ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのか

アゴラの編集長という人にブロックされている。その影響からなのか(Twitterにはブロックリストをやり取りする機能があるそうだ)関わりがないのにブロックしている人がいるらしく、ときどき引用ツイートが読めない。中身が読めないのでどういう人たちなのかはわからないのだが、安倍政権側の人が多いように思える。たいてい誰かに批判的に引用されているからだ。それにしても、ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのだろうか。

ブロックするのは、自分と違った考え方が受け入れられない人たちだと考えられる。つまり、自分の作ったシナリオ通りにことが進まないと、その意見を排除するためにブロックして「なかったこと」にしてしまうのだ。自分と同じ考えの人たちしかいなければ否定されることもないので、彼らには居心地がよいのだろう。

その意味では百田尚樹さんという人はネトウヨが高かったように思う。普段ネトウヨ系のサロンで発言を繰り返しているうちに仮想的な有能感に浸るようになり、朝生で罵倒されて帰ってきたそうである。作家さんなので知性がないということはないだろうが、知識が偏っていて議論にならなかったのだろう。

自分の意見があまりないという点ではサヨクの人たちと違いがないのだが、サヨクとネトウヨには大きな違いがあるように思える。サヨクの人たちは自分たちの意見や正義感が世間に知られていないと感じているので、異論を唱えてきた人には「布教活動」が始まる。ここでブロックしてしまうと自分が相手を説得することができなくなる訳だから、ブロックすることは少ないのではないかと考えられる。サヨクの人たちの言動で多いのは「安倍政権についてテレビ報道が増えれば人は真実に目覚める」というものである。

だが、ネトウヨの心性を考えるとよくわからない点に突き当る。他人と意見が違うことがなぜ問題になるのかということだ。心理学の類型を調べてみたいところだが、しくりくるものが探せなかった。が、相手の意見に影響されて「それに従わなければならない」という気持ちが強いのではないかと考えられる。つまり自己肯定感の低さが影響しているのだろう。つまり、ネトウヨは相手に服従しなければならないと考えており、同時にあまり自分の考えに自信がないのだろうということが予想されるのだ。だからこそ、主張を強化しなければならないわけである。

サヨクの人たちも放射能や戦争などの外部からの脅威を怖がっているように見える。つまり、不確実性に対応できないという意味では共通しているように見える。が、実際には内心というものを持っていて、それと現実が異なっていることが許せないと考えることもできるだろう。つまり、ネトウヨとは反対に過剰な自信があり、それと違っていることが許せないという可能性があるのだ。つまりネトウヨとサヨクが同根なのかそれとも対になっているのかということはよくわからない。

まとめると、ネトウヨもサヨクも、危機・脅威・不確実性に対する防御反応なのだが、一方は内面に自信がなく常に相手に影響されてしまうと考えており、一方は内面に自信がありそれが現実世界に反映されないことにいらだちを抱えているのかもしれないという仮説が立てられる。もし同根だとすれば、他人の考えや指示に恐怖心を覚えるのがネトウヨで、環境に恐怖心を持っているのがサヨクということになる。両者に共通するのは多様な考えが共存することを認められず、相手の説得もできないという点である。

両者とも、世間と自分との間に明確な境界を築けない。他人は他人でありコントロールできないと考えれば、感情的な行動にはでないのではないだろうか。相手を説得するのに戦略を立てたり、コントロールできないなら放っておこうと考えるはずである。あるいは自分の好きなことに夢中になっていれば、あまり他人の価値観は気にならないはずだ。

その意味では安倍政権はきわめてネトウヨ性が高い政権だと言える。もともと戦前に陸軍が間違った行動を取ったことを一切認めることができなかった人たちが母体になっている。南京で虐殺がなかったと主張したり、日本軍は韓国人の性奴隷を持たなかったという主張をしていた。が、こうした主張はWiLLなどの一部のネトウヨ系雑誌で行われているだけで、全体にはさして影響がなかった。

よく考えてみれば、南京で虐殺があったとしても、それは陸軍の兵士たちがやったことであって、日本人全体の犯罪ではない。ネトウヨの人たちには関係がないことだ。しかし、ネトウヨにはそれが認められない。日本軍が中国人の主張通り犯罪行為をおかしたのなら、自分が日本人を代表して中国人に屈服しなければならないと感じてしまう。これは、他人と自分の間に区別がついていないということを意味するのだろう。このように勝ち負けは彼らにとってとても重要である。

勝ち負けが重要なのだから、強いものへの妥協も安倍政権の特徴だ。プーチン大統領にすり寄ってみたかと思えば、トランプ大統領に諂ってみせたりしている。トランプ大統領に忖度して、その主張を聞くようにヨーロッパに懇願することを「強いリーダーシップ」と言い換えるあたりもネトウヨ性が高い。これは、影響力のある相手に対して自分を保てないというところからきているのではないだろうか。一方で、中国や北朝鮮という自分たちが蔑視している存在には必要以上に居丈高な態度に出る。国内では女性に対する蔑視感情が顕著で、民進党の蓮舫代表を呼びつけにしたり(国会でもたびたび呼びつけにしそうになる)社民党の福島元党首や民進党の山尾しおり議員に敵意をむき出しにしたりしている。

このネトウヨ性のせいで、自分を持っていて距離を置くヨーロッパやカナダのリーダーとは折り合わない。

ネトウヨの最大の特徴はブロックだ。自分たちの論理で憲法の解釈をねじ曲げて、アメリカ軍と協調行動がとれるようにしてしまった。これが全面的に悪いとは言わないが、本来なら国民を説得するべきだった。しかし安倍政権はそれをしないで、あの夏のデモを「一部の人がやっているだけ」と言ってブロックしてしまったのだ。さらに、批判は当たらないという紋切り型の台詞を繰り返して様々な無理な解釈を繰り返し、あったはずの資料をなかったことにした。それだけでなくマスコミにも手を伸ばし、恫喝したり取り込んだりして、自分たちに都合の良い解釈を繰り返すようになった。

あったものをなかったことにするのがブロックなのだが、権力がこれをやり始めると他人にもブロックを強要しどんどん社会がおかしくなってゆく。

例えば金融経済の世界でも「ブロック」が起きているのだが、これはやがて市場経済の法則に復讐される可能性が高い。その時巻き込まれるのがネトウヨと安倍政権だけならいいのだが、国を巻き込んだ大惨事になる可能性も否定はできない。

ネットにいるネトウヨの人たちは、大した情報は持っておらず、偏った情報から作られた理論も間違っている可能性が高いので相手にする必要はないと思う。が、こういった人たちに大事な仕事を任せてはいけない。社会全体がおかしな方向に進んでしまうからだ。

個人が報われないという実感

ウェブサイトのページビューは毎日見ているのだが、最近では安倍政権がうまくいっていないことさえ書いていればページビューが集まるという状態が続いているのであまり意味をなさなくなった。そろそろ次を探さなければならないので、フィードバックを見てみた。とはいえ直接何かを書いてくる人はほとんどいないのでエゴサーチすることになる。エゴサーチの結果わかったのは「個人が報われない」という記述に多くの反響が集まっているということだった。

このブログでは「個人が報われないという実感」いくつかの文脈で出てくる。

一つめの文脈は、利益配分に関するものだ。日本人は利益集団を通じて利益の配分と安全保障を実現しており、個人の資格でそこに参加しても交渉力が得られない。最近では集団が個人の利益を守りきれなくなっており、個人が損の受け手になることも増えてきた。つまり、利益は分けてもらえないのに責任ばかりを取らされるということになる。

最近、前川元事務次官が官邸からの攻撃にさらされているというニュースを見た。身分を明かさずにボランティアをされていたらしく、教育に携わっていた人として「子供に正しい姿を見せなければならない」と考えていた風にも受け取れる。が、ご本人はそんなことは一言もおっしゃらなかった。事務次官といえば官僚のトップだが、そういう人でさえ個人の正義感で社会を正常に保つことが難しくなっている。存在が自己目的化した集団が個人の正義感を簡単に抑圧してしまうのである。

もう一つの文脈は、日本人が関係性を重視するので個人の意見表明というものにあまり重きをおかないという点である。個人の考え、つまり内心というものもありえないので、集団の意見を個人の意見の代わりに表明することが多い。また個人で意見表明しても「取るに足らない考え」として無視される傾向がある。

個人が幸せになれないとか、集団が個人の幸福追求に役立っていないという一連のステートメントには、実はプロテストの意味合いは含まれていない。日本は西洋の個人社会と東洋の集団主義社会のちょうど真ん中に位置する少し特殊な社会で、そのことを指摘しているにすぎない。社会の変化が早くなってきており、集団が個人の利益を調整できなくなっているという事情もあり、この辺りを観察するといろいろなことが見えてくるのである。

いろいろな分析もできるし、個人が幸せを追求できるような世の中にした方がいいですよといった提言もできるのだが、今回はそれはやめておく。あることに気がついたからだ。

多分このブログの読者の多くはスマホやパソコンなどを使って個人として文章を読みながら「共感したこと」をリツイートしたりシェアしているのだと思う。こちらからはある程度まとまった動きとして見えるわけだが、読者の方は他の読者が何を考えているのかということはわからないのではないだろうか。

つまり、一人ひとりは「個人が尊重されて活躍できる世の中になってくれればいいなあ」などと思いつつそれを言い出せないということになる。

そうした状態から一歩踏み出すためには「自分の主張を自分の言葉できるようになった方がいいですよ」などと思うわけだが、これはそもそも内心に抱えている「自分らしく生きたい」という欲求を認めない限り意見表明などできない。が、それを他人に打ち出せないということは、自分の中でその欲求そのものを承認できていないのではと思うのだ。

自己が持っている欲求が承認できさえすれば、相手もそれを持っているということを認めるのは比較的簡単で、相互的な助け合いができるようになるだろう。少なくともそれを見た他人が「自分と同じ考えを持っている人は他にもいるんだなあ」と思うことができる。だが、承認できない(あるいはそういう欲求を持っていることを自覚できない)状態では、それ以上はどこにも進めないかもしれない。

ということで、今回は何の分析も提言もしないで、ただ単に「個人がもう少し尊重できる世の中になった方がいいなあ」と考えている人は多いですよ、ということだけを指摘してこの文章を終わりにしたい。自分らしくありたいという気持ちは多分それほど特殊なものではない。

臆面もなく嘘をつく人とその事情

前回、千葉市職員がトイレをきれいに管理していないという話を書いた。が、あまり興味を持たれそうにないので「日本人は嘘をつく」というような表題にした。何軒かコメントをいただいたのだが「嘘つきが多い」と考えている人は少なからずいるようだ。

問題なのはどうやったら嘘が減るかということなのだが、それについては確たる答えがない。そこで他人を非難して終わりということになってしまう。いつしかTwitterに嘘つきを糾弾するコメントが溢れるようになった。

トイレは、いったん千葉市役所から「市職員が巡回します」という回答をもらった。が実際には数ヶ月巡回しただけでやめてしまったらしい。つまり、千葉市役所は、上司と市長の名前の入った文書でその場限りの嘘をついたことになる。今回、また汚れているのを見て現場の人に「片手間でトイレの管理なんかできませんよね」と聞いたところ、若干言いにくそうに「そうだ」という返事があった。つまり、できもしないことを約束したことになる。

嘘をつかれると処罰感情が湧く。例えばTwitterではよく「政府の誰々が嘘をついた」という怒りのツイートが流れてくる。だが、嘘をせめても問題は解決しない。裏には日本人が民主的な手続きと議論の意味を理解していないという事情がある。つまり、意義があって納得できなかったとしても、その場で意義を飲み込んでしまう。できないならできないと言うべきだったのだろうが、その場で嘘をついた方が簡単だと考えてしまうのである。

市役所へのクレームは広報課で集中管理されているので、電話インタビューをした。ある部署が「できもしない約束」をしたことが露見した場合、その職員に対して注意するというパスはあるようだ。最終的には局長レベルまで行くらしい。また市長も市長への手紙を見ていて、それなりに関与しているという。

が、こうした「叱責」のパスがいつもうまく機能するとは限らない。本人が回答に納得していなかったり予算的に無理だったとしても「なんとかするように」と職員個人の責任に落とし込まれてしまう可能性があるからだ。これについて広報課に「無理を是正する仕組みがあるのか」と聞いてみたところ、広報課は黙り込んでしまった。コンセプトは理解したらしいが、個人の失敗をカバーしたり、予算的な措置をとるといった発想がそもそもないようだ。

この背景には、日本人の意思決定の仕組みがある。日本人がもともと集団の長を集めて利権を調整する集団指導体制なので、集団間で相互にカバーする仕組みがなく助け合いも行わない。実は他人には冷淡な社会でだ。何らかの理由で集団指導体制が崩れたり、実行部隊と意思決定部隊が分離してしまうとすきまにある責任が個人に落ちてきてしまうのである。

責任は個人に落ちてくるのだが、個人への権限委譲は行われない。すると結果的に個人のせいにされて終わりということになってしまう。最終的には責任を取るはずの人が「知らなかった」ことになり「責任を取る能力も資源もない個人が叱責されて終わり」になることも多い。いわゆる「トカゲの尻尾切り」という現象である。

無理が生じると、個人が嘘をつかざるをえなくなる。そのうち収集がつかなくなり、他罰感情が集まる。が、実は問題は誰かを罰しても解決しないのではないだろうか。

文部科学省は加計学園問題について内閣府から恫喝されていたようだ。恫喝された文章も残っている。が、文部科学省はそうした文章は残っていない(あるいは残っているかもしれないが見つかっていない)といわざるをえない。それをOBが「いやそんなことはないだろう」といって大騒ぎになる。いずれはバレる嘘なのだが、嘘をつかざるをえないのである。同じことは森友学園問題でも起きてる。こちらは官邸が前のめりになっていたプロジェクトのために法律を曲げて無理なロジックを作って土地の値引きをしていた。その経緯が露見しそうになったので財務省が「資料を捨てた」という嘘をついている。この場合の嘘は法律違反にまで発展している。

NHKのように思考停止状態に陥ってしまった集団もある。オリンピックの予算を開催自治体が分担することが大筋決まったと政府の見解を垂れ流しつつ、公平性を担保するために千葉、埼玉、神奈川県知事の「聞いていなかった」という声も伝えている。いったい何がどうなっているのかさっぱりわからない。ヘッドラインを読むと「大筋決まったんだな」と思えるが、文章を読むと何も決まっておらず、誰も納得していないというように読める。

東京オリンピック・パラリンピックの費用について、東京都、組織委員会、政府の3者は予備費を除いて総額を1兆3900億円とし、このうち都と組織委員会がそれぞれ6000億円、政府が1500億円を負担する方向で合意したことがわかりました。残る400億円は東京都以外の自治体が負担する案が示されていますが、最終的にどこまでの負担となるか詰めの調整が行われています。

この場合NHKは嘘をついている。内容をよく聞けばバレてしまう程度の嘘である。

もちろん千葉市と国には違いもある。千葉市は一応市長が市民への回答を見ている。これは前の市長時代の反省を踏まえたものだ。市長への手紙は前市長の代からあるのだが、形式的に運用されていた。上層部は利権の獲得に熱心で、最終的には市長が汚職容疑で逮捕されるというところまで発展する。当然、職員の士気は低かったはずだ。そうしたことは徐々に改善されつつあるようなのだが、それでもマネジメントの失敗は完全になくならない。利権の獲得ができなくなっても、相互で助け合うという文化が根付くわけではないからだ。「誰かのためにやったことが回り回って自分のトクになる」などとは誰も考えない。一方。国の場合は官邸が「役人が嘘をつく理由」になっている。明らかに官僚に嘘をつかせている。

どうやら、トップがどうであるかということとは全く別の問題として、日本型の意思決定方式に原因があり、個人が嘘をつかざるをえないというメカニズムがありそうだ。

いつまでも騒いでいたいのならこのままでもよいと思うのだが、同じことは会社や学校でも怒っているはずだ。そろそろ日本人が持っている意思決定と統治の癖について理解すべきなのではないだろうか。

 

自民党はなぜ人権にそれほどまでに敵愾心を燃やすのか

共謀罪について考えていて一つわからないことがある。菅官房長官が「人権を擁護する人たち」に関してなぜ強い敵愾心を持つのかがさっぱりわからないのだ。菅官房長官はおそらく安倍首相を忖度してああいった発言をしているのだとは思うのだが、もし自分たちに意見があればそれを主張すればいいだけの話で、感情的な文章を出すのはあまり筋がよくない。

が、全然違うところで違う話をしていて「ああ」と思うことがあった。あれは安倍首相の劣等感の表れなのだと思ったのだ。だとすると、その劣等感に国民を巻き込むのはやめてほしいものだと思う。

ある日、QUORAで質問でもしてみようと思った。できるだけ当たり障りのないものが良いと思い「外国人がインドで苦労して手で食べるのをみてどう思うか」と聞いてみた。が、回答はインド人にはあまりよく受け入れられなかったようだ。

インド料理にはそれなりのマナーがある。外国人が知らずに「ただ手で食べればいいんでしょ」などとやると実はマナー違反になることがある。つまりインド人は手づかみで料理を食べているわけではないのである。

だが、どうやらインドの人の中にも「手づかみで食べるのは文明的ではない」という気持ちがあるようだ。つまり、西洋的な伝統に対して恥ずかしさを感じているということになる。2人の回答者の一人はマギという食事をフォークで食べて苦労したと言っていた。日本の人はマギーブイヨンでよく知っているマギーだが、検索するとカップヌードルのような麺料理らしい。

非西洋人には多かれ少なかれ西洋文化に対するコンプレックスがある。西洋人のように「立派に」フォークで食べたいと思うのだが、それができずに「恥ずかしい」思いをしてしまう。そこで「馬鹿にされているのではないか」と考えて、却って強い態度に出てしまうのだ。

同じことが民主主義や議論についても言える。西洋的な社会に触れた人たちは、社会に参加するということを経験を通じて自然に学ぶ。だが、こうした経験をしない人も大勢いる。そして、それを知らないことが「西洋的なスタンダードでは恥ずかしい」とも思っている。そこで、西洋人から「あなたは民主主義を理解していない」などと言われると、却って威丈高な態度を取ってしまうのかもしれない。中国人がその典型だろう。内政干渉というのは「西洋文化の押し付け」である。

つまり、安倍政権というのは日本が民主主義を完全にはマスターできなかったという恥ずかしさの裏返しの上に立つ政権だと言える。それを支えているのも「手づかみで食事をするような」意識の人たちということになるだろう。

さて、ここで考察を終えることもできる。つまり「日本人は戦後70年を経ても民主主義を身につけることができなかった劣等な民族である」という結論になってしまうのだが、そこで終わってもよいものだろうか。

例えばインド人の食べ方にはそれなりのマナーがあり「手づかみ」ではない。左手は使わず、親指以外の指をスプーンのようにしてカレーをすくい、親指で押し込んで食べる。が「恥ずかしい」という自意識があるとマナーがあるということすら認識できないのかもしれない。

同じように日本人にもそれなりの意思決定と統治のメカニズムがある。実際には集団指導体制を取ることが多い。利益代表者が集まって、強いリーダーを作らず均衡型の意思決定をするのが普通だ。これは日本人が内心への干渉を極端に嫌い、自分の領分が侵されることを許せないという気持ちがとても強い体。こうした意思決定は様々な場所で見ることができる。が、日本人は「政治の意思決定は民主的であるべき」という思い込みがあるために、それを自覚しないことが多いのではないだろうか。

安倍政権ももともとは均衡型の政権と言える。自民党には複数の派閥があり、それが深刻な争い発展しないように「お神輿」を担いでいる。重要なことは派閥同士の話し合いによって決まる。現在、いろいろな問題が起きているが、お神輿がしゃしゃりでるとろくなことにならない。意思決定が歪められて「忖度」が横行するのである。なぜこんなことになったかというと、間違えて「西洋型の強くて決められる政党」を目指して、総裁への権力集中が起こったからだと考えることができる。

強すぎる勢力ができると日本人は裏で足を引っ張り始める。よく自民党の中で「長期政権の弊害」などと言われる諸々の現象がおこるわけである。長期政権の弊害が生まれるのは、日本人がそもそも議論に参加して決めたことには従うという気持ちが全くないからである。自分の内心とは違った結果に従わざるをえなくなると「俺は実は納得していなかった」と言い出す人が必ず出てきてしまうのである。

例えて言えば「フォークとナイフも使えない」し「かといって箸で食べるためのマナーも知らない」という状態が生まれていることになる。つまり、どっちつかずのまま混乱を迎えつつあるのが安倍政権と言えるだろう。箸を使うのは恥ずかしいので勉強もしてこなかったから、突き刺してつかうしかないということだ。

足元では様々な動きが出てきている。常に内閣府から押さえつけられ天下り利権を取り上げられ「公衆の面前で恥をかかされた」文部科学省は週刊誌に内部文書をリークした。政府が「千葉、埼玉、神奈川との間で費用負担について同意した」と発表すればNHKがそれを鵜呑みにした報道をだし、神奈川県知事がTBSのテレビにでて「いや聞いていない」という。天皇陛下が退位したいというリークが古参の職員によってなされて、安倍政権が任命した責任者が慌てて否定する。こうした動きは安倍政権と強すぎる内閣官房への意趣返しと言える。すべての人を抑えることはできないわけで、日本型の強すぎる組織はこうして内部から崩壊してゆくのだろう。

だからこそ、議論を透明にして、議論の過程で言いたいことは全て言わせてしまうのが民主主義のルールなのだが、それが守られない。それは日本人が民主主義を知らず、知っていたとしても守るつもりなどないからなのだ。

 

教育と警察の違いについて考えてみる

なんか恐ろしいTweetを見つけた。教育委員会が独自に調査することを「治外法権」と言っている。

何が恐ろしいのかを説明する前に、前提を整理しておきたい。それは教育と警察の違いだ。警察力の目的は反社会的な行為を罰してから社会復帰を目指してもらうとことにある。つまり懲罰が目的(の一つ)になっている。なぜ懲罰が必要かというと、権力に委託せずに個々人が勝手に「調停」を始めたら収拾がつかなくなる可能性があるからである。例えば、日本では果たし合いは禁止されている。日本人は殺された家族の敵をとる権利を奪われているのだが、結果的には安心して暮らすことができる。なぜなら報復的に殺された人の家族が、報復をしかえすということがないからである。

これが成り立つためにはいくつかの前提条件がある。一つは一般庶民が警察を信頼しており、懲罰権を委託した方が安心だと考えているということ。もう一つは一般庶民が、何がよくて何が悪いかと理解しているということである。

例えば小学生は何をしていいかを十分にわかっていない可能性がある。だから、何か反社会的なことをしたとしてもそれがいけないことだと思っていないかもしれない。そこで、それを未然に防いで再発を防止するというのが教育の目的の一つだということになる。

これが、普通の国で警察と教育を分離するそもそもの目的であると考えられる。

一方、治外法権というのは、ある法体系の中にそれに従わない人たちがいるという状態を意味する。例えば駐日米軍は「実質的に」治外法権状態におかれているが、これは彼らがもともと占領地であって<未開>な法体系を持つ現地警察を信頼していないからだと考えられる。戦前の中国には中国の法律が及ばない地域があったが、これも<先進国>が<未開な中国>の法律を信頼していなかったからである。

つまり教育を治外法権だと言ってしまうと、それは教育機関は一般の基準とは異なった価値体系を持っていて「勝手に判断している」と言っているのと同じことになってしまうのである。それは教育が警察を信頼していないということだ。それを平然と言えてしまうところに恐ろしさがある。民主主義に関する根本的な認識を欠いているのだが、発言権がありテレビなどで見識を欠いたままの意見を<垂れ流し>てしまうからである。それをまねてた人たちが議論をコピペする頃には何がなんだかわからなくなってしまう。

もちろん、実際には教育と警察の間にはさまざまな現実的な問題が発生している。いじめ問題を調査した結果「可愛い生徒を被害者と加害者に分けられない」などと言って教育機関としての責任を放棄してしまう教育委員会もある。さらに、教育者が実は社会的な善悪の価値基準を持っていないように見えることも多い。そこで、集団的な圧力が働き「悪いことがあったけれどもそれを隠してしまおう」と考えて隠蔽に走ることも珍しくはない。

さらに、大学のように「教育はできるだけ権力に制限されないで学術を追究できる自由が保障されるべきだ」と考えている人たちもいる。自民党の教育に関する議論を読むと「教授たちは社会主義思想に毒されて教育の自由をはき違えているから取り上げるべきだ」などという被害妄想的な議論がある。実際に、学長や理事長たちがカリキュラムをかえられるように変更が加えられ、日本の大学では今大変な問題が起きている。

つまり、教育と警察を巡る議論にはいくつかの(ここでざっとみただけで3つの)違ったレイヤーがあり、これを一緒くたにして議論するとまとまるものもまとまらなくなってしまうのではないだろうか。

この議論が専門家にどう受け取られるかはわからないのだが、高度教育の問題を別にすると、教育と警察を巡る議論についての態度はいくつかにわかれるように思える。

  • 教育の自主性は保たれるべきであり、教育者にはその資格があると考える立場。つまり、警察は教育に介入すべきではない。
  • 教育の自主性は保たれるべきだが、実際には教育者たちにはそれを守る資格や能力がないので、社会的な介入が必要という立場。が、警察が介入すべきかどうかはわからない。
  • そもそも教育の自主性などというものは絵空事であって、社会は積極的に子供たちを罰しなければならないという立場。

こうしたレイヤーを間違えると議論がめちゃくちゃになりかねないのだが、実際にはめちゃくちゃな議論が横行している。その背景には先生になる人が、教育の独立性が「なぜ重要なのか」ということを考える機会がないからなのではないかと思う。

そこに部外者たちが大量に参入することで、却って教育現場がゆがめられることになるのではないだろうか。

日本人が間違いやすい英語とその対策法

最近間違った英語の収集を始めた。間違った英語が生まれる背景には日本人特有の思考形態があると思うからだ。間違いを指摘するのは「こいつ英語も知らないのかよ」ということを揶揄したいわけではないので、ここではあえてお名前は出さない。短い文章ながら、日本人がやりそうな間違いを多く含んでおり、参考になると思ったからだ。Twitterを使えば海外の人とも簡単にやりとりができるので、間違いをあげつらうのではなく、学ぶ価値はあると思う。

文章は下記の通り。

Fans around the world please complain to the Japanese government and Tokyo Metropolitan Government. It is against the closure of Tsukiji.

最初の間違いはパンクチュエーションに関係しており、明確に間違いと言える。命令文には主語がないので「世界中のファンよ」というのを単文にするか呼びかけとして区切る必要がある。

さらに、いろいろ検索してみたが日本の政府は単なる政府を指すので小文字だが、東京都は固有名詞なのですべてキャピラタライズするのが一般的なのだろうが、小文字で政府と書くと一般名詞化する。英語はこういうところが難しい。

Fans around the world, please complain to the Japanese government and the Tokyo Metropolitan Government.

だが、一概に間違いと言えないが直したほうが良いというものもある。つまり「違和感がある」のだが、実は民主主義に対する感覚の違いに原因があるように思える。

日本人はお任せ民主主義なので「政府に文句を言いましょう」というのが文章としてなんとなく成立してしまう。文句をいうが責任は取らないよという意味であり、これは日本人の肌感覚としては間違っていないかもしれない。一方、英語圏には民主主義国が多い。当然英語話者も民主的で積極的な姿勢を身につける。文句を言うは受身的な感じがするので、もっと積極的なraise your voiceとかsend your voiceなどがふさわしいように思う。つまり「あなたの声を届けましょう」というほうが参加している感じが出るのだ。

が、ここまで来てもなんとなくしっくりこない。築地移転に文句を言ったとして、それがどう築地の保全に役立つのかがよくわからないのである。そこで最後の文章が浮いてしまうのだ。直訳すると「それは築地の閉鎖に反する」となり文法上の間違いはなさそうだが、意味が伝わらない。the closureの theをみて「その閉鎖」ってなんだという話もある。これも文法的には正しい。つまり、築地閉鎖をtheと言っているわけである。が、文章を読んでもthe closureが築地閉鎖のことかはわからない。なぜなら文章の中で築地が閉鎖されるとは言っていないからである。この辺りが英語はものすごく理屈っぽい気がする。

日本語を最大限に想像すると、みなさんが声をあげたら築地に反対することになりますというような文章が作れる。そこで、観光客の反対運動の盛り上がりは築地の閉鎖への反対を意味するというような文章は作れるのだが、これもなんだかしっくりこない。反対が盛り上がっても東京都が取り上げなければ意味がない。そこで次のような文章が考えられる。

  • みなさんの声が強まれば、東京都庁は移転を再検討するでしょう
  • 東京都庁は観光客の反対意見を真剣に受け止めるでしょうから声をあげてください。

が、これもなんとなくしっくりこない。なぜならば発信者と反対をしている人の関係がよくわからないからだ。それらを総合的に考えるとこんな文章になる。おそらく原文の日本語(つまり、伝えたかったこと)とは違ってくるのではないかと思う。もちろんこれが完全に正確かどうかはわからないのだが、とりあえず伝わるレベルにはなったと思う。Twitterは長く説明ができないので、文章を詰め込むのが意外と難しい。

みなさんが声をあげて私たちを助けてください。東京都はこれを真剣に捉えるでしょう。

  • Please raise your voice to help us. The Tokyo Met Gov will take it seriously if they know tourist are against the moving of the fish market.
  • Please support us by raising your voice. Louder voice will make the Tokyo Met Gov to reconsider the moving of Tsukiji.

当初、この文章に関して考え始めた時には、名詞や動詞は辞書を見ながら訳せるがからとかたらといった助詞の適切な変換が難しいのだという論を考えていたのだが、実際に分解して考えてみると文法以前の考え方の違いが問題になっているのではないかと思った。

この文章は(多分だが)外国人に対して築地移転に反対するように (正確には声をあげて反対運動を支持するように) 呼びかけているので、そこをダイレクトに表現したほうが良い。だから呼びかけた人はその声を集めて都庁に伝えるリーダーのような役割を持っていることになる。

しかし、日本人はインダイレクト(ほのめかすような)なコミュニケーションを好み、責任を取りたがらないので、元の文章には「私が声を届けますから助けてください」というニュアンスがないことがわかる。そこは「含んで」いるのかもしれないが、英語では伝わらない可能性が高いだろう。

このように文化的にかなり違いがあるので、最初から英語の文章を組み立てたほうが、より伝わる英語表現ができるのではないかと思う。つまり「文法的に正しい」ことと「伝わるかと」ということはちょっと違ったことなのではないかと思う。

非顧客を顧客にできないプロの人たち

ファッションについて勉強している。最近やっとトレンドというものがわかるようになってきた。といっても「俺、お洒落さんになったもんね」ということではない。トレンドって確かに存在するんだと思えるようになったのだ。

WEARというコミュニティがあり、そこに投稿すると「好き」か「そうでないか」というレスポンスが得られるのだ。どうやら全体的にゆるい方が好ましいようである。イメージは日曜日に近所のショッピングモールに行っても浮かない格好か、美容師スタイルだ。つまり、あまり男性的イメージとはいえない。

こうした「ゆる」が流行になるのは、その前に「スリム」が流行していたからだ。みんなスリムには飽きてきているのだ。つまり、ある種のトレンドが発生すると、気分が生まれ。それに飽きてきたころに新しいスタイルが好感度を上げることになるという構造があるらしい。つまり、一度まとまった集団ができると、それはある程度同じように動くので結果的に「トレンド」が生まれるのである。

そういう意識で見てみると、古着屋であっても「ゆる服」には少し高めの値段設定がしてある。オーバーサイズのTシャツやワイドパンツなどがそれにあたる。一方でブランドものが安く売られていたりする。トレンドが、実際に売れ筋に影響するということはなさそうなので(買いに来る人は流行に無縁そうな中年が多い)値付けに反映されるのだろう。

が、幾つかの問題もある。まず、いわゆるファッションジャーナリストの人たちは必ずしもこうしたトレンドとリンクしていない。どちらかといえば、ファッション業界があるべき姿にないといって嘆いている人が多い。昔に比べて服が売れなくなってきているのでそう思うのは当然なのだが、お客さんはついてこない。古着やネットが占める割合が大きくなっているのだが、ファッションジャーナリストたちの主戦場はデパートやファッションモールだからである。ユニクロさえ守備範囲外かもしれない。

こうした問題が起こるのは、彼らは発信にはなれているのだが受信ができないからだ。そもそもトレンドを可視化するツールはつい最近まではなかったし、実際に参加しないで「売れ筋トップ10」などとみても状況がよくわからないのだ。ファッションにPOSデータはあまり役に立たないのはスタイルが単体では成り立たないからである。

もう一つの問題は「素敵マーケティング」である。どうやらトップブランドの人たちは「自分たちの素敵なブランドを素人に紹介してもらいたくない」という気持ちがとても強いようである。実際には服が売れないわけだから「非顧客を顧客にする」ということが必要なはずなのだが、そうした人たちを意図的に無視してしまうのだ。素敵マーケターというのはインスタグラムで素敵な生活を見せているような人たちである。

こうした苛立ちが現れているドラマが「人は見た目が100%」である。このドラマの中では「女子もどき」と呼ばれる非顧客が、素敵な美容師に憧れて素敵女子を目指すという物語だ。劇中には女子力の高い総務課の女性陣が出てくる。彼女たちはとても努力していて、配慮もあり、ルックスも良く、知識もある。いわば、女子の鏡だ。

が、冷静に考えるとその女子像は「男性に頼っている」存在である。つまり、これが憧れの対象になり得るかという問題がある。

ゆえに、女子もどきの人たちがなぜファッションに憧れるのかという点が全く描けない。見た目でしか判断されない職場に強制的に転職させられて、素敵な女子に囲まれたから勉強を始めたということになっている。ここでは「女子力の高さ」が肯定されているのだが、なぜ肯定されるべきなのかということが全くわからないのだ。

合コンの相手はイケメン美容師だったりするわけだが、30歳前の美容師にそんな余裕があるとは思えない。彼らは、自分たちの商品価値が30歳くらいで終わることがわかっているので、独立資金をためて自分の店を出すことが目標になっていたりするのである。男性に養ってもらうというのが「女子力を目指す唯一の理由」だとしたら、それは現代ではそもそも成り立たない。

つまり、素敵マーケターたちがインスタで憧れライフを顕示しても誰もついてこないという状況が生まれてしまうことになる。が、素敵マーケターはそれに気がつかない。で服が売れないと嘆き続けるわけである。

この背景にはプロの人たちと実際のズレがある。現代においてファッションが重要なのは、アサーティブな自己表現のスキルが必要だからである。自己表現のためにはファッションに対する基礎知識が必要なのは間違いがないが、それ意外にも他の人たちがそれをどう受け取るかという知識が必要になる。ある種コミュニケーションのツールになっている。

実はファッションを楽しむためにはあまり構造的なことはわからなくても良い。単に実践しているうちになんとなく「ああ、こうかな」というのがわかってくるので、あとはそれを洗練させて行けばよいからだ。その意味では外国語の習得に似ている。

だが、例えばこういう構造を勉強することは「伝わらない」ことに悩んでいる人たちにとってはある種のヒントになるかもしれない。例えば現在、政治状況について「安倍政権はこんなにひどいことをしているのにみんなそれに気がついていない」などという人が多いわけだが、多分、非顧客を捕まえるための何かが欠けているのではないかと思う。例えば、政治に関心がない人たちのニーズだったり、彼らが情報をどう受け取っているかという知識である。

豊洲の設計の問題は実は他人事じゃないかもしれないなあと思った件

豊洲の件はまだもめているようだ。「東京のお魚の問題だし関係ないや」と思っているのだが、最近ちょっと考えが変わった。

近所に大手レストランの工場がある。最近のレストランは価格を抑えるために工場で調理してから出荷するらしい。レストランでは「レンジでチン」なのだろう。近くのホームセンターに行く道すがらなのだが、油の匂いがしてちょっと気持ちが悪くなる。この工場ではトラックは横付けではなく後ろから荷物を積載するようになっている。その方がたくさんのトラックが収容できて「効率的」なのだろう。

最近、隣の敷地で冷凍ブロッコリをさばいているのを見た。排水設備のない露天で氷漬けのブロッコリをさばいていたのだ。もしかしたら工場の敷地なのかもしれないし、関連業者が周囲に集まっているのかもしれない。排水がないので氷をフェンス越しに捨てていた。

ここからわかることは幾つかあると思う。まず、工場で食品は「できるだけ汚れない」状態で扱われているのだなと思う。冷凍したら美味しくなくなるんじゃないかと思うのだが、スーパーで買う野菜も流通過程で冷凍されていることが多いのかもしれない。

が、設計通りには物事は進まず、例外的な処理を「現場でなんとかしている」状態なのだと思う。土ボコリが立っているところで冷凍ブロッコリを扱うのはあまり衛生的に見えない。もともとは土に生えていたものなわけだから、まあ別に洗えばいいやと思うのだが、冷凍ブロッコリというのはもう洗っているものなのではないかとも思う。後工程でちゃんと洗っていますようにと願うばかりだが、ブラックボックスなのでよくわからない。

あの後ろからトラックを入れる工場を見てから、豊洲関連のツイートを見ると別の感情が湧く。例えば、トラックが横付けできないと雑梱ができないというようなつぶやきを見つけた。小規模の業者の場合、一つのトラックで様々な種類の魚を扱う必要があるのではないかと思った。つまり大量に同じ食品を扱っている業者は後ろ着けでもそれほど困らないのではないだろうか。

そこから考えられる可能性は、小規模の業者と大規模業者では「求めるスペックが違っている」という可能性だ。つまり、都には最初から小規模事業者のことなど眼中にないという可能性がある。

もちろんそれも問題なわけだが別の可能性も排除できない。それは、設計する人がそもそも現場を見ていないのではないかという疑念だ。つまり、設計通りにことが運べば「発砲スチロールの箱から魚がこぼれ落ちることなどない」わけで、エラー処理を考えていないということだ。エラー処理を考えられないのは、現場で誰かがミスをするということを想像できないからなのだが、現場を知らない人が設計したらそうなるに決まっている。設計者が考えるのは発注主のタイトな予算に合わせてできるだけ「効率的な」設計をすることだろう。いちいち「たら・れば」を考えていたら予算に合わせられない。

ブロッコリがどうして露天で捌かれていたのかはわからないのだが「早く処理しなければならないが場所がない」という状態にあって、仕方なく現場の判断で行ったのかもしれないなあと想像してしまう。多分、現場の人たちはマネージメントに苦情を言ったりはしないだろう。文句をいうとクビが飛ぶ(あるいは契約を着られる)可能性があり、それは危険だ。早いところこのブロッコリを片付けてしまおうと思うに違いない。後のことは工場の中の人たちが適当にやるだろうというわけだ。

築地の人たちは「伝統文化を支えている」などと思って仕事するかもしれない。が、現代の食品流通に携わる人たちってどうなんだろうかとも思う。パートや出入り業者の人たちが日本の食の安全を支えているなんていう気概ややりがいを感じているだろうか。でも、それを責めるわけにはゆかない。なぜならば「同じ食べるなら安い方がいいや」と思ってしまうからだ。

素人が何も知らないで、現場の工場に取材することもなく長々と書いてきたのだが、つまり僕の疑問というのは次のような点だ。豊洲の設計がなんとなくまずいということはよくわかったのだが、これは日本の食品流通では割とよく起こっていることなのかもしれないなあと思うのだ。

工場は多分難しいISOなんとかみたいな規格が遵守されているんだろうが、その前工程で何が起きているのかはわからない。「国産は安心」などと思ってしまうわけだが、実はどうなんだろう。

多分、個人的にはあのレストランには行かないと思う。食品が衛生的に扱われているのかよくわからない。だから今回は工場の名前は書かなかった。が、多分加工食品を全く食べないで生活するというのは極めて難しいのではないか。

豊洲の問題を他人事のように眺めて「みんなバカだなあ」などとのんきに構えているわけだが、実はあの暴対なつぶやきの中にかなり危険で私たちに身近な問題が隠れているのかもしれないなあと思った。が、知識がないので「できるだけ関わらないようにする」くらいのことしか言えない。知らないというのはつくづく悲しいことである。どのように扱われているかわからない食べ物を単に「安いから」という理由で食べている僕がバカなのかもしれない。

なぜカンニング竹山は炎上したのか

カンニング竹山さんのこの発言が炎上した。炎上の原因は、森友学園問題で「8億円の値引きは仕方がない」とコメントしたことにあるようだが、原因となった番組を見ていないのでここはなんとも言えない。いずれにしても「政治について語っても生活は何も変わらない」という実感があるのだろう。

このツイートを考えるといろいろなことがわかる。

第一の疑問は、なぜコメディアン風情が政治に口を出したのかということだ。そして、次の疑問は、なぜコメディアンが政治問題をうまく扱えないのかという問題である。

第一の疑問を解くのは実はいさささか難しい。そもそも日本の演劇人は政治とは無縁ではなかったからだ。日本の喜劇にはいくつかの潮流があるのだが、源流の一つは政治をわかりやすく伝えようとした川上音二郎に行き着く。大河ドラマ「春の波濤」のモデルにもなった。これが新劇となり現在にも受け継がれているのだが、大衆化して派生したのが浅草演劇だ。浅草演劇は、萩本欽一やビートたけしといったコメディアンを輩出した。

コメディアンと政治の関係が問題になるのは、実は現在の「お笑い」がこうした伝統から切り離されつつあるからだと考えられる。お笑いが大衆演劇ではなく、プロダクションが運営する「学校」で教えられるようになっているのが切断の理由ではないだろうか。

芸能プロダクションが運営する学校の目的はテレビが必要とする非正規雇用タレントの促成栽培だと考えられる。が、当時のお笑いは、とんねるずに代表されるような仲間内のふざけあいだった。そこでいじめられる「キャラ」が必要とされた。例えば、太っている人やあまり美人でない人を「いじる」と称していじめたり、熱いものを食べさせて苦しむ姿を眺めるのがテレビのお笑いだったのだ。

単にいじめられているだけでは面白くないので「いじる」側のキャラも必要だった。つまり、バブル期以降必要とされたのは、公開いじめを演じるキャラたちだったと考えられる。

ところが、フジテレビの凋落が示すように、こうした公開いじめは徐々に飽きられてゆく。それが単なる仲間内の馴れ合いであるということが徐々に露呈してきたからだろう。テレビで馴れ合いのいじりあいをしているのは「私たちとは関係がない」人たちとみなされるようになったのだ。

つまり、竹山さんのツイートはこの意味でとても示唆に富んでいる。テレビで仲間内の馴れ合いであるいじめを演じる人たちにとって「政治は関係がないや」と考えている。つまり庶民とは違った世界を生きているのである。が、そのように切断された人たちが演じるお笑いが視聴者の共感を得るはずはない。その意味では同じナンセンスなことをやっていても、自分たちとそれほど変わらないYouTuberの方が圧倒的に面白いし、圧倒的にリアルだ。

そこで芸人たちは新しい職場が必要になった。それが政治などを扱う情報系番組である。この背景にも実は同じような構造がある。ストレートな報道番組が見られなくなっているのだろう。報道番組はもともと政治記者たちが主導して作っていた番組だが、彼らが関心を持つのは派閥などの人間関係なので、有権者には全く関係がない。

かといって、虚構のキャラクターを演じる俳優を政治問題を扱う番組に起用するのは危険性が高いし、文化人ではリアクションが取れない。そこで、お笑いタレント程度であれば起用しても構わないと考えたのではないだろうか。が、ここでの問題は「政治問題でも当たり障りなく演じられるだろう」というテレビ局のある種傲慢な思い込みだ。実際には視聴者の気持ちが番組を作るはずなのだが、テレビ局は「自分たちが流れをコントロールできる」と思ってしまうのだろう。

もともとネット文化はラジオと親和性が高い。ラジオはサブカルチャーと見なされているので、少々偏った意見でもそれほど嫌われることはなかった。最初にタレントが政治を扱いだしたのは、多分テレビではなくAMラジオなのではないだろうか。が、これがテレビになると「誰も傷つけてはいけない」ということになってしまう。お笑いには常に誰かを傷つけるリスクがある(が、それを笑いという緊張緩和で統合する昨日もある)わけで、ここに芸人を立たせるのは実は気の毒なことなのである。

改めて考えてみると、普段私たちが政治について語ることは珍しくなくなっていることがわかる。つまり、なぜラジオでしか成立しなかったようなコンテンツがテレビでも受け入れられるようになったのかという疑問が生まれる。 原因は幾つか考えられる。民主党に政権交代するときにテレビ政治ショーを通じて「一般庶民でも政治に口出しできる」という印象を与えた。さらに、安倍政権のデタラメさにうんざりした人たちがTwitterで語り出したという要因もあるのだろう。Twitterには「言語化できないが、何かおかしい」という人が満ち溢れており、常に新しいコンテンツを求めている。

しかしここで問題が起こる。テレビでいじめが横行するのは、視聴者が「自分たちが巻き込まれることはない」と考えて安心してみていられるからだ。これは学校で誰かがいじめられているのを見て他の人たちが「自分はターゲットではない」とホッとするのに似ている。つまり、いじめを見ているうちは、みんなが満足することができたのである。だが、政治的課題にはつねに「対立」と「分裂」がつきもので、スキルなしにはみんなを満足させることはできない。また、当たり障りのないことを言えば、却って両陣営から「相手に組みしている」などと言われることになる。

もし、浅草演劇の流れを汲んだお笑いが生きておれば、権力から直接距離をとりつつ、目の前にいる人たちのリアクションを見ながら、違和感を言語化するというようなお笑いが成立したのかもしれない。笑いには「感情を解放して全体を統合する」という見逃せない機能があるからだ。しかし、テレビ芸人の人たちにはこうしたスキルがなく政治番組への出演も「バイト感覚」なので、対立に直面すると単に引きこもるしかなくなるのだろう。

当たり前のことがとても画期的に見えてしまう千葉市長選挙

千葉市長選挙が盛り上がっていない。現職に対抗する候補がいないのだ。一応、選挙期間中なので公平性のために書いておくと、共産党が擁立した候補と現職の一騎打ちということになっている。この様子を見て、もし自民党がまともだったら革新系の政党はなくなってしまうんだなあと思った。中央で共産党などの革新系がある程度の勢いを持っているのは、実は自民党のおかげなのだ。

千葉市の共産党側は、争点を「学校にクーラーを入れる」ことと「カジノをやめさせる」の2つに絞ったようだ。が、正直「なんでそれなの?」という思いはある。

一方で現職側は市民と一定のつながりをもっていて、いくつかのプロジェクトを走らせたい模様だ。主なプロジェクトには、市中心部の再開発、市役所の建て替え、海岸沿いのまちづくりなどがある。政治家としてまちづくりみたいな大きなことをやってみたくなったのかなあという懸念はある。二期目までの主な仕事は財政の立て直しだったからである。

千葉市長は選挙のたびに約束を立ち上げ、任期中に検証し、一応選挙期間中にチェックして、新しい約束を作るというようなサイクルになっている。この約束をマニフェストと呼んでいる。中央民主党が失敗した手法なのだが、政令市レベルだと一人で組み立てることができるので、これがうまく機能するのだろう。

このことから、共産党というのは今や自民党のおかげで成立している政党なのだということがよくわかる。つまりそれほど現在の政権政党の政府運営はひどい状態になっていると言える。だが政府叩きには2つの欠点がある。

一つ目の欠点は、あまり勉強しなくても政府を叩くのは簡単だということだ。財政の仕組みを勉強しなくても「福祉予算がないのは政府が無駄遣いをしているからだ」といえば、なんとなく立派なことを言ったような気になってしまう。共産党の候補の方は「市長と話をして大規模プロジェクトはよくないという思いを新たにした」と言っているのだが、思い込みが確信に変わってしまうのだろう。

だが、支持者にとってもっと深刻なのは「叩くこと」がもたらす一体感と陶酔感ではないだろうか。共産党をはじめとした野党4党は自民党の悪政を追求するのに夢中になっている。この運動には麻薬のような効果があるように思える。

共産党はモデルにする社会像を持たない。これは東側陣営が崩壊してしまったからだ。ドイツのような社会民主主義も根付かなかったので、核心陣営には政策立案能力がないのだ。それが露呈しないのは、実は自民党を否定さえしていればまともに見えてしまうからである。もし自民党が憲法を遵守しつつ都合の悪いところを変えてゆこうなどと考えれば、共産党はたちどころに崩壊してしまうかもしれない。

実際に自民党政権が安定したのは、憲法や国防といった問題を棚上げにして経済に集中したからだと考えられる。憲法や国防という大きな問題は陶酔感を伴った反対運動にとって「飴」になっているので、これを扱わないことで、若者たちは却って政治に興味を持たなくなっていったのだ。いったん陶酔したからこそ冷めるのも早かったということになる。

その他の革新系の団体も実はあまり選挙には乗り気でなくなっているようだ。原発をなくせなどいう運動は誰も興味を持たないので運動の中心にいられるのだが、市長が積極的にマニフェスト作りを呼びかけると「その他大勢」になってしまうのだ。

千葉市がこういう状態でまとまったのは、財政がかなりひどい状態に陥った上に自民党型の金権政治が「逮捕」という最悪の形で終焉したからである。その後バブルの処理を経て今の状態になった。

現在、国政ではかなりひどいことがまかり通っているのだが、このまま安倍政権が何年か続いた方がよいのかもしれないと思うことがある。やはり「あれはひどかったね」というのが浸透しないと状況は変わって行かないのではないだろうか。

現職の支持者の中には「マニフェストまで作って素晴らしい」などというつぶやきをする人がいるわけだが、実は当たり前のことをやっているだけのようにも思える。これが素晴らしく見えるのはある意味では自民党のおかげであると言える。つまり、自民党が内部から改革してしまうと、多分民進党を含めた革新系は総崩れし「安倍政権はいらない」と言っていた人たちも政治から「手を引く」ことが考えられる。

つまり、中央には自民党があるから革新政党がなくならず、革新政党が政策立案能力を持たないので、自民党が支持を集めるという奇妙な相互依存関係があるのだ。

国政に比べるとまともに見える千葉市政だが、当然問題もある。共産党がプロジェクト管理をまともに学んでいるとは思えないので、例えば市役所の建て替えが見積もり通りに行われているのかをチェックする人たちが誰もいないのだ。

なお自民党側は今回現職を応援しないが独自候補も立てないという方針で臨むようである。基本的に中央の勢いを地方に取り込むという形式の政党なので、中央がガタガタになると地方支部が衰退してしまうのかもしれない。もともと逮捕されてしまった前職を担いでいたという「前科」もあり、独自候補が立てられなかった可能性もある。