最近Quoraで疲れるなあと思うことが増えてきた。コミュニティが小さいのでどうしても普段接触する人が限られてくる。これが疲れるのである。そこで疲れた時の対処法も含めていろいろ考えてみた。
人が自分の意見を押し付けてくるのはその人が多様な価値観を理解できないからだ。押し付けを拒否するためには自分は異なった考えを持っているということをあらかじめあきらかにしておけばいい。
どうやら多くの人は「個人の考えは様々ある」ということはわかっているらしい。つまり完全に意見が合致する人などいないということが頭ではわかっているのである。だが、それが認められない人が結構いる。わかっていてもその前提で行動しないのである。
例えば、世の中はリアリズムであると考えている人がいる。それはよいのだがアジア人や社会主義に対して強力な蔑視感情を持っており、この部分だけコンパスがおかしくなる。つまりバイアスがかかっているのだ。私は白人・ヨーロッパ社会・資本主義経済を盲従して劣等感をかかけている日本人もたくさん知っているので、盲従する人と威張りたがる人がペアに見えてしまう。なので、そこには賛同できないわけである。
交流期間が長くなるに従って彼らは「韓国は民主主義の機能しないおかしな国であり中国共産党は悪の帝国である」という信仰告白を強要してくるようになった。確かに韓国の民主主義には問題があるが、アメリカやイギリスの議会の混乱も相当なものなんだけどなあなどとかわしているうちに相手は苛立ってくるのだ。
ではなぜ苛立つのだろうと考えてみた。第一の理由は私があまり自分の歪みを相手に伝えていないからなのだと思った。日本人はなぜか自分は中立だと考えることが多い。だから、中立そうに見える相手に自分と同じ歪みを強要してしまうのである。
今回この解決が簡単だったのは最初からキャラを作っていたからである。つまり最初から変な人だということがわかっていれば相手も納得しやすい。若年者が高齢者に対して「その考えは古臭い」という理由もわかった。線を引いて村を分けているのだろう。中には最初から「私は不思議ちゃんです」などといってかわしてくる人もいる。
次にこうした歪みは支配感情に基づいていることが多いようである。自分ひとりではおとなしいのに、民族や国家を代表すると急に体制側に立った物言いをする人がいる。支配側に立っていると思われたいのだろう。そしてそれを否定されると「自分の支配者としての資格」を疑われていると感じてしまうのだ。
こういう人はスーパーマーケットで観察できる。一人だとおとなしいおじいちゃんが妻を連れて買い物に来ると途端に乱暴な言葉遣いになるというのをこの前目撃した。支配欲というのはある種の人間にとっては本質的なよりどころなんだなあと思った。もちろん女性も同じような支配欲は持っているだろう。
第一の点は克服可能である。つまり自分で「私は中立ではありませんよ」と宣言して仕舞えばいい。第二の点はどうしようもない。これは問題を引き起こすだろうが関わらずに放置するしかない。
村には価値体系が一つしかないので「みんなと同じことを考えていること」が中立の価値体系である。日本から見ると中国共産党は「異質な悪」なのだから「良かれと思って」あれは悪だと言ってくるわけである。彼らにしてみればお掃除をしている感覚なのだろう。汚れた思想があればそれは取り除かれなければ安心して暮らせない。
ただ、そうでない人も増えている。だからこそ余計に村人気質が浮き上がって見えてくるようになった。
SNSに一定数いる彼らは遊牧・放浪型と言っても良いのではないかと思う。つまり移動を前提としている人たちだ。移動を前提としている人たちは意見の相違は恐れないしそもそも気に留めない。情報交換は旅を続ける中で危険を察知するためには重要だが価値観を全て一つにする必要はない。つまり情報交換に広がりが感じられるがお互いに縛りあいはない。なぜならば自分が移動できるからである。定住型から見ると逃げ場があるということになるが、移動型の人にはそんな感覚はないだろう。
この移動を前提とするかしないかというのは大きな違いを生み出しているようだ。そして私が「日本人はXXだから」と決めつける時、定住型と移動型について語っていることがあるんだなと思った。日本人の日本性というのは突き詰めれば「移動を前提としていない」ということなのかもしれない。島国の狭い居住空間で暮らす人たちの智恵である。
彼らには「私は村には住んでいないし偏った考え方を持っている」と宣言しておけばいい。どうせSNSは村にはならない。彼らは困った時には面倒を見てくれないからだ。日本はもう村ではない。
ここまでは合理的に説明ができるのだが、欲求としての「支配欲」は日本人の古層に残る。日本の村は強力なリーダーによって統制されているわけではなく村人の相互監視によって成り立っている。そのため日本の民主主義はそれぞれの家の長が支配者意識を持って集団を相互監視しているという姿になりやすい。普段はこの縄張り意識が表面上の治安の良さを作っている。みんなで空気を読んで当たり障りのない暮らしを作っているとも言えるわけである。
これがある種の感情的危機にさらされた時に硬直して様々な問題を起こす。例えば反日探しというのは民衆レベルの支配欲が暴走した形である。まとまりたいがまとまりを作れないので身内に敵を探し出し「純化」を試みる。これは日本だけでなくまとまりを作れない国ではよくあることで、アメリカでは日系人・共産主義者・イスラム教徒(非キリスト教の人たちだ)などが槍玉にあげられ純化の対象になってきた。その都度反省しているが決してなくならない。
日本の場合はさらにこれが内向きになる。たまたま読んだ「愛玩子」と「搾取子」は支配欲が家族をどう崩壊させるかについてかについて観察している。息子・娘を支配したい親が好きな子供には報償を与え嫌いな子供には罰を与える。それを通して家の中で支配者として振る舞うというのである。
父親や母親が「なぜ支配欲を持って子供にしがみつくのか」という理由は語られない。つまりメカニズムはわからない。ただ、外から見ると「支配被支配」関係を明確にしておきたいと欲求だけは明確にわかる。おそらくは支配欲を通じて子供にしがみついているのであろう。子供には逃げ場がなく中には精神的に病んでしまう人もいるようだ。
本物の村を知らない日本人はおそらく原型になるエデンの園のような村のイメージを持っているのかもしれない。そしてある人は政治議論にしがみつきまた別の人たちは自分の持ち物である子供にしがみつくことによって理想の村を再現しようとする。だが、それが身を結ぶことはない。理想の村の像はおぼろげで再現することができないからだ。