TOKIOの記者会見ごっこについて思うこと

TOKIOの記者会見が終わった。特に感情的な感想はないのだが、いろいろな論評が出回っているので一応記録しておきたい。これを見て思ったのは、この記者会見が壮大なおままごとだったということである。起こった事件は深刻であり、TOKIOのメンバーも本気だったのだろう。だが、結果的には周りの大人たちがこれを壮大なおままごとにしてしまった。彼ら流の言い方をすると「TOKIOの甘さが招いた惨事」だった。

なぜこれが真剣な謝罪会見ではなかったといえるのか。それはこの会見に目的がないからである。今回の件は山口達也さんが未成年女性に強制わいせつを働いたことが問題になっているので、謝罪は女性になされるべきはずである。しかしそこには女性の姿はなかった。ということは、謝罪の目的は別にあったということになる。これが何のための会見なのかを分析することもできるが、とにかくそれが誰であり何の実害を被ったのかはあまり明確ではなかった。さらにグループの今後についても山口さんの処遇についても結果が出ていない。だから何のために開いた会見なのかよくわからない。普通の大人がこんな会見を開けば世間から壮大に叩かれることになるだろう。しかし彼らは<守られた>。

周りの大人は彼らを叩けきたくない事情があった。事務所は自分たちの管理の甘さが事件を招いており、NHKが突然ニュースにするまで何もしてこなかった。だから表には出てくることができない。社長の声かけだけで済ませたところをみると、普段からマネジメントはやっていないようだ。一方のテレビ局は数字を持っている彼らのタレント価値を下げたくない。テレビ離れが進んでいるとも言われており新しいタレントを育成するのにはお金がかかる。

だから、この記者会見の報道では重要な情報が抜け落ちている。それは誰が質問をしたかである。始まる前には「何でも聞いてください、制限時間は設けません」と言っていた。彼らは本気だったのかもしれないが、実際には2時から始まり3時半に終わった。これはワイドショーが2時ごろに始まり4時まで続くからだろう。全編を放送しようと考えるとちょうどこれくらいの時間になる。国分さんはのちに「会場をそれくらいしか押さえていなかったから」と説明しているがこれは苦しい言い訳だろう。

質問をした人たちは、民法テレビ局のアナウンサー、お抱えの芸能レポーターだけだった。スポーツ紙が一紙入っていた他の唯一の例外は福島の新聞記者である。この福島の記者がどのような気持ちで質問したのかはわからないのだが、温情的な印象を与えるために利用されていたとしたら気の毒な話だ。一人のインタビューアーが2つ質問をしようとしてスルーされていたことから事前に質問内容は決まっていたものと思われる。最後に締めたのはTBSの高野というアナウンサーだった。

質問内容を見て整然としたシナリオがあったことがわかる。「概要」を話させて「山口さんの処遇」について語った。そしてTOKIO自体は存続することは確認した上で、音楽活動は白紙にすることが最後の方に語られた。事前調整なしで「なんでも聞いてほしい」というならこのようにわかりやすく進行するはずはない。誰もがわかっているが、それを指摘する人は誰もいない。そんなことをしても大人気ないだけだからだ。

この件の批判に「企業の不祥事なので事務所が謝るべきだ」というものがあるが、それは無理だろう。これは記者会見のように見えるが「共同制作でドキュメンタリタッチのバラエティ番組」だからである。番組の中にスタッフが写り込むことはない。つまり、事務所は反省していないし最初から謝るつもりはなかった。山口さん個人の問題に落とし込み終わりにするつもりだったのではないだろうか。

この番組の目的は二つある。一つ目はすでに売れるコンテンツになってしまったこの事件に最後のコンテンツを提供することだ。さらに、将来的な選択肢をできるだけ多く残しつつも、既存の仕事に被害が及ばないようにすることであろう。しかしこうした「調整」が整然と進むことから日本人が不確定な要素を嫌い自然と忖度してしまうということがわかる。文化の中に根強く残っておりこれを排除するのはとても難しそうである。

この前の会見は事件についての会見だったのでメディアを制限できなかったのだろう。週刊誌の記者をいれてしまったことで「異常だった」などと書かれている。

ジャニーズ事務所の会見は、好意的な報道をするメディアのみを受け付けるのが基本。しかし今回はれっきとした刑事事件で、未成年の女性が被害者である。幹部が「(あなたは)悪い記事ばかり書いているじゃないの」と言うので、「そんなことはありませんよ」と穏やかに説明すると、「おお、こわいこわい、脅かされちゃったわ」と芝居がかった言葉を発した。私は感情的になるはずもなく、「失礼しました。ならば帰ります」と頭を下げた。が、最後に、週刊文春や週刊女性、日刊ゲンダイ、東京スポーツ、サイゾーなどの“不都合なメディア”がすでに会見場に入っていることを告げると、ようやく取材を許可された。「変なことを聞くんじゃないぞ。メリー(喜多川)さんに言いつけてやるから」といやみを言われたが……。

今回はいつも通りの「大本営」に戻った。どうやら取材拒否はしないが、質問をさせないという方針にしたようだ。そうすると敵対メディアも文句をつけられないのであったことを書くことしかできない。

こうした過度の統制が今回の事件を招いたのは明らかではないかと思う。これはアルコール依存症の一歩手前ではあるがアルコール依存症とは言えないという話が出ている。のちに専門家が明らかにアルコール依存症だと指摘しているのみると確定診断の難しさがわかる。お酒も扱うタレントがアルコールの外に蝕まれていたとは言えないだろうから「こっそりと穏便に」治療しようとしてできなかったのだろう。病院から職場似通わせるのが精一杯で「いろんな病院を回ったがアルコール依存症という診断は出ていない」ということが松岡さんの口から語られている。

事務所には社会からの協力を仰ぎながら治療を進めるという選択肢があったはずなのだが、山口さんはこのような事件を起こすまでその状態で治療に専念することができなかった。

文春の記事は「山口さんは二重三重に守られている」と書いているのだがそれは違うのではないかと思う。彼らはテレビの視聴率やスポンサーというしがらみに管理されている。SMAPの騒動から見てわかるように、その檻の中から出て大人のアーティストになるのは不可能ではないがとても難しい。そんな中で弱さを「発症」させてしまえば、その弱さが破綻するまで表に出すことができないという過酷な社会に彼らは生きている。

その意味では年長者である城島さんと国分さんはより強く自分たちを檻の中に閉じ込めていたように思える。

事務所は問題が破滅的な終局を迎えるまで何もしなかったし、テレビ局もそれを傍観していた。さらに本人たちがそれに向き合おうとしているのに破綻させずに穏便なコンテンツに仕立ててしまった。彼らのたどたどしい敬語からその危うさの一端が伝わってくる。ジャーナリズムを装った番組の司会などをしているのでそれ風の敬語を使わなければならないのだが、それもできない。しかし、周りがそれ風に見せてしまうのでそこから逃れることもできないという具合だ。

この危うい牢獄が破綻すると「全ては本人の弱さが招いた問題である」というシナリオを書いて、それを仲間に演じさせた。彼ら仲間も同じように弱さを見せれば同じように葬られることになる。当事者が墓掘人夫にされたようなものだ。

考えれば考えるほど残酷なショーだったなと思う。

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「普通」という牢獄

このところ村落共同体とその問題について考えている。だが、いろいろな事象を見ているだけでは統一的な視点が得られない。

気候変動について調べていたところ、牧畜文化が農耕文化に流入することで「統一的な視点」が持ち込まれたというような話が見つかった。論文の引用部なのでこの「統一的な視点」が何なのかはわからない。

気候変動 と文明の盛衰というPDFファイルに次のような一節がある。

紀元前1000年 頃の地 中海地域や東 アジア地域, ヨーロッパ北部における寒冷 ・乾燥化気候(T3) は,気候難民 としての大規模な民族移動を引き起こし(鈴 木,1978,1990;安 田,1993),定住農耕共同体であった都市生活者 に遊牧民が入り交 じることによって,農耕民の呪術的・儀礼的思惟が遊牧民 の合理的・統一的思索 に変革し,思想が合理化されて,紀 元 前8世 紀から紀元前4世 紀 にかけて高度な宗教や哲学を誕生 させた ことから,心の内部,すなわち精神の改革 を「精神革命」と呼 んでい る(伊東,1990,1996)。

日本人が未だに「呪術的・儀礼的思惟」を持っているとは思わないが、人の移動が起こることで精神的な変容が引き起こされるという視点は面白い。日本に置き換えると、戦後民主主義の受容によって人権意識が持ち込まれたことが文化接触にあたるだろう。

人権意識の基礎になっているのはキリスト教なのだが、これももともと牧畜文化から生まれている。こうした文明の変容は段階的に何回か進んだということがいえるのかもしれない。この精神革命は伊東俊太郎という人の本の引用のようだが次のようなウェブサイトが見つかった。

伊東俊太郎氏は、このときに人類の精神史が始まったとします。その内容を『比較文明 1』(比較文明学会誌 1985年 p12)のなかで次のように整理されています。

  • (人類が)それ以前の神話的世界を克服して合理的思索に徹し
  • 日常的個別的なものを超えた普遍的なものを志向し(ギリシャのイデア、インドのダルマ、中国の道(タオ)など)
  • そうした究極的原理からこの世界全体を統一的に把握し
  • そこにおいて人間の生き方を見定めようとする

これまで人権意識や合理的なルール作りを拒絶する日本的な村落意識を日本固有のものとみなしていたのだが、文明の中で起こりうる変容の過程の一つだと考えるとわかりやすい。ただ、伊東さんが指摘するように、合理的な考え方が抵抗なく受け入れられたのかということはよくわからない。

そうなると、背景の統一的な視点を受け入れない人たちがどのような考え方を持つのかということが気になる。日本人は普段の生活の中で政治について語ることはないのでよくわからない。

そんな中でQuoraで面白い質問を見つけた。「私はJKです」と自称する人が次のような質問をしている。犯罪者を特定する遺伝子があるのだとすれば該当者をあらかじめ罰してしまえば良いのではないかというのである。ある回答者が「かつてあったこのような考え方はすでに否定されている」という論を書いておりそれに付け足すことはあまりなさそうだ。だが、彼女(と自称している人)はなぜこのように思うようになったのだろうか。

この質問には「健全な社会」という揺るぎのない前提があり、犯罪という穢れを取り除かない限り安心して暮らせないという思い込みにつながっている。そしてそれが「犯罪に対する答えは刑罰と排斥である」という観念に結びついている。つまり普通でない穢れはウィルスのように罰せられた上に取り除かれなければ全体が病気になると考えているようだ。

彼女が持っている世界観では、異物を取り除いてしまえば再び穢れはなくなり普通の状態が戻ってくることになっている。これを非合理的だとか人権意識を理解していないと非難することはできるのだが、こうした呪術的な考え方を持っている人は実は少なくないかもしれない。

この呪術的な考え方には問題がある。人間はそもそもいい面も悪い面も持っているのだから問題が起こるたびに取り除いてしまうとそもそもの健全な我々という存在が削れてなくなってしまう。さらに、健全だった人がなんらかの形でそうではない状態に置かれた時に救済がなくなってしまう。普通でなくなったということを披瀝してしまうと「切り取られてしまう可能性がある」からである。

例えば「レイプされた女性は普通でなくなったのだから社会から切り離されても構わない」と考えるのも「普通でない患部は切り離してしまえ」ということだし「レイプされた女性がそれを言い出せない」というのは自分はもう普通でないのだから何を言われても構わないということになる。何の落ち度もないが「普通でない状態になったのだから、自分にも落ち度があったのではないか」と考えてしまうのだ。これをいじめに置き換えても同じようなことが言える。いじめられた人は普通ではないのだから切り取ってしまえという人もいるだろうし、いじめられたのは自分に落ち度があるからだと考える当事者もいる。

この健全な状態を日本では「普通」と呼んでいる。日本人は普通にしていれば問題は起こらないと考えるのだ。

この普通でない人を切り離してしまえという問題意識の向こうには普通でなくなった人は罰しても良いという了解があるようだ。特別支援学級で育った子の知られざる本音という記事には特別支援学級で育った子供が普通学級の子供からいじめられたという話が出てくる。

「たとえば、小2の男の子3人組から『特別支援学級のくせに、廊下歩いてんじゃねえや、気持ち悪い』と言われたり。図書室に行ったら、年上の小5の女の子に『気持ち悪っ』とか言われたこともありましたね。やっぱり、けっこうグサッとは来ました。もちろん、普通学級の誰もがいつも、いやな態度をとるわけじゃないんですけれど。でも、普通クラスの子の嫌な面は、たくさん見てきました」

このような意識が生まれるのは普通学級での学習を効率的に進めるために特殊な子供を切り離すという了解が先生と生徒の間にあるからだろう。

さらに学校は規範意識を失いつつあるようだ。体罰がなくなった学校で却っていじめが増えているが体罰を禁止された先生たちはもう何もしてくれないと訴える記事を見つけた。最後の文章はどきりとさせられる。この抑止力というのは先生の暴力(体罰)のことだが、これを核兵器に置き換えると現在の日本が置かれている自衛隊と核兵器の議論にそっくりである。

抑止力をなくした結果、ただの無法地帯になった。それは今学校で起きていることですが、日本全体、いや世界中に広がるのも時間の問題ではないでしょうか。先代たちの多大な努力によって私たちの健やかな生活は壊されました。

どうしてこうなってしまったのかはわからない。民主主義を知っている人から見ると、脅かされることによってしか法を守れないのであればそれは奴隷と同じような精神状態に思える。日本の学生たちは「社会を統一的に捉える規範がない」という社会を生きているといえる。そうなると「普通に止まって普通の人たちを排斥する」ことで求心力を保つか、暴力を使って全体を抑止するべきだというのが実感を伴った政治的意見担ってしまうのだということになる。

この考え方に基づくと、多数決によって作られる民主主義社会は誰から脅かされなければ無法地帯になるということになってしまうので、アメリカの軍隊を駐留させて日本を押さえつけなければ何をしでかすかわからないということになる。

これまでの村落の議論では、日本は村落から民主主義的な人権社会への移行に失敗したので、また村落に戻るという選択肢もあるというような議論を展開していた。これがいかに現実を知らない議論だったのかということがわかる。実際には戻れる村落はもうないのかもしれない。

中高年に属する人がこのように考えることができるのは、忖度的な共同体を具体的にイメージできるからである。先生はある程度尊敬されており、終身雇用についても具体的なイメージを持っている。¥

しかし日本人は背後にある統一理論を理解しないままで制度だけを取り入れてきてしまったために村落社会にも戻れず、かといってこれ以上民主主義と人権を基とする社会改革も受け入れられないというところにきているのかもしれない。

高校生や大学生はその最前線にいる。そこで「普通じゃない人は排斥しても構わない」とか「最後の望みは先生の暴力なのだ」などと思うことになる。こうした考え方は自民党の議員から披瀝される忌まわしい人権否定の意見とそっくりだ。もちろん選択的に記事を追っているのでこのような悪い記事ばかりが目についているのだが、こうした一連の「実感」を集めるうちに、事態は我々が考える以上に悪化しているのかもしれないと思った。

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山口達也メンバー報道の向こうにある犯人特定文化について考える

Twitterでは未だに山口達也メンバーの件について「部屋に上がった女性が悪い」とか「若い女性が部屋に上がり込むのがいけないという論がいけない」いう不毛な議論が流れてくる。何が起きたかではなく誰が悪いかばかりが議論される。今回はなぜこのようなことが起こるのかについて考える。

その前にアメリカのあるTweetをご紹介したい。

この文章を書き始めたときにTwitterでたまたま見つけたのので、山口メンバーの件とは全く関係がない。英語ではこの「alleging」という言葉がよく使われる。これは確たる証拠はないのだがそのような疑いが持たれているというようなことを意味する。容疑あるいは疑われているということを意味するのだが容疑そのものを説明する言葉だ。人を表す容疑者はsuspectというのだが、これは犯人捜査をしている時に「容疑者が浮かび上がった」という意味で用いられることが多いように思える。allegingは行為に焦点が当たっていて、suspectは人に焦点が当たる。

この問題がで始めた時に「山口達也メンバー」という言葉が多用されて問題になり、テレビ局が言い訳に追われた。ジャニーズ以外にメンバーという言葉は使わないのだが、忖度をしていることを認めたくないテレビ局はあくまでも「公平な措置だ」と言い張ったのである。

これは書類送検された人が一律に容疑者と呼ばれることから来ているのだが、本来は強制わいせつの容疑がかけられた山口達也さんといえばすむだけの話である。ここでさん付けをすると「罪人を庇うのか」というクレームが入るのかもしれないし、人権意識が希薄だった昔の名残なのかもしれない。容疑がかかった時点で「準罪人」という意味で容疑者というレッテルを貼って一旦社会から隔離しようとする。しかし「容疑者」という言葉が使えないのでジャニーズに関しては別のレッテルを考えたのだ。今後このことが認知されるようになれば「メンバー」という言葉に新しい意味が加わることになるのだろう。

このように、日本には村落的な気風が残っている。村には平和を愛する一般人しか住んでいないから、警察沙汰になるような人はすべて村から排除しなければならない。そのため、異常者には社会的な刺青として「容疑者」という名前をつける。ところが日本社会はこれだけでは終わらない。

Quoraでたまたま「犯人の家を特定できる形で報道するのはどうしてか」という疑問があったので、今回の文章の要約したものを載せてみた。すると、住居が特定されたのでそのあと奥さんと子供がいじめられて奥さんが自殺したというようなコメントが戻ってきた。このことから罪を犯した人がムラから排除されるだけでなく一族郎等も排除されてしまう可能性があることがわかる。ワイドショーは明らかに異分子排除を目的にしているのだろう。

しかし、ここには排除されるべきもう一つの当事者がいる。それが被害者である。事件が起こるというのは「よっぽどのことがあったのだろうから」それに巻き込まれる方にも落ち度があったのだろうといって追い落としてしまうことがある。このようにして警察沙汰になった人たちをまるごと排除してしまえば難しいことを考えなくてもすむ。

日本型のムラはこのようにして問題を解決する。しかしこの解決策には問題が多い。何かしらの衝突が起こることは日常茶飯事のはずだが、いったん警察沙汰や騒ぎになると「当事者は全てコミュニティから切除する」ことになるので、言い出せない。例えば企業の不正告発やセクシャルハラスメントなど「言い出せない」ことは多く、これが社会を重苦しいものにしている。

さらに異常だと排除されてしまうというやり方では、常に村落の中で普通でいなければならないということになってしまう。オタク差別のところでみたのだが「普通でなければならない」というプレッシャーは近年さらに大きくなっているようである。中高年をすぎると「普通を装っていればいいんでしょう」などと図太くなれるのだが、現在社会には何が普通かという規範がないので、周辺にいる人ほど怯えを感じるようになるのだろう。

中でも一番顕著な問題は問題解決が難しくなるという点にあるようだ。世の中の複雑さは増してゆくのだが、問題は解決しないまま積み残しになる。そこで踏み越えては大変だという怯えがさらに増幅することになってしまうのであろう。

どうやら山口さんはアルコール依存症に陥っているようだ。仕事には行けていたことから「一歩手前だ」という分析も出ている。身体症状はなさそうだが精神的には依存が始まっているというのである。「意志が弱い」などと行っている人がいる一方で、実はアルコール依存になってしまうと意志の力でお酒を止めることはできないという経験談もある。このような状態に陥ると一生お酒を飲んではいけない。いずれにせよ、周囲の助言と本人の自覚が必要なのだ。しかし今回のメンバーたちの態度を見ていると、TOKIOは仕事上のつながりになっており、個人的な人間関係は希薄かしていたこともうかがえる。

だが、アルコール依存のことを持ち出すと「アルコール依存を持ち出せば罪が許されるのか」という人が出てくる。判断基準がやったことではなく人に結びついているからだろう。つまり「この人をムラから追い出すかどうか」が焦点なので、この人が追い出されるに値する悪い人なのかそうではないのかということだけが議論されるのだろう。

さらに女性の問題歯もっと複雑である。女性が社会進出するにあたっては様々なこれまでなかった問題が出てくることが予想される。例えば男性記者なら取材対象者に性的嫌がらせをされることはないが、女性が進出するとその可能性を事前に掴んで対応する必要が出てくる。ところが日本人はこれを全て本人の問題に落とし込んでしまうので、女性記者が気をつけないのがいけないという議論に帰着させようとする。同じように今回も女性のタレント候補がどうやったら自分の身を守れるかという議論をしないまま「行ったのが悪い」とか「いや悪くない」という議論で済まそうとしてしまうのだろう。

これらの議論は個別に行われる必要があるのだが、これが一緒になっている。それは事件のない平和な状態に戻すためには山口さんと被害女性がいなかったことにしてしまえば良いと考えてしまう人が多いからかもしれない。女性を弁護する人も同じようにムラ裁判に加わってしまい「山口さんが悪いのであって、ムラから排除されるのは山口さんだけで十分だ」と考えてしまう。だが、それではいけないのではないか。

この件で我々が学ぶことはいくつもある。例えばアルコールに問題を抱えている人を一人にしてはいけないし、すべてを自己責任で済ませることは難しい。女性は友達と連れ立ってでも男性の部屋に何の準備もなしに上がりこんではいけない。もし会うとしたら外の店などを選ぶべきである。

誰が悪いのかに注目しても問題は解決しないのだが、こうした刷り込みは小学校あたりから始まるように思える。学級会から学校で問題が起きた時「誰が悪いのか」という非難合戦が始まる。そこで「どうしたら問題が解決するのか」とか「再び問題が起きないのか」という議論にはならず、たいてい「みんなで仲良くしましょう」と言って終わりになる。いい人ばかりなら争いは起こらないでしょうという解決策をとりがちなのだ。

こうした問題は実は学級会だけでなく国会でも行われている。戦後70年も経ったのにまだ第二次世界大戦では日本は悪いものだったとかいやそうではなかったという議論が続いている。その結果「北朝鮮が悪いから懲らしめなければ」という結論となり東アジアの平和維持の枠組みから外されてしまった。

日本人の中には「犯人特定文化」が根強く残っている。みんなに居心地の良い環境を作り出すためにはこの文化の欠点をよく考えてみた方が良い。

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