東洋経済ONLINEを見ていたら中島義道という人が人は嘘をつくのになぜ政治家は嘘をついてはいけないのかというような疑問を提していた。有名な雑誌のWeb版なので有名な哲学者の方なのだと思うが、答案を書いてみる。
まず、民主主義を、話し合いによってできるだけ多くの人が幸せに暮らすことができる社会を作ることだと定義する。社会は一人ひとりの貢献によって成り立っているので、納得感が得られなければ社会そのものへの信頼がなくなる。信頼がなくなると人々は努力を出し惜しみすることになるはずだ。幸せという言葉が気に入らなければ「できるだけ嫌な思いをしない」と言い換えても良い。
そのためには、話し合ってみんなが納得するように物事を決めて行くことが必要だ。話し合うためには「今はどういう状況で」「こう決めたらどうなるか」ということをできるだけ正しく提示する必要がある。完全に読み切ることは難しいので「できるだけ正確に」ということになる。話し合いの過程を記録しておけばあとで見直せるので、間違えたとしても見直すことができる。
ところが、人は嘘をつくことができるし嘘もついている。ということで、判断を自分に都合の良いように誘導することも可能だろう。が、嘘をついて話し合いの過程を歪めてしまうと、人々はやがて「あ、これはおかしいぞ」と考えて、社会への関心を失ってしまうかもしれない。嘘をついて得する人は嘘をつくだろうし、得がない人たちは話し合いに参加しなくなる。さらに人には自分が納得して決めたことには従おうという特性がある。決めるのに参加しない人は、公然と逆らうと何かと面倒なのでこっそりと従わないことになるかもしれない。
つまり、嘘が横行すると、決めたことへの信頼性が失われ、結果としてみんながいろいろと大変な思いをする。が、現実としては嘘はつける。だから、信頼性を損なわないようにするために「嘘をつかない」というタテマエが必要だということになる。嘘をつけるのだが、嘘をつかないようにしようということである。嘘をつかないようにしようというのはキレイゴトなのである。
人は嘘がつけるから「嘘をつかない」としないと話し合いがうまく進まないというのは、スポーツのルールと同じようなものだ。ゴルフでは誰も見ていない時にボールを穴に入れてしまえば優勝することができるが、誰もそんなことをしない。そんなことを許せばゴルフではなくなってしまうからだ。
こうしたことが哲学の考察対象になるのは日本人の特性によるものと思われる。なお中島さんが本気で「嘘をついてはいけない」というのを考察の対象にしているのか、それともわざと言っているのかはこの東洋経済ONLINEの記事からはよくわからない。
年配の日本人は終戦を経験している。そもそも民主主義ではない時代を記憶していて、急に民主主義が入ってきた。またアメリカに上から頭を抑えられていて民主主義以外の選択肢がなかった。中島さんは1946年の生まれということで、物心ついた頃にはみんなが「なんだかよくわからないが民主主義はすごい」と言っていた時代の人なのだろう。自分たちで民主主義を獲得した国では「タテマエ」の大切さを理解しているのだが、民主主義が上から降ってきた日本では、その重要性が理解されなかったのかもしれない。例えばトランプ政権下のアメリカは場合によっては独裁体制になってもよいわけだから、その切実さにも違いがあるだろう。できるけどやらない、のだ。
次に日本人は個人の話し合いで物事を決めてこなかった。いろいろと裏で話し合いをした結果が全体に承認されるという形態を取る。一人ひとりの話し合いがあまり重要な意味を持たないから、表向きの議論で嘘をついても大した影響がなかったのかもしれない。だが、最近では裏での話し合いがうまくゆかないことが増えてきているので、嘘が影響を与えるようになってきているといえるのではないだろうか。
この論の一番の弱点は「そもそも話し合いなんか必要ないのではないか」というものである。完全な個人がすべてを間違いがないように決めてくれればそれでよいはずだ。だが、実際にはそうした試みはおおかた失敗している。完全独裁のままの国はそれほど多くないし「優秀な共産党がみんなの代わりに決めてあげる」という共産主義はほぼ絶滅した。
なぜ、話し合い型の社会の方がうまく行くのかはよくわからない。もともと類人猿として脆弱だったので助け合いが発達したという学説すらある。こんなことを科学で証明したいと考えるのは「話し合い」や「助け合い」の効用が自明ではないからだろう。
理論がわからないので過去の事例を参照するということもできる。
例えば北朝鮮と韓国は北朝鮮の方が進んだ工業国だったのだが、長い間に大きな差がついてしまった。西ドイツと東ドイツも同様だった。東ドイツは反逆者を押さえつけるの大掛かりな秘密警察を作ったがすべて徒労に終わった。長い間「気に入らなければ出て行っても良い」と言っていたのだが、ある時期多くの国民が「じゃあ、出て行きます」ということになった。どちらも同じ民族なので社会的には似通っているはずだから、体制の違いが結果に現れているとしかいいようがない。限られた人が決めるより、みんなで決めた方が成功する可能性が高い。
一方で、サウジアラビアのように独裁的な政権が比較的うまくいっている国もある。が、石油資源を抱えていて国民に不満が出ないように富が分配できるから成り立っている。ロシアも天然資源を抱えているので、ある程度反対勢力を懐柔することができる。こうした「何をすれば幸せになれるか」ということがわかっている国では、ある程度の独裁もうまく行くのかもしれない。
ということで、よくはわからないが話し合いや助け合いは大切らしいということがわかる。
だが、もう一つの欠点は少し答えを出すのが難しい。みんなで一生懸命に話し合ってもすべての人が納得できる答えなど見つからないという可能性があるのだ。この場合は「優しい嘘」をついて、決して満足できない人たちにかりそめの満足感を与えるか、犠牲にするほうがよいということになる。民主主義の発達した先進国は、実は周辺国から資源を安い価格で買い入れて高く売ることで成り立っていた。国境という区切りがなくなったので、今かなりの混乱が起きている。この問題は多分、政治学の世界では「グローバリズムをどの程度展開するのか」という問題になっているのだろう。そもそも「話し合いでみんな仲良く」というのが壮大な嘘だったという可能性はあることになる。
この可能性を考えると、実は政治家は嘘をつかざるをえなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。かつては見なくて済んだものを直視せざるをえなくなっているというわけだ。つまり「政治家は嘘をついて良いのか悪いのか」という疑問の立て方が間違っていて、なぜ嘘をつかざるをえなくなっているのかということを考えなければならないのかもしれない。