日本人とお得感

正月に面白い話を聞いた。近所にスーパーマーケットが2つある。西友と国内系である。西友はアメックスのクレジットカードを作っており3%の割引が受けられる。Everyday Low Price戦略を取っており「いつ行っても安い価格で買え、加えて3%の割引が受けられる」という条件だ。一方国内系はレシートデーというものが決まっておりその日に買い物をしてレシートをためると20000円で1000円の金券が返ってくる。

「どちらが人気高いのか」という話である。結果的に選好されているのは国内系だ。いくつかの理由がある。

最初の理由がそれが「割引」ではなく金券のキャッシュバックだという点にある。苦労してその日に買い物しなければならないので「働いた感」が得られる。日本人は「苦労して稼いだ」という感覚が大好きなのだ。このブログでは「わざわざ列に並ぶのはなぜなのだろうか」とか「残業して死にそうになるのはどうしてなのか」などということを考えてきたのだが、苦労して稼いだ感が得られるからなのだろうと考えると納得できる。日本人は一億層マゾヒストなのである。

次に「この日にしか安く買えない」というのが行動のインセンティブになっているようだ。これはファッション業界のセールなどでも一般的だったのだが「節約志向」が一般化するに従って、もっとも強い購買のインセンティブになってしまった。つまり、セールでなければ売れないのだ。Everyday Low Priceにはこのような動機付けはなく魅力が損なわれるようである。アメリカはこうした格安店がカテゴリーキラーとなったが、日本はみんなが一様に貧しくなったために、カテゴリーキラーだらけになってしまったことになる。

さらに「専業主婦」という事情もある。クレジットカードが夫の口座に紐づけられていると3%は夫の管理になってしまう。すると何に使うかについて夫が厳しく干渉する可能性がある。しかし金券はへそくり感覚となり「好きなものが買える」という感覚が得られる。アメリカ人は個人のカードでお買い物をするのでこうした感覚がわからないのではないだろうか。苦労して特定の日付にでかけるという仕事の対価として5%の割引が得られるということになってしまうのである。

日本人はよく管理されているので、好ましい行動を取った時に褒めてあげるという手段がよく作用することがわかる。「いい子にしていると飴玉がもらえる」ということだ。飴玉とは自分だけの利権である。集団の目を盗んで個人に利得を与えることが動機になるのである。

日本人の勤勉さは美徳と考えられるのだが、これには裏面がある。Amazonのように会費をとって「明日届きます」というような施策を取ると、確かに利用頻度は増えるかもしれないのだが、配送が1日遅れただけで腹を立てて運送会社を罵倒したり、逆切れした配送会社が荷物を叩きつけたりすることが起こる。「当然の権利」をお金で買っているという感覚にしてしまうと、主人であるという感覚が過剰に働くのだろう。

よく飼い慣らされているという感覚は裏返すと「主人であれば何をしてもよい」という感情と表裏一体になっている。これは、臣民型の国民に「主人」という感覚を与えてしまうと傍若無人に振舞うというのと同じようなことなのだろう。

 

iKonって誰?

一億円の「裏金」で揺れたレコード大賞を興味本位で途中まで見た。新人賞の下りで知らない人たちが4組出てきて、結局日本語があまりうまくないiKonという韓国のグループが学芸会のようなラップ(いちおう日本語らしい)で最優秀新人賞をとった。検索してみるとエイベックスが韓国のプロダクションと組んで作ったレーベルの新人らしいことがわかった。韓流ブームはすでに去っており今更感が強いなあと思った。エイベックスは浜崎あゆみとExileが牽引してきたが、今は目立った稼ぎ頭がいなくなりつつある。そこで、新人に箔をつけようとして話題作りを狙ったのだろう。

さて、これだけだとブログにならないのでかなり無理矢理ではあるがいろいろ考えてみたい。今回のレコート大賞の特色は誰でも知っている曲が「企画」扱いされていたという点だ。PPAPとパーフェクトヒューマンである。

そもそもレコード大賞は優れた音楽や人気のある音楽を讃える賞ではない。レコード会社のプロモーションが上手くいった曲を讃えるという内輪の催事である。ところがPPAPのプロモーションにはレコード会社は関与していない。去年のクマムシの「暖かいんだから」にも片鱗が見られた。こちらはもともとはCMだが、流行はネット発であり、レコード会社の関与は後追いになっている。

レコード大賞というのは本来はアーティストが苦労して作り上げた芸術性の高いアルバムに対して贈られる賞だ。まずはティザー(焦らし)から始まり徐々に情報を解禁し、最終的にヒットに結びつけるのである。だから「ネットでたまたま当たった」ものは「単なる企画」に過ぎないということになる。

だが、実際には世間はレコードに大した関心は持っていない。幼稚園児から大学生くらいまで真似をするのは、パーフェクトヒューマンとか、恋ダンスとか、PPAPなどの企画ものだ。企画の特徴は「短くて覚えやすく、真似がしやすい」という点にある。

同じようなことはゲームでも起きていた。隙間でできる「ライトゲーム」が流行の兆しをみせていたアメリカと違い、日本のターゲットはゲームオタクであり「こなしがい」があるゲームが良いのだとされていた。これは観測していた人たちがゲーム雑誌関連の人たちだったからだ。業界のお友達が作った流行が核になっていたわけだ。

しかし、実際に起こったのはゲームオタク層の凋落だった。彼らは特殊で暗い人たちだと考えられるようになり、ライトゲームが市場を席巻することになる。「アルバム」にあたるコンシューマーゲームは開発費が高騰した(高速のCPUで高い解像度のモデルを回すためである)結果、スタジオが閉鎖された。代わりに出てきたのは一回あたりの開発費が低いが、だらだらと開発が続くケータイ型のゲーム開発方式だったのである。

いずれにせよ、レコード会社と世間は乖離している。ゲームレベールがなくなることはなかったが、規模はかなり縮小した。同じようにレコード会社が今の規模に止まることはなく、YouTubeのプロモート会社やプロダクションのようなところが台頭してくる可能性があるのではないかと思われる。

テレビは流行の発信地から、ネットでできた流行をキャッチして広げるという役割に変わりつつあるのではないかと考えられる。同じことは政治の世界でも起きている。現在は政府の言い分を伝えるのがNHKの役割だということになっている。NHKはそのために全国にくまなくネットワークを張る。これを支えるための資金をどう捻出するのかということが問題になっており、テレビだけでなくパソコンやスマホにも課金しようというような話が真剣に語られている。

これをレコード会社に当てはめると、AKB48の人気を保つために、国民にアルバムの購入を義務付けるというような話だ。だが、国民はAKB48を好きになる義務はないわけだ。つまり、国民を洗脳して一つの曲を聞かせ続けるということは少なくとも自由経済社会では不可能なのだ。

いったんドミナントな地位についた会社はなかなかその地位を降りられない。資金力が豊富にあるのでいろいろな策を講じてしまうからだ。そこで1億円払って音楽に箔をつけるというようなことが行われるわけだが、結果「それよく知らないんだけど」ということになってしまう。

レコード大賞の凋落は間接的にレコード会社が影響力を失いつつあることを暗示している。と、同時にNHKの情報発信者としての地位が凋落しつあることが、受信料の話を聞いているとよく分かる。「騒いでいる人たち」が問題なのではなく、騒がなくなった人たちが問題なのだ。

現状だけをみて悲観しないほうが良い

9月からダイエットを始めて4kgほど痩せた。だいたい1ヶ月で1kgというスローペースだ。ダイエットに成功したよということが言いたいわけではなく、現状をみて「どうせ無理だ」などと思わないほうがいいと思うということを書きたい。

ダイエットのきっかけは写真だった。久々に写真を撮影してみて「ああ、これはひどいなあ」と思ったからなのだ。10kg以上太ってしまい、鏡も見なかったし、毎日同じズボンをはいていた。なんで写真を撮影しようと思ったのかはよく思い出せないのだが「現状を確認」するのは大切なようだ。

とはいえ「やせられる」とは思っていなかったので、最初は太っても大丈夫な服装を探そうとしていた。ということで、一番太った時点で古着屋に行き280円で2枚のズボンを買った。だが、これは良くなかった。UniqloとH&Mなのだがペラペラのズボンは体型を悪く見せるのだ。余計悲しい思いをすることになった。

ということで、ズボンをいくつか買って、同時に毎日続けられることをやることにした。

  1. 「内臓脂肪を落とす」というお酢を飲む。最近では酢が入った飲料が売られている。
  2. 脂肪を燃焼するというお茶を飲む。苦目に煮出したお茶を一リットルほど飲んだ。お茶にはカテキンが含まれており、運動時の脂肪燃焼効率が少し上がると考えられているらしいのだが、当初は水分を取れば脂肪の排出が進むだろうとだけ信じていた。
  3. 毎日一時間以上歩く。歩くときに姿勢を改善すると運動効率が上がる(らしい)。
  4. 寝る前に数セット軽い運動をする。自重でできる腹筋、スクワット、腕立て伏せのみ。筋力アップというより姿勢改善の効果が大きいものと思われる。
  5. おやつをできるだけ控えてバナナに変えた。バナナにはカリウムがあり水分の排出が促進されるという。

一応体重計にも乗ったのだが、体重の減りはそれほどでもなかった。毎日が「誤差の範囲」である。体脂肪率に至っては今に至るまで変わっていない。変化は体感的なもので、ベルトの穴が1つだけ動き、胸周りがパツパツだったジャケットが入るようになり、ギリギリに設定していたジーパンにはシャツが入るようになった。

この途中から衣服を大量に処分したことを後悔するようになった。その反動でかなり洋服を買ったのだが、これもサイズが大きくなれば着られなくなってしまう。かなり無駄なことをしたことになる。現場を見てこれが未来永劫続くのだとは思わないほうがいい。と、同時に鏡に映っている自分をみて腹を立てるのもやめたほうがいい。それは時間の無駄になる。

体型は自己イメージを規定している。過去にとらわれて現象を見ないと改善もできない。現実と自己イメージを切り離すこともできるのだが、現状を変えることはできない。かといって一足飛びに改善を目指すとかなりがっかりすることになるだろう。

変化は起こりえるが、それは目に見えないかもしれない。かといって、それは何も変わらないということではないのだ。

と同時に、毎日お茶を飲んり歩いたりするのを「努力」というのも違うのかなあと思った。それは単に生活習慣を変えたわけで、目標に向かって努力をしているというわけではない。現場を見て生活習慣を変われば、当たり前のことだが、状況は変わるのである。

 

千葉市役所の嘘

千葉市役所が市長への手紙で現場が嘘を重ねたという経緯を書いたのだが、結局業者の首を切って新しい業者を入れることで状況が改善した。現在のトイレはきれいに掃除されており、トイレットペーパーが切れることもなくなった。なんでも言ってみるものだとも思う一方で、結局業者さん次第なのだなという複雑な気持ちにもなる。


最近、オリンピックや築地の問題を通じて「なんで役人はあんなに簡単にバレる嘘をつくのか」と考えることが多くなった。マスコミはオリンピックや築地市場で「視聴率が取れる」ことがわかってしまったために厳しく監視しているのだが、実は同じような話はいくらでも転がっている。単に注目されないだけなのだ。

今回の問題は、おそらく炎上しないであろう「近所の公園のトイレ問題」である。現場は千葉市若葉区と稲毛区の間にある六方調整池に附設されている公園なのだが、水路の一部なので下水道維持課が運営管理している。千葉市は台地を流れる川を都市排水を流す通路に使っているようで、その一端が公園化されているのだろう。

そこのトイレにはいつも紙がない。そこで担当部局に電話をしたのだがいっこうに補充される気配がない。メールで通報する「市長への手紙」というシステムがあり、そこにも連絡してみたが音沙汰がなかった。

そこで「どうして対応してくれないのか」ともう一度電話をしてみた。すると驚くべき回答があった。「管理業者に問い合わせた結果、きちっと処理されていることがわかった」というのである。担当者は写真付きのレポートももらっており「何もしていないということはありえない」と職員は胸を張るのである。

だが、それは虚しい嘘に過ぎない。実際には数ヶ月に渡ってゴミが放置してある。僻地にある公園なのでめったに人が来ない。だから、お金を出して掃除をしたくない気持ちはわかる。

さらに、蹴飛ばした(蹴飛ばしたのは僕)ティッシュの箱もそのまま置かれている。紙がないからティッシュを持ち込んだ人がいるのだろう。この箱も数ヶ月置いてある。つまり、本当に誰もケアしていないのである。もしかしたら誰も使ってさえいないのかもしれない。

さらにホルダーには木の枝(多分桜なんだろう)がかかっていた。これも数ヶ月間そのままになっている。誰かがなんとかしようとした努力のあとは見られる。担当者は「トイレの紙も変えてますよ」と言っていたので、担当者が嘘をついているか、業者が嘘のレポートを出していることになる。が、誰が嘘をついているのかはわからない。

業者が一方的に嘘をついている可能性もあるのだが、市役所の職員が見て見ぬ振りをしている可能性も否定できない。業者は仕事をしなくても済むし、市役所もいちいち現場をチェックしに行かなくても済む。それはみんなにとって「優しい嘘」なのだ。

築地・豊洲の移転問題など騒がれる事件の裏には嘘がある。これを外から見ていると単に嘘にしか見えないのだが、実際には仲間内の「優しい嘘」である可能性が高い。見て見ぬ振りをすることで誰もが傷つかずにすむ。

そもそも誰もこないような町はずれに公園が整備されたのはなぜなのだろう。それは前市長の時代に原因がある。鶴岡市長は最終的に道路工事の収賄で逮捕されてしまうのだが、工事業者と市の関係者が握り合って「おいしい思いをする」ことが常態化していた。もともと東京からの住宅難民を受け入れるために農地や漁村が高く売れたというあたりからこの「優しい関係」は続いていたようだ。高度経済成長期が終わり土地バブルが終焉すると、仕事を求めた業者たちは「公園や道路の開発」などの仕事を欲しがるようになった。そこで川の周りの「環境を整備する」という名目でお金を使ったではないだろうか。

この「優しい関係」は千葉市が政令指定都市になってからも続き「さいたま市には負けられない」という名目で大きな建物の建築ラッシュにつながる。いくつもの別口のお財布が作られて赤字が隠蔽されるという事態になった。これについては現市長の有名なブログ記事がある。

千葉市民が「これはいけない」と気がつくのには市長の逮捕というイベントが必要だった。それでも自民党市議団は「借金にはいい借金と悪い借金がある」と言い続け、ついに自浄作用が発揮されることはなかったのである。

だが、嘘によって守られるのは市長と業者だけである。市職員はお守りだけを押し付けられるのだから面白くない。しかし、市職員はメンテナンス業者に仕事をあげる立場にある。市長と業者は施設を作れば儲かるのだし、市職員は業者との間に別の優しい関係を作る。

トイレの紙というのは別にどうでもよいことなのだが、裏にはオープンになっている危険箇所が放置されるという問題がある。市民は市政に関心がなく、公共工事に期待するような人たちばかりが群がってくる。当然出来た建物や施設のメンテナンスなどは「どうでもいいこと」だということになり業者に丸投げされる。

さて、この記事は「市長への手紙」に貼り付けてもう一度千葉市役所に問い合わせようと思うのだが、なんとなく嫌な予感はする。彼らが仕事をサボりたければ、トイレを封鎖してしまえばいいからだ。結局、市民が圧力をかけて「炎上」に持ち込まないと、どんどんと楽な方に流れていってしまうのである。


ここまでを2016年12月に書いた。結局、市役所は「きちんと対処してゆきます」と書いてきたのだが、状況は改善されなかった。そこで担当部局に電話をしたところ「そんなところまで手が回らない」と言ってきた。市長への手紙は市長が目を通すのでそこでは「ちゃんとやる」と書いて実際には何もしなかったのだ。

だが、状況が変わった。業者が契約満了に伴って首を切られたようだ。業者が変わってからトイレはきちんと掃除されるようになった。結局市役所は謝罪もせず態度も変えなかった。結局業者を変えて何事もなかったように済ませたのである。多分、市長は「市職員はちゃんとやってくれている」と思っているのではないだろうか。

そのピザを諦めたら日本人は幸せになれる

小林某という漫画家が中国人が新千歳空港で騒いだ件について論評している。航空機がキャンセルになったのだが「なんとかして飛行機を飛ばせ」と騒いだのである。小林氏は「中国人は民度が低い」という。普段なら「そうだよな」と思うのだが、これを読んで「そもそも民度は高くない方がいいのかもしれない」と思った。それはドミノピザの件を思い出したからだ。

中国人が大騒ぎしたのは、彼らがシステムというものを信頼していないからだ。イレギュラーなことが起こると騒いで解決しようとするわけである。だが、日本人はイレギュラーなことがあっても騒がない。それは「自分たちでなんとかしよう」とはもはや考えていないからである。一歩進んで「自分たちでなんとかできるはずはない」と考えている人もいるかもしれない。日本人は個人の力を信じておらず、システムを過剰に信頼する。しかし、実際にはそれが正しいかどうかを理解できていないことが多い。

ピザ屋の件に戻る。彼らが寒空の下でピザを1時間以上待ちながら注文をキャンセルしなかったのはなぜなのだろうか。それは彼らが予定や見込みというものを絶対視しているからだ。ゆえに一度決めたものを諦め用とは考えず、ひたすら「早くピザが焼きあがる」ことを望んだ。

一方、店側も一度売上の立ったピザを諦めるということはしなかった。並んでいる人に「もうピザは作れそうにない」と告白して次回の割引券などを配るという選択肢があったのだが、そうはしなかったのだ。

一見「理性的」に見える顧客とピザ屋だが、両者の現状維持バイアスは明らかに狂気のレベルに達している。なぜならば一部の店舗では予約管理システムが停止しており、誰がどのようなピザを注文したのかはわからなかったからだ。つまり、通常のオペレーションではピザを焼くことも逆にピザをキャンセルすることもできなかった。そこは「現場の判断」でなんとかするしかなかった。だが、彼らは何もせずピザを焼き続け、客は待ち続けた。

「現場の判断」はのちに「責任」を生む。客も店も判断することを避けたのだろう。未知のできごとについて自らが進んで判断することを「リーダーシップ」という。日本人にはリーダーシップが欠如している。

実は「列に並ぶこと」は日本社会に蔓延する病のようなものだ。例えば正規雇用を得るために大学に進学するのも列に並ぶことだ。誰も4年後に正社員になれるかはわからないし、正規社員にも副業が許される時代である。だが、それでも借金してまでも大学に進学し、それができそうになければ第二子の出産を諦めという行為が広がっている。それは列に並ぶ以外の選択肢が見当たらないからだ。

さらにこの列は、結婚して子供ができたら退職するという別の道に繋がっている。女性が退職したくないと望んでも、列は途切れている。その列からはみ出すことはできないので、女性ができないのは列から離脱するのを先延ばしすることだけである。子供を産んでも列に残り続けた人は過酷な運命をたどる。システムをごまかした人というレッテルを貼られるからだ。道は先細っているのでライバルは1人でも少ない方が良い。

この列はドミノピザに似ている。みなシステムが壊れかけており「みんなの分のピザはないかもしれない」ということに薄々気がついている。しかし、今まで待っていた時間が「サンクコスト」になり、ピザをキャンセルしようという気にはなれないし、列を離脱したからといって別の食べ物にありつけるかどうかはわからない。だから、幸運に期待し、別の人たちが列をはみ出したら、背中を押して列を短くすることしかできないのだ。

たいていの苦しみは列の途中から「もっと早くピザを焼けよ」とヤジることくらいしかできないという現実から生まれているようにも思えてくる。

ピザがほとんどなくなっても、日本人は列に並び続けるのかもしれない。もう出来る努力は「列からはみ出さない」ことだけになっているからだ。列から出てしまえば絶対にピザは食べられないが、列に並んでいれば2人に1人はピザが食べられるという世界だ。この列に並ぶ努力は、例えば会社に遅くまで残って過労死寸前まで残業することになったりするのだろう。

ドミノピザに見る日本の生産性が上がらないわけ

昨日はドミノピザの騒動について観察した。クリスマスの珍事であり特に問題ではないように思える。だが詳しく見て行くと日本の生産性が上がらない理由が凝縮されているように思えた。下記詳しく分析したい。

無責任な本部

ドミノピザはアメリカの会社でありオペレーションもアメリカ式だと考えられる。つまり最初の要因は日本固有のものではなさそうだ。本社は支店を休ませずに働かせるという傾向があり、来た注文は全て受けてしまう。しかしながら無理な注文は支店の責任でキャンセル処理をさせる。当然損がでるわけだがそれを支店の過失として処理するのではないかと考えられる。ジャーナリストであればこの辺りが調査の要点になるだろう。

同じような構造はコンビニに見られる。売損じの機会を少なくするために24時間営業しているが、人の手当ては「店の責任」だと考えられ、売り上げが落ちれば店主が責任を取る(たいていは契約解除になるそうだ)ことになっている。本部はこうして高い収益を確保するわけである。

真面目すぎる現場

一方で支部は真面目すぎる。彼らは並んで捌ききれなくなった客に「キャンセルしてくれればお客様に請求が行かない」ということを伝えなかった。また、注文がわからないから高いピザを我慢して持って行ってくれとも言わなかった。もしピザの種類が少なければ効率的に裁くことができただろう。

これは支店に権限がないことから起こる問題である。日本人は「言われたことを黙ってやる」ことが美徳だと考えている。これが生産性の向上を妨げている。「現場の工夫」はペナルティの対象になりかねない。

これも実は日本の伝統ではなかった。トヨタは現場の工夫を職場全体で共有する改善方式で有名だった。つまり製造業の成功の仕組みがサービス業には受け入れられなかったことになる。

もしアメリカであれば「できないことはできない」として生産性が著しく下がるだろう。ところが日本人はまじめなので「現場で何とかしよう」とする。そこで同僚をカバーして慣れないことをやるというオーバーヘッドが生じる。これが蓄積するとシステムダウンが起こるが、たいていは現場を疲弊させるだけで済んでしまう。

こうした疲弊を見つけるのは難しくない。自分が受けた仕事はなんとしてでもこなそうとするので、家に持ち帰って仕事をしたり、タイムカードを押してからこっそり居残り残業をするということが起こるわけである。余暇や回復時間を削っているのだから生産性が上がらなくても当然だ。だが、近視眼的に目の前の仕事をこなすことだけに集中するので、全体的なことが考えられなくなってしまうのだ。

高いサービスレベルを要求する客

最後の問題は高いサービスレベルを要求する客だ。ドミノピザの客は「この時間にピザが受け取れる」という時間から1時間以上待っても「もういいや」とは言わなかった。ピザができるまで待ち続けたのである。当然「キャンセル料を恐れた」ということは考えられるわけだが、それ以上に「頼んだから食べられて当然だ」という気持ちもあったのだろう。普通の感覚では客の離反が起こるはずなのだが、それは起こらない。だから当然本部はなにもしないので、現場に恒常的な負荷がかかることになる。

また現場も「安い金でまともなピザが食べられるはずはないだろう」などとは言わない。アメリカのファストフードではまともな待遇は受けられないが、誰も気にしない。よい処遇を受けるための選択肢としてレストランがあるからだ。だが、日本人は真面目なので笑顔で接客しようとする。

タダ乗りされる社会インフラ

ここでまで見られた構図はしわ寄せが「いい人」のところに行ってしまうということだ。つまり一番損をするのは真面目に働いている現場の職員たちだということになる。ドミノピザでは店員が泣きながらピザを焼いていたそうだ。だがこれらは企業内の問題である。

だが、問題はそれだけではない。ドミノピザの場合は周辺の道路に路上駐車が蔓延したそうだ。客は安いピザを求めているわけだからお金を払って駐車をするはずはない。もともとデリバリーが基本になっているが「ちょっとした路上駐車」を黙認することでピザを半額にして人件費を削ろうとした。つまり、路上スペースが企業にタダ乗りされたのだ。

社会インフラのタダ乗りはいろいろなところで起きている。例えば、企業が福利厚生として提供すべき子育てなども社会にタダ乗りされている。いわゆる共有地荒らしが横行しているのである。共有地荒らしが問題にならないのは、共有地を管理するという感覚を持った日本人が減ったからだろう。政治が消費型になり受益者としての感覚しか持たなくなってしまったことになる。もともと日本人は共有地を厳しく管理しており、これも実は伝統の消失なのだ。

日本人は生活保護バッシングなどには熱心だがこれは「俺が貰えるべきだった金をあいつが受け取るのは許せない」という歪んだ感情に基づいている。共有地の維持はコミュニティの持続可能性に基づいた感覚だから、社会的議論が歪むのも致し方ないところではある。

問題は政治家ですら共有地に興味を持たなくなっているという点にあるかもしれない。統治するという感覚を失ってしまったからなのだろう。

ドミノピザ炎上

メリークリスマス! ドミノピザが炎上したらしい。とはいえピザが燃えたわけではない。

ドミノピザは1枚買ってお持ち帰りするともう一枚が無料になるというキャンペーンをやっている。ずいぶん前からコマーシャルをやっていたので、うまく機能していたと思うのだが、これがクリスマスに重なった。普段からピザを食べる習慣のあるアメリカ人と違って、日本人にとってピザというのはお祭りの食べ物なので「クリスマスを特別なものにしよう」という人々が殺到したらしいのだ。システムがパンクして「どれだけ予約が入っているかわからない」という状況になった店舗が出たという。

本部の無責任体制が問題を大きくした

ドミノピザのカスタマーセンターに問い合わせたところ、今の時点では「どれくらいの店がこのような状況になったのかを公表するつもりも、何らかの謝罪をするつもりもない」ということだ。

ネット上では「キャンセルしてかえって来ればよいではないか」という声や「別の店にすればよい」という意見もある。ドミノピザは受け取らなかったピザについて料金は取らない(クレジットカードでも)と言っているのだが、これが周知されていたかはわからない。さらに、キャンセルはお店に連絡することになっている。だが、品物を作れないほど追い込まれており、システムがパンクし状況がわからなくなった店がキャンセル電話を受け入れられるはずもない。

本部は一切責任を取らずに店に責任を取らせるという仕組みになっており(キャンセルをお店に仕切らせるというのはそういうことだ)これが問題を大きくしたのだと言える。

しかし、よく考えてみれば注文を受けたのは店ではなく、本部が提供したシステムだ。店側から注文を断れる仕組みがないとすれば、責任の大部分は本部にあると言える。問題は警察が出動して周囲の駐車違反を取締まるというところまで大きくなっており、企業の社会的責任が問われるだろう。

注文を差配するのはシステムだがパニックボタンがない

実際に予約システムを触ってみた。システムは受取時間を自動的に裁くことにになっているので、やろうと思えばお断り(時間の提案)もできたはずだ。これがうまく機能しないのは例外処理が増えるに従ってテトリスのようにたまってゆくからだろう。こうしたオーバーヘッドは通常のオペレーションでは無視できるのだが、蓄積されると標準的なオペレーションでは捌けなくなる。それが積もって誰か他の人がバックアップに回るようになると無駄な時間が増えて、ついにはダウンしてしまうのだ。

つまりシステムダウンは線形的な予測ではなく、非線形的に起こる。ところがシステムはこれを線形的にしか予想しないので、ずれが生じたものと思われる。こうした非常時対応を機械で行うためには高度なAIが必要になるが、それよりもパニックボタンをつけた方が早い。

これがないというのはシステ設計の過ちと言える。

お客さんは馬鹿正直に待ち続けた

日本人が「お得」に弱くなっている様子は。決してピザが買えないほどお金がないわけではなく、なにか得なことがないと動かなくなっているのだろう。合理的に考えると、割高なピザを買っているだけ(1枚2500円のピザを買っているわけではなく配達員の給料を払っているだけ)なのだが、自分で動いてピザが安くなると考えただけでピザ屋さんに殺到してしまうのだ。

だが、日本人は一度「ピザの頭になったら何時間でも待ち続けた」ようだ。先に確かめたように品物を受け取らなければお金を払う必要はなかったのだが、電話番号やメールアドレスを取られているし、クレジットカード番号も収めたから支払を強要されるのではという頭があったのかもしれない。「並んでいたかが買えなかったから今日はピザはなし」で済む話なのだが、「ピザのお腹」になっていてほかのことが考えられなくなっていたのかもしれない。周りが騒がしくなり冷静な思考が奪われたとしたら、もはや集団思考状態だ。

企業は炎上しないと反省しない

今回の炎上案件はまとめ記事が作られたことで広がっているわけだが、もしかしたらほんの一部の地域で起こっただけなのかもしれない。しかしテレビ局が取り上げず、従ってドミノピザも謝罪会見などを開かないので、あたかも全てのドミノピザでオペレーションが滞ったかのような印象になっている。結局「炎上」によってしか企業は動かない。これが日本で炎上事件が頻発する原因になっているのだろう。

ドミノピザはソーシャルメディアに乗ることで宣伝を加速させようという戦略をとっているようだ。過去にはイケメン投票が炎上しキャンペーンを取り下げたことがあるそうだ。最近ではトナカイにデリバリーをさせテレビのパブリシティ効果を狙ったこともある。だが、クリスマスのドミノピザ炎上はそれ以上に広がってしまう。宣伝としては効果的だが、ブランドイメージにとっては明らかに逆効果だった。

チャンク化するコンテンツ

最近YouTubeばかり見ている。コンドールマンが毎週更新されており、それを見ていたら今度はミラーマンの第一回をオススメされた。それを見終わると、ジャンボーグAとかデビルマンとかいろいろな番組のお知らせが流れてくる。公式もあれば、海外の人が勝手に出しているものもある。これを見ているとかなりの時間が経過していることもある。

それを見ているうちに素人(最近はYouTuberと呼ぶのだが)の作ったハウツー物を見るようになった。例えば洋服の着方を指南するコンテンツがある。英語は平易なものが多いので、日本のチャンネルと英語のチャンネルを見たりする。だいたい1本が5分程度で見終わる。雑誌などではわからない「レイヤードの意味」などもわかる。雑誌は「脚の長さを隠すため」のようなあけすけなことは言わないが、YouTubeは普通体型の人がモデル兼編集者なのでリアルな声がわかるのである。

短いコンテンツばかりをみているうちにテレビが見られなくなった。TVerというアプリでドラマだけは途中から2本見た。『相棒』はTVerに出ていないのでリアルタイムで見るしかないのだが、最近「もういいかなあ」と思い始めている。脚本がつまらなくなった気がするし、過去作品も大麻騒動で見ることができなくなりそうだ。このまま埋もれてしまうのだろう。いったん熱が冷めると「あれ、なんでそんなに夢中なんだったっけ」という気分になる。

ビデオもそうなのだろうが、TVerも途中で止められるので時間があるときにみればいい。それでも一時間は長いなあと思うのだ。そもそも、人間の集中力は5分程度しかもたないのではないだろうか。ドラマだとヤマ場を幾つか作る必要があるのだが、YouTubeにはそれが必要ない。

テレビは時計代わりになっている。内容はほとんど見ていないということになる。

一方で、チャンク化していないために困っているものもある。古本屋でファッション雑誌を5冊買って来た。一覧するのだが全く頭に入ってこない。役に立つのは新しい服を買った時だ。そこでやっと似たような色味や形を探すのだ。しかし、雑誌というのは「モスグリーンの洋服」で検索をかけても記事を並べることはできない。そこでスキャンしてネットにアップしている。

「おい、著作権はどうした」という声が聞こえてきそうだ。最初はそのままにしていたが、最終的にはパスワードでプロテクションをかけた。画像のアドレスさえわかればダウンロードはできてしまうのだが、ロボットは入ってこられないし、一応「不特定多数は見ることができませんよ」という状態にはなっている。

考えどころなのはPinterestだ。モスグリーンで検索すると似たようなものが出てくるのでボードにまとめておけばあとで見返すことができる。ここには多分違法にアップした(引用という体裁にはなっていると思う)ものも含まれるわけだが、アップされない雑誌記事は単に古本屋に死蔵されるだけのものになってしまう。つまり、自主的な二次利用の仕方を考えないと盗まれてしまう恐れがあるのである。

雑誌の編集者たちには「記事コーディネート単体ではなくその一連の流れが大切」だと思うのだろうが、受け手にはどうでもよいことだ。仮に親切に編集者の意図に沿って理解しようとしても、あまりにも数が多すぎるので覚えきれない。繰り返し見ているうちにやっと印象に残るもののようである。これも記憶力や集中力と関係している。

もう一つの問題は「雑誌のコンテンツ」と「自分が作ったもの」の境がないという点だ。ファッション雑誌は購買という行為と関係している、つまり、雑誌のコンテンツを参考に自分のコーディネートが決まり、それを見直してゆくというプロセスになる。だから理想的には、これらが一つのページにまとめられることになる。例えば、WEARでは消費者と店舗スタッフのコーディネートが同じフォーマットで同じページに掲載されている。

こうしたことは映像の世界でも起こっている。ユーザーはプロが作ったTVerとプロの訓練を受けていない人が作ったYouTubeを同じ画面で見ている。そこにないコンテンツはそのまま忘れられてしまうのだ。

 

ASKAさんと藪のなか

思いついちゃったので書くのだが、抗議がきたら取り下げようと思う。お茶から覚せい剤が出るルートは3つだ。本人、警察、お茶の業者である。

仮説1;ASKAさんはまだ覚せい剤を持っている。自分の著作の宣伝をしたかったので、お茶に覚せい剤を入れて提出し、おかしなことを言って逮捕された上で「あれはお茶だった」といった。トイレにはスポイドが常備されていた。全てASKAさんの事前の筋書き通り、科捜研はお茶と尿の区別はせず、覚せい剤だけに反応した。当然、計画通りなので覚せい剤は抜いておいた。マスコミはASKAさんの動向を伝えたので出版される本の名前やこれからの音楽活動の宣伝になった。一度誤認逮捕されてしまえば、逮捕されることはなくなる。

仮説2:警察はとにかく彼を挙げるつもりでいた。そのため証拠を捏造した。しかしASKAさんは事前にそのことがわかっており、お茶をコップに入れる動画かなんかを撮影し「ほら、証拠があるよ」と言った。警察は隠蔽しているわけだから当然再検査しようなどとは言い出さなかった。普段から警察がよくやる秘密の手口だったが証拠があっては仕方がない。警察の策謀は失敗に終わった。

仮説3:実はASKAさんがよく飲んでいるお茶は中毒性を出すために薬が混ぜてあった。中毒になるとリピートしてもらいやすくなるはずだからだ。だから、お茶には覚せい剤に似た成分が含まれていた。

カジノの入退室管理にマイナンバーをという悪夢

恐ろしい記事を見つけた。カジノの出入りにマイナンバーカードをつかえばいいじゃないかというのだ。だが、なぜ恐ろしいのかわからない人が多いのだろうなあと考えると余計恐ろしくなった。

システムを作る時には機能、セキュリティ、ネットワークなどの要件を決める。マイナンバーカードの当初の目的は、国民の財産や収入を把握することだろう。つまり、国家が納税などを管理するためのものだ。当然国民には何の利益もないが、効率的な政府運営のためにいやいや協力してあげているというのが正直な気持ちだろう。

財産はプライバシーの最も重要なものなので、そもそも国家がそれを把握するのはどうかという議論があるが、安倍政権はとりあえずその議論は「ネグって」しまった。だが、もう決まってしまったことなので、あとは政府がことの重大さを十分意識した上で、なんとかしてくれることを期待するしかない。

だが、政府は国民のプライバシーをかなり軽く見ているようだ。そのあと様々なIDとしてマイナンバーカードを使ってはという意見が出てきた。IDとして便利だからだろうが、それは機能が次々と変わることを意味する。

ただでさえ厳しめの要件のあるマイナンバーシステムを年金の記録もれなどでおなじみの(記憶が確かならまだ解決していないはずだ)日本政府が実施するわけである。何か起きないと考える方がおかしい。ただ、やると決めた以上は、最善の努力を払ってセキュアなシステムを作るべきだ。

だが、政府は次々に新しい要件を加えようとしている。この例だとカジノの運営会社がマイナンバーシステムに接続するようになる。いわばパチンコ業者さんが銀行と同じようなシステムを扱うという提案だ。ポイントカードや消費税の払い戻しにも使うと言う話もあったので、小売業者にも開示するつもりだったのだろう。普通に考えるとどこかから漏れることになる。ごめんなさいでは済まない。

「要件を決めないままでシステムを作る」というのはプログラマにとっては悪夢でしかない。これをまともにやろうとするとセキュリティを甘くすることになる。技術力を結集して素晴らしいシステムを作るのも不可能ではないだろうが、お金と労力がかかる。要件が変わるたびにすべてやり直す必要が出てくる。こうした余分な費用はすべて国民の税金だ。役人の思いつきのためにいくら使うつもりだということになる。

過去の要件がすんなりわかればいいのだが、大きなシステムだと過去に何を決めたかがわからないということが起こる。担当者がいなくなったとか、定年したとか、過労でぶっ倒れたなどということはしょっちゅうだ。過去の要件がよくわからないままシステムを継ぎ足すことになるだろう。悪いシナリオしか想定できない。

多分、霞ヶ関の人たちは「お金を積めばなんとかなる」と考えているのだと思う。一次受けもシステムベンダーに頼めば何とかなると考えているはずだ。そうやって危険にさらされるのは国民のプライバシーだし、穴埋めをするのも国民ということになる。

だから、こうした思いつきのような提案は今すぐやめるべきだ。