関東大震災の朝鮮人虐殺はなぜなかったのか

報道特集で、ある人が関東大震災の時に朝鮮人の虐殺はなかったと主張しているのを見た。報道特集としては、実際には朝鮮人が虐殺されているのにそれをないことにする勢力があり、小池都知事はそういった人たちに慮っているからけしからんと言いたかったのだと思う。だが、それは裏を返せば「朝鮮人虐殺はなかった」という人がある程度いて熱心に都知事を応援しているということになる。

ここで気になったのはインタビューを受けていた人の「日本人の名誉を回復しなければならない」というようなコメントだ。どうやら、この人は日本人というものが「完全に良いものでなければならない」と考えており、それが傷つけられていると考えているのだろう。本来なら丸い玉でなければならないものが欠けているというイメージである。

もちろん「相手が嫌がることをして快感を得る」という可能性もあるわけだが、本当に「日本人の名誉が傷つけられている」と考えている可能性もあるだろう。では、なぜこの人は本来玉は丸くなければならず、それが傷つけられていると考えているのだろう。そして、日本人という玉がなぜそれほど大切なのだろうか。少なくともこの人たちは顔を出して「朝鮮人の虐殺はなかった」と主張しているわけだから、それなりの強い動機があるはずだ。

そもそも日本人に限らず、すべての民族はなんらかの殺し合いを経験している。が、一方で人道的なこ側面もある。つまり、人間も民族も「良い面もあれば悪い面もある」ということになる。たいていはこうした両側面を統合して理解ができるようになる。これを成長と呼ぶ。

と、同時にこの理解は「私」にも成り立つ。つまり、意思が弱く目的を完遂できない自分もいれば、それなりに成果や仕事を積み上げてきた私というのもあるわけで、これを統合したのが私である。

朝鮮人虐殺などなかったという人は、集団が持つ悪い側面を受け入れられないということだ。つまり、いったん認めてしまうと「いつまでも一方的に民族全体が謝罪し続けなければならない」と思い込んでいることになる。

そこで、こうした分離が起こるのはどうしてだろうかという疑問が湧くのだが、ユングが面白い観察をしている。例えば良い母親と悪い母親の二元論的な分離はどの神話にも見られるというのだ。すなわち、人間は原初的に二元論的な理解をしており、成長に伴ってそれを統合してゆくだろうというモデルである。

すると、疑問は次のように展開できる。つまりこの人はどうして「良い日本人」と「悪い日本人」を統合できなかったのかという問いである。

いくつかの原因が考えられる。当初の人間関係に問題があり「良い人」と「悪い人」が統合ができなかったという可能性がある。これが統合できなかった理由としては、統合ができる環境がなかったという生育論的な可能性と、環境はあったが認知に問題があり統合ができなかった可能性があるだろう。ここではどちらが原因で統合が果たせなかったのかはわからない。

そもそも「日本人」というのは丸くて透明な玉ではなかった。だが普通の人はそれを受け入れつつ、良い部分を伸ばし、悪い部分を抑えようとする。しかし統合ができない人は悪いものを排除して良いものだけを取り出そうとしているということになるだろう。

同じような関係性をアメリカで見たことがある。トランプ大統領が「Make America Great Again」といったとき、ヒラリークリントン候補がwholeという概念を使って次のように表現した。

英語にはwholeとかheelという概念がある。これは不完全なものが再び健全な全体に戻るという概念である。ドイツ語のheilももともとは同根で、現在でも「癒す」という言葉の語感として残っている。

つまり、ありのままを統合しようというwholeと純化してひとつにまとまろうというwholeがあるということになる。クリントン氏は多様性を受け入れて健全さを取り戻そうとしているのだが、トランプ大統領は悪いものや異物を取り除いて丸い玉を作ろうとしているということになる。そして、これは日本だけではなく、英語圏やドイツ語圏でも見られるのだと言える。

最近日本で人気のヒトラーがheilという言葉で表現していたのはユダヤ人のいないドイツ社会だったが、実際にはまとまれないドイツ人への苛立ちが込められているように思える。同じようにまとまれない日本人への苛立ちが在日差別へと向かうのではないかと考えられる。

だが、朝鮮人の虐殺がなったことにすることで「日本人の名誉が回復する」ことができるかということを我々は真剣に考える必要があるのではないだろうか。もともと人にせよ集団にせよ良い面と悪い面が統合されているものだから、そこから「悪い面」を排除してもwholeにはならないはずだ。だが、純化欲求のある人はそうは考えない。

同じような錯誤は白人至上主義者にも見られる。例えば黒人がアメリカからいなくなっても社会の最下層にいる白人たちの「名誉が回復される」ことはない。かえって社会の最下層として蔑まれることになるだろう。同じように朝鮮人が日本からいなくなったとしても、日本人が再びひとつにまとまるということはないだろう。そもそも最初からまとまってなどいないからである。

例えば東京都知事の小池百合子氏はこうした純化欲求を利用している。多分トランプ大統領の手口にかなり学んだのではないだろうか。敵を作って純化欲求を持った人たちを扇動してゆくというやり方である。最近では家でタバコを吸っている人を槍玉にあげて、有権者の支持を集めようとしているようだ。

関東大震災のときに朝鮮人虐殺がなかったのは歴史的事実ではないが、こうした純化欲求の表れなのではないかと思う。それは実は実感できる集団というものを見たことがないから起こる錯誤なのだろう。同じように小池百合子都知事が支持されるのは、東京が帰属集団を実感しにくい年だからなのではないだろうか。

つまり、こうした錯誤を取り除くためには、本物の帰属集団を誰もが実感できる社会に戻す必要があるのではないかと思う。

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高須克弥さんが<血迷っている>理由に関する考察

いつのころからか高須克弥さんのtwitterをミュートしていた。不快だからだ。だが最近頼みもしないのにいろいろな人が高須さんのTweetをRetweetしてくれる。ミュートしているので隠れているのだが、アカウントまで行くと読むことができる。きになるのでいくつか読んでみたのだが、やはり気持ちが悪くなった。

中でも気持ちが悪かったのが、香山リカという人に対して「日本人の名誉を回復してくれる人なら誰でも歓迎だ」というようなコメントを返していた部分だった。日本人は原爆が落とされて反省しているのにユダヤ人は虐殺されて反省していないのかなどというようなことを言っている。なお気持ちが悪いというのは「グロテスク」という意味ではない。論理的な整合性がなくても人は気持ちの悪さを感じるのである。

そこでこの人をどうやったら説得できるのかということを考えてみた。説得できないにしてもメンタリティがわかれば整理はできるかもしんない。だが、戦争の壊滅的な破壊行為のいくつかを比較してあれこれ並べてみても何も整理はできない。加えて「名誉」とか「反省」とはどういうことだろうか。日本人はそもそも第二次世界大戦について「俺たちが悪かったなあ」などとは思っていないのではないかなどと思った。いずれにせよ、この人の言っていることは「自分の意見が絶対的に通るべきなのだ」ということであり、論理的な裏付けや事実関係などどうでもいいのだろうと思った。

ただ唯一面白いなと思ったのは第二次世界大戦に関する日本人の被害者意識である。一方的に悪者にされているという意識があるのかもしれない。が、これは本当なのだろうか。

先日Quoraで第二次世界大戦について書いた。だいたいこんな筋である。

日本は遅れて植民地獲得に乗り出したがアメリカなどと対決することになった。アメリカは日本包囲網を作って日本の石油資源を枯渇させる作戦に出た。日本は外交と軍事の双方のパスを使って問題を解決しようとしたが最終的に軍事的な解決を選択した。官僚のシミュレーションでは、日本がアメリカと対決するとソ連の参加などもあり負けることがわかっていたが、官僚や政治家は戦争を止めることはできなかった。

こういう書き方をしても「日本人は戦争について反省していないのか」とは言われない。概ね事実であり日本にも事情はあった。また当時の国際社会では植民地獲得は犯罪行為ではなく、主権国家(これは欧米の独立国の特権だったのだが)の当然の権利とみなされていた。ここにアジアの国が挑戦することは国際社会への挑戦だと見なされてしまう恐れがあった。アジア人はタイのように自国に止まるか、中国やインドのように植民地を差し出すかの選択しかないと見なされており、キリスト教が世界を支配すべきだと真面目に考えられてきたのである。

しかし、これだけでは考察は不十分だ、日本は憲法に欠陥があり実質的に権限を持たない天皇が軍事組織と政治組織をそれぞれ別々にマネジメントする建前になっていた。さらに、総理大臣の権限が小さかったので、大臣たちが「閣内不一致」を宣言すれば辞職するしかなかった。政治勢力はまとまることができず経済問題の解決に失敗し、成果を挙げていた軍に対する期待も高かった。さらに日本人には集団思考に陥りやすいい傾向があり、主導者がいないままで「空気のように」戦争への関与がエスカレートしてしまった。つまり、日本だけが悪いわけではないが、システム上の欠陥やマインドセットの問題などもあり、戦争を止めることができなかった。

さらにそもそも戦争が持続可能でなかったのに加えて、植民地経営も下手だったようだ。満州国は日本と同等の国だということになっていたが、実際には日本人が満州国皇帝を指導監督し、現地経済を搾取するという露骨な植民地経営が行われたようだ。

つまり、日本が絶対的に悪者であって第二次世界大戦が引き起こされたというのは世界的に共通した視点ではない。しかし、やり方に稚拙な点が多く完全に弁護できるような状態でもなさそうである。にもかかわらず「日本の名誉が傷つけられた」と感じる人がいるのはなぜなのだろうか。

一つは東京裁判を通じて「日本の行為は戦争犯罪であって、これは絶対に受け入れなければならない」という占領国側のプロパガンダがある。これを植民地を持っていた国だけでやってしまうと価値の押し付けになるので、アジアの非独立国(フィリピンとインド)を巻き込んで「公平な」裁判を演出しようとした。だが、当時植民地だったインドの判事がこの一方的な歴史観に反発したことが記録に残っている。

しかし、これも結果的に先進国側が植民地を放棄して世界的な経済圏を作るという方向に進んだ。さらに賠償金の請求も手控えられた。つまり「ドイツや日本が悪かった」というメッセージとは裏腹に、誰かを一方的に悪者にすると戦争が終わらなくなるという認識があったのである。つまり、価値判断と実際に行われたことは少し違っているので、高須さんのいうような「名誉回復」は特に必要がない。

もう一つは中国と韓国が日本の抑圧から独立したという事情がある。彼らの支配の正当性を国民に説明するためには明確な敵が必要であり、日本の植民地支配にも良い点があったなどと言えるはずはない。親日と言われる台湾だが、とても特殊な地域だ。日本支配から脱した後に中国本土から逃げてきた人が現地人を抑圧した歴史があり、国民党の抗日プロパガンダがそのまま受け入れられるようなことはなかった。かといって「台湾は日本の支配に感謝している」というのは言い過ぎであり、よりまともだったくらいの印象だろう。

高須さんの話に戻る。そもそもあの戦争を冷静にみつめると、日本人の名誉が一方的に毀損されるというような事態にはなっていない。だが、中国と韓国の話ばかりを見ているとあたかも「日本だけが悪者である」というような印象を持ってしまうのだろう。サンプルが偏っているので地図が歪んでしまっているのだ。

その上地位が高くなると「俺が言ったことが正解になる」と思いたくなるのかもしれない。日本人は内的な規範を持たないので、相対的に地位が高かったり数が多いことで正解を操作できると考えている節がある。チャレンジするものが大きければ大きいほど自分の偉大さを仲間に誇示できるのだ。安倍首相が右翼雑誌で押し付け憲法感を披瀝し、麻生元首相が派閥の勉強会でヒトラーの動機は正しかったというのも同じようなメンタリティによるものだろう。これがソーシャルメディアに乗って流れることで海外からの批判を招くのだ。

欧米人は当然「内的規範に基づいて自説を開陳しているのだろう」と思う。つまり「この人たちは心底それを信じているのだ」と考えてしまう。そこで日本は戦前に回帰しようとしているのではないかというような感想を持つのだろうが、実際にはヤンキーが仲間内でタバコを吸ってイキがっているというような心情なのではないかと想像する。

高須さんの県で重要なのは実はカウンターのリアクションだ。加山さんのようにヒトラーは絶対悪なのだから反省しつづけろというと、なぜヒトラーのような人が生み出されたのかがわからなくなってしまう。同じように日本は絶対的に悪いことをしたのだから謝り続けるべきであるなどと言ってしまうと、集団思考の問題や統治機構の欠陥などに目が行かなくなる。

実際に集団思考によってなんとなくプロジェクトが止められないということは現代でも頻発しているので、実は第二次世界大戦の問題は現在とは無関係ではないのではないかと思う。

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