武装難民

武装難民という言葉が一人歩きしている。参加している人たちは見たくない現実を見ないために、相手を非難している。見たくない現実は2つある。日本が核兵器で攻撃されるというシナリオと日本に難民が押し寄せてきてその中に武装した人たちが含まれているというシナリオである。だが、北朝鮮を刺激するということはこのシナリオの現実性が高まるということでもある。

いわゆる右派と呼ばれる人たちは序列にこだわる人ので「優れた集団である我々」が「弱くあるべき人たちを支配する」図式については語りたがるが、その結果として社会に悪い影響があるかもしれないという点については語りたがらない。一方、お花畑系左派はすべての「かわいそうな人たち」は保護されるべきであって、その中に悪意を持った人たちがいるという可能性を排除したがる。だが、どちらも間違っていて危険な考え方である。

麻生副総理の言及するように武装難民はあり得ることである。だが、こうした人たちが生まれるから北朝鮮を刺激すべきではないとの結論にすべきで、撃退できるか議論しなければならないと話を進めるのはどう考えても間違っている。この類のことは政府内部で極秘に検討すべきことで、茶飲話で済む問題ではない。安倍首相は想定していると語ったようだが、この人は福島第一原発はアンダーコントロールだと言い放った人なので、全く信用はできない。

いわゆる難民と呼ばれる人たちには保護を与えなければならないのだが、日本は無条件に難民を受け入れた経験が少ない。新羅からの難民を受け入れたのを除けば、米軍占領時に朝鮮半島から流れてきた人たちを受け入れたのが多分最大の難民経験ではないだろうか。彼らは「不法に」海峡を渡ってきて、そのまま日本に住み着いた。1951年以前の当時はまだ難民という法的枠組みはなかった。

ベトナムからのボートピープルは主に中国の海岸に流れ着いたようだ。最終的には香港が受け入れたようで、その大部分はアメリカに流れた。アメリカはいわば当事国であり、受け入れは自然な流れだったのだろう。同じように今回日本は北朝鮮を追い詰める以上、難民を受け入れる必要が出てくるだろう。

ベトナムの場合逃れてくるのは一般の人たちだった。主に華僑が多かったようだ。しかし、北朝鮮にはこれとは違った現実がある。これは軍事組織の統制が取れている平和な国日本に住む私たちにはなかなか想像が難しい現実だ。つまり、北朝鮮が組織的な意図を持って便衣兵的に日本に人を送り込むというのとは全く違ったシナリオが予想できるのである。

北朝鮮の軍隊はすでに飢餓が進んでいると言われている。ゆえに軍隊の人たちが難民化する可能性がある。加えて北朝鮮は兵隊の割合の高い国だ。人口は2400万人程度だそうだが、兵士は120万人もいるという試算があるという。つまり、北朝鮮は一般の人たちに近い人たちが武器の扱いを知っているという国だと言える。こうした人たちは移動用の船と武器を持っている可能性が高く、普通の人たちよりも早く日本海沿岸に流れ込むかもしれない。しかし、軍として統制されている可能性は低い。この人たちを軍人として扱うのか、それとも難民として扱うのかというところから意思決定が必要となるのだが、悠長に議論をしている暇はない。また現在日本海の不法漁船を取り締まることができないことからわかるように日本海を監視して船を追い払うことも不可能だろう。

右派の人たちがこういう話を持ち出すと、やれ関東大震災の朝鮮人虐殺だというような話になってしまうので、ここはあえてリベラルな人たちが議論しなければならないように思える。つまり、彼らを人道的に取り扱いつつ、危険を取り除いて受け入れる側の人権にも配慮しなければならないのだ。

軍としての統制がないにしても、攻撃する意思がないとは言い切れない。これを軍事行動だと言いつのることはできるだろうが、日本には交戦権がない(正確には交戦権のある軍人がいない)ので、彼らと戦闘はできない。攻撃の意思を示す前に撃ち殺してしまえば明らかに過剰防衛になってしまう。かといって何もしないわけにはいかない。難民審査官と呼ばれるようになるだろう人たちは「丸腰」だろう。日本海にこうした人たちが流れ込んでくれば、海岸警備はとても厳重なものになるだろう。

この人たちが「いい人なのか」「悪い人なのか」という議論にはあまり意味がない。もしかしたら親孝行な兵士も多いかもしれないのだが、現実は日本人が想像するよりはるかに過酷なようだ。実際に中国領内に北朝鮮の兵士が侵入したという事例があるそうだ。デイリーNKのリンク先を見るともの乞いまがいの行為を働いたりしている人たちもいるという。しかし、こうした人たちを一概に責めることもできない。食べるものもなく、上納金を払えなどと言われて追い詰められている人たちなのである。環球時報は北朝鮮の兵士が現地の中国人4人を殺したという事件を伝えている。中国や韓国が一方的な軍事行動に慎重な姿勢を示すのはこのためもあるだろう。

この麻生さんの「武装難民」の話を聞いた時にまず考えたのは、北朝鮮が内戦化し、周辺に流れ込んだ武器が陸地伝いに周辺国に伝播するというシナリオだった。北朝鮮と日本は陸続きではないので、このシナリオを真剣に検討する必要はないのかもしれない。だが、ボートピープルの中に武装して武器が扱える人が乗っている可能性は排除できないし、お腹をすかせた彼らが何をしでかすかはわからない。

安倍首相が「北朝鮮を追いつめろ」といい河野外務大臣が「北朝鮮と断交しろ」といったとき、日本にも武装してなおかつ追い詰められた人たちが日本にやってくるだろうという現実を踏まえたものなのであれば、それはそれで立派な態度だと言える。だが、その場合は「国連で戦争を覚悟する発言をしてきました。ぜひ応援してください」と訴える必要がある。だが、安倍政権は国民に「いちいち」そんな「些細なこと」を説明するつもりはないようなので、誰か他の人が考えてやる必要があるのではないだろうか。

Google Recommendation Advertisement



冷笑と炎上の間で日本の政治は徐々に悪くなってゆく

面白い発見をした。この発見を元に、日本の政治家が変わらないのも政治家がバカばかりなのも日本人が鏡を見ないからだという説を唱えたい。

ある日気になるTweetを発見した。日本人は権力に唯々諾々と従っている奴隷思考だというのだ。多分、安倍首相のようなでたらめが放置されていることに憤っているのだろう。気持ちはよくわかる。だが疑問に思ったこともある。「自分は政権の奴隷だから決められたら従うしかない」と思っている人を見たことがないのだ。俺に政治をやらせたほうがうまく行くと考えていそうな人は多いし、政治系のニュース番組も人気がある。「政府がこんなことを決めましたから守りましょう」などという話はなく、政治家がいかに愚かでめちゃくちゃかということばかりを報道している。このブログでも「なぜ政治家は馬鹿なのか」というエントリーにはとても人気があるくらいだ。

そこで、素直にそれを聞いてみることにしたのだが、聞くときに「これはレスがつかないだろうなあ」と思った。だが、そう思った理由はわからなかった。30分ほど経って「私」が主語になるのがいけないんだろうと思った。

冒頭のツイートの「日本人は」というのは、実際には「私以外のみんなは」という意味である。つまり自分は政府に唯々諾々と従うつもりはない。そしてそれは「私以外のみんなは劣っている」という含みを持っている。つまり「有権者も他人もみんなバカ」という意味である。

だから、これが自分に向いてしまうと「私は劣っている」ということになってしまい、許容できないのだろう。だから、聞くならば「日本人は政治の奴隷ですか」というような聞き方をしなければならなかったことになる。この主語だと「私は違うけどね」という留保ができるからである。

結果的には7票集まった。「私が政治を変えられる」という人が2名いたのが救いといえば救いである。

あまりレスがつかなかったので、野党に対して冷笑的なツイートをしてみた。こちらにはぼつぼつレスポンスがあったので、特にツイッターが壊れているとか、嫌われたということではなかったようだ。

野党がだらしないとか安倍さんが戦争を従っているというようなツイートには人気があるので、政治に興味がある人は多いはずだ。では、なぜ「私」がこれほど忌避されるのだろうか。

試しに自分で同じ質問をしてみたが、答えは「私は政治を変える力を持っている」になった。実際にはそれは大変難しい作業ではあるが、社会は個人の集積に過ぎないので実際に変えられるのは個人の力だけであると言っても良い。

しかし、実際にやってみるとうまく行かないことの方が多い。地方自治体に話を聞きに行ってもたいていは相手にされないし、政治家の事務所などでも「感じ方はそれぞれですからね」などと言われて終わりになることが多い。実際に接してみて感じるのは、日本人は個人の意見をないがしろにするということだ。肩書きやどれくらい仲間がいるかということが重要だ。言い換えれば騒ぎになりそうなら対応してもらえる。よく炎上が問題になるが、これは仕方がない側面があると思う。つまり、炎上させないと個人の意見は放置されるが、いったん燃え広がると相手が右往左往することになり立場が逆転するからだ。この間がないので炎上がなくならないのだろうと思う。

だが、時々こういうことをやらないと、逆の万能感に支配されることになる。つまり何もしないで単に政治批評ばかりしていると何もしないがゆえに自分はやる気になればなんでもできると思ってしまうのである。つまり、鏡を見ない限りは優越的な立場でいられるわけである。

これは例えていえば、プロ野球で金本監督をヤジっている阪神ファンが実はプロ野球の現場では一球も打てないという現実を突きつけられるようなものである。だから「阪神は打線を充実させるべきだと思いますか」とは聞いてもいいが「じゃあ、お前はどれくらい打てるかの」などと聞いてはいけないとううことになる。

日本人の集団に対する期待と個人を信じない態度はなにも国民の間に見られるだけの態度ではない。

例えば、安倍首相は軍事的には何のプレゼンスもなく、国連で聴衆が集まらない程度の人望の指導者に過ぎないが、世界一強い国とお友達であるという理由で気が大きくなっているようだ。世界中が呆れる中で「北朝鮮を追い詰めるべきだ」と叫んで演説を終えた。これは個人(日本一国)では何もできないという気持ちの裏返しなのだろう。

この危険性は極めて明確だった。つまり、安倍首相は集団思考に陥ってくれる。つまり「アメリカがなんとかしてくれるだろう」とか「国際世論を北朝鮮避難に向けることができればあとはなんとかなるだろう」という態度になっている。日本には当事国意識はなく、北朝鮮が暴発した時に責任をとるつもりはなさそうだし、その能力もないだろう。

全体主義について見ていると「私が声をあげても何も変わらないだろう」という無関心が、やがて社会を破滅に導いてゆくというはっきりとしたストーリーが見える。日本がそうなっているとは思わないのだが、悪い兆候も見られる。若い人たちの中には、右翼的なことをいうと注目してもらえたり、左翼的な人たちを「釣れる」と考えている人がいるようだ。また、漠然と普段から右翼的な物言いをしていると政治的に優遇してもられるのではないかと考えている人もいそうだ。つまり、炎上と冷笑を繰り返すこの政治的態度は次の世代にかなり歪んだコミュニティ像を作っているように思える。

Google Recommendation Advertisement



All for All – 日本は全体主義の国になったのか

このところ全体主義について書いている。テーマになっているのは日本は全体主義の要件を満たしていないのに、なぜ「全体主義になった」といいたがる人が多いのかというものだ。実際にこのブログの感想にもそのようなものがあった。多分、安倍首相が全体主義的だと言いたいのだと思う。

全体主義には幾つかの背景がある。なんらかの競争があり、弱い個々のままでは勝てないから個人を捨てて全体に奉仕することを求められるという社会だ。しかしそれだけではなく全体から零れ落ちる人が出てくる。例えばナチス政権下のユダヤ人や障害者は全体には入れてもらえず、排除されなければならないと考えられた。

前回「シングルマン」を見た時に中で出てきたハクスリーの「すばらしい新世界」について少しだけ調べた(シングルマンにすばらしい新世界が出てくるわけではない)のだが、このディストピアではエリート層を支えるためには知能が低く外見的にも劣っている下層な人たちが必要と考えられていた。イギリスとドイツの違いはここにあるように思える。ドイツでは下層で醜いとされたユダヤ人は抹殺されなければならなかったが、イギリスではエリート層を支えるためにはこうした人たちが必要だったという認識があったようだ。階級社会であり、なおかつ古くから植民地経営をしていた国と後から乗り出した国の違いだろう。

このことからグローバリゼーションのような枠組みの変更が全体主義の成立に大きな役割を果たしていることがわかる。冷戦化の世界では下層で醜いとされた人たちは社会の外側におり直視する必要がなかったし、それに保護を与える必要もなかった。ところが、グローバリズムが進展しこうした人たちが社会に流れ込んでくると、それをどう扱うのかということが問題になる。建前上は同じ人間だからである。

特にアメリカは奴隷出身の人たちにも市民権が与えられており、本来は法的に保護を与えられないはずの不法移民たちまでが社会保障を要求している。経済的に豊かな白人はそれでも構わないが、余裕のない人たちにとっては許容できる範囲を超えている。そこで白人至上主義という全体主義的な主張が生まれるわけだ。だが、自分たちが下層階級の仕事をやろうという気持ちがあるわけではない。社会の外に追い出して自分たちだけは特権を享受したいという気持ちなのだろう。

アメリカやヨーロッパは移民の流入を許したことが全体主義を蔓延させる要因になっている。だが日本はそこから「学んで」おり、技能実習生という制度を作り労働力だけを移入したうえで社会保障の枠外に起き、定住させないように結婚や子供を制限するという制度を作った。ゆえに日本で全体主義が蔓延するはずはない。唯一の例外が植民地として支配した朝鮮半島なので、未だにこの人たちの存在が過剰に問題視されたりする。

にもかかわらず「日本は全体主義化しているのでは」などと書くと強い反応が得られる。これはなぜなのだろうか。日本は全体主義とは違った「社会を信頼しないバラバラな大衆が住む」社会になっているので、政治家たちはなんとかして個人の関心を社会に集めなければならない。そこで全体主義的なスローガンが持ち出され、それが却って反発をうむということになっている。

この観点から全体主義のメッセージをみるとちょっと違った見方ができるかもしれない。二つのメッセージがある。一つは一億層活躍社会でもう一つがAll for Allである。これは、社会に対する「すべての人の」動員を求めるという意味で共通している。

例えば一億総活躍社会は一見全体主義的に見えるが、実際にはエリート層が下層階級の人たちを搾取し続けるためのメッセージになっている。先進国から滑り落ちてしまったために外部からの労働力に期待できない。そこで、高齢者も安価で動員しようという主張である。これが全体主義と言えない。大衆から発せられたメッセージではなく、’誰も発信する政治家を信じていないからだ。

一方でAll for Allも全体主義である。その証拠にAllが二回もでてくる。これは笑い事ではない。これは、誰も民進党を支持してくれないからみんなで支持してくれよというもので、すでに政治的なメッセージですらない。前原さんが悪質なのは全体主義はエリートが大衆に与える幻想だということを理解した上で、それを「みんなのために頑張るのですよ」とごまかしている点だろう。が、実際には無害なメッセージだ。民進党も含めて誰も前原さんのいうことを本気にしていない。カリスマ性がない全体主義の訴えは無視されてしまうのだ。

小池百合子東京都知事は自分とお友達で都民ファーストの会の人事を決めており、これは全体主義的だと言える。だが東京都民がこれを放置しているのはどうしてなのだろうか。それは政治のような汚いことに関与せずに、いい思いをした古びた自民党を掃除してくれるからだという認識があるからだろう。つまり、政治というのはそれほど汚いもので関与したくない。かといって誰かが陰に隠れておいしい思いをするのをみるのも嫌だ。そこで誰かが処理をしてくれることを望んでいるのである。誰も築地や豊洲がどうなるかということに関心はない。この感情を「シャーデンフロイデ」というのだそうである。

こうした主張が出るのは、日本人がもはや社会を信頼していないが、経済的にはそこそこ満たされており、なおかつ社会的秩序も保たれているからだろう。経済的にある程度の豊かさがあれば引きこもるスペースもあり、引きこもっていても豊富にやることがある。さらに政治は完全に私物化されているので(首相が自分たちの勢力を維持するために特に理由もなく国会を解散し、そこで得た勢力を利用し、特区を作って友達に利益分配している)社会に対して積極的に貢献する理由がない。そこで、政治はなんとかして有権者を引きつけようとして全体主義へと誘導しようとしている。

つまり、日本と欧米は真逆の位置にあるのだが、不思議なことに同じように見えてしまうということになるのではないか。

Google Recommendation Advertisement



全体主義と「言論圧殺」そして安倍さんの罪

アーレントの全体主義の起源についての番組を見ている。今回はいよいよヒトラーが大衆の被害者意識に形を与えるというところまで来た。アーレントの定義では、大衆は何にも所属せず、どうしたら幸せになれるのかということがよくわからない人たちを指すそうだ。それは物質を形成することができない原子のようなものである。経済がうまく回っている時にはこれを苦痛に考えることはないのだが、一度苦境に陥ると陰謀や物語などを容易に受け入れる母体になるというようなことが語られていた。

しかし、今回は少し別の実感を持った。現在、安倍首相が日本に与えている形のない不安について実感したからである。これは全体主義者やポピュリストが与える物語とは別の形で社会を蝕むのだが、その帰結は同じようなもので、人々は信じたい物語を捏造し、別の意味での全体主義へと突き進む可能性があるのではないかと考えて、少しおびえた。

菅野完という人がTwitterのアカウントを凍結されたという「事件」があった。人々はTwitter社はなぜ人種差別主義者を放置しているのに菅野さんだけをアカウント凍結するのだと文句を言い始めた。

いろいろな指摘を読むと全く別の指摘もある。菅野さんは最近、性的暴行事件の裁判に負けていた。毎日新聞によるとその後控訴しているが、好ましくない行為があったこと自体は認めている。しかしながらその後もこれに関係する言論を続けており女性側が苦痛を感じて「Twitterをやめるべきだ」と要望したのではないかというのだ。

もし、これが事実だったとすると、Twitter社が「この事件のせいでアカウント停止したんですよ」などとは言わない方がよいことになる。菅野さんが余計恨みを募らせて言論活動を活発化させる可能性が排除できないからである。

もちろんこのせいでアカウントが停止されたかどうかということはわからないのだが、安倍首相らがわざわざTwitter社に手を回したり、電通が忖度したという込み入ったストーリーと少なくとも同程度には信憑性がある。問題はそれをツイッター社以外の人は誰も知らないということだ。第三者委員会のようなところに判断を委託した方が公平性は確保できるのだろう。

しかし、この件を批判する側が選んだストーリーは、日本の言論は圧迫が進んでおり、そのうち政権が「言論弾圧を行うようになるだろう」というものであった。そして、それを阻止するためにTwitter社に乗り込むべきだなどという人まで現れた。

この件の裏側には何があるのかと考えた。第一に被害者意識を持っている側のTwitter依存が挙げられる。Twitterは確かに便利な道具ではあるが唯一のプラットフォームではない。言論に対する攻撃ということを考えると、複数の言論装置を持っているべきで、1つの言論装置に執着するのはかえって危険である。だが、依存している立場からすると他にも使えるプラットフォームがあるという知識がなく、さらにそこに人々を動員する技術もないのだろう。だから人が多くいるところで騒ぐようになるのだ。


本題からは脱線するがミニコラムとしてネットワークの脆弱性について考えてみよう。

これが現在の状態。Twitter依存になっているので「悪の帝国」がTwitterを支配するとすべてのネットワークが切断されてしまうことになる。

プライベートなネットワークを混ぜたもの。一つひとつのネットワークは脆弱でも全体のつながりは維持されるので「攻撃」に強くなる。

実際のコミュニティは細かく分散している。ここで同質な人たちどうしがつながっているだけのネットワークは広がりに欠けるが、異文化間の交流(緑の線)があるとネットワークが強くなる。こうしたつながりを持ったネットワークは緊密さが増すのだが、これを「スモールワールド現象」と呼んでいる。だが、政治的なネットワークの場合「右翼の島」や「左翼の島」ができるので、それぞれのネットワークだけを見ているとあたかも自分の意見が世界の中心のように見えてしまう。

実際のネットワークは島を形成している。スモールワールド性がなく広がりに欠ける。

こうしたことを行っているのは左翼活動家だけではない。著名なジャーナリスト、脳科学者、政治学者などもいて「疑わしい」と騒ぎ立てている。もし本気で言論弾圧を心配するなら、今の装置も維持したうえで、自前のプラットフォーム「も」作り人々をそこに誘導した方がよい。

しかし、彼らが過剰に心配するのにも根拠はある。安倍首相は控えめに言っても大嘘つきでありその態度は曖昧だ。さらにマスコミの人事に介入したり抗議したりすることにより言論に圧力を加えているというのも確かである。さらに犯罪を犯したのではないかと疑われる人たちを野放しにし、国会審議を避けている。そのうち本当に人権が抑圧されるのではないかという人々の不安には根拠がある。

その上「解散を検討している」と言い残して渡米してしまった。マスコミでは解散が決まったなどと言っているのだが、実際には本人は理由も時期も説明していない。帰ってきて「いつ解散するって言いました」などと言いかねない。このように人々を宙ぶらりんな状態にして混乱するのを楽しんでいる。国民を1つにして安堵させるのが良い政治なのだとしたら、安倍首相の姿勢は悪い政治そのものである。不安を煽り対立を激化させているのだから。

このように考えると、戦うべき相手はTwitter社ではないということがわかる。実際には安倍首相を排除しない限りこうした不安定な状況はいつまでも続くだろう。ここで冷静さを失うのは得策とは言えないのではないだろうか。

Twitter社は日本の言論がサスペンデッドな状態に陥っており、政治プラットフォームとして利用されている現実を受け入れるべきだ。しかし、個人的にはあまり期待できないのではないかと思っている。

このように考えるには理由がある。個人的にアカウントを凍結された経験がある。もともとTwitterにはそれほど期待していなかったので自動で発言を飛ばすツールを利用していたのだが、これが規約に引っかかったらしい。「らしい」としかわからないのは、Twitterがなぜアカウントを凍結したのかということを言わないからである。ということで、機械ツイートを避けて時々関係のないつぶやきを混ぜることにしている。

最初は「面白い騒動だな」などと思って見ていたのだが、人々の根強い不安感を見て少し考えが変わった。本来なら政治が変わり、ツイッターが心を入れ替えるべきではあるのだが、他人を変えるのは難しい。できるのは正しいITの知識を持ち重層的なプラットフォームを構築することではないだろうか。人々はそのために自ら行動し、お互いに助け合う必要がある。

Google Recommendation Advertisement



永久凍結にお怒りのみなさんへ

Twitterでのいほいさんが永久凍結処分を食らったということで怒っている人がいる。Twitterの本社に手紙を書こうという人もいるのだが、無駄だからやめたほうがいいと思う。

ルールを読むと他人を煽る行為はたとえ正義のためであってもルール違反とみなされる可能性が高い。一方ヘイトであっても、いっけん合理的な説明がなされていればヘイト発言とみなされない可能性が高い。今回の騒動は注目を集めるために過激な言葉を使ったのがルールに触れてしまったことが原因なのではないかと考えられる。一方、いっけん紳士的な態度で外国人やマイノリティを排除してもヘイトとはみなされない可能性が高く、あるいは公平性がきちんと担保されているとは言えないのかもしれない。

最近、Twitter社のアメリカ以外の規約が変わった。テッククランチによると、この規約には2つの重要な変更点がある。1つはTwitter社やその他の会社(端的にいうとテレビ局などだ)が勝手にコンテンツを二次利用できるというものだ。つまり、ニュースでTwitterの投稿を勝手に使ってもよいということである。

よく「無断でRTするな」という話を聞くのだが、ユーザーは投稿した時点で無断RTも許可したことになっている。Tweetは全世界に公開されており誰でも見ることができる状態になっているのでそれを回覧しても別に構わないという理屈である。

一見放送局に都合が良さそうなルールだが、同時に真偽不明の情報が排除できなくなるということになる。だから許諾のためだけに発信者と連絡をとるのではなく、真偽を確かめるために連絡をとるようにすべきだと思うのだが、日本の放送局は人手不足に陥っているので、この変更はフェイクニュースを蔓延させることになるだろう。

次にTwitter社は勝手にアカウントを勝手に停止することができる。例えばTwitter社が悪魔教を信仰していていて「悪魔は救世主ではない」というTweetを取り締まったとしてもユーザーは文句が言えない。仮に日本の体制を支持していて反体制思想を取り締まったとしてもユーザーはそれに従うしかないのである。

一見ひどいことのように思われるかもしれないが、Twitter社はプライベートな(ついでにいえばあまり儲かってもいない)会社であり、自分の提供するサービスをどう使っても構わない。嫌なら使うなというのが社のスタンスなのだろう。

これがひどいと思う人には幾つかの選択肢がある。最近マストドンというサービスが出ており、ここに乗り換えるという選択肢がある。マストドンはこうした検閲的な態度に批判的であり表現の自由が守られている。代替え手段があるので抗議するなら乗り換えたほうが早い。ユーザーが目に見えて減ればTwitter社は考えを変えるだろうが、いわゆるリベラルは数が少ないので自分たちの影響力のなさに直面するだけに終わるかもしれない。

次に、Tweetが削除されても構わないように、重要なTweetがある人はあらかじめダウンロードしておくと良いかもしれない。試したわけではないがCSVにも落とせるようなので、やりようによればWordpressなどに移管できるのではないかと思う。多分、自分の意見などをオンライン上に集積したい人は自分でサーバーを立てたほうが良いと思う。お金がかかると思う人もいるだろうが、最近のサーバーは安くなっているので300円程度でプラットフォームを作ることも可能だ。それも出せないというのであれば友達同士で話し合ってサーバーを借りれば良いのではないかと思う。知識がなくてWordpressなどが導入できないと考える人もいるかもしれないが、導入くらいなら教えてあげても構わない。だがやってみると意外と簡単である。さらに友達同士で宣伝しあえば良いのではないかと思う。こうやって協力体制を作っておくと発言力も増すだろう。

最後にこの文章を「Twitter社は何をやっても構わないのだ」という意味で取られると困る。個人的に凍結された経験があるからだ。当時は自分を否定されたようでかなりショックだった。記憶によれば事前通達はなかったし、事後説明もなかった。多分、プログラムを使って自動でブログの告知を流していたのがよくなかったのではないかと思う。しかし、なぜそうなるのかがわからず色々と悩んだ。Facebookからの自動投稿は問題なく受け付けられるので、あまり公平なやり方とは言えない。

Twitter社は昔から公平とは言えないが、こちらも呼び込みのツールとして利用しているだけなので、時々別のTweetを混ぜるようにしている。ブログにレスポンスをくれる人はほとんどいないので、動向を探るためには良いツールだ。だが、呼び込みにはそれほどの効果がない。時々爆発的にフックするがTwitterユーザーは飽きるのも早いのであまりいつかない傾向にあるように思える。

Google Recommendation Advertisement



前原代表のいうAll for Allはどうやったら伝わるのか(あるいは伝わらないのか)

前原代表が今度の選挙ではAll for Allという概念を有権者にわかりやすく伝えたいと語っていた。前原さんのことは嫌いなので「お前には無理だろ」などと思ったのだが、思い直してどうやったら伝わるのかということを考えてみることにした。が、それを考えるためにはAll for Allとは何かということを考えなければならない。

All for Allというのは前原さんのような多様性が許容できない人がリベラルが多い政党で擬態するために作った言葉のように思える。多様性というのは裏返せばまとまりのなさなので、これを全体に奉仕させるためにはどうしたらいいのかと考えてしまうのだろう。元になっている概念はラグビーなどの全員が一つの目標に向かって勝利するというものだろう。だが、政治というのはスポーツではないので、社会は必ずしも一つの目標に向かって勝たなければならないということにはならない。

ゆえに前原流を突き進んでゆくとやがて論理は自己破綻するはずだ。これが自己破綻しないのは前原さんが自己抑制して理論を自死させてしまうからだ。

本来多様性を認めるということは闘争からの脱却を意味する。かといって、多様性は単なる混乱を意味するわけでは、実はない。この「認知の問題」が実は多様性と全体主義を分けている。

かつてファッションには流行というものがあった。流行にはシーズン限りのトレンドの他にスタイルと呼ばれる大きなまとまりがあった。例えば「渋カジ」とか「竹の子族」などというのがスタイルである。実際にはすべての人が渋カジだったわけでもないのに、渋カジがスタイルが成立しているように見えたのは何故なのだろうか。

多分、スタイルというものは多様にあったが、メディアがそれを捕捉できなかったからだろう。アパレルメーカーがースタイルを提案し、多くない数の雑誌がそれを伝えるというのが、かつてのやり方だったからだ。このためメーカーは数年前から形や色からなるトレンドを提示した上で一年かけてじっくりと製品を準備することができた。

ところが、このトレンドやスタイルは徐々に消えてゆくことになった。たいていの場合これは「消費者がアパレルから離れて行っている」と理解されているが、実はメーカー主導ではないトレンドが可視化されるようになったことが原因となっている。

ところが、実際には別のことが起きている。トレンドは存在する。現在はゆったりめで長めのものがトレンドである。だが、スタイルは多様化している。スタイルとは文化的背景を持った選択の偏りのことである。それがその人の体型の偏りと重ね合わされることで「その人らしさ」を作り出す。スタイルは多様化しているのだが、ファッション好きの人はそれほど困っていないようだ。

これを理解するためにはマスコミュニケーションとインターネットの違いを知らなければならない。インターネットにはタグ付けとフォローという2つのまとめ方がある。トレンドより下位のマイクロトレンドが日替わり・週替わりで出ては消えているのだが、これはタグによってまとめられ検索可能になっている。さらに、ファッションコミュニティにはスタイルを持った人たちがおり(インフルエンサーなどと呼ばれる)彼らをフォローすることで、そのスタイルを捕捉することが可能である。情報という観点から見ると、階層型からネットワーク型へと変容しているということになるのである。

アパレルメーカーはすべてのマイクロトレンドを追うことはできないし、すべてのスタイルを網羅することもできない。彼らがやるべきなのは、いくつかのスタイルを提示することと、今あるマイクロトレンドを捕捉することである。かつての糸問屋から発展した商社は苦戦しているようだが、ファストファッションはここに特化して、捕捉したトレンドを短いリードタイムで製品化できるようになっている。

一方で価値観を押し付けて凋落したアパレルメーカーもある。アメリカでは、背の高い体育会系の若者がメインストリームなのだが、アバンクロンビー・アンド・フィッチはこのメインストリームを大衆に押し付けて大炎上した。ある一つの価値観を固定してしまうとすべてのその他の人たちを敵に回してしまうということがよくわかる。政治世界でこれと同じことをやって大炎上しているのがトランプ政権であり、自民党も同じことをしている。もし「多様性を無視して、みんなのために同じ価値観を持とう」などと言い出せば民進党も同じ程度には炎上するだろう。

このようにファッションのトレンドが一見消えて見えることと、政治が一つの価値観を押し付けてくることには共通の根がある。それが「バラバラさ」に対する理解の違いである。

かつては、保守中流という大きなマスがあり、そのカウンターとしてリベラルと呼ばれる人たちがいたのだが、こうした括りはなくなっている。それは渋カジがなくなってしまったようなものである。だが、わかりやすいファッションスタイルがなくなったからといっても人々は裸になったわけではない。たいていの人は何か服を着ている。中にはスタイルのある人もいるが、多くの人は「なんとなくユニクロを着る」というあたりがスタイルになっている。同じように政治的な意見を全くもっていない人はいないのだが、こうした人たちは無党派層としてひとくくりにされ、マスコミや政党から無党派層呼ばわりされることで、そうした自己意識を<洗脳>されているのだ。

成功したアパレルは製品中心のファションメーカーから多様なスタイルやトレンドを捕捉して素早く製品化する企業に変化した。つまり、みんなが漠然と持っているスタイルやトレンドをまとめて提示するサービスを提供しているのである。多様性を扱うということは、相の変化を伴うということになるだろう。

自民党は一つの物語に有権者を押し込んで行くという政党なので、多様な声を聞いてそれを政策化できるようになれば実は簡単に対抗ができる。問題は政治の世界に多様性を扱う成功したモデルがないということだ。

与野党は、狭いコミュニティの中で有権者に受けようとする政策を探している。これはアパレルが自分たちの頭の中だけで「どのような服が売れるだろうか」と考えているのと同じことであり、現在では自殺行為である。

例えば、政治家は地盤の他の専門分野を持ち、専門分野の情報を受発信することができる。関心のある人がそれをフォローすることができればコミュニティができる。政党はナレッジのネットワークなので、これを組み合わせればいろいろな分野で問題解決ができるソリューションネットワークのようなものが容易に作れる。

色々とわけ知り顔で書いてきたが、こうしたことはSNSの世界では当たり前に行われている。その証拠にTwitterで様々な専門家をフォローしている人は多いはずである。そうすることで例えばベネズエラの現在の状況がわかったり、トランプ政権の動向を日常的に捕捉することができる。

前原民進党政権は多様性を扱えないことで崩壊してゆくはずだ。共産党という「隣にある異質」とすら協業できないのに、その他の雑多さと協業できるはずなどないからである。

こうした多様性(雑多さ)を受容できない人は大勢いて、Twitter上でのたうちまわっている。彼らは与えられるストーリーなしに社会の複雑さを許容できないゆえ、多様な価値観が飛び交うTwitterが許せないのだろう。そのため自分の捏造された価値観からの逸脱を攻撃したりブロックしたりするのではないかと思う。こうした人たちをひきつけて内部崩壊してゆく道を選ぶのか、それとも多様性を受容してより多くの価値観に触れることができる社会に進んでゆくのかという選択肢を、我々は持っている。

Google Recommendation Advertisement



水原希子に関する雑感

水原希子というアメリカ人が差別の対象になっているとして大騒ぎになっているようだ。どうやら母親が在日の韓国人らしいということで「日本人の血が入っていないのに通名で通すのはは厚かましいのではないか」という非難の声があり、擁護する側も通名を使ってなぜ悪いなどと言っている。

所詮他人の人生なのでいろいろ書くのはやめようかなあと思ったのだが、違和感というか思うところがあって書いてみる。彼女は日本人を思わせない名前で活動すべきだったと思うのだが、それは彼女の過去の言動や血すじなどとは全く関係のない話である。つまり、日本人は社会として公平にその人の力量や価値などを見ることができないのだ。つまりこれは日本人の問題であると言える。

水原さんが「オードリー・ダニエル」という名前で、主に英語を話すがときどき日本語を話すくらいであればこれほどのバッシングを受けることはなかったと思う。いわゆる外タレ扱いということになり「日本語も話せてすごい」ということになるからだ。なので、差別を避けるならこの線で行くべきだったということになる。

自分が好きな名前で暮らせる国になるべきだという人がいる。確かに理想なのだが、これは日本人には無理だろう。外国人に対する偏見がひどすぎるからだ。一概に差別意識というが、実際にはかなり複雑だ。見くだしによる差別もあるがその逆もある。だから実際に自分が出自によりステレオタイプでしか見られないという絶望的な体験がない人には補正は無理なのではないかと思う。

個人的にはこんな体験をした。例えば外国人(スウェーデン人だったりカナダ人だったりする)のデザイナーを連れていって英語で話をしているととても信頼されることがある。多分、英語がかっこいいとされているからだ。日本人(その人も英語ができる)のデザインと混ぜて持っていってもすべてのデザインがすばらしいという。が、その外人がプロジェクトを外れることになった瞬間に「仕事をキャンセルしたい」と言われることがあった。「外人が作ったデザイン」というのを売りにしたかったのだと言われたこともあるし、そうでない場合もある。日本人だけが来ると「特別感」がなくなり、色褪せて感じられるのだろう。

面白いことにこれはタイ人(アメリカで教育を受けており英語に訛りがあまりない)のデザイナーにも当てはまった、つまり、英語を話すコミュニティは高級だと考えられているので、それがアジア人でも構わなかったのである。と、同時に誰もデザインなど見ておらず「英語でミーティングができる俺はかっこいい」と考えていたのかもしれない。英語に特別感があると思うのは、タイ人がたどたどしい日本語で話すと「アジア人のデザインは本格的ではないのだ」などと思われかねないからである。

だが、面白いことに外人だけで営業に行かせてもダメだった。つまり、外人だと融通が利かないので無理が言えないと思うようなのだ。つまり、ちょっとしたニュアンスが必要なことは日本人に伝えて、かっこいい部分だけ外人と仕事がしたいと思うようなのだ。つまり、たいていの日本人は英語のデザインはかっこいいが、ガイジンは日本人のように融通は利かないと漠然と思い込んでいるのである。

もう一つの事例は日系アメリカ人についてである。英語で話をしている分には一級国人として扱ってもらえるのだが、日本語で話すと途端に「日本語が下手な二級市民」扱いされてしまう。だからアメリカでは積極的に日本語でコミュニケーションをとっていても、日本では日本語を話したがらなくなる人がいる。これは印象の問題ではなく、実際にアパートが借りられるかなどという実利的なことにもかなり影響が出てくる。だから、例えばなんらかの取引に出かけるときには、たとえ日本語ができたとしても日本人の友達を連れて言ったほうが、いろいろな話がまとまりやすいかもしれない。こちらも何かトラブルがあった時日本人の知り合いがいればちょっと無理が利くなどと思うようだ。

つくづく思うのだが、日本語が話せるだけでなぜ「この人は、業者の分際というものを理解しており、無理が言えるのでは」と思うのだろうか。

ここから言えることはいくつかある。一つは差別というのは一方で無条件の卑屈さを含んでおり、それには大した根拠はない。

例えば水原さんが「オードリー」という名前で活動しても水原さんの実態は変わりはないはずで、わざと日本語をたどたどしく話すのは「本当の自分」ではないと感じるかもしれない。だが、そもそも日本人は「ありのままの人間」などという概念を信頼しておらず、東大卒業のだれそれさんとか、英語が堪能なだれそれさんという漠然とした肩書きを通じてしか人間を見ていない。

これは日本人にも当てはまる。外人と普通に話している私と、普通に日本語で話している私では扱いが異なるということはあり得る。例えばレストランやカフェでの席の位置が変わったりすることになる。つまり、中年が一人でレストランに入ると「詫びしい」感じになるが、外人さんたちと一緒だと「英語ができる有能な人」扱いになったりするのである。

もちろん、マイノリティとマジョリティでは感じ方は異なるかもしれない。マジョリティはこうした待遇の違いを選択的に感じることができるわけだが(「普通の日本人」を選択することもできる)マイノリティにはそうした自由はないので「本当の私」というものがあるのではないかなどと思ってしまうのかもしれない。が、日本ではマジョリティでもアメリカに行くと「英語があまりうまくない」というラベルが強制的に貼られてしまうので、クロスカルチャで生きる以上、こうした差別感情とは無縁ではいられない。だから、そうした経験をしたことがない人がいろいろ論評するのは、実はあまり意味がないようにも思える。

いずれにせよ、日本人が外国人(これは在日の人を含む)に対して持っている感情にはほとんど根拠もない。根拠がないのだから、受け入れられやすいラベルを作ってもあまり関係がないのではないかと思える。

この話の悲劇的なところは同化しなければしないで叩かれ、かといって同化しても認めてもらえず、帰って異質なものを強調して日本人を見下すように行動すると尊敬されるというところにある。日本人であってもこの浅はかさに辟易してしまうほどなので、当事者の外国人の中に日本人を見下す人がでてくるのも想像ができる。

面白いことにこうしたことはソーシャルメディアの世界でもしばしば問題になる。つまり「自分を盛ってしまう」ことに罪悪感を感じ、本当の自分を見せるべきだとか本当の自分を見て欲しいなどと思い始めるのだ。だが「日本人は誰も周辺情報ばかり気にして中核を見ていない」とわかれば、こうした罪悪感は減るかもしれないと思う。

つまり、本当の私などどこにも存在しないのだ。

 

人がブロックしたりブロックされたりするのを楽しむのはなぜか

前回、ある人のツイートを引き合いにして、北朝鮮と核についての一文書いた。が、ちょっと長めの文章なので、その人からは何の反応もなかった。今のところはブロックもされていないようである。だが、中には反論してブロックされた人もいるみたいだ。その人の名前をTwitterで検索するとブロックという用語が候補として出てくる。

何が違うのだろうかと考えたのだが、党派性が関係しているのではないかと考えた。この人のツイートを見てゆくと、社会党に対する強い反発心を感じる。これはコンテクストの集積になっていて一つの物語というか概念の塊を作っている。だからここに触れるものに対してアレルジックな対応が起こり、それを理性で包むとあのような対応になるのだろうと思われる。

もう一つの可能性は、ストーリーの一貫性にこだわる人がいて、社会党の主張がそれに対してノイズとして働いているというものである。実際の物語は多面体になっているので認知するためには複雑な知性が必要なのだが、多面体を扱えない人というのもいるのだろう。もっとも単純なのは陰謀のせいにして夾雑物を取り除くことだが、ある程度の知性が残っていると「理性的に夾雑物を取り除こう」とするのだろう。

どうやら、議論と対話は二重通信になっているようである。一つは論題そのもので、もう一つは待遇と関係性に関する通信だ。つまり、論題そのものは反対意見であっても、党派性は同じですよといえばこうした対立は起きないだろうし、待遇表現をつけてやれば相手は攻撃する材料を失ってしまうということになる。どちらにせよ、複雑な多面体は扱えないので、こうした要素は「ないもの」としてキャンセルされてしまうからである。

それでは複雑さとはなになのだろうか。それは認知力ではないかと思う。つまり、ある事象があったとして、それを自分の立場と相手の立場から検討した上でその関係性を把握しなければならない。だが相手は自分とは違う認知をしているということがそもそもわからないか、相手の立場から状況がどのような思考を与えるかということがわからなければ、そもそもそのような検討をすることはできない。

これは「努力していないからわからない」のではなく、そもそも最初からそのような認知力がないのだろうと思われる。

少なくともこのことから、北朝鮮ミサイル問題というのは別に彼らにとってはどうでもよいことなのだということになる。そこで改めてスレッドを見てみると、反論してきた人を諭したり論破してみせたりしていることがわかった。つまり、関係性をうまく結べないために、反論という形で相手を煽っているのだ。論題は一種の承認欲求を満たすための道具なので、利用できないとわかるとブロックしてしまうのではないだろうか。だが、それがコミュニケーションの稚拙さなのか、先天的な認知の問題なのかはよくわからない。

しかし、考えてみるとこれは異常な事態だ。なぜならば北朝鮮という隣国が核兵器を開発して日本に打ち込むことが可能なのだ。国連を中心にして経済的に結びついた世界では、主権国家が過剰な被害者意識を募らせて勝手に武装を始めるというのは想定していない状況であり、全体の秩序にとっては大きな脅威である。にもかかわらず、これを<議論>している人たちは、それよりも自分がどのように待遇されているかということの方が重要なのである。

いずれにせよ、こういう人はそもそも議論というものに意味があるとは思っておらず、単に「自分が承認してもらえるか」ということにしか興味がない。しかしそれは当たり前だ。そもそも相手が違う立場を持っているということがわからないからだ。議論というのは立場のすり合わせなのでそもそも議論は成立しない。

相手と一緒にアウトプットを作ろうとは思っていないのだから、こういう人たちと関わるのは問題解決という意味では時間の無駄である。ただし、関係を結んでおくと「トク」になる人もいるので、そういう場合には、逆らわずに頷いておくと良いのかもしれない。裏返しにすると論題についての態度は意思決定になんら影響を与えないからである。だから賛成しようと反対しようとアウトプットには影響がないのだ。

こうした事態に問題があるとしたら、それは別のところにある。それが絶望感である。

組織や集団に無力感が進行すると、すべての人たちが待遇をもとめて、問題解決をそっちのけにして議論を繰り広げるということになる。ここから生まれるのが党派の細分化である。コミュニケーションの稚拙さと絶望感がないまぜになった状態の例として昔の左翼運動がある。過激な左翼運動はやがていくつものセクトに分裂し、世間から見放されながら権力闘争を繰り広げた。「自分たちは世界を帰ることができない」という絶望感が内部に向かうと、つぶしあいが始まるのである。最近では民進党が自滅への道を歩み始めたが、実際に政権を担当してみて何もできなかったという絶望感が根底にあるのだろう。

 

 

Twitterにおいてブロックというのは自分がコントロールできる唯一の表現なので、待遇にこだわる人はブロックを多用するのだろう。が、こういう人が増えるのは問題解決によって状況をコントロールするのを諦めた人であるとも言える。

安倍首相は国際コミュニティを無視して、自分の方が北朝鮮よりえらいということを一生懸命になって証明しようとしている。かといって、自分で軍隊を持っているわけではないので、彼ができることは、国連安保理に泣きつき、北朝鮮を挑発し、アメリカをけしかけるだけである。

多分、ヨーロッパのリーダーたちは世界の秩序を維持することが自国の安定に重要であるということがわかっており、中国やロシアのリーダーたちはアメリカを牽制することで自国のプレゼンスを高めようという意識があるのだろう。だが、安倍首相は自分の政府すらコントロールできていないので、世界の秩序を維持するために日本がどう貢献するかということにまで頭が回らないのだろう。目的意識を失ったリーダーというのは恐ろしいもので、核不拡散条約を批准していないインドに原子力技術を売り込みにゆき、北朝鮮には核不拡散条約に従うべきだなどという主張をしている。

そのように考えるとこうした「自分たちは状況を変えられない」という気分は国のトップからかなり下の方にまで蔓延しているのではないかと思う。考えてみると、バブル崩壊以降何をやっても状況が変えられなかったわけで、こうした絶望感が深く根付いているのかもしれない。

全体主義・教育・戦争に関する漫然とした雑感

今日は、漫然とした雑感を書く。一応つながりはあるが、それを最初から説明するのは難しい。

アーレントについての番組を見て、全体主義が生まれる背景には国家間の競争があるということを学んだ。その当時は帝国がそれぞれの経済圏を自前で作る必要があった。しかし、その経済圏はお互いに衝突し、最終的に戦争がおきた。もはやお互いにぶつかることなしに経済圏を拡張することができなかった。

第二次世界大戦後はその反省から世界経済圏が作られた。このため各国は自前で経済圏を防衛する必要がなくなったはずだった。冷戦構造がなくなると、それはいよいよ現実のものとなるはずだった。

もし国家間が競争しないとしたら、国民はまとまる必要がない。したがって内外に敵を作る必要はなくなる。ということは全体主義も生まれずパリアのような存在も必要がないということになるだろう。

例えばアメリカには州間競争があり、多様性が重要視される良海岸と内陸部の対立がある。ここで競争に取り残された内陸部の白人が白人至上主義意識を持つことは理解ができる。両海岸部では、人種差別思想というのは、知的弱者のスティグマであり、それが内陸部では却って反発意識を生むだろう。トランプ大統領が嫌われるのは、こうした知的な劣等さの象徴のような人がアメリカを代表しているからだ。一方でトランプ大統領が成立し得るのは、内陸部が競争に負けてはいても、量海岸部から豊富な資金が流れ込むからである。つまり人種差別的な白人は実は両海岸部の移民に食べさせてもらっているという側面があるのだ。

アメリカでポリティカルコレクトネスが叫ばれるのは、少なくとも都市部では人種差別者だと見なされると社会的に抹殺されかねないからだ。IT産業のエグゼクティブの中にはインド系や中国系が多く、エンターティンメント産業で働くとユダヤ人(主にお金を持っている)やゲイの人たちと働くことになる。地方部では、もはや白人の間に希望がなく、こうした人たちを恐る必要がない。

日本には二極化がなく、したがって強烈な差別意識が生まれる必然性はない。しかし同時にアメリカの内陸部のように希望のない状態になっており、これが野放途に差別発言を繰り返しても特に社会的に罰せられないという状態になっている。

一方、競争の消滅には別の側面がある。国家間から競争がなくなると政治的支配者は国民に投資をする必要がなくなる。

民主主義は国民のコミットメントを勝ち取ることにより強い国力を生み出す。それで国家間競争に優位になる。絶対王権より議会王権が優れており、議会王権よりも民主主義の方が優れていた。ところが、競争からドロップアウトしてしまうと教育などの投資をする必要がなくなる。

安倍首相は教育についての壊滅的な考え方で知られる。国民にはリベラルアーツは必要なく、単に職業訓練をするべきだと考えているようだ。これは、自分で考える人間は一握りでよく、あとの人たちは自分でものごとを考えずに、エリートにしたがっていれば良いという思想だ。

こうした思想は未開な段階の社会主義圏によく見られる。例えば毛沢東は都市の知識階層を「下放」する政策を取った。山崎豊子の「大地の子」では日本人である(つまり潜在的には裏切り者の子供である)陸一心が地方の「労働改造所」に送られるというエピソードがある。ポル・ポトも知識階層を虐待した。さらに、北朝鮮も似たような状況にある。

こうした社会はどれも、世界経済から切り離されて、自前の経済圏を作ろうとしている。北朝鮮の場合は国民を飢えさせても核爆弾さえ持てば強国の仲間入りができるわけだから、特に国民に投資する必要はない。さらに兵士を食べさせる必要もない。指導者が核爆弾さえ抱えていれば世界の強国から尊敬してもらえるという世界だ。中国にも同じ段階があったが、最終的には経済ネットワークの重要性を認識して方向転換を図った。

ここでわからないのは、安倍首相がこうした思想を自前で考え出したのか、それとも毛沢東やポルポトなどに影響を受けたのかという点である。もし、前者なら権力者というのはこうした思想を持つ可能性があるということになり、これを制度的に防がなければならない。なぜならばいったん世界に向けて開かれた国が引きこもった例はないからだ。開かれながらも国民から考える力を奪うというのは、世界経済圏の中で没落してゆくという意味にしかならない。

いずれにせよ、国家と競争ということを考えてゆくと、色々疑問が湧く。さらに安倍首相やネトウヨの考え方を観察してゆくと、それぞれ都合の良い理論をつぎはぎしてミノムシのような思想体系を形作っており、一貫性がないということがわかる。安倍首相は国力を増すために国民をどう教育してゆくのかという基本理念がなく、さらに北朝鮮を挑発して戦争になった時にどれくらい戦費をまかない戦線を維持できるのかということについてもアイディアを持っていない。さらに安倍首相は議会の承認なしに勝手に徴税して予算を獲得する権限はない。しかし、これらのことは安倍首相には「どうでもいい」ことなのだろう。

しかしながら、戦争がない社会では「国力をどう維持してゆくか」ということを考える必要がないのだから、こうした考え方が蔓延してもしかがたないようにも思える。北朝鮮が核開発一択に陥ったように、安倍首相はアメリカ追随一択になっているのかもしれない。

実は戦争と教育というのは相互につながっている。日本は70年以上もアメリカとコンパクトのような契約を結んでいるので、国民の教育にどれくらい投資すべきなのかという国家観が持てなくなっているのかもしれない。一方、ドイツは同じような集団的自衛の枠組みに組み込まれているが、常時国家間で比較され続けており「正気を保っている」のかもしれない。

つまり「次世代に投資すべきだ」と考える人は、同時に戦争や経済競争について考えなければならないのではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement



モノが売れなくなった理由を街から想像してみる

いつも新聞やTwitterをみながらいろいろ考えているのだが、どうしてもバーチャルになりがちである。たまには実体験を書いてみたい。こういうのはあまり読まれない傾向にあるのだが、いろいろな角度から考えてみたい人には面白い内容なのではないかと思う。

個人的に経験したことは、製品の成長についてである。高度経済成長期に育ったので、電化製品というのは直線的によくなってゆくというような印象がある。例えばテレビだったら白黒がカラーになり薄くなって音がよくなり、モノラルだった音もステレオからサラウンドに変わってゆくという世界である。それに従って変わってゆくのは「経験」だ。社会全体が同じ経験をしているからこそ「次は何が出るんだろう」というワクワク感がある。これが経済成長である。

だが、現代にこうした成長を実感するのは難しい。単に給料が下がっているからという理由ではなさそうである。そしてこれがいいことなのか悪いことなのかはわからない。今回勉強したのは音響設備についてである。

どういうわけだかわからないが部屋のオーディオ設備を改善したくなった。使っていなかった5.1chサラウンドシステムを引っ張り出したのだが、スピーカーに不具合があり上手く行かない。いろいろ調べてみるとスピーカーの結線が悪いようである。SONYは特殊なプラグを使っているのだがこれに欠陥があるようだ。代替え製品はあるものの少し高価なので、結局プラグをこじ開けて金属部分を手で曲げたりしてなんとか音が出るようになった。

一旦使えるようになると使ってみたくなる。最初はテレビをつないでいた。CMのピアノやドラムの音がクリアに聞こえる。CMはお金がかかっているので実は音がいいんだななどと思った。あとは音楽番組が楽しくなった。しかし、そういえば音楽番組をあまりみなくなってしまった。ニュースバラエティではいい音が出てもあまり面白くない。

するといろいろな音源で試してみたくなった。最初に思いついたのはDVDとパソコンだった。DVDは手持ちの光ケーブルで使えた。他愛もないアクションムービーだったが、サラウンドはなかなかだった。しかし、Macを光ケーブルで接続するためには丸型のプラグが必要だ。ピンプラグが光デジタルに対応しているのだ。昔はどこの量販店でも取り扱っていたらしいのだが、最近は手に入れにくくなっていた。結局、ハードオフで見つけた。

次にパソコンを試してみたくなった。2004年頃のAirmac Expressという製品があり「光デジタルに接続できますよ」と書いてある。だが、やってみても5.1chで音を送ることができない。パソコンに直挿しすると5.1ch対応になるのでAirmac Expressの「何かがおかしい」ということになった。

アップルのディスカッションボードで聞いてわかったのは「仕様書やマニュアルには接続できると書いてあるが、どうやらできないらしい」ということだった。チップが5.1chに対応していないらしい。そこでAppleに連絡してみたが「自動で判別されるのでできるはずです」の一点張りだ。そこで、本当にそうならデジタルで設定できる方法を教えて欲しいと粘った。

最終的には「対応するとは書いてあるが、出力するとは書いていない」との結論が返ってきた。ずっと、お客にはできるはずなのでお客さんの音響設備が故障しているのでしょうと回答してきたそうである。

少し詐欺に近いなどと思ったのだが、なぜAppleは光デジタルの本領が発揮できない製品を「接続できる」と書いたのだろうか。日本で地上デジタル放送が始まったのが2003年なので、2004年といえばちょうど機器の出始めである。最新鋭の機器が5.1chに対応していたので「接続だけはできる」というつもりで書いたのだろう。が、実際には接続はできるが5.1chで出力はできないという状態だったようだ。2007年頃のAPpleTVのディスカッションボードをみても「今は対応していない」と書いてある。

では、今の製品はどうなのだろうかという疑問が出てきた。

そこで現在のAirmac Expressの仕様をみると、そもそも5.1chについて書いていない。サポートの人も「できるとは思うが実際には試したことがない」という。Appleは光ディスクを排除してしまったので、現在MacでDVDをみるという酔狂なことをする人は誰もいない。そこで「多分できるがよくわからない」という状態になってしまったのだろう。DVDやブルーレイがないとあとは音楽だけになるので2chで足りてしまうからだ。

そこで家電量販店に行ってみた。するとかなり悲惨なことになっていた。家電はもう売れないらしく、ケーズデンキは黒モノ家電の売り場を縮小してしまったのだという。そもそもオーディオ機器など買って行く人はいないそうで、お客がいないから店員もリストラされてしまったらしいのだ。この店にはオーディオの専門家はいませんと言われた。

担当者も「ホームシアターシステムなんか買っていく人はいないので、テレビをお勧めしています」と言っていた。YAMAHAやSONYなどのサウンドバーが売られていたが、この後は入ってこないかもしれないとのことである。確かに数万円のホームシアター機器を売るよりは数十万円するテレビを売った方が効率がよいし、お客がAmazonに流れているので、効率の良い商売をしないと潰れてしまうという危機感があるのかもしれない。露骨にスピーカーが横についているテレビを勧めてきた。

製品に対する知識もないのに露骨に高いものを勧めてくる。部屋用なので20インチくらいでいいのだがというと「そんなものは置いていない」という。テレビの他に何が売りたいのかと聞くと「エアコンを重点的にやれと言われています」ということである。

だったらAmazonで自分で調べた方が早いですよねというと、その通りですねと否定しなかった。もはや諦めの境地なのだろう。こうしてパソコンができる人はオンラインに流れて行き、あとはパソコンができない層の高齢者だけが残るということになる。

ホームシアターシステムだが、2.1chが主流になっていて、そこから擬似的に5.1chを再生するようなものが作られているらしい。考えてみるとリアルに5.1chであっても擬似であってもそれほど広がりに差がないので、これはそもそも5.1chがオーバースペックだったのかもしれないとはおおう。あとはパッケージソフトではなくオンライン配信が主流になってきており5.1chで外部機器をつなぐということも少なくなってきているのだろう。さらに、忙しい人が増えているので、そもそも家で映画を楽しみたいなどと考える人がいなくなっている可能性もある。

つまり、現代では電化製品やサービスはリニアでよくなってゆくということはなく、小型化省力化の方向に縮小して行っているのだ。そしてそれに合わせるかのようにお店もなくなっており、サービスレベルも低下してゆくという悪循環が生まれている。

一度どこかでいい音を経験すると「これはいいな」と考えることができるはずだ。地デジが出てくる頃までには「これからはテレビの音も格段によくなるのでホームシアターシステムを買いましょう」という宣伝文句にもある程度の説得力はあった。

だが、Amazon で知っているものしか検索しないとホームシアターシステムを買おうなどとは思わなかっただろう。知っている中でしか商品選択しないからである。だが、現実的にはお店のショールーム機能が失われている。だからメーカーのサポートも5.1chがわからなくなっているし、お店からもそうした商品が消えてゆく。商品が展示されなくなるだけでなく、同時に店員も消えてしまう。すると市場から知識が消えて行くという具合にどんどんと悪いスパイラルが働くのである。

よくものが売れなくなるのは企業が給与をケチるからなのだと言われるし、このブログでも度々そのようなことを書いている。だが、実際に足元で起きていることはそれよりも少し複雑らしい。オンラインショッピングが盛んになるのはいいことだが、ユーザーは新しい経験ができなくなっている。新しい経験に触れなくなると古い知識の中から品物を選ぶことになるので、結果的に品物がうれなくなってしまうのである。多分、今充実したオーディオ装置を買おうと思うと一番よいのはハードオフのような中古ショップにゆくことだ。

これが悪いことなのかなと考えてみたのだが、そこはよくわからなかった。じっくりソファーに座って臨場感のある音を聞いたりする人はいなくなった。しかし、忙しくなるのに合わせて便利に情報を取れるようになっていて、合間合間にスマホで映画を見たりすることも可能だ。

同じことは洋服でも起きている。昔のように着飾って街に出てゆくということはなくなり、代わりにインスタグラムなどを通じて経験をシェアするという方向に変わっている。そこで高級ブランドは必要なくなり、ファストファッションで小綺麗にする人が増える。多分ファッション好きな人は古着屋に行った方が選択肢は多いだろうが、これが必ずしも嘆かわしいことかどうかはよくわからない。

いずれにせよ日本人のモノに対する考え方はこの10年で大きく変わっているようだ。