インド人は普段ナンを食べない説について考える

よく「インド人は普段ナンを食べないんだよねえ」という話を聞く。これ本当なのだろうか。ちなみに出てくる写真は全て北インド(デリー首都圏とジャイプール)のもの。

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普段のインド人が食べていると考えられるチャパティとカレーのセット。これで4ルピー。コフタらしいものが入ったカレーとお漬け物が付いていて、近くで働いているらしい人たちが集まっている。チャパティの枚数を聞かれた。枚数によって値段が違うらしい。つまりカレーは付け合わせみたいなものなのだ。

チャパティを作るためにはアタと呼ばれる全粒粉を使う必要があるのだが、これが意外と日本では贅沢品だ。アタ1kgが500円もする。(ちなみにリンク先はAmazonのアフィリエイトです。)ただし、発酵のような面倒な手続きは必要ない。混ぜて焼くだけ。

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エアコン付き(つまりちょっと高級な)急行電車に付いてくる朝飯。外国人だけでなく普通の人が使っている。サンドウィッチだった。イギリスの植民地だったわけで、当然インド人もパンを食べるわけだ。「インドではカレーしか食べられない」というのも本当ではないということになる。CIMG0130

ハーベリーと呼ばれる外国人向けのホテルで食べたナン。インドの家庭にはタンドールがなく、ナンはレストランで食べるものということだ。CIMG0154

これもレストランで食べたナン。前の写真は長円形だったのだが、こちらは正円。形もいろいろのようだ。これで100ルピー程度。日本円だと安く感じるが、多分インドではそれなりのお値段なのだろう。このように格差が非常に大きいのがインドで「一般のインド人は何を食べているか」という問い自体が成立しないものと思われる。白いのは米なので「米とナンが一緒に出てこない」というのも嘘らしい。
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おやつなのか、朝の軽食なのか分からないが、朝から混雑するサモサ屋台。ここにもタンドールはなく、油で揚げるためのコンロがある。群がっているのは男だけですね。サモサはカレー風味のジャガイモが入った三角揚げ餃子みたいなもの。CIMG0163

いきなりプーリーが出てきたが、これは南インド料理屋さんで食べたもの。バナナの葉で米という印象だがそれだけではないようです。プーリーはチャパティを揚げたもの。つまりこれも全粒粉らしい。カレーといってもいろいろな種類があり飽きないと書きたいが、これは個人的にカレーが好きだからですね。CIMG0173

ふたたび急行電車の食事。ご飯とチャパティ(丸まっている)が出てきた。普段の食事はチャパティというのは本当らしい。ホイルに包んであるのは暖めてあるから。インド=貧乏というイメージがあるのだが、冷たい弁当が主流の日本の新幹線より暖かい料理が出るインドの急行の方が贅沢なのかもしれないですね。CIMG0192

近所で買ってきたサンドイッチ。台湾、韓国、日本のようにコンビニで気軽に食事を買うというわけには行かないらしい。中の具材がカレー風味ということはなかった。ただし、付け合わせに買ったスナックはスパイシーだった。

もうそれでもカレーは嫌だという人にはマクドナルドもある。さすがに牛と豚は出てこない(ソーセージもチキンでできている)のだが、チキンハンバーガーを食べることができる。

幻に終わりそうな東京オリンピックと高度経済成長幻想の終わり

ヨーロッパでは東京オリンピックの招致に不正が判明した場合の代替開催地についての議論が始まっているようだ。イスタンブールは間に合わないのでロンドンでやろうという話があるらしい。噂レベルで本当かどうかは分からないのだが、もし本当なら2020年は日本にとっては苦い年になるだろう。本来は自分たちの国で開催するはずだったオリンピックをテレビで見ることになるのだ。

だが、これで良かったんじゃないかと思う。もし仮にイスタンブールが開催都市に選ばれていたら、東京は再び招致活動をやっていただろう。招致活動には多額の資金が投入されるのだが、これは結局のところ広告費や税金で賄われている。いったん招致に成功したのだから、これで再び招致活動をやろうなんていう人は出てこないだろう。

そもそも東京でオリンピックを開くのは無理だった。最初は「コンパクトにやります」などと言っていた。能力的にコンパクトオリンピックを開催することはできるだろうが、その気持ちは最初からなかったようだ。理念を実行するプロデューサのような人はいないし、あとは「どれだけむしり取ろうか」という人たちばかりだ。実際のところスポーツ大会が成功するかなんていうことはどうでもよかったのだろう。

その結果「一度既成事実さえ作ってしまえばあとは借金してでもどうにかなる」と甘い気分でプロジェクト管理する政治家たちやそのおこぼれに群がろうとする人たちのおかげで予算は膨らみ続けている。森元首相は「もともとあんな予算では無理だった」と言い放ったそうだが、それは、悪徳リフォーム会社が年寄りを騙すときに使う手口で、いわば詐欺だ。

買収で開催を勝ち取って。リフォーム詐欺まがいの方法で国民を騙す。こんなオリンピックを誰が喜ぶのか、もう一度冷静になって考えた方がよい。

フランスの司法当局が贈収賄を認定すれば、電通は世界のスポーツイベントに関わりにくくなるのではないだろうか。しかし、一度不正にコミットしてしまえばずるずると不正に関与せざるをえなくなるわけだから、この程度ですんで良かったと思えるときがくるかもしれない。

それにしてもどうして招致委員会はこんなに危ない橋を渡ってしまったのだろう。日本は想像以上に困窮していたのではないだろうか。高度経済成長時代の夢をもう一度と焦るうちに倫理感覚が麻痺して買収行為を行ってしまったのだ。バブル終焉からずるずると続いていた「夢よもう一度」といううっすらとした希望がビッグプロジェクトとともに打ち砕かれるのだ。オリンピック招致の失敗には高度経済成長幻想の葬送という意味合いがあるのだろう。

この過ちを胸に刻むためには、壊してしまった国立競技場の跡地を更地のまま保存するのがよいのではないだろうか。何も開発しないで、数本のシンボルツリーを植えて芝生でも敷けば都民の憩いの場所になるだろう。そこで一日ぼんやりと何もしないで過ごすというのも贅沢の一つかもしれないし、「もう過ちは繰り返しませんから」という石碑があれば、公園もどことなく意義深いものになるだろう。

園芸ショップに見る顕示消費の変化

近所に100円ショップ、中古品店、GUが並んでいるショッピングモールがある。はっきりいって「中流から落ちかけた人たち」が集まる場所という印象のところだ。ところが、そこにこじゃれた園芸店ができた。高価なインテリア植物が並び、庭先には聞いたことのないような花が並んでいる。サボテン専用の温室とカフェが併設されている。

なぜここが選ばれたのかは分からないのだが、駐車スペースが豊富なところとまとまった土地があったからではないかと思われる。建物はプレハブなのだろうが、周りの庭に見たこともないような樹が植えられており、温室も整備された。

そこに買い物に来る人たちは美男美女が多い印象がある。子連れの姿も多く見られる。特に男性が「こぎれいな」格好をしていて、平均身長も高いような気がする。高齢者の姿は全く見られない。

花の値段は「少し高い」程度だ。例えばオステオスペルマムは産地が経営するショップで100円、ホームセンターで150円というところだが、ここでは300円程度で売られている。特徴的なのは色かもしれない。一般的な赤、黄色、青といった色合いは少なく、淡い色合いの物が多い。クリーム色のペチュニアなどが売られている。こうした色合いは単体で見ると地味なのだが、寄せ植え材として群生させてそれなりの植木鉢に植えれば見栄えがする。人によっては「シック」とか「アンティーク」などと表現する色合いだ。

特徴的なのは葉ものだ。寄せ植えをグレードアップさせるためには、花よりも葉ものを充実させる必要がある。斑入り、淡い緑、ブロンズ、シルバーリーフなどを組み合わせるのが基本なのだ。ホームセンターにはこれほど豊富な品揃えはない。ホームセンターの顧客は花壇のスペースを埋める必要があり、葉っぱを入れたとしてもアイビーが入るくらいだからである。ホームセンターは花の割合が6、野菜3、葉が1という程度ではないだろうか。

園芸に何を求めるかは人によって違っている。きわめて乱暴に一般化すると、戦前・戦中生まれの高齢者は野菜や果樹が好きだ。「役に立つもの」で埋めたがる。ところが主婦になると今度は庭先や玄関に「必要最低限の飾り付け」をする必要が出てくる。園芸はその意味では贅沢品ではなく、一般消費財に近い。いわば「必要経費」なのだ。ホームセンターでは、大量に同じような花を栽培する必要があるのだ。インテリアとしての観葉植物が100円ショップでも売られているのはそのためだろう。

ところが、人よりちょっとセンスアップしたくなると、とたんに「単体では全く役に立たない葉っぱ」が重要になってくる。葉ものがあるとないとでは見栄えが全く異なる。このような園芸に注目が集まるのは「ナチュラル好き」な人が増えているからだろう。オーガニックや有機栽培などの野菜にこだわり、チアシードやエルダーフラワーといった聞いたこともない「美容によい成分」を探す。そして日曜には見栄えのよい夫と子供をつれて園芸店に繰り出すわけである。時間と資金に余裕がないとそんな生活はできないわけだが、余裕がある人たちが大勢いることが分かる。

そういう人たちを惹き付けるのが「SNSジェニック(インスタグラム映えするというような意味だ)」なお店だ。そこで「すてきでナチュラルな料理」や「珍しい樹のある庭園」などが重要な役割を果たす。

こうした人たちはブランド品を身につけているわけではなさそうだが、まとまったこぎれいな格好をしている。かつてはブランド品のロゴマークを買うことが「顕示消費」だったわけだが、顕示消費の内容は、ブランドという記号を離れ、「ライフスタイルの誇示」とか「ちょっとした幸せ」の演出に移っているのかもしれない。

電通叩きとか収奪とか

オリンピック贈収賄疑惑は「電通叩き」の様相を呈してきた。だか、電通は特に悪くないと思う。そもそも電通は広告を売っている会社ではない。企業に様々な利便を提供するのが主な仕事だ。発注権限を持つと、クライアントは「何でもいうことを聞いてくれる奴隷のような」人を求めるようになる。そのあれこれに応えてやるのが電通の仕事で、別にクリエイティブなんかどうでもよいのである。その延長にあるのが、オリンピックのとりまとめだ。もともと「偉い人の汚い仕事を引き受けてお金をもらう」のが電通の仕事なのだ。

もともとオリンピックは貴族が新しく始めたビジネスだ。彼らは「働かずに庶民から搾り取る」にはどうしたらよいかを常々考えている。貴族にとって働くというのは庶民がやることで、奴隷みたいなものだ。もともとは地代収入、権益、徴税で食べてきた人たちなのだが、それだけでは食べてゆけなくなったので、庶民に感動を売るようになったのだ。

安倍首相や森元首相がどんなに偉くても彼らにとっては「庶民の代表」にしか過ぎない。本当にメンバーになれるのは竹田家のような貴族だけなのである。ということで、電通は貴族にお友達がいる庶民の小間使いくらいの位置にいる。彼らを叩いてもあまり意味はないのではないかと思う。

ちなみにディアク氏はスポーツマン出身だ。奴隷階層みたいなものである。ディアク氏は「やり過ぎた」のだろう。不正なお金を手にするしかなかったのだ。貴族はそんなことはしない。正当な手段で搾り取るのだ。だから庶民は「搾り取られて喜んでいる」ことになる。庶民は「国」に所属しているという幻想を得ることで、気分を高揚させる。そのためにはいくらでも支払うのだ。

そもそも「何が賄賂か」という問題がある。もともとはロシアのドーピング隠蔽が発端だったようだ。ロシア人は「奴隷階層が健康を壊して人生を台無しにしても」別に構わないと考えるわけだが、それはヨーロッパ基準では「ルール違反」だとされた。そこでロシアはディアク氏に隠蔽を依頼した。ラミーヌ(ラミン)・ディアク氏はそれに失敗したので、ロシアから「金を返せ」といわれ、表沙汰になった。ディアク氏の資金の流れを解明する段階で、電通や日本当局からの「巨額資金」が表沙汰になったのである。多分ヨーロッパ基準では「賄賂」なのだが、これが世界基準ではなくなりつつある。

もともと、日本人は口利きをそれほど悪いことだとは思っていないようだ。口利きは日本の文化に根ざしているからだろう。例えば甘利元大臣が役職を利用した役所への口利きも大した問題にはならなかった。日本人が口利きをいけないことだと考えるのは「他の人たち(ヨーロッパやアメリカ)がそう思っているから」に過ぎない。だから「他の人」がやっていれば自分たちもやるのだ。

同じような感性を持っているのが中国人だ。役職にある人が私腹を肥やし海外に資金逃避させることが当然だと見なされている国である。アフリカにもそのような国が多い。ということで、中国に対抗意識を持っている安倍政権は自分たちも賄賂を支払い、国民もそれをそれほど悪いこととは思わないのだ。

例えば最近の話題ではトルクメニスタンへの2兆円の「投資」がある。実際には日本企業が大型プロジェクトを受注する。こうすると都合のよいことがいくつもある。税金を投入して海外に流す。トルクメニスタンは独裁国家なので、現地の政治家にキックバックさえすれば、確実に投資を回収することもできる。そして大企業がプロジェクトを受注する。これを海外法人の儲けということにして税金の安い国に投機した会社の売り上げに勘定できれば(していないかもしれないが)合法的に資産の移転ができるのだ。大企業はそのうちの一部を「寄付」として自民党や政治家に移転すればよい。

トルクメニスタンの投資には違法性がないというところだ。文句を言いそうな人は排除せずに「抱き込んでやればいい」のだ。

オリンピックの問題に戻ると、あとは商品価値の問題だけである。オリンピックでは汚い金がうごめいていると多くの人が考えるようになれば、オリンピックの商品価値が毀損される。問題になるのは放送権が高く売れるアメリカとヨーロッパの人たちの価値観だろう。また、借金だけが残るということになれば招致都市がなくなる。するとオリンピックが実施できるのは、比較的大きな金が動かせる独裁国家だけということになる。すると貴族たちは困るわけで、それなりの改革策を打ち出すことになるだろう。

一方で新興国を介した資金逃避はよりおおっぴらな形で温存される可能性がある。これは国家財政の私物化という意味で、国家の持続可能性を大いに毀損する。多分、本当に怒るべきはこうした問題なのではないかと思う。

だから、電通叩きには大した意味はないわけだ。

日本は物を大事にしない国になるのか……

今日のTwitterネタ。日本では長く車を使っていると税金が高くなるのでけしからんという趣旨のブログ記事を読んだ。「日本は物を大切にしない国になってはいけない」というのだ。

個人的には、日本で車を買う気にはなれない。アメリカで車を持っていた経験があるのだが、そもそも日本は税金が高すぎると思う。アメリカの経費はガスタグ(定期チェックしてナンバーを更新してもらう)と保険だけなのだが、日本ではそれだけでは済まない。アメリカで乗っていた車は1977年製造のビートルである。12万円で買って8万円で売った記憶があるが、途中でマフラーが落ちた。それでもガスタグチェックには引っかからなかった。

日本では車は贅沢品の扱いだ。にも関わらず多くの人が個人の車を所有している。

日本では軽自動車がよく売れているらしいのだが、この傾向が続くかどうかは分からない。軽自動車は政府の政策に左右される側面があり、車メーカーは「軽自動車頼み」にならないようにバランスを取っているそうだ。

では、軽自動車の税金が高くなったら、人はどうするのだろうか。おとなしくもっと高い車を買うのか。実際にはそうならない気がする。

消費者は別の手段で車の購入資金を抑えるのではないだろうか。そもそも国民所得は低くなってきており、社会保障費が上がるという長期的なトレンドがあるのだから、車の購入そのものを手控えることになるだろう。特に都市部ではそれが顕著に現れるはずだ。いわゆる「若者の車離れ」というやつだ。友達が車を持たなくなれば自分も必要がなくなる。顕示消費ができなくなるからである。

仮に車が必要な場所に住んでいたとしても安い車が売れることになるだろう。ではメーカーはどのように車の値段を下げるのか。

軽自動車の会社はシェアを上げるために、新車を買いとって中古市場に流しているそうだ。中古車マーケットは組織化されてきており、オークション形式で値段が付くようになっている。つまり、税金を上げると新車が売れなってしまう。廃棄処分の費用も考えると、適当な年次の車を中古で乗り換えるということになるだろう。

メーカーが維持できなくなった車を廃棄するとは思えない。国内で人件費をかけて廃棄すると高くつくからだ。すると規制のもっと緩やかな国への輸出が始まるだろう。日本車は丈夫なので海外でも立派に走るに違いない。すると新興国の新車需要を押し下げることになる。

この傾向が続くと「若者の地方離れ」が加速するだろう。「車での生活が維持できない」ということになれば、若者は地方に戻れなくなる。東京圏の政令指定都市でも近郊部では車がないと生活ができない地域があるが、真っ先に空洞化するのではないだろうか。これは地方にとって深刻な問題だ。

現在地方自治体の首長が「安い車を売れ」と政府に要求することはない。税金が上がったとはいえ、まだ許容範囲なのだろう。もし、アメリカの要求に従って安い軽自動車が提供できなくなったときには政治問題化するかもしれない。地方にとっては死活問題だ。

現在審議が止まっているTPPが通れば、日本は政策オプションとして軽自動車優遇ができなくなる。小さな車を作るのが不得意なアメリカの自動車メーカーにとって軽自動車は非関税障壁だからである。一方で、軽自動車が売れなくなったからといってフォードやGMのピックアップトラックが売れるということもないだろう。日本の狭苦しい駐車スペースにフォードは駐車できない。

そのうち地方から突き上げられ、アメリカの車も売れないという時代が来るのかもしれない。

クッキーモンスターの転向

セサミストリートの面白いところは、キャラクターの無意味な情熱だ。例えばカウント伯爵は数えることに異常な情熱を持っており、数えているうちに我を失ってしまう。人間の無邪気さの裏にはこうした狂気が潜んでいるものだ。同じようなキャラクターにクッキーモンスターがいる。クッキーが大好きなのだが、そのうち興奮して何でも(食べられないものでも)食べてしまうという設定である。

ところが、そんな無邪気なクッキーモンスターはもういないらしい。英語版のwikipediaによると、クッキーモンスターはその哲学を曲げてしまったらしい。「クッキーはときどき食べるもの」であり、果物や野菜も食べなきゃだめなのだという。以下、一節の抜粋。コルベア・リポートは深夜のショー番組で、ピーボディー賞はテレビのピューツア賞と呼ばれる栄誉ある賞なのだそうだ。

2008年6月19日、コルベア・リポートに出演したクッキーモンスターは再び「クッキーは時々食べるもの」だと説明した。彼はスティーブン・コルベアのピーボーイ賞を食べようとした。コルベットは興奮して、なぜクッキーモンスターはクッキー賛成の立場を捨てたのかを訪ねた。スティーブンの聞いたところによると、クッキーモンスターの転向のせいで果物が子供の大好きな食べ物になってしまったそうだ。スティーブンはクッキーモンスターがクッキーラベルピンを身につけていないことも批判した。 クッキーモンスターは70年代80年代は狂った時代で、自分はロバート・ダウニー・ジュニアのクッキー版だったと主張した。クッキーモンスターはピーボーイ賞(丸いメダルで小さな台座が付いている)はクッキーなのかと訪ね、コルバートがショーの終わりに戻ってくると、賞は消えておりクッキーモンスターは口を拭っていた。

背景にはアメリカの子供の栄養知識の不足があるのだろう。アメリカ人は(日本人に比べて)家庭の味にとぼしく、人によっては栄養の知識が全くないまま育つこともあるという。子供の教育を担うクッキーモンスターもこうした教育的配慮とは無縁でいられなかったことになる。いわゆる「政治的配慮(ポリティカルコレクトネス)」で、日本でいうところの「コンプライアンス」だ。

ちなみに、クッキーモンスターの一番好きなクッキーはチョコチップであり、二番目はオートミールクッキーだそうだ。日本語版のwikipediaはクッキーモンスターに対する情熱はあまりないらしく、ほとんど記述が見られない。

若者のチューイングガム離れ

政治ネタばかり書いていると心がぱさついてくるので、お菓子について調べてみた。面白いことにビスケットが3年で13%も消費を伸ばしているのだというのだ。なぜ今頃ビスケットが話題になっているかというと、オレオやリッツなどの製造がヤマザキからモンデリーズに移管されるためだ。毎日新聞が伝えるところによると、モンデリーズがターゲットにしているのは40〜50歳代なのだという。意外と高齢化している。

お菓子業界では常識らしいのだが、東日本大震災以降カンパンなどの売り上げが伸びていた。だが、飽きっぽい日本人は3年で買うのを止めてしまったようだ。ではなぜビスケットが再び伸びているのか、その理由は分からなかった。画期的な新商品が出たという話も聞かない。

となるとビスケットの影で泣いているお菓子もあるに違いない。おせんべいが減っているのではないかと予想してみたのだが、それは間違いだった。お年寄りが増えて米菓の売り上げは好調らしい。

もちろん売れ行きが悪くなったお菓子もある。チューイングガム・アメ・洋菓子などである。グミがアメの中に入っておりアメ分野の売り上げをカバーしているようだ。

洋菓子(ケーキ、カステラ。ドーナッツなど)はコンビニでコーヒーと一緒に売られているのでさぞかし人気なのだろうなあと思ったのだが、チョコレートなどにシフトしているのだという。気軽に食べられるものが好まれているということになる。現代人は優雅にケーキなんぞ食べている時間はないのだろう。勝手なイメージだが「スマホ片手に食べられるもの」か「お年寄りに好まれるもの」がよいのかもしれない。チューイングガムや飴のように食べるのに時間がかかるものは好まれないのである。

チューイングガムや飴のコマーシャルは、売り上げを落とさないためにやっているようだ。だから「息がきれいになる」などと機能性ばかりを唄っているわけだ。

お菓子業界では二極化も進んでいるようだ。

例えば、贈答品としてのお菓子の需要が高まっているらしい。お年寄りから子供まで誰でも楽しめるからだろう。一方で地方の小さなお菓子メーカーは苦境に立たされているところもあるようだ。やはりお土産にするなら老舗か誰でもよく知っているメーカーのものが選ばれる。地味なメーカーは淘汰され、大きいところだけが生き残るというのはなんとも世知辛い話だ。

手軽に食べられるスナック菓子が喜ばれる一方で、町の小さなケーキ屋さんや地方の小さなお菓子どころなどは苦しい状態に置かれているのかもしれない。例えば、専業主婦が少なくなると「ホットケーキミックスを使ってカップケーキを手作りする」みたいなことが贅沢になる。すると子供たちはスナック菓子やチョコレートに移行するだろう。一方で「セックスアンドザシティに出てきました」みたいなカップケーキが流行ったりする。

個人的にはマシュマロ好きなのだが、ほとんど店頭で見かけることはなくなった。コンビニにも置いていないところが多い。一方で、最近ではドミニク・アンセル・ベーカリーのフローズンスモアが話題になった。マシュマロの中にアイスが入っているというもの。古くからのお菓子が消える一方で、トレンドものが出てくるという状況になっているようだ。マシュマロは女子が大好きなコラーゲンが入っていると言う人もいる。「機能性訴求」は不調の証なのかもしれない。

気軽にスイッチングできるお菓子は飽きられてしまってはおしまいである。そこでメーカーは新製品作りに熱心に取り組む。しかし、日本人の飽きっぽさは世界でも例がないらしい。コンビニ菓子の中には季節ごとに新しい風味の商品が出るものがある。例えば、キットカットのように外国人から珍しがられているものもある。抹茶や紅芋など珍しい種類のキットカットがあるのは世界でも日本だけなのだそうだ。外国人の中には甘いマメ(つまりあんこのこと)を気持ち悪がる外国人もいるので、案外こういうのがクールジャパンだったりするのかもしれない。

専業主婦を動員する教育の強靭化計画

政府がこのほど教育の強靭化計画をまとめた。主に「ゆとりとの決別」が話題になったやつだ。若い世代からは「ゆとりは間違いだったのか」という怨嗟の声が挙っている。

だが、実際には間違いを認めておらず「知識の量を落とさずに、考えさせる教育を実施する」となっている。両方とも否定できなかったわけだ。「何が問題なのか」分からないが成果は挙っていないので新しい方式を採用するということになっている。

これは役所がよくやる「両方を取る」というやつだ。財政再建も経済成長(政府のいう経済成長とは要するにバラマキを意味する)を両方やるみたいな感じで、どちらも中途半端に終わることになりそうな内容である。

どちらもやるわけだから当然負担は教員にかかる。ゆとり教育のときも「マニュアルが欲しい」みたいなことを言っていた先生たちは、今度は「生徒が積極的に学習するための方法論」についてのマニュアルを要求するのだろう。

〔学校の指導体制の充実〕

教員が総合的な指導を担う日本の学校の特徴を生かしつつ、日本のこれからの時代を支える創造力をはぐくむ教育へと転換するとともに、複雑化・困難化する課題に対応できる「次世代の学校」を構築し、教員が今まで以上に、一人一人の子供に向き合う時間を確保し、丁寧に関わりながら、質の高い授業や個に応じた学習指導を実現できるようにするべく、教職員定数の戦略的な充実を通じ、学校の指導体制を充実させます。

この方針に従えば、先生は雑務をこなす時間がなくなる。そこで期待されているのが「周囲のサポート」である。こんな項目がある。いっけん良さそうな方針だ。

〔「地域とともにある学校」への転換〕

地域と学校の連携・協働の下、幅広い地域住民等(多様な専門人材、高齢者、若者、PTA・青少年団体、企業・NPO等)が参画し、地域全体で学び合い、未来を担う子供たちの成長を支え合う地域をつくる活動(地域学校協働活動)とコミュニティ・スクールを全国的に推進し、高齢者、若者等も社会的に包摂され、活躍できる場をつくるとともに、安心して子育てできる環境を整備することにより、次世代の地域創生の基盤をつくります。

例えばPTAが入っている。教育予算は増やせないが、現場への要求は強まる。だから、ボランティア人材で補おうというわけだろう。最近では「PTAは強制加入ではない」という認識が広まりつつある。仕事をしている人が増えたわけだからPTAには参加できない。しかし「子供を人質に取られた」ような状態で加入せざるを得ないという不健康な状態が続いている。結果として、PTAからの離反が起きているわけだ。

表向きはどんな職業の人も教育サポートに参加すべきなのだろうが、実際には専業主婦にストレスがかかるのは目に見えている。「私は働いているし、あなたたちはどうせ暇なんでしょう」と上から目線で断ってくる人たちに対して「結局、ただ働きさせられるのは私たち」と不満を募らせる主婦も増えるかもしれない。

文部科学省の方針は敗戦直前の日本軍に似ている。何か方針は間違っていたようだがそれは認められない。過去の責任問題になりかねないからだ。ということで新しい方針を作った。しかし兵糧は不足しているので、国民を動員する。与える武器は竹槍のみである。

とはいえ表向きには反対しにくい。「子供の教育に参加しないのか、お前は非国民だ」などと言われかねない。日本政府は全体として労働者の非正規化を促進した。その結果両親とも子育てに時間が取れなくなった。しかし、今度は教育にもお金を裂けないから学校にも協力しろと言っているのである。

政府にとって専業主婦とは介護も子育ても家事も無料でやってくれる便利な存在なのだろう。ある意味使い捨てられる外国人実習生に似ている。こういう政府が「公共」を教えたいと言っているのだ。公共は大切な概念だが育まれるべきもので強制されるものではない。政府が考えているのは公共への自主的な協力ではなく、経済的な動員なのではないかと思う。

日米は同盟関係にないという説があるらしい

他人のTwitterというのはなかなか勉強になる。今日は「日米は軍事同盟を結んでいない」という人がいた。その根拠になっているのは「日米は(軍事)同盟条約を結んでいないからだ」ということだ。これに対して「同盟というのは重層的なものであって、軍事同盟だけを指している訳ではない」と反論している人がいた。

なんだかすっきりしない。いろいろ調べて分かったのは、この単純そうな問題ですらタブー視された歴史があったということだ。これを健全に語れる状態に戻さないと、後々ややこしいことになるのではないかと思えるのだ。そもそも「語れなかったことが、今の私たちの議論をややこしいもの」にしている。

まず「日米は軍事同盟関係を結んでいない」というのは、従来の政府の見解だったようだ。なぜなのかはよく分からないが、日米安保の改訂に大きな反発があったので政府がタブー視していたのではないかと考えられる。

これが変わったのは大平首相の頃だそうである。学術的にまとめられた文章は見つからず、なぜかYahoo! 知恵袋に書かれている。Wikipediaには後任の鈴木善幸総理大臣が「やっぱり日米安保は軍事同盟ではない」と発言して伊東正義外相が抗議の辞任をしたのだということが書いてある。どのような党内対立があったのかは分からないが、1980年代の初頭までは「あれは軍事同盟なのだ」と言うことが半ばタブー視されていたことが分かる。

ある国会議員(伊東正義外相の話はこの人から聞いた)によると、永田町ではこれで「日米同盟は軍事同盟」というのが定説になったようだが、巷ではまだ「あれは軍事同盟ではないので、日米は同盟関係にはない」と信じている人がいるということになる。つまり、「日米の関係が何なのか」ということや「同盟とはそもそも何なのか」ということすら、実は世間的な統一見解がない。少なくとも当時の見解の相違を引きずっている人がいるのだ。

では、条約のパートナーはこの件をどう見ているのだろうか。アメリカ政府のウェブサイトには「アメリカの集団的防衛の枠組み」というセクションがあり、日本条約という項目がある。

まずは、日本ではいろいろとごちゃごちゃ言っているが、日米安保条約は集団的自衛の取り組みなのだということが分かる。「限定的」というのは「憲法に沿う形で」と書いてあるが、あくまでも「日本の行政権の及ぶ範囲では相互の攻撃を自国の攻撃と見なす」となっている。アメリカの認識としては「日本はアメリカを助けませんよ」は通らないことになる。

であれば、昨年夏のあの一連の議論とか、これまでの政府見解って何だったのかということになる。一方、安倍さんは領域外でも協力すると言っていたが、あれは日米同盟の枠外だということになるが、大丈夫なのか。また、日本はオーストラリアやインドと相互防衛条約なんか結んでいないのだから、中国の封じ込めなんかできない。あの議論の混乱を見ると、安倍さん自身が枠組みについてよく分かっていなかったのではないかと思えてくる。

ただ、この表にあるからといって、実効的な同盟関係にあるというものでもないらしい。例えばリオ条約の項目にはキューバが含まれている。長い間国交がなかったのだからアメリカとキューバは同盟国とは言えない。Wikipediaではキューバは除名されたと書かれているのだが、アメリカ政府のリストはアップデートされているらしいので(ページの下にいくつかの国が加えられメキシコが取り除かれたと書いてある)形式上は同盟関係が生きているのだ。

またANZUSの中にはニュージーランドが入っているが、ニュージーランドが非核化を進めたために、ニュージーランドとの相互防衛協定は実質的に失効しているのだそうだ。にも関わらず「集団防衛の枠組み」の中にはニュージーランドが残っている。

いずれにせよ、日本では内と外で議論を使い分けた結果つじつまが合わなくなり、後世の人たちが苦労するという図式があるようだ。これが幾重にも積み重なり、国防の議論を難しくしているのだろう。今回はたまたま「同盟って何」という点に着目したのだが、こういう議論がたくさんあるのだろう。

過去の政府見解は正しかったと言いたい気持ちは分かるし、政治家はなぜ放置していたのかと非難されたくない気持ちもよくわかる。しかし、安全保証の議論を正しい道筋に戻すためには、与野党ともにこれまで議論を錯綜させたことを国民に詫びてはどうだろうか。これは日本の安全保障上、かなり重要なのではないかと思う。