IT系の営業がダークサイドに堕ちる時

日本のIT産業は「IT土方」と呼ばれる身分制なので、顧客と会社の接点である営業が、自分は顧客側の人間だと錯誤してしまうことがある。特に都心にかっこいいオフィスを構える広告代理店が相手だとそういう気分に陥るようである。

「がっつりプログラミング系」の会社だと、仕様書がきちんとあり、機能を定義したりして歯止めがきいたりするのかもしれないが、デザインという厄介な要素が加わるとわけのわからないことが起こることがある。これに広告代理店が加わるとさらにわからなくなる。

第一の要因は、デザインには必ずしも正解がないにもかかわらず、クライアントによってはいろいろと口をはさみたがるという点にある。

オーストラリア、カナダ、スウェーデンのデザイナーと仕事をしたことがあるが、彼らはデザインにメソッドがあり、最終的には「クリエイティブブリーフ」と呼ばれるサマリーを出して顧客に確認をする。海外では割と当たり前の手法なのだと思うし、日本人は白人系の外人の話はありがたがって聞いてくれるのでこの手法は日本でも成立する。しかし、日本人のデザイナーだとだめだ。日本人が唯一話を聞いてもらえるのは外人と英語で話をしている時である。ということで意味もないのに日本人しかいないミーティングに見た目の良い外人(つまり太っていない人)を連れ出したりするのも割と有効である。アジア系でも英語で話をしている人(つまりニューヨークに留学経験のあるタイ人とか)だと話を聞いてくれるが、下手な日本語を話す台湾人とかだと逆にナメられる。

だが、広告代理店はそもそもブリーフが成立しない。オブジェクティブがないからだ。日本人がオブジェクティブと呼んでいるのはクライアントに夢を見せるための曼荼羅のようなパワーポイントだが、のちにビジネス界でも「ポンチ絵」という名前がついていることを知った。これはマンガの昔風の表現だ。

彼らは必ずも数字によって成果物を判断しない。どれくらい商品の売り上げアップに貢献したということはあまり重要視されず、流行しているものを「あのライバル社がやっているあれ、うちでもできないかなあ」くらいのことになりがちだ。数字は成果を確認し反省点を洗い出すところに意味があると思うのだが、日本人は数字が出るとそれがコミットした最終ラインということになり責任問題に発展する。

この辺りから、正解がないのに理想があるということになるので修正に歯止めが効かなくなってしまう。理想はあるのだがそれがわからないという人が多く、会議体で決めたりすると誰も正解がわからないのに「なんか違う」ということになりがちである。

これだけでもややこしいのだが、さらに「広告黎明期から仕事してます」みたいなおじさんが入るとわけがわからなくなる。大抵アートディレクターなどと呼ばれている、海外からのかっこいい成果物に参ってしまって見よう見まねで覚えたような「職人」タイプだ。一度、神宮前の古いアパートを改装したコンクリート打ちっ放しのオフィスで(そういうところで働くのがかっこいいとされているらしい)「グリッドデザインの基礎」みたいなことをこんこんと説教され「いやウェブって幅が変わるから」と心の中でつぶやきつつ、表面上は目を輝かせながら「へえーすごいっすねえ」と言い続けたことがあった。レスポンシブデザインなどが出る前の話だ。

ITデザイン系の営業が難しいのは、こうした文化の間にある「バイリンガル状態」にある人が「自分がどっちにいるのか」わからなくなってしまうという点だろう。「ドキュメントドリブン」の世界と「センスドリブン」の世界の間でダークサイドに墜ちてしまうのだ。

広告代理店のオフィスに出入りしているうちに、MBAマーケティングなんかを読むようになり、いっぱしのマーケティング用語(なぜか全部カタカナ)を使うようになったら「ダークサイド」に堕ちてしまった証拠だ。本来ならデザイナーなりプログラマーのエージェントとして働かなければならないのだが、要件は聞いてこないで、代理店の会議で聞きかじったマーケティング用語でわけのわからないことを言い始める。が、こういう人は根が真面目なので、まだチームをぐちゃぐちゃにすることはない。「お付き合い」していればやがてプロジェクトはなんとなく終了して嵐は収まる。

厄介なのは「ITに憧れて入ってきた」というようなタイプだ。広告代理店には締め切りまで一生懸命何回でも修正して「頑張った感」を出すという奇習があるのだが、アートディレクターさんが乗り込んできて「メールで修正のやり取りをするのは面倒だ」と言い始めたことがある。その時にはプログラマーやデザイナーを犠牲にするわけにはいかないので(パソコンの前で色が変えられるということは絶対に教えてはいけない)キラキラ系の営業を人身御供に出した。会議室に缶詰になり、時々差し入れなどを渡してやり「広告って大変な仕事なんだねえ」などと感心してみせる。たいてい忙しくなってくると、なんだかわからない一体感みたいなものが醸成されて、幸せな気分になるようである。徹夜などすると何か脳内麻薬が分泌されるのだろう。

重要なのは、こうした「作品」は誰にも正解がわからず、そのまま消えていってしまうということだ。効果測定していないから当然なのだが、効果測定してしまうと価格なりの成果が出せていないということがバレてしまう。だからそれができないのだ。「管理料」という消費税みたいな費目もよくないと思う。お金をとった以上働かなければならないし、働いたら一生懸命感を出さなければならないので、最終的には過労労働につながるのかもしれない。とはいえ、営業は伝書鳩のようなもので技術にもデザインにも興味がないので、何もできない。となると、曼荼羅の精緻化が一大プロジェクトに発展したり、会議が演説になったりするわけだ。

つい最近、広告代理店で新入社員が過労死したという事件があった。まあ、ああいう働き方してたら過労死する人も出てくるだろうなあなどと思うのだが、そもそも「正解」が何なのか追求してこなかったドメスティックの代理店がいきなり海外系のエージェンシーと競合しようとするとそういう悲惨なことが起きてしまうのではないかと思う。

逆にいうと、それなりの広告測定をしているエージェンシーが出てきているということなのではないかと思うのだが、現在の状況はよくわからない。

日本人は空気を読むのが別に得意じゃない

海外で生活しているだろうと思われる人がTwitterで「日本流の空気を読むという文化が苦手」とつぶやいていた。これを読んでみて「別に日本人は空気を読むのが得意じゃないと思うけどなあ」と考えた。以下整理して行きたい。

まずこの人は「空気を読むのが苦手な人はどうしても言葉で説明しようとするが、言葉で説明するとそれは日本的ではないと言われてしまう」と言っている。つまり、他の人たちは「言葉なしで空気を読み合うのが得意なのだろう」と類推していることになる。

直感的に「それは他の人たちが自分の言いたいことを言葉で説明できないのに察してくれ」って言っているだけなんじゃないかと思った。だがそれは「無理ゲー」というものである。多くの場合、日本人は言葉を使って自分の気持ちや立場を表明するのが苦手だ。普段なら「なぜ言葉を使って説明するのが苦手なのか」ということを考察するわけだが、今日はちょっと違う方向に考えが向いた。

実は日本人(と括られている人たち)は自分たちのことを知ってはいるが、言葉にするのを避けているのではないのかと思ったのだ。言語による説得が行われるのは

  1. 「新しいことがあって、失敗する可能性もあるけど、達成度が高いよ」というような場面か
  2. 「みんなはこういうやり方になれているようだけど、僕は違ったやり方がしたいんだ」というような説明

の時だ。

これを一言でまとめると「新しいことへの挑戦」であり、その結果得られるのが「成長」だ。多分「言葉に出して説明したくない人たち」はそれが「失敗に終わる可能性」を恐れているのではないかと思う。失敗すると「なんか惨めな気持ちになるじゃん」と考えた経験がある人は多いのではないか。

こういう気持ちに最初に出会ったのはいつだろうかと考えたのだが、多分高校受験の頃ではないかと思った。高校は失敗できないので(浪人というのがほぼありえないから)公立校の場合「自分が絶対に受かる」ところを選びがちだ。するとそこに集まるのは「頑張ればもうちょっと上に行けたかもしれないけど、頑張らなかった」人たちである。彼らは「さらに高みを目指して大学受験しよう」などとは思わず「そこそこの地方の公立校にいければいいや」と考えてしまいがちだ。だから「いや頑張って違った体験してみようよ」などという人がいるとなんだか疎ましく、惨めな気持ちになってしまうのだろう。日本の学校教育はいわば「失敗できない学歴によるランク付け」なので、そういう人ばかりが製造されてしまうのである。

ここで「もうちょっと頑張ってみようよ」という人たちに言葉で説得されると「でも自分たちはどうせそんなに能力ないし」と言わなければならない。それはちょっと惨めなことだから言わないし言えないのではないだろうか。

大人になってくると様相が少し違ってくる。新人が「効率が悪いからやり方を変えてみましょうよ」などと提案する。しかし事情を知っている人たちは「いや、やり方を変えるとついてこれなくなる人が出てくるし」と考える。過去に何回か調整した末に混乱した苦い経験などを思い出すかもしれない、やり方を変えられない特定の個人を思い出すかもしれない。結局効率化を求めても面倒が増えるだけということになる。だが、それを言葉に出すと誰かの悪口になってしまうので言わない。そこで「察しろよ」などと思ってしまうわけである。

日本人が他人の気持ちを推察するのは得意じゃないというのは確実に言える。具体例を挙げろと言われたらTwitterからいくらでも実例が引いてこれる。たいていは相手の話を聞いていないし、聞いていても誤解している。賛同しているつもりでも実は自分のことを言っているだけという人も多い。総じてものすごく思い込みが強いし、自分たちが思い込みをしているということにすら気がついていない。もし日本人が空気を読む達人だったら、Twitterは今よりも居心地がいい場所になっているだろう。

もしTwitterが特殊な人たちの集まりだと思うなら、誰かの話を黙って15分くらい聞いていればいいと思う。「よくこれだけめちゃくちゃなことが言えるなあ」と感心することがよくある。ある分野については正確な知識を持っていても、その他はめちゃくちゃということがよくある。誘導すると怒られるので黙って話を聞くか「おうむ返し」を挟むのがコツかもしれない。

つまり「失敗するのが嫌だから今のままでいいじゃん」とか「あのうるさい人にあわせておけば丸く収まるんだからそれでいいじゃん」というのが空気の正体であって、別に相手の気持ちが読めているわけではないと思う。

しかしそんなことでは成長がないではないじゃないかと考える人も出てくると思うのだが、多分変化に伴うリスクを恐れているから日本は成長しなくなってしまったのだと思う。

ユナイテッドエアラインズの炎上

ユナイテッドエアラインズが炎上している。乗務員を乗せるために席が足りなくなり4名を抽選で選んだのだが1名が拒否した。そこで警察を呼んで引きずりおろしたのだが、その時に怪我をさせたらしい。怪我をした痛々しい乗客の顔がYouTubeなどで拡散して大騒ぎになった。アメリカでは「人道的でない」という批判が多かったようだ。

だが、この問題が日本ではちょっと違う捉えられ方をした。たまたま乗客がアジア系だったのだ。そこで、この人がアジア系だったから我慢させられたのだとか、選ばれたのはすべてアジア系だった(そんな報道はないのだが)というような話が拡散した。

これがSNSによって拡散したというのは間違いがないが拡散速度は一様ではない。ビデオには翻訳はいらないので瞬く間に全世界に拡散する。ところがそのビデオについて日本語で何が話されているかということは英語話者には伝わらないし、英語話者がビデオを人権問題として批判しているということも日本人には伝わらない。

こうしたことが起こるので、ユナイテッドエアラインズはローカル言語を話すことができるスタッフを常駐させて、ユナイテッドエアラインズの立場を説明させるだけでなく、つねにどういうリアクションが起きているかをモニターさせるべきなのではないかと考えた。

実際にそういう文章を書いたのだが「はて」と思った。日本人がボイコットしても会社は別に痛くもかゆくもないのだ。いつ炎上が起こるかなど誰にもわからないのだから、そのためにスタッフを常駐させるのはムダということになる。実際に株価は少し下がったものの、その後持ち直した。最近、経営効率が上がっていて、ユナイテッド航空の株は「買い」というレーティングが付いているのだ。

ニュースでは「ユナイテッド航空」と伝えられたが、この路線は実はユナイテッドエアラインズではない。実はユナイテッドエクスプレスというローカル路線(実際にはいくつかの航空会社の連合体)なのだ。多分、ローカル路線は最低限の機体と乗務員で回しているのではないかと思う。ギリギリの機体数で運行するからオーバーブッキングも増えるし、乗務員のやりくりもうまくいかないのではないだろうか。だから、オーバーブッキングした客を下すことができないと、収益が下がってしまうことになる。CEOは従業員向けのメッセージで「乗務員はよくやった」と言っている。つまり、そもそも乗客が支払っている料金では満足なサービスは維持できないし、そのつもりもないのである。

アメリカの航空産業はLCCが台頭して大手航空会社を軒並み破綻させた歴史がある。紙ナプキンに絵を描いて経営合理化を成功させたという逸話が残るサウスウエスト航空などが有名だ。しかし、結果として過当競争が怒りオペレーションに無理が出ているのだろう。一方で、お客さんの方も「1日休んで次の日に搭乗する」ということができないほど忙しくなっていることがわかる。つまり地方が疲弊しているのである。

しかし、問題は効率化だけではない。最初から席が足りないことがわかっていれば、搭乗させる前に「席が用意できなくなりました」と言っていたはずだ。つまり、いったん客を乗せた後で「乗務員がやりくりできない」ということがわかり、慌てて乗客を引きずりおろしたことになる。やっていることがめちゃくちゃなのだが、社員の士気も落ちているのではないだろうか。

警察当局(武装した保安担当者という報道とシカゴ市警察という報道がある)の対応も問題だ。こちらについては「問題を起こした人を調べが済むまで休職にした」という情報がある。今の所、なぜそんなことが起きたのかという後追い報道はない。日本人は普段から黒人が警察からボコボコにされる映像を繰り返し見せられているので「黄色人種でも同じ扱いを受けるんだな」と思ってしまうだろう。職員は「自分が怪我をさせられるかもしれないから」という理由で過剰防衛した可能性もある。テロの危険性が増しているので緊張を強いられる現場だったのではないだろうか。

たまたま一つの航空会社が起こした不祥事は「アメリカという国そのものの不信感」につながる。だが、これを経済的に是正することはできない。乗客は安い航空会社を求めており、投資家は効率的な運用を求める。かといってアメリカ当局が「アメリカは人種差別のない安全な国です」というキャンペーンを張るわけにはいかない。問題を起こしたのは民間の航空会社であり、政府が謝罪するような問題でもない。つまり、経済が疲弊すると国の持っている信頼が崩れていってしまうのである。

しかし、航空会社はそもそも問題を発見できないし、発見できたとしても経済的に「謝るのが得か損か」という判断になる。ここで判断を誤ってしまうと、裁判を起こされて過剰な制裁金を取られる危険性があるし、オーバーブッキングした客に粘られたら収益率が下がるということになりかねない。

アメリカにとって「ソフトパワーが大切だ」と聞いたはつい最近の事だと思うのだが、それも過去の話になりつつあるらしい。いう言葉を聞いたのはほんの数年前のことだと思うのだが、トランプがもたらした「アメリカの分断」を見せつけられ、黄色人種が安全に旅行できないかもしれないアメリカという図式まで見せられた後になってみると「アメリカって没落しつつあるんだなあ」という印象しか残らない。国のイメージというのは意外と簡単なことで崩壊するのだろうなあと思う。

United Airlines needs local SNS managers…

Many Japanese are upset to United Airlines because of one video footage which is spread over Twitter. Overbooking was tweeted more than 47000 times. I got impression that multi-national companies need local SNS managers not only to represent in the local languages but to monitor what is happening all over the world. Sometimes reactions over SNS are unexpected.

I see people are upset because it is violation of human rights in general but it gives some “different” reaction to Japanese people. Some took it is racial discrimination and attached because a face of beaten passenger is very familiar while not to know American is also upset.

This is misunderstanding because the Airline choose them randomly and there is no information about skin color. This case is completely different from the case of Michael Brown but it is just a minor detail” for some people. The only truth for them is that “An Asian’s beaten by police officers” like African Americans. So they expect Japanese would be treated in same manner. It can be quite harmful for US-Japan relation when Japanese have lost trust to the US because of recent Trumpism.

Unfortunately, a lack of information is filled with imagination. Some believes “All four were Asians”. I found a tweet explains it “rationally”.

  1. White people are excluded from the beginning.
  2. If the airline choose Black people, the company would be claimed.
  3. Yellow people is obedient and therefore they are chosen.

As you may notice, it is quite generalized. The US removes an ASIAN from the air plain and it would happen to us too.

However, this type of misunderstandings is invisible from English speakers simply because they can’t read Japanese. Also, Japanese can’t find out many Americans upset the case because it is wrongdoing.

This person, who has 86000 followers says he experienced overbooking because Japanese can’t complain in English.

This person who has over 60000 followers says the guy was an east asian.

I don’t think the video gives serious and immediate financial impact to the firm because Japanese are not their targeted customers. So they can let it goes till Japanese Twitter people find another topic to upset about. However the video may leave a vague impression that the US is divided and Asian is not welcomed.

I believe United Airlines needs to have local communicators to monitor local languages to avoid potential conflict which is caused by United Airlines.

I was quite impressed when I heard about the concept of “Soft Power” but it seems that it became a history only in few years.

PTAと日米文化の違い

菊池桃子さんのPTAは働く親にとって負担が大きいのではないかという発言が支持を集めているという記事を読んだ。日本ではPTAというと、タダ働きを押し付けられて気苦労ばかりというイメージが強い。もともとはGHQが押し付けた制度なのだが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

まず、これはアメリカの制度なのでアメリカでも問題が起きているのではないかと考えた。確かにPTAには加入しないでPTOを作る学校もあるということで一定の不満はあるようだ。PTAは全米的なピラミッド型の組織になっているようだが、それはいやだという人たちがいるのだろう。

ではPTAやPTOはアメリカでも嫌われているのだろうか。

これについてはアメリカ暮らしを経験した日本人がいくつかの体験談を書いている。まずPTA/PTOはそれほどの負担を求められない。どちらかというと「学校の教育に参加する権利を買っている」という側面が強いようだ。それだけではなく「PTAが寄付を募って先生に渡す」ということすら行われているという。つまり、無償労働だけではなく経済的なサポートもPTAやPTOの役割になっているようだ。これには教会のような寄付文化に慣れているという事情がありそうだ。

大きく違っているのは「アメリカ人はいやなことやメリットのないことはしない」という点である。このためそもそも「自発的に発生した集団でいやいや何かをやる」ということが存在しえない。

PTAに入ると学校の事情がわかり、寄付を通じて学校教育にも参加できるというのがメリットだ。その他、保護者との関わりを持つことができて「コミュニティに参加できる」こともメリットになっている。一方、活動に参加してもそれほど負担になるようなことはないという。

一方日本は強制参加であるうえに一部の暇な保護者たちや実力者に「タダ働きを強制される」ということになっている。中には親と学校の揉め事の仲介者として気苦労を背負わされるということもあるようである。誰がタダ働きを強制しているのかということは実はよくわからないが、先生や教育委員会と心理的に癒着してしまった上層部の人たちが「あるべきPTA像」という空気を押し付けてくるのが日本のPTAということなっている。

この裏側にあるのは「コミュニティに参加はしたくないが」「何かあったら自分の主張を押し付けてくる」人の存在である、いわゆるモンスターペアレントだ。普段から保護者たちとの間に親密な関係があればよいのだが、実は集団の中で孤立するケースは日本の方が多いのではないかとすら思える。

日本でPTAをなくすと多分「言いたいことがある時だけは騒ぎ立てるが、普段は何も協力しない」という親が増えるのではないだろうか。政治を観察するときに「消費者型の有権者」という絵が観察できるのだが、日本人のコミュニティに関する考え方を如実にあわらしている。自分たちが公共を運営して問題も共有するという意識は極めて希薄なのだろう。

そうはいっても「協力したくても協力できないのだ」という親も多いのかもしれない。それは会社組織が学校と同じようなフルコミットメントを求めるからではないかと思った。つまり働いている親は「会社という村」に所属することを求められ、その監視網に置かれる。その上保護者のネットワークに組み入れられてLINEで24時間監視されるようになると神経が持たなくなるのだろう。「どちらもほどほどに」というのは日本人にとって極めて難易度が高い。

この問題を考えていて興味深いのは「わがままな個人主義」であるはずのアメリカではチームワークを発揮してコミュニティが運営できるのに「集団主義で和を重んじる」日本社会の方が集団で孤立感を感じやすいのかということである。

最近「日本人の規範意識」について考えているので、ついその線から分析したくなってしまうわけだが最後にちょっと触れたようにコミュニティの関係が緊密すぎるという問題もありそうだ。「どうしてこんなことが起こるのか」ということを一度整理して考えてみるのも面白いかもしれない。

なおアメリカの学校の方が優れているというように取られてしまうと誤解を生むのでいくつか問題点もあげておきたい。給食が著しく貧相だったり、地区の財政により教育の内容に大きな格差があったりもする。公立学校は予算の捻出に苦労しているところも多いのではないかと思う。さらに最近では銃の問題があり学校で度々殺人が起きている。あくまでも日本のコミュニティを考察する上での参考であって、アメリカの学校制度の方が優れているなどというつもりはない。

つながりたい人々と都市の孤独

先日来、日本人が持っている規範意識について考えている。個人の中に内在する規範意識を持たずに、村落的な監視によって抑えられているというものである。現在の政治状況は村落的な監視が利かなくなった結果、個人の感情や思考が暴走したものであると考えている。これをいろいろと飴玉のように転がしていて、読んでいる人たちがどう思っているかということが気になった。とはいえレスポンスはないはず(その理由は後々考えるが)なので、今回も自分で考えることにする。

わずかな手がかりとして、メンションなしのリツイートというものがあるのだが、どうも反応をとして多いのは「個人の意見が尊重されない」という不満のようだ。集団思考で空気を読むのが日本人だと定義してしまうと「私の意見は取り上げられないのに周りに合わせることばかり強要される」と不満を持つ人が増えてくるのだろう。

しかしながら「空気」はそこにいるすべての人たちが作り出すものであり、神様や権威が押し付けたものではない。つまり「私の意見が取り入れられない」と言っている人も空気作りに参加していることになる。つまり、あなたの意見は取り入れられているのになぜ不満を持つのですかという疑問が生まれる。

例えば、権威とされている人たちも実は日本人としてのメンタリティを持ち続ける限りにおいて空気には逆らえない。安倍首相がおざなりながらも福島に出かけて興味がないにもかかわらず「福島の桜はきれいだなあ」などという下手なパフォーマンスをして、気にかけてもいない被災者の心情を傷つけたから復興大臣に代わってお詫びをするなどというのは、実は権力者もまたそれなりに空気を気にしているからなのだ。

もし自分の意見が取り入れられないのだとするなら、意見表明してみればいい。誰にも聞いてもらえないだろうが、それも「誰の意見も聞いてこなかった」ということの裏返しにすぎない。そもそも、自分の意見を構築できる人が少ないようだ。アメリカや西ヨーロッパではありえないのだが、それでも大人としてやって行けるのが日本なのだ。意見がないのだから表明もできない。

そう考えてみると、実は(西洋的な教育を受けた人は全く別だと思うが)個人として尊重されたいわけではないということがわかってくる。日本人は村落的なつながりに憧れている。それは自分の心情や考えと、集団の心情や考えが全く合致しているという状態である。自分の考えていることは周りも考えていることなのだから、個人が言葉を選んで意見表明してもらわなくてもいいという関係だ。つまり個人が意見を持たなくてもやって行けるのが理想なのだろう。

古くからこのようなニーズはあった。例えば、戦後それを実現したのが創価学会だ。もともと農村から都市に流入してきた人たちの集まりだったという説が濃厚だそうだが、村落にあったコミュニティをそのまま都市に持ち込んだということになっている。しかし、実際にはその教えは急進的すぎて、もともとの寺からは排除されてしまう。個人の価値が接続の源泉にならないのだから、当然どこかから価値を持ってこなければならない。自然村落は地域的なつながりによって閉鎖された空間なのだから、こうした人工集落は解放されているのだろうということが予想される。つまり、日本人は解放された空間が苦手で、つまり個人が意見を持たないためにはかなり大きくて超自然的な権威を置かないと不安を感じてしまうのではないだろうかという仮説が生まれる。

いったん権威に帰依してしまえば、個人の意見表明は必要なくなる。あとは権威をコピペしてくるだけでよい。実際に新興宗教系の人と話をしてみると良いと思うのだが、驚くほど自分たちの教義を理解していない。にもかかわらず熱心にコピペするので語彙だけは豊富になる。うまくいっている新興宗教は「魂のポイント制」を採用しているので、核心が見えないことは気にならないようだ。つまり修行が足りないからもっと教祖様の話を聞かなければならないなどというのである。こうした新興宗教的なコピペ精神は「ネトウヨ」と「パヨク」に共通する。

日本人が理想とするのは、周囲の人たちと何の違和感もなく調和し、何も言わなくても自分の思い通りに物事が進み、何か大きな権威によって自分の意義が肯定されているという状況なのかもしれない。

だが人工集落は必ず敵を作り出してしまう。どんな権威もすべての人の欲求を完全に満足させることなどできないからである。人工的な囲いを作るとかならずそこから排除される人たちが出てきてしまう。安倍政治に不満を持つ人が多いのは、彼らにとって居心地のよい村落作りががお友達の優遇にしかならないからだろう。排除された人たちが見えなければよいのだろうが、SNSが発達するとそういうわけにもいかない。

だが、いろいろ観察すると敵の存在は社会集団が崩壊する原因にはならないようだ。崩壊は内部から進行する。人工的に作り出した物語には必ず綻びがある。それは、外からくる権威を継接ぎにしているに過ぎないからである。日本人が膠着語を話すように、経緯をにかわでくっつけたようなものになりがちだ。そこには主語はなく、従って全体としては意味をなさないのである。

例えば教育勅語は、日本伝来の精神ということになっている。だがそれは西洋的な一神教をもともと多神教的だった天皇の権威を接ぎ木したものではないだろうか。多分キリスト教を参考にして、教義を作り、道徳を作ろうとしたのだろう。しかし、道徳というものをあまり真剣に考えてこなかったために「みんな仲良く」という当たり前のことしかかけず、最後は「何かあったら天皇のために命を投げ出すんだぞ」とおざなりに終わっている。

教育勅語が見捨てられたのは「みんな仲良く一致団結して」という精神を、押し付けた人たちが理解していなかったからである。つまり教育勅語もコピペなのだ。結局、軍部の作戦の失敗を国民に押し付けて破綻した。「みんな仲良く」の中に餓死した陸軍兵士も見捨てられた沖縄も入っていなかったわけである。国民は「守ってくれない権威よりも、美味しいものを食べさせてくれる敵のほうがいいじゃん」と考えたから教育勅語は捨てられてしまったのだ。にもかかわらずその経緯を全く反省していないというのが日本人の道徳心のなさを露呈する結果になっているように思える。

こうして、新しい権威ができては消えというサイクルを繰り返すことになる。で、あれば「個人が意見を精錬してお互いに聴きあうことにしたらいいんじゃないか」などと思うのだが、それだけはどうしても嫌だという人が多いようだ。まあ、人生は魂の修行なのだと考えれば、それもアリなのかもしれないと思ったりもする。

有名人がTwitterで絡まれるのはなぜか

Twitterで有名人が絡まれるのをよく見かける。そこで「絡まれるにはメカニズムがあり、そのメカニズムを解明すれば、絡まれることはなくなるだろう」と考えた。だが、いろいろ考えてみて「やはり有名な人が絡まれないようにするのは難しいんだろうなあ」と思った。今回は最終的に教育勅語の話に着地する。

有名人が絡まれる背景にはどうやら「単純化」と「情報の追加」があるらしい。140文字は少ないので言いたいことがすべて伝わらない。そこで、曖昧な部分を脳内で補強するらしい。すべてを網羅的に観察したわけではないので、単なる思い込みを含んでいるかもしれないが、党派性が起きているように思える。つまり、あらゆる人たちは白組と紅組に分かれており、ある意見を提示しただけで、受け手の脳内で「この人はどちらの味方か」という分類が行われるのではないかと考えられる。

例えばトランプ大統領のシリア攻撃を「適切な判断だった」というと、自動的にトランプ大統領の他の政策にも賛同しているように見えてしまうという例がある。その人が様々な情報を流して立体的な判断をしようとしていたとしても御構いなしだ。表現の自由のために戦っているように見えた筒井康隆がリベラルを侮辱する(あるいは体制側に賛同するように見える)メッセージを発信すると、それが今までの立場を「全否定」したように見えてしまうということもあるだろう。

いっけん、単純化されているように見えるのだが、よく考えてみるとすべての事象について「右か左か」というソーティングがされているのだから、かなりの情報量がないと成り立たないことがわかる。すべての事象を「右と左」に分けていて、それを常に確認し合っているからだ。つまり、単純化だけではなく情報の付加が起きているということになり、なおかつ頭の中には様々な人間関係が整理されていることがわかる。

日本人の「関係性」に対する執着の例を卑近なところで挙げたい。アメリカのドラマのウェブサイトには日本ではおなじみの相関図がない。彼らはドラマをプロットで説明する。しかし日本人はプロットにはそれほど興味がなく、誰と誰がどんな関係にあり、それがどう変化するかということに強い関心を持っている。そこでドラマのウェブサイトには欠かさず相関図が出てくるのだ。日本人は、誰がどの党派に属するかによって、その人の意見が読めると考えるのである。こうしたことは政治報道でも起きており、政策よりも派閥の動向により強い関心が向けられることになる。

つまり、日本人は、集団に属する人間には個人の考えというものはなく、どの党派に属するかということさえ分かればその集団の考えが自動的にその個人の考えになるとみなしていることがわかる。

以前に「交流分析」を見たときに、人間を、理性、感情、スーパーエゴに分けるという整理方法を学んだのだが、ここには「党派」という全く違ったパラメータがあるのではないかと仮説できる。まあ、思いつきレベルだがいちおう絵にしてみた。

党派性が強い人は、あるその党派を認めてしまうと、自動的にそこに従わなければならないという前提が生まれるという仮説ができる。だから、自分の中の何か(それが感情なのか、理性なのか、スーパーエゴなのかはわからないのだが)とコンフリクトを起こすので、それを認めるわけにはいかないということになる。

この疑問を考えたときに「なぜ僕は絡まれることが少ないのだろうか」と考えたのが、それは文章がうまいわけではなく、権威ではないので「否定しなくてもべつに構わない」からではないかと思った。つまり、どこにも属していない個人の考えというのは、ないのと同じなのだ。

が、商業雑誌で活字になったり(それが例えばWillやSPAであっても)権威となるので、それを認めるわけにはいかないということになるだろう。つまり、有名になることで権威性を帯びてしまうので、攻撃の対象になるということになる。これは防ぎようがないから「無視するのがよい」ということになる。

まあ、ここまでは他愛もない分析なのだが、いくつかの派生的な観察が出てくる。

第一に「安倍政権を倒せ」という党派性の高いメッセージは発信しないほうがよさそうだ。「この人は立場的にそう言っているのだな」と思われて、あとの客観的な事実はすべてスルーされてしまうだけだろう。客観的に事実を並べて、相手に投げたほうがよさそうだ。

逆に、安倍政権側も党派性の強い考え方を国民に押し付けようとしている。日本人はそもそも内的な規範ではなく村落的規範(ここでは党派と言っているが、他人様の目といってもよいだろう)によって制限されているので「共謀罪が成立したから言いたいことが言えなくなった」ということはありえない。そもそも最初から「個人が言いたいことなど言えない」社会なのだ。

だが、それは相互監視によって文章にならない規範によって支えられている。それを言葉にしようとするといくつかの問題が起こるのだろう。それは「個人のアイディアは聞いてもらえないので、誰からも文句が出ない権威」が言葉を発するべきだということと、実際に自分の中を掘ってみてもそれほどたいした規範意識は出てこないということである。

そこでできた貧相な規範体系が例えば教育勅語ということになる。西洋には立派な規範体系があり、そのカウンターとしてでてきたのが教育勅語だが、結局は「親を大切にしよう」とか「みんなで仲良くやろう」などといった、村のおじさんたちが酔っ払って子供に諭すようなことしか出てこなかった。しかし、権威づけは必要なので「いざとなったらお国のために命を捧げるんだぞ」という言葉をつけて終わっている。

本来は個人の意識(それは感情などの無意識を含んでいる)を抑える役割を持っていた規範意識を自分で操作できるぞと思ってしまったとたんに、歯止めが利かなくなる。つまり、人間で言うところのスーパーエゴの暴走が起きてしまうのだ。これが国家レベルで行われると、植民地の無制限の蹂躙ということだし、個人レベルでは「本当は理解していない保守主義」という党派規範を身にまとい、個人のエゴを暴走させて、他人を貶めたりする態度につながってゆくということになる。

「そんなことはない」という人もいるかもしれないが、教育勅語を信奉する人たちは内的な規範を持っていない。首相は平気で嘘をつくし、気に入らない子供は虐待される。さらに、危なくなったら「俺は知らなかった」といって仲間を裏切る。これらは内的に規範が作られていない(つまり親が弱い)ことを示している。だからこそ、集団の規範体系によって相手をコントロールしようとするのだろう。

つまりネトウヨというのは、戦前回帰ではなく、西洋流の規範意識を理解できないままでいた人たちが個人のエゴを暴走させている状態に過ぎないということが言える。その筆頭でエゴを暴走させているのが日本の首相なのだろう。

 

政治がもたらす閉塞感を打開するためにはどうしたらいいか

先日、茂木健一郎が「日本の笑いは低俗でつまらない」と発言したことについて取り上げた。茂木健一郎がつまらないのは、西洋的な価値観をよしとしていて、日本文化の中にある良さを全く見出そうとしない点や、低俗さと高級さという価値体系の奴隷になっている点だ。つまり、戦前回帰をよしとするネトウヨの人たちとたいして違いがないのである。

いずれにせよ、この記事は、政治課題(もしくは政治課題に擬態した他人の悪口)と違いあまり関心を集めなかったようだ。とはいえ「笑いとは何か」ということを当てずっぽうで書いたので、本でも読んでみようかと思った。図書館で蔵書を検索したところ、ベルクソンの「笑い」という小編が見つかった。哲学書を読むのは気が重いなあと思ったのだが、気が変わらないうちに読んでみることにした。

読んでみて思ったのだが、現代社会に閉塞感を感じている人はぜひ一度この本をパラパラとめくってみるべきではないかと思った。精読するとたぶんかなり時間がかかるので「ざっと読み」がおすすめだ。

現在の閉塞感は、多くの人が安倍政治にうんざりしているにもかかわらず解決策が見つからないということに起因している。人口が減少し、経済が崩壊してゆくのにその解決策が何十年も見つけられないという「沈みゆく予感」が背景にあるのではないかと考えられる。つまり、解決策が見つからないということが問題になっている。そこで「なんとかしろ」と怒っているのだ。しかし怒りの感情は他人を遠ざける。危険信号を発出しているからだろう。反核とか平和運動といった誰でも賛成しそうな運動に支持が集まらないのは、それが楽しそうに見えないからである。

安倍政権は、権威が問題を隠蔽し、情報を隠し、法体系をゆがめているという点に問題があるのだが、誰もそれをやめさせようとはしない。閉塞感を感じる人は政権が持っているデタラメさを否定したいが世論調査をみると「自分だけが安倍を嫌っていて、みんなは依然安倍政権を支持しているように」見えるので苦しむのだろう。

こうした状況を変えるために笑いは役に立つ。笑いは「誰にでもわかり、愉快だから」である。つまり、怒りによる打倒よりも笑いによる批判の方が広がりを持つ可能性が高い。しかし、それは多くの人が思っているような「直接的な政権への批判」ではないのではないかと思う。

ベルクソンは笑いが成立するためには3つの要素が必要だとしている。詳しい定義は原典を読んでみていただきたいのだが、自分なりに解釈すると1) 人間的な感情に基づいており、2) 対象から心理的に分離しており、3) その感覚が集団に共有されていることが重要だということのようだ。これについて詳細な分析がなされるのだが、政治的な重苦しさというものにのみ焦点を当てると「対象に近すぎる」と笑いが起こらなくなるということが言える。ベルクソンは「共感があると笑えない」と言っているのだが、共感だけではなく反発もある種の愛着である。アタッチメントという言葉を想起したが日本語の適当な訳を思いつかなかった。

つまり、今安倍政治に反対している人たちは「安倍政治にアタッチしすぎているからそれが深刻に思える」ということになる。同時にそこから離れて新しい選択肢を探すことにも恐れを感じているということが言える。逆に代替策を探さなくても権威そのものが無効化されてしまえば、目的は半分くらいは達成できるし、興味がない人にも広がる。笑いはデタッチメントすることによって対象物を無効化できるのである。

そのためには安倍政治を客観視してみる必要があるということがわかる。少し離れたところからみると、安倍政権の口裏合わせは喜劇でしかない。しかし、これを個人が感じているだけでは笑いは発生しない。これは「裸の王様」の例を思い出すと理解しやすいだろう。王様が服を着ていないのは自明だが「みんながそれを認知している」という理解が共有されない限り、それは笑いにならないのだ。ベルクソンの定義を離れると、笑いはみんなが漠然と持っている感情に言葉を与えることで共有を促すための高度な技術なのである。結果的に緊張が緩和されることになる。

博多大吉が伏し目がちに「政治的な笑いには需要がない」と告白している。これはお笑いを生業にする人たちにとっては危険な態度だ。状況が閉塞するほどに、発言できる範囲は狭まり、最終的には弱いものを叩いて笑いを取るか、自分を貶めて笑わせるしかなくなってしまうだろう。日本は戦時中に「決戦非常措置要綱」を作ってエンターティンメントを禁止した時代がある。古川緑波などのお笑いタレントは大変苦労したのだが、こうした苦労は戦後には引き継がれなかったようだ。しかし、それは彼らの職場の問題であって、特に我々が考えるべき問題ではないかもしれない。

日本の笑いは実践が主で、理論的な教育がほとんど存在しないか、存在したとしても西洋喜劇の流れを組んだ古典的なものだからではないかと考えられる。このため体系的に自分たちの笑いを客観視する機会恵まれないのであろう。

戦争が起きると「笑っている場合ではない」ということになり、他人を強制的に戦争へと駆り立てる動きが出る。そこでどのように立ち振る舞うかが生き死にに直結するので、境遇を客観視するような余裕はなくなり、世の中から笑いが消える。現在も「政治を笑のめしてはいけない」という空気が広がっている。敵の存在こそ明確ではないが、社会が闘争状態に近づきつつあるのかもしれない。

 

筒井康隆と規範の相対化

筒井康隆という名前をTwitterで見かけた。慰安婦像に猥褻なことをしにゆこうかと言って問題になったらしい。どの立場の人が怒っているのかよくわからなかった。ハフィントンポストによると「既存の規範に対抗する人として理想化しすぎてきたのではないか」という声もあるのだという。だからいわゆるリベラルという人が反発しているのかもしれない。リベラルは表現の自由と韓国(を含めたアジアの隣人)を愛しているはずなので、これが屈辱されるのは許せなかったのだろう。つまり、韓国を嘲笑している=政権擁護という自動化が起こっているのだ。

保守も劣化しているが、リベラルも劣化してるんだろうなあと思う。

まあ、筒井康隆が「時をかける少女」の作家だと思っている人もいるだろうから、投稿が下品だと非難する人がいる気持ちはわかる。が、ちょっと驚いたのは筒井康隆を偶像化する人が案外多かったのだということだった。筒井康隆を読んで心理的にアタッチしてしまうというのを非難するつもりはないけれど、かといってそれが永続するというのは感覚的によくわからないし、筒井を読んでいるはずの人が自分の中にある自動化された思考を疑わないというのもよくわからない。

「偽文士日碌」を何ページか読んでみたのだがそれほど面白いとも思えなかった。そもそも、とりとめもない文章が並べられており、その間に「ドキッとする」発想があるというのが、文章の目的のように思えた。これ、文章にしているから「ドキッとする」が、誰でもこれくらいのことは考えているはずだ。しかし、一部の人を除いて、思ったことを口に出したりはしないし、抑圧してしまう(つまり忘れる)ので大した問題にはならない。これをわざと表出させるのが筒井の作風なのだと思う。これをメタフィクションなどと言ったりするのだが、これは1980年代には割と一般化していた概念だ。日本は自分の心情に絡め取られたような「私小説」の伝統があり、そこから反発する形で、現実からの分離を目指すメタフィクションが出てきたのではないかと考えられる。

メタフィクションの目的は書かれていることを主張することではなく、考えること自体の補足なので「伝えること」と「伝えないこと」の境目についてはよく考えてみた方が良いと思う。なのだが、これも普通の人たちの興味を惹くのかはよくわからない。

Twitterは普段発言力を持たない人たちが、世間の抑圧にしばられることなしに発言できるという点にベネフィットがある。これは日本の社会が「過度に空気を読み合う」社会だからであると考えることができる。つまり、日本人は普通の生活では伝えることができないが、言いたいことはたくさんあるので、半匿名の場所で言いたいことをいうということになっている。だから未だに「伝える」ことに意味がある。「伝えない」ことが問題になるのは、伝えることが一般化したあとである。その意味では日本人は「どう伝えるか」を練習した方がよく「伝えることにはそれほど意味がないのではないか」という点について考える必要はないのではないかと思うのだ。

筒井作品を読んでいる人の中にも、筒井康隆の発言には失望したと言っている人がいるようなのだが、その意味でこれが「発言だったのか」ということはよく考えた方がよい。すなわち、普段の言動も「権力と戦う意図があって一貫してなされていた」かどうかよくわからないわけで、従って「それを偶像化したり、嫌ったりすること」に意味があるかどうかもよくわからないということになる。全て演技かもしれないし、演技かどうかを本人が補足しているのかということもよくわからない。

この考えを発展させてゆくと、とんでもない発想自体が無効化されてしまうことがある。高校生のころに筒井康隆の全集を読んだのだが、その頃には筒井康隆が<闘っていた>規範はすでに相対化されてしまっており、闘争自体にはそれほど面白さを感じなかった。断筆宣言も当時はそれなりに刺激的だったが、今読んでも「犯人が誰かわかっているサスペンスを読む」くらいの感動にしかならない。だから、今「とんでもない」と思っている発言も、実は将来的には相対化されてしまうことが予想されるわけで、挑戦自体がそれほど面白いことに思えなくなってしまうのだ。

妄想と発言の境目が曖昧になったり、作者と読み手の間にインターラクションが起こるのを「作品として眺める」のが面白いといえば面白いのだろうけど、そもそもインターネットがそういうものであると言える。つまり、かつての非現実を生きているわけで、それが「なんかあんまり新鮮味がないなあ」という感覚の正体なのかもしれないのだが、それすら考えるのが面倒というか、どうでもよいように思える。

今回の件で一番気の毒だなと思ったのが「老害だ」という意見だった。妄想と現実の間にあるから面白みがあるわけで、単なる老人の妄想だと捉えられてしまうと単にゴミ箱行きということになる。みんないろいろなニュースに反応するのに忙しいので、石原慎太郎も筒井康隆も「老人の妄想」として一緒くたに捨てられてしまうのだ。

テレビの政治番組の一番の嘘

先日、島田寿司夫さん(確か)が司会をなさっている「日曜討論」を見た。介護を扱った回だったのだがとても面白かった。女性で介護の現場代表みたいな方が2名出てこられたのだが、ポジションが対照的だった。お一人は声を震わせつつ政府の方針が間違っていることを訴えようとされているのだが、もう一人の(どうやら介護ではなくそのコーディネートをしているらしい)方はサバサバとしていた。

しかししばらく聞いているうちにこの「サバサバ」が実は絶望に裏打ちされているものだということがわかってくる。厚生労働省は現場を知らず、財務省はお金をどれだけ減らすかということしか考えていないと考えており、何か「改正」があったとしても、それは金減らしの改悪だとしか思っていないようなのだ。何回か「やっぱり現場のことをわかってくれていなかったんだなあということがわかる」とおっしゃっていたように思う。

この人がサバサバしているのが介護の現場ではなくコーディネートをしているからだ。介護というのは誰が担当になるかでサービスの質が大きく変わるそうなのだが、それを第三者的な視点で見ている。だから決して介護の人たちが大変なんです、なんとかしてくださいというような被害者的な視点には立っていない。しかし、サービスを組み立てる立場にいるので、制度がどのような意図で変更されているかということも冷静に分析できてしまうのだろう。「現場は淡々と日々の業務をこなすだけです」とおっしゃっていた。

このような態度に出られると「政府の福祉政策は100年安心なのだ」という物語をプロパガンダしたい人たちはとても困ってしまう。何を言っても「はいはい」みたいな感じでしか聞いてもらえないからだ。しかし現場に近い意見なのでとても説得力がある。決めつけるように話すので「いやそれは違いますよ」という発言が出るのだが、それは虚しく響く。もう責めていないからだ。

この女性の破壊力は、テレビの政治番組をある意味無効化してしまう。普通政府側は「うまくいっている」といい、カウンター側は「いやうまくいっていないけど、私たちがやったら状況は変わる」という。この呼応があると「ああ、なんとかなるのかもしれないな」と思うと同時に、私たち全てが政治に興味を持つべきなのだという印象を持つ。つまり、関心を持てば状況は変わるという見込みが生まれるのだ。

しかしながら、実際には「政治はいろいろやってくるけど、現場などわかってくれないし、私たちの声は届かない」と感じている人が意外と多いのではないかと思う。もともと最初から何も期待していないと考える人を合わせるとかなりの数に昇るのではないかと思った。つまり、政治番組がどちらかの陣営に分かれているというのは、国民の実感にはあっていないわけで「壮大な嘘」ということになる。

アベノミクスがうまくいっているというのは嘘だが、国民は頭が悪いから安倍政権の危険性がわからないはずというのも嘘である可能性も高いのだ。だから国民は政治に関わるまいとする。

さて、ここから「内閣支持率」の調査に考えるに至った。メディアの内閣支持率というのはRDDなどの安価な調査方法で調査されているのだが、これに「応じてもらえない人」の割合はどれくらいいるのだろうかと思ったのだ。例えば10年前に100件集めるのに200コールの発出で済んでいたのが1000件になったとする。このうち66%が支持で、37%が不支持だったとしよう。しかし実際の支持率は大幅に下がっていることが予想される。つまり電話をガチャ切りした人たちは「自分たちの声はどうせ届きそうにないから、何も言わない」という人かもしれないのである。

この電話に出なかった人、あるいはガチャ切りした人たちがどういう人なのかはもはやわからないのだが、一定数集めるためにどれだけコールしたのかという数字も合わせて公表しないとフェアな調査とは言えないのではないだろう。

だから、本来の政治討論番組には「難しくてよくわからない」とか「仕組みはわかっているけどもう何も期待しない」という人こそを呼ぶべきなのではないかと思う。とてもつまらない番組ができるとは思うのだが、それが多分リアルなのではないだろうか。