フレームを見極めれば安倍政権から卒業できる

Quoraでまた面白い質問を見つけた。自分が被害者家族になったとして死刑制度がない状態に納得ができるかというのだ。ところがこの質問には別の観点がくっついている。殺人を犯しそうな反社会的な人がいたらあらかじめ死刑にしてしまった方が良いのではとも言っている。

今回は「安倍政権からの卒業」というタイトルで書くのだが、内容のほとんどは死刑制度について考えている。安倍政権は入管法を生煮えのまま通してしまった。報道によると審議をすればするほど問題点が見えてくると自民党も認めているらしい。大島理森議長も懸念を表明し、とりあえず法案を通した後で全体像が見えた段階で途中経過を国会に報告するように求めた。(毎日新聞)このことから日本の政治全体が物事を考えられなくなっていることがわかる。立法府のトップが何が書かれているかわからないがとりあえず通してくださいと言っているのだ。

しかし、この問題を正面から捉えるのは難しそうである。全体像がわからずどこに糸口があるのかが見えてこない。そこで別の問題から「問題の解決には何を行うべきなのか」を探ってみようと思う。

死刑制度についておさらいしておく。日本では死刑制度が維持されており国民からの支持もある。内閣府の調査では「積極的には支持できないがやむをえない」と考える人が多いようである。一方死刑制度を維持している国は少ない。アムネスティのレポートによるとアメリカ合衆国、中華人民共和国、日本、及びイスラム諸国だ。その他にベトナム、ポーランドが死刑制度を残している。

内閣府の調査でも「家族の気持ちを考えると……」とする人が多いようだ。一見、家族の気持ちを慮った優しい日本人という姿が見えてくると言いたくなる。質問はこの一般的な国民感情に沿って世論を誘導しようとしている。

死刑制度に関して,「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,467人)に,その理由を聞いたところ,「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が53.4%,「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合が52.9%などの順となっている。(複数回答,上位2項目)

ただこの質問には面白い点がある。建前の家族擁護とは別にきちんと本音が書かれているのだ。それが反社会性である。殺人を犯すような人たちは反社会的なのだからそれを抑止するためには死刑のような極刑が必要であり、できることなら予防的に拘禁したいと考えている。本音は「人殺しをするような恐ろしい人たちは自分たちとは違っており、したがって死刑という極刑がないと防げないのでは?」と疑っていることになる。

ここまでは何回も考えたことがあったのだが、今回書いていてちょっと別の考えが浮かんだ。世界では死刑制度が廃止されており国際世論には抗えそうにない。そこで国内でも「人権問題」として死刑廃止したい人たちが増えてくる。世の中には自分たちと違った恐ろしい反社会的な人たちがいると考えても闇雲に人は疑えないので「家族感情があるから」という別の理由で死刑を存続させたいと願うわけである。

ではこの人が他の人から「あなたの本音は間違っていない」と言われたとする。彼はどう行動s流だろうか。

社会を支配したいと考えている人は「誰かの不安を利用したい」と考えるだろうし「死刑のような究極の支配装置は手放したくない」とも思うだろう。つまり、殺人者という反社会性の他に権力に飢えた獣という反社会性を持った人をおくとフレームが全く変わってしまうのである。

そういう人が、家族を殺されて極限状態に陥っている人を公衆の面前に引き出して、こう演説したとしよう。

さあ、みなさん。あなたの眼の前に大切な家族を殺されて泣いている人がいます。この人は家族を返して欲しいと願うが、それはもう叶いません。せめて、憎い犯人を殺さないと気が済まないのです。だが、中には人権という何の役にも立ちそうにないものを振りかざし、この人から大切な「報復する権利」を奪おうとしています!こんな理不尽が本当に許されていいのでしょうか。

この反社会的な人は、究極的な状態におかれている人を利用して自分の欲求を満たそうとしている。「かわいそうな家族」を利用して自分が他人に成り代わって誰かを殺す権利を保留しようとしているのだ。反社会的な彼は大衆が振り向いてくれるなら喜んで被害者家族を利用するだろうし、大衆を扇動していることに喜びを覚えるかもしれない。そうして犯罪被害者家族は犯人に人生をめちゃくちゃにされたうえに別の人たちに利用されてしまうことになる。

そう考えると、死刑廃止議論の背景にはこのアジテータの存在があるということに気がついた。民主主義の隙間をぬって国民の支持を得たヒトラーは支持母体である労働者や農民に対して「知識階級を利用して浸透してくる共産主義者と、どこにも属そうとしない都市住民のユダヤ人がドイツを破壊しようとしている」と訴えた。これがエスカレートしてユダヤ人の大量殺戮につながってゆく。これは当時の体制では国家権力による合法的な死刑であった。

YouTubeにはヒトラーの演説が多数残っている。今我々がこれを見るとヒトラーは狂っており無知な大衆が懐柔されているように見えるのだが、当時の人たちは合理的な判断でヒトラーを支持していると思っていたはずである。

ドイツ人が敗戦後に自分たちは間違いに気がついたが、奪われたユダヤ人の命が戻ってくることはない。彼らは自分たちを善良なキリスト教徒だと信じていたわけで、この過ちが彼らを後悔させたことは間違いない。彼らは自分たちの家族や民族を守るためと説得されて「自分たちとは違っている」ユダヤ人を殺したのだ。

強烈な前例があるからこそ、ヨーロッパの人たちは「国家権力は決して間違えないだろう」とは言えないわけである。

こうしたフレームワーク探しは自分だけで考えていてもできるのだが、あえて質問と問いを繰り返すことで探しやすくなると思う。なぜならば答えだけではなく問いの中にフレームが含まれているからである。議論にとって結論や思考過程は大切だが、実は質問自体にも機能はあるということになる。

古くから日本人はこれを問答と呼んでいた。禅問答という言葉が示すように東洋的な伝統でもある。移民問題のようにどこから手をつけて良いかわからない問題も問答を繰り返すことで新しい発想の糸口を探すことができるのではないかと思う。

ここから逆に発想すると安倍政権の問題が見えてくる。この問題点は安倍首相の資質によるものだ。安倍首相は本来的には「いいひと」なのだろう。お母さんの言いつけを守り政治家になっておじいちゃんの夢を実現させようとしているし、お友達、支持者、自分が恐れている人から何か注文をされると「なんとかして応じなければ」と思考能力が低下してしまう。ところが、安倍首相はたんにお友達の願いを聞こうとするばかりで自分でフレームを作らない。このため次第に問答によるチェックに耐えきれなくなるし、聞いている側もあまりのデタラメさにイライラしてくる。だから対話ができなくなってしまうのだ。

こういう人に反省を求めても無駄である。もはや海で溺れている状態なのだから反省ができるようなメンタリティではないだろう。そして我々の側にもゆとりはない。事実や統計が歪められているうちに何が真実なのか誰もわからなくなりつつある。今や日銀ですら政府の経済統計はあてにならないから自分たちで作らせろと主張している。経済の再生どころか現状把握すらできない。

大島議長は立法府のトップとしての役割を放棄しており、とりあえず議案は通せと言っている。が同時にこの問題は行政府には解決できないと思っているのだろう。さらに良心も残っているからこそ調停を行っているのだ。これに対応できる人は与野党限らず国会の中にまだいるはずである。

事態を懸念した大島理森衆院議長は自民党の森山裕、公明党の高木陽介両国対委員長と国会内で会談。「この法案は大変重い。政省令も多岐にわたる。施行前に法制度の全体像を明らかにすべきだ」と述べ、政省令ができた段階で政府から国会に報告するよう促した。野党も大島氏のあっせんを受け入れ、27日夜に衆院本会議が再開した。

良心ある与野党の議員有志は不毛な国会審議に見切りをつけて事態を収束するために対策を講じるべきである。少なくとも問答ができる体制を作らないと本当に大変なことになるだろう。日本には古くからの対話の伝統があるのだからやる気になれば今からでもできるはずである。

Google Recommendation Advertisement



聞きたい歌だけを聞きたがる日本人

最近、コメントなしでリツイートしてもらうことが増えた。このとき、この人は意見に賛成なのだろうか反対なのだろうかと思うことがある。まあリツイートくらい好きにしてもらっていいとは思うのだがちょっと気になるのだ。

このブログではこのところ「日本は村社会」で公共という概念はないという話をしている。さらに、日本人が文脈によって日本人という枠を伸ばしたり縮めたりすることを観察した。損はできるだけ排除し利得はできるだけ取り込もうとするのではないかと考えているわけである。

日本語で書いていて主語を日本人にしているので、主に日本人が読むことを想定しているわけだが、読んだ人は一体これを読んでなぜ怒り出さないのだろうか。

これを素直に読むと「あなたも私もそうなのですよ」ということになる。つまり、私もあなたも村社会の住人であり、ご都合主義で日本という枠組みを利用していますよねと指摘している。こう言われていい気分になる人は少ないだろうから、非難するつもりでリツイートしているのかなとも思うわけだが、もしそうなら何か言ってくるはずだ。それがないということはもしかしたら、この人たちはもしかして自分たちは日本人の枠の外にいると考えているのかもしれないなどと思う。

その意味では何もコメントのないリツイートにはその人の旋律があるのだなとも感じる。つまり、何も言わないことで聞きたい歌を聞いているのだ。

ITコミュニケーションはジャーナリズムとは違っており相互のコミュニケーションを通じて新しい歌が歌える。しかしそのためには背景にそれを可能にする文化がなければならない。しかし、いわゆるジャーナリズムを自身に都合良く解釈する私たちにはそうした文化がまだ育っていないのかもしれない。だから結局、ITを使っても一方通行のコミュニケーションになる。

お天気のよい日曜日の朝にいわゆるジャーナリズム風のゴシップ素材をみていてこのことを強く実感した。みんな驚くほどいい加減なのであるが、既存のジャーナリズムの担い手たちも「視聴者や読者は聞きたい歌しか聞かない」ことを知っており、進んでその歌を歌っているのかもしれないと思う。

政府の忖度という言葉を嫌っていた朝日新聞社もカルロス・ゴーンの問題に関しては検察とあうんの呼吸を見せている。朝日新聞社は「忖度」という日本の文化を嫌っていたわけではなく、単に自分が気に入らない政権が嫌いだというくらいの態度で政権批判をしていたのだなと思う。あるいは検察庁も朝日新聞さえ抱き込んでしまえば誰からも批判されなくなるだろうと考えたのかもしれない。大抵話をまぜっかえしてややこしくするのは朝日新聞だからである。小沢一郎の例を見てもわかるように、最初に強い印象がついてしまえばそこで勝負がついてしまう。カルロス・ゴーンも日産を追い出された時点で当初の目的は達成されたと言って良い。

フジテレビに至っては朝の番組でカルロス・ゴーン容疑者はブラジル大統領になりたがっており不正蓄財はそのために行われたという「ジャーナリスト」の声を紹介していた。一応、検証するポーズを見せていたが、多分それは何か言われた時に「あの人が勝手に言ったことだから」と言いたいからなのだろう。安倍政権にはあれだけ遠慮して何もいわないのに、話が検証されていないことをほとんど気にしていないようだった。

この番組はパトリック・ハーランにワールドスタンダードについて語らせている。白人の言葉をありがたがるであろう中高年サラリーマンの劣等感を刺激し、さらに彼らが好きそうな企業の噂話を拡散するというものが「ジャーナリズム的」に演出されている番組なのだ。

その上で文筆家と称する変わった髪型の人が「もちろん検察は日産と協力したわけでもなく」「日産がクーデターを起こしたわけでもない」と断言していた。体制に寄りかかって生きる視聴者にとってはこういうことはあってはならないことであり、社会は常に正解を提示しているべきである。この事件は日本を搾取しようとした悪の外人を正義の検察が守ってくれ事件であるべきなのだ。

これも政府に言わされているというより(それはあるのかもしれないが)自分たちが聞きたいあるべき姿について文筆家に語らせているのだと思う。万博がやってくる大阪の未来は明るく、ゴーン容疑者は落ちたカリスマ経営者で、日本の政治はすべて適切に運用されており、それを白人が承認してくれるというおじさんたちのパラダイスがそこにある。だから今日もビールのように見える発泡酒が美味しく飲めるのだ。

ただ、リタイアしてしまったもっと歳の上の人たちは政治は堕落してしまっておりけしからんと考えているはずだ。退屈なので見なかったが、裏番組のTBSではリタイアしたおじさんたちが喜びそうなことを関口宏が語っていたのではないかと思う。こうすることによって俺たちが現役の時代はもっと良かったと思える。さらに9時からはNHKでこれから日産はグローバルスタンダードの経営をしてコーポレートガバナンスをしっかりするべきだという討論が行われたのではないだろうか。実際にそれをやる人は誰もいないだろうが、他人事だといろいろ言えてしまうのだ。

こうした態度は嘆かわしいといえば嘆かわしいのだが、これが日曜の朝の正しい過ごし方なのだなあとも思った。自分が聞きたい歌を聞くのが悪いことだと誰が言えるだろう。

ただ、これが楽しいのはこの人たちが自分たちの村に守られているからである。そもそも公共もジャーナリズムも存在しない日本でこの村から出てしまうと誰もあなたのことを助けてはくれない。終身雇用のやさしさから排除され、戻るべき地域コミュニティもない「さまよえる村人」に歌を歌ってくれる人は誰もいない。

みな、他人の問題については聞きたい歌を聞きたいだけであり、それほど深い関心を持っているわけではないのだと思う。同時にそれは誰もあなたの問題について「正しい洞察」を与えてくれる訳ではないということを意味している。だからと言って彼らを責め立てたとしても彼らが別の歌を歌いだすことはないだろう。

日曜の朝の「ジャーナリズム」には真実はないが、おじさんたちが真実やジャーナリズムを求めている訳ではないという真実は見えてくる。と同時に「このジャーナリズム風の何か」が注意書き・但し書きとかコンプライアンスとか炎上への遠慮とか忖度とかに囲まれているということも否応無しに見えてきてしまう。リアルに見えているそれは実は単なる映画セットの背景の絵のようなものだ。昔の特撮番組でいうとすべて空を飛んでいるはずの飛行機についているワイヤーのようなものなのが見えている。ただ、昔の少年たちはそれほどワイヤーを気にしないのである。

心ある人たちはこの違和感をしっかりと凝視すべきではないかと思う。そしてそれはもしかしたら、我々が幻想の村から一歩足を踏み出そうとしている価値ある1日を作るきっかけになるかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



「拉致被害者を取り戻すためには軍事行動もやむなし」なのか

朝日新聞に少々過激な記事が出ていた。伊木隆司米子市長が北朝鮮への軍事行動を仄めかしたというのである。日本人は言いにくいことは人のせいにする傾向がある。「安倍首相がそう望むのであれば」というのは要するに自分が「拉致をするけしからん北朝鮮は軍隊を使って懲らしめてしまえ」と思っているということなのだろう。1973年生まれのまだ若い市長は普段からこうした言動で知られていたということなので、要するに米子というのはこういう人をよしとする土地柄なのだろうと思う。

北朝鮮による拉致問題の解決を訴えるシンポジウムが20日、鳥取県米子市であった。伊木隆司市長(45)は「安倍内閣が軍事行動をするというのであれば、全面的に支持したい」と述べ、北朝鮮への軍事行動を容認する考えを示した。

「とんでもない話だ」で終わって良いところなのだが、一応基本的なバックグラウンドを整理しておこう。今回はWikipediaで戦時国際法日本国憲法第9条の項目を読む。

まず日本の憲法は国の交戦権を放棄している。では交戦権は何かという問題がでてくる。実はこれが意外と曖昧なのだ。英語の原文ではBelligerent Rightsなどと表現される。もともとはラテン語で戦争を意味しており武力を行使することが全般的に含まれる。つまり戦争する権利そのものと言って良いので、言葉自体は何も説明してはいない。

Wikipediaに詳しい議論がまとまっている。もともとマッカーサーは自衛も侵略も全部禁止したかったようだが、のちに「自衛は良いのではないか」という議論になった。それでも共産党は「自衛ができないのは危険だ」という今とは全く異なった理由で憲法第9条に反対していたことから、交戦権に自衛のための武力行使が含まれるという明確な保証はなかったことになる。

1946年(昭和21年)の憲法改正審議で、日本共産党の野坂参三衆議院議員は自衛戦争と侵略戦争を分けた上で、「自衛権を放棄すれば民族の独立を危くする」と第9条に反対し、結局、共産党は議決にも賛成しなかった。

ではなぜこのような曖昧な議論が生まれたのだろうか。二度の世界大戦に直面した結果、戦勝国だった連合国(のちに日本では国連と言い換えられた)の管理のもとですべての戦争を禁止しようという動きが生まれた。このため国連には法的には戦争という概念がないそうだ。

ただし現代では国際連合憲章により法的には「戦争」が存在しないため、武力紛争法、国際人道法(英: International humanitarian law, IHL)とも呼ばれる。

ウェストファリア体制では主権国家の権利として戦争が認められていた。ただしやみくもに戦争をされるとヨーロッパ全体が大混乱するので、ある程度戦争の決まりを作ろうということになった。これが破綻したのが第一次世界大戦で、第二次世界大戦ではついに核兵器という大量破壊兵器が使われることとなった。さらに、当時の植民地にも主権国家格を与えざるをえない状態になったので「このままでは大変なことになる」と考えて戦争そのものを禁止しようとしたのだろう。

日本はこの国際体制のもとで管理されるべきだと考えられてたのだから、交戦権一般が否定されたのは当時の国際標準化を目指した動きだったことがわかる。その後の議論は実は全て内向きの後付け議論であり、実際に何も変得られなかったからこそ成立している議論に過ぎない。

憲法を改正しても国連憲章を変えるか破棄しない限り人質奪還作戦は実行できない。ところが米子市長の発言からわかるように、日本人は「そうはいっても国際世論を味方につけさえすればなんとかなるのではないか」と考えている人が多い。市長は「戦争を支持するつもりはない」と釈明したようだが、発言自体は撤回せず議論が必要としている。これは、議論をすればなんとか軍事行動ができる余地があるのではないかと考えていることを意味するが、これは間違っている。

日本人は多神教的な村社会を形成していて「原理原則というのは結局みんながどう解釈するかによってどうとでもなる」と考えているかもしれないが、一神教が支配的な欧米が主導する国際世論は原理原則を気にする。だから村の発想で国際法規を議論してもあまり意味はないのだ。

実際の国際紛争を見ているとそのことがよくわかる。例えばイラクの戦争では「イラクが大量破壊兵器を持っていて何か良からぬことを考えている」という疑いがあったことが介入のきっかけになっている。実際には欧米が利権を守りたいという動機があったとしても「国際秩序へのチャレンジ」などというそれなりの理由付けは必要なのである。また現在のイエメン内戦はサウジアラビアなどがイエメンに介入しているが表向きは「暫定政府の支援」という名目になっている。クリミア半島も住民投票で現地の人たちがロシアの編入を望んだのにウクライナが邪魔をしたという表向きの言い分がある。「国際世論をまとめればなんとかなる」なら、こんな面倒な言い訳をしないで、さっさと踏み込めばいいわけだが、そうはならないのだ。

主権国家が単独で自国の利益のために軍隊を動かすことはできないので、拉致を解決するという理由では軍事行動は起こせない。たとえ、自衛隊が軍隊になり、日本が交戦権の放棄を撤回したとしてもそれは現在の国際法上は無理である。

米子市長は一連の発言を通じて「日本人が軍隊や軍事行動について全く理解していない」と言っている。こんな人たち(つまり日本人)に武器を持たせるのは危険だと思われかねない。主権国家は問題解決の軍事行動はできない。かろうじて国際社会の治安維持という名目で集団行動ができるだけである。

時の政府が、軍事行動や、軍事行動ができるよう憲法改正をするというなら、問題解決のために私は支持したい

ただ、Quoraで質問したところ「アメリカはしょっちゅう映画のようなことをやっている」と回答してきた人がいた。アメリカは力が強いから軍事行動ができると思い込んでいる人がいることになる。多分ハリウッド映画を見すぎているのだろう。ただ、こう思い込んでいる人は意外と多いのではないだろうか。

産経新聞までもがアメリカが軍事行動を仄めかしたからアメリカ人が3名戻ってきたなどと書いているのだが、実際にはアメリカは仄めかしただけで実際の行動には出なかった。オットー・ワームビアという青年が昏睡状態で帰国した事件があった(GQ)が、この時も軍事行動というオプションは提示されていなかった。Quoraの同じ質問で、イラン革命の時に人質奪還を企てて失敗したと教えてくれた人がいた。革命の混乱時の出来事であり、外交官を保護しなかったという特殊な事情があったそうだ。だが、これも軍事作戦としては失敗している。つまり、どこに誰がいるかわかっていたとしても、現地で動けるように訓練しておかないと、いざという時に作戦は実行できない。拉致被害者はそもそもどこにいるかさえわからないのである。

さらに、イギリス軍がシェアレオネで人質を奪還したという作戦を見つけたのだが(wikipedia)これはシェアレオネ政府からの奪還作戦ではなく、シェアレオネに駐留していたイギリス軍が主権格を持たないテロリストに対する作戦である。北朝鮮は確かに「テロリスト的」に見えているのかもしれないのだが、一応少なくとも形式上は多くの国に承認された主権国家なのでテロリスト扱いすることはできない。

この一連の議論や発言から日本人が軍隊や戦争についてあまり理解しないままで憲法改正の議論をしていることがわかる。さらに拉致被害についてもあまり真剣に捉えていないのだろうということがわかる。軍事攻撃の意味も具体的なイメージも、主権国家とテロリストの形式的な違いも理解していない。

この件について調べていて一番説得的だったのは、日本政府は朝鮮語ができる人を養成していないので朝鮮半島で人質を探すことはできないだろうという分析だった。つまり、拉致被害者を救うために朝鮮の政府を軍事攻撃で打倒したとしても、拉致被害者を見つけられないのだから救いようがないというのだ。このことからも、改憲を目指している人があまり拉致被害者の救出のことを真面目に取り合っていないということをうかがい知ることができる。彼らは単に勇ましいことが言いたいだけであり、それが取り上げられたとしても日本は依然何の反省もしていない危ない国なのだと思われて終わりになってしまうのである。

Google Recommendation Advertisement



お医者さんにかかるときにIDがないと診断拒否されるかもしれないという話

Yahoo!で読売新聞の面白い記事を見つけた。内容も面白かったのだがそのあとの無反応ぶりも面白かった。記事のタイトルは病院で「なりすまし防止」外国人に身分証要求へというものだ。これだけを読むと「あ、外国人の話なのか」と感じるだろう。だが冒頭のパラグラフを読むと全く別のことがわかる。記事を素直に読むと日本人にもIDが必要になるのである。

政府は外国人が日本の医療機関で受診する際、在留カードなど顔写真付き身分証の提示を求める方針を固めた。来年4月開始を目指す外国人労働者の受け入れ拡大で、健康保険証を悪用した「なりすまし受診」が懸念されるためだ。外国人差別につながらないよう、日本人にも運転免許証などの提示を求める方向だ。

つまり、IDカードがないと診療が受けられなくなる可能性があるということになる。実際には健康保険証を持っていても10割負担ということになるのだろう。IDとして想起されるのは運転免許証だがすべての人が持っているわけではない。そういう人はパスポートかマイナンバーカードが必要になるはずだ。このエリアは特にリベラル系の人たちが反対しそうなテーマなので、Twitterでも大反対が起こるだろうなと考えたのだが、実際には無反応だった。

先日来、フレームワークの話をしているのだが、日本人はフレームでものを考えるのが苦手なようである。このため毎日新聞社は「外国人のなりすましを防止する」というフレームを提示することで「ああ、日本人には関係がないな」という印象を与えようとしているのだろう。

以前、2020年からマイナンバーカードを保険証にするという話が出た時も大反発されていた。そもそもマイナンバーカードに反対をするというのも実は経緯から来ている。別に野党が反対する根本的な理由はない。労働組合や社会党系の人たちが1970年代から国民総背番号制度(コトバンク)と呼んでこれを嫌っていた反対してきたのが現在にお約束事として残っているだけの話なのである。これが長い間積みかさなり「政府はマイナンバーカードを使って国民の健康状態を盗み見しようとしている」というようなビッグブラザー言説が生まれた。

一方で、政府の世論把握能力も低下しているのではないかと思われる。最近の読売新聞社は政府のサウンディング(昔は観測気球などと言われた)に使われることが多い。官邸主導が増えて自民党が持っていた「世論を探る」機能が弱体化しているのではないかとも思う。顧客である有権者を管理しているのは各選挙事務所だからである。反発が出れば撤回もあったのだろうが、無反応だったので記事通り来年度には国会審議なしで「運用」が始まりそうだ。

いずれにせよ、フレームに乗れば大騒ぎがおき、乗らなければ大切であろうとなかろうと無視される。そこで「検討を始めた」というニュースが次から次へと出てきて、そういえばあのニュースどうなったんだろうというようなことが増えてゆく。

政府としては2020年からマイナンバーカードに保険証の機能を持たせようとしている。政府はマイナンバーカードに全てを集約したいのだがTwitterの反応は「なぜ保険証に顔写真をつけないのか」と反応していた。政治家が説明せずに新聞辞令だけで物事を進めようとするので、話が理解されないままで複雑な方向に流れてしまうのである。保険証に顔写真を入れると保険を受け取るために顔写真を撮影しなければならなくなるので市町村役場は大混乱するだろうし、保険証は厚生労働省版のマイナンバーカードになってしまう。

これまで膨大な社会問題をすべてたった一つの保守・リベラルという対立軸で「処理」してきた日本人は問題の目利きができなくなりつつあるのだなと思った。そこで話の持って行き方でその後の問題の良し悪しが大きく変わってしまううえにどんどん部分最適化が進む。

試しにこの問題をQuoraで質問してみたところ「あなたがどこでそんなデタラメを仕入れてきたのか知らないが」というようなニュアンスの回答が戻ってきた。日本人は変化をとても嫌がるので、表から「来年から日本人がお医者さんにかかるときにはIDを求める」とやってしまうと大反発が起こる可能性があるということがわかる。ヘッドラインの書き方は重要でフレームワークさえ変えてしまえばいくらでも反応を操作できるということになる。

実はフェイクニュースよりこちらの方が怖い。フェイクニュースは事実に当てはめれば違っているということが立証できるのであとから反論が可能だが、初動である空気を作ればなし崩し的にものごとを動かすことができるのである。一方で反対している人たちも実はよく考えて動いているわけではなく既存の対立行動に合わせて脊髄反射的に反応しているだけなのである。

よく野党支持の人達は説明責任を果たせなどというのだが、よく話を聞かずに騒ぐ人も多い。結局この国民がいてこの政府なのだなという気になる。そう思ってTwitterのタイムラインを見ていたら「消費税20%」でちょっとした騒ぎが起きていた。こちらも3%か5%かくらいから揉めており目的ではなく税率が一人歩きした議論が定着していることがわかる。

だが、この問題を1日おいてみて、そもそもお医者さんが明らかな日本人に「IDを出せ」ということはないんだろうなと思った。通達が出ても無視すればいいだけの話だからだ。結局は外国人対応であり「差別なのでは?」という野党の反発を事前に封じたかっただけなのだろう。が、今度は日本人なのに外国風の苗字を持っているとか(結婚するとこういうことがあるそうだ)白人系や黒人系の両親を持つ日本人が差別されることになるんだろうなと思った。彼らは明らかな日本人であるにもかかわらず在留カードの提示を求められたりすることがあるそうである。

Google Recommendation Advertisement



部分最適的な議論とニート

これまで、日本では社会主義が混合した自由主義が様々な不具合を生じさせているという議論をしてきた。当初想定していた通り閲覧時間が減っている。この理由を考えた。結論からいうとつまらないからだろう。ではなぜつまらないのかを考えた。つまり、人々のニーズに合致していないからだ。時々誰かを叩いているように見えるものを書かないと、ページビューが落ちたり購読時間が減ったりする。

最近Quoraという質問サイトに投稿している。主に答えを書くことが多いのだが、Quoraではむしろ質問を募集しているようだ。質問を作るとページが生まれる。するとそこに人が集まる。するとページビューが増える。だからQuoraは質問を求めているということになる。

だが、そこに有効な答えがつくことはほとんどない。答えにはインセンティブがついていないからである。このようにQuoraはプレゼンスを求めて答えのない質問を生産するシステムを作っている。だが、Quoraはそれでも構わない。そういうシステムなのだ。

そもそも答えが集まらない上に日本人は答えを書きたがらない。試しにアパレルと美容で専門家に回答リクエストを出してみたのだが反応がない。日本のコンサルタントと呼ばれる人たちは知識を持っているが問題解決のための智恵はないのだろう。例えば「アパレルは売れないがどうすればいいか」という質問に答えはつかない。この問題を打開した人は日本にはいないからである。彼らは「誰にも知られていない秘密のレシピがある」といって情報を公開しないことで生き延びている。しかしそれは過去の成功の寄せ集めであり根本的な問題解決にはならない。彼らもそれがわかっているから答えが公開できないのであろう。

これとは別に時事問題でいくつか質問をしてみた。防弾少年団の問題と北方領土の問題について書いた。これについてはいくつか回答をもらったが、だいたい世の中にある論と同じである。ある種の正解ができあがるとそれを述べる人が多いということになる。ここから、人々は正解を述べたがるということがわかる。この「正解を述べたがる」ということを頭に入れておくとどのような答えが集まるかがなんとなく予想できるようになる。正解に合致するように書いてやればいいのだ。

ではなぜ正解を述べたがるのだろうか。一つ目の単純な答えは学校教育が悪いからというものである。テストで正解を覚えると褒めてもらえて最後には東大に行けるというシステムでは、どうしても正解を知っている人が偉いということになる。学校教育は過去の正解を集めると褒めてもらえるスタンプラリーなのだ。

だが、理由はそれだけでもなさそうである。

アパレルの専門家はたくさんの正解を知っていて雑誌に広告を出したりフェアを開催したりして毎月の売り上げを維持しなければならない。すると情報が溢れプロダクトラインは整理されないまま増えてゆく。だがこれを整理しても専門家の暮らしはよくならない。Quoraも答えのつかないシステムを量産しなければ売り上げにならない。さらに政治家もシステムを整理して物事を単純化しようとは言えない。なぜならば彼らも売り上げを立てる必要があるからだ。

政治家は自分たちで支持者を集めてこなければならなくなった。このため地元に利権を誘致し、支持者が喜ぶような乱暴な意見を述べる人が多くなった。その度にTwitterは荒れ、野党の反発から国会審議が止まる。だが、それを整理しようという人はいない。状況を整理しても票には結びつかないからである。彼らもまた暮らしを成り立たせるためには情報量を増やして状況を混乱させることに手を化している。前回、このブログで政治について説明したところ「国会議員は選挙のことを考えず全体について考えるべきだ」と言っている人が圧倒的に多かった。だが、全体のことを考えている人に投票しましたかと質問するとあるいは別の答えが返ってきていたはずだ。

いわば人々が限定的な自由主義のもとで働けば働くほど情報が増えシステムが混乱し、自己保身のために複雑な社会主義的システムが作られ、さらに状況が混乱してという無限のループが生まれることになる。重要なのはこれが日本で「働く」ということの意味なのであるということだ。かつて日本の製造業が空気を汚さないと生産ができなかったのと同じことである。

これを整理するためにはこの枠の外に出る必要があり、それは働かないということになってしまうということになる。

先日「ブッダ最後の言葉」の再放送を見た。花園大学の佐々木閑教授が大般涅槃経を解説するというものである。宗教色を取り除くために僧侶の組織論として捉え直して紹介していた。僧侶の集合体は「涅槃に入る」ための共同サークルだが、組織を維持するための戒と目的を達するための律があるそうである。しかしそれだけでは僧侶は食べて行けない。そこで経済を支えるシステムが必要だった。それが在家信者だ。

この番組で佐々木教授は、ニートは僧侶のようなものであるといっていた。生きているということは仏教では苦痛なのでそこから解脱を目指す人がいないと人々は救われない。だが生から解脱してゆくと食べて行けなくなる。それを在家信者が支えるというのが仏教の基本的な考え方のようだ。代わりに僧侶は自分たちのコミュニティにこもるのではなく在家信者に俗世的な生きる知恵を与えるという仕組みになっている。僧侶は働かないという意味ではニートであり、例えば生産性がないという意味では基礎研究の科学者のようだとも考えられる。

基礎研究はノーベル賞などの社会法相システムがある。一方、ニートはそれぞれが孤立しており、生産セクターにフィードバックするシステムがない。だからニートはだめだと言われてしまうのである。

俗世のシステムをありのままに観察してゆくと最終的に宗教に答えが見つかるというのはとても皮肉なのだが、「生活の苦労がない科学者や政治的指導者を持つこと」が豊さにつながるというのは頷けるところが多い。例えば総理大臣は権力闘争で生き残りを図る必要があるから尊敬されず、世の中を混乱させてばかりいる。一方で天皇が戦争や災害に心を配ることができるのは、この生活を国が支えており、地位を脅かす人がいないからである。かつて政治家が尊敬されていたのは彼らがお金を集めなくても周りで支えてくれる人たちがいたからだろう。今でもそのような家は幾つか残っており「選挙に強い政治家」と呼ばれる彼らは比較的未来のことを考えた発言ができる。

しかしながら、俗世の人たちはそうも言ってはいられない。すると答えつかない質問が溢れる。しかし世の中の人たちは質問をするという面倒なことはしない。オンラインコミュニティで成功するには二つの正解から選ぶことになる。

一つはこれまであった正解を過去の成果とともに誇大に宣伝するというものである。例えばバナナを食べたら痩せたとか、聞き流していたら英語が話せるようになったというものだ。こうした情報は巷に溢れている。歴史を単純化したうえで都合の良いwikipedia記事だけをコピペしたものが保守の界隈では「立派な歴史書」としてもてはやされているそうだ。

もう一つは正解からはみ出した人たちを「わがままだ」と言って叩くというものである。豊洲が正解になったのだから、そこでやって行けない伝統的な目利きはわがままだと言って潰してしまえばいい。すると、政治家も都の職員も過去の事業の失敗の責任を取らなくて済む。また保育園に預けて働きたいというお母さんはわがままなので無視すればいい。日本は日本民族から成り立っているという正解のためには、アイヌ民族や在日朝鮮人はいないほうがいい。さらに結婚はいいものであるべきだし社会保障の単位であるべきなのだから、同性愛は病気ということにしてしまえばよいのである。

それでも不満はたまるから、時々明らかに正解を外れた人(ちょっとした法律違反や不倫などの道徳違反)の人たちを見つけてきて叩くことになる。

こうしてコミュニティは荒れてゆく。だが、多くの人たちはそれでも構わないのだ。こうして誰かが状況を整理するまでは部分最適化が進み人々はかつての正解にしがみつくためにますます過激なコンテンツを求めることになる。

Google Recommendation Advertisement



保育園にわざと落ちる「わがままな」親たち

先日は憲法改正と外国人労働者受け入れの問題から「出し惜しみ論」について考えている。この一環として日本に蔓延する「わがままな親たち」について考える。片山さつきによると「私たち」自民党は国民は義務を果たさず権利ばかり追求すると考えている。このわがままさの正体がわかれば自民党の世界観が正しいかどうかがわかるはずである。

保育園わざと落ちる問題についておさらいしておく。この現象は不承諾通知狙いと呼ばれている。東洋経済から抜粋する。東洋経済によると不承知許諾通知狙いは慢性的な保育政策の不足から起きている。

ヨーロッパの先進国では、3歳もしくはそれ以上の育児休業をとれる国も少なくありません。しかし、日本の育休制度は、あくまでも1歳までが原則で、育休延長は保育園に入れなかった場合などの救済策として設けられているに過ぎません。

このことが、実はさまざまな歪みをもたらしています。

育休は1年間は取れるのだが、それ以降2年目までは救済策として整備されている。この救済策を受けるためには「保育を申し込んだが受け入れられなかった」という実績が必要である。一歳児はまだまだ手がかかる上に、職場に復帰してしまうと「男性並み」の働きが求められるため、子育てと職場の両立に不安を持つ親が多い。だから最初から保育園に落ちたことにして不承諾通知を狙う人がいるのである。わざと人気の場所を選ぶ人がおり、選ばれても通えないからと辞退する人に多いそうだ。彼らは職場とキャリアを失うのが怖いので「彼らができる範囲で」最適な行動を取ろうとする。これが制度を混乱させている。つまり、親のわがままとは部分最適化行動なのである。

不足のある政策は部分最適化行動を生み政策の不足を助長するということになる。

ポストセブンも同じような解説をしている。

制度を作るとその制度を「有効に活用しよう」とする人が出てくる。しかしその他に自由度がない(夫は育児を手伝ってくれずその余裕もないし、職場も人手が足りず育児中の女性を特別扱いできない)うえに制度そのものも十分ではないので、その制度の中で最適化を図ろうとしてますます制度が混乱するという悪循環が生まれる。

保育園の数が十分あればこんな問題は起こらないはずである。ではなぜできないのか。これについて、以前地元の市役所に取材したことがある。予算制約があり駅前の便利な土地にたくさん保育園が作れない。統計上の数合わせのために空いた土地に作ったりするのだがそこには需要がない。無理して便利な土地に作ってしまうと今度は別の問題が起こる。今まで保育園がないからといって子育てを諦めたていた人たちが子供を作ったり、キャリアを諦めなくなったりする。すると保育園の需要が増えてしまうのである。

複雑に思えるかもしれないのだが、起こっていることは単純だ。既存の変数から計算して保育園の需給予測を立てる。しかし、保育園の数が変数になり需要を増やしてしまうという「フィードバック効果」が生まれる。だから、いつまでたっても数字が確定しない。市役所の人たちは薄々これに気がついているが理論化まではできない(そもそもそんなことを考えていても仕方がない)ので、「国が決めること」だとしてコントロールを諦めてしまっているようだ。

ここでもう一つ重要なのは「保育園の数がいつまでも足りない」ということである。計画的社会主義の供給が不足に陥ることは経験的には知られている。ソ連ではすべての生活必需品を計画生産していたが、1960年代ごろまでに破綻し「いつもモノが足りない」という状態になっていた。いくつか要因は挙げられているが、何がキードライバーなのかは確定していないのだという。個人的には社会主義にはインセンティブを与える仕組みがないからだと思っていたのだが、これが主犯だという証拠もないそうである。

日本は資本主義社会なので日用品の生産は充足している。足りないのは介護や子育てなどの福祉分野と労働賃金である。この二つの分野で社会主義化が起こっていると仮説すると状況がうまく説明できる。

政府がどのくらい市場に介入すべきかというイデオロギー的な問題は横に置いておいたとしても、政府が介入するとところでは部分最適化が起きなおかつ供給はいつまでも過小なものだろうという予測はかなり確度が高い。保育所がいつまでも足りないように海外労働者も充足しないだろうし、それは賃金の慢性的な不足という意味で日本の消費市場をじわじわと衰退させるだろう。

前回蓮舫議員のツイートを批判したのはこのためだ。つまり、蓮舫議員が「不足人員の需要を出せ」といったことが、彼らが意図した華道家は別にして計画経済的な視点になってしまっているのだ。

実は政府が計画を作ってしまうと、その枠までは低賃金労働者が供給できる可能性があるという宣言になってしまう。すると、その低賃金労働に人が張り付くことになる。実際に各産業ではこの数字を巡り「自分たちの産業にも多くの人を割り当てるべきだ」という声が出始めている。(毎日新聞)こうすると賃金を上げずに企業活動が維持できるのである。そしてそれはアパレルのゾンビ企業を温存する。これも社会主義では「ソフトな予算制約」と呼ばれる問題に似ている。

一方、対象から外れたコンビニやスーパーは、将来受け入れ対象になることをめざし、経済産業省などと協議を続ける。縫製業務などで外国人技能実習生を多く抱える繊維アパレル業界も「認定されれば工場の安定的な操業につながる。ぜひ対象に加えてほしい」(ワコール)と求めた。

安倍首相はアベノミクスで経済が成長すればその果実は地方と労働者に滴り落ちると説明してきた。しかし実際にはその果実が滴り落ちることはなく、安い賃金労働者がもっと必要だから海外から調達してこようという話になっている。野党はこのことを追求することなく「確実な需給予測を」と言っている点から、安倍政権だけでなく野党も資本主義経済についてよく理解していないことがわかる。狭い村を基本に行動する日本人はもともと計画経済志向が強いのかもしれない。だが実際の経済は一部の人が完全にすべての情報を把握できるような大きさではない。

政府が市場に関与すればするほどソ連型社会主義の「不足」の問題が出てきてしまう。だが、自民党は構造的な問題を解決することはなく「国民がわがままだから自分たちの素晴らしい計画がいつまでたっても成就しない」と考えて「天賦人権を取り上げて政府が指導すれば問題は解決するのではないか」と推論するようになってしまったのである。

数年前に「天賦人権はふさわしくない」と言い放った片山さつきは今や大臣になっている。そこでわかったのは公職選挙法を都合よく解釈して各地に大きな看板を作ったり、カレンダーを会議の資料だといってプレゼントしたり、さらには自分の名前を使って勝手にいろいろな商売をするであろう人を無償で秘書として雇ったりということをしていた。一生懸命自分のキャリアを守ろうと試行錯誤する親がわがままと言われる一方で、政治家の私物化はわがままと呼ばれることはない。

これが自民党政権を放置し続けたツケなのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



ジャニーズはYouTube戦略を成功させるために何に取り組むべきなのか

最近ジャニーズの新しいYouTubeチャンネルを見つけた。SixTONESという名前のグループを滝沢秀明がプロデュースするようだ。SixTONESと書いてストーンズと読むようだが、これは英語圏では通用しないように思う。6人を宝石の原石に見立てて「磨けば光る」としたいのだろう。ジャニーズはオンライン戦略では遅れをとっているが、成功して日本のプレゼンスを高めてほしいと思う。

今回はこの滝沢プロデュースの新しいグループを観察しながら多様性について考える。例えば多様性を大切にする立憲民主党とこれまでの正解を守ろうとする国民民主党のどちらが未来に近いかというようなことがわかるだろう。

ジャニーズが遅まきながらオンライン戦略に取り組み始めた背景にはいろいろなきっかけがあるのだろう。第一にSMAPの分裂騒動をきっかけにしてオンラインで出遅れていることを発見したのではないかと思う。元SMAPの片割れの3人がオンラインに進出しそれなりの成功を収めていることからわかるように、ジャニーズはテレビ・ラジオは支配できてもオンラインでのプレゼンスがない。逆にいえばこの分野では伸びしろがあるということである。草彅剛のチャンネルの登録者は80万人を超えたそうだ。

今のジャニーズのマネジメントチームは高齢化しておりYouTubeの仕組みなどを理解するのは難しいだろう。滝沢秀明はまだ若いのでこの分野について学ぶことができる、また、YouTubeにも日本でのプレゼンスを増したいと考えがありジャニーズと組むのは悪い話ではないと考えているようだ。SixTONESは日本初のプロモーションキャラクタとして選定されたようだ。

SixTONEの曲調はK-POPを意識した作りになっており、ジャポニカスタイルというように日本風を唄っているところからK-POPの成功も意識しているものと思われる。海外進出に取り組んだところまでは評価できるのだが、「日本を輸出する」という点においては完全に読み違いをしている。彼らはK-POPが正解だと思っているのだろうがそれは単に表面上の問題に過ぎないのである。

日本のアーティストは「この壁」が超えられない。政府との結びつきが強すぎる秋元康はすでに右翼扱いされており海外には出られないだろう。これは秋元が政府の考える正解を正確に再現してしまったためであると考えられる。またEXILEも政府系イベントで通り一遍の日本らしさを演出するに止まっており先行きは難しいものと思われる。新潮45や産経新聞社のように、人権と民主主義に理解のない今の体制を擁護する側に回ってしまうとその他のマーケットを全て失ってしまう。「外見的な正解」は人を無能にしてしまうのである。

多分、彼らは「自分たちが何者であるのか」ということを考えたことがないまま日本を輸出しようとしているのではないかと思う。ゆえに改めて日本を演出しようとすると、ハリウッドが勘違いして誇張した日本コスプレのようなものを自ら演じることになってしまう。自民党の憲法草案の序文の薄っぺらさからも日本人が対して自分たちの国をよく理解していないことがわかる。

今回のMVを見るとわかるのだが、着物、富士山のような形の照明、日本風のセットなどがあり「俺たちはジャポニカスタイルでユニークだ」というような歌詞が歌われる。だが、いったい何がユニークなのかということが全く語られない。わびさび、華麗、儚さと唄っているのだが、多分歌詞を書いた人たちも、いったい何が日本風の価値観なのかということは説明できないだろう。彼らは「これが正解でしょ」と一生懸命なのだが、それが何一つ伝わらない。

日本のアニメが海外で成功したのは高度経済成長期からポストバブル期にかけて「なんとなく違和感があるがそれがはっきりとしない」という価値観を海外と共有したからではないかと思う。実写では表現できないから「絵に逃げた」とも言えるし、日本人は大人になってもアニメを見る習慣が抜けないので子供向けではないアニメ市場があったからとも考えられる。大人になってもアニメを見ている人たちは外向きでは立派な社会人を演じながらもどこか「そうでない選択肢もあったのになあ」と感じていたのではないかと思う。日本のアニメの担い手は正解の外にいたので海外に広がることができたと言える。

いわゆる大人向けのOVA作品と子供向けのアニメやヒーローものとは違うのではないかという人もいるだろうが、日本のアニメの作り手たちは単に子供向けのお話を作っておもちゃが売れればいいとは考えていなかった。商業主義的な限界はありつつもそこになんとか彼らが持っている違和感を入れ込もうとした。これは当時正解だった純文学に彼らの居場所がなかったからだ。彼らはのちに正解になることを求めてSF文壇のようなものを作ったがこちらは長続きしなかった。

アメリカ人は防弾少年団を見て「自分たちと同じような音楽を肌感覚で理解し」なおかつ「多様な世界での自己の受容」という基本的な価値観を共有しているということを感じたのだろう。同時に文化的な差異を「発見」してそこにエキゾチズムを見出す。つまり出発点は内心になっており、そのあとで外見に目をつけるという順番になっている。これは日本のアニメが受容されたのと同じ道筋だ。

ところが均質な世界に住んでおり周りに合わせたがる日本人はこうした意味での内心を持つ必要がない。共通点となる内心そのものがないので、今の欧米では共感を得るのは難しい。しかし、たまたま防弾少年団がそうだったのではないかと思う人もいるかもしれないので、別の例をあげたい。

日本のオンラインで成功している人に渡辺直美がいる。渡辺直美のインスタグラムは840万人のフォロワーを擁しているそうだ。彼女の提供している基本的な価値観は「太っているが自分らしく輝いている女性」という従来のファッションアイコンとは違ったキャラクターである。グッチのキャラクターにも「ただ可愛いだけじゃないモデル」として選定され、そのバッシングの過程もニュース(ITメディア)になるという具合だ。ただ、彼女は母親が台湾人のバイリンガルであり、その意味では「普通の日本人」とは違ったアイデンティティを持っている。これがいったん海外で受けて、その評判が日本でのファンを増やすという構造になっている。

実は日本のインスタグラムのフォロワー数の上位3名はいずれもマルチカルチャーなのである。2位はバングラディシュ人の父親を持つローラで、3位は在日韓国人の母とアメリカ人の父を持ち日本語環境で育った水原希子なのだそうだ。つまり、日本でもこうした多様性を持った人たちが受け入れられ始めているということがわかる。海外の評判がダイレクトに日本市場に伝わってくる土壌ができつつあるのだろう。

ここからわかるのはいわゆる内心が生まれるためにはアイデンティティの複雑さが必要ということである。「普通の」日本人はこうしたアイデンティティの揺らぎを感じないまま日本の公教育を受ける。集団と一体化してしまうのでアイデンティティクライシスを感じることはない。ここから除外されたと感じても「自分たちが正解である」と主張する。Twitterで行われているのはこの争いである。彼らは正解などない世界で正解を求めて闘っているのだ。

日本人が正解を求めて戦う一方で多様性の当事者たちは自分たちが多様性を代表しているなどとは言わない。一人ひとり違った成り立ちがありそれを受け入れてほしいと感じているだけである。だから「多様性」などとひとくくりにしてそれを正解と祭り上げているうちは多様性が理解できない。

バイリンガルはわかりやすいアイデンティティの揺れである。しかし、この他にも例えばフレディー・マーキュリーのように「普通とは違ったジェンダー意識」を持っている人たちもアイデンティティの揺れを感じやすい。したがって内心を育むチャンスに恵まれるということになる。

日本のアニメが受け入れられていた時代と比べると世界はより複雑化している。だから、こうした揺れと揺れに伴う価値観の提示がトレンドになりつつあるのだろう。

一方で均質な社会出身の人たちは別の工夫をしている。

以前JYPの国際戦略として、わざと外国人を混ぜるという戦略を観察した。チーム内にアイデンティの揺れを作ることで国際社会への展開の足がかりを作ろうとしているのである。ある7人組のチームにはタイ系アメリカ人と韓国系アメリカ人がおり、これを移民として渡った別のメンバーが橋渡しをするというような構成になっている。このようにアイデンティティの揺れは人工的にも作り出せる。韓国も比較的均質な国であり、海外移民を加えて揺れを出さないと国内組だけで固まってしまう可能性があるということを意味しているのだろう。

ジャニーズの取り組みは最初の一歩であり、道を間違えなければここから発展する可能性はあるのではないかと思う。

旧来のジャニーズはテレビでファンを開拓しそれを強度に組織化することで成功してきた。音楽レーベルに対してチャートの上位に常に入る「売り上げの見込みが立ちやすい」アーティストが効率的に供給できていた。ところがこれが今では裏目に出ている。最新のチャートを見ると上位に1組くらいはジャニーズのアーティストが入るが後が続かない。代わりにYouTubeで大量露出された韓国人アーティストが韓国語のままで複数チャートインするという状態になっている。

旧来のファンが組織化したまま高齢化していってしまうことから見ると、いったん出来上がってしまった組織に後から新規のファンが入るのは難しいのだろう。ここに捕まってしまうとそこから抜け出せなくなるという未来が容易に想像できる。滝沢の場合は国際戦略に合わせると「これは今までのジャニーズではない」と言われるだろう。

実はアンチというのは違和感の結果であり、今後成功できるかどうかの指標になっているのである。単に炎上を目的にアンチを生み出すのではなく、存在そのものに違和感を感じさせるようでなければ未来はないのだ。これは実はエンターティンメントだけではなく、政治にも言えることなのではないかとおもう。

Google Recommendation Advertisement



防弾少年団の問題でテレビ朝日は何に失敗したのか

防弾少年団がテレビ朝日の番組に出られなくなって日本の保守は大喜びだった。だが、海外ではどんな反応が見られるだろうか。このニュースをアメリカのABCが伝えている。ABCは朝の人気番組で防弾少年団を紹介しており「自分たちとあまり変わらない気のいいお兄ちゃん達」という印象がある。それを頭に入れてこの記事を読んでいただきたい。なお記事は荒訳なので、間違いを含んでいる可能性がある。

日本のテレビ局がBTS(防弾少年団)のテレビ出演をメンバーの一人が着ていたTシャツを理由にキャンセルした。テレビ朝日は金曜日の生放送の出演をオファーしていたが、メンバーの一人であるジミンに対するクレームを受けてこれを取り消した。

視聴者はジミンが2017年3月にロスアンゼルスでジミンが着ていたTシャツにあった「原子爆弾の雲」と「第二次世界大戦からの解放」という内容にクレームをつけた。Tシャツには「コリア」と「愛国」と書かれていた。テレビ朝日はBTS所属事務所とこの問題について話し合ったと説明している。事務所はのちにオフィシャルファンページでショーには出演しないと告知した。

ABCニュースはBTSのマネジメントチームにコメントを求めたが、チームからの即時回答は得られなかった。

韓国のローカルニュースは日本の反韓感情の証拠の可能性があると伝えている。聯合ニュースのTVレポーターは「韓国人歌手が日本で突然キャンセルされたのは初めてではない」と説明した。

BTSは来週に東京ドームを皮切りに日本の4か所でのコンサートを予定している。この韓国のボーイバンドはアメリカのビルボード200チャートで2回一位を取っている。

表面的には事実だけを伝えており、ここからアメリカの人たちがどんな印象を受けるのかはわからないが、一つ見逃せないことが書かれている。韓国側の視点で書かれているのである。

アメリカの人たちは日本人のように原爆を絶対悪とは思っていない可能性が高い(原爆投下の知識すらない可能性もある)からこれが「原爆」で起きた反応なのか「韓国独立」で起きた反応なのかがわからない。さらに、リーダーのRMは英語が堪能であり、最近グッドモーニングアメリカ(GMT)というアメリカの有名な朝の番組に出演して人気を得ている。彼は普通のアメリカ人と同じような英語を話す親しみの持てるアーティストである。

そうした背景を知った上でこの記事を読むと「なんだかよくわからない問題のために突然出演をキャンセルされたかわいそうなバンド」という印象がつく。するとアメリカ人は韓国側に肩入れしてしまうのだ。韓国人の歌手が出演をキャンセルされたのは初めてではないという韓国側からの情報にも「差別感情」が匂わされている。

日本でTwitterの反応をみると「テレビ朝日が番組出演をキャンセルしたのは大勝利だ」というようなことになっているのだが、実際にはそう思われていない可能性が高い。

今回、テレビ朝日はなぜ防弾少年団の出演をキャンセルしたのかを説明しなかった。多分、関わり合いになるのを避けたのだろうし、原爆の写真が問題であることは日本人には説明しなくてもわかる。さらに他のマスコミもこれを話題にすることを避けたので誰も「日本人が原爆についてどう思っているか」を説明しなかった。だからこれが翻訳されてアメリカで紹介されることもない。一方で、韓国は憶測も交えていろいろな情報発信をするので、結果的にこれだけが伝わるのである。

テレビ朝日は外国の視線も意識しながら「両国で違う見方があることは承知しているが政治問題に発展しかねない議論を持ち込むべきではない」とか「アーティストの表現の自由は保証されるべきかもしれないが、日本の国民感情から見て原爆を許容したとみなされかねない出演者を許容することはできない」などのステートメントを出し、原爆は日本では特別な問題であるということを伝えるべきであった。しかし、もともと内向きで国内の炎上だけを気にした日本のメディアが数日でこうした判断を下せたとも思えない。

国内市場が狭いとか外貨が必要だとかいう理由があったにせよ、積極的にアメリカに進出し言葉も堪能な人が多い韓国と比べると、日本人は内向きでアメリカに進出した日本人のアイドルはそれほど多くない。通訳を交えてあらかじめ決められた「アーティストトーク」ができたとしてもRMのレベルでは英語は話せないだろう。通訳越しの会話よりも直接話せたほうが親近感が増すというのは当然だ。

日本が困った時に国際世論が、顔の見える韓国と顔の見えない日本のどちらを応援するのかということになる。答えは明確なのではないか。保守と呼ばれる人たちは今回騒ぎを起こして日本を守ったと思っているのだろうが、テレビ局を萎縮させることで結果的に日本の声を海外に届けるのを妨げている。なんとも皮肉なことだ。

日本の議論はいつも内向きである上に、そもそも日本人は外国人を人としては見ていない。高齢化が心配だから働き手は確保したい。しかし、賃金も払いたくないし、社会保障からも締め出したいというような議論が平気で行われている。またすでに海外から「研修」という名目で開発途上国から来た人を騙して使っている。実習のはずなのに怪我をしたら使い物になれないから帰れと言われたり残業代の時給が300円という訴えも出ている。こうした実態が当局に見つかると研修先を用意するのでもなく途中で打ち切り国に返してしまう(朝日新聞)し、彼らがあまりの辛さに逃げ出しても「脱走した犯罪者だから」ということで犯罪者扱いして国外に退去させている。さらには難民として入ってきた人を何年も施設に留め置き(東京新聞)自殺者も出している。人としてみていない外国から信頼してもらえないのは当たり前である。

日本人は「言わなくてもわかるだろう」と考える人が多いのかもしれないが、アメリカ人は説明しないことはわかってくれない。内向きで外国語も話せないうえに、そもそも説明しようという気持ちにもならないから、欧米諸国にもわかってもらえないだろう。

自分たちが下に見ている外国人を使い倒し、逆に上に見ている人たちには萎縮して自分のことをうまく説明できない。100歩譲って慰安婦や徴用工の問題に日本の言い分があったとしても、日本語だけで内輪の議論をしているだけでは何も伝わらないだろう。

実はテレビ朝日の対応もその延長になっている。外国の視線を意識しない時点で、テレビ朝日は議論に負けていたのである。

Google Recommendation Advertisement



防弾少年団のミュージックステーション出演見送りの意味


防弾少年団がミュージックステーションへの参加の見送りを表明した。(スポーツ報知)一部でスポンサーへの抗議電話運動などが始まりつつあり、テレビ局側が巻き込まれるのを恐れたのではないかと思う。これを見て「日本のエンターティンメントはかなり特殊な状態に置かれている」と思った。と同時に日本では政治的課題が「かなり面倒なもの」と捉えられていることがわかる。日本人は政治的話題に踏み込むことをほぼ無意識に避けていると思う。そして苦手意識を持てば持つほど政治議論が「荒れ」て一般の人が遠ざかる。保守派は大満足かもしれないが、このことで却って日本の立場が世界に伝わりにくくなってしまうのである。

このエントリーでは「政治」をかなり乱雑に捉えている。アーティストにとって個人の価値体系を語ることは大切だがこれは政治課題とは地続きだ。個人の価値体系から政治的課題だけを取り出してそれを「語らない」ということは本質的にはできないはずなのである。一方、アイドルは受け手が「聞きたい」と思っていることをあたかも自分の発想のように演じられる人だ。これも今回は重要なテーマになっている。日本ではアイドルがより複雑な自己を演じなければならないような状況が生まれつつあると思う。

まず防弾少年団についておさらいしておく。2013年にデビューした7人組のボーイバンド(英語では楽器を演奏しなくてもアイドルグループというような意味で使われる)である。所属はBigHitエンターティンメントという中小の事務所だ。グループの動向はKSytleなどで知ることができる。最近、英語圏での活躍が目立っておりビルボードチャートで一位を獲得したり国連で演説したことなどが話題になった。国連演説では多様性のアイコンとして扱われた。自分らしくという言葉が出てくるのだが日本とは使われ方が異なっている。一方で防弾少年団と日本との関係はあまり良くない。日本に進出しようとして秋元康とのコラボを計画したが韓国のファンの反対で中止になったこともある。そして、今回メンバーのジミンが「原爆を肯定するかのようなデザインのTシャツ」を着用していたことが問題になり特定の人たちから反発されることとなり、テレビ出演がキャンセルされた。

この問題についてバンドや個人が下手に謝ってしまうと「日本に屈した」ということになってしまうだろうし、謝らないと「原爆という絶対悪」を肯定したことになってしまう。とても議論の別れる問題である。日本の識者の中に素直に謝ればいいのにと言っている人がいたが、日本人の自国中心主義の傲慢さがよく表れている。海外のメディアではABCとBBCが伝えるのを読んだが、日韓の関係性が悪化してゆく文脈の一部として捉えている様子がうかがえる。細かいことはわからないが「あの二国は仲が悪い」という理解なのだろう。

ボーイバンドが議論の別れることについて発言することに慣れていない日本のファンは「知らずにやってしまったのでは」と思いたくなるのだが、実はBTSはもともと議論の別れる問題について関わるのを厭わないグループであり、その意味では純粋なアイドルとはいえない。

韓国の芸能人ももともとあまり政治的に議論の別れる問題に関わらない。地上波放送にはまだ検閲も残っているようで、ケーブルテレビに視聴者が流れる一因にもなっているようだ。国営のKBSでは日本語の歌詞を含んだとされる曲が放送不適格になったこともあった。このため政治的発言に関する慎重さは日本より強いかもしれない。さらに炎上も多く「反韓感情があるとされるビートたけし」との関係を仄めかして炎上したアイドルもいる。(Kstyle)このため、アーティストよりアイドルの需要の高い国と言えるだろう。アイドルはソウルの言葉で話すことになっているというお約束もある。日本の芸能人がテレビでは訛りを出さないのと同じ感覚だろう。

しかしBigHitエンターティンメントのような中小事務所はアイドル候補生をみつけて自前でじっくり育ててからテレビに露出するという方針が取れない。そこで、アンダーグラウンド出身の人たちも視野に入れてバンドを組むことになったようだ。KStyleによるとアングラでは「即戦力」としての芸能人が発掘できるという。リーダーのRM(当初はラップモンスターと言っていた)は「大南朝鮮ヒップホップ協同組合」といういかにもアンダーグラウンド的な名前のグループで活動していた時代があるそうだ。朝鮮半島を韓半島と言い換える韓国ではかなり刺激的な名前である。そして政治的に議論が別れるLGBTQの問題についても発言していたようである。さらに、ソウル出身者はいないので普段から方言で話している。事務所はアイドルらしく売ろうとしたが彼らは言葉を直すのを嫌がったのである。つまり、彼らはもともとちょっと反体制の匂いのするグループで、東方神起やTWICEのようなアイドルグループとは違っている。

ローリングストーンのこの記事によるとこれが英語圏で支持される理由になっているものと思われる。意見を表明したことで自分の言葉で価値観が語れるという評価を得たのだろう。ローリングストーンの記事にはLGBTQへの抑圧が激しい韓国であえて問題提起をするのは勇気のいることであっただろうというようなことも書かれている。

英語圏で重要なのは自分の言葉で価値観を語れることである。だからアイドルが政治的課題について語るのは重要かと質問すると焦点の合わない答えが返ってくる。政治的ポジションを表明するかしないかは個人の自由に任されているというのだ。だが、個人の信条を理解してもらおうという態度は支持されるうえにアーティスト活動の本質であるともいえる。英語圏では個人の価値観と政治が地続きになっている。

一方日本人は政治的課題を語るのを避ける傾向がある。言い換えれば、日本人は議論が別れる問題を自力で解決したがらない。代わりに日本人は正解を知りたがる。そして自分たちがその正解の中にいることを確認したいと望むのである。群れで生きる日本人は群れから外れることを嫌がるのだとも言えるだろう。

今回、防弾少年団の問題でファンたちは「自分たちが日本でのアイドルの正解に当てはまらないグループ」を支持しているということを知ったはずだ。わかっていて防弾少年団が好きだった人たちもいるだろうし、そうではない人たちもいるだろう。今後防弾少年団が日本でどうなるのかというのは観察テーマとしては面白い。

だが、もっと重要なことがある。議論が別れる問題を避けるということは意見の違いを調整できないということを意味している。それどころかそこに議論が別れる問題があると認識することすら世界の破滅を意味するようだ。この怖れが何を意味するのかについて考えてみたい。

政治的な課題を扱っているはずの「朝生」ですら、右と左という枠組みができており、そこからはみ出す人はいない。移民に反対するはずの右の人たちですら表立っては安倍政権批判ができないし、改憲すべきだという人権主義者もそれが言えない。ある意味二極化という調和構造ができており、そこで「争ってみせる」のが日本の政治議論なのだ。それをちょっと「壊してみせる」のが田原総一郎の役割だ。

日本人が抱えるこの恐怖はミュージックステーションの公式サイトの文言からも見て取れる。今回の問題に間接的にしか言及していない上に、原爆とは書けないので「Tシャツのデザイン」としている。あれは単にデザインではなくメッセージである。政治的に議論が別れることに触ることに強い恐怖心を感じるのだろう。

出演者変更について
11月2日に予告しましたBTSの11月9日放送回でのご出演を今回は見送らせて頂くことになりました。以前にメンバーが着用されていたTシャツのデザインが波紋を呼んでいると一部で報道されており、番組としてその着用の意図をお尋ねするなど、所属レコード会社と協議を進めてまいりましたが、当社として総合的に判断した結果、残念ながら今回はご出演を見送ることとなりました。ご出演を楽しみにされていた視聴者の皆様に深くお詫び申し上げます。

この原爆Tシャツの問題が正面から日本のテレビで取り上げられることはなかった。日本では8月になると「原爆の犠牲者を悼みましょう」というような通り一遍の報道しかないが、アメリカでは原爆が「戦争を一発で終わらせたクールな技術」と捉えられることがあり、韓国では解放と結びつけられることもある。今回は韓国人デザイナーの「大した意味はなかった」という釈明が紹介されているのだが、ファッションの一部としてくらいの認識しかされていないということ(Wow Korea)も実は問題である。これを変えるためには日本は圧力ではなく説明を通じて理解者を増やして行かなければならないはずだ。そもそも原爆に対する認識が日本と世界で違っているということすら知らない日本人がそれ以上の行動を取ることはないだろう。前回ご協力いただいたアンケートで「日本側が説明すべき」とした回答は30名強いの参加があったうちのたった2つだった。

今回は津田大介が本島等元長崎市長の論考を取り上げている。実は当事者は「何も説明しなければ、問題の本質は伝わらない」と考えていて、実は日本人と当事者たちの感覚にもズレがある。

韓国の歌謡番組は今でも恋愛に関する歌を歌ってランキングを発表して終わりになってしまう。ゆえにアイドルが個人の価値観について語る必要はあまりない。一方、日本人はこの形式のショーに飽き始めており、アーティストに個人の意見を述べさせている。しかし、そこから政治課題をあたかも最初からなかったかのように除外する。日本人は正解しか語れないのだ。

Twitterでは毎日のように政治的分断を目にする。実は内心まで踏み込めば政治的意見に違いがあるのは当たり前のことだ。それでも、テレビの歌番組では調和が演出されている。これを念頭に今回のミュージックステーションをみると「アーティスト風味の歌い手たち」がどこかディズニーランドのキャラクターに見えてくる。

これは、実は日本人アーティストが海外に出て行く上での障壁にもなる。政治について考えた上で語らないならそれは選択肢として認められるだろうが、面倒なので考えたことがないとなるとまた話は別だろう。ディズニー映画のお姫様ですら自立性が要求されるアメリカでは単なるお人形にはアーティストとしての魅力はない。そもそもアンテナに引っかからないからだ。

だが、それよりも日本人が日本のポジションを海外に説明できるようにならないということの方が重要なのではないかと思う。

このため日本を世界に発信しようと考えると必ず富士山を入れてみたり日の丸をモチーフにしたような通り一遍でよそ行きのものになってしまう。ただありきたりの違いを示しただけで、根本の共通点は見せられないから共感は得られない。一遍の演出だけでは相手の心を掴むことはできないのだ。一方、文化や状況は違いながらも多様性を尊重するというイメージのついた防弾少年団は韓国語のままで英語圏の一位を獲得できる。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

Google Recommendation Advertisement



バーリアルから安倍政権の問題点を考える

ダイエットをしている。普段の食事から少しずつ量を減らすと却ってストレスがたまるのでいつもは思い切って減らしている。しかし、そればかりだと代謝もモチベーションも下がるので時々ジャンクフードなんかを食べる。ちょっと気をぬくのが長く続けるコツではないかと思う。

ということで、ある時ポテトチップスとビール(一番搾りだった)を試してみたのだがあまり美味しくなかった。なんでだろうかと思って別の機会に手作りキムチ餃子と合わせてみた。多分ビールというのは食事に合わせて美味しくなるようにできているんだなと思った。

そこで見つけたのがバーリアルである。100円以下で売られている。カラムーチョと合わせても200円にならない。さすがに如何なものかと思ったのだが、これが抜群に美味しかった。後になって調べてみたところキリンビール製造に変わったそうだ。(商業界ONLINE)「あれ、これはおいしいぞ」と思ったわけだから、理屈はともかくとして「それなりにアリ」な製品に上がっていることになる。

安く商品が手に入れられるのはいいのだが、これって経済にはどう影響するんだろうかと思った。そしてしばらく考えているうちに、この線でモデルを作ればイデオロギーなしに政策論争ができるぞとも思った。おいおい説明してゆく。

まず、キリンビール側の事情を調べた。かつては「ちょっと落ちる代替品」だったプライベートブランドの商品で良い成績を収めないとやって行けない市場環境ができつつあるようだ。ダイヤモンドオンラインの記事を見つけた。経営学ではファイブフォースと言ったりするのだが、サプライヤーの力が弱くなっているのである。

バーリアルが美味しくなっているということは、製品そのものの品質は犠牲になっていないということである。では何が犠牲になっているのだろうか。

第一に流通経路が短くなっている。商業界ONLINEの説明によるとイオンとキリンビールの直接商取引きになっているそうだ。さらに広告が不要になるので、これに関わる産業が軒並み排除される。広告代理店、芸能事務所、タレント、制作会社、テレビ局などがこれにあたる。他社が広告を引き下げれば他の会社も広告が必要なくなる。さらに、小売店も手間を省いている。イオンの小型スーパーでは仕入れを単純化したりカゴのままで展示陳列したりしている。

このように考えてみると「関わる人の数を減らせば減らすほど」価格が減らせるということになる。さらに、細かく減らすより大胆に「バッサリと」削減した方が効果的なのである。もちろんこれは政府のせいではない。企業努力によるものである。つまり、格安の品物が定着するとデフレではなく国内労働市場の縮小が起こるのだ。

ただ、低価格商品が出ると高齢者は支出を減らせるのでその分を金融資産の運用に回せる。ここで挽回すれば国内総生産には影響はでない。だから統計上はデフレにならないかもしれないのである。

統計操作などいろいろな問題が指摘されたが、まあそれでも金融資産運用で経済が維持できればそれはそれで問題がないようにも思える。だからデフレではないというわけだ。同じように企業も人件費を削減できれば海外資産への運用や株への運用ができる。経済的な損失はないかもしれない。

ところが市場労働という絵を置くとちょっと違ったことがわかる。バーリアルの登場によって小売流通に関わる人が減っていることがわかる。すると、こうした産業が日本から消えてなくなる。広告代理店がいなくなれば嬉しいと思う人もいるかもしれないが、要は広告のノウハウが日本から消えてなくなるということである。バーリアルは図式としては「知識がなくなることで製品が安くなる」ということを示しているのだ。そして残るのは「飲む」という原初的な欲求(低次元欲求ともいうがこの言い方には問題が多いように思える)である。私にとってバーリアルはありがたい製品なのだが、知識を蒸発させるのだ。

国内労働市場がストックとして持っている資産は何だろうかと考えるとそれは知識である。

バーリアルは単に市場によって登場しただけだが、政府はこの傾向を後押ししている。例えば消費税を増税して国内消費を冷え込ませる。一方で法人税を減税すると海外投資(一般に内部留保と呼ばれている)が増える。資金としては国内市場からは退出する。すると、資金によって裏打ちされていた知識が維持できなくなり蒸発する。さらに、賃金によって法人税減税効果を市場に戻すこともできなくなる。国内市場そのものが縮小しているからだ。

国内市場が冷え込むとそれを穴埋めしようとして海外から労働者を入れる。するとエントリーレベルの単純労働に若年者が関われなくなる。海外の労働者は一定期間で帰ってしまうのでトレーニングの成果も海外に流出する。今回話題になっている「これは技能労働なのかそれとも単純労働なのか」という議論は実はあまり意味がない。実際には足りないのは「低賃金・技能労働」なのである。経営企画とレジ打ちのどちらが大変かという議論に意味はない。どちらも大変な仕事だ。問題は技能労働者が低賃金で貼り付いているということだ。技能を身につけても暮らしが良くなるというモチベーションがなければ知識だけでなく意欲も蒸発する。

若年労働者(一部で構わない)は熟練の機会さえあれば高付加価値の人材になれるかもしれない。また、女性は子供を生むとキャリアを中断しなければならないのでそこで生産性の向上が止まる。国が保育園政策を充実させていれば彼女たち(たいては女性なのだ)はキャリアを諦める必要がなかったかもしれない。いずれにせよ少子高齢化のもとではノウハウは自然蒸発するので、それを充填しなければならないのだが、どこからも補充はない。ホワイトカラーの残業時間も国が抑制する方針(ホワイトカラーエグゼンプションが導入されるが労基署の人材は増えない)ので、使い潰される労働力は増えるだろう。専門家も技能を向上させる時間がない。

低価格帯の製品が増えるとそれに適応した企業が出てくる。これは当たり前のことだ。だが、それに最適化してしまうと高技能労働がなくなる。加えて市場労働そのものが縮小しているので次世代の教育に回せるお金がなくなる。すると、次世代はもっと低賃金・低技能労働に貼り付いてしまう。こうして世代を重ねるごとに日本の労働力はどんどん生産性を失ってしまうのである。実はこれはもう始まっている。現在OECD35ヵ国の中での生産性は20位となっている。

よく労働者から「賃金をあげて仕事を増やすべきだ」という意見が出る。一方経営絵者の方は「賃金をあげたら仕事がなくなる」と言って恫喝する。しかし、実際に起こっていることを観察すると中間が整理されることで「仕事がバッサリなくなる」ことの方が起こる可能性が高いということになるだろう。

日本が取り組むべき政策は実は簡単で、国内に仕事が戻るように(言い換えれば国内消費を改善する)ように取り組めばいいということになる。具体的にいえば消費税を減税(あるいは撤廃)してブレーキを緩め(あるいは取り除き)、女性が労働市場に戻れるようにし、海外から低賃金「技能」労働者を調達する政策を取る代わりに若年者を教育するようにすればよい。すべての人が将来的に生産性を増すことはないかもしれないが、少なくとも海外人材のように数年で流出するということはない。そしてキーワードになるのは、市場が自分たちの判断で知識を増やせる機会を増やし、流出したり蒸発したりする機会を減らすということだ。

もちろん公共事業を増やして国内労働市場を活性化するという方法も考えられる。ここで問題になるのは定着力である。公共事業は手っ取り早く国内消費を回復させる効果がある。ところが公共事業が止まってしまうと国内消費も落ち込む。技能が蓄積されることがない上に継続性もないからだろう。

今回は簡単で乱暴なスケッチを書いただけなのであるいは間違っている点もあるかもしれないのだが、コンセプト自体は簡単なものなので誰でも理解できるし、特に右とか左とかのイデオロギーを持ち込む必要もない。

なぜこんな簡単なことに政治家は気がつけないのだろうか。それは、国内市場の仕組みがよくわからない上に、今出て行く年金・福祉予算のことで頭がいっぱいになっているからだろう。さらにここに党派対立が加わるともう議論はできなくなる。あらかじめ正解が決まっているからだ。

加えて世襲政治家は労働市場を通じて技能を上達させるモチベーションがない。いずれは政治家になるのだから、自ら技能を磨いて自分の暮らしをよくしようという気持ちになれないのは当然である。

だが、だからといって議論そのものができないわけではないし、打開策が見つけられないわけでもない。単にシンプルなモデルに戻ってみるだけで良いのである。

だが、だからといって議論そのものができないわけではないし、打開策が見つけられないわけでもない。単にシンプルなモデルに戻ってみるだけで良いのである。

Google Recommendation Advertisement