犬について考えるついでに憲法についても考えてみた

また、犬が倒れた。老犬になるとびたびこういうことが起こるそうだ。これについていろいろ考えたついでに(考えるだけでなくやることがいっぱいあるのだが)憲法についてもちょっと考えた。関係なさそうなのだが、犬の介護くらいのことでも「社会」について考えることがあるのだ。

犬が倒れると食事をしなくなったり、歩けなくなったり薬を飲まなくなったりする。しかし、一人であれこれ考えるだけでは何も解決しない。そこでウェブサイトを検索すると歩けなくなった犬の介護用ハーネスの作り方が書いてあり、公共図書館で本を借りることもできる。つまり、悩んでいる人は大勢いて知識の分かち合いも行われているのだ。つまり、誰も助けてくれないようでいて社会と関わることがある。ただしその関わり方は様々だ。もちろん、同じことは人間にも言えるのではないかと思う。

私たちはいろいろな義務を背負っていて、同時にそれを誰かと分かち合うことができる。堅い言葉で言うと「相互扶助」という。相互扶助という考え方では「義務と権利」というものは実は同じことで、それを個人だけでやるか、社会と分かち合うかということを決めているだけということだ。

例えば教育の無償化は「教育を受ける人」には権利になるが、支える人には義務になる。が、義務を負った人も同時に権利を持つ。

「教育の無償化」というと、そうした義務を負うことなしに権利だけが得られるという間違った印象を持つ。こうして議論が歪められてゆく。これは「権力」が介在することによって相互扶助という原則が見えにくくなるからであると考えられる。ゆえに教育無償化の議論は極めて有害なのだ。

こうした歪んだ意識は様々なところで見ることができる。例えばふるさと納税などもその一例だ。本来なら「学校教育に使われる」か「俺の肉を買うか」ということになるのだが、直接還元される肉に人が殺到する。税というものが正しく理解されていないし、健全に運用されていないからこういうことが起こるのだろう。が「私たちのために使われる」という政府に対する信頼がないことが背景にあり、一概に納税者を責められない。

ただ、これは民主的な社会の話だ。支配者が「国民に与える」恩典憲法では、極端な話義務について書く必要はない。与える権利だけを記載すれば良いからである。その意味では帝国憲法は恩典的だが、その改正によって生まれた戦後憲法もGHQからの「恩典的」憲法なのかもしれない。日本憲法は権利の数が多いというが、これは実はGHQが国民に与えたという性格があるからだ。その上「民主主義はいいものですよ」というプロパガンダ的な性格を持っている。リベラルの人たちの護憲運動に説得力がないのは、それが彼らによって勝ち取られたものではないからだ。護憲・平和などと言っているが、それは上から落ちてきたものを拾っているに過ぎない。

「社会の関わりを定義する」という筋から考えると、憲法改正にはふた通りの議論があるということになる。

  1. 余力ができたりインフラが整ってきたので、社会が個人に対して新しい関わりを持つという方向性。これは社会保障インフラなどについて言える。責任を負うが享受できることも増える。
  2. 個人のリテラシーが整ってきたので、今まで社会が関わってきたことから手を引く。これは規制緩和などについて言えるだろう。責任からは解放されるが、享受できるサービスも減る。

つまり憲法議論は、個人が社会とどの程度関わりたいかという個人の考えが社会的なコンセンサスを得て成り立つのだということになる。これが「国民が主権者である」という言葉の意味ではないだろうか。つまり、リベラルは合意形成機能を持っているべきだ。日本にはこうした機能がなく、社会が引きこもりを起こすのである。

市民側からの圧力がないので、民主主義憲法を権力者である首相とカルト系宗教の支持者たちだけが社会と国民のあり方のバランスを変えたがっているというとても偏った状況が生まれている。ここから「飴」を与えて権力を奪取しようというおかしな現象が起こるのだが、結局義務を負うのは国民である。国民はこれをわかっているので「政治に何を言っても無駄」という冷めた空気が生まれるのだ。

だからといって「憲法は権力を縛るものなので指一本触れてはならぬ」というのもあまりに歪んだ議論である。憲法は国民がどう社会に関わるかということについて記述されるべきで、権力に対する重石として置いてあるわけではない。が、リベラルから改憲の動きが出てこないのは、彼らが社会についてあまり何も考えていないからなのかもしれない。

さらに、社会はくだらないものだから引きこもるということであればそれも考えの一つなので、国や社会の関与を減らすべきだという主張もできる。減税とサービスの低下が選択肢ということになる。

つまり社会が助け合いをしようという人たち(つまりリベラル・革新派)ほど権力が強くなるはずで、本来は改憲派になる可能性が高いということになる。ところが日本人の意識には恩典憲法的な価値観が残っており、この通りにはことが運ばないのだろう。リベラルは自分たちの運動で得た権利ではないので「根がない」状態にあると言える。

リベラルの人たちは(例え国防に対する考え方などが保守的であっても)まず合意形成機能を獲得する必要がありそうだ。民進党の人たちの「バラバラ感」を見ると、安倍首相の批判に熱中している時間はないのではないだろうか。

憲法改正やってみればいいんじゃないか

昨日、複雑に絡まるマダガスカルジャスミンの植え替えをしながら、Twitterでときどきやりとりさせていただいている人とちょっとしたやり取りをした。安倍政権が好き放題しているのは政権交代が起こらないからなのだが、それはどうしてなのだろうというのものだ。テキトーに考えた結果は「日本人は政権交代に懲りている」というものだった。

長い間、日本人はアメリカ流の二大政党制と政権交代に大いなる憧れを持っていた。当時の課題は金権政治からの脱却だった。そこで選挙にお金がかからなければ政治は清浄になるだろうという根拠のない期待が生まれ、政党助成金と小選挙区制が導入された。しかし、それでも不満は収まらなかった。

バブルが崩壊して「このままにすると日本は大変なことになる」というような空気が生まれた。今度は「官僚がお金を隠しているだけなので、政権交代すれば大丈夫ですよ」という政党があらわれた。自民党は緩んでしまっており大臣の失言などが止まらなかったので「もういいよ、面倒だから政権交代だ」ということになったのだが、結局その人たちはたんなる嘘つきだった。

つまり日本人は「見たことがなかった政権交代」に過剰な憧れを抱き、一回失敗したら怖くなってしまったことになる。前回ご紹介したNHKの調査では政治参加意欲そのものが低下しており、NHKはその理由をこのように分析している。2004年と2014年を比べているのだが「政権交代しても結局無駄だった」という感覚があるのだろう。

本稿ではこの背景について、①政治に働きかけても何も変わらないという意識、②前回に比べて比較的安定した経済的状況、③若い世代を中心とした身近な世界で「満足」するという価値観の変化、の3つが重なったことが要因ではないかと考察した。

さて、政権交代が問題を解決しないとなった今、政治家の関心は憲法である。つまり、憲法さえ変えれば「賢い俺たち」が政治を劇的に変貌させるという根拠のない自信があるのだろう。が、これは政治家だけの感覚ではなく若い人たちの中には改憲派が多いという記事もある。この毎日新聞の記事は「社会が変わってほしいという期待感もある」と言っている。

制度さえ変えれば何かが劇的に変わるだろうと考えるのは日本人がプロセスを無視して結果だけを求める傾向が強いからだ。が、その制度が失敗してしまうと今度は極端にそれが嫌になってしまうのである。

いわゆる一連の政治改革は結局は自民党の派閥の内紛だったのだが、憲法改正論議は自民党のパートナー政党の乗っ取りが目的になっている。結局は内紛なので議論が成熟するはずはない。だったら一度「本格的な議論」をして国民投票してみればいいんじゃないだろうか。特に教育無償化は財源を巡って炎上する可能性が高く、多分国民は憲法改正論議自体を嫌がるようになるだろう。

 

 

がまんと炎上

今日は政治を離れて、我慢することが良いことなのかについて考えたい。

マクドナルドでポイントカードを使おうとした。そこで「ポイントで」と言ったのだが、スルーされた。ポイントが不足する(100円のものを買う時にポイントが20円とか)だと操作が面倒なようだ。「できない」と思い込んでいる可能性もあるのだが、前にも同じことがあったので単に面倒なだけなのだろう。「足りないのだがどうするか」と聞いてくれればいいのだが、最近の人たちはそういうのは面倒なようで、黙って判断して簡単な方を選んでしまう。どうも、マニュアルで過剰な挨拶などを強要されているので、それ以上の話は何もしたくないのではないだろうか。

「最近の若いやつは」などと思ったのだが、こういうことはアメリカでもよくあったなあと思った。アメリカも賃金格差が大きいので時間給の人たちは面倒なことをやりたがらない。つまり、日本もアメリカ化しているのだ。

アメリカと日本には大きな違いがある、アメリカ人は納得できないことがあると口に出す。列は中断されるが、個人の異議申し立ては尊重される。クレームが顕在化して数が多くなれば、経営側はそれなりの措置を講じるだろう。が、日本人は我慢してしまうのでクレームが「不満」としてくすぶり続ける。

 

レジの複雑化という問題もある。各企業は囲い込みをしたいので「自分たちの店でしか使えない」ポイントシステムを導入したり、クーポンを発行したりしている。これがなし崩し的に拡大したために、レジの操作が複雑化しているのだろう。店員が対応できないと最終的に客が混乱することになる。が、不満は放置され、新しいい複雑さが上から降ってくるというわけだ。

実はこうしたことはサービス業では広く蔓延しているようだ。ヤマト運輸はお客さんの変更連絡をすべてドライバーに押し付けている。最初は「例外処理をさばいてもらって便利だ」ということだったのかもしれないが「いつでも変更できるからいいや」ということになり、不在が増え、さらにドライバーは休めなくなってしまった。

最初からバックエンドで処理したり、ITシステムで対応したりすれば良いわけだが、企業はそういう投資を嫌がる。ITが発展しないのは従業員が従順である程度こなしてしまうからなのだが、勤勉であれば過労死するし、勤勉でなければ「勝手にオペレーションを発明」して客を怒らせることになる。最終的には気が弱くてクレームが言えなさそうな人たちが不具合を引き取るはずだ。

同じようなことは先生の間にも起きている。多くの人が過剰労働状態にあるそうだが、これも「ちょっと頑張ってお付き合いしてしまった」から起きている。「できる」となれば「もうちょっとやってくれ」となるのが自然の流れだ。決して「もう十分だ」などとは言ってもらえない。保護者も忙しいので「無料で子供の面倒を見てくれる」課外授業の需要が高いのだろう。(Blogos/内田良

お客も最後まで従順ならこれ以上言うことはない。しかし不満がたまっているのでちょっとした不具合が大騒ぎに発展する。多くの場合「常日頃たまっている不満」を別の不具合にぶつけるので収集がつかなくなる。「いっけんいい人」が匿名になると化け物になってしまうのだ。

多分、その場で解決していればこれほど炎上が蔓延する社会にはなっていないだろう。

従業員も顧客も我慢することはない。1) IT投資 2) 教育とサポートの充実 あたりをやればすんでしまう程度の話だ。だが我慢しているとそういったことが行われないのである。

従業員の場合はさらに悲惨で裏でものを蹴飛ばしたりしている。(ねとらぼ)見つからななければ何をしても良いという社会なのだ。が、それが見つかって炎上し、最終的には突然「今までも無理だったので20%値上げします」などと言い出す。

たいていの人は公衆の面前ではいい人だと思われたいだろうし、クレーマーと呼ばれるのも嫌だろうから、おかしいなと思うことがあっても黙っていればいいと思う。が、炎上というのはその我慢の裏の側面なのだということは知っておくべきだろう。

 

右翼にとって日本人って何なのか

山崎雅弘といういつもお昼頃に連続ツイートをする人がいるのだが、太宰府天満宮のウェブサイトについて吠えていた。神社が自国優越主義をけしかけるのは許しがたいという。確かに神社は新興宗教の流れを組む日本会議に乗っ取られているので、まあけしからんといえばけしからんのだが、ウェブサイトをみて唖然とした。

日本人の定義として次のようなものが挙がっている。

  • 朝顔を洗う。
  • 食事のマナーはきちんとする。
  • 挨拶をする。
  • お盆に帰省をして先祖崇拝をする。

どれも人間として当たり前のことが書いてある。これを中国人について置き換えても同じになるし、韓国人の先祖崇拝はさらに念が入っていて多分日本人は負けている。だから山崎さんのいうように「自国優越主義」とはとても思えない。

しかし、太宰府天満宮が「日本人」を定義しきれないのはなぜだろうかという疑問は湧く。日本人は長い間、大陸から切り離されてきたために他者と比較をする必要がなかったのだろうという結論に達する。つまり、他者と接することがなかったので自分を規定する必要もなかったのだ。

自己としての規定ができないということはまとまれないということなのだが、日本人には外国の脅威がなかったので明治維新まではそもそも民族を意識せず、明治維新以降は「西洋でもっとも成功した東洋人」という立ち位置だったので、それほど自己規定に苦労しなかった。が、中国人や韓国人が出てくることによって、その自己規定ができなくなってしまった。つまり「韓国人や中国人じゃない東洋人」になってしまったのだ。とはいえ、中国人や韓国人のことも実はよく知らないので「日本人とは何か」という問いには答えられない。

当たり前のことだが、民族というのは他者をおいてしか規定できないものなのだ。

豊洲移転問題と我慢の民主主義の崩壊

まだ、築地残留か豊洲移転でもめているらしい。この問題は不思議と部外者が大勢参加している。そのため、議論がなにを解決すべきなのかがわからず、いつまでもくすぶり続けている。ではなぜそのようなことになったのか。考えているうちに日本流の「我慢の民主主義」が崩壊しているのかもしれないなと思った。

問題を整理したいならまず何を解決するかを明快にしなければならない。それは誰のどんな課題を解決するのかということだ。この議論は、実は豊洲か築地かということだけが議論されており「誰の問題を解決するか」が棚上げになっている。

豊洲問題を離れて寿司屋について考えてみよう。寿司屋にはいろいろな種類がある。銀座久兵衛のような高級寿司店も寿司屋だが、すしざんまいのような回転寿司店のほうが数は多い。ここで数の原理で「寿司屋はすしざんまいしか認められない」と言い出したらどう思うだろうか。多分「銀材の高級な寿司屋は日本の伝統的な文化だし」と考えるのではあるまいか。実は築地か豊洲の議論はこれに似ているのだ。

高級寿司屋は細かな流通仕入れルートに支えられており、目利きが重要だ。一方で、すしざんまいのような回転寿司店は全国に効率的に同じ魚を届ける必要があり「効率的な」流通が必要になる。つまり、すしと言っても全く違う業態だと言える。だから、提供すべきソリューションも違ってきて当たり前なのである。

効率化を追求するためには規模の経済を働かせる必要がある。すると高級寿司店を支える零細業者は同じルールでは立ち行かなくなる可能性が高い。一方で細い伝統的な人たちに合わせると規模の経済が追求できないので大規模業者は営利が追求できない。が、普段は「共存してやって行きましょう」ということになっている。

実際の日本の魚食文化は大規模化・集約化が進んでいる。これは消費者が面倒な魚から離れてパックで買える切り身や外食を好むようになっているからだと言われているそうだ。つまり、ほったらかしにすると大規模流通だけが生き残る可能性が高い。どんな魚が大量流通に向いているかを見たければ西友とかコストコに行けば良いと思う。コストコでは外国産のサーモン(鮭ではなくトラウトの一種が多いようだが)が売られていたりする。が、西友しかしらない人は「こんなものだろう」と思うかもしれないが、大衆魚はもっと調理に手間がかかっていた。鯖を買ってきて背骨と身を分離したり(三枚におろすとかいう)、小さなアジをあげて酢につけて食べたりしていた。

大衆魚を食べる文化は高齢者世帯にしか残っていないと思うが、観光資源としての役割もある。接待で寿司を食べる人が減った代わりに観光客を惹きつけているのだ。国や都は一方で「クールジャパン」などといって外国人を引きつけようとしている。

現実には「流通に乗る安くて手軽な魚」志向があり、小規模事業者は経営的に危機にあるのは確からしい。豊洲推進派の人にこんなTweetがある。

確かにそこまでは事実なのだが、これをどう読み解くかはどんな意識を持つかによって全く違ってきてしまう。彼がほのめかすように言っているのは「苦しいから都から金をせびり取ろうとしているのだ」ということなのだと思う。確かに議論としては成り立つので堂々と「小さいところは滅びればいいし、高級寿司屋だけ残ればいいんだ」と主張すればいい。

が、伝統を大切にして観光資源を守るのだということになれば「経営危機にある魚屋が多いのだから税金で保護すべきだ」となる。つまり「どんなオブジェクティブを設定するか」で同じ事実から得られる結論は全く違ってきてしまう。

問題を提示して決めてもらうのは政治の役割である。その意味ではオブジェクティブがないのに議論が進むはずはなく、政治は役割を放棄していると言える。小池都知事のオブジェクティブは都議会の制覇であり「みなさんがお好きな方に決めますよ」と考えているからまとまらないのだ。

そもそもこの豊洲推進派のマインドは問題だ。多分彼らが「民主的には多数派」であり、力が弱い人たちをねじ伏せてきたのだろう。それどころか「経済的に苦しく、経営者が無能だ」という別紙感情さえほのめかされている。我慢を強いられる人を否定して追い込めば、一部が過激化するのは当たり前だ。だから早く豊洲に移転したいなら、零細業者をどう保護すべきかを考えるべきだった。

そもそもなぜ当初から議論に参加していた築地移転派の人たちは今になって騒ぎ出したのか。彼らは仕様策定の段階から議論に参加していたのではないか。議論の最中に豊洲移転への「空気」があり、我慢を強いられていたのではないかと考えられる。もし、この段階で議論に透明性があり、問題点が出尽くしていれば「後でグダグダ」いう人は出なかったはずだ。日本人は空気に負けて我慢することがある。ずっと我慢していればいいのだが、状況が変わると「やはり私はこう思っていた」と言い出すことになる。

これに「よくわからないが大勢に従っておこう」という人が加わる。彼らは「実は盛り土をされていませんでした」ということを知ってから騒ぎ始めた。

推進派の人たちは建物さえ立ててしまえば(つまり既成事実さえ作れば)みんな黙って従うだろうと考えて、嘘をついたり相手を恫喝して黙らせてきたのだろう。が、そうはならないのだ。それどころか後になって「みんなが騒いでいるのだから議論い参加できて当然」という空気になると、もはや収集がつかなくなってしまうのである。「あの時実は納得していなかった」とか「俺は騙された」という人が増える。

その意味では現在の政府の動きは危険だ。都合の悪い状況を隠してとりあえず既成事実を作るような動きが増えている。すると「議論にはコミットしないが後で文句をいう」人が増えることになる。議論がティッピングポントを超えると収集がつかなくなるので、日本人はますます何も決められなくなってゆくだろうことが予想される。それを利用しようという政治家が現れて議論を煽るようなことになれば、政治はますます機能不全に陥ることになるだろう。

ということで豊洲移転問題は今後日本の民主主義が機能不全に陥った最初の事例になるのかもしれない。