人は、どのような根拠で「この人はイジっても怖くない」と思うのだろうか。こういうことを研究した人はいないのではないだろうか、などと考えた。

いずれにせよ、このような言論空間では意見そのものには情報的な価値はないということになりそうだ。誰が発信しているかが重要であり「いじめてもいい」というフラグが立つととりあえず叩く訳だ。こうしたコミュニケーションにも機能はあるはずだ。多分、意見交換というよりは社会秩序の維持機能があるのだろう。つまり「誰かをイジってもいい」と思う人は「誰か別の人にイジられている」社会の駒なのだ。

この仮説は少し残酷だ。つまり、選良教育と一般教育がある。選良教育では情報交換や討議といった意思決定に関わるコミュニケーションが行われる。一方で、一般教育からはそのような技術は予め排除されている。代わりに社会秩序維持のための方法を学ぶのだ。社会秩序維持の技法を学ぶ訳ではない。維持されるメンタリティを育成されるのだろう。


この延長線上にあるのが「弱い靭帯」の不足である。これは個人的にはかなりの発見だった。インターネットのコミュニケーションをBBSの時代からやっているのだが、当時はどこの誰か分からない人と会話をするのが楽しかった。ネットワークとしては「モデレータ」のいるスタイルで、参加者は会話に返信する義務はなかった。気に入れば参加すれば良いし、忙しければ返信しなくても構わない。誰も強要する人はいなかった。ただし、自分の趣味のBBSが荒れてしまうのは避けなければならないので、それなりの自律的に秩序が維持される。このようなフォーメーションが成り立っつ条件は2つある。

  • 限られた人たちが参加する。知らない人たちのコミュにケーションに参加しても平気な人たちだ。
  • モデレーターがお金を払って私的な場を維持している。

こうしたつながりを社会学では「弱い紐帯」と呼ぶ。義務や上下関係の薄い関係と言える。弱い紐帯を持っていると、情報の幅が広がる。だが、現代では、多くのネットユーザーにはこうした区分はしないらしい。管理される教育を受けた人たちにはそもそも「弱い紐帯」という考え方がないのかもしれない。

例えば、LINEには弱い紐帯という考え方はない。だから、Twitterでも「今日と明日は返信できません」と断りを入れる人がいる。会話を返すのを義務だと考える「強い関係性」なのだが、これがLINEいじめの原因にもなっている。

今回は「支持者ではない」と言っているのに「民主党は何もできない」と主張をぶつけてくる人がいたのだが「ああ、そうだろうなあ」というくらいにしか思えなかった。多分「会話をする人が必ずしも意見に賛同しているとは限らない」ということが、本質的に理解できていなかったのではないかと考えられる。

そこで、そもそも人はどのようにして弱い紐帯という概念を学ぶ(あるいは学ばない)のだろうかと考えたわけだ。

この考察が正しいかは分からないのだが、日本には「管理して意思決定する側の教育」と「管理される側」の教育の2種類がありそうだ。つまり、Twitterでどのような意見を発信するという、たいへん下らない些末なことが、ある階層からみると「社会的なスティグマ」になってしまうということである。

この結論の残酷なところは、こうした態度が再生産されるということだろう。つまり、通常の教員養成課程では「管理されている人が、管理される人を作るための教育」を行うということになる。いったんこのカテゴリに入ってしまうと、そもそも情報交換して意思決定するということができなくなってしまう。

これは「管理する側」に都合がよいように思えるのだが、実際にTwitterで行われている政治議論を見ると分かる通り、本来は「意思決定する側」の人たちが絡めとられてゆく。そもそも「管理される側の教育」しか受けたことがない人たちが、意思決定しているようにも感じられる。

沖ノ鳥島はどう考えても岩だろう

世の中には炎上商法というのがあるらしいので、ちょっと試してみる。「王様は裸だ」と言ってみたい気もする。だが、一方で「お前は非国民だ」という批判も多そうだし、ひょっとしたら脅されることもあるかもしれない。それほどセンシティブな一言。

「いやあ、沖ノ鳥島には人は住めそうにないっすよね。あれ、岩なんじゃないですか?」

論理的な反論のある方は、何らかの方法でご返信いただきたい。いくつか、材料を挙げておいた。

  • 排他的経済水域を主張するためには「いつも地上に出ている部分があり」かつ「人が居住可能で経済活動を実施していなければならない」のだが、二番目の条件はAND条件ではなくOR条件である、と解釈可能ではある。
  • 政府は発電の研究をしているから、経済活動は成り立っていると主張している。
  • 例えばイギリスはかつて岩礁(ロッコール)を島と主張していたが、諦めた経緯がある。

独自で経済活動をするためには、誰かが居住していなければならない。いわば「人柱」だ。無人で経済活動というのも成り立つだろうが、国際的に認められるかは未知数。

次の設問はもう少し専門性が必要そうだ。日本が仮にあれを岩礁だと認めた上で巨大な滑走路を持つ軍事拠点に利用可能な施設(軍事拠点と宣言する必要はない)を領海内に作ったとする。12海里は22キロメートルだそうだ。珊瑚礁なので、埋め立ては不可能ではないだろう。それは国際的に非難されるのだろうか。

  • もともと日本の領土・領海なので「力による現状変更」ではない。
  • 一方で特に必要な施設とは思えず、他国の懸念を招く恐れはある。
  • 拠点を作っても周辺の独占的な漁業権は認められない。(公海だから漁業はできる)

最後に「非論理的」な反論のスロットを用意した。

  • 中国にくれてやるのは嫌だ。中国に見方するとは、お前は工作員だな?
  • 中国のいうことをみすみす聞くのは悔しい。
  • 日本が撤退したら中国がなにをするのか分からない。
  • そもそも領土問題は感情的に属する問題であって、論理的な整合性など要らないのだ。
  • 寝た子を起こすようなことをいって、お前は非国民に違いない。
  • お前、これまで税金をいくら投入したか知っているのか。

 

なぜ、人々は好き勝手な物語を語るのか

礒崎陽輔衆議院議員が怒っている。主題は憲法改正案だ。毎日新聞が「自分たちをレッテルばりした」のが気に入らないらしい。

ここでは自民党の側に立って磯崎さんの疑問にお答えしたい。こうした「客観的な事実でない部分的な情報を主観で埋める」ものを物語という。確かに「戦争法」は事実を「安倍首相は戦争を従っている」という憶測で埋めた「左翼の物語」と言える。では、議論が物語を許容するのは何故なのだろうか。

一つは安倍首相が事実を的確に伝えなかったという点にある。もともと中国を封じ込めたいという気持ちを持っており(これはダイヤモンドなんちゃら構想として知られる)アメリカが「相応な費用負担を求めている」という事実を隠蔽したまま、それを利用しようとした。日米同盟は盤石だと言い張り、日本人の負担は増えないと約束している。これらは全てもとの事実を隠蔽した行為だ。事実が曖昧なので、物語の余地が生まれたと言える。政治は「憶測でものを言っても良い」ことになったのだ。

次に安倍政権側が物語をねつ造しているという事情がある。緊急事態条項でよく知られている物語は「ガソリンが足りなくて命が救えなかった」から緊急事態条項が必要だというステートメントだが、少なくとも東日本大震災ではそのような事実はなかったことが知られている。そもそもこれが物語なので、カウンター側も別の物語を当ててくる。

もう一つよく知られているのは、震災対応に際して「自治体に権限を渡すべきだ」という声だ。これは事実ではないかもしれないが、実感であろう。実際に「よく分かりもしないのに、中央からやってきた人が仕切りたがって困った」という声はよく聞かれる。松本文明副大臣の行状が記憶に新しいところである。これは中央集権型とは真逆のベクトルだ。つまり「地震の時には強い政府が求められている」というのは既に物語なのだ。

では「本当は安倍政権は何を画策しているのか」と思うのが人情というものである。そこから想像を膨らませるが「証明」はできない。そこで、人々は好きな物語を作り、その隙間を埋めようとするのである。

つまり磯崎議員への回答は簡単だ。自民党やその支持者たちが自分の好きな方向に国民を誘導しようとしたから、全体が好き勝手な物語を紡ぐようになったのである。マスコミは黙るようになった。つまり誰の物語にも加担したくないが事実を探るのも面倒(というより実質的に不可能)なので「誰が何を言った」ということを以て、事実を報道したということにしているのだろう。

そもそも民族とは何なのか

国連は2008年以来、沖縄人は琉球弧の先住民族だと認定するように日本政府に勧告しているらしい。この勧告について自民党は「国連に撤回を求めるべきだ」として問題化しようとしている。

この発言には大いに問題がある。国益に反するので、国連に勧告撤回を求めるのはやめた方がいいだろう。撤回を求めている人たちは本土の代表であって「抑圧者」だと見なされる可能性がある。次に民族の概念は定義が曖昧であり、そもそも議論が成り立たない可能性が高い。沖縄選出の自民党議員に「我々は日本人である」という運動をやらせてもいいが、これは沖縄に住む人たちを分断することになるだろう。民族という概念は政治の産物なので、政治問題化しやすいのだ。

もし撤回を求めるとしたら、代わりに「第三者」に琉球諸島(そもそも琉球諸島そのものにも明確な定義が存在しないそうである)の住民へのアンケートを依頼すべきだ。民族というのは、その人のアイデンティティの問題だからだ。琉球弧の人たちは、ことによっては複数のアイデンティティを持っている可能性があるし、先島諸島の人たちが本島に住む人たちと違う民族意識を持っている可能性すらある。

民族は曖昧で複雑な概念である。

日本人はノルウェーにはノルウェー人が住んでいると思っているだろうが、実際はそれほど単純ではない。ノルウェーは長らくデンマークやスウェーデンと同君連合を組んでいた。なので、ノルウェーの言語はデンマークとスウェーデン語とあまり変わらない。しかし、それでは独立した民族とは言えないので「独自の言語」を取り戻す運動があり、従来の言語と独自言語の2つが公用語として採用されている。アイルランド人の多くはアイルランド語ではなく英語を話す。しかし、独立国に住みアイルランド人としての自己認識を持っており、アイルランド語が保存されている。

また、ペルシャ語を話す人はイランとアフガニスタンにまたがって住んでいる。だが、彼らは別民族とも同一の民族とも言えない。イランのペルシャ人はアフガニスタンのペルシャ系の人たちに対する差別意識がある。ペルシャ人は(トルコ系の言語を話す人と区別して)ペルシャ語の話者をさす場合とイランに住むペルシャ語系の人をさす場合があるそうだ。

ウズベグ人はロシアの統治を経てソ連で定義された。ウズベグ人の中にはトルコ系とペルシャ系の言語を話す人が含まれ、コーカソイド系とモンゴロイド系がいるそうである。ウズベグ人の中に含まれるタジク系の人たちだが、タジク語はペルシャ語の方言なので、この人たちはペルシャ人ともいえる。こうなると、何がなんだかさっぱり分からない。歴史的に「ウズベグ」と呼ばれる人たちがおり、イスラム系の非ロシア人をまとめる際に人工的に作られた概念らしい。だが、一度ウズベグ人という概念ができてしまうと民族意識が後から形成される。

民族という概念は時に悲劇を生む。ルワンダに民族対立があると信じている日本人は多いが、そもそもツチ・フツという概念はヨーロッパ系の人たちがでっち上げたものだと考えられている。バンツー系の支配層と被支配層に違った民族概念を与え「ツチはエチオピアからやってきた」という「事実」を作り出した。後にラジオのプロパガンダを真に受けたフツ系の人たちが、短期間で50万人から100万人のツチ系の人たちを虐殺したのだ。

北朝鮮と韓国に住む人たちは、自分たちを同一民族だと考えているが、朝鮮語と韓国語という別名称の言語(内容はほぼ同一)を話す。台湾に住む人たちは、同じ国に住み、ほぼ同系の言語を話すが、中国人だと考える人と、台湾人だと考える人に分かれている。中には「台湾人であり中国人だ」と考える人もいる。つまりこの2つの概念は二律背反するものではない。台湾にはオーストロネシア系の原住民がいて、話が複雑化する。誰が本来の台湾人なのかという問いに単純な答えはない。

日本人が「琉球人などという概念は存在しない」という主張をしているのと同じような主張をしている人たちもいる。それは中国共産党だ。彼らは「中国に住んでいる人たちはすべて中華民族だ」と主張している。やっていることは、少数言語の破壊と植民地政策だ。チベットの同化政策を見るとそれがよくわかる。

そもそも民族は定義のない概念であり自己認識以外には議論が難しい。加えて日本政府は、琉球人を否認することで少数民族を圧迫しているという印象を与える危険性すらあるわけである。