いわゆる右派の主張をしている人が執拗に他人を罵倒しているのを見た。どうやら常習者らしい。また別の人は女性の活動家や政治家を執拗に攻撃している。比較的知能が高そうだ。これを見て思ったのだが、いわゆる右派の主張に乗っている人にとってTwitterはおおっぴらに他人を罵倒できる息抜きの場になっているらしい。つまり、これは政治的議論を装った安全な場所からのいじめなのだ。たいへん卑怯な行為である。
これを見て思ったことはいくつかある。左派と右派の違いは他人へのシンパシー(共感能力)の違いだと言われている。西洋では女性を弱者とみなして執拗に攻撃する男性は「知的(これは知能だけではなく共感能力などを含む)でない」であると見なされる。つまり、何も実名で自分の知性のなさをさらけ出さなくてもいいのにと思ってしまう。
次に思ったのは、これが無力感の裏返しになっているらしいということだ。こうした人たちの提案が受け入れられることはない。にも関わらず、延々と主張を繰り返している。主張が通らないので、他者への攻撃に転じるのだ。それに乗る人たちがいるので、主張は理解されなくてもある種の一体感が得られるのだろう。さらに悪いことにこういった人たちは紳士協定を結んでお互いをかばい合っている。会社にも、仕事はできないが政治的にはやたらに影響力のあるやっかいな人たちがいる。やたらに「俺は聞いてない」とか「根回しがなかった」とかいって生産的な議論を妨害する抵抗勢力がいるが、まさにそんな感じだ。
そのくせ、他者からの攻撃にも意外と弱いらしい。すぐにブロックしたがるのだ。ブロックされたということは彼らの感性にヒットしたということなのだろう。すると崇拝者といじめの対象だけが残るわけで、彼らの心の平安が保たれるということになる。
そもそも、なぜいじめが起るのだろう。それは、いじめる側の人たちが抑圧されているからだ。予めテンションがかかっている訳だ。つまり、いじめは管理の失敗なのだと言える。学校で先生がいじめに加担することが多いのも(黙認したりほのめかしたりすることが多い)のも先生が管理されている存在でありなおかつ管理に失敗しているだからだ。それを学校側が隠蔽するのは当然だ。それは学校の管理の失敗を意味するからである。先生を抑圧し、必要なリソースを与えないというのは管理の失敗なのである。
会社の場合には「目的が見失われており」「評価の基準が曖昧である」ことがいじめの原因になったりする。学校と会社の事例を見てわかるのは、組織が本来の目的を見失って構造が曖昧になったときに、人々は自らが動いて秩序を維持しようとするのだという結論が得られる。ただ、その秩序維持は弱者への搾取と同義である。弱者を搾取することで失敗しかかった集団を維持しようとする試みだ。だから、いじめは現代版の生け贄なのである。
学校のいじめと違って政治議論を装ったいじめには対応策がある。いじめられるシグナルを減らせばいいのだ。典型的なのが福島みずほ参議院議員だ。甲高い声早口な声で反論する。表情は怒っている。これは典型的な「コルチゾール反応」だと考えられる。攻撃への防御姿勢だ。
こうした非言語的なコミュニケーションは意外と見逃されがちなのかもしれないが、きわめて重要だ。ヒトはかなり残酷な生き物で「コルチゾール反応」は「この人は社会的階層の下位にあるからいじめても大丈夫だぞ」というシグナルになってしまうのだ。いわゆる左派と呼ばれている人たち(男女問わず)にはこの「コルチゾール反応」が多いのではないだろうか。
よく、民進党の議員に「先生は民進党を出るべきだ」と懇願する人がいるが、「いじめの対象に自分が崇拝者している人がいるのはおかしい」と思っている人がいるのではないかと考えられる。そもそもそれは最初から政治的な議論ではなかったということだ。
こうした政党が支持を得るためには、非言語的コミュニケーションについての基礎を学ぶ必要がある。