ごちそうさまでした

少し前に投げ銭をいただいていたのですが「コーヒーを飲む」ということだったのでコーヒーとバウムクーヘンの切れ端にしてみました。どうもごちそうさまでした。

別の日にシュークリームをいただきました。昔はお店で作ってたみたいですが、今は工場で生産しているようです。コーヒーはおまけについてきます。

スーパーでスイスロールを見つけて缶コーヒーと一緒にいただきました。カロリーを見てものすごく後悔しましたが。とりとめもないアイディアをまとめるにはいいですね。まとまってないという話もありますが……

日本人は会話をしていないし、それを気にしていない

面白い議論を読んだ。議論の元になったと思われる投稿によるとBBS世代の人が文章を書き込んでいるのに比べてSNS世代の人は頭の中の会話をそのまま書いていると分析している。この人は「SNS世代の人とは話がかみ合わない」と言っているのだが、そもそも日本人と議論が噛み合ったと思ったことはないなと思った。

この説によるとBBS世代の人は推敲をしてから文章を書くので会話が呼応するということになるのだが、推敲しても会話が呼応しない人もいるし、そもそも答えるつもりがなくコメントをよこす人もいる。思い返せばフェイストゥフェイスでも噛み合わない会話というものはいくらでもある。

例えば先日こんな経験をした。ある人が「お金があっても買えるものがなければ景気はよくならないのではないか」とTwitterに書いていた。多分Twitterというのは個人メモのような側面があり答えは期待していないと思うのだが、構わずに「サービスが交換できるので物資がなくても大丈夫」ということと「それよりも流通に障害があることが問題だ」と書いた。

少し戸惑われたのかもしれないが、しばらく時間があって「ふと思って書いただけなのでとりとめもないのだが……」として返答が戻ってきた。戻ってきた回答はこちらの問いかけには呼応していないのだが、それは特に問題がない。なぜならばそもそも会話を発起した人が特定のフレームに依拠して書いてあるわけではない上に、こちらの思考フレームは伝わらずに結果だけが転送されてしまうからである。さらに日本人は相手が特定の思考フレームを持っているということやフレーム合わせをやらないと会話が成立しないとは思わないのだと思う。

もし真面目に会話をするならばフレームを伝えた上で会話を続行すべきだが、そもそも思いつきをメモにしているだけであり、特に仕事として取り組んでいるわけではないのだから、そこまでやるのは大人気ない。ここでまた重ねてしまうと会話が延々と続くことになるので、よくわからなくても「いいね」で〆ることにしている。すると次の会話に移れるからだ。

だが、もう一回返ってきた。しかし、その答えはある種の正解に固着してゆく。今回のそれは「マーケティング先行で本当に必要なものが少ない」というような認識だった。これを真面目に考察するとすれば、以下のような反論ができる。

例えば自動車の本質は「移動する」ことであり、それ以外の全ては「マーケティング的に捏造された本質でない部分」ということになる。もし本質だけだと車は今でもフォードT型かトラバントのようなものになっていたはずだし、用事もないのに海辺に出かけて行ってわざわざバーベキューを楽しむなどというような需要もなかったことだろう。

最初の人はモノがないのに信用だけが増しても景気はよくならないだろうという疑問を呈しているのだが、製造業から抜ける過程でこのフレームワークから抜ける必要がある。それは農業主体の社会が家電を思いつかないのと同じことである。例えば家をきれいにするという仕事のためにわざわざ電力網を張り巡らせた上で掃除機を稼働させようなどとは思わないのである。

しかし、そう答えることに何か意味があるだろうか。そもそも我々の年代は「浮ついた」1990年代のマーケティングを知っているので「真面目なものづくりを通して真の需要を追求すべき」というような一種の<正解>を持っている。だから「そうですね」という共感を示して会話を〆るのが良い。そうすればお互いに気持ちよく次の話題に移ることができるだろう。そもそもTwitterは娯楽なのだから、わざわざ気分を損ねるような会話を行う必要はないのだと思う。

日本人は集団の理論と個人の理論を分ける。こうして、個人の思い込みが社会にぶつけられないまま固着することが多い。「ものづくりをしている人は真面目に仕事をしているが、商売をしている事務屋がめちゃくちゃにする」という世界観もこうやって形成されるのではないかと思う。戦中・戦後すぐに生まれた世代だと「職人は真面目だが、商売人は全て金儲けをして人を騙そうとしている」と思っている人も多い。実際にこの投稿にはいいねが2つほど付いたことからこれが社会の中で一種の正解化していることと、その正解が言語化・社会化されないままで内心を漂っていることがわかる。

このことから二つのことがわかる。そもそも日本人は思考をまとめてから発信することはないし、まとめようとすると「ある種の正解」に固着してゆく。もともと不定形なので外的な刺激によって変形する。今回も「サービス業」というワードを投げかけてしまったために影響を受けて当初の思考が変更された可能性は高い。しかし、オリジナルの思考は不定形なのだから「もともと何を考えていたのか」を正確に復元することは難しいかもしれない。

逆にまとめてから発信するということは「ある種の正解に固着してしまった後」ということになることが多い。根拠が外部にあるので、それを議論で修正したり介入することはほとんど不可能だ。個人の態度が外部と一体化しているので変われないからである。このために日本人の政治議論は極端に二極対立することが多い。いわゆる「保守」も「リベラル」も経緯によって作られた特殊なものだがそれがコピペされて広がる。しかし例えば保守の人がオリジナルの主張を理解した上で意見をコピペしているかどうかはわからない。例えば最近起きた「弁護士の懲戒請求騒ぎ」では、訴える弁護士が何をしている人なのか何がいけなかったのかを論理的に説明できた人はほとんどいなかったそうである。

アメリカ人の場合は異なった経路を通る。アメリカ人は個人の意見を持っている。根拠が外部にある可能性は高いが、賛成・反対は内的なので態度変容が可能である。そもそも最初から「興味のある話題について」「賛成か反対か」を表明するので、賛成するか反対するかは別にして対話が成立しやすい。英語のQUORAには日本人がいるが彼らは会話を成立させている。また初期の日本語のQUORAにも会話はあった。しかしこの会話は日本人の参加者が広がることで心情の吐露に変化しつつあるようである。

日本人でも英語だとこの「賛成・反対」による会話が成立するところから、これが日本語文化特有の問題であるということがわかる。英語では個人として「論拠を納得した上で」賛成か反対かを決めるのだが、日本人は「社会化させないままで固着する」か「論拠を持たないままで賛成して一体化したり反発したり」するので、いったん態度が決まってしまうと後で態度を変えることができない。

こうしたとりとめのなさと固着した正解は人によって様々な現れ方をする。例えば日本で流行した私小説は自分のとりとめもない心情をそのまま記述したものである。これが娯楽として受け入れられていた。

「社会に共感すべきだ」とされている女性が集まると「そうだよね」とか「それでね」などと言いって相手に相槌を打ちながら全く関係ない話を始めることが多いという話を聞いたことがある。話を理解していなくても「わかる」といえば満足なのだそうだ。会話が成立しているという雰囲気は残しつつ自分の意見は共感してもらいたいという気持ちが強いのだろう。相手の歌は聞いていないのに拍手をするという意味ではカラオケに似ている。会話は論理を記述しているのではなく「共感を得るための道具」に過ぎない。

一方で、政治家や先生のように地位を保障されたと感じる人は、他人の共感を気にしないで正解や心情を垂れ流すスタイルを取ることが多い。現在では麻生副総理がそれに当たる。麻生副総理が何を披瀝しようとしているのかは定かではないが、とにかく「自分は意見を発信する側で、言い聞かされる側ではない」という気持ちだけは伝わってくる。この麻生副総理を見ていると福岡の県立高校の高校の校長先生を思い出す。文集委員として校長先生が生徒に贈る言葉を取りに行ったところ、それとは全く関係がない旅行エッセーを渡されたことがある。「自分はこれを載せたい」の一点張りであり、それを悪いと考えてい様子はなかった。この類の人たちにとって「相手を理解した上で会話を進める」ことは負けなのである。

共感を求める人たちはとりとめもない思考をそのまま表現し、正解に固着した人はもはや相手のいうことを聞かない。このためギャップは広がるばかりでついには世代間に大きな溝ができている。

最後にBEAMSの若者で見たように、スマホで情報検索する人たちはそもそもメンタルモデルが立てられない。だから相手のメンタルモデルを類推してソリューションを提案するということがない。

会話が成立しているように見せるためには相手がどうプログラミングされているかということをこちらが認識した上でこなせるタスクに分解して与えてやらなければならない。しかしこれは若者がバカだからではない。ソリューションを組み立てて調整する「総合職」的機能が社会から消えてしまったためである。

ただしメンタルモデルを持たない方は「指示が明確ではない」というフラストレーションを感じているようである。この日経ビジネスの記事ではタイプとなっているが、つまり相手のメンタルモデルを構成した上で調整しようという提案だ。この裏にはそもそも中高年の側がメンタルモデルを「話せばわかる」として提示してこなかったからである。

冒頭の文章を提示した人はアスベルガーの診断を受けているそうで「自分は普通ではない」という認識を持っていると思うのだが、そもそも日本人は会話を通じて情報交換をしたいなどとは思っていないのでそれほど心配する必要はないのではないかと思える。「会話が成立しないで好きなことをいい合う」のが日本人の定常状態なのである。

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BEAMSの店員にムカついたという話

今日の話は若者バッシングなので「自分が若いな」と思う人は読まないほうがいいと思う。その若さの判断基準だが、今回の定義ではスマホで情報を得ている人は年齢が55歳でも「若い」と思って間違いがない。

今回の話はBEAMSに行って店員の態度にムカついたというただそれだけのものである。最後に安倍政権批判が入っているがこれはおまけである。

BEAMSのジャケットを持っている。麻が入っておりボタンをとめるとちょっとタイトになる感じのものだ。今シーズンもこれを着ていいものかどうか悩んだ。カジュアルものはシルエットの変更が大きいというイメージがあるからだ。そこで、オンラインで見てみたのだがどうもよくわからない。ウェブのカタログをみてもピンとこない。カスタマーサポートに相談したところ「お店に行ってもらわないとわからない」という。カスタマーサポートはやたらと店に行けと言ってくる。よほど来店が少ないのかなと思ったのだが話の種に行ってみることにした。

そもそも近くに店がない上に、最近では店が細分化されていて「ここに行けばたいていのことはわかる」という状態ではなくなっている。近くだと千葉駅前に店があるのだがカジュアルしか置いていないという。本格的なジャケットを手に入れるためには東京に出る必要があるのだそうだ。仕方がなく千葉の店に行ってみたが、案の定会話が全くかみ合わなかった。

だが、会話がかみ合わない理由がわからない。最初に目につくのは「自分の知識体系を明文化も体系化もできない」という点だ。自分の知識体系も明文化できないので、顧客の曖昧な探索態度も明文化できない。つまり「コンサルテーション」ができなくなっているのである。ここまでを感想にすると「先生のいうことを聞いているだけの教育が悪いのだな」などと思ってしまう。「最近の若者は」的な愚痴である。

日本人は先生のいうことだけを聞いているので正解がある場合にはすぐに答えが見つけられる。しかし、正解がなくなるとコミュニケーションそのものが成立しなくなる。そこで出てくるのが「自己責任」である。「お客様の好きなものを選んでくださればいいですよ」ということになるわけだ。

何が欲しいのかを明確にしてくれればお探ししますよというのだが、それが掴みたいからお店に来ているということは理解されない。そのうち「オンラインショップでもっと見てみたい」となった。何か勧めなければならないと思ったのだろう。定番のチノパンを押してきた。これがユニクロだと普段着ているから出来上がりが想定できるのだが、高い上に「なんか違っていたらイヤ」なので、だったらユニクロで見ようかなという気持ちになった。

BEAMSが神宮前にあった頃は「自分たちがトレンドを作っている」という気持ちがあったのか、聞かなくても洋服についてのうんちくを持っていた。銀座の店にも「店の方針はともかく自分はこんな洋服が好き」という人がいてそれなりに話が楽しかった。しかし、千葉店に勤めている人たちはそれほど洋服は好きではないのかもしれないし、本部から「これを売りなさい」というプレッシャーが強いのかもしれない。

あまりにも話がかみ合わないので、何が違っているのだろうと思い始めた。例えば今年のトレンドについて聞いている時にもそれを感じた。今年の流行は90年代風らしいなのだが、それは彼に言わせると90年代にはやったとされているフレッドペリーやチャンピオンズのアイテムを取り入れることを意味しているらしい。だが、それをどう「全体に位置付けるのか」ということを聞いてみても答えは返ってこない。

最初は「この人はめんどくさがっているのだな」と思っていたのだが、帰り道に別の可能性を考えて恐ろしくなった。冒頭に「若い人は読むな」と書いたのはこれが中高年固有の問題であって若者には関係がないからである。

かつてのトレンドはある程度構造化されていた。例えばバブル期のインポートもののスーツは少し大きめだったので国内のブランドもなんとなくそれに合わせていたし、渋カジと呼ばれる流派の人たちが「着るべきブランド」が決まっており、全体のシルエットがなんとなく規定されていた。つまり構造化された傾向を一つかみにして「トレンド」と言っていた。さらに情報の経路にも構造があった。BEAMSは例えば情報ソースであって、それが下流の消費者に流れていたのである。

だが、むかつくBEAMSの店員にとってのトレンドというのはアイテムの売り文句に過ぎない。いわば今期のマーケティングキャンペーンであり、本部に言われたことをコピペして行っているに過ぎない。これを雑誌に流して顧客を捕まえているのである。だから単なる独立してそれぞれに関係がないマーケティングキャンペーンが彼にとっては「トレンド」なのだろう。

その証拠に商品知識そのものは豊富に持っていた。「カナダ産のアウトドアアイテムが置いてあってこのラインナップは流行に左右されない」などというように一つひとつの知識は決して浅くない。気分としてはwikipediaで情報検索している感じだ。一つひとつにはそれなりに深い答えが帰ってくるのだが、それが決して一つの像を結ぶことはない。

「全体的な傾向」を聞こうとしてもそもそもそんなものは存在しないのだろう。「今の若い人たちに全体的な傾向を聞いても要領をえない」などと愚痴ること自体が不毛だということになる。なぜならば全体像がない世界を生きており、かつてのように物事が有機的な意味を持って結びついた場外をそもそも知らないからである。

この仮説を確かめるとすれば、雑誌などで聞いたキーワードをそのまま店員にぶつけてみるのがよいのだろう。お互いに関連がないなりに情報は豊富なのだからそれなりに話ができるはずだ。実際に帰ってオンラインショップを調べてみると「Begin掲載商品」と書かれていた。つまり断片的なコンテクストは雑誌が作っており、店頭は商品の受け渡しポイントに過ぎないのだ。「雑誌の知識は断片的なので全体像がつかみたい」などと思って店頭に行くということ自体がナンセンスだったということになる。

そうなるとWEARで気に入ったモデルを見つけてその評判を見た上で似たものを商品検索したほうが効率的だ。BEAMSがやたらと来店を勧めていたのはそもそも時代に乗り遅れ始めているからなのかもしれない。メーカー別にみるとファーストリティリングには遠く及ばない。ではファーストリテイリングの従業員が「楽しく洋服をお勧めしている」かというとそんなことは全くない。彼らはとにかく忙しく走り回っており接客という概念はなくなりつつある。

アパレルを離れて「コンテクストのない世界」について想像すると、現在の政治的な状況が違って見える。安倍政権を支持している人たちを見ていると項目が別々の語られていて全体像がぼやけている。これまでの文脈で政治を見ていると「デタラメでイライラ」してしまう。それは我々が全体のコンテクストを通じて構造的に政治を理解しようとしているからだ。

まとまりのないTwitter政治論評は、この脱構造化で説明ができる。安倍政権は加計学園の選定過程について整合した説明はしないが、部分だけを取り出すと「その都度問題がない」ことになっている。これはその時々の出来事について「その場限りの理解をしている」からということになる。つまり構造を持たずその場限りでわかりやすいことをいうから受けるということだ。文脈に支配されてしまうと柔軟な判断ができなくなり「全てがうまくいっている」などとは言えなくなってしまう。

現在、立憲民主党などの野党は「立憲主義」という構造を元にしてあるべき政治を提示した上で有権者に訴えかけている。これは立憲主義や民主主義という「お作法」を学んだ人たちには訴求するだろうが、その場その場で良し悪しを考えている人たち何の意味も持たないのかもしれない。

こうした情報の受け取り方の違いはブラウジングという概念で説明ができる。私たちがセレクトショップに行くのが楽しかったのは「お店がセレクトしてくれる」からである。だから用事がなくても「時代の気分」を観察するために定期的にお店に行っていた。しかし、もはやそのような意味でのトレンドはないのだからセレクトショップ自体が成り立たない。

「世の中で何が起きているのかな」と思いつつ新聞を一面から順番に眺めるのもブラウジンだ。しかし、新聞は「反日」か「政権べったり」という批判のための指標に過ぎなくなっている。全体的な社会合意(つまりトレンド)がなくなり、自分たちの好きな情報だけをやりとりするようになっているからである。

政治の文脈で見ると、少なくとも若者に訴求するためには「文脈の認知」とか「サポーターの醸成」みたいなことは意味がなく、その場限りの成功をみんながわかる形で主張するやり方のほうがふさわしいということになる。失敗したらもう人生終了で情報だけがたくさんあるという縮小型情報社会では「すべての結果がうまくいっている」と主張して全体の整合性を犠牲にしたほうが訴求しやすい。

トランプ大統領はその場その場の「ディール」に夢中になり、安倍首相は知的な能力の限界から文脈を形成する能力がないのだと思うが、これが意外と現在にマッチしているのかもしれない。するとその場その場の失敗について揚げ足を取り上げてそれを批判するのがベストのアプローチということになる。そう考えるとTwitterの政治批判は「政治を知らない人たちのバカな衆愚行動」ではなく割と本質的な政治議論だということになる。政治への理解というリテラシーそのものが意味をなさないからだ。

こうした世界がどうなるのかを考えてみたのだが、なんとなく一つの流行に人々が殺到するか、あるいは細かいコミュニティにわかれて相互理解が不能になる世界だろう。それは意外と現在の状況を正しく描写しているように思える。

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ある意味「トカゲの尻尾」だった山口達也さんと被害者女性

柳瀬元秘書官の問題はそれほど話題にはならなかった。もちろん柳瀬さんは嘘をついているのだが、想定内の嘘だったので外形的な体裁は整っている、だから外形上は嘘をついていないことにできる。お友達の優遇がもともとこの特区制度の狙いだったわけで多くの人は自分で努力をするよりも権力にコネをつけた方がトクだと考えたのではないだろうか。これは縁故主義の社会が没落して行くある意味おきまりのルートである。

柳瀬さんの行為はいわば「民主主義違反」なのだが、麻生さん流にいえば「民主主義違反罪という罪はない」ことになる。セクハラであろうが、民主主義の十厘だろうが、この国の新しい道徳では罰則がないことはやってもよいことになる。一方、一人ひとりの個人は国のいうことを聞いて「社会に貢献する」ことが道徳的に求められる。国はこのような形で道徳を教科にするようである。強いものは守られ弱いものは犠牲になるのが道徳的に正しいという社会が形成されようとしている。

一方で日本人が気にすることもある。普通でいることには特段の価値はなく他人に利用されるだけだ。しかしそれではフラストレーションがたまるので「普通から脱落した人たち」を娯楽的に叩くことが推奨されている。不倫やセクハラが叩かれることが多いのだが、在日外国人を叩いたり、特殊学校に通う生徒を叩いたりすることも横行しているようである。こうした例外規定があることで普通の人たちは「まあ、しかがたない」といって体制を維持する道徳をサポートすることになる。つまり人を叩くことで体制の維持に協力するようになるのだ。

今回「山口達也元メンバー」が叩かれたのもその一つだろう。山口さんを叩くだけでなく、被害女性を探し出して表に引きずり出そうとしている媒体もあるという。山口さんは、どうやらもともとお酒の問題を抱えており周囲の人間関係にも困難さがあったようだ。しかし事務所はそれを見て見ぬ振りをしており管理不能な状態になったとたんに大慌てで「知らなかった、気がつかなかった」と切り捨ててしまった。もともと事務所は自分たちに非難の矛先が向かわないように最初から切り離すつもりで弁護士を入れて記者会見を開いたようだが、山口元メンバーがTOKIOとのつながりを示唆してしまったために、今度は大慌てで他のメンバーが「それは許されない」と芝居掛かった記者会見を開くことになった。

今になって思えば「ペテロ」の逸話を思い出す。夜が明ける前にペテロは三回「イエスなどという人物は知らない」と言って自己保身を図った。だがTOKIOの行動は個人が社会から叩かれることを必死で回避しようとするという意味ではむしろ人間味のある嘘である。

さて、ここで嘘をついているもう一つの大きな集団がある、それがNHKだ。NHKは柳瀬さん流にいうと「嘘をついていないのだが嘘をついている」という状態にある。日本社会では自分の組織を守るためにこうした言動が許されている。文化的には組織防衛に極めて寛容な体質を持っていると言えるだろう。

週刊誌やワイドショーが、被害女性はスタッフ側からLINEのアドレスを交換するように指示されたと供述していると伝えている。NHK側はこれを否定しておりNHKのスタッフはそのような指示はしていないと言っている。だからNHKの関与はなかったということになる。被害者女性は「かわいそうだから決して表に出てはいけない」ということになっているので、自分の体験を語ることはないだろう。彼女は他の出演者たちと同じように疑われたまま自分のトラウマも抱えたままで囚われて生きて行くことになる。これは実はかなり残酷な人生なのではないかと思う。だが、NHKが元になった状況を改善することはないだろうから、同じようなことはまだ起こるかもしれない。しかし日本社会ではそれも「組織を守るためには仕方がない個人の犠牲だ」と考えるのではないだろうか。

これは「聞かれたことにしか答えていない」という例である。つまりNHKの番組は多くの外部スタッフを抱えており、彼らがそれを指示した可能性がある。そしてその指示に関してNHKのスタッフが指示をした可能性は残っているし、仮に外部スタッフが勝手にやったということになっても監督責任は残るはずである。

安倍首相が秘書官や奥さんを通じて何か意思を伝えたとしてもそれが法律違反に問われることはない。同じようにNHKもいざとなれば「外部スタッフが勝手にやったことだ」として切り離してしまえば社会的な非難を受けることはない。あとはタレントを切り離してし、私たちは被害者でしたといって終わりである。

個人が自己責任のために必死で嘘をつくのに比べると、組織の嘘はどこか落ち着き払った調子がある。自分たちが社会をコントロールしていて「世論などいかようにもなる」という自信があるからだろう。そして、実際に世論はその場の雰囲気で動く。

今回は週刊誌が問題を嗅ぎつけてあのやっかいな事務所が騒ぎ立てるまえに「ニュース」という形で先に既成事実を作ってしまい「NHKは一切関与していなかった」という形を作った。実際には問題のきっかけを作り(あるいは放置していた)にもかかわらず、うちは被害者ですよという体裁にしたのである。そのあとも「聞かれたことには答えたが、聞かれなかったことには答えなかった」というお芝居を続けている。もちろんこの行為は法的には何の問題もないし、日本社会では道義的にも「組織を守るための忠義である」と肯定される場合が多い。

財務省や官邸のやり方を見ていると「外部のスタッフを巧みに切り離して問題の隠蔽を図り、最終的には末端の個人にかぶせる」というやり方が日本社会に蔓延しているのがわかる。たいていの人は「社会とはこんなものだろう」と考えるので、柳瀬さんが嘘をついていたとしても特にそれを機にすることはない。

こうした行為が法律に触れているわけではないので、柳瀬さんを裁いたり、NHKを断罪することはできない。しかしながら、いざとなれば個人を切ってしまえばいいのだと考えることで組織の上の方にいる人は次第にモラルをなくして行く。自分が出世するためなら誰か弱い他人を犠牲にして知らぬ存ぜぬを通していればよいということになるからだ。そして、普段から「何かあったらこいつに詰め腹を切らせよう」などと物色し、それを当然のように思うわけだ。

私たちの社会にあるこうした風通しの悪さはこのように作られている。実はTwitterなどで他人を叩くことで我々も知らないうちに共犯者になっている。一時の騒ぎが治るとまた別の問題がおきて大騒ぎになる。多分柳瀬さんの問題も忘れ去られて加計学園もなんとなく「逃げ得」ということになるのかもしれないし、NHKではまた同じような問題が起こるかもしれない。しかし、同じ問題が起きたとしても誰か適当な犯人を見繕ってその人を叩いて終わりになる。

NHKの道義的責任を問うことはできないのだが、こうした人たちが政府を「マスコミとして監視している」ことになっている。実は政府が一向に態度を改めない裏にはこうした事情もあるのではないかと思う。実は「お互い様だ」と思っているのだろう。

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日本文明はユニークなのか

去年の末くらいからちまちまと「村落社会」について考えてきた。利害共同体の集まりとしての日本には乗り越えられない課題がいくつかある。利益共同体は受益者の変化が遅れるので全体が足を引っ張られることになる。

しかし利益共同体の中で好き勝手にやって行きたい日本人は他人からあれこれ言われることを嫌う。そこで、今ある状態を観察してみれば良いのではないかと思った。他人からあれこれと指図をされることがいやなのだから問題を自覚すれば良いと思ったのである。

これを考えているうちに、いろいろな類型があることがわかった。例えば心理学者の河合隼雄は母性社会という概念を提唱し「契約で明確化しない」社会としての日本について分析しているようだ。

また、別の人は農耕文化に外からの刺激が加わることで「精神革命が起こる」と捉えていた。この見方を取ると父性・母性という対立概念ではなく、今まで定型のルールを必要としなかった社会が複雑化する過程で定型のルールを受け入れて行くというダイナミックな論が聞けるのではないかと思った。

試しに彼ら一派の著作を読んでみたのだが、やはり集団で論を形成するうちにディテールに関心が移り、繊細な(あるいはちまちました)論に落とし込まれてしまうようである。今回読んだのは比較文明における歴史と地域 (講座比較文明)だ。

この中に日本文明について書いた一節がある。2008年に亡くなった濱口惠俊という人が担当している。まずグローバルに通用する文明とは何かを分析した上で日本文明は独自だと結論付けた。濱口らが注目したのは西洋流の個人主義ではなく関係性に立脚した「間人」という概念のようだ。日本文明の特徴は人が個人として存在するのではなく、関係性の中に存在するというコンセプトであり、それに沿って幾つかの用語が提唱されている。信頼に基づいた自律的な秩序は世界的な価値があり、国際的に貢献できるのだという筋になっている。

この筋を批判するのは簡単である。現在、安倍政権が政府の中を通産省・官邸一派とほか省庁に分断している。他省庁は人事権を官邸に握られているので自律的に問題解決ができなくなる。一方、通産省は自分たちの利益を優先させようとし軋轢を生むのだが、実際に仕事をしているのは他省庁なので情報が上がってこない。現在様々な省庁から「記録が発見」されているが実際には隠されていたものであり、政府が分断されていて5年もの間自浄作用が働いていなかったことがよくわかる。これまでこうした問題が起こらなかったのは、それぞれの村に分かれておりお互いに手出ししなかったからにすぎない。つまり、信頼に基づいた自律的な社会などないし、あっても破壊するのは極めて簡単なのだ。

日本文明を独特のものだと考えるのは何も濱口だけではない。有名なものにハンチントンの文明の衝突がある。主に宗教を基礎に「西側キリスト教」「東側キリスト教」「イスラム教」「アフリカ」「中華圏」「アジア仏教圏」「ヒンディ」「ラテンアメリカ」に分けている。類型に属さない国が4つり、そのうちの日本だけが経済的にインパクトがあり独立した文明として位置付けられている。ハチントンは文明と文明がぶつかるところに摩擦や問題が生まれるとしている。

ハンチントンは西洋キリスト教圏から他文明をみているので、隣接する文明についてはある程度詳細に分析をしている。しかし、アジアの文明に関する見方はざっくりしたものも多い。一方でイスラム教の内部に見られるスンニ・非スンニという対立は見過ごされている。だが、ハンチントンには日本文明を独自だと主張しなければならない心情的な理由もないので、見方はダイナミックで面白い。

日本人がこれを扱うとどこかちまちましてしまうのは、どうしても他者に対して「良い意味で違っている」ということを証明しなければならないと考えてしまうからだろう。逆にいえば「日本文明は何かの亜流か白人文明に対してみると取るに足らないものなのではないか」という小国意識があり、そこから脱却したいと考えているのではないだろうか。

日本文明が特殊なのは実はそのユニークさにはなさそうである。日本の特異性は様々な文明から影響を受けつつ、本質的には変わらなかったという点にある。なんとなく全てを解釈して乗り切ってきたのである。

ハンチントンによるとエチオピア、イスラエル、ハイチという孤立国があるのだが、一億人規模で広がった地域は他になく「文明扱い」されているのかもしれない。エチオピアの人口は一億人を突破しておりこれが文明扱いされるようになる日も近いのかもしれないが、経済的な影響力はそれほど大きくない。

濱口さんがなぜ関係性の中にある人間というコンセプトで日本社会を説明しようと思ったのかはよくわからないが「個人主義を受け入れられなかった」日本の「集団主義的な傾向」を正当化したいという気持ちはよくわかる。一方で中華思想にある階層的な集団も日本は受け入れなかった。ある意味日本は「牧畜系の人たちが持っているルールによる支配」を受け入れずに一億人規模の人口を維持できている特異な社会と言える。確かにこれを劣等感として捉えるのではなく、集団が機能しており自律的なダイナミズムの元に社会が形成されていると捉えるのは間違ったアプローチではないだろう。

ということで、この説明をいったん受け入れるとまた別の深刻さが浮かび上がってくる。濱口が間人というコンセプトを思いついたのはこれが日本社会の本質だと考えたからだろう。ということは日本人は集団の中にあってはじめて安定すると見なしていることになる。

しかし、実際には日本では孤人主義が蔓延している。これは西洋流の自己意識を持つこともできないし、かといって間人として存在できる集団も持たないという状態だ。他人の視線と承認は必要だがそれが満たされないのが孤人である。

非正規雇用と呼ばれる企業集団からの保護が曖昧な人たちが多く生まれたが、政府は責任転嫁のために「これは自己責任だから政府は関与しない」という言説が横行している。社会の中に難民が生まれているような状態である。安倍政権は経済内戦で生まれた難民を放置したままお友達への便宜供与に邁進する政権だと言える。

伊東らの比較文明論は精密なプラモデルのような面白さはありそうだが、それほど情勢分析には役に立ちそうもない。しかし、彼らが揺るぎないと考えていた日本人の独自性がいとも簡単に破壊されてしまったということを観察する上では面白い教材と言えるかもしれない。

このことから、現在の政権が嘘をついたり自己責任論を振りかざすことがどれだけ危険で特異なことなのだということがわかる。それは人世代前の人たちが「当たり前である」と考えてきた空気のような社会的な特性がなんとなく失われていることを意味している。当たり前にあると考えてありがたがりもしなかったから汚染されるとどうして良いかわからなくなってしまうのだ。

安倍政権はその意味では意味を破壊することにより社会から会話を奪い去れ分断を促進しているは会社と位置付けられる。さらに伊東らの言葉を借りると日本文明そのものを破壊しているとさえ言える。

日本人がかつてあった「間人」に戻るのか、それとも徐々に個人主義を学んでゆくのかはわからないのだが、いずれにせよかつてあった村落を維持する仕組みを学び直しつつ、個人主義のあり方も基礎から学ぶ必要があるのかもしれない。

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日本人は責任をどのように理解したのか

レスポンシビリティ(対応性)という言葉に責任という訳語を与えたのは誰かということを調べた。前回紹介した橋本大二郎の短い文章の他に「西周が訳した」ということを証明できる資料はなかった。

そもそも荘子(そうし)が天子について書いた文献の中に天子の責任という言葉が出てくるようで、責任という言葉は新しく作られたものではなさそうである。明治時代に宮内省が編纂した辞書にも「責めと務め」というような定義が見られる。明治時代には民法の中でも負債を弁済する任のような意味合いで責任という用語が使われていたようだ。連帯責任も同じように負債に関する概念だったようである。

この他に責任内閣制という言葉がある。内閣が君主ではなく議会に対して責任をとるという制度だと考えられている。この責任はレスポンシビリティの訳語なので古くからこの二つの概念が同居していた可能性は高い。

日本語には古くから責任という言葉が存在し民法では「債務を弁済する義務」のように用いられれていたようだ。このため各種の国語辞典を見ると、どれも同じように「責を負う任務」というような定義が最初に出てくる。中にはこれをレスポンシビリティの訳語としている辞書もある。

英語では「対応性とか即応性」という言葉が当てはまると書いたのだが、ケンブリッジ辞典は「duty/義務」や「blame/非難」に結びつけている。国や社会によって何を責任とみなすのかについては若干の違いがあるようだ。

いずれにせよ、明治憲法は恩賜の欽定憲法なので政府が国民に対して説明をしなければならないというような意識は希薄だったのだろう。さらに庶民の生活の中では、概念的な「社会契約による権限委託」というのは理解されにくいが、具体的な「何か問題を起こした時に金銭的な補償をする」という行為の一部として責任が理解されていたと考えて良いのかもしれない。

ただ、日本人がまったく政治的な概念に理解や関心がなかったということはないようだ。西洋に比べて日本は遅れているということを実感した日本人は慌てて西洋の社会制度を学び始める。この中で概念的な人権や契約という概念をフランス語や英語で理解した人たちがいた。日本人は何をかんがえてきたのかというNHKが出している書籍によると、日本にはフランス流の民主主義を模索する自由主義者とイギリス流の立憲君主制を模索する立憲改進という二つの民主化勢力があったそうで、草の根的な民権運動も存在した。自由主義者だった中江兆民が社会契約の考え方を日本に紹介したとき日本には「社会」という考え方はなく、民の約束という意味の民約という言葉が使われたそうだ。

「原語でコンセプトを理解できてすごい」という見方もできるし「余計な概念がなかったのですんなり受け入れることができた」という見方もできる。今回観察している「責任」をめぐる諸概念は契約と権限移譲という基本コンセプトを理解した上で英語で読んだ方がわかりやすい。これを日本語に訳した上で漢字の意味に引っ張られると話が複雑になる。漢字の縮約能力が仇になっていると言えるだろう。

いずれにせよ「経済的補償」の一環として責任という概念を理解した日本人はGHQが憲法を書いた時に不用意に同じ訳語を使ってしまったと考えられる。内閣がグループで国会に対応するという意味を「連帯して責を負う」という法的補償の概念で理解してしまったことにより誤解が生まれる素地が作られた。これは内閣は天皇ではなく国会(つまり国民)に対応するのですよということと首相が勝手に決めてはいけませんよということを言っているのだが、これを訳者がどのように理解したのかは今になってはよくわからない。

「政府は国民から社会的合意に基づいて作られた概念的な契約によって権限を委託されている」という理解はさらに遅れた。昭和の時代に「政府」の問題は行政責任の問題だった。つまり公害を放置した時に国が補償してくれるのかという具体的な補償の問題として政府の責任を捉える人が多かった。

このため平成が終わりを迎えつつある現在でも、アカウンタビリティ(説明責任)という言葉は辞書に載っていない。現代用語の基礎知識に「行政責任」と「アカウンタビリティ」という項目が立っており、未だに「現代用語」扱いになっている。

これらの言葉がいつ使われ始めたのかということはよくわからなかった。Google Trendは2004年以前の傾向が調べられないのだ。いろいろ調べると「企業統治用語」として日本語に定着したのではないかという可能性が見えてきた。

アカウンタビリティは「企業の株主に対する説明責任」というコンセプトで使われ始めた。同じように最近使われるようになった言葉に「コーポレートガバナンス」や「コンプライアンス」がある。もともと持ち合いが多く株主に対する責任が曖昧だった日本企業の中に西洋流の「契約と説明責任」とか「社会責任」という概念が広がっていった頃である。日本でこれが顕著になったのは2000年代初頭の村上ファンドやライブドア(堀江貴文)あたりではないかと思われる。お金が絡んだ方が日本人の理解は早いのだが、これが道義的責任とか社会的責任となると途端に暴走が始まることがわかる。

例えば連帯責任という言葉はもともと「連帯保証」という債務に関する用語だった可能性が高いのだが、これが軍隊やスポーツチームなどで使われるようになったという経緯がある。この連帯責任という言葉は軍隊では見せしめにチーム全体を殴るための口実に使われていたようで、用例がいくつも出てくる。

ここに出てくる文章を読んでいると気分が悪くなるが、要するにマネージメントの失敗を八つ当たりの暴力によって目下に押しつけるのが「連帯責任」だ。しかしこれを制裁と呼びたくないので「体裁のある」用語を使ったのではないだろうか。これが戦後になって体育会系のマネージメントに応用されたのではないかと考えられる。お金のやり取りがない時に通貨として使われるのが村八分のような社会的な非難と制裁という名前の暴力なのである。

この二つに共通するのは現場が「金銭的なマネジメント」に関わっていないという点である。兵隊が補充されてくる場合「兵士を雇うことに関する費用対効果」は考えなくてもよい。すると現場マネージャが暴走して私的制裁を練り込んだマネジメントを行うようになる。日本のスポーツの近代化が遅れたのも「無償の努力は美しい」というアマチュアスポーツが過度に賞賛されたからだ。すると現場のコーチが思い込みで選手をしごくというのが当たり前になってしまう。こうした現場で責任が曖昧になると「連帯責任」という「無責任」が横行することになる。

自己責任という言葉はその最たるものである。もともと債務関連の言葉だった。これが集団で責任をおう連帯責任という考え方になった。行政責任という言葉も生まれる。これは借金ではなく保証金という形での支出を伴う。行政責任はないという意味合いで、だったら誰に責任があるのかということになる。本来なら会社などの集団に補償責任を負わせたいのだが、フリーランスの場合には問責する主体がないので「自己責任」という言葉を無理やり作って押し込んでしまったのだろう。しかしこの「無責任用法」が生まれてしまうと一人歩きし、力が弱いものに対して「お前が悪いんだろう」と単純化されて使われるようになった。政治家など力のある人に「自己責任だ」という言い方はしない。

日本人はこのようにグループ間のお金のやり取りを通じて社会契約的な概念を理解していることがわかる。これが溶解してしまうともっと概念的な「社会」を作ってルールを普遍化するか、個人と個人の間の無秩序な指の差し合いに陥ってしまう。日本人は後者を選んでおりそれが現在の混乱の一員になっている。

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自己責任という言葉はいつ生まれたか

自己責任という単語がある。例えば生活保護を受けている人が困窮しているのは自己責任であるというように使われる。説明責任という言葉はいつまでたっても定着しないが、自己責任という言葉は「正しく」行き渡っている。理由を考えたのだが、これは責任という言葉が日本語では独自に解釈されているからではないかと思った。責任はやまと言葉の「〜のせい」の訳語なのだ。




まず、レスポンシビリティの訳語として責任という言葉が当てられたというところまでは確認ができた。原典は確認できないが明治時代に西周が訳したという話がある。橋本大二郎のブログに「対応力」とでも訳すべきだったという話が出てくる。どうやらこの<誤訳>はその筋では有名らしい。

そこから連帯して責任を負うという用語が生まれる。日本国憲法に連帯して責任を負うという言葉があることから戦前から使われていたことが伺える。

内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

The cabinet, in the exercise of executive power, shall be collectively responsible to the diet.

この時にすでに日本語には責任を持つではなく「負う」と書かれているので負債めいたニュアンスがあることがわかる。英語は集団で対応しますよという言い方になっている。これは内閣総理大臣が一人で対応するのではなく内閣全体が対応するのですよということを言っており、権限についててほのめかしている。内閣には固有の権限(exercutive power)があるが、総理大臣一人に好きなようにさせませんよというニュアンスがあるのだが、なぜか日本語では削られている。そして「負う」という動詞が充てられている。原文は形容詞であえて日本語に訳せば「責任がある」となる。だから「固有の権限を行使するにあたって、内閣は国会に集団で対応する」が正しい訳語になるのではないだろうか。

余談ではあるがresponsibleにはforという使い方とtoという使い方があるそうだ。forは物事に対して使われ、toは人に対して使われる。そしてこのように「〜に対して(説明などの対応をする)責任がある」という言い方になる。

この「〜に対して責を負う」という言葉は集団主義的な使われ方をすることが多かった。体育会系で「チームの連帯責任」などということがある。責任の所在が曖昧になっており、なにかあったら罰を与えるからお互いによく見張っておけよというような意味合いがある。この集団が溶解することで、自己に責務を負わせるという考え方が出てきた。これが「自己責任」だ。ではいつ頃から自己責任という言葉が多用されるようになったのだろうか。

英語では自己責任という言葉はかなり限定的に使われる。本来人間は神様から治癒能力を与えられており投薬なしでも病気が治ると考える人たちがいる。彼らは病気に対して反応できるという意味でセルフレスポンシビリティという言葉を使っており、2004年に限定して調べた時にもそのような意味で使っている文章が見られた。この「セルフ・レスポンシビリティ」を引き寄せの法則などに関連付けて「自分の幸せには自分が責任を持つべきだ」などと使っている文章は見かけた。本来の英語の意味が誤解されているのか、原典通りに理解しているのかはよくわからない。

この言葉が「お前のせいだ」という意味を持つようになったのは比較的最近のことだ。Google Trendで自己責任を調べると2004年に山があるのが確認できる。この時に書かれた共産党のウェブサイトが見つかった。イラクの人質事件は自己責任であるという政府の主張を糾弾したものだ。いくつか調べたがどれも「イラク」との関連の中で使われていた。

イラクで数名の邦人が拘束された。日本政府には彼らの人命を守る義務があるのだが実際には何もできない。そこで「勧告を無視して危険を承知で出かけて行ったのだから結果的に救出できなかったとしても政府のせいではない」という論が展開された。これが2004年なのだ。こうした使い方が昔からあったのかはわからないが、自己責任が今のように使われるようになったきっかけのひとつは小泉政権が「政府の責任を被害者に転嫁した」ことにありそうである。

「政府に責任がある」というのは「対応しなければなりませんよ」とか「そういう機能があるんですよ」という意味なのだが、日本人はこれを「イラクで人質が誘拐されたのは政府のせいだ」と取る。そこで政府は「いや、のこのこと出かけていった人たちのせいだ」と言い訳した。それに追随したマスコミが騒ぎ出し「帰ってきた人質たちを非難してやろう」という空気が生まれ、実際に彼らは避難にさらされることになった。ハフィントンポストのこの記事を読むと当時の激しさが少しだけわかる。

2015年には後藤(健二)さんというジャーナリストが「責任は自分にある」と宣言してイラクに行って実際に人質になり殺された。これが名詞化されて「自己責任という言葉が一般化する」という考察がある。QUORAで聞いたところ「自己責任」に当たる英語は、at one’s own riskではないかと指摘してくれた人がいた。リスクを取るという意味だがそのリスクの中に他人から責められるというニュアンスはない。しかし、日本には責任を負うという概念があり、その中には何かあった時には「ムラ」が叩いても文句を言わないというニュアンスが含まれている。

現在、私たちはセクハラ問題や強制わいせつ問題などで「被害を受けたとされる女性にも責任の一端があるのではないか」という議論をしている。いわば自己責任論である。イラクに出かけて行った人たちに同じような視線が向けられていたことがわかる。とにかく誰かを叩きたいという日本人の心象がこの「自己責任論」には色濃く映し出されている。常に問題を「誰かのせいにしたい」という気持ちがあるのだろう。

責任は「説明や対応ができるように準備しておく」という概念であり「責を負わせる」という罰則概念ではない。だが日本語の責任という言葉には「責」が入っているので「誰を非難すべきか」という議論に陥ってしまう。叩く資格は「普通で善良な暮らし」をしているという簡単なもので、叩くにあたって実名を公表する必要はない。これが、結果的にではあるが過剰さの要因になっている。

その一方で「職務を明確にして対応する」のはとても苦手である。それは役割分担が不明確で誰が何を決めているのかよくわからないからだ。レスポンシビリティは明確な役割分担と権限移譲によって生まれるので、それがない社会ではそもそも責任の取りようがないのである。だから説明責任という言葉はいつまで経っても日本には定着しない。

連帯責任の源流は連座制や五人組などの制度だと説明する人たちがいる。中国起源概念が日本に取り入れられたという面白い議論をOKWebで見つけた、またスポーツの連帯責任について考えているコラムの中に河合隼雄の母性集団・父性集団という概念が出てくる。今回の考察では日本人は契約概念が理解できないという見方をしているのだが、河合は責任の所在が曖昧な集団を母性集団として区別しているようだ。

責任の所在が曖昧な社会では連帯責任という言葉がよく使われる。野球部員がタバコを吸っているのを見つかると甲子園に行けなくなるとか、正座させられて殴られるというようなものが一般的な使い方である。今回のTOKIOの騒動でも連帯責任という言葉が使われた。テレビでは疑問を持ちつつも流されてしまったコメンテータが多いようだが、個人が責任と向き合えなくなると批判する人はいなかった。周囲の人たちは個人が償うためのサポートはできるが、向き合うのはあくまでも山口達也さんなのだが、母性的(あるいは体育会的)な傾向の強いジャニーズ事務所ではどこまでも責任の所在や一体何にたいする謝罪だったのかということは曖昧にされ続けた。

このように役割が曖昧なまま結果的に集団を叩いて管理をしていたという事情があり、集団が溶けてしまった現在はそこから浮いてしまった人たちに必要な権限は与えず「個人の資格で叩く」行為が蔓延している。その発端になったイラクで叩かれたのは会社に属している人たちではなくボランティアという個人だった。仮に企業が派遣していたとしたらその企業が叩かれていたはずなのだが、叩く企業がないので個人を叩いて「自己責任だ」と言っていたことになる。

だが集団だと責任を取るのかと言われると疑問もある。自衛隊は「戦闘状態にある」という日報を送り続けてきたのだが、それはすべて隠蔽された。そして最終的にはできの悪い通販番組のように「それは個人の感想です」という注釈をつけられて「自衛隊員は戦闘状態だったと言っているがあくまでも個人の感想にすぎず、あれは戦闘状態ではない」などと言い出している。日本では個人は非難の対象にはなるが権限は与えてもらえず発言も無視されてしまうのである。

いずれにせよ「連帯して責を問う」という伝統的な考え方があったからこそ、個人で責任を負うという考え方がで出てくるわけだ。だが、個人には対応力はないので個人責任という言葉は不当なものになりがちである。それに加えて「結果的にリスクを負う」くらいのことはあっても、集団の憂さ晴らしのために叩いて良いという根拠はどこにもない。

だが、私たちは不思議なことにこの自己責任という言葉をすんなり理解して、あたかも昔からあった言葉のように使うのである。

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バベルの塔に住む日本人は民主主義を理解できない

荒れる学校について考えているうちに、そもそも日本語には民主主義に関する用語の理解が欠けているということがわかってきた。これについて考察しているブログは多いのだが、議論そのものがあまり注目されてこなかった。例えば責任とResponsibilityという用語で検索するといくつかの文章を読むことができる。

今回は「先生が体罰という抑止力を失ったために学生がやりたい放題になった」という投稿をきっかけに、荒れる学校について考えている。この問題を解決するためには、まずコミュニティをどう保全するのかを話泡なけければならない。しかし、話し合うための言葉すらないうえに問題を隠蔽したがる人たちもいる状態では話し合いすらできない。

先生や保護者が協力して適切な監視体制を作ったり生徒に自主性を持たせれば暴力を使わなくても問題は解決するのだが、日本人は民主主義社会が持っているはずの協力に関する用語を持たないためにお互いに意思疎通ができない。これはバベルの塔に閉じ込められた人たちが協力して塔を建設できないのに似ている。

前回のエントリーでは学生か先生に権限を与えるべきだと書いた。ところが日本語でこの議論を進めようとするとややこしいことが起こる。権限と責任という二つの言葉だけを見ても、これを好きなように定義する人たちが現れるからだ。「日本人がバカだから民主主義が理解できない」という言い方をしても良いのだが、英語の表現を漢字語に置き換えた時に生じた問題が修正できていない。

例えば先生の権威を認めるべきだと主張すると、権威という言葉から絶対王政の権威のようなことを想像する人が出てくる。これは言葉に「威」という漢字が含まれているからだろう。畏れて従うというような意味がある。しかしこれを英語で書くと先生の権限を認めて委譲すべきだという意味になる。権限も権威も「オーソリティ」の訳語である。この言葉はラテン語からフランス語を経由して英語に入った。元々のラテン語の意味は「増える・増やす」ということのようだ。これが「書く」という意味になり、書かれたものを引用して「誰もがそうだな」と思える概念を「オーソリティ」と呼ぶようになる。ここから派生して、権限を裏書きして認めることも「オーソリティ」と呼ぶようになった。

つまり、民主主義的な用語では「社会的な合意のもとに先生に学校を管理する権限を認めること」を先生に権威を与えるべきだということになる。だが漢字に「威張る」を思わせる言葉が入っているので「先生は偉いから逆らわないでおこう」という意味に取る人が出てくる。逆に先生は税金で雇われているだけであり、自分たちの使用人だから威張られるのはたまらないと考える人も出てくるだろう。

「権限」を「威張ること」と考える日本人は多い。例えば日本レスリング協会は「自分たちは選手を選抜して指図する正当な権利がある」と考えており問題になっている。パワハラが認定されたあとでも間違いを認めない上に、スポーツ庁には平身低頭だが選手に対しては「威張って」しまう。これは権威を間違えてとらえている一例といえる。このように何かを遂行するために権限を与えてしまうと人格そのものが偉くなったと考える人が多い。「権威」とか「権限」の裏にある契約や権限移譲という概念がすっぽり抜け落ちてしまうからだろう。

そんなの嘘だと思う人がいるかもしれないので、英語の定義を書いておく。慣習的に認められた権威はあるが、最初に書いてあるのはendorse(裏付け)である。語源の「書く」という概念がそのまま受け継がれているように思える。

: to endorse, empower, justify, or permit by or as if by some recognized or proper authority (such as custom, evidence, personal right, or regulating power) a custom authorized by time

続いて責任という言葉についても考えてみよう。責には「咎める」という意味合いを持っているので、どうしても「何かあったときに責められる役割」というように思ってしまう。だから責任を取るというのは叱られることか辞めることを意味することが多い。これも英語の意味をみてみると、元々の意味は法的な説明を求められたときに反応ができるように準備をしておくという意味になる。だから反応する・対応するという言葉の派生語が使われているのである。

例えば日本語ではよく自己責任という言葉が使われる。これは何か悪いことがあったらそれはお前のせいだから俺たちは知らないというような意味合いで使われる。これは自己を責め立てるという言葉の響きのせいだろう。しかし英語で検索すると「生命は治療のために必要な力を全て持っている」という意味しか出てこない。ある界隈で使われている特殊な用語でしかない。そもそも他人に説明するという意味の言葉なのでそれが自己に向くことがないということなのではないかと思う。連帯責任という言葉もレスポンシビリティの訳語にはならない。これにはグループで連帯的な法的責任を負うという意味でライアビリティが当てられることはあるようである。英語と日本語ではこれほど違いがある。

語源を調べてみるとわかるのだが、これらはすべてラテン語を経てフランス語から英語に入った概念だ。それを日本人が取り入れる時に「法律で定めてはっきりさせておくこと」「記録を残して説明できるようにしておくこと」「役割を明確にして説明できるようにしておくこと」をすべて一括して「何かあったら咎め立てをすることだ」と理解してしまい「〜責任」という用語を当ててしまったことがわかる。つまり法的な契約の概念がなかった当時の日本には「咎め立てる」という概念しかなかったのだろう。現在はここから「では咎められなければ何をやっても良いのだな」という自己流の民主主義の理解が広がっている。

生徒が責任を持つべきだと英語でいうと、生徒が自分たちの意思でクラスの運営を決めてその結果にも責任を持つという意味になる。このためにどんな権限が必要なのかということが議論されることになるだろう。だが、これが日本語になると、何かあった時に生徒をグループで叱責するという意味に捉える人が出てきてしまうのである。

ついでなので他の「責任」についても見てみよう。

説明責任という言葉がある。accountabilityという。もともとは「数える」だが、これは借金などの記録をしておくことを意味していた。つまり貸し借りを数えた帳簿を作っておいていざという時に説明・証明できるようにしておくことを意味している。これがビジネス全般に広がり、何かあったときに説明できるようにビジネスの詳細を記録することをaccountabilityというようになった。これも「説明系」の言葉であり、説明に失敗したら叱られるという意味ではない。また、相手の疑念に答えずに言葉遊びでごまかすことも説明責任とは言わない。問題は相手の疑念であり、その背景には相手が権力を移譲しているという前提がある。現在の安倍政権が説明責任を果たさないのは民主主義が一時的・条件付きの権限移譲であるということを理解していないからだと考えられる。

こうした契約意識の希薄さは国会議員を交えた政治議論にも多く見られる。

国民は天賦人権ばかりを強調するが国を守る義務を負うから自衛隊に入って叩きなおすべきだという意見がある。権利と義務が非対称でありその間のつながりが一切説明されていない。これは権利と義務を個人的な「貸し借り」概念に置き換えて、これだけ貸してやっているのだから借りは兵役で返すべきだというように解釈した上で、都合よく「俺に従うようになるようにお前の根性を叩き直している」という主張に利用しているからだろう。

この権利義務関係は「税金を払って恩を売っているのだから、当然あるべきサービスを受け取れる権利を持っている」という貸し借りの概念に置き換えられている。途中のプロセスが抜け落ちてしまうので、過剰な権利意識と呼ばれるのだろう。

契約概念に置き換えて「権利・義務」を厳密に使うと、「日本国民は私有財産を持つ権利があるから同時に他人の財産を尊重する義務がある」のように裏表概念として用いるべきだということになる。父兄は子弟に教育を受けさせる権利があるのでそれが行使できるように適切な努力を払うか誰かに権限を移譲して環境を整えてもらうべきだということになる。また父兄は自分たちが持っているのと同じ権利を他の子弟の父兄にも認めるべきだからお互いに協力して他人の権利を遵守する義務を負うということになる。過剰な権利意識にはつながらないし当たり前のことであり「日本人には天賦人権などおかしい」という話にはなりようがない。つまり「天賦人権などおかしい」と言っている人はそもそも権利・義務という概念をよく理解していないのだろうということになるだろう。

学校の問題は「自分たちの権利を行使するためには他人の権利を守る義務もあるということなのですよ」というだけの単純な話なのだが、権利だけを主張するわがままな人が増えたからみんなに兵役の義務を課して自衛隊にぶち込んでしまえなどということをいう人がいては却って問題は複雑化する。本来は法律について理解すべき国会議員が却って議論を混ぜかえしているという残念な状態にあるのだ。

こうした問題が起こるのは、封建的な政治意識しか持たなかった日本人が契約概念を理解しないままで英語を適当に訳してしまったことに原因の一端があるようである。

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安倍政権を倒してもバラまかれた種は消えないだろうという話

暴力のない「平和」な学校:真の恐怖とは? を改めて読み直した。短い文章なので全部読んでもらったほうがよさそうなのだが、論旨は次の通り。

先生が怒っても最終的に体罰がないことがわかっているので真剣に捉えない子供がいる。 怒られるのも嫌なので隠すがバレても反省しない。これがエスカレートして行き、全てではないが性的な嫌がらせや犯罪といえるものに行き着くこともある。 彼らにひどいことをされた人は先生と社会に不信感を持つようになる。 良かれと思って抑止力をなくした結果、学校はもっと耐えがたい場所になった。

それに対する感想も読んだ。書いたのは先生だそうだ。懲戒がないのは懲戒の実行が面倒だからなのだそうだ。現在の学校システムは普通の子供が損をする仕組みになっていると指摘する。

今回はタイトルを「安倍政権が蒔いた種……」にした。しかし、実際にはこのような風潮があるから安倍政権が生まれたのか、安倍政権がこうだから学校現場が荒れたのかということはわからない。安倍政権が学校システムを悪くしたのは学校への支出を減らし(あるいは不足を黙認している)からなのだが、先生と生徒が書いたものをみると問題点をあえて言い出す人はいないようだ。明らかな嘘をついていても認めないのだから潜在的な問題点を認めるはずはない。従ってこの問題はさらに悪化するものと思われる。このため安倍政権が蒔いた種は今後政治の規範として残り続けるのではないかと思う。さらに無責任教育が蔓延する中で道徳教育にまで手を出してしまったのだから混乱はますます広がることになるだろう。すでに先生の思い込みを正解とみなしそれ以外の意見を排除する道徳教育が行われているという指摘もみられるようになった。

原因や対策をあれこれ考えた。原因はなんとなくわかったが、対策を日本語で書くのは難しそうである。

対策は先生に権限を与えて学校を立て直すか、生徒に自主性をもたせて自律的に問題を解決することなのだろうが、日本語にはこの類の「民主主義用語」が著しく欠けている。今回「権限」「説明」「責任」「義務」「法的責任」といった言葉が出てくるのだが、裏付けがあまりにも貧弱であり一つ一つ個別にみてゆくとかなり時間がかかりそうである。

日本が国際社会において「民主主義社会の一角」とみなされつづけるためには自主的なコミュニティの運用ができて当たり前の社会にならなければならない。

抑止力がないとコミュニティが健全に保たれないという概念を国際社会に当てはめると抑止力としての軍事力や核の脅しがなければ世界の平和は保てないということになる。日本は平和憲法を持っていると言っておきながら、実際には「押し付けられた平和を嫌々守っている国」ということになってしまえば国際社会からは「反省なき国家」だとみなされることになるだろう。70年も平和憲法を抱えていたのに反省していないのだから、日本は常に監視しておかければ何をしでかすかわからない国ということになってしまうだろう。中国や韓国が責任あるアジアの大国になれば日本は用済みである。

さて前置きが長くなった。まず取り掛かりとして「なぜ学校が生徒を懲戒しなくなったのか」を考える。今回引用した先生の感想文を読むと懲戒を実行するといろいろと面倒だからだそうだ。ではなぜ面倒なのか。

高度経済成長期の学校は「先生には従うべきだ」という意識で運営されていた。これは高度経済成長期の子供達の親が今よりも権威主義的な時代を生きてきた戦中世代だからである。なんとなく先生には従うべきだという規範意識が残っていたのだろう。当時の学校には理不尽で厳しい校則があった。例えば地元の福岡県には中学生になったら丸坊主にするという校則を持った中学校があった。

ところがこうした理不尽さは徐々になくなってゆく。それは民主主義意識が進展していったからだ。この民主主義というのは保守派に言わせれば「権利ばかり主張し義務を果たさない」悪い制度である。しかし実際には見返りばかりを主張するが責任を果たさないと言い換えた方が良い。そしてこの責任という言葉が日本では極めて曖昧に使われている。

しかし、学校を健全に保つためにはなんらかの権威は必要である。天賦の権威はなくなったのだから、誰かが契約をし直して権威付けをやり直す必要がある。だが、日本はこれをしてこなかった。

一つ目の選択肢は学校というコミュニティを運営する責任は学生にあるのだから学生に任せて規範的な運営を行うべきだというものである。これが民主主義型の解決策である。学生をエンパワーメントして権威を与えるということになる。

もう一つの選択肢は生徒にはまだ判断力がないのだから先生に権限を移譲するというやり方がある。つまり先生の権威を認める「契約」を交わせば良いということになるだろう。

ここで、責任とか権限という言葉が出てきた。権限は英語でいうとオーソリティで権威とも訳される。権威というと日本語では「王様の権威」というように天賦である印象が強い。ところが英語のオーソリティはオーサーが語源になっている。なぜ作者が権威になるのか、そして合意を得ることを「オーソライズする」というのか、日本語で生活していると答えられないのではないかと思う。実はこの概念は全てつながっている。そして、英語のオーソリティには天賦のという意味はない。だから王様の権威という言い方は実は間違っている。

先生の感想に戻ると「権限も委託されていないし、それどころかどんな権限があるのかすら明確ではない」人たちが集まってもソリューションを提示することができない。だから次第に面倒になり野放しになってしまう。さらに予算が少なくなった上に消費者化した保護者から過剰な要求を突きつけられると、先生は「面倒に関わっていては自分に課せられた課題が果たせず、悪い学校に飛ばされてしまう」という意識を持つようになる。つまり、先生には権限が与えられていないどころか過剰な要求ばかりが課せられており、これが見て見ぬ振りを生んでいると言える。

もう一つの問題は生徒に話し合わせて解決策を導き出すというやり方なのだが、これは時間と手間がかかる。この解決策の一番の問題点は自治を行う学生に自由度がないということがあるのではないだろうか。例えば「私はこのように荒れ果てた学級に参加するのが嫌なので授業の時だけ来ます」と決めたとしても、それが認められる可能性はない。実行するためには予算も必要になるだろう。つまり、生徒は管理責任だけを押し付けられて権限が与えられないということになる。これも実は生徒が責任を果たすために十分な権限がないということを意味している。英語だとエンパワーされていないので責任を果たさないということになる。これも実は権限移譲の問題なのである。

問題はこればかりではない。問題行動が起こす生徒がいると保護者たちはこれを「学校の破綻」と捉えるようだ。これまで数回で見てきたように日本人は「普通は問題のない円満な状態だ」と考える。先生が書いた方の文章には、先生に必要なサポートが与えられていないという一節がある。このサポートが何を示すのかは不明であり、ここに問題の一貫があるといえるだろう。さらに次のような一節があり、その深刻さは想像以上だ。

教員も保護者も「見たいものしか見ない」し「聞きたいものしか聞かない」ものなのでした。「学級経営はうまくいっていませんが、最大限努力します」と言おうものなら、保護者は「わが子のクラスがそんな状態になっているなんて」と卒倒しそうになり、逆上して烈火のごとく怒りをあらわにします。

つまり、普通の学校はうまくいっているはずなのに、自分の子供が通っている学級だけが問題を抱えているということで「損をしている」ように思えてしまうのかもしれない。そもそも、解決策がない上に問題そのものが認知されない。するとますます問題が温存される。すると普通の学生は「誰かが上から力で押さえつけない限り人々は自制的に行動しないはずである」と考えるようになるのだろう。

こうした人たちは次世代の有権者や消費者になるのだが、関わりを最小化して自分たちが得られる見返りばかりを主張するようになるはずである。また、監視や罰則がない政治家や官僚が嘘をついても「世の中はこんなものだろう」と思うようになるはずだ。

実際にTwitter上ではこうした議論が多く見られる。ということは、学校の見て見ぬ振りはもっと前から横行していたことになる。話し合うための共通の素地がないというのがいかに恐ろしいことなのかがわかるが、これについては次回以降考えたい。

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サヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけ

このところ様々な問題をネタに「村落と普通」について考察している。これを見ていて気がついたのは日本人は一般的な理論にはあまり関心を持たないということだ。日本人が気にするのは例えば「貴乃花問題で悪いのは貴乃花なのかそれとも日馬富士なのか」という問題だったり、TOKIOの山口達也が断罪されるべきなのかそれともジャニーズ事務所が責められるべきなのかという問題だ。

この文章はサヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけというタイトルなのだが、これはサヨクが人権を理解できないという意味ではない。人権が重要だと考える人たちさえも人権が理解できないだろうという意味である。人権はそれぞれの人たちが自分たちの価値観を持ったままで活躍ができる社会を作るための道具だ。しかし日本人は人権をそのようには考えない。だからある人たちは「そもそも人権などなくしてしまえ」というのである。

確かに、社会の特殊性や一般性について考えても自分たちの生活の役には立ちそうにない。その一方でジャニーズ事務所が悪いということがわかったところでそれも全く生活に影響はしない。にもかかわらずワイドショーは犯人探しに夢中になる。このブログもこのような話題のほうが閲覧者数が多い。わざわざ検索して訪問する人までいる。

その最も顕著な例が政治問題だ。政治問題は結局のところ安倍政権がいけないのかそれとも野党がいけないのかという問題に行き着く。一方で、日本は今後どう進むべきなのかとか、どうやればお互いが意思疎通できるのかという問題に興味を持つ人はほとんどいない。

人々が犯人探しに熱中するのはどうしてだろうか。それは自分たちの住んでいる社会を「きれいな状態」に保っておきたいからだろう。汚れはどこからともなくやってくるので、いつも掃き清めなければ「全体が汚れて」病気になってしまう。誰が悪いのかということを議論した上で、時には関係者を含めて全て追放してしまうことで清潔さを保とうとしているのだろう。さらにこれが娯楽にもなっている。誰もが叩きやすい人を叩くことで気分がスッとするのである。

この文章を書くにあたって思い浮かんだビジュアルは、全員がいつも道徳・倫理テストを他の誰かに課しているという映像だあ。人々は採点に夢中になっていると言ってもよいし、採点に疲れ果てていると言っても良い。採点している間は他のことが考えられないので、問題解決などもうどうでもよくなってしまうのだろう。

こうしたやり方にはいくつも弊害がある。

今回のTOKIOの謝罪会見ごっこではこれが顕著に表れており現在進行形で事態が進んでいる。そもそも問題の発端は山口達也さんの強制わいせつだったのだが、当事者たちが出てくることはもはやない。なぜならば当事者が出た時点で「社会を騒がせた」ことが問題になり叩かれるからである。山口さんには商品価値がある上にアルコール依存の問題もあるため守られるのだが、被害者女性には商品価値はなく守ってくれる人もいないだろう。実際に犯人特定を急ぐマスコミがいるようだ。ジャニーズ事務所はスポーツ紙を通して特定はするなと言っているが、するなと言われると「ああ、何か隠しているんだな」と思うのが人情というものだ。やがて過去の行状も含めて「汚れ」が面白おかしく暴き出されるのかもしれない。日本人はこれくらい暴いて裁くのが好きなのだ。

このことを考えて行くといろいろなことがわかる。日本人が道徳を守るのは誰かに裁かれたくないからである。つまり裁かれないという特権が与えられれば「道徳を守らなくてもよい」と考えるようになるだろう。前回「体罰がなくなったら学校が無法地帯になった」と指摘する高校生の文章をご紹介した。しかし、彼女だけが特殊なのではない。官邸がこの5年間何をやってきたのかを見ればそれが世間一般に広く浸透していることがわかる。官邸は「憲法違反に当事者がおらず誰も訴えないのであれば、憲法違反をしても良い」と理解するようになった。しばりつける縄がなければ逃げ出してもよいというのは家畜と同じである。学校が無法地帯になるのはより良い空間にして協力ができる体制を作ったほうがメリットがあると誰も思わないからだろう。伝統的に楽しい学園祭があったり、自主的に勉強して進学したい人が多い学校ではこうした問題は起こりにくいのではないか。

このように「自分は管理する側なのだ」と考えてしまうと、道徳を守る気持ちが薄れてしまうようである。それどころか自分たちは道徳を押し付ける側なのだから裁かれるのは我慢ならないと考える人もいるようである。自民党は裁かれて下野した時に「自分たちは法律を作る偉い人なのになぜ裁かれるのだろう」と考えて天賦人権という現行憲法の最も大切な理念を否定しようとした。最近レスリングでも同じようなことが起きている。伊調馨選手のパワハラが政府に認定されたので、日本レスリング協会がスポーツ庁に謝罪に訪れた。当然世間は「具体的な対応を伝えるのだな」と期待する。ところが日本レスリング協会はここで「これは誤解だった」と言ってしまった。心のどこかに裁かれることに対する拒絶心があったのではないだろうか。

「(伊調選手)本人は、パワハラを受けたという思いがあったかもしれませんが、伊調選手から私が聞いていなかったといいますか。私は伊調選手と会っていないので、会いたいなと思っております。2人で話せば誤解が解けるところもあるかなと思っております」(日本レスリング協会 福田富昭 会長)

このように戦後の日本人は道徳を誰かに価値を押し付けて管理を楽にするか、他人を娯楽的に罰するための道具だと考えるようになった。その一方で暮らしやすい社会を作るために自主的に道徳を守るべきだと考える人は少ない。

保守という人たちは、既存の道徳律に照らし合わせれば自分たちは他人に道徳を押し付ける特権を持っていると勘違いしている人の集まりなのだろう。これは実際の保守思想とは違っていると思うのだが、彼らにはどうでも良いのかもしれない。対峙するサヨクの側も採点に夢中になっており、一般的な人権意識というものを抜き出してそれを世間に定着させるべきだとは思っていないのではないかと思う。彼らが考える道徳規範は「他人を管理する」という視点か、罰して社会から取り除いてしまうという視点にしか立っていない。すると「罰則から逃れることができれば道徳は無視しても良いのだ」と思ってしまう。だから日本人は普遍的な人権が理解できないのだ。

最後の問題は彼らの採点表が普通という名前で語られていても、実は自分たちの特殊な常識の塊にすぎないということである。日本は薄暗い図書館のようなところで全員が下を向いて次から次へと流れくる回答用紙を採点しているような状態だ。すべての人が自分たちが持っている答えが普通だと考えているわけだが、それを話しあう余裕はない。だから、それが本当に普遍的な正解かどうかはわからない。時々自分たちもテストに呼ばれることがあるのだが、この時に初めて「自分が持っている答案が正解なのだろうか」と考えて立ちすくんでしまうのだろう。

これはとてつもない徒労のように思われるが、それでも顔をあげることはないので採点からは逃れられないのである。

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